ジュネーヴ教会信仰問答51           主の202268                                                                                                                                       

聖書箇所:出エジプト記第2013(旧約聖書P126) 申命記第517(旧約聖書P289)

     マタイによる福音書第52126(新約聖書P7)

 第二部 律法について

第二九日

196 第六戒を唱えてみなさい。

 答 「汝、殺すなかれ」。

197 殺人を犯しさえしなければ差し支えないのですか。

 答 決してそうではありません。すなわち、ここで語りたまうのは神でありますから、単に外的な行ないに律法を課するだけでなく、さらに心の感情に対しても、むしろ特に後者に対して課せられるからであります。

198 いわば「隠された殺人」とでも言うべき種類の物があることを暗に言われ、それについて神がここで私たちの注意を喚起しておられるとあなたは見ているわけですね。

 答 その通りであります。すなわち、憤りや憎しみ、そして何らかの害を与えようとする欲望は、神の前に殺人と看做されるのであります。

199 憎しみを少しも抱きさえしなければ、私たちがこの戒めを十分に果たしたことになるのですか。

 答 決してそうではないのです。というのは、主なる神は憎しみを罪として審き、隣り人を傷つける如何なる悪も禁じたまう時、同時に、誠実に彼らを守り・保護する努力を要求しておられるのを示したもうたからです。

 

先週は、ジュネーヴ教会信仰問答の第二八聖日、問192195と答を次のように学んだ。主なる神は、御自身の代理人である父母に素直でない子を、御自身に不従順な者として、神の最後の審判の日だけではなく、この世において裁かれ、懲らしめられる。また、主なる神が神の民に賜る地は、約束の地カナンに限らず、神の民が住んでいるすべての地である。主なる神は、天地の創造者、すべての所有者であり、神の民が住む地は神の賜物である。最後に父母だけではなく、人の上に立つ者は神が御自身の代理人として父母と同様に権威を与えられた。それゆえにわたしたちは、目上の者を敬うべきである。第五戒は家族と社会の礎であり、第五戒を遵守することが家庭と社会の秩序を守ることになる。

 

今日は、第二九聖日の前半の部分、問196199と答、第六戒を学ぼう。問196と答は、第六戒の本文である。「汝、殺すなかれ」は、文語訳聖書である。新共同訳聖書は「殺してはならない」である。新改訳聖書2017、聖書協会共同訳も同じである。岩波書店訳は「あなたは殺してはならない」である。

 

第六戒は第一戒の禁止命令と同じく、「あなたは殺すことがあってはならない」「あなたが殺すはずがない」という意味が込められている。ヘブライ語は「ラーツァハ」である。すべての殺人行為を意味するのではない。故意と過失の殺人、偶然に殺してしまうこと、共同体を危うくする殺人、人や社会に対する不満から人を殺すこと等が考えられている。

 

旧約聖書は戦争、聖絶、正当防衛、死刑等の殺人を禁じていない。聖書は絶対平和主義ではない。

 

十戒は、主なる神が神の民イスラエルにシナイ山で授けられたものである(出エジプト記20)。神の民が神との恵みに契約に基づいて、約束の地カナンで長く生きるための戒めである。だから、旧約聖書は十戒がイスラエルの共同体の戒めであり、第六戒は神の民イスラエルに限定している。それゆえに旧約聖書は他国との戦争、約束の地におけるカナン人の聖絶を、主なる神が命じられていると記している。

 

しかし、ジュネーヴ教会信仰問答は、旧約聖書の十戒をユダヤ人の解釈に従って理解していない。新約聖書によって、すなわち、主イエス・キリストを通して十戒の第六戒を解釈する。

 

第六戒は命の尊厳である。命は神の創造であり、創造主の所有である。神は人を神のかたちに創造された、男と女に。神と人、人と人が命の交わりをできる者として創造された。命の主権者は神である。これが第五戒の根源的意味である。

 

主イエスは、山上の説教において第六戒を新たに解釈された。殺人だけではなく、人の心を傷つけることも殺人であると言われた(マタイ5:2126)。ジュネーヴ教会信仰問答は、問197と答で第六戒を、主イエスの御言葉によって解釈する。殺人という外的、肉体的なものだけではない。人の心を傷つけることも殺人であると。主イエスは、人の姿や形だけではなく、心を見られる。人を憎み、彼の心を殺す行為も、第六戒の違反である。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問198と答でさらに詳しく説明する。「隠された殺人」である。人の心は目には見えない。その心を殺すことだから、「隠された殺人」である。これは種類がある。憎しみ、憤りである。私たちの心は人を害そうとする欲望がある。主イエスは第六戒を私たちの心に課せられた。この戒めは、単に神の律法として守るだけではなく、私たちの心が人への憎しみ、憤りから、隣人を害したいと思う欲望から守ろうとしている。

 

心の殺人は共同体を破壊するので、ヨハネの手紙一は315節で次のように警告している。「兄弟を憎む者は皆、人殺しです。すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問199と答において人を、兄弟姉妹を憎まなければ、私たちはこの戒めを守ったことになるかと問うている。答は強い否定で始まる。問197の答と同様である。私たちが心に兄弟姉妹に対する憎しみを、あるいは隣人に対する憤りを抱くことがなければ、それでよいではない。なぜなら、主イエスは、11弟子たちに最後の晩餐において新しい戒めを授けられた。主イエスは11弟子たちに「わたしが愛したように、互いに愛し合いなさい」と命じられた。

 

この愛は、兄弟姉妹に限らず、広く隣人に対しても命じられている。私たちは、兄弟姉妹を愛さなければならない。更に私たちは隣人を愛さなければならない。その愛は、第六戒によって遂行される。隣人の命を尊び、守ることによって。貧しい隣人を援助することによって。私たちが隣人と平和に過ごすことによって。

 

 

第六戒の現代的意味は、人の命の尊厳という視点から世界の平和と地球環境の保全がある。国家権力の乱用による人権の抑圧に対する闘いがある。社会的不正に苦しむ人々を救うという正義がある。飢餓という世界的貧困の問題がある。パワハラ、弱者への暴力、暴力によって人の心が殺されているという問題がある。教会が取り組むべき第六戒の問題は、私たち小さな教会の能力を超えている。

 

ジュネーヴ教会信仰問答52           主の2022615                                                                                                                                       

聖書箇所:出エジプト記第2014(旧約聖書P126) 申命記第518(旧約聖書P289)

     マタイによる福音書第52730(新約聖書P78)

 第二部 律法について

第二九日

200 今や第七戒に進みましょう。

 答 「汝、姦淫するなかれ」。

201 要旨を説明してください。

 答 如何なる意味での淫らなことも、神の前では呪われるということが要旨です。したがって、神の怒りを私たちの上に招くことを望まぬ限り、注意深くこれを慎まなければなりません。

202 それ以外のことは要求されていないのですか。

 答 私たちの語って来た律法制定者がどういう御性質であられるかを常によく考えなければなりません。神は単に行ないの外的様式に関わりたもうのみでなく、むしろ心の情に注意を向けたまいます。

203 では、さらにどういうことが含まれるでしょうか。

 答 私たちの体も心も聖霊の宮でありますから、二つながら貞潔な純潔の状態に保ち、したがって単に外的な破廉恥行為を慎むにとどまらず、心と言葉と振舞いと、要するに体の行ないにおいて慎みを持たねばなりません。つまり、体は一切の放縦から純潔であり、心はすべての情欲から潔く、私たちのどの部分も恥知らずの汚れによって汚されていないことであります。

 

