マルコによる福音書説教71              2021815

「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏のなくころか、明け方が、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

                       マルコによる福音書第133237

 

説教題:「目を覚ましていなさい」

 

今朝は、マルコによる福音書の第133237節の御言葉を学びましょう。

 

わたしたちは、マルコによる福音書の13章において主イエスが為さった長い黙示文学的説教を学んできました。本日で、終わります。主イエスの黙示文学的説教は、マルコによる福音書の編集です。初代教会において主イエスが12弟子たちに語られた説教を、マルコによる福音書が黙示文学的説教として一つにまとめたのです。

 

そして、紀元70年のエルサレム崩壊の事件に結びつけたのでしょう。主イエスが12弟子たちとエルサレム神殿を出られたとき、一人の弟子がヘロデ大王から70年の年月をかけて大改修されたエルサレム神殿の壮麗さをほめたたえました。すると、主イエスは、神殿もその基礎である大きな石も崩壊すると預言されました。

 

その後に四人の主イエスの弟子たちが密かに主イエスを訪れて、「いつそのようなことが起こるでしょうか。天的なしるしがあるでしょうか。」と尋ねました。それにお答えになられて、主イエスは彼らに135節から37節までの黙示文学的説教をなさいました。

 

主イエスは、彼らに黙示文学的な表現を並べられて、この世の終わりの天的しるしを告げようとされたのではありません。この説教をなさった最初で、主イエスは彼らに「人に惑わされないように気をつけていなさい」と警告されています。

 

主イエスは、四人の弟子たちがこの世に起こる出来事を誤ってこの世の終わりのしるしと考え、慌て騒ぐことを警告されたのです。戦争とその噂、迫害と教会の宣教、そして大きな地震、飢餓、大患難などを見て、偽キリストや偽預言者たちが現れ、キリストが再臨した、この世の終わりのしるしだと言いふらすでしょう。しかし、マルコによる福音書は主イエスの口を通して、それは苦しみの始まりであると言っているのです。

 

キリスト教会は、使徒パウロが多くの弟子たちを励まして、使徒言行録1422節で

言っていますように、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」のです。マルコによる福音書も1320節で「主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない」と記しています。この世におけるキリスト教会とキリスト者たちの患難の期間が長いことを暗示しています。

 

しかし、マルコによる福音書は、主イエスの再臨を、時間の長さで考えていません。「主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである」(マルコ13:20)と記しています。

 

キリストの再臨は、時間の長さではなく、突然に来るのです。主イエスが今朝の32節で「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」と言われていますように、キリストの再臨の日、この世の終わりの日、その時は父なる神の他にだれも知らないのです。父なる神の独り子である主イエスもご存じありません。

 

人間が何か、表計算して、この世の終わりの日を、主イエスの再臨の日を割り出すことはできないのです。だから、この世に偽キリストと偽預言者が現れ、何年にこの世が終わると預言し、キリストが再臨されると預言するのは偽りです。また聖書の中の数字からこの世の終わりとキリストの再臨を割り出そうとすることも、誤りであります。

 

では、マルコによる福音書は、わたしたち読者にどのようにキリストの再臨を、この世の終わりをつげようとしているのでしょうか。

 

マルコによる福音書は、主イエスが132427節でいきなりこの世の終わりの日を、人の子の再臨を告げられたことを記しています。この世の終わりは確実に来るのです。それは、人の子である主イエスが栄光をもって、すべての者たちを裁くお方として再び来られるのです。

 

いちじくの木が春になり、樹液が流れて、枝が柔らかくなり、葉を茂らせ、実をつけて夏の到来を知らせるように、わたしたちがこの世で毎週主の日の礼拝を繰り返し、その出来事を通して、主イエスは御自身がわたしたちに近づかれていることを告げ知らせておられるのです(マルコ13:2831)

 

だから、33節の「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」という主イエスの御言葉は、主日礼拝している12弟子たちに、そしてわたしたちに語られているのです。

 

