マルコによる福音書説教51              2021117

一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

                 マルコによる福音書第103234

 

説教題:「三度目の受難と復活の予告」

 

今朝は、マルコによる福音書第103234節の御言葉を学びましょう。主イエスが三度目の受難と復活の予告をなさった出来事です。

 

一行がエルサレムへ上って行く途中(32)は、主イエスが三度目の受難と復活の予告をなさった状況設定です。

 

主イエスは、エルサレムの都に上られる旅の途上にありました。そこで主イエスは、12弟子たちに第三回目の受難と復活の予告をなさいました。

 

第一回目の受難と復活の予告(マルコ8:31)は、主イエスが12弟子たちと共にフィリポ・カイサリア地方に行かれる途中でなされました(マルコ8:27)。第二回目の受難と復活の予告(マルコ9:3132)は、主イエスが12弟子たちと共にフィリポ・カイサリア地方を去って、ガリラヤを通られる途中でなさいました。

 

今回の三度目の予告は、主イエスがはっきりと「今わたしたちはエルサレムへ上って行く。(33)と、目的地を告げて、予告をなさっておられます。そして、主イエスは、12弟子たちにその目的地で「人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」と予告されています。

 

ですから主イエスの三度目の予告は、これまで以上にはっきりとエルサレムで御自身の身に起こる受難と復活を念頭に置かれています。

 

さて、マルコによる福音書は、「イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」と、主イエスのエルサレムへの旅の様子を記しています。

 

それを見て」という言葉は、ギリシャ語の新約聖書の原文にはありません。新共同訳聖書の翻訳者は、わたしたち読者が理解しやすいように日本語を補ったのです。

 

主イエスは、弟子たちの先頭に立ってエルサレムに向かって進まれます。それは、過去から今に至るまで継続する主イエスの行為です。マルコによる福音書は、「一行がエルサレムへ上って行く途中」を、単に地理的に設定しているのではありません。先頭に立って歩まれる主イエスの御後に従う弟子の道を教えようとしているのです。

 

マルコによる福音書は、そのまま日本語にしますと、「そして驚く、そして従う者たちは恐れた」と記しています。

 

マルコによる福音書は、「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」とは記し、弟子たちと従う者たちを区別してはいません。

 

マルコによる福音書は、主イエスの御後に従う者たちの驚きと恐れを記しています。その驚きと恐れは、過去から今に至るまで継続する主イエスの御後に従う者たちの行為です。

 

前回、わたしたちは、金持ちと神の国について学びました。主イエスは、永遠の命を受け継ぐことを求めた金持ちに持ち物を全部売り払い、それを貧しい者に施して御自身の御後について来なさいとお招きになりました。しかし、金持ちは、実行をためらってしまいました。

 

その時12弟子のひとり、ペトロが「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました(マルコ10:28)と言いました。主イエスは、ペトロに「わたしのためまた福音のために」すべてを捨てた者は、この世では迫害を受けると言われました。

 

このようにマルコによる福音書は、弟子の道を、主イエスへの信従の道として描いています。

 

それは、第一に主イエスが12弟子たちを召され、彼らはガリラヤ伝道のために宣教に奉仕する道です。

 

第二に主イエスの三度の受難予告からマルコによる福音書は、わたしたち読者に受難の主イエスに従う弟子の道は、主イエスのように自己否定と殉教の道であると教えているのです。

 

しかし、「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」という驚きと恐れは、マルコによる福音書がテーマとする神の子イエス・キリストの存在と行為に対してです。

 

マルコによる福音書は、神の子主イエス・キリストがエルサレムに先頭に立って進まれる姿に従う者たちは驚き、恐れ、そして初代教会のキリスト者たちも驚き、恐れているのだと記しているのです。

 

だから、「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」という文章は、原文のままに「驚き、従う者たちは恐れた」とするのがよいでしょう。

 

この後に主イエスは、12弟子たちを呼び集められて、第三回目の受難と復活の予告をされます。マルコによる福音書は、受難のエルサレムへの道を先頭に立って進まれる神の子主イエス・キリストの存在そのものに驚き、恐れているのです。

 

この驚きと恐れは、主イエスの受難の中に神の救いのお働きを見た者たちの驚きと恐れです。これは、礼拝という場で今日も起こっている驚きであり、恐れです。

 

マルコによる福音書がわたしたちに伝えている神の子イエス・キリストは、今も聖霊と御言葉を通して、今ここに存在されるお方です。わたしたちが福音として聞く主イエスは、目には見えませんが、いまここにいますお方です。