先週は、ジュネーヴ教会信仰問答の第二九聖日の前半、問196199と答を学んだ。すなわち、十戒の第六戒「殺してはならない」という戒めである。この戒めの主旨は命の尊厳である。ジュネーヴ教会信仰問答は、外的、身体的な殺人だけではなく、目に見えない「隠れた殺人」、すなわち、隣人の心を傷つけ、侮蔑することも禁じていると教えている。主イエスは、隣人への憎しみ、憤りも殺人であると言われた(マタイ5:2122)。暴力・言葉によって隣人を抑圧し、心を傷つけること、いじめ、セクハラ、パワハラも殺人である。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問199と答において私たちが隣人を憎まなければ、この第六戒を果たしていることになるかと問い、強く否定して、次のように教えている。私たちは隣人を愛し、隣人の命を尊び、隣人の生活を守り保護しなければならないと。対人間関係だけではなく、対世界との関係でこの戒めは今日の環境の保全、対社会との関係で少数者の人権の擁護を果たすことを教えているのである。

 

今日は、第二九聖日の後半、問200203と答を学ぼう。第七戒の「あなたは姦淫してはならない」という戒めである。「姦淫」は、結婚している女性との性的な関係を持つなという戒めである。夫の妻に対する権利を侵害してはならない。神は人を男と女に創造し、結婚という制度を定め、社会の最小単位としての家族を造られた(創世記1:26、創世記2:182425)。この戒めの主旨は、結婚を維持し、自らを清く保つことである。

 

だから、ジュネーヴ教会信仰問答は、問201と答においてこの戒めの要旨を次のように説明する。「如何なる意味での淫らなことも、神の前では呪われるということが要旨です」と。結婚した女性との淫らな関係だけではなく、すべての淫行に対して神が呪われるのは、神が結婚制度を維持し、守られるためである。

 

それゆえにジュネーヴ教会信仰問答は、私たちが神の呪いを望まぬ限り、私たちはすべての淫行に対して慎まなければならないと教えている。これは、すべての淫行が結婚の障害となり、家庭を破壊するからである。今日、離婚の主な原因は淫行であり、不誠実である。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、第六戒と同様にこの戒めの霊的な側面に注意を促している。問202の答において「私たちの語って来た律法制定者がどういう御性質であられるかを常によく考えなければなりません。」と述べている。この戒めを制定された神は、霊なるお方である。だから、第六戒同様に、この戒めも外的なこと、すなわち、結婚のことや姦淫のことだけではなく、霊的な事柄が問題にされているのである。

 

主イエスは、山上の説教において「わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯しているのである」と言われた(マタイ5:28)。主イエスは淫らな行ないを禁じられるだけではなく、心の純潔を求められている。主イエスは、罪の根源を人の心に見ておられるのである。目は心に結び付き、その心が目に入った女性に対して情欲を抱くならば、人は心で第七戒に違反しているのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問203と答において次のように教えている。キリスト者はキリストによって罪から贖われ、心も体も聖霊の宮とされた。だから、体の純潔だけではなく、心の純潔を守らねばならない。淫行で体を汚すことを禁じられているだけではなく、心を汚すことも禁じられている。

 

口から出る言葉によって自分と隣人の心を汚すこと、すべての思いにおいて自分と隣人の心を汚すことを禁じているのである。ジュネーヴ教会信仰問答は、「心と言葉と振舞いと、要するに体の行ないにおいて慎みを持たねばなりません。つまり、体は一切の放縦から純潔であり、心はすべての情欲から潔く、私たちのどの部分も恥知らずの汚れによって汚されていないことであります」と述べている。

 

今の世において、私たちは体と心の純潔を守らなければなりません。

 

 

 ジュネーヴ教会信仰問答53           主の2022622                                                                                                                                       

聖書箇所:出エジプト記第2015(旧約聖書P126) 申命記第519(旧約聖書P289)

     ヤコブの手紙第11215(新約聖書P421)

第二部 律法について

第三十聖日

204 第ハ戒に行きましょう。

 答 「汝、盗むなかれ」。

205 これは人間の法律によって罰せられるような盗みだけを禁じるのですか。それとももっと広範囲のことを含むのですか。

 答 「盗み」という言葉のもとに、他人の持ち物を得ようとするすべての種類の欺きや企てが含まれます。したがって、ここで私たちは隣り人の所有を暴力によって侵害することも、巧妙な遣り方と詐欺とによって人のものに手を出すことも、その他あらゆる遠回しの手段で人のものを手に入れることが禁じられています。」。

206 悪い行為を手が差し控えれば十分でしょうか。それとも欲望もここでは罪に定められるのですか。

 答 いつもいつもそこに立ち戻って来ることが必要です。すなわち、律法制定者は霊的であられますから、単に外的な盗みを抑制するのみでなく、およそ他の人の損害になるあらゆる計画と熱意を同時に禁止しようとしたもうのです。そして、何より私たちが兄弟の犠牲において自らを富ませようと願うことがないように。欲望そのものを禁じたもうのです。

207 では、この戒めにかなう者となるために何をすべきでしょうか。

 答 各人の所有が保全されるように努めることが必要です。

 

先週は、ジュネーヴ教会信仰問答の第二九聖日の後半、問200203と答を学んだ。すなわち、十戒の第七戒「姦淫してはならない」という戒めである。この戒めの主旨は純潔を守ることである。ジュネーヴ教会信仰問答は、外的、身体的な夫ある妻との不倫を禁じるだけではなく、神が定められた結婚・家庭を清く維持し、自らも清く保つことである。

 

さて、次に行こう。ジュネーヴ教会信仰問答は、第三十聖日、問204207と答で十戒の第八戒を解説する。「盗んではならない(出エジプト記20:15、申命記5:19)である。

 

第六戒の殺人の禁止、第七戒の姦淫の禁止に続き、第八戒は盗みの禁止である。これらは、この世の法律においていつの世にも重い罰則が課された。同様に宗教においても禁止の律法であった。第八戒は、第六戒と第七戒に比べると、何時の世でも日常の些細な出来事に思える。私自身、この戒めで自分が思い起こすのは、親の財布からお金を盗み、お菓子や漫画本を買ったことである。当然親に見つかり、こっぴどく叱られたのである。

 

十戒の第八戒は、他人が所有するものを奪う罪である。神は創造者で、造られたすべてのものの真の所有者である。主なる神は、エジプトから贖われたイスラエルに、約束の地を12部族ごとに嗣業の地として分け与えられた。そして、神の民は神から財産を賜った。田畑、牧畜、果樹の木々等を。家族も神から賜った財産である。

 

さて、今日、旧約聖書学の研究は進み、第八戒についても、次のような学説がある。第八戒は、本来「人をかどわかしてはならない」という戒めであったという説である。神の民を誘拐し、人に奴隷として売ってはならないという禁止命令であった。この戒めは、本来人身売買が禁じられていた。古代から近世まで奴隷制度が存在していました。アメリカの16代大統領リンカーンが奴隷解放したことは有名である。

 