すでに主日礼拝は、わたしたちにとって終末の出来事なのです。主イエスは、ある意味で聖霊と御言葉を通して、「戸口に近づいて」と約束されたようにわたしたちと共に居てくださるのです。だから、わたしたちは、礼拝で聞く説教を、主の御言葉として聞き、主の晩餐である聖餐式を、主が招かれる天国の前味の食事としていただくのです。

 

しかし、主日礼拝の主人である主イエスは、御自身を「家を後に旅に出る人」に譬えられます。旅に出る家の主人は、「僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておく」のです。

 

主イエスは、弟子たちに、御自身の僕として使徒、教師、長老、執事というキリスト教会の職務を割り当て、信徒たちに礼拝、献金等の奉仕の働きを委ねられています。

門番は、教会の小会です。小会は、常に教会の羊の群れである教会員たちを見守り、教会の中に偽教師、偽キリスト者が入るのを防がなくてはなりません。

 

こうしてこの世において教会とキリスト者は、毎週の礼拝を通して、常に教会の主人である主イエスが何時帰られてもよいように、目を覚ましていなくてはなりません。

 

主イエスは必ず来ると約束されました。そして主日礼拝ごとに戸口に近づいておられます。しかし、実際に何時来られるのかは、わたしたちには分かりません。目を覚ましているべきなのです。

 

34節と35節と37節の「目を覚ましている」という言葉は、油断しないという意味があります。

 

この世においてわたしたちが毎週主日礼拝を続けること、信仰生活を継続することは決して容易ではありません。わたしたちが主イエスの再臨に備えるためには、油断のない注意深さが必要なのです。

 

常にこの世の教会とキリスト者たちは、内と外の敵に気を付けなければなりません。外の敵は、戦争と迫害と飢餓と地震と患難です。内の敵はサタンです。サタンは教会の中に異端と分派を生み出し、分裂させます。サタンはわたしたちにこの世の誘惑に陥れます。これらの敵に対して、わたしたちは常に油断することなく警戒を怠ってはなりません。

 

次回からマルコによる福音書の14章を学びます。キリストの受難物語です。12弟子の一人ユダが主イエスを裏切ります。ペトロが三度主を拒みます。他の弟子たちは主イエスを見捨てて逃げます。

 

マルコによる福音書は、この説教の終わりで主イエスが弟子たちに「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」と警告されたことを記して、次の主イエスの受難物語へ橋渡しをするのです。

 

人は誰でも、心が弱いのです。主イエスを裏切ったユダも、主イエスを拒んだペトロも、そして主イエスを見捨てた他の弟子たちも、心の弱い人間でした。それゆえに恐怖が彼らの心を支配しました。彼らは、わが身の保全に走りました。

 

それゆえマルコによる福音書は、わたしたちすべてのキリスト者たちに次のように警告するのです。どんな時にも主イエスを信じる信仰、主イエスに従う信仰を、この世において教会とキリスト者たちは油断なく備える必要があると。

 

主イエスの再臨を待ち望む希望は、主イエスへの信従、この油断なき信仰の忠実さがあってこそ持続できることを、マルコによる福音書はわたしたちに強く伝えようとしているのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝、マルコによる福音書第133237節の御言葉を学べる機会を得ましたことを感謝します。

 

今朝は、主イエスが「目を覚ましていなさい」と警告なさった御言葉を学ぶことができて、感謝します。

 

わたしたちが、毎週日曜日の主日礼拝で、聖霊と御言葉を通して、戸口に近づかれる主イエスにお会いできることを感謝します。どうか、今朝の学びを通して、わたしたちが主日礼拝を喜びとし、この世の生活で正しく主イエスの再臨を待ち望ませてください。

 

マルコによる福音書がわたしたちに教えるように、この世において教会とキリスト者たちには多くの患難があります。外には迫害があり、戦争、地震、飢餓、患難があります。今コロナウイルスに教会とわたしたちは苦しんでいます。お助け下さい。

 

わたしたちの内にはサタンとの戦いがあります。この世の誘惑に弱いわたしたちの信仰をお守りください。

 

どうか、わたしたちの信仰を強め、再臨の主イエスを待ち望ませてください。

 

主日礼拝で聞く説教、毎月与る聖餐の恵みによって、わたしたちの国籍が天にあり、そこから主イエスがわたしたちを救いに来て下さることを確信させてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

