ジュネーヴ教会信仰問答71           主の20221130                                                                                                                                       

聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙一第51622(新約聖書P379)  

第四部 聖礼典について

第四七聖日

315 聖礼典が私たちの必要にとっての補助手段として神に制定されたことが真実ならば、それを不必要な・無くても済ませられるものと判断する人は、思い上がっている者として罪に定められねばならないのではありませんか。

答 まことにその通りです。したがって、それを用いることを自発的に止めたり、必要なしとしたりする人は、キリストを侮り、その恵みを退け、御霊を消すのであります。

316 しかし、善人も悪人も入り交じって与かる聖礼典から、良心を固くする如何なる確信、如何に確かな平安が捕らえられるのですか。

答 たとい不敬虔な者らが聖礼典において己れに差し出された神の賜物を、いわば無に帰せしめるとしても、それ自体に関する限り聖礼典の力と本性がそれによってなくなるということはありません。

317 それでは、どのような方法で、何時、聖礼典執行の効力が伴うのですか。

答 私たちが聖礼典を信仰をもって受け、それのうちにただキリストと彼の恵みとを求める時であります。 

318 どうしてキリストをこそ求むべきであると、あなたは言うのですか。

答 私はこう理解します。私たちは見える印に固着して、そこから救いを求めてはならず、あるいは、そこに示される恵みの力がそこに結び付けられ・また含められた力があるかのように想像してはなりません。むしろ、この印は私たちが真直にキリストに向かい、彼から救いと確かな祝福とを請い求めるための支えであります。

319 聖礼典を用いるには信仰が要求されるのに、この信仰を固くするため聖礼典が私たちに与えられ、こうして神の約束について私たちをいよいよ固く確信させるとあなたが言うのはどういうことですか。

答 信仰は私たちのうちに一度始まっただけでは十分ではありません。これは継続的に養われ、日に日に成長しなければなりません。それゆえ、信仰を養い、強め、前進させるために、主は聖礼典を制定されたのです。パウロが聖礼典は神の約束を証印する力を持つと説いた時、言わんとしたのはこのことであります。

                                           ローマ四・11

320 しかし、他の所から固くされるのでなければ、神の約束についての揺るがぬ確信を持てないというのは不信仰の証拠ではありませんか。

答 確かに、信仰の弱さを証明するもので、この弱さのもとで神の子たちは労しているのです。しかし、それだから彼らが信仰者でなくなるわけではありません。彼らは信仰を持っていても、それは未だ微かで不完全なのです。すなわち、私たちがこの世の歩みをしている間は私たちの肉に不信仰の残滓が常にまつわり付いていて、生涯の終りまで止むことなく成長し続けない限り、どんな方法でも振るい落とすことができません。ですから、さらに先に向けて常に前進することが必要であります。

                                                

前回は、第四六聖日の問309314と答を学んだ。第四六聖日より聖礼典について学び始めた。聖礼典は、御言葉によって神が御自分を伝達されたことを証印するものである。だから、聖礼典だけでは意味がない。神の御言葉に結び付けられて、意味があることを学んだ。聖礼典は、私たちの信仰の弱さのゆえに与えられた。それは、神の約束を私たちが確信できる証印である。

 

宗教改革は、礼拝改革であり、カトリック教会の迷信から民衆を解放した。宗教改革の形式原理は聖書のみであり、実質原理は信仰義認である。救いに必要なのは聖書と神の御言葉、それを信じる信仰である。聖礼典は補助手段である。救いにとって絶対に必要なものではない。神は私たちが神の約束を確信し、信仰を強める制度として聖礼典を設けられた。

 

しかし、カトリック教会の迷信を否定する余りに、信仰義認を強調する余りに、キリストが定められた聖礼典を軽んじる者たちが現われた。ジュネーヴ教会信仰問答は、その者たちの傲慢さと罪を鋭く指摘する。彼らの罪は聖礼典の制定者キリストを侮り、その恵みを退け、聖霊を否定することである。使徒パウロが「霊“の火を消してはいけません」(Ⅰテサロニケ5:19)と言うのは、聖霊の助け、導きである。聖霊の助けと導きなくして、神の御言葉を理解することも、聖礼典によって神の約束を確かにし、信仰を強めることもできない。だから、キリストは聖霊を否定する者は救われないと言われた(マタイ12:3132)