したがってこの戒めは、物を盗むことに限定されない。誘拐もまた第八戒違反である。隣人の所有物を盗み、隣人に対して損害を与えることだけではなく、人を誘惑し、隣人に神が与えられた自由を侵害することも、第八戒違反なのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、第八戒の主旨を、隣人の所有物の保護だけではなく、更に広範囲に理解している。それが問205と答である。人間の法律では、盗みは窃盗である。隣人が所有するものを盗むことである。窃盗罪という罪であり、罰則がある。しかし、ジュネーヴ教会信仰問答は、今日の詐欺罪、地上げ屋のように暴力によって隣人の土地を奪うことも、第八戒違反と言う。オレオレ詐欺のように巧妙な手口で老人からお金をだまし取るのも第八戒違反である。どんな形であろうと、隣人をだまし、所有物を奪うことは第八戒違反である。また、浪費、職務の怠慢等も第八戒違反である。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、第八戒を人の行為の点からのみ見ていない。第六戒と第七戒同様に、この戒めも、神が霊であるという視点から見ている。目に見えない人の欲望である。盗む、詐欺をするという行為の以前に、私たちが兄弟(隣人)の犠牲の上に富もうとする願い、すなわち、私たちのこの欲望も第八戒違反であると。

 

主イエスは、山上の説教において第八戒を取り上げられなかった。しかし、主イエスは神と富について話され、神に仕えるか、富に仕えるかと問いかけられた。そして「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」と言われた(マタイ6:2124)

 

神は霊であり、人の心を、その心から出る悪い欲望を御覧になっている。私たちの行為の前に、私たちが心に欲する悪を、企てを見ておられる。だから、使徒ヤコブは、「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。(ヤコブ1:1415)と言う。

 

第八戒は、第六戒と第七戒と深く結びつき、今日私たちの基本的人権の基礎となっている。生命と結婚と自由である。この人間の自由が第八戒から来ているのである。

 

ブラック企業は、会社員から休息の権利を奪い、第八戒に違反している。所有だけではなく、私たちの権利もまた、奪われてならないのである。

 

 ジュネーヴ教会信仰問答54           主の2022629                                                                                                                                         

聖書箇所:出エジプト記第2016(旧約聖書P126) 申命記第520(旧約聖書P290)

     マタイによる福音書第53337(新約聖書P8)

第二部 律法について

第三十聖日

208 第九戒は何ですか。

答 「汝、その隣りに対し、偽りの証を立つるなかれ」。

209 公的な場で偽証することだけが禁じられているのですか。それとも、総じて隣り人に対立して偽りを言うことが禁じられているのですか。

答 隣人のことを偽って中傷してはならないという全般的な教えが、一種類の教えのもとに含まれるのです。まして私たちの言う悪口やけなす言葉によって人の名声を傷つけたり、所有に何かの損害を与えたりしてはならないのです。

210 しかし、なぜ公的な偽りの誓いが名指しで責められるのですか。 

答 この悪に関して私たちをますます恐れさせるためであります。すなわち、悪口や中傷を言うことに慣れた人は、引いては隣り人の悪評を立てる機会が与えられると、やすやすと偽証するようになるからです。

211 神は私たちに悪口を言うことだけを禁じようとされるのですか。それとも、悪意ある嫌疑を掛けたり、不正・邪悪と判断したりすることも禁じようとされるのですか。

答 前に述べた理由によって、そのどちらもここで罪に定められます。すなわち、人々の前でして悪いことは、神の前では心に思っても悪であります。

212 では、神の欲しておられることは要するに何であるかを説明しなさい。

答 神は私たちが隣り人について悪く思ったり、まして彼らの名声を汚す傾向に陥るのを禁じたまいます。むしろ、真実の許す限り彼らのことを好意的に考え、彼らの名声を傷つけずに守ろうと努める公正さと人間性を備えよと命じておられます。

 

先週は、ジュネーヴ教会信仰問答の第三十聖日の前半、問204207と答を学んだ。すなわち、十戒の第八戒「盗んではならない」という戒めである。この戒めの主旨は、隣人の所有権の尊重である。隣人の自由と人権を侵害しないことも含まれる。

 

さて、ジュネーヴ教会信仰問答は、第三十聖日の後半問208212と答で十戒の第九戒を解説する。「隣人に関して偽証してはならない(出エジプト記20:15、申命記5:19)である。

 

新共同訳聖書、聖書協会共同訳、新改訳聖書2017は、出エジプト記と申命記の訳が同じである。しかし、ヘブライ語聖書では出エジプト記には「シエケル」という言葉が使われ、「嘘をつく、真実でないことを言う」という意味である。申命記には、「シャーウ」という言葉が使われ、「誠意がない、当てにならない、取るに足りない、空虚な」という意味である。

 

十戒の第九戒は、裁判所における証言、職務に就く時の誓約に関係している。裁判所で隣人に関して偽証すること、職務に就く時に誓約することに違反しないことである。

 

古代イスラエルの裁判は、住民参加の裁判だった。警察も検事もいなかった。証人が裁判で重要な役割を担った。死刑判決には三人の証言が必要であった(申命記176節、1915)。そして石打ちの刑に処する時、証言者が最初に石を投げなければならなかった。

 

裁判で証人が偽証した場合、その時任についている祭司と裁判人が調査し、偽証人は罰せられた。同害同罰の規定(出エジプト記21:2325、申命記19:19)によって偽証人は被告と同じ罪で裁かれた(申命記19:1521)

 

この戒めの主旨は、イスラエルの共同体における真実と公正への尊重である。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問209と答で第九戒が裁判所の証言で、偽らなければ良いのか、それとも隣人と敵対し、隣人を中傷することも禁じているのかと問うている。裁判所で隣人に対して偽証するだけではなく、日常生活の全般において隣人に対して対立し、彼を中傷することを禁じている。言葉によって隣人の悪口を言うこと、彼の名誉と名声を傷つけること、偽りの言葉によって隣人の所有に損害を与えることも禁じている。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問210と答で第九戒がどうして公的な偽りの誓いを名指しで非難するのかと問い、答えている。公的な場における証言と宣誓は、主なる神の御名によって証言され、誓約される。偽証に慣れた人は、平気で嘘を言い、宣誓する。彼は主の御名を冒瀆しているだけではなく、悪意によって隣人を傷つけているのである。彼は、主が裁かれる悪人である。

 

主なる神は聖であられ、義であられ、善であられる。主は悪と不義を憎まれる。だから、公の場で偽りを述べるだけではなく、隣人を罪に陥れようと思う心も、神の御前においては悪である。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問212と答においてこの第九戒の主旨を説明するように促し、答えている。人の心の悪意こそ、隣人への敵対心こそ、主なる神が造られた人間社会を、神の共同体を破壊する。

 

人間社会、神の共同体は、信頼によって築かれる。家庭、学校、会社、教会という共同体を破壊するのは、私たちの隣人への悪意であり、嫉妬である。人の心から出る悪意が言葉で隣人の悪口を言い、隣人を偽証によって罪に落とそうとするのである。

 

誓約は、主なる神に負債を負うことである。主の御名によって誓うことで、私たちは主に負債を負う。それは返済不可能な負債である。だから、主イエスは軽々しく誓約するなと命じ、誓約したことは必ず実行せよと勧められる(マタイ5:3337)。しかし、主イエスに返済できない私たちにできることは「はい」か「いいえ」で誓うだけである。それ以上は悪い者から出ていると、主イエスは言われる。

 

使徒ヤコブは、ヤコブ書で舌を制御できる人は一人もいないと書いている。舌は疲れを知らない悪で、家庭の中で、学校の中で、会社の中で、教会の中で悪をまき散らしている。舌は神を賛美し、神の形の人間を呪っている。同じ舌が祝福と呪いを出している。

 

第九戒は、私たちの体の小さな器官である舌を制御するように働きかけて来る。私たちの舌を制御すべきである。隣人への悪意を斥け、十字架の主の故に互いに赦し合おう。

 