 

ヘブライ人の手紙の記者が次のように記している御言葉に、心を留めましょう。

あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのないお方です。

 

マルコによる福音書がわたしたちに福音として伝えているように、神の子イエス・キリストは、わたしたちのためにエルサレムに先頭に立って進まれたのです。それは、わたしたちを罪から救われるためです。

 

そのために神の子イエス・キリストは、エルサレムで祭司長たちと律法学者たちに逮捕され、裁判にかけられ、死刑を宣告されました。そして異邦人の手に渡されました。彼らに辱められ、十字架刑で死なれたのです。しかし、父なる神は死者の中から神の子イエス・キリストを復活させられました。

 

こうして神の子イエス・キリストの十字架の死と復活によって、わたしたちは罪とその神の刑罰である永遠の死から救われたのです。

 

主イエスの三度にわたる受難と復活の予告は、わたしたちに神の子イエス・キリストを通して、次のことを福音として伝えているのです。神の民を、ユダヤ人だけではなく、受難の主イエスを辱めた異邦人であるわたしたちをも、神は救ってくださるという恵みです。

 

そして、今、コロナウイルスの災禍の中でも、主イエスはわたしたちの先頭に立ってわたしたちを罪から救い、神の御国に導くために、進まれているのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第103234節の御言葉を学べる機会をお与えくださり感謝します。

 

今朝は三度目の主イエスの受難と復活の予告を学べる機会をお与えくださり感謝します。

 

神の子イエス・キリストがわたしたちを罪から救うために、先頭に立たれて、エルサレムへの受難の道を進まれたことを感謝します。

 

そして、今もコロナウイルスの災禍の中で、教会の先頭に立って救いの御業をなされ、わたしたちをお守りくださっていることを感謝します。

 

どうかわたしたちを神の御国へとお導きください。

 

どうかわたしたちにこの礼拝において聖霊と御言葉を通して、今、ここにわたしたちと共にいます神の子イエス・キリストを信仰によって見させてください。わたしたちの心にも驚きと恐れを生じさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

マルコによる福音書説教52              202127

ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は。すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

                 マルコによる福音書第103545

 

説教題:「多くの人の身代金」

 

今朝は、マルコによる福音書第103545節の御言葉を学びましょう。

 

わたしの好きなイングリシュバイブルは、マルコによる福音書の1032節から1337節までに「チャレンジ ツウ ジェルサレム」、すなわち、「エルサレムへの挑戦」という表題を付しています。

 

本当に適切な言葉であると、わたしは思うのです。主イエスが先頭に立たれて、12弟子たちをエルサレムへとリードされます。その姿を見て、12弟子たちは驚き、恐れました。

 

その時主イエスは彼らに三度目の受難と復活の予告をなさったのです。そして主イエスは、彼らにエルサレムへの道が御自身にとって苦難の道であることをお示しになり、御自身に従うようにお求めになりました。

 

しかし、12弟子たちは主イエスがエルサレムに上られる道を、主イエスの御受難の道と理解できませんでした。彼らにとって主イエスがエルサレムに上られることは、主イエスが栄光の道を歩まれることでした。だから、12弟子たちは、その時彼らの中でだれがいちばん偉い者となるかを言い争っていたのです。

 

12弟子たちの眼中に主イエスの受難の死はありません。むしろ彼らは栄光の主イエス・キリストの姿を夢見ていました。主イエスがエルサレムの都に上られ、この世の王となられ、権力を行使し、神の民を支配し、諸国民を支配されることを望んでいました。主イエスに従う12弟子たちにとって、主イエスの栄光の時にだれが主イエスの左右の座に就くことができるかが今一番の関心事でした。

 

だから、12弟子たちの中でゼベダイの子たちであるヤコブとヨハネが抜け駆けしたのです。彼らは、主イエスに自分たちを主イエスに次ぐ高い地位に就けてくださいとお願いしました。

 

それが、マルコによる福音書103537節の御言葉です。「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」

 

ヤコブとヨハネにとって主イエスは、彼らを教える教師です。主イエスは律法学者のような教師ではありません。権威ある者です。彼は12弟子たちを召し集め、彼らを教えられました。そして主イエスは、奇跡の御業を通して御自身の教えに権威があることを証しされました。

 

だから、12弟子たちは主イエスの栄光の時を待ち望みました。主イエスがダビデ王のように神の民を支配される栄光の時を待ち望みました。

 

