マルコによる福音書説教21              2020329

 

また、イエスは言われた。「ともし火を持ってくるのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められあもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」

 

また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

 

                   マルコによる福音書第42125

 

 

 

 説教題:「ともし火と秤のたとえ」

 

今朝は、マルコによる福音書第42125節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

前回は、マルコによる福音書第41320節の御言葉を学びました。主イエスが種を蒔く人のたとえを説明されたことを学びました。

 

 

 

マルコによる福音書がわたしたちに伝えているのは、次のことでした。主イエスが弟子たちに種蒔きのたとえ話を説明されるという形で、初代教会がこの種を蒔く人のたとえ話を、今主イエスの福音を聞く者の態度について教えるものとして理解したということです。

 

 

 

マルコによる福音書は、初代教会の福音宣教という状況からこの主イエスの種を蒔く人のたとえ話を理解しました。

 

 

 

マルコによる福音書がわたしたちに主イエスのたとえ話を通して伝えていることは、次のことです。初代教会のキリスト者たちがどんなに福音宣教とそれを聞いて理解することに大きな関心を持っていたかということです。

 

 

 

マルコによる福音書は、115節で主イエスがガリラヤ宣教を始められた時、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたことを記しています。

 

 

 

これが主イエスの福音宣教の要約した内容です。

 

 

 

主イエスのガリラヤ宣教によって、神が御計画された終末の救いの時が満ちました。神の国、すなわち、神の支配が到来しました。

 

 

 

そこで重要なことは、主イエスの福音宣教と救いの御業を通して人は神の子イエス・キリストに対する態度決定を迫られているということです。神に立ち帰ることと神の子イエス・キリストを信じることです。

 

 

 

福音宣教は、主イエスのたとえ話のように教えであり、神の子イエス・キリストのことです。

 

 

 

だから、マルコによる福音書はわたしたちに主イエスの御言葉と行為を福音として理解するように常に促しているのです。

 

 

 

さて、マルコによる福音書は、21節で「また、イエスは言われた。」と記して、今朝の主イエスのたとえ話を記しています。主イエスのたとえ話集としてつないでいるのです。

 

 

 

今朝の主イエスのたとえ話は、マルコによる福音書がとても短いものをまとめて記しています。

 

 

 

本来は別々のものであったでしょう。日本語訳聖書では見分けられませんが、21節と22節、そして24節と25節は、それぞれギリシア語のガルという接続詞で結び付けられ、関係するたとえ話になっています。そして、2122節と2425節が「」と「」という類似の言葉で結ばれ、関係するたとえ話になっています。

 

 

 

さらに2122節のたとえ話の重要性を示すために、マルコによる福音書は23節で「聞く耳のある者は聞きなさい。」という主イエスの御言葉を記しています。

 

 

 

そして、マルコによる福音書は24節で「また、彼らに言われた。」という言葉は記して、2425節が2122節と関係するが別のテーマのたとえであることを、わたしたちに示しています。

 

 

 

2122節はともし火のたとえです。ともし火とは、神の国の宣教のことです。

 

 

 

マルコによる福音書によると、主イエスは弟子たちには神の国の秘密を打ち明けられました(マルコ4:11)。神の国の秘密を、あらわにし、公にすることが弟子たちの宣教、すなわち、教会の宣教です。

 

 

 

主イエスの弟子たちは、主イエスから打ち明けられた神の国の秘密を、隠さず公に人々に告げ知らせなければなりません。

 

 

 

弟子たち、すなわち、この世にある教会はともし火を持っているのです。神の御国の福音というこの世を照らすともし火を持っているのです。

 

 

 

ともし火は部屋の中を照らすためにあります。だから、ともし火を升の下や寝台の下に置く人はいません。ともし火を燭台の上に置いて、家の中を照らすでしょう。

 

 

 

主イエスにとって神の国の秘密を聞いた弟子たちは、この世を照らすともし火です。主イエスから打ち明けられた神の国の秘密を、この世の人々に公にし、明らかにしなければなりません。それが福音宣教です。

 

 

 

ともし火は輝くためにこの世に存在しているのです。だから、ともし火であるこの世の教会は神を礼拝し、キリストの福音を世の人々に告げ知らせて、この世に輝くのでなければ、存在価値はありません。

 

 

 

今新型肺炎、コロナウィールスの脅威が世界を混乱させています。教会はその対応に右往左往をしております。

 

 

 

教会の礼拝を中止し、各家庭で礼拝を守るようにしているところもあります。インターネットで世界中がつながる便利な世界ですから、それを用いて各家庭で礼拝を守り、コロナウィールスの感染を防ごうとしています。

 

 

 

それは、ともし火としての教会のこの世における役割を果たすことになるのでしょうか。毎週の礼拝ごとにわたしたちに打ち明けられている神の国の秘密を、世の人々に公に、明るみに出すことになるのでしょうか。

 

 

 

マルコによる福音書にとって教会は、世のともし火です。秘密集団ではありません。宣教の集団です。

 

 

 

日曜日の礼拝を強制することはできません。しかし、主イエスの招きに応えて、この世から教会に集まり、主を礼拝し賛美し、主の御言葉をいただき、主イエスとの交わりを楽しみ、再びこの世に遣わされて、キリストの福音を世の人々に伝えることがわたしたちの務めです。

 

 

 

23節の「聞く耳のある者は聞きなさい。」は、22節の重要性は、神の恵みによって聞くことの出来る者は聞きなさいという意味でしょう。

 

 

 

聞くことができるのは、聖霊がわたしたちの耳をお開きくださるからです。そうでなければ、わたしたちは防衛本能で行動するしかありません。

 

 

 

主イエスの弟子、そして教会は、この世のともし火として福音宣教しなければなりません。そのために何よりも自分自身がキリストの福音をよく聞く者でなければなりません。

 

 

 

だから、主イエスは弟子たちや群衆たちに「何を聞いているかに注意しなさい」と呼びかけられました。

 

 

 

わたしたちは毎週礼拝で説教を聞いています。そして聞いた説教を理解します。これは人の賢さでしょうか。そうではありません。人の賢さの前に、神の恵みが先行するので、わたしたちは今朝語られた説教を理解するのです。

 

 

 

使徒言行録は使徒パウロの福音宣教を記しています。フィリピでパウロが福音宣教すると、聖霊が紫布の商人ルデヤの心を開かれたので、彼女はパウロの語るキリストを理解しました。そして彼女と彼女の家族はキリストを救い主と信じて、洗礼を受けました。

 

 

 

神の国は隠されています。この世の人には秘密にされています。だから、教会はこの世に福音宣教しなければなりません。それによって神の国はあらわにされるからです。

 

 

 

さて、福音宣教は聞く者にとって神の裁きの場です。24節は、神の裁きが背景にあります。裁きは、報い罰する場です。神は聞くわたしたちの理解力に応じて、神の御国の恵みをより豊かにお与えくださいます。しかし、聞くことを怠る者は、神の国について知っているわずかな知識も取り上げられるのです。

