マルコによる福音書説教26             2020年5月17

 

イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように人々はイエスにつまずいた。

 

 

 

イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。

 

                  マルコによる福音書第6章1-6a

 

 

 

説教題:「故郷の人々と家族のつまずき」

 

今朝は、マルコによる福音書第6章1-6節前半の御言葉を学びましょう。

 

 

 

さて、マルコによる福音書は、61節で「イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。」と記しています。

 

 

 

そこを去って」とは、ガリラヤ湖湖畔を、主イエスは去られたという意味です。「故郷にお帰りになった」からです。

 

 

 

マルコによる福音書は、主イエスの故郷がナザレの村であることを知っていますが、記していません。その必要がなかったからです。なぜなら、マルコによる福音書は、19節と23節で主イエスがナザレ出身であることを既に記述していたからです。

 

 

 

だから、ここにナザレの名が無くても、主イエスが「故郷にお帰りになった」と記すだけで、この福音書の読者は、主イエスがナザレにお帰りになったと理解するのです。

 

 

 

主イエスが故郷のナザレにお帰りになったとき、従ったのは12弟子たちだけでした。この「弟子たち」は、67節の「十二人」と同じ意味です。

 

 

 

12弟子たちは、主イエスにとって特別な弟子たちです。主イエスは彼らに「わたしに従いなさい」とお命じになられ、彼らは常に主イエスと一緒に行動しています。主イエスは、彼らだけにたとえ話の奥義を教えておられます。

 

 

 

彼らは、後に主イエス・キリストの証人となります。彼らは、主イエスが語られた御言葉、なされた御業を、人々に宣べ伝える者となるのです。

 

 

 

マルコによる福音書は、主イエスがナザレの会堂で福音宣教されたことを次のように伝えています。「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。

 

 

 

ユダヤ教安息日の土曜日に、主イエスはナザレの会堂に入られ、説教をなさったのです。旧約聖書の巻物が渡され、主イエスは「預言者の御言葉が今わたしに置いて実現している」とお語りになったでしょう。

 

 

 

主イエスの説教を聞いたナザレの多くの者たちの反応を、マルコによる福音書は次のように記しています。「多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。(2節後半)

 

 

 

マルコによる福音書は、ナザレの人々が主イエスに驚いたと証言しているのです。主イエスに、その教えに、彼はどこで知恵を得たのだろうと、驚き、主イエスが為さる奇跡を聞いて、そんなことがどうしてできるのかと、驚いたのです。

 

 

 

マルコによる福音書は、わたしたち読者に神の子イエス・キリストがナザレの会堂で語っているのである、その教えに、知恵に、御業に驚くべきではないか、と問いかけるようにナザレの人々の驚きを記しています。

 

 

 

ところが、マルコによる福音書は、彼らの驚きが不信仰という結果に終わったと、記しています。

 

 

 

驚きが不信仰に終わった理由を、マルコによる福音書は63節でこう述べています。「「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように人々はイエスにつまずいた。

 

 

 

ナザレの人々は、主イエスの家族のことをよく知っていました。また、彼らは、主イエスと共に暮らしていたのです。だから、かえって、主イエスが神の子イエス・キリストであることを受け入れることができませんでした。

 

 

 

こうして主イエスの御家族の者たちを知っているゆえに、主イエスが神の子イエス・キリストであるという信仰につまずいたのです。

 

 

 

そこで主イエスは、次のように言われました。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである(4)

 

 

 

これは、主イエスが当時の諺を引用されたのです。「預言者は故郷には入れない」とか、「預言者はその故郷では受け入れられず、医者は自分を知っている者を癒さない」という諺がありました。

 

 

 

それを主イエスが「親戚や家族」を付け加えられたのか。それともマルコによる福音書が付加したのか。マルコによる福音書が付加したと考えられています。

 

 

 

マルコによる福音書は、本来主イエスが「預言者は故郷では受け入れられない」と語られたのを、「家族や親せきの間でも」と付加したのです。

 

 

 

その理由は、初代教会の家族への伝道の困難さにありました。今もその状況に変わりはありません。家族や親戚の者たちは、わたしたちのことを誰よりも知っています。だから、躓いてしまうのです。

 

 

 

家族や親戚との肉のつながりが深いために、霊のつながりを見落としてしまうのでしょう。

 

 

 

教会は家族です。しかし、肉のつながりではありません。信仰のつながりです。目に見えない聖霊によって、わたしたちは信仰を通して主イエス・キリストにつながり、神を父として、信仰において長子をキリストとする神の家族です。

 

 

 

神の家族である教会は驚きがあり、畏れがあります。神の子イエス・キリストに対する驚きと畏れです。神であるお方が人としてこの世に来られた、そのお方は今もわたしたちが主日礼拝で聖書と説教の御言葉に聴従するとき、わたしたちと共に居まし給うのです。

 

 

 

そして神の子主イエス・キリストは、ガリラヤで宣教活動されただけでなく、今も聖霊と御言葉を通して宣教活動を続けられているのです。そこにわたしたちも参与しています。

 

 

 

そして神の子主イエス・キリストの福音を、彼の家族と親族が受けいれないように、今のわたしたちの家族と親族も受け入れません。

 

 

 

このようなナザレの人々の不信仰の中で、マルコによる福音書は次のように記しています。「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。(56節前半)

 

 

 

マルコによる福音書がナザレの人々の不信仰の結果をこのように記していることに、わたしたちは喜びを見いだすのか、それとも絶望を見い出すのか、どちらでしょうか。

 

 

 

喜びです。

 

 

 

そのような不信仰の中でも、主イエスが癒された病人たちがいたということは、彼らは信仰によって癒されたと、前回の二つの癒しの奇跡から、わたしたちは判断できるでしょう。

 

 

 

コロナウイルスの災禍の中で今、教会の礼拝も伝道も絶望的な中にあります。

 

 

 

礼拝できず、伝道できなければ、この世の教会は死んだも同じです。

 

 

 

しかし、神の子イエス・キリストは、生きて働かれています。ガリラヤで宣教活動されたように、今も聖霊と御言葉を通して働かれています。

 

 

 

だから、今わたしたちは礼拝をし、主の御言葉を聞いています。この礼拝に出られない方々は家庭で礼拝をされ、御言葉を聞かれています。こうして主イエスの12弟子たちと同じように、今も主イエスに従う弟子たちがいます。そして、たとえ数は少なくても、礼拝で主イエスを迎える者たちと共に、主イエスは共に生きてくださり、わたしたちに主に救われる者たちを見させてくださいます。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第616節前半の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