その時、ヤコブとヨハネは彼らの願いを達成したいと願っていたのです。主イエスが御自身に次ぐ地位を彼らに与えて、二人を主イエスの左と右の座に就かせてくださる事です。要するに彼らは、他の10人の主イエスの弟子たちと同じように、主イエスに次ぐ大物となりたかったのです。

 

彼らの願いに対して、主イエスの反応は、彼らがどんなに主イエスのことを理解していないかというものでした。主イエスは、率直に言われました。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。(38)

 

要するに、主イエスはこの二人の弟子に今の状況を理解していないと述べられたのです。主イエスは12弟子たちに3度御自身の受難と復活を予告されました。その度に主イエスは御自分がエルサレムでユダヤの宗教的指導者たちやローマの総督や兵士たちに捕らえられ、死刑の判決を宣告され、辱めを受けて殺されると予告されました。そしてその後に主イエスは復活されるのです。

 

12弟子たちが夢見ている主イエスの栄光は、今の主イエスの苦難を通して来るのです。今主イエスがエルサレムに上られるのは、栄光の時ではなく、むしろ苦難の時なのです。

 

主イエスはヤコブとヨハネに「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」と問いかけられました。この杯は、死の杯のことです。主なる神の御手の裁きを意味する表現です。主なる神の怒りの杯という言葉があります。すなわち、主イエスは彼らにこう言われたのです。「あなたがたは神がわたしに定められた死の定めを自らの身に引き受けることができるのか」と。また、主イエスが身に受けられる洗礼は、死の洗礼です。これは、主イエスが神に完全に見放されたことから生じる主イエスの魂が陰府まで沈むことです。だから、十字架の上で主イエスは、父なる神に向かって「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と叫ばれたのです(ルカ23:46)

 

しかし、二人の弟子たちは、これから神の子主イエスがとても人間には耐えられない苦しみを御自身の身に負われることを理解していないのです。

 

だから、彼らは主イエスに「できます」と簡単に答えるのです。主イエスは、彼らの答を叱ることはありません。むしろ主イエスは、彼らの答を肯定して、こう彼らに約束されました。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。(39)。この主イエスの御言葉は、後に主イエスの御後に従って殉教の道を歩む12弟子たちにとって、そしてこの世において主イエスに信従し、苦難に満ちた信仰の道を歩むキリスト者たちに大きな意味を持つ御言葉となりました。

 

受難の主イエスの霊である聖霊が11弟子たちに、そしてわたしたちキリスト者に受難の主イエスの御後に従えるようにしてくださるのです。彼らの「できます」という答は、主イエスが肯定してくださり、聖霊の助けをお与えくださって、「できます」という可能な行動となるのです。その時にヤコブとヨハネは、主エスと共に受難の道を歩むことができ、その際に主イエスと同様に「悲しみに沈んだ魂」を経験するのです。そして、今無理解なヤコブとヨハネは彼らの殉教と迫害の体験を通して、主イエス・キリストの証人となるのです。

 

しかし、主イエスは、二人の弟子たちにこう断言されています。「しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。

 

主イエスは、御国における席順を定めるのは、御自身ではないと答えられています。そして、主イエスは、こう答えられるのです。それは父なる神だけの事柄であると。主イエスの左と右に座するのは、神が準備された人々だけに許されていると。

 

さて、41節から主イエスの弟子への訓練が始まっています。二人の抜け駆けは、他の十人の弟子たちの知る所となりました。彼らは二人に対して憤り始めました。

 

そこで主イエスは、12弟子たちを呼び集められました。そして、主イエスは12弟子たちに主イエスの道を歩むように教育し、訓練されました。

 

この世と教会の原理と生き様は、異なるし、対立します。

 

教会の頭である神の子主イエス・キリストは、この世においては受難の道を歩まれます。その道は、人に仕えられるのではく、人に仕える道でした。主イエスは、多くの人々を買い戻し、奴隷から自由の身に解放するために、御自身を身代金として、御自分の命を動物犠牲のようにささげられました。主イエスは、受難の道を通して自己犠牲の道を歩まれました。

 

この世の支配者は、神の子主イエスを虐げたのです。彼らは、主なる神から委ねられた権力を濫用しました。この世で王や偉い者と思われている者たちは、神が彼らに委ねられた権力を自らのために行使するのです。

 

この世の原理はパワーゲームによって成り立つのです。人は力を得て、他人を支配することに喜びを覚えるのです。人の上に立つことが、勝利者になることがこの世の原理であり、常に競争社会の中で人々は勝ち残るゲームをしているのです。

