ジュネーヴ教会信仰問答21           主の20211110                                                                 

聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙第3114(新約聖書P345346)

第一部     信仰について

 第九聖日                          

60 「十字架につけられた」ことは何か外の死に方をされた以上の意味を持つのですか。   

答 大いに持っています。パウロが木に懸けられたもうたことを記すくだりで、キリストは私たちの呪いを御自身の身に受け、それによって私たちは呪いから解かれたということに注意を促している通りであります。すなわち、このような死に方は呪いによって断罪されたものだからであります。  申命記二一・二三 ガラテヤ三・一

61 どうしてですか。彼が呪いに服され、しかも神の前で呪われたというならば、神の御子に侮辱を加えることにならないでしょうか。

答 いいえ。そうではありません。というのは、彼は呪いを受けることによってこれを廃絶なさったからです。しかも、祝福されていたもうことはやまなかったのであり、こうして御自身の祝福を私たちに注ぎたもうたのです。

62 もっと続けなさい。

 答 死は罪の故に人間に課せられた刑罰でありましたから、神の御子がそれに耐え、耐えて勝利したもうたのです。さらに、彼が真実の死を死なれたことを一層はっきりさせるため、他の人々と同じように墓の中に置かれることを欲したもうたのです。

63 しかし、私たちはそれでも死ぬのですから、この勝利から私たちに何か益が得られるとは思われません。

 答 何も差し支えはないのです。というのは、今や信仰者たちにとっては、死はもっと良い生に移る通路にほかならないからです。

 問64 ここから次のことが結論されます。私たちはもはや死を恐ろしいものであるかのように恐怖すべきではなく、むしろ、不敵の勇気をもって私たちの導き手なるキリストに随()いて行かねばなりません。彼御自身、死によって滅ぼされたまわなかったように、私たちが滅びることも忍びたまわないのです。

 答 私たちはそのように彼に随いて行かねばなりません。

 今日はジュネーヴ教会信仰問答の第九聖日(第九課)、問6064と答を学ぼう。第八聖日(第八課)では、使徒信条の「処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と、使徒信条がキリストの生涯を省いて、ピラトの裁判における有罪判決に移っている理由と主イエスの有罪判決の意味と私たちに対する益を学んだ。使徒信条がキリストの贖いの本質から告白され、主イエスのピラトの裁判における有罪宣告によって、私たちは神の審判において無罪宣告を得る恵みを得たことを学んだのである。

 

さて、第九聖日(第九課)の問6064と答を学ぼう。ジュネーヴ教会信仰問答は、使徒信条の「十字架につけられ、死にて」を解説している。キリストが十字架で死なれたことが、私たちにどんな益をもたらすのかを教えているのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答の問60と答は、キリストが十字架刑という方法で死なれたことの益である。死に方はいろいろある。しかし、どうして神の子主イエス・キリストは、他でもない十字架刑で死なれたのか、この方法は「何か外の死に方をされた以上の意味を持つのですか」と、問答は問うている。

 

問答は、新約聖書のガラテヤ書314節の使徒パウロの御言葉に言及する。使徒パウロは、旧約聖書の申命記2127節の「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」を引用し、「キリストは、わたしたちのため呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。(ガラテア3:14)と述べている。キリストの十字架は、神に呪われた私たちの身代わりでした。私たちが自らの罪によって神の呪いの刑罰を受けることから、私たちを贖い出す方法は、キリストの十字架以外にないのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問61と答でキリストの十字架刑による死が罪ゆえに神が課された刑罰であることを教えている。それは、神の御子主イエス・キリストが耐えられた勝利であり、主イエス・キリストは真実人として死なれたので、私たちが死ぬとき、墓に葬られるように、葬られたと教えている。主イエスは、神の子であるので、神の呪いの刑罰に、十字架の死に耐えられ、また、人として私たちの罪を身代わりに負われたのである。

 

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問6263と答で私たちの素朴な疑問に答え、慰めている。キリストが罪と死に勝利されたのに、どうして私たちはなお死ぬのであるかと。キリスト者のこの世の死は永遠の滅びに至る市ではない。キリスト者の死は永遠の命の門口、通路となった答え、死を恐れぬ勇気をもって、私たちの導き手である主イエス・キリストについて行くようにと励ましている。十字架のキリストが復活し、天に昇られたように、私たちも死から復活し、御国に移されるのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答22           主の20211117                                                                 

聖書箇所:詩編第2223(旧約聖書P852)

第一部     信仰について

 第十聖日                          

65 すぐあとに「陰府に下りたもうた」と付け加えられるのはどういう意味ですか。   

答 彼は魂と肉体の分離である一般的な死を忍びたもうただけでなく、ペトロが言うように「死の苦悩を負われ」ました。この言葉は彼の魂に結びつけられた恐るべき苦悶のことだと私は理解します。                   使徒言行録二・二四

 

66 その苦悩の原因、その有様がどうであったかを聞かせて下さい。

答 罪人たちに代わって償いをするために、彼は神の法廷に立たれたのですから、あたかも神から見捨てられたかのように、いや、神を敵にまわしたかのように、良心に不安の苦しみを負わねばなりませんでした。彼が御父に向かって「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか。」と叫ばれたのは、この窮地に立ってでありました。 マタイ二七・四六、マルコ十五・三四

 

67 それでは、御父は彼に対して怒りたもうたのですか。

 答 決してそうではありません。しかし、御父は彼に対してこのような過酷さをもって苦しめたまいました。こうして「彼はわれわれの罪のゆえに神の御手によって撃たれ、われわれの不義の故に傷つけられた」とイザヤによって預言されていたことは成就したのです。

                    イザヤ五三・四、Ⅰペトロ二・二四

 

68 しかし、彼は神であられるのに、どうして神から見捨てられたかのように、これほどの戦慄に襲われることがあり得たでしょうか。

 答 これはこういうふうに理解しなければなりません。彼は人間性に属する感情によって、このようなのっぴきならぬ境地で苦しみたもうたのです。このことが実行されるために、その間しばらく、彼の神性は隠れました。すなわち、その力を発揮しませんでした。

 

 問69 しかし、他方、世の救いであるキリストがこのような断罪に服されるということがどうしてあり得ましょうか。

 答 彼はこの断罪の下に留まるためにそれに服されたのではありません。すなわち、私が言ったような戦慄に襲われても、それに押しひしがれてしまわず、かえって陰府の力と格闘し、これを屈服させ、無にしたまいました。

 

 問70 これから私たちは次のように結論します。彼の受けたもうた良心の苦痛と、神が怒りの御手をもって責めたもう罪人らの苦しみとは非常に違います。すなわち、彼においては一時的であるものが彼らにおいては永久的であり、彼にとっては一突きする刺にすぎなかったのに、彼らにとっては、いうなれば死に至らせる致命的な剣でありました。