 

 

主イエスは、「人々の不信仰に驚かれた」と、マルコによる福音書は証言しています。今も人々の不信仰に主イエスは、驚かれているでしょう。

 

 

 

しかし、今朝の御言葉によって、わたしたちは慰められ、励まされます。主イエス・キリストは、この世の不信仰の中でも、生きて働かれ、救いの御手を伸ばしてくださっています。ありがとうございます。

 

 

 

コロナウイルスの災禍の中にあっても、今朝教会に共に集まり、礼拝し、共に御言葉を聞きました。どうか主イエスよ、今わたしたちとあなたと共に居ることを信じさせてください。

 

 

 

どうか、わたしたちの家族に救いの御手を伸ばしてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

マルコによる福音書説教27              202067

 

それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中にお金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出て行くとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

 

                  マルコによる福音書第66節b-13

 

 

 

説教題:「十二弟子を福音宣教に派遣する」

 

今朝は、マルコによる福音書第66節後半から13節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

前回は、主イエスが数々の奇跡を行われて、御自分の故郷であるナザレの村にお帰りになり、ナザレの人々に受け入れられなかったことを学びました。その時に主イエスに従ったのは12弟子だけでありました。

 

 

 

主イエスは、いつもなさっていたように安息日にナザレの会堂で説教なさいました。会堂司が主イエスに旧約聖書のイザヤ書の巻物を手渡したでしょう。主イエスは、それを開かれて、お読みになりました。そして「預言者が預言している御言葉は、今わたしを通して実現している」とお語りになったでしょう。

 

 

 

それを聞いた会衆たちは、驚きました。そして彼らは主イエスにつまずきました。彼らは、主イエスを幼いころから知っていました。主イエスの家族も彼らと共に暮らしていました。主イエスは貧しい大工ヨセフの息子で、その母マリアと兄弟たちも貧しい生活をしていたでしょう。だから、彼らは主イエスがどこで知恵を得て、教える事ができるのだろう。どうして彼は悪霊を追い出し、病人を癒せるのだろうと、主イエスの奇跡に驚きました。そしてその驚きは、主イエスをメシア、救い主と信じる信仰へとは向かわせず、彼らのつまずきとなりました。

 

 

 

そこで主イエスは、ナザレの村の人々の不信仰に対して一つの諺を口にされました。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである(マルコ6:4)と。当時人々の間に「預言者は故郷には入れない」とか、「預言者はその故郷では受け入れられず、医者は自分を知っている者を癒さない」という諺が知られていました。主イエスは、その諺に「家族や親せきの間でも」という言葉を付加されました。

 

 

 

マルコによる福音書は、初代教会のキリスト者たちが故郷や家族への伝道に苦しんでいたことをよく知っていました。主イエスも同じであったと励ましたかったでしょう。故郷の人々や家族親戚は肉のつながりが深く、よく知っているので、その分つまずきが大きくなるのです。また、教会は肉のつながりで成り立つものではありません。信仰のつながりです。そのために教会を建て上げる上で聖霊のお働きである福音宣教が重要であるのです。

 

 

 

主イエスは、ナザレの村の人々の不信仰に驚かれ、わずかな人々を癒されただけでした。しかし、マルコによる福音書のメッセージを通して、人々の不信仰の中にごくわずかでも主イエスを救い主と信じて、主イエスに癒しを求め、癒される者がいたことを知らされます。不信仰ゆえに神は、ナザレの村の人々をすべて見捨てられたのではありません。ごくわずかでしたが、神は主イエスを通して救いの御手を伸ばされ、癒しの恵みを施されたのです。

 

 

 

今でも教会が自分たちの故郷の人々や家族親戚に福音宣教することの困難な状況は変わっていません。むしろ今は、コロナウイルスによって人と人との接触が難しいです。こうして礼拝に集まることも、周りの人々に気を使わなければなりません。人々の不信仰に加えてコロナウイルスの災禍の中で教会の福音宣教が大変危機的な状況に置かれています。

 

 

 

しかし、ペンテコステ礼拝に主イエスはわたしたちをお集めくださいました。ごくわずかですが、わたしたちの教会に求道者を与えて、ペンテコステ礼拝を共にすることが許されました。こうしたわたしたちの教会の礼拝体験を通して、マルコによる福音書が証しする生きて働かれた主イエス・キリストが今も聖霊と御言葉を通してわたしたちの教会の礼拝において御臨在され、信州のこの地において御救いのために働いてくださっているという、信仰の確信を得ることは幸いであります。

 

 

 

マルコによる福音書は、66節後半で「それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。」と記しています。故郷のナザレの村の人々に受け入れられなかった主イエスは、ナザレの村の近くの村々を訪れられて、福音宣教されました。

 

 

 

そして、マルコによる福音書は、わたしたちにガリラヤ宣教が主イエス一人から12弟子たちに拡大されていったことを記しています。

 

 

 

マルコによる福音書は、主イエスのガリラヤ福音宣教を、主イエスが村々を歩き回られ、福音宣教されたと伝えています。

 

 

 

この福音宣教のやり方は、主イエスから12弟子たちに福音宣教が拡大されても続けられています。

 

 

 

マルコによる福音書は、主イエスが12弟子たちを召されて、ガリラヤ宣教に遣わされることを、次のように記しています。「そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け(7)

 

 

 

主イエスは、12弟子たちによるガリラヤ福音宣教を開始されました。主イエスは、12弟子を御自身のところに召されて、二人ずつ組にして、派遣されました。その時に彼らに御自身が持たれている悪霊に対する権能を授けられました。

 

 

 

汚れた霊に対する権能を授け」とは、主イエスが12弟子たちに悪霊を追放する主イエスの力に参与することを許されたということです。

 

 

 

マルコによる福音書がわたしたちに伝えている事は、12弟子たちの福音宣教は彼らが主イエスに遣わされてなす神の御業であるということです。

 

 

 

主イエスは父なる神に遣わされて、ガリラヤで神の御国を宣教されました。12弟子たちは主イエスに召されて、ガリラヤでの福音宣教に遣わされました。12弟子たちは、主イエスのお働きとしてのガリラヤ宣教に参与させられたのです。ですから、彼らが悪霊を追放するのは、彼ら自身の能力ではありません。彼らは主イエスの御力に参与させられたのです。

