ジュネーヴ教会信仰問答61           主の2022824                                                                                                                                       

聖書箇所:マタイによる福音書第211822(新約聖書P41) 

第三部 祈りについて

第三六聖日

248 しかし、祈る時、結果についての確信なきままに、行き当たりばったりに言葉を並べるのですか。それとも、主なる神から聞き上げていただけると固く確信するのですか。

答 私たちの祈りが主なる神によって聞き上げられ、またおよそ私たちが請い求めることは私たちの益である限りかなえられるということ、これが祈りの永久の基礎でなければなりません。この理由でパウロは神に対する正しい祈りが発するのは信仰からであると教えるのです。すなわち、神の慈しみについての確かな信頼にやすらわぬかぎり、何人も神を正しく呼び求めることがないからです。

                                            ローマ一〇・一四

249 それでは、躊躇しながら祈る人、祈りによって何の益を得るかについて心定まらぬ人、さらに自分の祈りが神に聞かれているかどうかについて確信のない人はどうなりますか。

答 そういう人たちの祈りは空しく、無益です。何の約束によっても支えられていないからです。私たちは確かな信仰をもって祈り求めよと命じられており、付け加えて、およそ信じて請い求めることは何でも私たちに与えられるであろうとの約束があるからです。

                                       マタイ二一・二二、マルコ一一・二四

250 あと残っているのは、あらゆる点から言って神の御目にかなわない私たちが、それにもかかわらず敢えて御顔の前に立つこの確信は、どこから来るのかという問題です。

答 第一に、私たちは約束を受けており、この約束によって、単純に、己れの価値についての顧慮を捨てて立つべきであります。第二に、私たちは神の子であるからには、神の御霊が私たちを勇気付け、また励まし、あたかも父に対するように神を呼び、神が私たちを親しく受け入れてくださることをごうも疑わないのであります。そして、うじ虫のようなもので、己れの罪の意識に押しひしがれている私たちでありながら、神の栄光の稜威に対し何の恐れもないように、神は私たちに仲保者キリストを差し出し、これによって私たちに御自身に近付く道を開き、恵みを獲得することについて全く不安がないようにされるのであります。

     詩編五〇・一五、九一・一五、一四五・一八-一九、イザヤ三〇・一五、六五・二四、エレミヤ二九・

     一二-一四、ヨエル二・三、五、マタイ九・二、二二その他、Ⅰテモテ二・五、ヘブル四・一六、Ⅰヨハ   

     ネ二・一 

251 あなたは、ただキリストの御名によってしか神を呼び求めてはならないと理解しますか。

答 そのように理解しております。なぜなら、そのことははっきりと御言葉によって命じられており、これに約束が付け加えられているからです。すなわち、キリストの執り成しによって私たちの願い求めることは与えられる、との約束であります。

252 それゆえ、この弁護人に信頼して、神に親しく近付き、またこの御方ひとりを神から与えられ、それを通して祈りが聞き上げられる唯一の御方として持つことは、軽率や傲慢の責めを帰せられるべきではありません。

答 全くその通りであります。すなわち、このようにして祈る人は、いわば彼の口によって祈るように祈るのであります。というのは、その人はキリストの弁護によって己れの祈りが支えられ、また推薦されていることを知っているからであります。

                                     Ⅰコリント一四

前回はジュネーヴ教会信仰問答の問240247と答を学んだ。祈りの仕方について、真心を持って神に祈ることの大切さを学んだ。

また、聖霊が私たちの心に何を祈るべきかを執り成してくださることを学んだ。

 

今回は、ジュネーヴ教会信仰問答が教えているのは、祈りの確信と祈りは主イエス・キリストの御名によって祈らなければならないことである。問248250と答で祈りの確信について、問251252と答で祈りは主イエス・キリストの御名によって祈らなければならないことを教えている。

 

祈る時、確信が必要である。祈りが神に聞かれるという確信である。それなくして、どんなに祈りの言葉を並べても、無意味である。ジュネーヴ教会信仰問答は問248と答で祈りの永久の基礎を教えている。それは、祈りの確信である。神は、私たちの益である限り、祈りを聞き届けてくださるという確信である。その祈りの正しい確信は、使徒パウロによれば、信仰から発している。神を信じていなければ、神に祈り求めることはない(ローマ10:14)。神の慈しみについての確かな信頼が祈りの基礎である。