 

 

 

毎週の礼拝で神の御言葉を聞ける恵み、そし聞いたことを理解し、神を喜びことができる恵みは、まさに神の国の喜び、神の御支配の中に生かされている喜びです。その者は、信仰とそれに伴う多くの神の恵みをいただくのです。

 

 

 

しかし、聞いていても、聖霊が彼の心を閉ざされていれば、神の御言葉は理解できず、わずかな恵みも取り去られえしまうのです。

 

 

 

だから、御言葉を聞くこと、聞いて理解できることは、神の恵みなのです。聞いてキリストを救い主と信じることは、聖霊による神の恵みの奇跡です。

 

 

 

神の恵みにより聞き、理解する者はますます神の国の豊かな恵みにあずかり、永遠の命を得るでしょう。しかし、聞いて理解することを怠る者は、この世において神が与えられた命と才能と財産すら失うことになるでしょう。

 

 

 

マルコによる福音書がわたしたちに今朝の主イエスのたとえ話を通して伝えたかったことは、次のことです。この世において隠された神の国の約束は、教会が福音宣教する御言葉の中に公にされ、明らかにされており、神の恵みにより神の御言葉を聞いて理解する者に豊かに与えられるということです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第42125節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

 

 

どうか、わたしたちの教会が時が良くても悪くても、福音宣教の務めを果たすことができますようにしてください。

 

 

 

また、神の恵みにより毎週の礼拝説教を聞いて理解できるようにしてください。

 

 

 

どうか常に神の御言葉を語り続けられ、それがよく聞き続けられ、諏訪の地にキリストの教会が力強く成長して行くようにしてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

マルコによる福音書説教22              202045

 

また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すると、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種より小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。

 

イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

 

                    マルコによる福音書第42634

 

 

 

説教題:「神の国は力強く成長している」

 

今朝は、マルコによる福音書第42634節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

前回は、マルコによる福音書第42125節の御言葉を学びました。主イエスのたとえ話集のテーマは、神の国です。主イエスは弟子たちや群衆に神の国についてたとえ話でお話になりました。それは、神の国が人の目に隠されているからです。そして隠されているものは、必ず露わにされます。だから、主イエスはともし火のたとえ話をされたのです。

 

 

 

2122節で主イエスはともし火のたとえ話をされました。ともし火とは、神の国についての福音宣教のことです。それによって主イエスは、すべての人を照らそうとされました。それは、多くの人たちに今は隠されている神の国を露わにし、公に告げ知らせるためでした。

 

 

 

このように主イエスは、このたとえ話を通して弟子たちに、すなわち、この世にある教会に、ともし火を持っている、神の御国の福音というこの世を照らすともし火を、弟子たちと教会は持っていると励まされています。

 

 

 

続いて2425節で主イエスは、弟子たちに彼らがともし火として福音宣教をするために、何よりも彼ら自身がキリストの御言葉をよく聞く者でなければならないとお話になりました。

 

 

 

主イエスはが「何を聞いているかに注意しなさい」とおっしゃっているのは、主イエスの御言葉を注意して、すなわち、集中してよく聞き、それを心に蓄え、そして、人々に福音として伝えて行くように、ということです。

 

 

 

マルコによる福音書は、教会の礼拝おける説教を前提にして、この主イエスのお言葉をわたしたちに伝えているのです。説教を集中してよく聞く、それを心に蓄える。そしてこの世の人々にそれを伝えて行く。それを繰り返す中で、わたしたちはますます真理である主イエス・キリストを知るのです。そして、キリストの救いの御業を理解するのです。それによってわたしたちは、神の愛と恵みを受け取るのです。それが、わたしたちが信仰を持つということです。

 

 

 

それゆえ主イエスは、信仰を持つ者はますます主イエスを知って神の恵みに豊かになり、信仰に関心を寄せようとしない者は、今ある神の恵みすら取り去られると言われたのです。

 

 

 

さて、今朝は、マルコによる福音書の42629節と3032節で主イエスが二つの神の国についてのたとえ話をなさったことを学びましょう。それは、神の国の成長というたとえ話とからし種のたとえ話です。

 

 

 

2629節で主イエスが語られています成長する神の国のたとえ話は、マルコによる福音書のみに記されているたとえ話です。

 

 

 

主イエスは、パレスチナに住むユダヤ人たちの日常生活からたとえ話の材料を得られています。小麦と大麦の種が蒔かれ、それが成長し、収穫の時が来て、刈り入れられるたとえ話です。

 

 

 

ユダヤ人の食生活の主食は、パンです。大麦と小麦がパンを作る材料です。大麦は小麦に比べると質が落ちるので、貧しい人々がパン作りに使います。大麦は、10月か、11月に種を蒔き、翌年の46月に収穫されます。小麦は大麦より少し遅れて、1112月に種がまかれて、57月に収穫されます。

 

 

 

大麦は排水の良い畑に種を蒔きます。ビールの原料です。日本では麦飯として食されます。

 

 

 

農夫は大麦と小麦の種を畑に蒔きます。蒔かれた種は、適切な気候条件の下で、自力で芽を出し、成長して行くのです。人の手を加えなくても、日々の経過とともに種は芽を出し、茎を伸ばし成長して行きます。そして穂をつけ、穂に実りを結びます。その実が熟すると、刈り入れの時が来ます。農夫は鎌を入れて、小麦と大麦の収穫をするのです。

 

 

 

 このたとえ話のポイントは、次の点です。農夫は畑に大麦と小麦の種を蒔くと、後は放っておくということです。これは、農夫が神に大麦と小麦の成長を委ねたということです。だから、農夫は寝起きするだけです。

 

 

 

 「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるか、その人は知らない。(2627)

 

 

 

 神の国の成長は、神の御手の中にあり、人の手から離れた所で起こっているということです。

 

 

 

 だから、主イエスは続いて、こう言われるのです。「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。(28)

 

 

 

 主イエスは、ここで神の国がどのように成長するのか、とその過程をお話になりたいのではありません。大麦と小麦は人の手を加えないでも、神が成長させてくださると、主イエスはお話になるのです。だから、大麦と小麦の蒔かれた種は、おのずと成長し、実を結ぶようになるのです。

 

 

 

主イエスは神の国の到来も同じだと言われているのです。神の御力によりもたらされるのです。神の恵みの御力によって神の国が成長し、世界中から神の民が集められ、そして神の審判の時が来るのです。

 

 

 

 刈り入れと収穫の時とは、終末における神の審判の時です。

 

 

 

だから、主イエスが「実が熟すると、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」と言われるのは、神の国の到来と終末における神の審判が結びつけられているのです。

 

 

 

 わたしたちの今を基準に考えれば、既に神の国は到来しました。主イエスがガリラヤで福音宣教を為された時に始まっています。主イエスは神の国の種を蒔かれました。

 