 

 

 

この12弟子たちのガリラヤ宣教は、後の教会の福音宣教の模範であります。新約聖書の使徒言行録に記録されていますように、初代教会も使徒パウロやバルナバの二人を一組にしてこの世への福音宣教に遣わしました。彼らの福音宣教は、主イエスの霊である聖霊の御業であり、二人は聖霊の御業に参与し、この世の人々に福音宣教をし、いたるところにキリスト教会を建て上げて行きました。そして、今日のわたしたちも同じことをしているのです。

 

 

 

811節は、どのようにして主イエスがガリラヤで福音宣教され、12弟子たちが6組となり、福音宣教したかを、主イエスが命じられたという形で記しています。

 

 

 

福音宣教は、ガリラヤの町々村々を歩き回ってなされました。だから、杖とサンダルは必需品です。主イエスは、12弟子たちに杖一本とサンダルの他は何も持つなと命じられています。

 

 

 

主イエスがガリラヤ宣教で実践されていたように、12弟子たちもある家に滞在し、そこを生活と宣教の拠点としました。すなわち、主イエスはガリラヤのカファルナウムの町で福音宣教するとき、弟子のペトロの家に滞在されました。そこを拠点として生活し福音宣教されました。ペトロの家に病人たちや悪霊につかれた者たちが訪れました。主イエスは病人を癒され、悪霊につかれた者たちから悪霊を追い出されました。

 

 

 

このようにある家を拠点にして、そこに留まり、福音宣教するというのが主イエスの福音宣教のやり方であり、12弟子たちのやり方でした。そして初代教会のパウロとバルナバも同じ方法で福音宣教しました。使徒言行録に記録されていますように、初代教会のキリスト者たちはエルサレムから始めて、ユダヤ、サマリヤ、そしてシリア、小アジア、ヨーロッパへと福音宣教しました。彼らはある家に滞在し、そこを拠点にして福音宣教し、そしてキリスト者の群れを、信仰の共同体を形成しました。

 

 

 

ただ、ここで主イエスが12弟子たちを召して、ガリラヤ宣教に派遣されるのは、短期間でなされるものでした。だから、主イエスは身軽に行動できることを重んじられました。お金も生活の必需品等も12弟子たちが携えることを禁じられました。彼らは、主イエス同様に滞在する家の者たち、彼らを迎えてくれる町々や村々の人々の好意を得て、福音宣教しなければなりませんでした。

 

 

 

彼らの福音宣教は主イエスの御業への参与です。それゆえ彼らを迎え入れる家の者たちや町々、村々の人々の12弟子たちに対する態度は、主イエスに対する態度です。ですから、12弟子たちを迎える者たちは、彼らの12弟子たちに対する態度によって、主イエスの報いを受けることになります。快く迎え、彼らをもてなし、彼らが語る神の国の福音を聞き入れる者には主イエスの祝福があり、彼らを拒み、神の国の福音を拒む者たちには主イエスの呪いがあります。主イエスの呪いは足の裏の塵を払い落すということで、証しするように、主イエスは12弟子たちに命じられました。

 

 

 

最後に12弟子たちの福音宣教の内容です。マルコによる福音書はわたしたちに次のように伝えています。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。(13)

 

 

 

彼らは、主イエスのガリラヤ宣教に参与させられたのです。だから、主イエスがガリラヤ宣教を始められましたとき、主イエスは言われました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい(マルコ1:15)と。そして、「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった(マルコ1:34)のです。12弟子たちも同じことをしました。

 

 

 

12弟子たちは、ガリラヤの人々を主イエスへと立ち帰らせるために福音宣教しました。主イエスをメシア、救い主と信じなさいと宣教したでしょう。そして彼らは主イエスの御力に参与して、悪霊たちを追い出し、油を塗って病人たちを癒しました。

 

 

 

マルコによる福音書にとって神の国の福音は、神の民たちを父なる神の御元に立ち帰らせることでした。そのために父なる神は、神の子主イエス・キリストをこの世に遣わされました。神の子主イエス・キリストは神の国の福音を宣教し、悪霊を追い出し、病人たちを癒す数々の奇跡をなさいました。

 

 

 

マルコによる福音書にとって主イエスのこの御力は、主イエスの福音宣教に参与した12弟子たちにもなせる力でした。12弟子たちが悪霊を追い出し、病人たちを癒すときには、主イエスの御力が働いていたのです。この御力は人々に信仰を生み出すことはできません。しかし、人々の信仰のないところにこの主イエスの癒しの奇跡の御力は働かないのです。

 

 

 

マルコによる福音書がわたしたちに伝えたいことは、次のことです。第一に伝道は主イエスの福音宣教から始まり、主イエスの御力に参与し、聖霊を通して主イエスの御力を得なければならないということです。第二に人の能力、財力が主イエスと聖霊に代わることは出来ないということです。第三に聖霊と神の御言葉、すなわち、福音宣教だけがこの世において神に立ち帰るキリスト者を生み出し、教会を建て上げることを可能にするということです。

 

 

 

だから、使徒パウロが勧めていますように、「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(Ⅱテモテ4:12)

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第66節後半-13節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

 

 

主イエスが12弟子を呼び寄せられ、ガリラヤ宣教に遣わされたことを学びました。12弟子たちは主イエスの福音宣教に参与し、人々を主イエスへと招きました。彼らは主イエス同様に悪霊を追い出し、病人を癒す権能を授かりました。それによって彼らは、主イエスの御力によって悪霊を追い出し、病人たちに油を注いで癒しました。

 

 

 

今日、わたしたちには聖霊が与えられ、聖書が与えられています。聖霊と御言葉を通して、この世の人々にキリストの福音を伝えることができ、この教会へと人々を招こうとしています。

 

 

 

どうかわたしたちの家族やアこの町の人々を、信州の人々に、キリストの福音を宣べ伝えさせてください。そしてわずかであっても主イエスをキリストと信じる者たちを起こしてください。

 

 

 

今朝わたしたちは、聖餐の恵みに与ります。どうか信仰によって主イエスの臨在を覚え、パンとぶどう酒をいただき、罪の赦しと永遠の命の恵みにわたしたちが与っていることを、喜びをもって確信させてください。

 

 

 

コロナウイルスの災禍の中にあります。わたしたちのこの集まりと礼拝をお守りくださり、わたしたちが御言葉を聞き、主に在る慰めと平安を得ることができる世にしてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 マルコによる福音書説教28              2020614