 

だから、問249と答で問答は、確信のない者の祈りは空しく無益であると言う。確信がないのは、彼の祈りが何の約束にも支えられていないからである。主イエスは、「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」と約束してくださった(マタイ21:22)。祈りの基礎は、この主イエスの固い約束である。また主イエスはこう命じられた。「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる(ヨハネ16:23)。祈りは、主イエスの「わが名によって祈れ」という命令と「祈りならば必ず祈りは聞かれる」との約束によって成り立っている。

 

250と答で問答は、罪人である私たちの祈りの確信がどこから来るのかと問うている。それは神の約束である。主イエスの約束のゆえに、罪人の私について顧慮する必要はないし、私たちは神の子である。子が父を信頼するように、私たちも信頼して「アバ父よ」と祈り求めるべきである。父は、私たちに仲保者主イエス・キリストを差し出してくださった。キリストの十字架によって私たちの罪を赦すだけではなく、私たちと和解され、私たちが父なる神に近づける道を開かれた。キリストの愛から私たちを引き離す者は何もない。仲保者キリストが私たちを父なる神に執り成してくださる。この確信が私たちに祈りが聞かれるとの確信を与える。

 

主イエスは、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう(ヨハネ14:13)と約束された。祈りは、キリストの執り成しによって適うのである。だから、祈りはキリストの御名によって祈る。それ以外の者の名による祈りをすべきではない。カトリック教会の聖母マリアの名によって祈ること、聖人の名によって祈ることは誤りである。

 

 

主イエスは、私たちの弁護人である。だから、主イエスだけを信頼し、主イエスの名によってのみ祈るべきである。私たちが祈るべきお方は主イエス以外にないのである。このお方以外に祈りを聞き届けてくださる方はないのである。なぜなら、弁護人である主イエスに私たちの祈りが支えられ、父なる神に聞き届けられるのである。

 

ジュネーヴ教会信仰問答62           主の2022831                                                                                                                                       

聖書箇所:マタイによる福音書第6515(新約聖書P910) 

第三部 祈りについて

第三七聖日

253 それでは、信仰者の祈りにどういう内容が含まれなければならないかを論じることにしましょう。私たちは心に思い付くままに、何でも神に求めることが許されているのですか。それとも、このことでは確定した規範を守るべきでしょうか。

答 自分自身の願望を大目に見ているならば、祈りの仕方は余りにも倒錯した・肉的なものになると私は判断します。つまり、私たちは祈って良いことかどうかを判定するのに余りに愚かであり、それに、私たちは手綱をもって抑制しなければならない欲望に駆られてとめどなく労するのです。

254 では、どうすることが必要ですか。

答 ただこの一つの道だけが残されています。それは、神が祈りの正しい型を私たちに指示して下さることです。こうして私たちは手を引かれるように御言葉に教えられたままに従えばよいのです。

255 神はどんな定めを私たちに指示したもうたのですか。

答 聖書にはこれに関する教えが至る所で豊富に、また詳細に与えられています。しかし、もっと確かな目標にむけて集中するようにと、神は一つの定式を整え、いわば口授して下さり、如何なることを神に祈るのが正しいか、そして私たちに相応しいかを、短く纏め、また少数の主要項目に整理してくださったのです。 

256 唱えてごらんなさい。

答 私たちの主であるキリストは、どのように祈るべきかを問われた時、答えて言われました。

「あなたがたは祈ろうとする時、次のように祈りなさい。

『天にましますわれらの父よ。願わくは御名を聖ならしめたまえ。御国を来たらしめたまえ。御こころの天になるごとく地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに負い目のある者を我らの赦すごとくわれらの負い目をも赦したまえ。我らを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。国と、力と、栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アァメン』」。

257 ここに含まれる内容をもっと良く理解するために、項目に分けましょう。

答 六つの部分からなっています。初めの三つは私たちの利害を顧慮することなく、固有の目的として唯神の栄光のみを目指します。あとの部分は、私たちの幸福ためを目指すものです。