ジュネーヴ教会信仰問答55           主の202276                                                                                                                                       

聖書箇所:出エジプト記第2017(旧約聖書P126127) 申命記第521(旧約聖書P290)

     マタイによる福音書第53337(新約聖書P8)

第二部 律法について

第三一聖日

213 最後の戒めを唱えなさい。

答 「汝の隣りの家を貪るなかれ。汝の隣りの妻も、しもべ・しもめも、牛、ろばも、およそ隣人のものを貪るなかれ」。

214 これまでのすべての戒めについてあなたが言ったように、全律法は霊的であって、それらの戒めは単に外的な行ないを抑制するのみでなく、むしろ心の感情を矯正するために課せられたとすれば、ここではそれ以上に何が付け加えられているのですか。

答 主なる神は他の戒めでは、意志および感情を支配または規制しようと欲したまいましたが、ここではさらに、まだ確定的な決意になっていないが、或る欲望を伴っている思いに律法を課したもうのであります。

215 信仰者のうちに忍び込み、その精神の内に起こる最も小さい欲望が、たといそれに同調せず、むしろ抵抗する場合でも、罪であるとあなたは言うのですね。 

答 すべてのよこしまな思い付きは、たといそれに同調しなくても、私たちの本性の悪から発したことは確かです。むしろ私は、人の心情をくすぐったり、そそのかしたりし、しかも未だはっきりと塾考した上での意志に至っていない邪悪な欲望をこの戒めが罪として定める、と言うのです。

216 それでは、人間を心地よく安んじさせ、またそれに順応することを自ら許してしまう悪しき感情がこれまでのところで禁じられたとあなたは理解しますが、今や私たちを罪に駆り立てる如何なるよこしまな欲望も心に入り込むことを許さぬほどの、厳格な完全さが求められていると見るのですね。

答 そうであります。

217 今や全律法の要旨を短く纏めることは出来ませんか。

答 勿論出来ます。これを二つの要点に纏めるのです。第一は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、主なる神を愛すること」、第二は「己の如く隣り人をあいすること」であります。

                        申命記六・五、レビ記一九・一八、マタイ二二・三六―四0

218 神を愛することには、どれだけの内容が含まれていますか。

答 神を愛するとは、神を神に相応しく愛すること、つまり、主であり、父であり、救い主であるとして認めることです。したがって、神への愛には神を敬うことと、彼に帰せられるべき信頼と、彼に服従する意志が結び付きつきます。

219 「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くす」と言うことを、あなたはどう理解していますか。

答 この愛に逆らういかなる思い付きも、如何なる願いも、如何なる努力も、私たちのうちに所を得ないほどの、ひたむきな熱意を言うのであります。

 

先週は、ジュネーヴ教会信仰問答の第三十聖日の後半、問208212と答を学んだ。すなわち、十戒の第九戒は「汝その隣に対し、偽りの証を立つるなかれ」という戒めである。この戒めは、裁判所における証言、職務に就く時の誓約に関係している。裁判所で隣人に関して偽証すること、職務に就く時に誓約することに違反しないことである。この戒めの主旨は、イスラエルの共同体における真実と公正への尊重である。日常生活の全般において隣人に対して対立し、彼を中傷することを禁じている。言葉によって隣人の悪口を言うこと、彼の名誉と名声を傷つけること、偽りの言葉によって隣人の所有に損害を与えることも禁じている。

 

今日は、ジュネーヴ教会信仰問答の第三一聖日の前半、問213216と答を学ぼう。第十戒の第十戒「汝の隣りの家を貪るなかれ。汝の隣りの妻も、しもべ・しもめも、牛、ろばも、およそ隣人のものを貪るなかれ」である。

 

第十戒は、人の心の貪りを禁じている。新共同訳・聖書協会共同訳・新改訳2017は「欲してはならない」と訳している。この訳から分かるように、第十戒は第六-第九戒と質的に異なる。第六-九戒は行為であり、第十戒は心である。第十戒は隣人の財産に対する侵害を禁じるものである。古代のイスラエル共同体にとって妻は夫の所有であった。既婚の女性は家長に属していた。奴隷と家畜も同じであった。

 

ダビデ王は、部下の妻に欲情を抱き、自分のものにしようと、彼女の夫を戦場で殺させた(サムエル記下1112)。主なる神は預言者ナタンを遣わされ、ダビデを叱責された。そしてダビデの家庭に悲劇が起こる原因となった。

 

主イエスは、群衆にルカによる福音書12章で愚かな金持ちの譬えを語られた。その原因は兄弟の遺産争いであった。お金や物を欲する心の貪欲を警戒せよと戒められ、金持ちが長年分の食糧を蓄えて安心すると、その夜に神が彼に現われ、「今夜のうちにお前の命は尽きる」と言われた。彼が蓄えた長年分の食糧は、彼にとって何の益にもならなかった。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、第十戒の特質を良く捉えている。問214と答において十戒のすべては霊的であると述べる。だから、外的なことだけではなく、心における行為も規制する。ところが第十戒は、心においても行為となっていない。明確に心で決意しているわけではない。ただ心でむやみに欲しているのである。貪欲である。これが人の動機となって、盗みの罪、殺人の罪、隣人の財産を侵害する罪が生まれるのである。

 

主イエスが貪欲に警戒するように言われたのは、貪欲は神への信頼を失わせ、自分に信頼を置く偶像礼拝だからである。私たちが信仰から離れる原因は貪欲である。神は摂理によって私たちを養ってくださっている。しかし、私たちは心の中で他人のものを羨み、欲しがり、不満を持ち、神が常に私たちに善きものを与えて下さっていることを忘れるのである。そして、この世はお金がすべてであると信じるのである。

 

だから、ジュネーヴ教会信仰問答は、215と答において第十戒は私たちの心にあるどんな小さな欲望でも、私たちを罪に定めると教える。第十戒は、心の欲望が私たち罪人の本性から出た悪であることを知っているのである。ダビデの罪を、私たちは関係がないと言えないのである。

 

「欲しがる」というヘブライ語は、火、炎に由来する。火のように燃えるのである。ダビデ王が欲した貪欲は、ダビデだけではなく、彼の家庭を燃え上がらせ、王国を炎上させました。

 

舌を制することも難しいが、心に欲する貪欲を抑えることも難しい。制御できなければ、どちらも家庭に、職場に、教会に、そして国に深刻な被害をもたらすのである。

 

 ジュネーヴ教会信仰問答56           主の2022713                                                                                                                                       

聖書箇所:申命記第65(旧約聖書P291) レビ記第1918(旧約聖書P192)

     マタイによる福音書第223440(新約聖書P44)

第二部 律法について

第三一聖日

217 今や全律法の要旨を短く纏めることは出来ませんか。

答 勿論出来ます。これを二つの要点に纏めるのです。第一は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、主なる神を愛すること」、第二は「己の如く隣り人を愛すること」であります。

                        申命記六・五、レビ記一九・一八、マタイ二二・三六―四0

218 神を愛することには、どれだけの内容が含まれていますか。

答 神を愛するとは、神を神に相応しく愛すること、つまり、主であり、父であり、救い主であるとして認めることです。したがって、神への愛には神を敬うことと、彼に帰せられるべき信頼と、彼に服従する意志が結び付きます。

219 「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くす」と言うことを、あなたはどう理解していますか。

答 この愛に逆らういかなる思い付きも、如何なる願いも、如何なる努力も、私たちのうちに所を得ないほどの、ひたむきな熱意を言うのであります。

第三二聖日

220 要点の第二はどういう意味ですか。

答 私たちは生来自分を愛する傾向を持ち、この感情が他のすべての感情に優先します。ですから、隣人に対する愛が私たちのうちを支配し、あらゆる部分に亙って統治し、この愛がすべての考察と行動との規範になるようにしなければならないという意味です。