 

ところが受難の主イエスの御後に従う教会の原理は、この世の原理と違うし、対立するのです。教会の原理は、神の子主イエス・キリストのヘリ下りを模範とするのです。受難の道を歩まれる主イエスのように、この世では僕の道を歩むのです。

 

ヤコブやヨハネのように、教会の中で人の上に立ち、偉くなりたい者は、人に仕える者とならなければなりません。それが身代金である主イエスによって自由とされたわたしたちの生きる原理であり、生き様なのです。

 

主イエスは、御自分のために生きられたのではありません。神から離れた者たちを再び神の所有として買い戻すために、御自身を多くの人々の身代金とされたのです。

 

マルコによる福音書は、主イエスのエルサレムへの御受難を通して神から離れて滅びの中にある多くの人々を買い戻すために、主イエスが御自身の尊い命を犠牲として差し出される、仕え人としての主イエスを、わたしたちに福音として伝えようとしているのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第103545節の御言葉を学べる機会をお与えくださり感謝します。

 

今朝はヤコブとヨハネが主イエスに彼らの願いを申し述べたことによって、主イエスの受難の意味を学ぶ機会が与えられ、感謝します。

 

エルサレムへの受難の道を歩まれる主イエスと教会は、この世の原理とは異なり、対立する原理に生きていることを学びました。

 

わたしたちが受難の主イエスの御後に従い、人に仕える道に歩ませてください。この世の競争原理の社会の中で、世の権力者に虐げられ、抑圧されている者たちと共に歩ませてください。

 

権力も金もありませんが、水一杯を隣人に施せる主の僕として、この世を歩ませてください。

 

どうかコロナウイルスの蔓延した世界の中で、人と人が触れ合うことのできない社会の中で、本当に困難な人々の中に主イエスがおられると信じます。わたしたちを主の僕としてお用いください。お祈りによって、主からいただいた恵みを用いて、隣人のために為すべきことをなさせてください。

 

どうかわたしたちが今朝の礼拝の御言葉を通して、今、ここで互いに愛する者たちとして、主の御前に立たせてください。

 

主イエスよ、あなたはわたしたちにも主イエスの受難の御後を歩めると約束してくださいました。どうか聖霊と主イエスの約束の御言葉に導かれて、わたしたちも主イエスが飲まれた杯を飲み、主イエスが受けられた洗礼を受けさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

マルコによる福音書説教53              2021214

一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、主イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

                 マルコによる福音書第104652

 

説教題:「主に憐れみを乞うバルティマイ」

 

今年も217日水曜日よりレント(四旬節)が始まります。43(土曜日)まで教会は、主イエスの御受難を覚えて、回心と節制の日々を過ごし、44(日曜日)のイースターに備えるのです。

 

実際に217(水曜日)にわたしたちは、灰をかぶり、自らの罪を悔い続け、食を断ち、断食するわけではありません。

 

むしろ、わたしたちは今朝の盲人の乞食バルティマイの信仰に倣いたいと思います。

彼は、目が見えないという苦難をこの世で体験していました。その苦しみから救われて、普通のユダヤ人のように生活することを願っていました。

 

しかし、現実は彼にとって、過酷でした。彼は目が見えないので、自活できません。だから、エリコの町を出入りする旅人から物乞いをして生きていたのです。

 

マルコによる福音書は、わたしたち読者にどのように盲人のバルティマイが信仰によって主イエスに救われて、目が見えるようになり、受難の主イエスの御後に従って行ったかを記しているのです。これがマルコによる福音書がわたしたち読者に証ししたい主イエスの弟子の模範なのです。

 

エリコの町はヨルダン川の低地にあります。エルサレムの都から27キロのところです。しかし、エリコの町からエルサレムの都への道はおよそ千メートルの標高差があり、荒涼とした所で山賊が住みかとし、旅人たちを襲う危険なところでした(ルカ10:30)

 

主イエスは、12弟子たちや大勢の人々と一緒にエリコの町を去られました。過越の祭が近づいており、大勢の人々は巡礼者たちであったでしょう。

 

目は見えなくても、耳は良かったようです。バルティマイはいつものように町の出入り口の道端で物乞いをしていましたら、人々がナザレのイエスについて噂する声を聞きつけたのです。

 

そして、彼は、主イエスたち一行が近づいて来るのを耳にしました。彼は大声で叫び始めました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。

 