 答 その通りです。つまり、神の御子はこのような苦痛に圧迫されながらも、御父を待ち望むことをやめたまいませんでした。しかし、罪人らは神の審きによって有罪宣告を受けると、絶望に身を投げ、神に向かって呟き、ついには露わな冒瀆へと突進するのであります。

 

 今日はジュネーヴ教会信仰問答の第十聖日(第十課)、問6570と答を学ぼう。第九聖日(第九課)では、使徒信条の「十字架につけられ、死にて」を学んだ。キリストが十字架で死なれたことが、私たちにとってどんな益があるかを学んだ。キリストの十字架刑は神の呪いの刑罰であった。この方法以外に神の怒りの子である私たち罪人を罪と死から贖うことはできなかったのである。

 

さて、第十聖日(第十課)でジュネーヴ教会信仰問答は、使徒信条の「陰府に下り」を解説している。使徒信条にこの信仰箇条が付け加えられたのは、359年のシルミウム教会会議です。シリアの神学者アレトゥサのマルクスが提案し、採用されました。神の御子キリストが本当に死んだことを強調するためでした。

 

ところが使徒信条に「陰府に下り」が付加されると、カトリック教会は文字通り「陰府」という場所に主イエスが下られたと理解しました。そして「陰府」には、キリストの福音を聞かないまま死んだ者たちおり、主イエスは彼らに宣教するために陰府に下られたと理解しました。ローマカトリック教会は死者の魂は煉獄に行き、苦しむと考えた。そこは天国と地獄との中間の場所である。主イエスが陰府に下り、死んだ者たちに救いの可能性が生まれた。

 

カトリック教会の誤りを知るジュネーヴ教会信仰問答は、使徒信条の「陰府に下り」を場所的に理解しない。主イエスは文字通り死んで陰府という場所に下ったのではない。

 

ローマカトリック教会は、ペトロの手紙一319節、「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」を根拠に、キリストが陰府に下り、死者たちに対して福音宣教したと理解するのである。

 

ところが宗教改革者カルヴァンは、「陰府に下り」を場所ではなく、主イエスの十字架の苦しみと理解するのである。彼は、使徒言行録224節、「神はこのイエスの死の苦しみから解放して、復活させられました」を根拠に、キリストが十字架上で、神の呪いを受けて、恐ろしい死の苦悩を負われた、その恐ろしい主イエスの魂の苦悶を「陰府に下り」と理解した。

 

ジュネーヴ教会信仰問答の問65と答は、カルヴァンの理解に従う。「陰府に下り」を、「この言葉は彼の魂に結びつけられた恐るべき苦悶のことだと私は理解します」と解説する。

 

66と答は、その苦悩の原因と有様を述べる。十字架の主イエスは、私たちの償いをするために神に見捨てられ、神を敵に回すかのように良心の不安の苦しみを負われ、十字架上で叫ばれた。

67と答は、父なる神が御子に怒られたのではなく、私たちの罪と不義のゆえに苦しまれた。

68と答は、十字架の主イエスは真の人としてこの苦しみを負われたことを述べている。

69と答は、こう述べている。主イエスはただこの恐ろしい死の苦悩に耐え忍ばれたのではない。むしろ、十字架の主イエスはその死の苦しみと闘い、死の力に屈服することなく、御自身の復活によって死の力と恐怖を無とされたのであると。

 

70と答は、共に十字架につけられたキリストと神の怒りが下された罪人らとの違いである。十字架の主イエスの良心の苦痛と罪人ら苦痛の違いを述べている。キリストの苦痛は一時的、罪人らの苦痛は永久的で、キリストは神に望みを持ち続け、罪人らは絶望し、十字架の御子を侮辱し、神への冒瀆に突進したのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答23           主の20211124                                                                 

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一第15111(新約聖書P320)

第一部     信仰について

 第十一聖日                          

71 このキリストの死から信仰者たちが如何なる実りを受けるかを、以上をもとにして論じることは出来ないでしょうか。   

答 もちろん出来ます。第一にそれは私たちの罪を神の前で償い、こうして神の怒りを宥めて、私たちを神と和解させる犠牲であることを私たちが認めるのです。第二に、彼の血は私たちの魂をすべての汚れから浄める洗いであります。最後に、私たちの罪はもはや神の記憶に留められず、神の御目の前に表われることなく、こうして私たちを罪責ある状況に引き留めていた証書は取り消され・廃棄されたのです。

 

72 それ以上に私たちの益となることはないのですか。

答 大いにあります。私たちがキリストの真の肢である限り、私たちの古き人は十字架につけられ、罪の体は滅ぼされ、邪な肉欲はもはや私たちのうちに支配しなくなりますが、これは彼のお陰であります。

 

73 残りを続けなさい。

 答 「三日目に死人のうちより甦り」と続きます。彼が罪と死に対する勝利者であられることがこのことによって明示されたのです。というのは、彼はこの復活によって死を呑み干してしまわれ、悪魔の絆を断ち切ってそのすべての力を無に帰せしめたもうたからです。

  Ⅰペトロ三・十九「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちの所に行って宣教されました。」

 

74 この復活から幾重の実りが私たちに齎らされていますか。

 答 三重の実りであります。先ず、これによって私たちに義が獲得されたこと。次に、これは私たちの将来に及ぶ不死の担保であること。更に、今すでにその力によって私たちは新しい生命に甦り、神の御意志に従って純潔な、また聖化された者として生きることであります。

 ローマ四・二十五「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」、Ⅰコリント十五・二十「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」、ローマ六・四「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活されたように、わたしたちも新しい命に生きるためです。」

 

 今日はジュネーヴ教会信仰問答の第十一聖日(第十一課)、問7174と答を学ぼう。第十聖日(第十課)では、使徒信条の「陰府に下り」を学んだ。ジュネーヴ教会信仰問答は、宗教改革者カルヴァンと同様に、「陰府に下り」を場所ではなく、主イエスの十字架の苦しみと理解する。キリストは十字架上で神の呪いを受け、地獄の苦しみを味わわれたのである。その主イエスの魂の苦悶を「陰府に下り」と述べている。

 

さて、第十一聖日(第十一課)の問7172と答は、キリストの十字架の死から信仰者たちが受ける実りについて述べている。そして問7374と答は、使徒信条の「三日目に死人のうちよりよみがえり」についての信仰箇条の解説である。そして、問74と答でジュネーヴ教会信仰問答は、キリストの復活から幾重の実りの益がキリスト者に齎されるかを述べている。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、使徒信条の「ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り」という信仰箇条をもとにキリストの死から信仰者たちが受ける実りの益を論じることはできないかと述べている。

 