 

イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。

 

 

 

実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕えさせ、牢につないでいた。ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。そこでヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。

 

 

 

ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくはなかった。そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。

 

                  マルコによる福音書第61429

 

 

 

説教題:「洗礼者ヨハネの殉教」

 

今朝は、マルコによる福音書第61429節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

前回は、主イエスが12弟子たちを、二人一組でガリラヤ宣教に派遣され、悪霊を追い出す権能を授けられ、彼らは人々を悔い改めさせるために宣教し、悪霊を追い出し、油を塗って病人を癒す数々の奇跡を行ったことを学びました。

 

 

 

主イエスは、ガリラヤ宣教に12弟子たちも参与させられ、主イエスの福音宣教がさらに拡大されました。

 

 

 

主イエスはガリラヤの町々村々を歩き回られ、福音宣教されました。この福音宣教のやり方は、12弟子たちも引き継ぎました。

 

 

 

この12弟子たちのガリラヤ宣教は、後の教会の福音宣教の模範であります。

 

 

 

そして、12弟子たちが二人一組でどのように福音宣教をしたかを、マルコによる福音書は主イエスが彼らに命じられたという形で記しています。

 

 

 

すなわち、福音宣教はガリラヤの町々村々を歩き回ってなされましたから、杖とサンダルは必需品です。主イエスは、12弟子たちに他のものは携えてはならないと命じられました。

 

 

 

また、主イエスは12弟子たちにある家に滞在し、そこを生活と宣教の拠点とするように命じられました。

 

 

 

12弟子たちのガリラヤ宣教は、短期間でなされるものでした。だから、主イエスは身軽に行動するように命じられました。12弟子たちは生活の必需品を携えず、人々の好意を得て、福音宣教しなければなりませんでした。

 

 

 

人々の12弟子たちに対する態度は、主イエスに対する態度として受け取られました。彼らを快く迎え、もてなす家の者たちや彼らが語る神の国の福音を聞き入れる者たちには主イエスの祝福があり、彼らを拒む者たちには主イエスの呪いがありました。12弟子たちは、去る時に足の裏の塵を払い落すということで、呪いを証しするように、主イエスに命じられました。

 

 

 

さて、マルコによる福音書は、主イエスと12弟子たちによるガリラヤでの福音宣教の拡大によって、614節で次のように記しています。「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。

 

 

 

ヘロデ王」はヘロデ大王の息子です。ヘロデ大王とマルタケとの間に生まれた息子アンティパスのことです。彼は、正式にはユダヤの王ではありません。ユダヤの国の中のガリラヤとペレアを治める領主です。彼は、ローマで教育を受け、よくガリラヤとペレアを平和のうちに治め、ギリシア・ヘレニズム文化を広めました。彼はユダヤ人たちに好意的な姿勢を取っていました。

 

 

 

「洗礼者ヨハネ 殺される」という見出しを見ますと、この出来事はマルコによる福音書だけではなく、マタイ、ルカによる福音書にも記されています。すなわち、共観福音書によれば、洗礼者ヨハネの殉教は、ヘロデ・アンティパスと彼の二番目の妻ヘロディアの殺害であります。

 

 

 

マルコによる福音書は、61720節で次のように記しています。「実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕えさせ、牢につないでいた。ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。そこでヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。

 

 

 

妻ヘロディアは、アンティパスの兄弟フィリポの妻でありました。彼は兄弟の妻を娶ったので、洗礼者ヨハネは神の律法に反する不正な結婚と非難しました。

 

 

 

マルコによる福音書は、ヘロデ・アンティパスを優柔不断で、人目を気にする人物として描いています。彼は、洗礼者ヨハネを主なる神が遣わした預言者、聖なる者として敬う気持ちを持っています。だから、洗礼者ヨハネの叱責の言葉に戸惑いを覚えながらも、喜んで耳を傾けていました。

 

 

 

ところが、妻ヘロディアのヨハネへの憎しみのゆえに、洗礼者ヨハネを殺さざるを得ませんでした。

 

 

 

そして、彼と彼の妻は、その後不幸な人生の終わりを迎えることになります。ローマ皇帝によってガリア、現在のフランスのリヨンに夫婦共に追放され、その地で無くなりました。

 

 

 

もう一度始めに戻りましょう。

 

 

 

12弟子たちのガリラヤ宣教によって、彼らがガリラヤの人々を主イエスに立ち帰らせようとしましたので、主イエスの御名をガリラヤ中に知れ渡りました。ついにはヘロデ・アンティパスの耳にまで入りました。

 

 

 

そのころ主イエスについて巷では、人々がいろいろと噂していました。ヘロデ・アンティパスにとってガリラヤの人々が主イエスについてどのように噂をしているか、情報を集めていたようです。

 

 

 

それが、14節後半から15節の御言葉です。「「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。

 

 

 

巷では三つの噂がなされていました。第一の噂は、こうです。主イエスは洗礼者ヨハネが死者の中から生き返った。第二の噂は、こうです。主イエスは、旧約聖書の列王記上下に記されている預言者エリヤの再来だ。第三の噂は、こうです。イザヤやエレミヤのような預言者だ。

 

 

 

第一の噂のもとは、主イエスの奇跡の御業でした。主イエスが悪霊を追い出し、病人を癒される奇跡の力は、洗礼者ヨハネが死者の中からよみがえったからだと、人々は思ったのです。

 

 

 

第二の噂のエリヤは、列王記上の17章から列王記下の2章に記されている預言者エリヤです。預言者エリヤは異教の神バアルの預言者たちと戦い、この地上で死ぬことなく主なる神が天に取り上げられた預言者です。そして後の時代のユダヤ人たちは、このエリヤの再来を待ち望んでいました。巷では主イエスがそのエリヤの再来であると噂していたのです。

 

 

 

第三の噂は、人々が主イエスを旧約聖書の預言者のような預言者であると噂していました。イザヤやエレミヤのような預言者だと。

 

 

 

そうした人々の噂を耳にし、ヘロデ・アンティパスが下した結論は、こうでした。16節です。「ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。」ヘロデは、主イエスを洗礼者ヨハネが生き返ったと信じました。

 

 

 

ヘロデがそのように判断した理由は、既にヘロデ・アンティパスについてお話ししましたので、お分かりでしょう。

 

 

 