258 それでは,私たちに何の良きものを齎らさないことについて、神に祈らねばならぬのですか。

答 神御自身は無限の慈しみにしたがって、一切のことを良く整え、御自らの栄光に帰すべき如何なるものも私たちの救いのためにならぬことがないようにしておられます。したがって、御名が聖とされる時、私たちにとっては聖化となることが実現されます。御国が来ることがないとすれば、私たちは決してそれに与れないわけです。ではありますが、祈りにおいては、これらすべての点にわたって、自らの利益を差し置いて唯神の栄光のみを注視しなければなりません。

259 この教えによりますと、はじめの三つの求めは私たちの利益と結び付いているとはいえ、神の御名に栄光あらしめる以外の如何なる目標も目指してはならないことになります。

答 その通りです。そして残りの三つは私たちの状況と救いとにかかわることを祈るように本来定められておりますが、そこにおいても神の栄光のための心遣いを私たちは持たねばなりません。

 

前回はジュネーヴ教会信仰問答の問248252と答を学んだ。祈りの確信についてと祈りは主イエス・キリストの御名によって祈らなければならないことを学んだ。

 

今回は、ジュネーヴ教会信仰問答が教えているのは、祈りの内容である。それは、私たちの心に思い付くままに祈ることではない。私たちの行動に十戒という規範があるように、祈りにも「主の祈り」という規範がある。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は問253と答で「信仰者の祈りにどういう内容が含まれなければならないかを論じることにしましょう」と述べて、祈りが心に思い付くことを何でも神に求めることが許されるか、それとも祈りには定まった規範があり、それを守るべきかと問うている。答は祈りには規範が必要であるということである。なぜなら、私たちは何を祈るのが良き事かを判断できないからである。使徒パウロも、「わたしたちはどう祈るべきかを知りません」と述べている(ローマ8:26)。心に思い付くままに祈るなら、その祈りは自己中心的な祈りとなる。

 

だから、問254と答で問答は、残された一つの道を教えている。それは、神が私たちに祈りの正しい型を指示してくださることである。主イエスは弟子たちに異邦人のような言葉数が多ければ神に聞き入れられるというような祈りをしてはならないと言われた。そして、主イエスは弟子たちに「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい(マタイ6:89)と言われて、主の祈りを教えられた。

 

255256と答で問答は、祈りの手本について述べている。聖書には祈りの手本が豊富にある。例えば詩編である。カルヴァンは、旧約聖書の詩編を祈りと神賛美の手本として、礼拝で詩編歌を歌うことを奨励した。特に主イエスが弟子たちに教えられた主の祈りが重要である。これは何を私たちが祈るべきかを要領良く纏め、神についての祈りと私たちのための祈りを項目ごとに整理している。

 

257と答で問答は、主の祈りの内容を、私たちがよく理解できるように、六つの部分に、項目を分けて、最初の三つの項目は神の栄光のみを目指し、後の三つの項目は私たちの幸福を目指すと述べている。

 

問答は、問258と答で私たちに益を齎さないことを、神に祈るべきかと問うている。問答は神の無限の慈しみによって神は一切のことを整え、神に栄光を帰する如何なるものも私たちの救いに益するようにしてくださっていると述べている。例えば、神の御名が聖とされる時、私たちの聖化が実現するのである。御国が来なければ、私たちは御国に与れません。このように神の栄光を目指す祈りは、結果として私たちに益を齎すのである。神の栄光と私たちの救いは結び付いている。

 

しかし、祈りは私たちの御利益を求めてするのではない。むしろ、神の栄光のために、ただ神の栄光を目指してするのである。

 

問答は、主の祈りの最初の3つで神の栄光を目指し、後の三つで私たちの幸福を目指すと述べたが、問259と答で後半においても神の栄光が目指されていることを忘れてはならないと述べている。

 

 

キリスト者の祈りは、主イエスが教えられた主の祈りという規範が、手本がある。私たちは自由に祈ることを許されているが、それは心の赴くままに祈りの言葉を羅列することではない。主から教えられた祈りをするのである。主の祈りを規範とし、手本として祈るのである。