マルコによる福音書説教72              2021829

さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。

 イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。

 イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

                       マルコによる福音書第1419

 

説教題:「埋葬の準備」

 

本日よりマルコによる福音書の第14168節までの主イエスの受難物語を学びましょう。

 

わたしがマルコによる福音書を説教する時、必ず手元に置いている本があります。田川健三著『原始キリスト教史の一断面 福音書文学の成立』(1976年第6刷発行 勁草書房)です。

 

この書物の初版は1968年です。今から53年前に出版されました。わたしが神学生の時、杉山明先生がこの書物をテキストに使われました。それ以来わたしはこの書物を手放すことが出来なくなりました。そして、マルコによる福音書を説教する時、必ずこの書物を読むことにしています。

 

この書物を読みますと、マルコによる福音書が二つの部分から成り立っていることが分かります。113章までの長い福音書の序論と14168節までの受難物語です。

 

その書物にマルコによる福音書の成立について、一つの有力な仮説が紹介されています。

 

それは、こういうものです。マルコによる福音書は、本来113章で完結しており、それにマルコによる福音書の編集者が14168節を付加したと。

 

だから、原本マルコによる福音書があり(紀元50年代)、それに後から、受難物語が付加された(紀元80年代)という説です。

 

112章で、ガリラヤとエルサレムでの主イエスの宣教の歴史を叙述し、13章において主イエスが黙示文学的説教をなさり、人の子の再臨の終末論でもって完結しているのです。神の子主イエス・キリストが人の子として最終的勝利を得るために、再臨されるので、すべての人々は目を覚ましていなさいと、主イエスは警告され、閉じられています。

 

そして、今朝のマルコによる福音書の14章から受難物語が付加された形で叙述されているのです。

 

113章での主イエスの叙述は真に生き生きとしています。主イエスは、常に12弟子たちと共におられますし、多くの群衆と共に居てくださるのです。

 

主イエスの活動が、常に現在形で語られています。それによって主イエスは、復活の主イエスとして、今もわたしたちと共に福音宣教され、共に居てくださるというメッセージを、マルコによる福音書はわたしたちに伝えています。

 

そして主イエスは、ガリラヤからエルサレムへと受難の道を歩まれます。祭司長たちと律法学者たち、そしてヘロデ党の者たちが主イエスに敵対し、殺そうと相談し、実際に実行して、対話によって主イエスを罪に陥れようとしました。

 

マルコによる福音書は、わたしたちに主イエスの受難を物語ることで、主イエスに従う弟子の道が殉教への道であることを教えています。

 

そして、13章において主イエスが12弟子たちに次のように勧められているのです。主イエスは人の子としてすべての敵を裁かれ、勝利される日が来るので、弟子たちは目を覚まして待ち続けるようにと。

 

マルコによる福音書の113章の御言葉を聞いたわたしたちは、主イエスと12弟子たち、そして大勢の群衆たちと共に、この世でキリストの共同体である教会を、歴史の中で作りだすように呼びかけられているのです。

 

ところが14168節の御言葉は、叙述が一変します。マルコによる福音書はキリストの受難と復活という一つの出来事を、事実して物語っています。

 

過去の出来事が教会の伝承として物語られています。

 

今朝の御言葉はひとりの女が主イエスの葬りの用意としてナルドの香油を主イエスに注いだ出来事を記録しています。

 

この女の行為が、福音として異邦人たちに、全世界の人々に記念として宣べ伝えられることを記しています。

 

1412節を御覧ください。「さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。

 

マルコによる福音書が113章と14168節の受難物語を結び付けるために書いているのです。

 

受難物語の歴史的背景です。

 

毎年ユダヤ人たちは、ニサンの月、3月か、4月の14日の午後に傷のない1歳の雄の小羊を神殿で犠牲として屠り、日没後、すなわち、15日にグループごとに個人の家で食しました。これが過越祭です。除酵祭は、15日から21日まで種を入れないパンを食べます。

 