 

316の「善人も悪人も」とは、敬虔な者も不敬虔な者もという意味である。この世の教会は、主イエスの毒麦の譬えのように敬虔な者だけでなく、不敬虔な者も入り交じっている。そして、信仰告白した者は洗礼式・聖餐式に与かる。ジュネーヴ教会信仰問答は、それによってキリストが制定された聖礼典の本性と効力が変わることはないと言う。与る弱い者の信仰を強める。

 

317と答は、聖礼典の効力がどのような時に発揮されるのかを教えている。聖礼典に必要なのは、信仰である。信仰告白していない者に、聖礼典は意味がない。その者の信仰を強めるものであるからである。信仰があるなら、彼は十字架のキリストを仰ぎ、彼の恵みを熱心に請うだろう。聖霊が聖礼典を通して彼の心を満たされる。

 

318と答は、聖礼典で用いられる物質、すなわち、私たちの目に見える水、パン、ぶどう酒に何か救いがあると思ってはならないと教える。十字架と復活のキリストへの信仰をもって聖礼典に与かるべきである。水にもパンにもぶどう酒にも何の力もない。これらは、しるしにすぎない。洗礼を受け、私たちは復活のキリストと一つに結び合わされる。聖餐式のパンはキリストが十字架で裂かれた体、ぶどう酒はキリストが十字架で流された血、それを記念し、我らの国籍が天にあることを確かめ合うのである。

 

319と答は、聖礼典の継続性である。洗礼は一度限りである。しかし、聖餐式は礼拝ごとに繰り返されるのが理想だろう。神の御言葉によって私たちは礼拝ごとに神の約束に与かる。そして聖餐式を通してそれを確かめることができる。このようにして神の御言葉を聴き続け、聖餐式に与かり続け、私たちは信仰を養われ、強められ、この世から御国へと力強く信仰の道を歩めるのである。

 

320と答は、聖礼典が私たちの信仰の弱さを証明するものであると言う。神の子たちはこの世で労苦している。この世は彼らにとって聖化の道であり、彼らの聖化はこの世では完成しない。不信仰は常に彼らを苦しめる。彼らは生涯信仰から信仰へと成長しなければならない。聖礼典は彼らの信仰の歩みに欠かすことはできないのである。

 

 

信仰者の生涯に完成はない。不完全な信仰で終わる。しかし、それは成長し続ける信仰である。キリストが再臨され、すべての信仰者が復活し、信仰が完成するまで、私たちは教会において聖礼典の執行を継続しなければならない。

 

ジュネーヴ教会信仰問答72           主の2022127                                                                                                                                       

聖書箇所:使徒言行録第23742(新約聖書P216217)  

第四部 聖礼典について

第四八聖日

321 キリスト教会には聖礼典が幾つありますか。

答 ただ二つです。その二つが全信仰者の間で共通に守られるのです。

322 それは何々ですか。

答 洗礼と聖晩餐です。

323 両者の間にどういう類似点と相違点がありますか。

答 洗礼は私たちにとって教会に入るいわば入口のようなものです。私たちはもともと外部の者、無縁の者でありますのに、神の家族のうちに受け入れられ、家の者のうちに数えられるということの証しをそこに持つからです。一方、晩餐は神が私たちの魂を養うことによって御自身を父として私たちに示したもうことを証しします。 

324 この両者の持つ真理を私たちがより明快に知るように、聖礼典の一つ一つを取り上げましょう。先ず、洗礼の表わす意義は何ですか。

答 これには二つの部分があります。すなわち、そこには罪の赦し、次に霊的生まれ変わりが象徴されています。

                                        エフェソ五・二六、ローマ六・四

                                                

前回は、第四七聖日の問315320と答を学んだ。聖礼典は救いにとって絶対に必要なものではない。しかし、聖礼典はキリストが制定されたものであり、軽んじることは許されない。聖礼典を否定する者は、聖礼典の制定者キリストを侮り、その恵みを退け、聖霊の照明能力を失わせる者である。聖礼典の本性と効力は、不敬虔な者によって軽んじられてもなくなることはない。聖礼典が効力を発揮するのは、信仰を持って受け入れられる時である。聖礼典は信仰によってキリスト伝達が現実となるしるしである。信仰者の生涯に聖化の完成はない。不完全な信仰で終わる。だから、私たちは教会において聖礼典の執行を継続しなければならない。