ヘロデ・アンティパスは、自分を非難する洗礼者ヨハネを捕えて牢に入れていました。それは彼の憎しみから出ているのではありません。洗礼者ヨハネは彼だけではなく、ファリサイ派の人々やエルサレム神殿の祭司長たちの不正も非難していたでしょう。主イエス同様に多くの敵を作っていたのです。だから、投獄はヨハネを保護するという目的もありました。

 

 

 

ヘロデ・アンティパスは、牢獄のヨハネを訪れ、しばしば彼から教えを受けていました。ヨハネの教えは主に主なる神の審判だったでしょう。だから、ヘロデは聞いて、心に恐れを覚えましたが、ヨハネの教えを喜んで聞いていたのです。

 

 

 

21節の「ところが、良い機会が訪れた」は、時期に適った日です。折り良い日です。ヘロデ・アンティパスが洗礼者ヨハネを殺せる良き機会が訪れました。この世に大きな悪の力が働いた日でした。しかし、マルコによる福音書は、わたしたちにその日もまた、神が御計画された日であることを知らせているのです。

 

 

 

マルコによる福音書は、洗礼者ヨハネの殉教を次のように記しています。2129節です。

 

 

 

ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。王は非常に心を痛めたが、地かったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくはなかった。そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。

 

 

 

人間の欺瞞に満ちた宴会の中で洗礼者ヨハネが殉教するのです。ヘロデ・アンティパスの誕生日に高官や有名人たちが招かれました。そこでヘロディアの娘が踊りを披露しました。それを見て、ヘロデは宴会の人々の前で少女を称賛し、褒美を与えると言いました。自分が治める領地の半分を与えようと言いました。

 

 

 

少女は母親ヘロディアに何を褒美にいただくかを相談しました。母親は彼女に「洗礼者ヨハネの首を盆に載せてください」と願いなさいと言ったでしょう。少女は、ヘロデ・アンティパスに「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます。」と申し出ました。

 

 

 

ヘロデ・アンティパスの心には後悔がありましたが、家臣や人々の手前で誓ったことを無視できませんでした。彼は衛兵を牢に遣わしました。衛兵は牢に行き、洗礼者ヨハネの首をはねました。そして彼はヨハネの首を盆に載せて、宴会場に持って来ました。それを少女に渡しました。少女は母に渡しました。

 

 

 

首なしの遺体は、洗礼者ヨハネの弟子たちが牢を訪れ、遺体を引き取り、墓に埋葬しました。

 

 

 

洗礼者ヨハネの殺害の張本人は、少女の母親ヘロディアであります。しかし、ヘロデ・アンティパスの優柔不断さの中に、見栄、他人の目を気にする弱さを見ます。

 

 

 

今朝の御言葉の中に殉教者ヨハネへの賛辞は一言もありません。むしろ、わたしは神が遣わされた最後の預言者、メシアである主イエス・キリストの先駆けとなったヨハネへのこの世の激しい敵意というものを感じるのです。

 

 

 

どうしてマルコによる福音書は、わたしたちに主イエスが12弟子たちを福音宣教に派遣され、630節で12弟子たちが福音宣教から帰って来て、主イエスに報告したという記事の間に洗礼者ヨハネの殉教という出来事を記しているのでしょうか。

 

 

 

第一に洗礼者ヨハネは、人々にメシアを指し示す者でした。彼は、自分の投獄と死と葬りによって、主イエス・キリストの受難と死と葬りを予め示しました。

 

 

 

第二に洗礼者ヨハネと主イエスはこの世の権力者によって死刑に処せられました。洗礼者ヨハネはヘロデ・アンティパスによって、主イエスはポンティオ・ピラトによって、です。

 

 

 

第三に初代教会のキリスト者の殉教の模範として、です。主イエスの御後に従う弟子たちは、主イエスや洗礼者ヨハネと同様に、この世での敵意を避けることはできません。ですから、初代教会のキリスト者たちも、主イエスや洗礼者ヨハネのように投獄、死、葬りを避けることはできませんでした。

 

 

 

第四に教会の福音宣教は、洗礼者ヨハネの死、主イエスの死、そして初代教会のキリスト者たちの死を越えて前進していることです。教会の福音宣教は、2000年間この世のあらゆる敵意、迫害によって多くの殉教者たちを出して来たにもかかわらず、前進してきました。

 

 

 

現代も多くの殉教者を出しながら、世界中でキリストの福音宣教は前進しているのです。

 

 

 

マルコによる福音書は、わたしたちに洗礼者ヨハネの殉教を通して、どんなにこの世の敵意が強くとも、そのために殉教者を出そうとも、キリストの福音宣教は常に前進するのだと伝えようとしているのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第61429節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

 

 

洗礼者ヨハネの殉教について学ぶことができて感謝します。

 

 

 

いつもこの世は、神に敵対し、神が遣わされた預言者たちを迫害します。主イエスの先触れとして遣わされた洗礼者ヨハネも、投獄され、この世の為政者の敵意により迫害され、殺され、墓に葬られました。

 

 

 

主イエスも、洗礼者ヨハネのように投獄され、十字架の処刑によって殺され、葬られました。

 

 

 

そして、教会とわたしたちキリスト者も、この世において敵意の中に常に置かれています。今わたしたちは、迫害され、投獄され、殺され、葬られることはありません。しかし、アフリカやイスラム圏、共産圏にある教会とキリスト者たちは迫害され、殺され、葬られています。それでも福音宣教は前進しています。

 

 

 

主イエス・キリストが聖霊と御言葉によって今も働いてくださり、キリストの福音宣教を前進させてくださっていることに感謝します。

 

 

 

今コロナウイルスの災禍の中で、一層福音宣教が困難な状況にあります。それでもキリストの福音宣教が常に前進していることを心に留めさせてください。

 

 

 

わたしたちの家族やこの町の人々に、信州の人々に、キリストの福音を宣べ伝えるという希望の火を消さないでください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 マルコによる福音書説教29              2020621

 

さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。

 

イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」

 

そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡して配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。

 

                  マルコによる福音書第63044

 

 

 

説教題:「五千人の給食」

 