マルコによる福音書は、過越祭と除酵祭の二日前に、祭司長たちと律法学者たちが主イエスの殺害を計画したと記しています。マルコによる福音書は、この記述によって、受難物語を歴史的に記そうとしています。

 

殺害者たちの主イエスを捕縛して殺そうという意図は、彼らが計略を用いて実行されます。それが、2節で「彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。」という、過越祭の間は、民衆たちの暴動が心配なので、実行しない理由になっています。民衆を恐れて、主イエスの殺害計画が実行出来ないのです。

 

 マルコによる福音書のこの記述は、二つの意図があります。第一は、主イエスの受難が罪のない義人の苦難であり、敵対者たちの意図が神に対する冒涜的行為であることを示すことです。第二は、受難物語が彼らの意図ではなく、神の御心であることを強調することです。

 

 39節で、マルコによる福音書が異邦人たちに、全世界に向けて語られる福音として、ひとりの女が主イエスにナルドの香油を注いだ出来事を記しています。

 

 「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。

 イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

 

 ベタニアは、エルサレム近郊の村です。主イエスと12弟子たちは、重い皮膚病のシモンの家に招かれました。そして食事をしました。その時ひとりの女がナルドという植物の根から採取した純粋で高価な香油が入れてある壺を割って、主イエスの頭に注ぎました。

 

 そこいた主イエスの12弟子たちの幾人かが、彼女の行為を、憤慨して、次のように非難しました。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。

 

 「無駄遣いした」は、「破滅、滅亡、消失」という名詞に「する」という動詞が結びついて「無駄遣いした」、「浪費した」と訳しています。基本的な意味は、財産や人の命の喪失です。一つの価値あるもの、あるいは一度失ってしまえば取り返しのつかない財産や命がなくなることです。

 

 12弟子たちの目には、女の行為が無駄遣いに思われたのです。なぜなら「この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができた」からです。

 

 人は、常に経済的効果によって、人の行為を判断し、評価します。弟子たちの判断は、今のわたしたちの判断でもあります。

 

 日本人の「もったない」という精神が世界の人々に評価されています。物を大切にするという精神が20世紀の大量消費時代と社会において一つの美徳となっています。

 

 物を大切にし、使い捨てにしないで、貧しい国々で再利用していただければ、多くの人々の生活を援助することが出来ると。

 

 すばらしい考えです。だから、12弟子たちがひとりの女の行為を非難したことは、わたしたちの目には正しいでしょう。

 

 ところが、主イエスの判断は、異なりました。

 

 主イエスは12弟子たちに言われました。「「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

 

 主イエスは、彼の弟子たちの非難に真っ向から反対されません。彼らの香油を売って、貧しい人々に施すべきであるという主張を認められています。

 

 しかし、主イエスは、弟子たちにこの女の行為を受け入れるように勧められました。主イエスは、弟子たちに「この女にあなたがたは困難を与えるのか」と言われました。

困らせる」は、「苦労」「煩い」という名詞に、「あなたがたは与える」という動詞が結びついて、「困らせる」と訳されています。本来の意味は、努力を要し、打撃を被るような勤労、辛苦です。

 

 女は、自分の行為が人の非難となることを知っていたでしょう。しかし、彼女は主イエスへの愛から彼女ができる最高のことをしたのです。

 

 彼女は、自分の行為に対して弟子たちの正当な非難を擁護出来ませんでした。

 

 だから、主イエスが彼女に代わって、彼女の行為を良い行いとして擁護してくださったのです。

 

 「貧しい人々」は、神の民の嗣業の地を失った人々です。理想的には神の民イスラエルに貧しい者は存在しません。なぜなら、主なる神は神の民イスラエルに嗣業の地を与えられ、親を亡くした孤児たち、夫を亡くしたやもめたち、外国人たちに神の民が施すようにお命じになりました。神の嗣業の土地を持ち、貧しい者たちに施しをし、イスラエルの国に飢えたる者がいない、それが主なる神の恵みでありました。

 

 しかし、罪の世にあって、イスラエルの国も例外ではありません。搾取する者がおり、富める者と貧しい者が存在しました。そして多くの神の民たちが土地を奪われ、貧しい者となりました。

 