 

今回は、第四八聖日の問321324と答を学ぼう。問321322と答は、聖礼典の数についてである。教会における聖礼典の数は、カトリック教会とプロテスタント教会では異なる。カトリック教会は、7つある。洗礼、堅信、ゆるし、聖餐、叙階、婚姻、癒しである。プロテンスタント教会は、洗礼と聖餐である。プロテスタント教会では洗礼と聖餐の二つを、全信者たちが共通に守っている。

 

ジュネーヴ教会信仰問答が聖礼典の数を問題にするのは、ローマカトリック教会が7つと主張するのに対して、プロテスタント教会はキリストが制定された洗礼と聖餐のみに限定しているからである。洗礼に関しては、マタイによる福音書2819節で主イエスは「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」と命じられている。聖餐に関しては、主イエスが「わたしの記念としてこのように行なえ」と命じられた(Ⅰコリント11:24)

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、問323と答で洗礼と聖餐との類似点と相違点について問うている。類似点は、キリストが制定されたという点である。霊的な制度である。問答は、二つの類似点を神の家族に譬えている。洗礼は神の家族に入る入口であり、聖餐は神の家族を養う食事である。

 

洗礼はキリストの教会への入門である。聖餐は教会の頭である主イエスから与えられる食事である。パンとぶどう酒を与えることによって主イエスは私たちの魂を養われる。

 

洗礼は恵みの契約に入ったことの確認であり、聖餐は恵みの契約の中で養われていることの確認である。

 

ジュネーヴ教会信仰問答は、更にこの二つのものの持つ真理をより明快にするために洗礼と聖餐をそれぞれ取り上げて説明しようとする。先ずは、洗礼の意義である。洗礼の意義は二つある。罪の赦しと霊的な生まれ変わりである。次回から洗礼について、その意義を学ぼう。

 

 ジュネーヴ教会信仰問答73           主の20221214                                                                                                                                       

聖書箇所:ヨハネによる福音書第3115(新約聖書P167)  

第四部 聖礼典について

第四九聖日

325 洗礼の水と、これの表わしている事柄との間にはどういう類似がありますか。

答 罪の赦しは一種の洗いであって、これによって魂はその汚れを洗い落されます。それは水によって体の汚れが洗い潔められるのと異なりません。

326 生まれ変わりについてはどうですか。

答 私たちの生まれながらの本性の死滅が生まれ変わりの初めであり、新しい創造物になることがその終わりでありますから、頭に水が注がれることによって死の印が私たちに示され、一方、私たちが水のなかに沈んだままでなく、ただ一瞬の間いわば葬られたようになるだけで、すぐに立ち上がることの中に新しい命の印が示されます。

327 では、あなたは水が魂の洗いであると考えますか。

答 いいえ決して。そのように考えることはキリストの血から栄誉を奪い取る不正だからです。すなわち、彼が血を流したもうたのは私たちの一切の汚れを潔めて、神の御前に純潔かつ汚点なきものとするためでありました。そして、聖霊がキリストの聖なる血を私たちの良心に注ぐ時、私たちはその潔めの実を捉えるのであります。そのことの証印を私たちはこの聖礼典のうちに持つのであります。

                                           Ⅰヨハネ一・七、Ⅰペトロ一・一九 

328 しかし、水には赦しの象徴以外の何物も帰せられないと言うのですか。

答 私の理解では、それは象徴といっても、実体が伴っているような象徴だということです。神が私たちに与えたもうた約束は一つとして私たちを欺くことがないからです。したがって、罪の赦しと新しい命とが洗礼において私たちに差し出され、私たちによって受け取られることは確かであります。

329 この恵みは全ての人に無差別に満たされるのでしょうか。

答 多くの人はその邪悪によって恵みの道を塞ぐので、彼らにとっては効果は空しいのです。したがって、この実は信仰者にしか及びません。しかし、だからといって聖礼典の本性が減退したのではないのです。