問答は出来ると答えて、次の三点を挙げる。第一はキリストの死が犠牲であることを認めることである。神の民イスラエルが彼らの罪の償いに動物犠牲を主なる神に献げたように、キリストは私たちの罪の償いの犠牲である。彼の死によって神の怒りは宥められ、私たちは神との和解を得たのである。

 

第二に彼が十字架で流された血によって、わたしたちの罪の汚れが洗い浄められたことを認めることである。キリストの犠牲によってわたしたちの罪の代価が支払われても、神の御前で咎あるわたしたちが聖とされるのではない。キリストの血によって私たちの咎、汚れが清められたのである。

 

第三にキリストの十字架の死によって神は私たちの罪を一切忘れられたことを認めることです。証書とは、負債証書です。罪責の記録があり、神はそれを取り消され、破棄された。神はキリストの十字架の死のゆえに私たちの罪を記憶されないし、証書が破棄され、わたしたちの記憶からも罪責は消されることを認めることである。

 

更に、ジュネーヴ教会信仰問答は、問72と答で第四に、キリストの十字架の死によってわたしたちの「古き人」が滅ぼされたことを述べている。使徒パウロは、「わたしは、キリストと共に十字架につけられています(ガラテヤ2:19)と述べている。キリストの十字架の死と共にわたしたちの古き人は死んだのである。

 

使徒ペトロは、「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです(Ⅰペトロ3;:18後半)と述べている。キリストの十字架の死と復活を述べている。そして、主イエスは復活によって死に勝利された。ノアの洪水で主なる神に服従したノアと彼の家族は救われ、服従しなかった者たちは滅ぼされた。このノアの洪水は洗礼を意味しており、洗礼を受けてキリストに結ばれて死んだキリスト者たちは、復活の主と共に死に勝利し、復活することを述べているのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問74と答でキリストの復活から信仰者は幾重の実りの益を得られるのかと問い、三重の実りの益があると答えている。第一はキリストの復活によって私たちは義を獲得したのである。パウロは、ローマの信徒への手紙425節でキリストの十字架の贖いは、キリストの復活によって事実となったと述べている。義は救いと同義語である。キリストの十字架の死によって私たちの罪は除かれ、キリストの復活によって私たちの救いが齎されたのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、第二にキリストの復活、「これは私たちの将来に及ぶ不死の担保である」と解説する。人は不死の存在ではない。しかし、復活の主イエスは、弟子たちに「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(マタイ28:20)と約束された。これが不死の担保である。永遠の神の御子と共にいることが私たちにとって不死である。

 

 

第三に聖霊によるキリスト者の聖化である。聖霊はキリスト者を再生し、新しい人として生かす。

 

ジュネーヴ教会信仰問答24           主の2021121                                                                                                                                       

聖書箇所:使徒言行録第1611(新約聖書P213)

第一部     信仰について

 第十二聖日                          

75 残っているところに入りましょう。   

答 「天に昇り」です。

 

76 それでは、天に昇られて、地上にはもうおられないということですか。

答 そうです。なぜなら、御父から命じられたこと、そして私たちの救いのためになることは一切果たされたのち、地上に滞在される必要はもはやなくなったからです。

 

77 この昇天から私たちはどのような益を得るのですか。

 答 実りは二重であります。すなわち、キリストは私たちのために地上にくだって来られたのと同じく、私たちの名において天に入りたまいましたので、そこに私たちのために入口をお開きになりました。こうして、先には罪の故に閉ざされていた扉が、今や私たちに開かれたのです。第二に、彼は神の御顔の前に私たちのために執り成し手・また保護者として現れてくださるのです。

 

78 では、キリストは天に帰って、私たちから離れたため、もはや一緒にいたまわないのでしょうか。

 答 決してそうではありません。反対に、彼は世の終わりまで私たちと共にいる、と約束されました。

                                 マタイ28・20

 

79 しかし、私たちとともにいるとは肉体をもっての現臨と理解すべきでしょうか。

 答 いいえ、そうではありません。なぜなら、天に受け入れられた御体の在り方と、至るところに広がっている御力とは別だからです。

 

 今日はジュネーヴ教会信仰問答の第十二聖日(第十二課)、問7582と答の前半、問7579と答を学ぼう。第十一聖日(第十一課)では、使徒信条の「三日目に死人のうちよりよみがえり」を学んだ。キリストの復活によって私たちは義を獲得したのである。救いを得たのである。そして永遠の命の保証を得たのである。キリストの復活は、私たちの不死の担保であった。

 

さて、第十二聖日(第十二課)の問7582と答は、キリストの昇天と神の右に座されたことを述べている。前半の問7579と答は、使徒信条の「天にのぼり」についての信仰箇条の解説である。そして、問8082と答は、使徒信条の「全能の父なる神の右に座したまえり」の解説である。

 

75と答は、使徒信条の「天にのぼり」の信仰箇条である。キリストの昇天の教理である。キリストの昇天は、ルカによる福音書の245053節と使徒言行録第1911節に記されている。どちらもパウロの弟子であり、医者であったルカが記している。復活の主イエスと11弟子たちの別れを、ルカはキリストの昇天という形で物語る。

 

「昇天」という語は、キリスト教ではキリストのみに使用する。キリストの昇天は、復活後40日目に起こった。キリストが見えざる神の領域に入り、見えざる神的な力に満ちたというキリストの復活体の側面を表現する。ルカは、復活の主と11弟子たちの別れを昇天という形で物語る。そして11弟子たちはキリストの昇天によってキリストの真の姿を認識するのである。キリストは、十字架と復活の御業に基づいて預言者、祭司、王として仲保者の働きをされるのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問76と答で主イエス・キリストが天に昇られて、今この地上におられないことを強調している。その理由を、答で「御父から命じられたこと、そして私たちの救いのためになることは一切果たされたのち、地上に滞在される必要はもはやなくなったからです。」と説明している。

 

御父から命じられたこと」は、神の選民の救済である。十字架と復活の御業を通して主イエス・キリストは、神の選民の救済の一切を完全に成し遂げられた。それゆえにこの地上に滞在する必要はなくなったのである。

 

 主イエスは、こう言われた。「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。(ヨハネ16:7)。キリストの昇天によって聖霊が来られる。聖霊は、主イエスの霊である。昇天後キリストは聖霊と御言葉を通して霊的に臨在されるのである。

 

 問77と答でジュネーヴ教会信仰問答は、私たちがキリストの昇天によってどんな益を得るのかを述べている。益は二重である。第一にキリストは受肉によって天から地に来られ、昇天によって地から天に昇られた。すなわち、キリストは天から来て、天に帰られた。問答は、それによって「そこに私たちのために入口をお開きになりました。」と述べている。キリストは昇天によって私たちのために御国の入口を開かれたのである。

 