今朝は、マルコによる福音書第63044節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

前回は、洗礼者ヨハネの殉教の出来事を学びました。主イエスが12弟子たちを、二人一組でガリラヤ宣教に派遣され、ガリラヤ地方全体に主イエスのことが知れ渡り、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの耳にも入りました。悪霊を追い出し、病人を癒す奇跡を行われていた主イエスについて、世間では洗礼者ヨハネが生き返ったとか、旧約時代の預言者エリヤの再来だとか、旧約時代の預言者イザヤやエレミヤのような預言者だとか、いろいろ噂になっていました。ヘロデ・アンティパスはそれらの情報を集めて、「イエスは洗礼者ヨハネが生き返ったのだ、だから、あのように奇跡を行うことができるのだ」と判断しました。

 

 

 

ヘロデ・アンティパスは、洗礼者ヨハネに彼の兄弟フィリポの妻ヘロデアと結婚したことを違法であると非難されていました。そこで、彼は洗礼者ヨハネを捕えて牢に入れていました。そして、洗礼者ヨハネを殺す良き機会を得ました。彼の誕生日にヘロデアの娘が宴会に招いた高官や有力者たちの前で踊りました。彼は、娘を称えて、褒美を与えることにしました。娘は母親と相談し、洗礼者ヨハネの首をいただきたいと申し出ました。彼は、人々の手前娘の申し出を断れませんでした。衛兵を牢獄に遣わし、洗礼者ヨハネを処刑し、盆に載せられた洗礼者ヨハネの首を娘に与えました。娘はそれを母親に渡したのです。

 

 

 

洗礼者ヨハネは、メシアである神の子主イエスの先触れです。彼の殉教によって主イエスもまた、受難の道を歩まれることを、マルコによる福音書はわたしたちに伝えようとしているのです。洗礼者ヨハネが捕らえられて、処刑になり、墓に葬られたように、主イエスも捕らえられて、処刑にされ、墓に葬られるのです。

 

 

 

今朝は、主イエスがパン5つと魚2匹で大人の男の数だけで五千人を養われた奇跡の出来事を学びましょう。

 

 

 

主イエスが12弟子たちをガリラヤ宣教に派遣され、彼らが主イエスの元に戻る間に洗礼者ヨハネの殉教という出来事が起こりました。しかし、主イエスの12弟子たちのガリラヤ宣教は無事なされました。そのことを、マルコによる福音書は、次ように記しています。「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。(マルコ6:30)

 

 

 

12弟子たちは、主イエスの元に帰って来て、ガリラヤ宣教の結果を報告しました。彼らは、主イエスが彼らに与えてくださった権能によって、悪霊を追い出し、人々の病を癒し。そして主イエス・キリストがメシアであることを人々に教えたことを報告しました。

 

 

 

マルコによる福音書は、わたしたちにこのことを伝えることによって、キリストの弟子の模範を示しているのです。キリストの弟子たちは、主イエスによってこの世に宣教へと派遣されます。そして、その宣教の結果を報告するために主イエスのところに戻って来るのです。

 

 

 

わたしたちの主の日の礼拝は、招きと派遣という枠組みの中で礼拝がなされています。そして礼拝が終わるごとに、主イエスはわたしたちをこの世へと派遣され、そして次の主の日の礼拝で、この世から主イエスが臨在される教会へと集まって来るのです。そこでわたしたちは、この一週間何をしてきたのかを主イエスの報告するのです。

 

 

 

主イエスは、帰って来た12弟子たちの報告を聞かれて、彼らに「休むがよい」と言われました。12弟子たちは、主イエスと同様に休む暇もなく福音宣教をしました。だから、マルコによる福音書は、主イエスが12弟子たちの宣教の労苦を労わられたことを、こう記しています。

 

 

 

イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。(マルコ6:31)

 

 

 

人里離れた所」とは、人が住めない荒野であります。そこは、主イエスにとって祈りの場でありました。主イエスのところに帰って来ても、常に主イエスのところに大勢の群衆たちが出入りしており、12弟子たちが食事も休息もできるところはありませんでした。

 

 

 

だから、主イエスは、12弟子たちが心も体も休める場を設けようとされました。ゆっくりと食事をし、祈る時を、12弟子たちに与えようとされました。

 

 

 

そこで主イエスと12弟子たちは、大勢の群衆たちから密かに離れて、舟に乗り、祈りと休息のために人里離れた荒れ野へと向かわれました。

 

 

 

ところが、群衆たちは主イエスと12弟子たちが密かに舟に乗り、彼らから去って行くのを見つけたのです。そこで群衆たちは、舟に乗られた主イエスと12弟子たちをガリラヤ湖の沿岸を歩いて、すべての町から追いかけました。そして、主イエスと12弟子たちよりも先に荒れ野に着きました。

 

 

 

主イエスは、舟から陸地に上がられると、大勢の群衆たちが主イエスを取り囲みました。主イエスは、その群衆たちを見回されて、次のように思われ、彼らに神の国について教えられました。

 

 

 

イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。(マルコ6:34)

 

 

 

主イエスは、群衆たちの心の飢え渇きを、彼らが主イエスに救いを求める思いを憐れまれたのです。彼らが「飼い主のいない羊のような有様」だったからです。彼らには、主なる神に導いてくれる羊飼いが居ませんでした。だから、主イエスを人が住み着かない荒れ野まで追いかけて来たのです。ファリサイ派の人々が群衆たちを主なる神に導くことができれば、彼らは主イエスを追って、荒れ野まで来ることはありませんでした。ですから、主イエスは群衆たちに神さまについて、神の国についてたとえ話をして、教えられたでしょう。

 

 

 

どのぐらいの時が過ぎたのでしょうか。いつの間にか、夕暮れ近くになっていたでしょう。一日の仕事を終えたユダヤ人たちが空腹で、食事の時間になっていたのでしょうか。

 

 

 

12弟子たちは主イエスの御元に集まり、次のように主イエスに提案しました。「そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。(マルコ6:3537前半)

 

 

 

 12弟子たちは、主イエスに食事時です。群衆たちを解散させてくださいと申し出ました。それは、群衆たちがめいめい里や村に行き、自分たちの食べ物を買い求めるためでした。

 

 

 

 12弟子たちの申し出に対して、主イエスは御答えになりました。この「お答えになった」という言葉は、「吟味する、査定する、選別する」という意味の言葉です。主イエスは、12弟子たちの申し出をよく考えた上で、そして責任のある決断をなさって、12弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と命令されたのです。

 

 

 

 主イエスのこの命令は、主イエスが12弟子たちにこの所で彼らと共に食事をしようというと言われているのです。主イエスは、何もない荒れ野で大人の男の数だけで5000人、婦人たちや子供たちもいたでしょう。そうすると何万人という数になる群衆たちと一緒に食事をしようと決断されたのです。