 

 

しかし、未だ神の国は到来していません。人々の目には隠されています。

 

 

 

主イエスは、12弟子を召されました。群衆にたとえ話を語られました。そして弟子たちにはたとえ話を説明されました。そして後に弟子たちと教会が福音宣教を通して神の国の到来を世の人々にあらわにし、公に告げ知らせました。こうして教会の福音宣教を通して約束された神の国は、終末において実現するのです。その時に信仰を持てる者と持たざる者が最後の神の審判において分かたれるのです。

 

 

 

 だから、主イエスは、わたしたちにこのたとえ話によってわたしたちが信仰を持ち、将来の神の御国の到来に備えるように励まされているのです。

 

 

 

 3032節は、主イエスの有名なからし種のたとえ話です。

 

 

 

昔、四国中会にいました時、教会学校の研修会がありました。アバコの方が講師で来られ、お話になりました。その時にからし種を見せていただきました。本当に小さな種です。息するだけで、どこかに吹き飛んでしまうほど小さな種です。だから、プラスッテクの容器に綿が詰められ、その中に数粒のからし種が入れられていました。

 

 

 

 からし種は非常に小さなものの代名詞になっています。主イエスはからし種のたとえ話をされるだけでなく、弟子たちの信仰を薄いと批判された時、「からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。」と言われています(マタイ17:20)

 

 

 

 からし種は成長しますと、主イエスが話されるように、23メートルの灌木ぐらいに大きくなるそうです。

 

 

 

 主イエスは、「土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さい(31)と言われています。実際にはからし種よりさらに小さな種があるそうです。また、成長し23メートルの灌木のように大きくなるというのは事実ですが、鳥が葉の陰に巣を作るというのは事実ではありません。灌木ぐらいに大きくなったからし種の木に種がつき、それをついばむために鳥が枝にとまるというのが事実に即しているそうです。

 

 

 

 たとえ話なのですから、正確な自然観察を求める必要はありません。むしろこのたとえ話のポイントは次の点です。非常に小さな種が大きな木のように成長するという点です。その大きな木の大枝に鳥が巣を作るというのは、旧約聖書の表現です。主イエスは、土に蒔かれた小さなからし種が葉の陰に鳥が巣を作れるぐらいに大きな木に成長したように、神の国は大きく成長することをお話になっているのです。

 

 

 

 旧約時代の預言者たちは、大国がその民を保護することをたとえるために、「大枝には空のすべての鳥が巣を作り」(エゼキエル書31:6)と述べています。

 

 

 

 マルコによる福音書は、主イエスのからし種のたとえ話を、初代教会の成長に当てはめたのです。小さな群れであった主イエスの弟子たちの共同体が、ペンテコステの日に3000人の人々が加わり、そして、異邦人たちも加わり、大きな木のようになりました。

 

 

 

 からし種の成長のように、今神の国は隠されています。しかし、ユダヤ人だけであった小さな群れに、異邦んたちが加えられ、エルサレムから小アジア、そしてヨーロッパ、アメリカ、アジア、アフリカと、福音宣教は広がり、世界中にキリストの教会は建てられています。そして世界中の人々がキリストの体なる教会で神の民として養われているのです。

 

 

 

 キリスト教会は、上諏訪湖畔教会だけではありません。諏訪地方に幾つかのキリスト教会があり、昨年11月に諏訪湖ハイツに集まり、礼拝を共にしました。100名を越える者たちが集まりました。世界のキリスト教会の神の民が集まれば、どれほどの者たちになるのでしょうか。また、2000年のキリスト教会の歴史の中でどれ程の者たちが神の民として集められたことでしょうか。

 

 

 

 主イエスが独りでガリラヤ宣教を始められて、人の目に見えない神の国は世界中の人々を集めています。

 

 

 

 神の国は力強く成長しているのです。成長は右肩上がりではありません。迫害があり、教会の罪があり、わたしたちキリスト者の罪と弱さがあり、地上の教会は常に危機的な状況にあります。

 

 

 

 だから、開拓伝道され、大きく成長しても、次の時代には消滅している教会があります。福音宣教し、教会の群れに集めても、散らされていく教会もあります。

 

 

 

 今コロナ・ウィールスが世界中に蔓延し、多くの神の民たちが命を失っており、閉鎖されている教会もあります。

 

 

 

 しかし、人の目に隠された天上の教会、神の御国には多くの神の民たちが凱旋しているのです。そして、再臨のキリストがオリーブ山に立たれて、神の御国が到来する絵を御覧になった方があるでしょう。神の国が到来し、既に召された神の民たちは復活し、彼らを迎え入れる大きな神の御国が到来するのです。

 

 

 

 ルカによる福音書では主イエスは、わたしたちに神の国を求めなさいと勧められています。小さな群れよ、恐れるなと励まされています。父なる神がわたしたちに神に国を喜んでお与えくださるからです(ルカ福音書12:31)

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第42634節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

 

 

わたしたちの教会は小さな群れです。成長を願い祈りますが、ますます小さくなっていきます。正直に心が折れそうになります。

 

 

 

しかし、天上の教会である神の国は、人の目には見えませんが、力直成長しています。そこにこの小さな群れも加えていただけることを、主イエスのたとえ話から学び、心から感謝します。

 

 

 

次週はイースターです。伝道集会をします。コロナ・ウィールスで礼拝すること自体が危ぶまれますが、時が良くても悪くても福音宣教をし、人々に神の国をあらわにし、公に告げ知らせることができるようにお導きください。

 

 

 

イースター祝会も縮小しなければなりませんが、共に主イエスが復活されたことを喜び祝わせてください。

 

 

 

今年は、諏訪地方の教会が集まり、共に礼拝することはできないかもしれませんが、コロナ・ウィールスが終息しるならば、どうか共に礼拝し、今朝の主イエスのたとえ話が真実であることを確信させてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

マルコによる福音書説教23              2020419

 

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕して眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

 

                    マルコによる福音書第43541

 

 

 

説教題:「嵐を静める主イエス」

 

今朝は、マルコによる福音書第43541節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

今朝学びますのは主イエスの奇跡物語の一つです。とても有名なお話しです。主イエスはガリラヤ湖で起こった嵐を静めるという奇跡をなさいました。

 

 

 

これまでマルコによる福音書は、わたしたちに主イエスの癒しの奇跡を語って来ました。主イエスが大勢の病人を癒され、悪霊を追い出す奇跡をなさいました。

 

 

 

そして、第4章に入り、主イエスが群衆たちにたとえ話をなさったことを学びました。主イエスは、群衆たちに4つのたとえ話をなさいました。

 

 

 

その時に主イエスは、弟子たちには御自分がどうしてたとえで話すかをお教えになられました。そして、神の奥義、すなわち、神の救いの計画を知ることを許された弟子たちには、主イエスが群衆たちにお話しになられた種蒔きのたとえを詳しく解説されました。