問答が「こうして、先には罪の故に閉ざされていた扉が、今や私たちに開かれたのです。」と述べているのは、創世記3章で物語られたアダムの原罪によって全人類が堕落し、主なる神はアダムとエバをエデンの園から追放し、命の木を守るためにケルビムと炎の剣を置き、彼らがエデンの園に入れなくされたことに言及し(創世記3:23-24)、キリストの十字架による罪の贖いと昇天によって閉じられていた扉が開かれたとのべている。

 

 ジュネーヴ教会信仰問答は、第二にキリストの昇天が神の御顔の前に出られ、私たちの執り成し手となられるためであると述べている。具体的には、主イエスの霊である聖霊を派遣するためである。「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。(ヨハネ16:7)

キリストの昇天は、聖霊を派遣するためである。

 

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問7879と答でキリストの臨在が霊的であることを教えている。ルカによる福音書と使徒言行録は、キリストの昇天を復活のキリストと11弟子たちとの別れとして物語る(ルカ24:5051、使徒言行録1:911)。物理的には、キリストの昇天によってキリストの体は天に移され、私たちは地にいるのである。しかし、復活の主イエスは11弟子たちに宣教命令し、その後に彼らといつも共にいると約束された。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである。(マタイ28:20)。この約束は、教会に派遣された聖霊と御言葉を通して成就したのである。すなわち、主イエス・キリストは霊的に臨在してくださっているのである。 

 

ジュネーヴ教会信仰問答25           主の2021128                                                                                                                                       

聖書箇所:ローマの信徒への手紙第83139(新約聖書P283284)

第一部     信仰について

 第十二聖日                          

80 あなたが「父の右に座したもうなり」と言うのは何の意味ですか。   

答 この言葉は彼にすべてを治めさせるために、御父が天と地の主権を委ねたもうたことを表します。

                                  マタイ二八・一八

81 しかし、あなたにとって、この「右」また「座する」とは何を意味しますか。

答 これは君主から引いた譬でありまして、彼らは支配の務めを委任した者を通常右に座らせるところから来たのです。

 

82 それでは、あなたが理解するのはパウロが、キリストは教会の首として立てられ、すべての名にまさる名をたまわったと伝えたのと異なりませんね。

 答 私の言うのはそのような意味であります。

                         エフェソ一・一九-二三、エフェソ四・一五-一六、フィリピ二・九

 

 今日はジュネーヴ教会信仰問答の第十二聖日(第十二課)、問8082と答を学ぼう。先週は、前半の問7579と答を学んだ。使徒信条の「天にのぼり」の条項の解説、キリストの昇天の教理を学んだ。今日は、使徒信条の「全能の父なる神の右に座したまえり」の条項の解説を学ぼう。

 

 マルコによる福音書1619節に「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」とある。これは、マルコによる福音書の有力な写本には無い。マルコによる福音書の本文には無かった。しかし、初代教会のキリスト者たちの信仰を反映するものとして付け加えられたのである。

 

キリストは、マタイによる福音書2818節で「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と言われている。この御言葉を根拠にジュネーヴ教会信仰問答は、「この言葉は彼にすべてを治めさせるために、御父が天と地の主権を委ねたもうたことを表します。」と答えている。キリストは、天に昇られ、父なる神の代理として、天と地の一切の権能、即ち、神の全権を委ねられ、天と地のすべてのものを今治められているのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問81で「 しかし、あなた

「にとって、この「右」また「座する」とは何を意味しますか。」と問うている。そこで答は、「右」と「座する」を、君主との関連で説明している。

 

古代の王は、直接統治しない。統治をするのは、王の代理人である官僚や貴族である。「右」と「座する」は王の代理人として摂政を執ることである。古代社会では、王の右に宰相が座して、政治の代行をしたのである。創世記のヨセフは、エジプトの王から全権を委ねられて、王に代わってエジプトの国を治めたのである。

 

主イエスは、エルサレムの最高会議の裁判の席で大祭司に「お前はメシアか」と質問された時に、「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」(マルコ15:62)と言われた。キリストは、この世の君主が彼に代わり、全権を委ねた者が彼の右に座するように、父なる神から全権を委ねられ、すべてのものを支配するために、神の右に座されているのである。

 

「右」または「座する」は、詩編1101節に由来している。「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』」ダビデ王のようなメシアの支配を告げている。それは、主イエス・キリストである。主イエスは、神の御救いのすべての御業を成し遂げて、天に昇られ、父なる神の右に座されているのである。

 

カルヴァンは、キリストが父なる神の右に座されていると、想像すべきではないと述べている。使徒言行録75556節に「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った。」とある。カルヴァンは、この記事は隠喩法によると述べている。譬えを言うのに何々のようだと記しているのだと。

 

キリストが父なる神の右に座されているとは、場所的に理解することよりも、天が神の尊厳、栄光、そして見えざる神のいますところを表わすように、キリストが父なる神と同じ御力があられ、栄光、権威、権能を持たれているということを意味しているのである。

 

それゆえに、ジュネーヴ教会信仰問答は、問82で、「それでは、あなたが理解するのはパウロが、キリストは教会の首として立てられ、すべての名にまさる名をたまわったと伝えたのと異なりませんね。」と質問し、「私の言うのはそのような意味であります。」と答えているのである。

 

 使徒パウロがエフェソの信徒への手紙11923節で述べているように、父なる神は全能の御力によってキリストを死者の中から復活させ、天において御自身の右に座させられた。そしてキリストは、この世の教会から縁遠くなられたのではない。父なる神より全権を委ねられ、教会の頭()となられ、今神と同じ御力、権力、権威、権能を授けられ、父なる神に代わって天地のすべてのものを一切支配されているのである。そして、今も救い主として私たちを守護し、支え、憐れみ、執り成しを続けられているのである。

 

 ヘブライ人の手紙は、昇天されたキリストを、聖所の至聖所に年に一度入る大祭司に譬えている。キリストは、私たちの大祭司として天に昇られ、神の憐れみを私たちに示されるために父なる神の右に座されたのである。

 

 そのようにしてキリストを通して父なる神の私たちへの愛が示されているので、私たちは神の憐れみの御座である礼拝に、恐れることなく出ることを許されているのである。

 

 

 キリストは教会の頭()として、王の支配の務めを果たされている。神の国は神の支配のことである。キリストは神の国の王であり、支配者である。教会の頭であるキリストは、時代を越えて教会を守り、存続させられている。上諏訪湖畔教会の73年の歴史は、キリストが支配され、守られた73年である。

 

ジュネーヴ教会信仰問答26           主の20211215                                                                                                                                       

聖書箇所:ローマの信徒への手紙第14712(新約聖書P294)