221 「隣り人」という言葉はあなたにとってどういう意味を持ちますか。

答 単に近親者や友人、あるいは何らかの親しい関係によって私たちと結び合っている人だけでなく、私たちの知らない人、さらにわたしたちに敵意ある人もこれに含まれます。

222 では、彼らと私たちとはどのように結び付いているのですか。

答 まことに、神が一度人類一般を結び合わせたもうた絆によって、彼らは私たちと結ばれています。しかも、これは人間のなす如何なるよこしまによっても廃止出来ない神聖不可侵な絆であります。

223 ですから、あなたの言うことはこうなります。もし、誰かが私たちを憎んだとしても、それはその人だけの問題であって、彼が私たちにとっての隣人である事実は変わらず、私たちも彼をそのようなものとして判断しなければなりません。なぜなら、この結び付きによって私たちの間を確定したもうた神の秩序は、侵されることなく存続するからです。

答 その通りです。

 

先週で、ジュネーヴ教会信仰問答の十戒の個々の戒めの学びは終わりました。今日は第三一聖日の後半、問217から、第三二聖日の前半、問223と答を学ぼう。十戒の要約である。問217219と答は、十戒の第一の要約である。問220223と答は十戒の第二の要約である。

 

十戒(律法の全体)は、二つに要約できる。主なる神を愛することと隣人を自分のように愛することである。要点の第一は、申命記第65節である。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」である。申命記でモーセは神の民に、ひとりの神、主を集中して愛するように勧告している。要点の第二は、レビ記第1918節後半である。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」である。

 

この愛は、私たちの人格全てで愛することである。すなわち、私たちの心、魂、力を尽くして愛することである。「心、魂、力」のこの三つの言葉は、人間のすべて、彼の内的外的生命、思い、意志、願望、心情、精神的肉体的力、そして私たちの所有も含んでいる。

 

主イエスは、神の律法の全体が主なる神を愛することと隣人を愛することに要約できると教えられた(マタイ22:3440)。ジュネーヴ教会信仰問答も問217と答において主イエスに従っている。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問218と答において神を愛することが正しく神を認識することと深く関係することを教えている。神を愛するとは、神を主として、父として、救い主として認識して愛することであると。だから、神を愛するとは、神を崇め(神礼拝)、信頼し、服従する信仰に堅く結びついている。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」を、私たちの人格のすべてをもって主なる神に集中することであると言おうとしている。それ以上のものはないという意味である。主を愛することにおいて、唯一の主なる神のみを心に思うのである。私たちには主なる神以外に信頼する者がない。主は唯一であり、このお方だけが私たちの主であり、助け主である。それをジュネーヴ教会信仰問答は、「ひたむきな熱意」と言っている。主なる神への一途の信仰である

 

隣人愛の基準は「自分を愛するように」である。人は生まれながらに自己愛を持っている。自分を愛することがすべての感情に優先する。だから、自分を愛するように隣人を愛するということが規範となり、共同体の生活が営まれるのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問221と答において私たちにとっての隣人を定義する。隣人は、近親者、神の民イスラエルだけではない。すべての人々が隣人である。敵対する者も隣人である。主イエスは、良きサマリア人への譬えで私たちにとって隣人とは誰であるかを教えられた。ユダヤ人とサマリア人は敵対関係にあった。ところが強盗に襲われ、傷ついた旅人のユダヤ人を助け、介抱したのは、祭司でもレビ人でもなかった。ユダヤ人たちが憎んでいたサマリア人であった。

 

隣人に人種、敵味方の区別はない。神が造られた世界に共に生きる者はすべて隣人である。彼はサマリア人のように、自分を愛するように目の前の強盗に襲われ、傷ついたユダヤ人を助け、介抱する。その理由をジュネーヴ教会信仰問答は、問222と答で次のように述べている。創造主は、人間を神の形に創造し、一つの絆に結び付けたと。だから、人間は、人種、性別、敵味方の区別なく、一つの隣人という絆に結び合わされているのである。これは神聖不可侵の絆である。

 

だから、良きサマリア人は何時の世にも存在する。国境なき医師団として、ユニセフ、国際飢餓機構として、足長がおじさんとして。改革派教会の執事活動は、良きサマリア人としての活動である。自然災害時のボランティア活動、献金支援は、自分を愛するように隣人を愛することである。

 

主イエスとジュネーヴ教会信仰問答が私たちに教える隣人理解に、私たちの視野を広げることが必要である。

 

ジュネーヴ教会信仰問答57           主の2022720                                                                                                                                       

聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙第31013(新約聖書P345346) 

第二部 律法について

第三二聖日

224 律法は神を正しく礼拝する形式を示すものでありますから、その規定に全面的に沿って生活すべきではないでしょうか。

答 本当にそうであります。しかし、すべての人は弱さのもとに労しており、誰一人としてこれをすべての部分に亙って充たすことは出来ないのです。

225 それでは、神はなぜ能力を越えた完全さを私たちから求めたもうのですか。

答 神は、実現の義務がないようなことは何一つ私たちに要求したまいません。むしろ、ここで課せられている事項に生活の仕方を合致させようと務めるならば、たとい、目標、つまり完全に達するに全く遠いとしても、主なる神は私たちに欠けているところを寛大に見て下さいます。

226 あなたはそのことを人類一般に就いて言うのですか。それとも、信仰者についてだけ言うのですか。

答 未だ神の御霊によって生まれ変わっていない人は、律法の最小の一点も行ない始める能力がありません。また、たとい律法のある部分について従順である人があったとしても、だからといって神の前にそれを果たしたと判断してはなりません。すなわち、律法のうちに含まれる全てのことを完全に果たさない人は呪われると宣告されているからです。

 

先週は、ジュネーヴ教会信仰問答の問217223と答を学んだ。十戒(全律法)の要約である。十戒(全律法)は、二つに要約される。第一に神を愛すること、第二に隣人を愛することである。神を愛することは神認識を伴う。神を主、父、救い主として認識し、神を崇め、信頼し、服従する信仰と堅く結びついている。愛する隣人はすべての人々である。人種、身内、敵味方の区別はない。一つの隣人という絆に結び合わされ、この絆は神聖不可侵である。

 

今日は、ジュネーヴ教会信仰問答の第三二聖日の後半、問224226と答を学ぼう。ジュネーヴ教会信仰問答は、問224と答で十戒、すなわち、神の律法が神を正しく礼拝する形式を示すものと定義している。神の律法は私たちに神を愛することを要求するのだから、私たちは心と魂と力で神を愛し、神を主、父、救い主として崇め、信頼し、服従しなければならない。それは、神の十戒に、神の律法の規定に全面的に従って生活するということである。

 

そういう意味で神の律法は、私たちに完全な服従を要求する。ジュネーヴ教会信仰問答は、律法が私たちに完全な服従を要求することを受け入れている。私たちは神の律法の要求を完全に満たさなければならない。

 

しかし、ジュネーヴ教会信仰問答はもう一つの真理を、罪人である人の現実を受け入れている。「すべての人は弱さのもとに労しており、誰一人としてこれをすべての部分に亙って充たすことは出来ないのです」。「すべての人」は人類一般である。キリスト者もキリスト者でない者も罪人であるゆえに、弱さを持っており、誰一人、神の律法を完全に守ることのできる者はいない。

 