 

 

 

このようにマルコによる福音書は、わたしたちに主イエスがガリラヤでなされた福音宣教を通して、人の目に隠されていた神の御国があらわされたことを具体的に伝えているのです。

 

 

 

神の国は神の御支配のことです。それによって、神はこれまで隠されていた御自身の救いの御計画を実行されるのです。

 

 

 

主イエスがガリラヤで福音宣教され、エルサレムに行かれて、御受難の後に十字架に死なれ、墓から復活されることによって、人の目に隠されていた神の国が明らかにされ、神の救いの御計画が実行されるのです。

 

 

 

しかし、主イエスが語られる福音は、弟子たちや群衆に聞く耳が無ければ、まことに無益なものとなります。だが主イエスは、預言者イザヤの警告の言葉を引用されて、こう言われました。「彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして立ち帰って赦されることがない(マルコ4:12)と。

 

 

 

主イエスの御言葉は、こちらに信仰という主イエスとわたしたちをつなぐ回線がないと、うまくつながらないのです。

 

 

 

だから、主イエスは、わたしたちの今持っている信仰という回線に応じてお話し下さるのです(マルコ4:33)

 

 

 

だから、わたしたちが今説教を聞きまして、それを信仰によって深く理解できる方があれば、よく分からなかったという方もあるでしょう。しかし、大切なことは、聞く者に信仰があれば、誰でも主イエスを神の子主イエス・キリストと信じ受けいれることができるのだと、マルコによる福音書はわたしたちに伝えようとしているのです。

 

 

 

さて、今朝のマルコによる福音書435節から66節まで、マルコによる福音書は、わたしたちに主イエスの4つの奇跡物語と主イエスが故郷のナザレの人々から拒否されたことを物語っています。

 

 

 

マルコによる福音書は、最初の福音書です。それ以前は、初代教会に主イエスの御言葉集や奇跡物語集がありました。マルコによる福音書は、そうした資料集が集められ、今わたしたちが読めるように編集して、書かれました。

 

 

 

主イエスは、神の子イエス・キリストであるというのが、マルコによる福音書がわたしたちに伝えているメッセージです。

 

 

 

今朝は、ガリラヤ湖で起こった嵐を静める奇跡をなさった主イエスがどういう意味で神の子イエス・キリストかを学びましょう。

 

 

 

この奇跡がなされたのは、過去のある日の夕刻でありました。主イエスがガリラヤ湖のほとりで福音宣教し、神の国について群衆たちにたとえ話を終えられると、夕刻になっていました。

 

 

 

そこで主イエスは、弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と、声をかけられました。

 

 

 

その交通手段は舟でした。舟で向こう岸に行こうとされました。

 

 

 

だから、弟子たちは、大勢の群衆たちをその場に残して、主イエスを舟に乗せ、向こう岸に連れて行こうとしました。

 

 

 

舟には何人乗れるのか、わかりません。おそらく乗れる人数は少なかったでしょう。だから、一緒に乗れない弟子たちや群衆たちの中で舟に乗れる者たちは、主イエスと一緒に舟でガリラヤ湖の向こう岸に行こうとしました。

 

 

 

どのぐらい舟を進めたのでしょうか。突然ガリラヤ湖に激しい突風の嵐が起こりました。そしてその突風によって湖にとても大きな波が生じて、まるで巨大な怪物のように舟を襲って来ました。舟の中は、水で溢れて、今にも舟は沈みそうになりました。

 

 

 

主イエスは、舟の後ろの方で、「艫」と記されていますが、これは舟の船尾のことです。舟の後ろの方で主イエスは、湖が大嵐になっているのに、御自身の手を枕にして眠っておられました。

 

 

 

舟の中には漁師であったペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネがいました。ガリラヤ湖の突風の嵐を何度も経験していたはずです。

 

 

 

そんな彼らにもこの大嵐は未経験なものだったのでしょう。大変な恐怖に襲われたことでしょう。

 

 

 

彼らは、慌てて主イエスを起こしました。そして眠っている主イエスをまるで非難するように、「舟の中にいるわたしたち皆がこの大嵐の中で溺れてしまってもよいのですか」と叫びました。

 

 

 

すると、主イエスは起き上がられました。そしてまるで怪物のような風と湖に向かって勝利する者のように、厳しい言葉で戒め、叱るように「黙っていなさい。静まりなさい。」と命令されました。

 

 

 

すると、大きな怪物のような突風と大波の湖がおさまり、穏やかになりました。

 

 

 

実際に主イエスは奇跡をなさったのです。しかし、そのことがマルコによる福音書がわたしたちに伝えたいトップニュースではありません。

 

 

 

この奇跡物語には二つの強調点があります。第一は、海の嵐の中で舟の後ろで眠られている主イエスです。これは、海難の中で人々を救助する奇跡物語です。

 

 

 

聖書の中に旧約聖書のヨナ書と新約聖書の使徒言行録に同じ奇跡物語があります。預言者ヨナが主なる神にアッシリア帝国の首都ニネベに行き、人々に罪を悔いなければ滅ぼされると告げなさいと命令されます。

 

 

 

ヨナは敵国の者たちが救われることを嫌がって、主の命令に背いて、船に乗ってタルシュシュに逃げました。ところが、主は海に大嵐を起こされました。船の中の人々は、だれが神を怒らせたのかと、くじを引きました。ヨナが当たりました。ヨナは人々に主の命令に背いて、タルシュシュに逃げていることを告白し、自分を海に捨てればこの大嵐が止み、人々は助かると言いました。その通りに人々がすると、大嵐は止みました。

 

 

 

もう一つは、使徒言行録の中に使徒パウロがローマ皇帝に上訴して、船でローマ帝国の首都ローマに行くことになりました。季節は冬を迎えるころで、地中海は大嵐になることが、しばしばでした。パウロは船主と船長に船を島の港に着けて、冬を越すように提案しました。しかし、受け入れられませんでした。

 

 

 

そしてパウロが忠告した通りに船は大嵐に遭いました。その時にパウロは、主なる神はパウロをローマに導かれるので、乗組員と乗客は命だけは助かると慰め、船の中で聖餐式を行いました。大嵐は止み、船はマルタ島に着きました。

 

 

 

主イエスのようにヨナとパウロも船の中で眠っておりました。主イエスも彼らも、自身は主なる神に身を預けて平安でありました。

 

 

 

この奇跡物語の舟は、教会です。ノアの箱舟のように、主なる神は教会というこの世に浮かぶ船をお守りくださいます。

 

 

 

教会は、嵐の中の弟子たちのように、今コロナ・ウイルスという災禍の中にあります。そこでこの世の人々と共に右往左往しているのです。

 

 

 

そこで聖書がわたしたちに伝えているメッセージは、こうです。主なる神がわたしたちと共に居てくださる教会は、常に主なる神に守られているということです。

 