 主イエスの弟子たちは、主イエス同様に常に貧しい者と共に生きるのです。主イエスが貧しい者たちにパンを分かつ奇跡をなさり、彼らを養われたように、弟子たちとキリストの教会は常にこの世において貧しい者と共に生き、彼らを助け、施し、彼らの命を支えなければなりません。

 

 しかし、今は、主イエスは受難の道を歩まれています。十字架の死を目指して歩まれています。彼女の行為は、主イエスが死なれて、墓に葬られる準備でありました。

 

 主イエスは、言われています。「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。

 

 主イエスを、計略を用いて捕まえて殺そうとしている祭司長や律法学者たち、主イエスを裏切り、祭司長や律法学者たちに加担しようとしている12弟子の一人ユダ、まるでこの世界を闇が覆う中でひとりの女の行為を通して、受難の主イエスの光が輝いているのです。

 

 女は香油を主イエスに注いで、主イエスへの敬愛の情を現しました。そして主イエスは彼女の行為を通して、御自身の十字架の道を、死への道を歩まれました。

 

 マルコによる福音書にとって、全世界の人々に宣べ伝える福音は、キリストの十字架と復活だけではありません。ひとりの女が主イエスの葬りの用意としてナルドの香油を注いだ行為も、福音として伝えられるのです。

 

 なぜなら、彼女の行為は無駄遣いではなかったからです。失ってしまうと取り返せない命を、受難の主イエスが自ら死に、その体が墓に葬られて、三日目に復活するという出来事を通して、罪に死ぬ世界の人々にキリストの死によって命を得る喜びの出来事が訪れたからです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝、マルコによる福音書第1419節の御言葉を学べる機会を得ましたことを感謝します。

 

ひとりの女が主イエスにナルドの香油を注ぐことによって、主イエスの埋葬の用意をした出来事を学ぶことができて、感謝します。

 

わたしたちが、毎週日曜日の主日礼拝で、献げる献金は世の人々の目には無駄遣いに見えるかもしれません。

 

しかし、わたしたちは、その献金をとおして、十字架の主イエスの救いの恵みを感謝し、主イエスに自らを委ねて生きていることを証しする者です。

 

今朝の学びを通して、わたしたちの思いではなく、主イエスの御心をなすことが出来るようにお導きください。

 

マルコによる福音書がわたしたちに告げ知らせるように、今も世界中でこのひとりの女がした善き行為が福音として伝えられています。

 

わたしたちの命は一度失われると取り戻すことができません。しかし、わたしたちのために十字架で死なれ、墓に葬られた主イエスは死から命へと復活されました。

 

洗礼によって主イエスと一つにされたわたしたちも、死から命に復活された主イエスと共に、永遠の命に復活することを信じます。

 

どうか、わたしたちがこの教会の交わりにおいて永遠の命に生きる喜びで満たしてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

マルコによる福音書説教73              202195

十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長のところへ出かけて行った。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。

 

除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意できた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備しておきなさい。」弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。

一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事している者が、わたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」

                            マルコによる福音書第141021

 

説教題:「ユダの裏切り」

マルコによる福音書は、第14168節までの主イエスの受難と復活を物語っています。それは、初代教会で語り伝えられていた物語を編集したものです。

 

マルコによる福音書は、主イエスの受難の出来事を、過越祭と除酵祭という歴史の出来事の中で物語っています。

 

過越祭と除酵祭は、元々別々の二つの祭です。それがまるで一つの祭のように、マルコによる福音書は記しています。

 

ニサンの月(3月か、4)14日の午後に神殿で小羊が屠られ、その日の夜に、日付が15日に替わります。15日の夜に過越の祭が祝われました。ユダヤの全家庭が小羊の犠牲の肉を、種入れぬパンと苦菜と共に食べました。そして、続く一週間、種入れぬパンを食べました。それが除酵祭です。

 

過越と除酵祭の二日前に(マルコ14:1)、ユダヤの宗教的指導者たち(サンヘドリン、すなわち70人の最高議会のメンバーたち)は、主イエスを逮捕し、殺そうと計画しました。しかし、彼らは祭りの間、群衆たちが騒動を起こすことを恐れて、その計画を実行することを躊躇っていたのです(14:12)