 

 

 

 そこで問題になるのは、食材の調達であります。

 

 

 

弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」(マルコ6:37節後半―38)

 

 

 

12弟子たちは、主イエスの決断に驚きました。群衆たちと共に食事をするためには、パンだけでも200デナリオンが必要でした。1デナリオンは、主イエスの時代一日の労働の賃金200日分の労働の賃金を12弟子たちは持ち合わせていなかったでしょう。だから12弟子たちは、パンの経費を計算しましたが、主イエスに言いたかったことは、「主よ、ここでこの群衆たちと共に食事をするのは不可能です」ということでした。

 

 

 

ところが、主イエスは、12弟子たちにパンが幾つあるかを調べなさいとお命じになりました。おそらく舟の中にあるパンの数を確認させられたのでしょう。

 

 

 

12弟子たちは舟の中から5つのパンと二匹の魚を見つけました。

 

 

 

パンは、大麦か小麦で作りました。パン種を入れて焼きました。厚さ1センチ、直径最大50センチの大きさです。ユダヤ人の食事の主食はパンです。彼らは食べる前に、パンを裂くか、あるいはちぎり、食べました。ナイフなどで切ることはありませんでした。

 

 

 

魚は、鰭と鱗の付いたものだけが食べることができました。魚は、パンと一緒に食べる副食物でした。

 

 

 

主イエスは、食材を確認されると、群衆たちとの食事を始められました。

 

 「そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡して配らせ、二匹の魚も皆に分配された。(マルコ6:3941)

 

 

 

 主イエスは、12弟子たちに食事の用意を命じられました。12弟子たちは、群衆たちを組に分け、青草の上に横たわらされました。ユダヤ人の食事は、体を横たえてしました。群衆は100人、50人ずつまとまって座りました。

 

 

 

 主イエスが5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰がれて賛美の祈りをなさり。パンを裂いて、祝福し、12弟子たちに渡され、12弟子たちはそれを群衆たちに配りました。パンの後に魚も群衆たち皆に配られました。

 

 

 

 マルコによる福音書は、642節に「すべての人が食べて満腹した。」と記しています。このように主イエスの5000人の給食の奇跡は、人々の空腹が主イエスの奇跡によって満たされたという出来事です。

 

 

 

 そして、マルコによる福音書は、この主イエスの奇跡の豊かさを次のように記しています。「そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。

 

 

 

マルコによる福音書は、奇跡を具体的に描写することはしませんが、奇跡の跡でパンと魚の多くの材料が12籠の一杯残っていたことを記すことで、主イエスの力ある御業を証ししています。そして、最後に大人の男の数だけでも5000人が主イエスの食事に与ったことを記録し、この主イエスの奇跡の豊かさを、わたしたちに知らせているのです。

 

 

 

今、コロナウイルスの災禍の中でまるで教会の礼拝は、人を避けて寂しい所で行われています。しかし、マルコによる福音書が今朝わたしたちに伝えたいことは、主イエスを追ってこの礼拝に集う者たちを、主イエスはこの群衆のように「飼う者のいない羊のように憐れみ、神の御言葉によって教え、聖餐式の食卓によって神の御国の前味によって養ってくださる」ということです。そして、この礼拝に集まるわたしたちは、神の御言葉と聖餐の恵みをいただいて、霊的祝福に一杯満たされているということです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第63044節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

 

 

コロナウイルスの災禍の中で、人目には寂しい礼拝でありますが、わたしたちと共に主イエスは居てくださり、飼う者のいない羊であるわたしたちを憐れみ、神の御言葉と聖餐の恵みによってわたしたちに霊的な命をお与えくださっていることを感謝します。

 

 

 

主日礼拝が主との憩いの場となり、神の御国への希望となりますように、わたしたちの信仰生活のリズムを整えていけるようにしてください。

 

 

 

人と人が接触できず、わたしたちがキリストの福音を宣べ伝えるということが難しいですが、この教会の礼拝の火を消さないでください。時が良くても悪くても、キリストの福音を人々に伝えることができるようにしてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

  

マルコによる福音書説教30              202075

 

それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山に行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。

 

 

 

ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。

 

                  マルコによる福音書第64552

 

 

 

説教題:「湖の上を歩く主イエス」

 

今朝は、マルコによる福音書第64552節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

いつも前回学びましたことを、よく確認したのち、今朝与えられた御言葉を学んでおります。前回は、主イエスが大人の男の数だけで五千人をパン五つと魚二匹でお腹を満腹になさった奇跡の出来事を学びました。

 

 

 

マルコによる福音書は、主イエスの五千人の給食の奇跡に続いて、今朝の御言葉で主イエスがガリラヤ湖の湖上を歩かれたという奇跡を物語っています。

 

 

 

マルコによる福音書は、わたしたち読者に652節で「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。」と記して、今朝の奇跡と前回の主イエスの五千人の給食の奇跡が密接につながっていることをはっきりと証言しているのです。

 

 

 

主イエスがメシア、神の子イエス・キリストであることを、12弟子たちは心が鈍くて理解できなかったと、マルコによる福音書はわたしたちに証言しているのです。

 

 

 

まず、この事実を、わたしたちが心に留めましょう。それが、どうしてマルコによる福音書がわたしたちに今朝主イエスがガリラヤ湖の湖上を歩かれた奇跡を物語ろうとしているのかを理解するカギになるからです。

 

 

 

主イエスは、群衆との食事を終えられると、12弟子たちを強制的に舟に乗せられ、御自分は群衆たちを解散させて、お一人で祈るために山に登られました。

 

 

 

それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山に行かれた。(マルコ6:4546)

 

 

 

主イエスはお一人になり、山で祈るために、12弟子たちを強制的に舟に乗せて、ベトサイダに先に行かせ、群衆たちを解散させられたと、マルコによる福音書は記しています。

 

 

 

マルコによる福音書は、47節で「夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた」と記しています。

 

 

 

これは、主イエスと12弟子たちとの位置関係を確認しているのです。主イエスは山でひとり祈られていました。12弟子たちを乗せた舟は、ガリラヤ湖の真ん中でした。

 

 

 

その時に12弟子たちは逆風に遭いました。彼らは一生懸命舟を漕ぎますが、舟は前に進みません。彼らは、舟を漕ぐのに苦労していたのです。

 