 

 

今ここでこの喜びの福音を聞くことが、わたしたちにとって一番の喜びでないでしょうか。

 

 

 

もう一つの重要なことは、この奇跡を通して主イエスは、天地万物を創造された神の子イエス・キリストであるということです。

 

 

 

詩編10467節は、「深淵が衣のように地を覆い 水が山々の上にとどまっていた。あなたの叱咤によって水は逃げ去り」と賛美し、89911節は、「万軍の神、主よ 誰があなたに並びえましょうか。力強い主よ あなたのまことがあなたを囲みます。あなたは荒れ狂う海を治め 高波が起こるとき、これを鎮めます。あなたはラハブを打ち砕いて 刺し貫かれた者のようにし 力ある腕で敵を散らされました。」と賛美しています。

 

 

 

主イエスは創造主ですから、この世界の自然を当然支配されています。それは、普通摂理の御業を通してなされています。

 

 

 

しかし、マルコによる福音書がわたしたちに今朝の主イエスの奇跡物語を通して伝えていることは、主イエスは悪霊を追い出す癒しの奇跡をなさったように、この世界に働く悪霊の大きな力を、御自身の御言葉によって打ち勝たれたのです。

 

 

 

主なる神が世界の創造時に、ラハブとレビヤタンという怪物に打ち勝たれたように、主イエスが大きな突風と湖の波を黙らせ、鎮められたのは、この世に働く大きな悪霊の力を、御自身の御言葉によって打ち勝つためでありました。

 

 

 

今朝の主イエスの奇跡物語を通して、コロナ・ウイルスがわたしたちの敵なのではないことを知ることが大切です。教会の戦いは常に霊的なことです。信仰の戦いは、この世の人々、あるいはこの世の自然ではありません。

 

 

 

マルコによる福音書が常に福音宣教をする教会は、この世に働く悪霊との戦いであることを伝えているのです。

 

 

 

そして、その戦いに教会は勝利するのです。なぜなら、神の子イエス・キリストが常に教会にいてくださるからです。

 

 

 

何よりも主イエスがわたしたちの信仰を守るために、御自身の権威ある御言葉によってコロナ・ウイルスの災禍の中で働く悪霊に勝利してくださいます。

 

 

 

だから、今わたしたちに一番必要なことは、コロナ・ウイルスを恐れることではありません。主イエス・キリストがわたしたちの主なる神として、この上諏訪湖畔教会とわたしたちを、コロナ・ウイルスの災禍の中で神からわたしたちを引き離そうとする悪霊の力から守ってくださるということです。

 

 

 

主イエスの弟子たちとわたしたちが今問題とされているのは、このコロナ・ウイルスの災禍の中で主エスを誰と告白するか、という信仰が問われているということです。

 

 

 

その信仰を持つ教会とキリスト者は、コロナ・ウイルスという災禍が襲い掛かっても、その信仰によって生きて働く神の子イエス・キリストが常に教会を守り、キリスト者を守り、この災禍の災禍の中でも常にこの教会に神の民をお集めくださることを信じることができるでしょう。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第43541節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

 

 

コロナ・ウイルスの災禍の中で、この世も教会も右往左往しています。サタンが大きな力で教会の福音宣教を阻んでいます。

 

 

 

どうか、今朝の御言葉によってわたしたちの霊の目をお開きください。肉の目で見ているものではなく、聖霊のお助けと信仰によって、今も生きて働かれ、教会とわたしたちを救い、この世における悪霊の働きから、霊の命をお守りくださる神の恵みと救いを見させてください。

 

 

 

わたしたちがコロナ・ウイルスに備えることには限界がありますが、どうか今も働いていてくださり、常にわたしたちと共に居てくださる神の子イエス・キリストの救いと守りを信じて、礼拝を続けさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 マルコによる福音書説教24              2020年5月3日

 

一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。イエスを遠くから見ると、走り寄ってふれ伏し、大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。

 

ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。

 

                  マルコによる福音書第5章1-20節

 

 

 

説教題:「主イエスと共に生きることを選択する」

 

今朝は、マルコによる福音書第5章1-20節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

前回に続いて、主イエスの奇跡物語を学びましょう。今朝の主イエスの奇跡物語もとても有名なお話しです。

 

 

 

マルコによる福音書は、わたしたちに435節から66節まで、主イエスがなさった4つの奇跡物語と主イエスが故郷のナザレの人々から拒否されたことを伝えています。

 

 

 

今朝は、二番目の奇跡物語です。まずマルコによる福音書は、奇跡物語の場所を設定しています。

 

 

 

マルコによる福音書は、主イエスがガリラヤ湖の嵐を静められて後に、「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。(5:12)と記しています。

 

 

 

湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方」が、主イエスが奇跡を為された場所です。マルコによる福音書は、20節で「デカポリス地方」と記しています。

 

 

 

デカポリス」は十の町という意味です。「ゲラサ」はその町の一つだったでしょう。

 

 

 

ゲラサ人の地方は、ガリラヤ湖から南南東におよそ50キロ離れた所にありました。

 

 

 

マルコによる福音書の記述に従えば、主イエスと12弟子たちがガリラヤ湖の向こう岸に着き、上陸されると、すぐに主イエスはこの奇跡をなさいました。

 

 

 

ですから、マタイによる福音書は、場所をガダラに書き換えています。この町ですと、湖から10キロ離れた所にありました。

 

 

 

それでも遠い場所と思う者がおり、さらに別の場所を挙げています。

 

 

 

マルコによる福音書が「ゲラサ人の地方」と地名を記すのは、そこにキリスト教会が生まれ、その起源についてのゲラサ人の言い伝えが保存されていたのを、マルコによる福音書が用いたからでしょう。

 

 

 

次にマルコによる福音書は、たくさんの悪霊に取りつかれた人の窮状を記しています。マルコによる福音書は、次のようにその人の悲惨な状態を伝えています。

 

 

 

この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。(5:35)

 

 

 

たくさんの悪霊に取りつかれたこの人は、墓場を住まいとしていました。きっと町の人々から仲間外れにされていたのでしょう。それだけではなく、生きているのに死人同様であったのでしょう。

 

 

 

彼の悲惨さは、だれも彼を助けることができる者がいないということです。彼を、人々は制御し、拘束し、監視することができませんでした。

 

 

 

鎖も足枷も役に立ちません。まさに正気を失い、一日中山や墓場で大きな叫び声をあげて、しかしも彼は石で自分の身を傷つけていたのです。

 

 

 

彼は、自ら主イエスに助けを求めることもできませんでした。主イエスが悲惨な彼を見出されました。そして、「汚れた霊、この人から出て行け(5:8)と言われました。

 

 

 

すると、その人に取りついていた悪霊たちが、次のように主イエスの御前にひれ伏して懇願しました。「イエスを遠くから見ると、走り寄ってふれ伏し、大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」(5:67)

 

 

 