 

ところが、彼らにとって思いがけないチャンスが訪れました。それが今朝の聖書の御言葉であります(14:1011)

 

十二人の一人イスカリオテのユダ」の裏切りという事件です。

 

イスカリオテのユダは「十二人の一人」です。これは、主イエスの特別な12人の弟子たちの一人という意味です。

 

主イエスが直接に召して、弟子に、後の使徒に任命された者たちの一人です。彼らは、主イエスの復活の証人となり、全世界へと福音宣教に携わります。そして、全世界の国民に洗礼を授けて、主イエスの弟子作りをします(マタイ28:1820)

 

主イエスは、彼ら12人の弟子たちを、御自身の代理として、御自身の権能を、悪霊を追い出し、病人を癒す権能を与えられました(マルコ3:1319)

 

これまでマルコによる福音書の113章を学ばれて、お分かりのように、主イエスは常に彼らと共に行動されています。彼らは、主イエスから神の国の奥義を教えられ、主イエスは彼らを特別に弟子訓練されました(マルコ8:2710:45)

 

マルコによる福音書は、「十二人の一人イスカリオテのユダ」の裏切りを、主イエスの受難物語として記しているのです。

 

マルコによる福音書は、イスカリオテのユダの裏切りを記していますが、全くその動機に関心がありません。関心があるのは、二つのことです。第一にユダの裏切りによって、祭司長や律法学者たちが主イエスを捕え殺すという計画を実現したことです。第二に主イエスが12弟子の一人イスカリオテのユダの裏切りをよくご存じであったことです。

 

マルコによる福音書は、ユダヤの宗教的指導者たちがユダの裏切りを大変喜び、彼にお金を与えると約束した事実だけを記しているのです。

 

十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長のところへ出かけて行った。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。(マルコ14:11)

 

ユダは、その時から主イエスを宗教的指導者たちに引き渡す良い機会を狙っていました。「そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。(14:11)

 

マルコによる福音書は、宗教的指導者たちが主イエスを捕えて殺す計画を祭りの間実行するのを躊躇っていたこととユダの裏切りの間に、ある女が主イエスの頭に高価なナルドの香油を注ぎ、主イエスを墓に葬る用意をしたというエピソードを記しています。

 

マルコによる福音書がわたしたちに伝えようとする主イエスの受難の一連の出来事は、マルコによる福音書にとっても、初代教会のキリスト者たちにとっても、人間が計画し、実行した事件ではないということです。

 

父なる神の御意志によるのです。神の御子主イエスの受難物語は。その証拠に、マルコによる福音書は、三度主イエスが御自身の受難の死と復活を預言されたと記しています(マルコ8:31319:3110:3334)

 

また、主イエスは、女が御自身の頭にナルドの香油を注いだことを、御自身の葬りの用意をしたと言われました。女は、知らないで神の御心を行っていたのです。

 

そして、今朝の御言葉において、主イエスは、12人の一人、イスカリオテのユダが御自身を裏切ることを、をよくご存じでした。

 

除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日(14:12)、ニサンの月の14日に、主イエスと12弟子たちは過越の食事の用意をしました。

 

弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。(14:12)

 

主イエスは、12弟子たちと、まるで一つの家族のように、共に過越の食事をされました。

 

主イエスは、その食事の準備をするために、2人の弟子たちをエルサレムの都に遣わされました。二人の弟子たちが食事の場所を見つけるのは、主イエスの指示された御言葉によってです。

 

そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意できた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備しておきなさい。」弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。(マルコ14:1317)

 

過越の食事は、主イエスが主人であり、主イエスが用意されたのです。だから、12弟子たちは、主イエスにどこで過越の食事をするのかと尋ねたのです。そして、主イエスは、その場所をよく知っておられました。

 

だから、主イエスは、二人の弟子たちを食事の用意をさせるために遣わされました。二人は、彼らに命令された主イエスの御言葉によって、その場所を見出すのです。

 