第一部     信仰について

 第十三聖日                          

83 次に移りましょう。   

答 「生ける者と死にたる者とを審かんために、かしこより来たりたまわん」。この言葉の意味は、彼が昇って行かれたのが見られたように、世を審くために、天から目に見えるさまで来たりたまうであろうということです。                                 使徒言行録一・十一

 

84 審きの日は世の終わりが来るのに先立つことはないのですから、どうしてその時、ある人は生き残っていると言うのですか。すべての人はすべて死ぬように定められていますのに。

答 この問題をパウロが解決してくれました。それは、その時生き残っている人々は、忽ちに変えられて新しくなり、こうして朽ちる肉は廃止され、朽ちざるものを着るのだと説いているところにおいてであります。

    ヘブライ九・二七、Ⅰコリント十五・五十一-五十二、Ⅰテサロニケ四・十七

 

85 ですから、この変えられることが彼らにとっての死のようなものだとあなたは理解するのですね。さきの本性を廃止して、新しい別の本性を始めるのですから。

 答 私はそう思います。

 

86 キリストがいつの日か世の審き主となりたもうということから、私たちの良心は何かの喜びを受け取るでしょうか。

 答 受けます。そしてそれはたぐいなき喜びです。すなわち、彼がほかならぬ私たちの救いのために来たりたもうのだと、私たちは確信をもって承知しているからです。

 

87 したがって、この審きが私たちを恐怖に突き落とすもののように恐れることは相応しくありません。

 答 まことにその通りです。すなわち、私たちは我が身の保護者以外の何者でもない方の審判の座の前に立つのであり、また彼は私たちを御自身の真実と保護との許に引き受けて下さるからです。

 

 今日は、ジュネーヴ教会信仰問答の第十三聖日(第十三課)、問8387と答を学ぼう。前回は使徒信条の「天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり」の条項の解説(7582と答)を学んだ。今回は、使徒信条の「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」の条項の解説を学ぼう。使徒信条のキリストについての最後の条項である。

 

使徒信条は、キリストの再臨と審判を信仰告白する。ジュネーヴ教会信仰問答の問8387と答は、その解説である。使徒信条の「よみがえり、天にのぼり」は過去のことである。「神の右に座したまえり」は現在のことである。そして「かしこより来たりて、・・・審きたまわん」は未来のことである。キリストは、救いの御業を完成され、聖霊を遣わされて、この世に教会を造られた。そして教会の福音宣教と礼拝を通して御自身の贖いの御業をわたしたちに適用されている。このように今も主イエス・キリストは、この世を支配し、教会を統治し、守り、御自身において選ばれた神の民の御救いのために働かれている。

 

しかし、未来永劫にこの世は、今のままに続くのではない。キリストが再臨する、神の最後の審判が為される。そして神の御国が完成する。

 

だから、使徒信条は、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と、キリストの再臨と審判を告白している。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、使徒信条を解説するが、キリストの再臨と審判が私たちにとってどんな益があるかに関心がある。

 

83と答はキリストの再臨について述べている。使徒信条の「生ける者と死にたる者とを審かんために、かしこより来たりたまわん」という条項の意味を、聖書の御言葉に従って解説する。使徒言行録第111節は、こう記している。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」ジュネ―ヴ教会信仰問答は、この御言葉を根拠にキリストの再臨が目に見えるものであると述べている。こう述べている。「この言葉の意味は、彼が昇って行かれたのが見られたように、世を審くために、天から目に見えるさまで来たりたまうであろうということです。」キリストは誰の目にも見える姿で再臨し、死んだ者も生きている者も、すべての人に必ず審判を下される。

 

8485と答は、キリストが再臨し、審判される時、「生ける者」がいるという問題である。神は、すべての人が罪によってすべて死ぬと言われた。だから、ヘブライ人への手紙927節はこう記す。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」。すると、キリストが再臨し、審判が行われる時、すべての人は死んでいることになる。使徒信条は矛盾しているのか。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、その解決はパウロの言葉にあると言う。「死にたる者」は復活し、キリストの審判を受ける。その時生きている者は、使徒パウロが述べるように「変えられて新しくなる」のである。パウロは、こう述べる。「死者は復活して朽ちない者に変えられます(Ⅰコリント15:52)。「わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。(Ⅰテサロニケ4:17)。だから、ジュネーヴ教会信仰問答はこう理解する。パウロの言葉から生きている者は朽ちる肉から朽ちない体に変えられる。その変えられることが死なのだと。

 

8687と答で、ジュネーヴ教会信仰問答はキリストが再臨し、審判されることが私たちにどのような益を、喜びを与えるのかを述べている。

 

キリストは、私たち神の選びの民の弁護者として、父なる神への執り成し手である。そしてキリストは私たちの救いの完成者である。そのお方が審判の座に就かれる。キリストは私たちの救いの完成のために来られ、私たちを神の御前で義人とし、神の御国の相続人とするために審判を下される。

 

だからジュネーヴ教会信仰問答は、再臨し、審判を下すキリストを、私たちの良心が喜び受け入れる理由を、こう述べている。「私たちは我が身の保護者以外の何者でもない方の審判の座の前に立つのであり、また彼は私たちを御自身の真実と保護との許に引き受けて下さるからです」。

 

 

今信仰によって義とされた私たちの今の状態が変わることなく、確定されるのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答27           主の20211222                                                                                                                                       

聖書箇所:使徒言行録第2113(新約聖書P214215)

第一部     信仰について

 第十四聖日                          

88 さあ、それでは第三部に進みましょう。   

答 それは「聖霊を信ず」の部分であります。

 

89 この条項は私たちにどういう益を齎らしますか。

答 神は私たちを御子によって贖いまた救いたまいましたが、そのように、御霊によって私たちをこの贖いと救いに与かる者としてくださることを知らせるのであります。

 

90 どのようにして贖いと救いに与かる者となるのですか。

 答 私たちがキリストの血によって潔められるように、この血が聖霊によって私たちの良心に注がれて洗い潔めることが必要であります。

                    Ⅰペトロ1・1819

 

91 このことについてはもっと明快な説明が必要です。

 答 神の御霊が私たちの心のうちに住みたまわぬ限り、キリストの御力が現実化しているのを感じることはない、と私は理解します。すなわち、キリストの恵みを私たちは精神に受け入れていますが、これは聖霊の照明によってなされることです、また、聖霊によって確信させられて、恵みは私たちの心に封印されます。要するに、ただ聖霊だけが私たちのうちに恵みを受け入れる場所を与えたもうのです。聖霊は私たちを生まれ変わらせ、私たちが新しく造られた者となるようにされます。それゆえ、およそキリストにおいて私たちに差し出されている賜物は皆聖霊の力によって私たちのものとして受けられるのであります。

 

                ローマ5・5、エフェソ113、テトス35

 