使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙で信仰によって生きる人々の祝福と律法の実行に頼る人々の呪いを述べている(ガラテヤ3:10714)。使徒パウロは、「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからです」と言っている。使徒パウロは、人は誰一人、神の律法を完全に守れないことを前提にして、申命記2726節の御言葉を引用しています。「この律法の言葉を守り行わない者は呪われる。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は使徒パウロの主張を全面的に受け入れている。律法の要求を完全に充たせる人は誰もいない。

 

では神は不義なるお方なのかと、ジュネーヴ教会信仰問答は問うのである。これも使徒パウロの論法である。絶対にそんなことはないと、問225と答で述べている。

 

なぜ神は能力を越えた完全さを私たちに求められるのか。この問いにジュネーヴ教会信仰問答は、こう答える。「神は、実現の義務がないようなことは何一つ私たちに要求したまいません」と。

 

このジュネーヴ教会信仰問答の答に、私たちキリスト者の祝福を見る。キリスト者はキリストの十字架の贖いによって罪を赦され、神の子とされた。神の御前に生きるのもとされた。聖霊によって神の律法に生きることのできる者とされた。だから、ジュネーヴ教会信仰問答が言うように「神は、実現の義務がないようなことは何一つ私たちに要求したまいません」。

 

キリスト者は、キリストに服従して生きるのである。生活の中で善き業に生きるのである。キリストが完全であるように、キリスト者も完全を目指して生きるのである。聖霊に寄り頼み、祈りながら、善き業ができるようにと、日々努力するのである。過ちを犯し、不完全であっても、キリストの十字架のゆえに父なる神はすべてを寛大に見て下さるのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、キリスト者の祝福を人類一般に適応しようとしない。問226と答で人類一般とキリスト者との違いをはっきりと述べている。

 

人類一般は聖霊によって新生していません。キリスト者ではない。しかし、一般恩恵によって彼らも善き業をする。完全に律法を守れなくても、貧しい者に施しをする。家族を愛する。法律を守り、国民の義務を果たす。しかし、彼らはキリストに服従し、善き業を行なうのではない。自己愛を満たすためである。だから、ジュネーヴ教会信仰問答は、「律法の最小の一点も行ない始める能力がありません。」と述べている。彼らには、主の御心に適うことは何も出来ない。

 

だから、一日一善したとしても、彼らは神の御前に神が要求する律法を行ったのではない。善き業を自己の生の拠り所にしても、彼らは神の御心に従って生きているのではない。だから、彼らは神の要求する律法を行なうことは出来ない。それゆえに彼らは使徒パウロが言うように神の呪いの下にあるのである。

 

 

キリスト者の不完全が許されるのは、キリストの従順が完全であるからである。キリストの故にキリスト者の全ての業は義とされているのである。神の律法、十戒はキリスト者の生活における目標であり、努力である。

 

ジュネーヴ教会信仰問答58           主の2022727                                                                                                                                       

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二第3411(新約聖書P328) 

第二部 律法について

第三三聖日

227 ちょうど人間に二種類あるように、律法の務めも二重だということがここから確認されねばなりません。

答 本当にそうであります。不信仰な人に対しては、律法は神の前に言い逃れの余地をなくす以外の何の効果も来たらせません。これはパウロが、律法は死と呪いの務めを帯びると語ったところで言おうとしたものであります。ところが信仰者にとって律法は遥かに異なる益を持ちます。

                                ローマ三・一九-二〇、Ⅱコリント三・六、九

228 どういう益ですか。

答 第一に、彼らは自分の行なう業によっては義を獲得し得ないということを律法から学ぶ時、こうしてへりくだりを教えられ、これがキリストのうちに救いを尋ね求める真の準備となります。第二に、律法が彼らの果たし得る以上のことを要求する限り、彼らは駆り立てられて、主なる神から力を祈り求めざるを得なくされ、同時に、彼らに常に負い目を負うことを思い起こさせ、思い上がらせないように致します。第三は、律法はいわば手綱のように彼らを神への恐れに引き止めて置くものであります。

229 それゆえ、この地上で宿り人である間、私たちが律法を決して充たし得ないのに、律法がかくも厳格な完全を私たちから求めて止まぬのは無駄なことではありません。すなわち、私たちが追求すべき目標と私たちが達すべき標的を律法は示し、私たち一人一人が与えられた恵みの計りに応じて、自らの生活を最高の正しさに向けて整え、繰り返しさらに優れた状態へと前進を重ね、たゆみなく努力することを促すからであります。

答 そのように私は思います。

230 律法の中に私たちは一切の義の完全な規範を持つのではないでしょうか。

答 その通りです。神は私たちが律法の規定以外の何かを企てる時、これを無効とし、否しりぞけたまいます。なぜなら、神は服従以外の犠牲を受け入れたまわないからです。

                           Ⅰサムエル一五・二二、エレミヤ七・二一―二二

231 それでは、預言者たち使徒たちもしばしば語っている戒告、規定、勧告は何のためですか。

答 これらは律法の単なる解説に外ならず、私たちを律法から離れさせるよりは、むしろ律法への従順に手を取って導くものであります。

232 しかし、律法は各々の個人的召命については何も規定してはいません。

答 律法は各人に彼の義務を果たせと命じるのですから、個人個人はその立場と生活様式に応じて、何が己れの役割であるかを容易に結論することが出来ます。また、先に言われたように聖書の至るところに個々の戒めの解説が散りばめられていることは明白です。すなわち、主なる神はこの律法のうちに短い言葉で要約したもうたことを、他のところでは更に十分にまた詳細に述べておられるのです。

 

先週は、ジュネーヴ教会信仰問答の問224226と答を学んだ。神の律法は神を正しく礼拝する形式を示すものであるから、人は誰でも律法の要求を全力で守らなければならないが、人は誰も律法を完全に守ることのできる者がいないことを学んだ。しかし、神はできないことを命じられないし、キリスト者の場合、不完全であっても、神の律法を守ろうと努力することを、神は寛大に見て下さることを学んだ。

 

今日は、ジュネーヴ教会信仰問答の第三三聖日、問227232と答を学ぼう。ジュネーヴ教会信仰問答は、問132232と答で神の律法について記している。十戒を解説し、隣人を定義し、神の律法が神を正しく礼拝する形式を示すものと定義し、神の律法に全面的に従って生活するように教えている。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、私たちに神の律法の学びの最後で律法の務めと律法への従順を教えて、神の律法についての章を終えている。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問227と答で人間に二種類、すなわち、信者と未信者がいるように、律法の務めも二重であることを確認する。神の律法の機能は二重である。未信者に対してと信者(キリスト者)に対してである。不信者に対して、律法の機能は彼らの罪を明らかにすることである。彼らの罪を神の御前に言い逃れの余地をなくことである。そして、罪を悔い改めない者に神の怒りと呪いが下るのである。

 

信者に対しては、問228と答で具体的に三つ述べている。キリストの義に覆われたキリスト者に対する律法の機能がもたらす益は次のとおりである。第一にヘリ下りである。自分で律法を守ることは出来ないというヘリ下りが、キリストへの救いの準備となるのである。信仰義認へと導く。第二にキリスト者はキリストによって完全な者を求められる。山上の説教(マタイ57)のようにある意味でキリスト者は完全を求められる。それに近づけるようにキリスト者はヘリ下り、聖霊に寄り頼み、神の恵みを祈り求め、善き業に励み続けるのである。第三にキリスト者にとって神の律法は、手綱の働きをする。キリスト者を主への恐れにつなぎ止めることである。神の律法がなければ、キリスト者は神への恐れを忘れてしまう。