エルサレム市内に彼らが入ると、彼らは主イエスが言われた通りに、水甕を持った男に出会います。そして、彼らは主イエスに命令された通りに、その男の後をつけます。そして、その男がある家に入るのを見て、彼らは主イエスに命じられた通り、その家の主人に主イエスの御言葉を伝えます。すると家の主人は彼らに過越の食事を用意する2階の部屋を見せてくれました。

 

マルコによる福音書は、わたしたちに次のことを伝えています。主イエスの受難のすべての出来事が、神の御心としてなされていることを、二人の弟子たちがこの過越の食事を準備するという出来事を通して。

 

主イエスは、12弟子たちと過越の食事を共にされた時、はっきりと、ユダの裏切りを、弟子たちの前で公にされました。

 

一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事している者が、わたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」(マルコ14:1821)

 

わたしと一緒に食事している者」は、詩編第4110節のダビデ王の賛美を思い起こします。「わたしの信頼していた仲間 わたしのパンを食べる者が 威張ってわたしを足げにします。

 

ダビデ王が心から信頼していた友であり、相談相手であったダビデ王の顧問、アヒトフェルは、ダビデの息子アブサロムが反逆すると、ダビデ王を裏切りました。彼は策謀を巡らせ、ダビデを滅ぼす助言をアブサロムにしたのです。アブサロムが彼の策謀を採用すれば、ダビデは滅ぼされたでしょう。しかし、主なる神は、アブサロムが別の人の提案を受け入れ、アヒトフェルを斥けるようにされました。彼は、失望し、自らの命を断ちました。

 

このように12弟子の一人の驚くべき裏切りも、聖書はダビデ王を裏切ったアヒトフェルを通して、預言しているのです。

 

マルコによる福音書にとって、この世での出来事のすべては、神の御計画の中にあります。神の御心を離れて、ユダが主イエスを裏切ることはあり得ません。

 

しかし、ダビデを裏切り自殺したアヒトフェルが罪を免れることがなかったように、神の御子主イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダの罪も免れることはありません。

 

それが、主イエスの「だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」という呪いの宣言になっているのです。

 

しかし、この主イエスの呪いの宣言は、彼だけではなく、わたしたちにも向けられているのではありませんか。

 

主イエスが裏切り者を呪われる御言葉は、厳しいものです。この世に生まれて来ない方が良かったとは、まさに滅びの言葉です。

 

しかし、主イエスは、「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。」と言われています。ユダの裏切りによっても主イエスは、受難の道を止められません。むしろ、主イエスは、ユダの裏切りをよくご存じで、それでも十字架の道を歩み続けられるのです。

 

マルコによる福音書がわたしたちに伝えたいことは、どんなに厳しい言葉を投げかけられても、わたしたちは十字架の主イエスについて行くべきだということです。

 

わたしたちだって、ユダのように自分の弱さや愚かさによって、十字架の主イエスにつまずくかもしれません。しかし、この主イエス以外に、滅びゆくわたしたちに永遠の命を得させてくださるお方はいないのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝、マルコによる福音書第141021節の御言葉を学べる機会を得ましたことを感謝します。

 

12弟子の一人、イスカリオテのユダの裏切りについて学ぶことができて、感謝します。

 

主イエスは、彼にこの世に生まれて来なかった方が良かったと言われました。本当に厳しいお言葉です。だれが、この主イエスの呪いのお言葉に耐えることが出来るでしょうか。

 

わたしたちは、自らの弱さを、愚かさを嘆き、主イエスの十字架に従うほかありません。

 

主イエスが御自身の復活の命を通して、わたしたちにお与えくださる永遠の命に、すべてを委ねる他ありません。

 

どうか、わたしたちの思いではなく、主イエスの御心に、わたしたちを生かしてください。

 

今から聖餐式の恵みに与ります。手にするパンとぶどう酒から、マルコによる福音書がわたしたちに告げ知らせる主イエスの受難の死を、復活の命を思い起こさせてください。

 

わたしたちの命は罪ゆえに一度はこの世で失われる命です。しかし、この命は失われれば、二度と取り戻すことができません。どうか、わたしたちのために十字架で死なれ、墓に葬られた主イエスが復活し、死から命へと移られたように、わたしたちに復活の希望をお与えください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。