今日は、ジュネーヴ教会信仰問答の第十四聖日(第十四課)、問8891と答を学ぼう。前回までは使徒信条第二項の神の子主イエス・キリストについての解説(3087と答)を学んだ。今回は、使徒信条の第三項の聖霊について(8891と答)の解説を学ぼう。

 

ジュネーヴ教会信仰問答(カルヴァン)は、使徒信条を四部に分けて解説する。すなわち、父なる神、子なるキリスト、聖霊、そして、教会である。第四項の教会は、教会、罪の赦し、身体の復活、永遠の命の四つに分けて解説している。

 

ジュネーヴ教会信仰問答の問88と答は、使徒信条の第三項の「我は聖霊を信ず」である。これは、聖霊についての信仰告白である。聖霊なる神は、父子御霊なる三位一体の神の第三位格である。第一位格は父なる神、第二位格は子なる神主イエス・キリストである。聖霊は父と御子と同等で、同質の神である。

 

新共同訳聖書は、聖霊を「“霊”」と日本語訳している。「」は息である。創世記第2章に神は土の塵で人を造られ、鼻に息を入れられると、人は生きた者となったとある(創世記2:7)。霊は人の命である。聖霊は人の存在と行為の根源である。使徒パウロは、聖霊が私たちに内住され、私たちは「神(聖霊)の神殿」であると述べている(Ⅰコリント3:166:19)。父は御子によって私たちを創造し、御子は私たちを罪と死から贖われ、聖霊は私たちの内に住まわれ、御言葉の照明によって父と御子を知らしめ、御子の贖いを私たちに信仰を通して適用し、神に創造され、御子に贖われた私たちを保持し守られているのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問89と答で使徒信条の「我は聖霊を信ず」という条項が私たちにどんな益を齎すのかを問答する。

 

聖霊信仰、すなわち、具体的には私たちが聖霊に謙虚に依り頼むことによって、私たちはどんな益を得ているのかという問であり、答はこうである。「神は私たちを御子によって贖いまた救いたまいましたが、そのように、御霊によって私たちをこの贖いと救いに与かる者としてくださることを知らせるのであります

 

父なる神が御子主イエス・キリストの十字架と復活の御業を通して私たちを罪と死から贖われた、その救いを、聖霊が私たちに信仰の賜物を与えてくださり、御言葉の照明によって救い主イエスと彼の十字架と復活の贖いの御業に与からせ、信じさせてくださる。「御霊によって・・・知らせるのであります」は、聖霊の照明の御業である。

 

90と答は、ペトロの手紙一11819節に基づいて「私たちがキリストの血によって潔められる」と述べている。私たちは十字架のキリストの血によって、罪から贖われた。罪を赦されたのである。その客観的事実と恵みを、聖霊は洗礼という礼典を通して、私たちの良心に注がれたのである。「この血が聖霊によって私たちの良心に注がれて洗い潔めることが必要であります」とは、洗礼である。それによって私たちは、神の罪の赦しの宣言を受け、良心に平安を得るのである。

 

91と答は、聖霊のお働きと恵みの外的手段について詳しく説明している。聖霊が私たちの内に住まわれて、私たちの心を再生し、直接私たちの心に信仰と悔い改めを起こされ、「キリストの御力が現実化しているのを感じる」ようにしてくださる。

 

私たちが信仰によってその恵みを受け入れるために、聖霊は外的な恵みの手段を用いられる。御言葉(による照明)と礼典と祈りである。

 

私たちが心にキリストの救いの恵みを受け入れるのは、聖霊の照明によって聖書とその説き証しである説教を、聖霊が私たちに理解させ、承認するようにしてくださるからである。

 

聖霊は、私たちを再生し、信仰と悔い改めを与えて、洗礼という礼典を通して私たちをキリストと一体とし、私たちはキリストと共に十字架に死に、キリストと共に復活したのである(ローマ6:8)

 

 

聖霊は、私たちにキリストが私たちに差し出されたすべての賜物を与えてくださる。信仰、悔い改め、罪の赦し、祈り、御国の相続、礼拝等である。今も上諏訪湖畔教会で礼拝において御言葉、礼典(洗礼と聖餐)、そして祈り(神賛美)を通して、聖霊は私たちをキリストの恵みに与らせてくださる。

 

ジュネーヴ教会信仰問答28           主の20211229                                                                                                                                       

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙第41523(新約聖書P352353)

第一部     信仰について

 第十五聖日                          

92 先に進みましょう。   

答 第四部が続きます。ここでは「我は一にして聖なる公同の教会を信ず」と告白されます。

 

93 教会とは何ですか。

答 これは神が永遠の生命に予定された信仰者の団体であり、また交わりであります。

 

94 この条項が信ぜられる必要があるのでしょうか。

 答 勿論です。わたしたちがキリストの死を無効にしようとし、これまでに述べて来たすべてのことを無にしようと望むのでない限り、信じなければなりません。すなわち、これらすべての唯一の結果が教会としてあるからです。

 

95 以上あなたは救いの基礎を説明する時、キリストの功績と執り成しによって私たちが神から愛のうちに受け入れられたこと、そしてその恵みが御霊の力によって私たちのうちに確かにされたことを理解しているわけです。しかし、今これらのいっさいの成果が明らかにされたので、事実そのものによって信仰はいよいよ固く確立するのです。

 答 おっしゃる通りであります。

 

今日は、ジュネーヴ教会信仰問答の第十五聖日(第十五課)、問9295と答を学ぼう。前回は使徒信条第三項の聖霊についての解説(8891と答)を学んだ。今回は、使徒信条の第四項の教会について(9291と答)の解説を学ぼう。

 

ジュネーヴ教会信仰問答(カルヴァン)は、使徒信条を第四部に進む(92110と答)。前回学んだように使徒信条の第四部は、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体の復活、永遠の命の項目に分けられている。

 

ジュネーヴ教会信仰問答の問92と答は、使徒信条の第四項の「聖なる公同の教会」である。これは、教会についての信仰告白である。ジュネーヴ教会信仰問答は、「我は一にして聖なる公同の教会を信ず」とある。使徒信条は、「我は聖霊を信ず」に続けて、「我は教会を信ず」と告白する。

 

父子御霊なる三位一体の神は信仰の対象であるが、教会は信仰の対象ではない。しかし、使徒信条は「教会を信ず」と告白する。この場合の「信ず」は、「だれを」ではなく、「何を」である。使徒信条の信仰の内容を意味する。使徒信条が信じる教会とは、「聖なる公同の教会」であり、「聖徒の交わり」であり、「罪の赦し」、「身体の復活」、「永遠の命」である。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問93と答で教会とは何かと、定義している。ジュネーヴ教会信仰問答は、使徒言行録の1348節後半の「永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った」という御言葉を根拠に、「これは神が永遠の生命に予定された信仰者の団体であり、また交わりであります。」と述べている。使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙でキリストの教会についてこう述べている。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。(エフェソ1:4)。そしてこう述べている。「こうして、時が満ちるに及んで、救いの御業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。(エフェソ1:10)