この人は、たくさんの悪霊に取りつかれて、正気を失い、自ら主イエスに助けを求めることもできない非常に悲惨な状態にありました。

 

 

 

だから、遠くから主イエスを見て、助けを懇願したのは、この人ではなく、この人に取りついているたくさんの悪霊たちでした。

 

 

 

悪霊たちは、主イエスが神の聖者であり、いと高き神の子であることを知っていました。だから悪霊たちは、この人を主イエスの御前に跪かせたのです。

 

 

 

これまで悪霊は、何度も主イエスを倒そうと試みましたが、ことごとく失敗しました。主イエスは、神の権威ある御言葉によって悪霊に取りつかれた者たちから悪霊を追い出されました。

 

 

 

悪霊たちは、主イエスの御前に跪くほかありませんでした。そして彼らは、主イエスに懇願しました。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」と。

 

 

 

人を支配する悪霊でさえ、主イエスの神の子イエス・キリストの権威の前には跪いて、自らの助けを懇願する以外にないことを、マルコによる福音書はわたしたちに伝えているのです。

 

 

 

悪霊たちが主イエスに「かまわないでくれ」と懇願するのは、イングリシュバイブルの英訳はこうなります。「あなたはわたしと共に何を欲するか」と。

 

 

 

悪霊たちが主イエスと関わることは、彼らにとって滅び以外の何ものでもありません。

 

 

 

だから、今朝の奇跡物語で悪霊たちは、主イエスに二千匹の豚の中に入ることを願って許され、豚たちは崖からガリラヤ湖になだれ込み溺れ死にしました。

 

 

 

主イエスは、助けを乞う悪霊たちに名を尋ねられました。悪霊たちの力を、主イエスが御支配し、この人から彼らを追い出すためです。

 

 

 

そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。(5:910)

 

 

 

悪霊たちは、主イエスに抵抗できませんでした。彼らは、「レギオン」、「大勢だから」ということを、主イエスに打ち明けてしまいました。

 

 

 

レギオンは、ローマの軍隊の用語です。ローマの軍隊は普通六千人から編成されていました。ここでは大勢という意味です。

 

 

 

自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った」のは、悪霊たちが住み慣れたこの人から出て行きたくなかったから、主イエスに懇願しているのです。

 

 

 

神の光が射さない暗黒の異邦人たちの地に悪霊たちは住み続けたいと願っているのです。神の光が射し、そこに主イエスがおられ、彼らが主イエスと関わることは、彼らの滅びであるからです。

 

 

 

悪霊たちは、主イエスに豚の大群の中に入ることを懇願し、次のような結末となりました。

 

 

 

ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。(5:1113)

 

 

 

豚は汚れた動物です。その中に悪霊たちが入りたいと願ったことは、マルコによる福音書には自然のことでありました。そして、彼らが豚の中に入るや、二千匹の豚の大群は崖から湖になだれ込み、溺れ死にました。

 

 

 

この主イエスの奇跡に対してマルコによる福音書は二通りの反応を記しています。第一は町の人々です。第二はたくさんの悪霊たちに取りつかれていた人です。

 

 

 

マルコによる福音書は、ゲラサの人々の反応を次のように記しています。「豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。(5:1417)

 

 

 

豚飼いたちは逃げ出しました。そして、主イエスの奇跡の出来事を町や村の人々に告げ知らせました。

 

 

 

人々は、豚飼いたちの言葉を聞いて、何が起きたのかと、好奇心にかられてやって来ました。そこに主イエスと彼らが知っている悪霊たちにとりつかれた人がいました。狂人であった彼は身なりを整え、正気に戻り、主イエスの御前に座っていました。きっと彼は、熱心に主イエスの教えに耳を傾けていたのではないでしょうか。彼らが恐れたのは、彼らが助けられなかった人を主イエスが助けられたからです。主イエスに大きな御力を感じたのです。

 

 

 

しかし、集まりました人々は、その場にいて主イエスの奇跡を目撃した者たちから、この人と豚のことを聞くと、主イエスのこの地方から出て行ってくださいとお願いしたのです。

 

 

 

この奇跡によって主イエスは神の子イエス・キリストの偉大な御力をお示しになりました。しかし、ゲラサ人たちの反応は、主イエスをこの地方から排除することでした。

 

 

 

どんなに偉大な奇跡でも、ゲラサの人々の心を変えることは出来ませんでした。

 

 

 

ところが、たくさんの悪霊に取りつかれていた人は、町の人々とは異なる反応をしました。

 

 

 

イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。(5:1820)

 

 

 

主イエスに救われた人は、舟に乗り込まれる主イエスを見て、一緒に行きたいと懇願しました。

 

 

 

ところが、主イエスはお許しになりませんでした。主イエスは、彼に「あなたの故郷に帰りなさい。そしてあなたの家族に、主があなたを憐れまれ、あなたになさったことを伝えなさい」と命じられました。

 

 

 

主イエスは彼に自分の故郷であるデカポリス地方に留まって、福音宣教をしなさいと命じられました。彼は、主イエスの命令に従い、自分の家族に主イエスの憐れみと主イエスが彼にしてくださった奇跡を伝えました。

 

 

 

更に彼は、デカポリス地方全体の人々に主イエスの憐れみと彼がなされた奇跡を伝えました。

 

 

 

こうして、後にデカポリス地方にキリスト教会が建て上げられたでしょう。そしてその教会は、悪霊たちに取りつかれた人を主イエスが救われた奇跡を熱心に人々に伝え、そしてそれを主イエスの為された奇跡物語として保存したでしょう。

 

 

 

それをマルコによる福音書は用いて、今朝の奇跡物語を書いたのです。

 

 

 

主イエスは彼に福音宣教を命令されました。彼は主イエスの御言葉に従いました。それによって彼は主イエスと共に生きることを選択しました。彼は主イエスの弟子として生きることを選択しました。こうしてデカポリス地方にキリスト教会が生まれました。

 

 

 

異教の地、悪霊が支配する地に、神の子イエス・キリストが悪霊たちを追い出す奇跡をなさいました。主イエスは、救われた者にこの地に留まり、「わたしがあなたのためにした福音を伝えなさい」と命令されます。こうして主イエスの命令に従い、救われた者が福音宣教し、主イエスの弟子となり、次々とこの世にキリスト教会を生み出していきました。

 

 

 

主イエスの弟子たる者は、この人のように主イエスと共に生きることを選択し、主イエスの福音を人々に知らせながら、主イエスの弟子として生きるのです。

 

 

 

その者たちの集まりがキリスト教会なのです。だから、わたしたちの上諏訪湖畔教会は、常に神の子イエス・キリストのために、主イエスの福音をこの世の人々に告げ知らせ、主イエスの弟子として生きるためにあるのです。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第5120節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

 

 

コロナ・ウイルスの災禍の中で、今教会も右往左往しています。その背後にサタンが大きな力で教会の福音宣教を阻み、人々を闇の中に閉じ込めようとしているのを感じております。