330 生まれ変わりはどこから来ますか。

答 キリストの死ならびにその復活からです。すなわち、キリストの死はそれによって私たちの古き人を十字架に付け、私たちの本性の邪悪をいわば埋葬し、もはや私たちのうちで活動出来なくさせる効力を持ちます。また、私たちを新しい生へと改革し、神の義に服従せざるを得なくさせるのは、復活の齎らす賜物です。

331 これらの恵みが洗礼によって私たちのものとなるのは、如何にしてですか。

答 そこに差し出されている約束を退けて、実りなきものしない限り、私たちはキリストを着、キリストの御霊を与えられるのです。

332 洗礼を正しく用いて益を得るために私たちのなすべきことは何ですか。

答 洗礼の正しい用い方は信仰と悔い改めにあります。言換えれば、第一に、私たちはキリストの血によって全ての汚れを洗い潔められて、神に喜ばれるものとなったのだと心の確固たる確信をもって信ずべきです。第二に、彼の御霊自らが私たちのうちに住みたもうことを体得し、このことを行ないによって他の人に表明するのです。こうして私たちは肉を殺すことと神の義に従順になることを絶えず思いつつ修練を重ねるのであります。 

                                        

 

 前回は、第四八聖日の問321324と答を学んだ。聖礼典の数について、聖礼典の数は二つであり、洗礼と聖晩餐であることを学んだ。そして洗礼と聖晩餐の類似と相違について学んだ。類似はキリストが制定された霊的な制度であり、神の家族に譬えられる点である。相違は、洗礼が神の家族である教会への入口であり、聖晩餐が神の家族の中で養われる食事である。次回の伏線として洗礼の表わす意義について、罪の赦しと霊的生まれ変わりであることについて学んだ。

 

今回は、洗礼の表わす意義について、すなわち、罪の赦しと生まれ変わりについて詳しく学ぼう。洗礼の意義は罪の赦しと霊的再生の二点である。聖礼典は印であり、事柄そのものではない。印は事柄そのものを表わし、際立たせるものである。問325と答で問うているのは、洗礼と水が印であり、それが表している事柄が主イエス・キリストによる罪の赦しと霊的再生である。類似は答にあるように「洗い」である。洗礼は水による洗いである。罪の赦しは一種の洗いである。罪の赦しは魂の汚れを洗い流すことである。水で体の汚れを洗い流すことと異ならない。

 

326と答は、霊的再生、生まれ変わりについてである。霊的再生は新生とも呼ばれる。古き人(自己)に死に、新しき人(自己)に生きることである。使徒パウロは、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(Ⅱコリント5:17)と述べている。私たちキリスト者はキリストに結ばれて、古き自己は十字架に死に、新しき自己がキリストの復活によって生じたのである。洗礼は古き自己の死と新しき自己の再生を表わすのである。

 

327と答は、水で魂の洗いができることを否定する。なぜならキリストの血から栄誉を奪うことになるからである。罪の赦しは水によるのではなく、キリストの十字架の血によってである。彼の流された血によって私たちは魂の汚れを洗い流され、神の御前に汚れなき純潔な者とされたのである。洗礼という聖礼典はそのことの証印にすぎない。

 

328と答は、洗礼は象徴、印だが、単なる象徴、印ではなく、実体を伴った象徴、印であることを教えている。それは、神の約束という実体を伴うのである。だから神の約束として洗礼において罪の赦しと霊的再生が差し出され、私たちは洗礼を通して罪の赦しと霊的再生を受け取るのである。

 

329と答は、洗礼による罪の赦しと霊的再生の恵みは信仰者にも不信仰者にも無差別に与えられるのかという問いである。全的堕落という教理がある。人は皆アダムの原罪の故に生まれながらに腐敗しているという教えである。だから、多くの人はその邪悪さによって罪の赦しと霊的再生の恵みの道を自ら塞いでいるので、その効果は空しいのである。信仰者だけが洗礼によって罪の赦しと霊的再生の実を得ることができる。それは、聖礼典の本来のあるべき姿を減退させたということではない。

 

330と答は、生まれ変わり、すなわち、霊的再生がどこから来るかという問いである。使徒パウロは、「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(ローマ14:79)と述べている。生まれ変わりは、キリストの十字架の死と復活から来ている。キリストの十字架と埋葬によってわたしたちの古き人は死に、キリストの復活によってわたしたちの新しき人が生まれた。主のものとして主に服従し、神の義に服するのである。