 

だから、ジュネーヴ教会信仰問答は、問94と答でこう問答するのである。「94 この条項が信ぜられる必要があるのでしょうか。答 勿論です。わたしたちがキリストの死を無効にしようとし、これまでに述べて来たすべてのことを無にしようと望むのでない限り、信じなければなりません。すなわち、これらすべての唯一の結果が教会としてあるからです。

 

教会は、「信仰者の団体」である。それは、「神が永遠の生命に予定された者」たちである。その「交わり」が教会である。使徒パウロがいうように、教会は父なる神が愛されたキリストにあって選ばれた者たちの集まりであり、交わりである。

 

カルヴァンは、『キリスト教綱要』で「神の隠された選びを基礎とする教会」(412)、「教会は選びと共に存立する」(3)と述べている。

 

使徒パウロは、エフェソ教会の長老たちに聖霊のお働きと彼らの職務を関連付けてキリストの教会についてこう述べている。「聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。(使徒言行録20:28)

 

ジュネーヴ教会信仰問答が「わたしたちがキリストの死を無効にしようとしない限り」と述べているように、教会はキリストの十字架の血の贖いにより、この世で成り立つのである。そして、神に選ばれた者がキリストと一つにされ、キリストのすべての恵みを得る所が教会であり、キリストの十字架によって贖われ、罪を清められ、聖なる者とされた者たちの交わりなのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問95と答で教会を信じることの益を述べている。「以上あなたは救いの基礎を説明する時、キリストの功績と執り成しによって私たちが神から愛のうちに受け入れられたこと、そしてその恵みが御霊の力によって私たちのうちに確かにされたことを理解しているわけです。しかし、今これらのいっさいの成果が明らかにされたので、事実そのものによって信仰はいよいよ固く確立するのです。

 

救いの基礎」とは、キリストの血による十字架の贖いである。「キリストの功績」とは、キリストの説教的服従と消極的服従である。すなわち、キリストはわたしたちのために十字架の死に至るまで父なる神に従順であられた。神の律法を守り、義を得られた。同時にキリストはわたしたちの罪の身代わりに十字架の刑罰を受けられた。このキリストの功績によって、わたしたちは救われ、神の子とされ、聖なる者とされた。

 

 

キリストは父なる神にわたしたちの罪を執り成されただけではない。聖霊を通してすべての恵みを、すなわち、聖霊を、信仰を、悔い改めを、罪の赦しを、義と聖をお与えくださる。聖霊は、御言葉と礼典によってわたしたちの信仰を確かにしてくださる。教会はわたしたちの信仰を強める。

 

ジュネーヴ教会信仰問答28           主の202215                                                                                                                                       

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一第121231(新約聖書P316317)

第一部     信仰について

 第十五聖日                          

96 ところで、あなたはどういう意味で教会を「聖なる」と呼ぶのですか。   

答 神はその選びたもうた限りの人々を義とし、理性と罪なき生に向けて更新し、こうして彼らのうちに御自身の栄光が照り映えるようにされたからです。パウロがキリストはその教会を贖い、聖化し、栄光を得しめ、すべての汚れから潔くしたもうた、と指摘する時、言おうとしたのもこのことであります。

 

97 「公同の」あるいは「普遍的な」という言葉は何を言わんとするものですか。

答 これによって私たちは次のように教えられます。すべての信仰者の首は一つであるように、すべての信仰者は一つの体に合体すべきでありますから、教会は全世界に散らばっていても、一つであって、数多くあるのではないということです。

                              エフェソ41516、Ⅰコリント12121327

 

98 それに続けて「聖徒の交わり」が付け加えられるのはどういう意味ですか。

 答 これは教会の肢々の間の一致をさらに明瞭に表明するために言われたのです。同時に、神が教会に賜わる恵みの賜物はどれもみな、すべての人が互いに交わりによって結び合っている以上、共通にすべての者の益のためにあるということを教えています。

      

今日は、ジュネーヴ教会信仰問答の第十五聖日(第十五課)、問9698と答を学ぼう。前回より使徒信条第四項の教会についての解説(92115と答)を学び始めた。前回は、問9295と答を学んだ。今日は、その続き、問9698と答を学ぼう。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問95の問いで使徒信条が「聖なる公同の教会」と信仰告白するのに基づいて、どうして教会を「聖なる」と言うのかと問うている。

 

聖書の「聖」は、神の性質である。神は聖なるお方であり、神に関係し、神に仕える者は聖なる者である。神がこの世から分離し、選ばれた者たちの集まりが聖なる教会である。神の民イスラエルは「聖なる国民」(出エジプト19:6、申命記7:6)と呼ばれた。聖は神の栄光であり、神の民イスラエルは神との関係におかれるゆえに聖なる者であった。教会はキリストの十字架の贖いにより聖なるものとされた。信徒たちは聖なる者、「聖徒」と呼ばれる。

 

神はキリストにあって選ばれた者たちを、キリストの十字架によって贖い、彼らを義とし、聖霊によって罪を清められ、洗礼によって御自身と一体とされた。それゆえに使徒パウロの言うように、「キリストはその教会を贖い、聖化し、栄光を得しめ、すべての汚れから潔くしたもうた」のである。聖霊は、わたしたちの心の中にキリストを住まわせ、聖霊の宮とし、聖なる者とされている。このように復活のキリストに与かることが聖である。そして、教会はキリストを礼拝し、キリストに仕え、キリストと交わり、聖なる場とされるのである。

 

次にジュネーヴ教会信仰問答は、問97と答で「聖なる公同の教会」の「公同」という言葉の意味を質問している。「公同」とは、一般的、普遍的という意味である。この世界には無数の教会がある。そして、地上の至る場所に教会がある。しかし、キリストの教会は一つである。主イエスがお一人であるように、キリストの体も一つである。キリストの教会は世界に一つしかないゆえに、使徒信条は、「我は公同の教会を信ず」と告白するのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、「すべての信仰者の首は一つであるように、すべての信仰者は一つの体に合体すべきでありますから、教会は全世界に散らばっていても、一つであって、数多くあるのではないということです。」と答えている。使徒パウロは、こう述べている。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つっまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです(Ⅰコリント12:1113)

 

 問98と答は、使徒信条の「聖徒の交わり」です。教会は、すべての信仰者たちの共同体です。新約聖書は、信仰者たちを「聖徒」と呼んだ。聖なる者、きよめ分かたれた者という意味である。主イエス・キリストの十字架の贖いによってこの世から分離され、聖別された者たちである。神の御用のために世から選び分かたれた者たちである。