 

このように神の律法は未信者にとっては彼の罪を自覚させ、悔い改めない者への裁きとなる。信者に対してはヘリ下り、主を畏れ、キリストと共に生きる手綱となる。

 

だから、ジュネーヴ教会信仰問答は、問229で神の律法がキリスト者の追求すべき目標となり、キリスト者の生活を最高に調えるものとなり、聖化の道を歩ませるものとなると述べている。

 

キリスト者の地上の生涯は、御国への旅人の生涯である。神の律法、すなわち、聖書は、その羅針盤である。地上に於いてキリスト者の完全聖化はない。使徒パウロが言うように、キリスト者は御国を目指して走り続けるのである。イエス・キリストにあって御国へと召される神の賞与を得ようと走り続けるのである。その時前述のように律法は、キリスト共に歩むキリスト者の手綱となるのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問230と答で神の律法がキリスト者の信仰と生活の唯一の規準、すなわち、キリスト者の規範となると述べている。律法の規定と聖書の規定とは同じことである。律法への従順こそがキリスト者の道である。

 

だから、ジュネーヴ教会信仰問答は、問231と答で預言者たち使徒たちの戒告、規定、勧告に言及する。それらは、キリスト者たちに神の律法を解説しているのではない。律法から話そうとしているのではない。キリスト者たちを神の律法への従順に導こうとしているのである。

 

 

 

ジュネーヴ教会信仰問答59           主の2022810                                                                                                                                       

聖書箇所:マタイによる福音書第6515(新約聖書P910) 

第三部 祈りについて

第三四聖日

233 神礼拝の第二部については、これが服従と従順からなることが十分論じられましたので、今や第三部を取り上げましょう。

答 第三部はあらゆる窮迫に際し、神に避けどころを求めて呼び掛けることであると私たちは申しました。

234 神だけしか呼び求めてはならないのですか。

答 そうなのです。なぜなら、神はそれを御自身の尊厳に対する礼拝に固有なこととして要求されるからです。

235 もし、そういう事情であれば、人に助けを求めることはどうして許されるのでしょうか。

答 次の二つのことの間には大きな違いがあります。すなわち、神を呼び求める時、私たちは他のどこからも良きものを待ち望まず、私たちの一切の支えを神以外のどこにも置かないことを証しします。一方、私たちは許されている限度で、人々からの援助や、私たちを助けるために彼らに能力が与えられることを求めるのです。

236 それでは、あなたの言うのはこういうことですね。人々の助けと保護とに避け所を求めても私たちの信頼を彼らに置くのではないから、神おひとりを呼び求めることと矛盾しないし、私たちが人々に援助を求めるのは、神が慈しみを施すためのいわば器と定めて、善をなす力を彼らに賜わり、彼らの手によって私たちを助けさせ、彼らに託された助けを私たちに求めさせることが御旨であったからに外なりません。

答 そのように私は考えます。また、およそ彼らから私たちが受ける恩義は、神から来たと看做すべきであります。神御自身が、言うならば、彼らの職務を用いてそれらすべてを私たちに賜わるのであります。

237 しかし、彼らが私たちに義務を尽くしてくれるたびに、彼らに感謝しなければならないのではないでしょうか。すなわち、それが自然の公正であり、人道の掟も命じるところであります。

答 全くその通りであり、そうすべきです。まことに、神御自身の惜しみなき寛大の泉から、尽きることのない慈しみが彼らの手を通じて、いわば川となって運ばれ、私たちに至るようにする栄誉を彼らに帰することを神がよしとしたもうたという一つの理由からだけでも、感謝すべきであります。すなわち、この方式によって私たちを彼らに義務を負う者とし、それを私たちに認めさせようと欲したもうたのであります。従って、人々に感謝を表さない者は、神に対する己れの忘恩を表明しているのであります。

238 そこから私たちは、天使やこの世の生から去って行った主の聖なるしもべらを呼び求めて祈ることは、よこしまである、と結論して良いのではありませんか。

答 そのように結論するのが正しいのです。なぜなら、神は聖人らに私たちを助ける役割を課したまわなかったからです。また、天使たちについて申しますならば、神は彼らの働きを私たちの救いのために用いたまいはしても、私たちが彼らに祈ることは欲したまいません。

239 それでは、神によって立てられた秩序によく合致しないことは、すべて神の御意志に逆らうことであるとあなたは言うのですね。

答 そうであります。神から与えられたことに満足しないのは、不信仰の明らかな印であります。次に、神おひとりを呼び求むべきところ、聖人や天使に信を置き、神にのみ置くべき信頼を一部彼らに移すようなことをするならば、私たちは偶像礼拝に陥っているのです。すなわち、神が御自身に全一なるままで要求したもうものを彼らに分与するからであります。

ジュネーヴ教会信仰問答は、信仰、律法、祈り、聖礼典についての四部構成である。問1131と答で信仰について、使徒信条を通して学んだ。問132232と答で律法について、十戒を通して学んだ。今日から問233295と答で祈りについて、主の祈りを通して学ぼう。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問7と答で神を正しく礼拝する仕方について4つあると教えた。神礼拝の第一部が信仰であり、第二部が律法であり、第三部が祈りである。一切の信頼を神に置き、主なる神の御心に服従と従順を示し、何かの窮迫の時、悩める時は常に主なる神の内に救いを祈り求め、一切の善きものを主なる神に祈り求めること、こうして私たちの全生活を挙げて主なる神を礼拝するのが私たちの義務である。

 

今日は、ジュネーヴ教会信仰問答の第三四聖日、問233239と答を学ぼう。ジュネーヴ教会信仰問答は、神礼拝の第三部祈りについて記している。それは、問7と答で予め記したように、私たちがあらゆる窮迫に際し、主なる神に避け所を求めて呼びかける(神礼拝する)ためである。そのことを問233の答で再確認し、祈りについて述べ始めている。神礼拝の第三部、祈りについては「あらゆる窮迫に際し、神に避け所を求めて呼び掛けることである」と。

 

当然問234と答で祈りは神にのみと問答する。三位一体の神のみを信じて信頼し、この神以外に神はなく、この神のみを礼拝し、従順に服従するのである。当然私たちはこの神にのみ助けを祈り求めるべきである。ジュネーヴ教会信仰問答(カルヴァン)にとって神礼拝に固有なことは、信仰、服従、祈りである。キリスト者は主なる神以外のものを神とし、礼拝することは出来ない。祈りは神礼拝であり、わたしたちは主なる神以外に助けを祈り求めることは出来ないのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、私たちにこの原則に生きる私たちに一つの疑問を提示する。問235236と答である。私たちの日常生活では人に助けを求めるという現実がある。どうして人に助けを求めることが許されているのか。問235の答は、それを明快に解決している。

 

わたしたちにとって、助け主は神のみである。人は私たちの助け主にはなれない。だから、礼拝するのは神のみであり、人を礼拝することはない。当然私たちは神にのみ助けと善きものを期待するのである。主なる神は、直接私たちを助け、善きものを与えてくださる。しかし、神は御自身が創造された被造物を通して、私たちを助け、私たちに善きものを与えることがおできになるのである。何より神は人に神が創造された被造物を守り助けるという能力を与えて下さっているのである。神は人に隣人を愛することを命じられた。それは、隣人が窮迫にある時助けることも含まれている。私たちの為す善は、隣人を助けることが神のみ旨であることを証しするのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問237と答で人を助けることは、人の義務であり、彼らが義務を尽くしてくれるたびに、私たちは彼らに感謝すべきであると教える。人の助けに対する感謝は、自然の理であり、神の律法の命じていることである。しかし、その感謝は、人を通して私たちに寛大な慈しみを示される神へのものである。だから、隣人の助けに対して感謝しない者は神に対して感謝しないのである。彼は神の慈しみに対して忘恩者である。