 

 

 

どうか、ゲラサ人の地方でたくさんの悪霊に取りつかれた人を、憐れみによって救われた主イエスよ、どうか今朝の御言葉によってわたしたちの霊の目をお開きくださり、わたしたちを支配しようとする悪霊の力から、わたしたちを解放してください。

 

 

 

聖霊のお助けと信仰によって、今も生きて働かれ、教会とわたしたちを救い、この世における悪霊の働きからお守りくださる主イエスの憐れみと救いを見させてください。

 

 

 

わたしたちがコロナ・ウイルスの災禍の中でも礼拝を守り、この諏訪の地に福音宣教をすることを通して、わたしたちが主イエスと共に生きる生を選択し、主イエスの弟子として生きることを選択させてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 マルコによる福音書説教25              2020年5月10

 

イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。

 

大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。

 

さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

 

イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすに及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子どもの両親と三人の弟子たちだけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

 

                  マルコによる福音書第5章21-43

 

 

 

説教題:「病と死から人を救う神の子」

 

今朝は、マルコによる福音書第521-43節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

前回は、主イエスがガリラヤ湖の向こう岸のゲラサ人の地方に行かれて、多くの悪霊たちに取りつかれた人を癒された奇跡物語を学びました。

 

 

 

主イエスが訪れられると、主イエスは墓場に住み、多くの悪霊たちに取りつかれた人を御覧になり、悪霊たちにその人から出て行けとお命じになりました。

 

 

 

悪霊たちは、主イエスを恐れ、ひれ伏し、滅ぼさないでくれと懇願しました。そして、悪霊たちは主イエスに自分たちがレギオンという名であることを明かしました。

 

 

 

近くで豚飼いたちが二千匹の豚を飼っていました。悪霊たちは主イエスに「豚の中に入らせてほしい」と懇願しました。こうして悪霊たちが豚の中に入ると、大群の豚たちがガリラヤ湖になだれ込み、次々と溺れ死んでしまいました。

 

 

 

それを目撃した豚飼いたちは逃げ出し、ゲラサ人の地方の人々に触れ回りました。そして、主イエスが奇跡をなさった現場には、救われた人が身なりを整え、正気になり、主イエスの御前に座っていました。

 

 

 

そこにゲラサ人の地方の人々が集まり、現場にいた目撃者からすべてを聞いて、主イエスに「この地からすぐに出て行ってほしい」と懇願しました。

 

 

 

主イエスが舟に乗られると、多くの悪霊たちに取りつかれていた人が、主イエスに「御一緒させてください」と言いました。すると、主イエスは、彼に「あなたの故郷に留まり、あなたの身内や人々に神の憐れみとあなたにしてくださったことを告げ知らせなさい」とお命じになりました。

 

 

 

そこでその人は、家族だけでなく、デカポリス地方全体の人々に神の憐れみとどのように主イエスが彼を救われたかを告げ知らせました。こうしてデカポリス地方にキリスト教会が生まれ、この教会は、主イエスの奇跡物語を宣教し保存しました。それをマルコによる福音書はわたしたちにその材料に用いて、この奇跡物語を伝えているのです。

 

 

 

さて、今朝は、マルコによる福音書が二つの奇跡物語を、神の子イエス・キリストへの信仰に結びつけて、書いています。

 

 

 

二つの奇跡物語とは、主イエスが死んだ少女を復活させる奇跡と12年間子宮の出血で苦しんでいた女性を癒す奇跡物語です。

 

マルコによる福音書は、これらの奇跡物語の場所を設定しています。

 

 

 

マルコによる福音書は、ゲラサ人の地方から再びユダヤ人たちの地に戻られた主イエスについて、こう記しています。「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。(5:21)

 

 

 

主イエスが再びユダヤ人たちの地であるガリラヤ湖湖畔に戻られると、大勢の群衆たちが集まり、主イエスに押し迫りました。

 

 

 

そこに一人の人が訪れました。マルコによる福音書は、その人を紹介し、次のようにその人が主イエスに危篤状態にある娘を助けてほしいと懇願し、主イエスが彼に答えられたことを記しています。

 

 

 

会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。(5:2224)

 

 

 

その人の名はヤイロで、彼はユダヤ人たちの礼拝の場である会堂の長をしていました。地方の名士であり、身分の高い人でした。

 

 

 

彼は、主イエスがガリラヤで多くの病人を奇跡によって癒されていることを聞いていました。彼は、主イエスの御前にひれ伏して、危篤状態にある娘に手を置て助けてくれるように懇願しました。

 

 

 

そこで主イエスは、ヤイロの願いを受け入れて、彼の家に一緒に行かれました。

 

 

 

マルコによる福音書は、24節後半に「大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。」と記しています。ますます主イエスに従う群衆たちが増えて行く様子を、マルコによる福音書は群衆たちが自分たちの身体でもってついて行く姿を生き生きと表現しています。

 

 

 

きっと大勢の人々が密集し、混乱した状態だったでしょう。それが一人の女性が主イエスに近づき、自分の病を癒していただける機会となりました。

 

 

 

さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(5:2534)

 

 

 

2526節でマルコによる福音書は、その女性を紹介しています。

 

 

 

危篤状態の少女を助けるために主イエスは、会堂長のヤイロの家に向かわれています。大勢の群衆が主イエスについて行きます。その中に12年間長血を患った女性が紛れ込みました。

 

 

 

彼女もまた、会堂長ヤイロと同じように、主イエスが病人たちを癒される奇跡を聞きました。それは、彼女に福音となりました。なぜなら、彼女は女性の病気に12年間苦しんでいたのです。おそらく彼女の子宮から血が出血して止まらないという病気です。

 

 

 

12年間医者通いし、全財産を使い果たしました。しかし、結果は悪なる一方でした。医者が悪いわけではありません。彼女の病は、危篤状態の少女と同様で、人の力では治せない難病でした。

 

 

 

それだけでありません。彼女はその出血のために宗教的に汚れた者と、祭司に判断され、神殿に入ることも人と交わることも許されませんでした。

 

 

 

彼女も危篤状態の少女の父ヤイロと同じように絶望状況にありました。

 

 

 

そして、神の子イエス・キリストが絶望状況という闇の中にいる二人に、光となりました。このお方が自分を救ってくださるという信仰を通してです。

 

 

 

これが今朝のマルコによる福音書の二つの奇跡物語の主題であります。

 

 

 

さて、長血を患う女性から、彼女の信仰が彼女の病と彼女の人生を救ったことを学びましょう。

 

 

 

本当に不思議なことです。人間絶望しても、必ずしもこの女性のような反応をしません。

 

 

 

人間は欲深く、神なら自分の病を治せて当たり前、自分の不幸を救って当たり前と思うのです。実は人間は絶望していても、傲慢であるのです。謙虚さを持ち合わせていません。

 