 

 聖徒は、共に御言葉を聞き、洗礼を受け、聖餐に共に与ることによって主にある交わりを持ち、信仰の一致を表明するのである。信仰、御言葉、礼典、奉仕、教会で聖徒たちが賜わる聖霊の恵みの賜物は、キリストの体なる教会を造り上げていくのである。

 

 使徒パウロはこう述べている。「むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長して行きます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自らの愛によって造り上げられてゆくのです。」(エフェソ4:1516)

 

 共にキリストの体なる教会を成長させるために、わたしたちは主にある交わりを、上諏訪湖畔教会をとおしてしているのである。

 

 

 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマも一つ。しかし、賜物は多様であり、奉仕も多様である。それが教会における聖徒の交わりである。

ジュネーヴ教会信仰問答30           主の2022112                                                                                                                                       

聖書箇所:使徒言行録第23742(新約聖書P216217)

第一部     信仰について

 第十六聖日                          

99 しかし、あなたが教会に帰しているこの「聖」はすでに完全なのですか。   

答 いいえ、決して完全ではありません。教会がこの世において戦っている限りは。というのは、教会はつねに弱さのもとに苦労しているからです。そして、聖化してくださるキリストと完全に結び合わされるまでは、教会は悪の残滓から決して潔められていないのです。

 

100 だが、信仰をもって確信するという以外に、教会を知ることは出来ないのでしょうか。

答 神のものである見える教会も確かにあるのです。それは確実な証拠と目印によって私たちに分かるように規定されています。けれどもここでは特に神が隠された選びによって救いに入れたもうた人たちの集会のことを扱っています。これは永久に目で認められず印によって識別されません。

 

101 次に何が続きますか。

 答 「我は罪の赦しを信ず」。

 

102 あなたにとって「赦し」という言葉はどういう意味を持ちますか。

 答 神が価なしの慈しみによって信仰者たちの罪を無きものと見、これを免責して、審きに呼び出されることも、刑罰の判定が下ることのないようにしてくださるという意味です。

 

103 そこから結論されるのは、私たちが自分自身の償いの業によっては主からの罪の赦免を受けるだけの功績を決して果たすことが出来ないということです。

 答 まことにその通りです。すなわち、キリストはお一人で刑罰を受け、償いを果たして下さいました。わたしたちについて言えば、神に差し出すべき賠償は何一つ持ちません。ただ全くの寛大さによって私たちはこの恵みを価なしに受けるのであります。

 

104 「罪の赦し」が「教会」の項に続くのはなぜですか。それは、先ず神の民のうちに集められ、キリストの体との一致を終りまでたゆみなく守り、このようにして自分が教会のまことの肢であることを証しする者でない限り、誰一人として罪の赦しを得ることが出来ないからです。

 

105 この理由によって教会の外には断罪と滅亡しかないことが確実になります。

 答 全くその通りであります。なぜなら、キリストの体から分離し、党派を立てて教会の一致を乱す者には、そのような分離を続ける限り、救いの一切の希望が取り去られているからです。

 

今日は、ジュネーヴ教会信仰問答の第十六聖日(第十六課)、問99105と答を学ぼう。前回は使徒信条第四項の「聖なる公同の教会」と「聖徒の交わり」(9298と答)を学んだ。今回は、その続きと「罪の赦し」(99105と答)を学ぼう。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問99と答でこの世の教会に帰している「聖」が完全であるかと問いでいる。答は否である。教会はこの世から分離され、神との関係において「聖」である。神が聖であるように、神と関係する教会とキリスト者は聖である。しかし、その聖は完全ではない。教会とキリスト者には罪の残滓があるからである。この世の教会とキリスト者は清くされていく過程にある。しかし、その聖は、世から分離され、神に帰属しているからである。この世の教会とキリスト者は、罪との戦いがある。肉の弱さがある。キリストと完全に一体にされるまで、教会とキリスト者には完全聖化はないのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問100で信仰による確信以外に教会を知ることは出来ないのかと問うている。この世の教会は目で見ることができる。教会のしるしは、御言葉(説教)と礼典(洗礼と聖餐)である。正しく説教が語れ、礼典が執行されるところにキリストが臨在され、それが教会のしるしである。しかし、まことの教会は天上の教会である。それは、神がキリストにあって選ばれ、キリストの血によって贖われた民から成っている。肉の目で見ることも、わたしたちの理性によって認識することも不可能である。信じること以外にないのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問101105と答で使徒信条の「我は罪の赦しを信ず」を解説している。教会は、キリストの血で贖われた者たちの集まりである。罪を赦された者の集まりである。教会は、罪を赦す権威を持たれたキリストの十字架の血によって罪を贖われた者たちの集まりである。キリストを信じて洗礼を受け、教会員になった者は罪と死から解放される。そして、聖霊による支配下に置かれ、再創造され、聖化の道を歩むようにされる。罪によって神に背を向けていた者が、罪を赦され、神と共に生きる者と変えられる。日々罪を悔いることが赦され、聖霊の支配下で自分の罪の性質と日々戦い、罪に打ち勝つ道が開かれていくのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問102と答でわたしたちにとって罪の赦しがどんな益があるかを問い、答えている。「赦し」は、本来「覆う」を意味し、贖いの概念を含んでいる。旧約時代はいけにえと関係した。「取り上げる」「運ぶ」が赦すに近い意味である。罪の赦しの祭儀に動物犠牲が用いられ、神の民の罪が犠牲の動物に転嫁された。罪なきものの血によって、彼の罪は贖われ、赦されたのである。血を流すことなしに、罪の赦しはない(ヘブライ9:22)。キリストの十字架の血以外にわたしたちの罪を赦すものはない。だから、神は、慈しみによりキリストの血によって、無償でわたしたちの罪を赦し、神の刑罰を免除してくださった。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問103と答でキリストの十字架以外に罪の赦しのないことを述べている。わたしたちは、自ら罪の赦しを神から得るために、どんな功績も償いも不可能である。キリストの十字架の贖いという神の無償の恵み以外に、わたしたちが神から罪を赦され、神の刑罰を免れる道はないのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問104と答で「罪の赦し」が「教会」に続く理由を問うている。神がキリストの十字架の贖いによって召し集められる教会以外に、罪の赦しをわたしたちが得られる場所が無いからである。教会で御言葉を聞き、礼典に与かる以外に、わたしたちがキリストと一つにされ、神のものとされ、聖なる者とされ、罪を赦されたという確信を得る所はない。

 

 

だから、ジュネーヴ教会信仰問答は、問105と答で教会以外に救いはないと告白するのである。教会は、キリストの体である。そこから離れては、罪の赦しの希望は一切ないのである。