 

 

マルコによる福音書は、48節で「ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。」と記しています。

 

 

 

主イエスは陸地から12弟子たちが労苦している様子を御覧になりました。

 

 

 

夜が明けるころ」は文字通りには「夜の第四時頃」です。ローマの兵士たちは治安のために夜に町を警護しました。その夜警時間を4つに区分しました。「夜が明けるころ」は、第四番目の夜警時間です。午前三時から六時です。

 

 

 

主イエスは、ガリラヤ湖の湖上を歩いて、彼らのところまで来られました。そして主イエスは、さらに彼らのところを通り過ぎようとされました。

 

 

 

湖の上を歩いて」は、湖の上を歩き回ることです。旧約聖書のヨブ記98節に「神は自ら天を広げ、海の高波を踏み砕かれる」とあります。逆風で湖が高波になっている中を、主イエスは歩き回られているのです。マルコによる福音書は、その主イエスを描くことで、神の顕現を表現しているのです。

 

 

 

人が造った偶像とは違って、神の子イエス・キリストは生きた神の子です。高波の湖の上を歩いて、12弟子たちの前に現れてくださいました。

 

 

 

湖の真ん中で逆風の中で悩み苦しみ、労苦していた12弟子たちを救い出すために、神の子イエス・キリストが湖の高波を歩いて来られました。

 

 

 

それを見て12弟子たちは、幽霊だと思い、恐ろしさの余り、大声で叫びました。湖の上を歩かれる主イエスを見て、12弟子たちは動転してしまいました。

 

 

 

その時に主イエスは、彼らに話し始められ、「「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」」と言われました(マルコ6:50)。「安心しなさい」は、勇気を出しなさいです。「わたしだ」は、旧約聖書の申命記3239節で主なる神が言われている「しかし、見よ、わたしこそ、わたしこそそれである。」という御言葉と同じです。神の顕現の御言葉です。

 

 

 

マルコによる福音書は、湖の上を歩かれる主イエスに、旧約聖書の主なる神の御姿を重ねているのです。マルコによる福音書と初代教会のキリスト者たちは、嵐を静め、湖の上を歩かれる主イエスを、主なる神と信仰告白しているのです。

 

 

 

だから、主イエスが舟に乗り込まれると、逆風は止みました。旧約聖書の主なる神が嵐や海を御支配されたように、主イエスも逆風を静められました。

 

 

 

しかし、12弟子たちは、心が頑なで、主イエスの五千人の給食の奇跡の出来事を理解していませんでした。すなわち、主イエスがパンの奇跡を行われた時に、彼らは主イエスが神の子であることを悟るべきでした。

 

 

 

心は、そこで神との出会いが現実となる、人間の内にある場所です。人間の理解と認識と意志を司る中枢の場所です。信仰はそこに確固とした基盤をもち、信仰という行為と倫理という行為はその心に規定されているのです。

 

 

 

だから、その心という場所を、弟子たちは頑なにしているのです。その場所を、主イエスに向けて開けていません。むしろ、閉ざしているのです。

 

 

 

それゆえに12弟子たちは、主イエスを主なる神として受け入れることができませんでした。

 

 

 

神に対する頑なさは、12弟子たちのように心においてあらわされます。心が固く石のようになり、主イエスとの出会いを閉じてしまうとき、心は不信仰を衣服としてまとうようになるのです。

 

 

 

だから、今主イエスの奇跡を、この目で見れば、主イエスをメシアとして信じましょうと、そう言う人が居ても、マルコによる福音書はその人に対して、ただ一言「否」と答えるのです。

 

 

 

今、神の子主イエス・キリストを知る道は、わたしたちの心を、この礼拝においてわたしたちのところに来られる主イエス・キリストに開くことです。

 

 

 

今ここでわたしたちが礼拝で聞いている説教の言葉とこれからあずかります聖餐式は、主なる神から賜った神の恵みの御言葉の説き明かしであり、来るべき神の国における神の恵みの食事の前味です。

 

 

 

わたしたちは、今朝この礼拝においてわたしたちのところに来られた主イエスにお会いしているのです。わたしたちが主イエスに心を向けなければ、主イエスは12弟子たちを通り過ぎようとされたように、わたしたちのそばを通り過ぎられます。

 

 

 

礼拝はわたしたちが主イエスと出会う場所です。毎週神の御言葉の説き明かしである説教を通して、わたしたちは神の御言葉に与るのです。十字架の御言葉を通して、わたしのために死なれた主イエスと出会い、父なる神の愛を、わたしたちの心に記憶されるのです。

 

 

 

また、今朝これから一緒に聖餐式に与ります。パンとぶどう酒をいただきます時に、わたしたちの心はわたしたちの罪のために十字架で死なれたキリストのお姿を仰ぎ見るのです。そして死んで復活された主イエス・キリストを仰ぎ見るのです。

 

 

 

その時にわたしたちの心は聖霊なる神によってわたしたちのところに来られる主イエスを待ち望むようにされるのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第64552節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

 

 

湖の上を歩かれる主イエスよ、今朝12弟子たちのところに来られましたように、わたしたちのところにも来てくださり感謝します。

 

 

 

どうか、聖霊よ、わたしたちの心を石のように固くしないでください。わたしたちの心を、主イエスに向けさせてください。

 

 

 

説教を聞きます時、聖餐の恵みに与ります時、わたしたちの心をお開きくださり、この教会の礼拝を、主イエスとの出会いの場とし、主イエスを通して父なる神の愛に出会える場としてください。

 

 

 

主なる神は、人が造った偶像のように、目が合っても見ないお方ではありません。耳があっても聞こえないお方でありません。口があってもしゃべれないお方ではありません。手があっても触れられず、足があっても歩けないお方ではありません。

 

 

 

生ける神であられ、わたしたちと心を通して交わることのできるお方です。常にわたしたちのところに来てくださり、この世の悩み多い逆風の中12弟子たちのように、もがいている者です。どうか毎週の礼拝でわたしたちにお声をかけて、「勇気を出しなさい。わたしだ。恐れるな」とお命じください。

 

 

 

聖餐の恵みに与らせ、「わたしはあなたを見捨てることはない。常にあなたはわたしと共におり、わたしの恵みはあなたに十分である」と励ましてください。

 

 

 

こうして主日礼拝がわたしたちにとって憩いの場となり、神の御国への希望となるようにしてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。