 

 

それが主イエスの後について行く大勢の群衆が主イエスに押し迫る姿でもあります。

 

 

 

ところが、その群衆たちの中に紛れ込んだ一人の女性は、ひそやかに一つの確信をもって行動しました。

 

 

 

彼女は、自分が主イエスの衣服に触るだけで、自分の病は主イエスに癒していただけると信じました。

 

 

 

28節の「思ったからである」は、彼女がそのように言っていたのです。だから、彼女は自分の信じていたことを、密かに、大勢の人々に紛れ込み、実行したのです。

 

 

 

すると、彼女が信じたとおりのことを、彼女は自分の身に感じることができました。彼女の子宮から出血が止まりました。

 

 

 

主イエスもまた御自身の身から力が抜け出るのを、お感じになられました。だから、主イエスは、押し迫る大勢の群衆たちを見回され、「わたしの衣服に触ったのは、だれか」と問いかけられました。

 

 

 

しかし、主イエスの弟子たちは、神の子主イエス・キリストの御力を知りません。だから、平気で彼らは主イエスにこう言うのです。「「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」(5:31)

 

 

 

主イエスは、あきらめることなく、触れた者を、長血を患っていた女性を捜されました。

 

 

 

彼女は、大勢の群衆の中に身を隠すことができませんでした。誰が彼女を癒したのか。彼女は神の子主イエス・キリストの御力を知って、いや神の臨在に触れて、恐れ震えました。彼女は、会堂長ヤイロのように主イエスの御前にひれ伏して、大勢の群衆たちに取り囲まれている中で自分の身に起こったことをありのまま話しました。

 

 

 

その時、主イエスは彼女を祝福し、言われました。「「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(5:34)

 

 

 

主イエスの救いは、彼女の病気を癒すだけでありませんでした。彼女に生きる神の祝福をお与えになりました。病に苦しみ、宗教的に汚れて、神の民の社会から疎外されていた彼女が、長血という病を癒されただけでなく、神の民として祝福された人生を回復されたのです。主イエスは、彼女に神に祝福された人生を生きなさいと励ましてくださいました。

 

 

 

そして、主イエスは、なおも絶望の中にいる会堂長ヤイロに、その女性と同じ信仰をお求めになりました。

 

 

 

イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすに及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子どもの両親と三人の弟子たちだけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。(5:3543)

 

 

 

何と悲しい知らせでしょう。会堂長ヤイロの家の者がヤイロに「娘は死んだ。もうイエスに来ていただかなくてもよい」と伝えてきました。

 

 

 

しかし、主イエスは、そばで使いの言葉を聞かれていましたが、まるで無視されるように、ヤイロに言われました。「「恐れることはない。ただ信じなさい」」と。

 

 

 

愛する娘の死の宣告の前に主イエスは、ヤイロに「恐れることなく、わたしに信頼しなさい」とお命じになりました。

 

 

 

こうして主イエスは、ヤイロの家に三人の弟子たちだけを従えて、ヤイロと共に行かれました。

 

 

 

ヤイロは主イエスのお言葉に沈黙を守っていますが、その心は複雑だったでしょう。それでも彼は主イエスと三人の弟子たちと共に家に戻りました。

 

 

 

彼の家では、娘が死に、泣き女や泣き男で騒がしくしていました。

 

 

 

主イエスは、それを御覧になり、「「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」」と言われました(5:39)

 

 

 

少女が仮死状態にあるという意味ではありません。神の子主イエス・キリストの御前にもはや死の力は無力であるという意味です。

 

 

 

マルコによる福音書は、イースターを知る初代教会の中で生み出されました。キリストが死から復活され、その復活の希望の中で、マルコによる福音書は主イエスが少女を死から救われる奇跡を物語るのです。

 

 

 

復活の主イエスによって死から命に甦らされるわたしたちにとって、死は一時的眠りにすぎないのです。

 

 

 

主イエスの御言葉に、周りの人々はあざ笑いました。これは、今もわたしたちにも通じています。自分たちが見ているものだけが、この世では真実です。そして、この世の人は誰も死人が甦ったことを見ていないのです。この世では、死の宣告が為されたら、その人の人生はそれで終わりです。

 

 

 

だから、神の子主イエス・キリストを通して、神が復活によって死に打ち勝たれたことを想像できないこの世では、死人の復活は笑いごとにすぎないのです。

 

 

 

しかし、主イエスは、神を信じない不敬虔な者たちを少女の部屋から追い出されて、三人の弟子たちと両親だけを連れて、少女の部屋に入られ、死んだ少女を甦らされました。

 

 

 

主イエスは、少女の片手を強くつかんで、言われました。「タリタ クム」と。

 

 

 

これはアラム語です。主イエスの時代ユダヤ人たちの日常語はアラム語でした。

 

 

 

マルコによる福音書は、アラム語をギリシャ語に訳して、「これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。(5:41)と記しています。「わたしはあなたに言う。」は、マルコによる福音書が付け加えた言葉です。

 

 

 

この奇跡は尋常なものではありません。しかし、主イエスは、御言葉によって少女を復活させられました。神の子主イエス・キリストが死から少女を救われました。

 

 

 

少女は12歳になっており、起きて歩くことができました。主イエスが少女に食べ物を与えるように言われているのは、この奇跡が真実のものであるからです。

 

 

 

少女の身体は元どおりに回復しました。これからは、ヤイロと妻と娘は一緒に普段通りに生活するのです。

 

 

 

しかし、娘の部屋で主イエスが娘を復活させられるのを見て、正気を失うほどに驚いた両親や三人の弟子たちにこの奇跡について沈黙を命じられました。

 

 

 

これは、主イエスが自己宣伝でなさったのではないからです。この世に伝えても、だれも信じないでしょう。信仰のある者だけが神の子主イエス・キリストの御力を信じるのです。

 

 

 

だから、この二つの主イエスの奇跡は、教会のために、キリスト者の信仰のために、マルコによる福音書は伝えているのです。

 

 

 

どんな絶望の中に置かれていても、また、死を目前にしても、神の子イエス・キリストは常に教会にわたしたちと共に居てくださり、この世におけるわたしたちの絶望、この世の闇に対する光となられ、御自身の復活によって死の勝利者となり、わたしたちが死に勝利する復活に対する信仰の規範となってくださっているのです。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第52143節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

 

 

今年もコロナウイルスの災禍の中でイースターを祝うことができたことを感謝します。

 

 

 

今朝の御言葉により、主イエス・キリストを信じる信仰によって、わたしたちがこの世の絶望からも死の恐怖からも解放されていることを確信し、感謝します。

 

 

 

どうかコロナウイルスの災禍の中にあっても、教会に共に集まり、礼拝し、共に聖餐の恵みにあずかり、わたしたちにはこの世の命だけではなく、主イエスと共に永遠の命が与えられていることを信じさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。