 

 

238239と答でジュネーヴ教会信仰問答は、カトリック教会が主なる神以外に天使や聖人たちに祈り求めていることの誤りを指摘する。主なる神は、私たちに御自身以外のものを礼拝することを欲せられない。窮迫に際し祈り求める御方は、主なる神のみである。神のみを礼拝し、神にのみ祈り求めるという秩序を破る者は、神の御心に反するものである。彼は偶像礼拝者、不信仰者である。

 

ジュネーヴ教会信仰問答60           主の2022817日                                                                                                                                       

聖書箇所:ローマの信徒への手紙第82627(新約聖書P285) 

第三部 祈りについて

第三五聖日

240 今や、祈りの仕方を取り上げましょう。祈るには舌だけで十分ですか。あるいは、祈りは精神と心情をも要求するのですか。

答 舌は必ずしも常に必要ではありません。しかし、理解と感情は真実の祈りに欠かすことは出来ません。

241 今言ったことをどのような論法で証明してくれますか。

答 神は霊であられますから、他の場合についても常に人々から心を求められますが、御自身との交わりである祈りにおいては殊の外それを求めたまいます。それゆえ、御自身を真実をもって呼び求める者に対してでなければ、近くいますことを約束せず、その反対に、作り事として、魂かけて祈るのでない全ての者を呪いまた憎みたもうのです。

                               詩編一四五・一八、イザヤ二九・一三一四

242 ですから、およそ舌先だけで格好をつける祈りは空しいものであり、何もなりません。

答 いいえ、それだけではありません。それは神から甚だしく忌み嫌われるものであります。

243 神は祈りにどのような感情をお求めになりますか。

答 第一は私たちの窮乏と悲惨を感じ取ることです。そして、この思いが私たちの心の内に悲しみと憂いを生じさせます。第二に、神から恵みを得ようとする熾烈な・真剣な願いに燃えることです。この願いが私たちの内に祈る熱意を高めるのであります。

244 この感情は人に生来備わったものですか。それとも、神の恵みによって起こされるのでしょうか。

答 神がここで私たちを助けてくださることが必要です。なぜなら、私たちは次にいうどちらのことにも全く無感動だからです。私たちの内に言い難き呻きを起こさせ、私たちの魂をこの願いに整えて、祈ることを求めさせてくださるのは神のみ霊であります。

245 この教えは、あなたが寝そべって、言うならばあくびをしながら、御霊に駆り立てられるのを待ち、自ら祈るように促さないですむためのものでしょうか。

答 決してそうではありません。むしろ、次のような目的を目指すものであります。すなわち、心冷え、祈るにもの憂く、あるいは祈ろうとする心が備えられていないのを感じる時、信仰者は直ちに神に逃れ、祈るに相応しくする御霊の激しい火を我がうちに燃え上がらせて下さるように請い求めるのであります。

246 しかし、祈願にあたって舌が無用であるとはあなたは理解しませんね。

答 そうなのです。舌はしばしば精神を支え、維持する助けとなり、神からやすやすと心をそらすことがないようにします。さらにまた、舌は他の肢体にまさって神の栄光を誉めたたえるために創造されたのですから、その働きの一切をこの用のために充てるのは相応しいことです。なおまた、熱心が激しく募り、熟慮なしに舌から声が飛び出すようになることも時にはあるのです。

247 もしそうなら、自分にも理解出来ない外国語で祈る者は何の益を得るのでしょう。

答 それは神をからかう以外の何でもありません。それゆえ、この偽善をキリスト者は遠ざけるのです。

                                Ⅰコリント一四

ジュネーヴ教会信仰問答は、問233と答から神礼拝の第三部祈りについて、問答を始める。ジュネーヴ教会信仰問答は、問7と答で神礼拝の第三部祈りについて、次のように定義している。「何かの窮迫に悩ませられる毎に神の内に救いを求め、およそ求めてよい善きものはすべて神に祈り求めること。」。

 

先週は問233239と答で、次のことを学んだ。神礼拝に固有なことは、主なる神のみを礼拝することである(十戒の第一戒)。祈ることも同様である。神は御自身のみに祈ることを要求される。ただし神は人に助けを求めることは許される。なぜなら、神は人を通して私たちを助けて下さるからである。従って、私たちが助けてくれた人に対して感謝することは当然である。感謝しないことは神に対する忘恩の行為である。また、ローマカトリック教会のように聖母マリア、天使、聖人に向かって祈ることは邪であり間違いである。

 

今日は、ジュネーヴ教会信仰問答の第三五聖日、問240247と答を学ぼう。ジュネーヴ教会信仰問答は、祈りの仕方について問答する。ジュネーヴ教会信仰問答が舌について言及するのは、祈りは口ずさむからである。だから、問240と答で、「祈るには舌だけで十分ですか」と問い、「理解と感情は真実の祈りに欠かすことは出来ません」と答えている。「理解と感情」とは、一言で心のことである。真実の祈りにとって大切なのは、心である。私たちは心で理解し、感じたことを祈るのである。祈る言葉を理解し、心を熱くして神に祈るのである。

 

241と答は、問240の答の論証である。神は霊である。それゆえに神は私たちの心を求められる。真実をもって祈る者でなければ、神に近づくことは出来ない。真心を持って祈らない者たちすべを、神は忌み嫌い、呪われる。

 

242と答は主イエスの次の言葉を思い起こさせる。「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は言葉数が多ければ、聴き入れられると思いこんでいる。彼らのまねをしてはならない。(マタイ6:78)。口先だけで、言葉数だけ多く祈る者は、見た目は熱心に祈っているように見えるが、空しい祈りであり、主なる神は真心のない彼を忌み嫌われる。

 

243と答は、神の受け入れられる祈りである。それは、窮乏と悲惨から出た祈りである。使徒パウロは、ローマ信徒への手紙7章で欲する善をなさず、欲せぬ悪をなす自己を顧みて、「何と惨めな人間だろう。だれがわたしを救ってくれるだろうか」と嘆いている。彼は、罪ある現実に自らの窮乏と悲惨を見て、彼の心が悲しみと憂いに満ちている。そこからキリストが救ってくださることを真剣に願っている。そのようにパウロを祈りへと導かれたのは聖霊である(ローマ8:2627)

 

244と答で問答は、自己の窮乏と悲惨を知り、心に悲しみと憂いを持つことは、人に生まれながら備わるものかと問うている。答は否である。生まれながらの私たちは祈ることを知らない。聖霊が私たちの心に何を祈るべきかを執り成して下さる必要がある(ローマ8:26)

 

245と答で問答は、祈りに対して私たちが怠惰であることを戒めている。使徒パウロが言う通り、神は弱い私たちの心をご存じであり、聖霊の執り成しによって、私たちに祈りをお与えくださるのである。だから、私たちは、神に祈る心をお与えくださいと熱心に請い求めるべきである。

 

246と答で問答は、祈りに舌が無用であると、私たちが勘違いすることはないよねと述べている。人間の舌は創造主なる神を褒め称える器官として作られた。だから、舌は祈りに有用である。祈る言葉を口にすることは祈りに相応しいことである。

 

 

247と答で問答はローマカトリック教会が自国語ではなくラテン語で祈ることを非難している。