ダビデの子」はメシアの称号です。バルティマイは、ナザレのイエスの噂を耳にし主イエスを「ダビデの子」、メシアと信じて、助けを求め続けたのです。

 

わたしを憐れんでください」は、「わたしを救ってください」というバルティマイの必死の嘆願です。

 

それを見て、多くの人々が彼を邪魔者扱いし、彼を叱りつけて黙らせようとしました。

 

しかし、彼はあきらめません。主イエスに向かって叫び続けました。

 

すると、主イエスは足を止められました。きっと主イエスはバルティマイに目を向けられたでしょう。主イエスは、人々に「あなたは彼を呼べ」と命じられました。

 

主イエスが盲人のバルティマイを癒された奇跡物語は、主イエスがバルティマイを弟子に召された物語です。彼は、12弟子たち同様に、主イエスに弟子に招かれたのです。

 

人々は、バルティマイに「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」と言いました。「安心しなさい。」は、「勇気を出しなさい」「元気を出しなさい」という励ましの言葉です。そして彼は道端に座っていたバルティマイに「立て」と命じて、主イエスが「あなたをお呼びだ」と伝えました。

 

昔ダビデ王が神の契約の箱をシロからエルサレムの都に移しました時に、喜びのあまり裸で踊ったように(サムエル記下6:14)、バルティマイは主イエスに招かれて、喜びのあまり上着を脱ぎ捨てて踊りながら、主イエスのところにやって来ました。

 

主イエスは、御自身のところに招かれたバルティマイにすべき準備をされていました。そして、主イエスは彼に言われました。「何をしてほしいか」と。

 

主イエスの招きに応えたバルティマイは、主イエスを「先生」と呼びかけました。「ラボニ」という言葉です。ユダヤ教ではラビと呼ばれた学者のことです。彼は、主イエスの時代「ラボニ」、「わたしの主」と、弟子たちから呼ばれていました。

 

主イエスは、12弟子たちに「ラボニ」と呼ばれることを禁じておられます。なぜなら、主イエスお一人以外に、「ラボニ」と呼べる者はいないからです。12弟子たちは子弟の関係ではなく皆兄弟なのです(マタイ23:8)

 

バルティマイは、主イエスの弟子として召され、彼は主イエスに目が見えることを願いました。

 

主イエスは、マルコによる福音書534節で長血を患う女性を癒された時に言われたように、彼にも言われました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。

 

彼は主イエスをダビデの子、メシアと信じ、主イエスが彼の目を癒してくださると信じました。その信仰が彼の肉体の苦しみを救っただけではありません。彼は主イエスをダビデの子と信じることで、受難の主イエスに従う弟子の道を歩み、この世から御国へと、永遠の命に与る者とされました。

 

信じて救われるという言葉で、わたしたちが思い描くのは具体的に何でしょうか。実は、わたしたちははっきりとそれを捕えていないのではないでしょうか。

 

信仰を持っているか、いないか。信者であるか、ないか。このようにわたしたちは、信仰を心の問題だと思っていないでしょうか。

 

しかし、マルコによる福音書は、わたしたち読者に今朝の主イエスとバルティマイとの出会いを通して、信仰は具体的な行動を伴うことを伝えようとしています。

 

バルティマイのようにわたしたちも、この世の現実の中で主イエスに助けを求めたのです。宗教改革者たちが理解するように、わたしたちはこの世にあって罪人であり、多くの窮乏と困難な状況に置かれているのです。その中で神の助けを求め、主イエスとの交わりの中に生きているのです。

 

今コロナウイルスの災禍の中でいろいろ苦しい状況に置かれていることからの救いを、主イエスに祈り求めるべきです。自分たちの生活の中で困ったことがあれば、「主よ、憐れんでください」と祈り続けるべきです。不安があれば、平安に導かれるように祈るべきです。

 

主イエスは、わたしたちの願いを聞き届けてくださろうと、すでに備えられています。そしてバルティマイのようにわたしたちを呼び出してくださるのです。そして、主イエスは彼のように、わたしたちにも言ってくださいます。「あなたの信仰があなたを救った」と。

 

すると、バルティマイの目が見えるようになり、彼は主イエスに家に帰りなさいと命じられたのに、受難の主イエスの御後に従う弟子となったのです。

 

わたしたちも同じです。この教会の門をたたくそれぞれの悩み苦しみがあったはずです。その悩み苦しみはすぐに解決できなかったでしょう。しかし、主イエスはわたしたちを毎週の主の日の礼拝にお招きくださいました。バルティマイのように、主イエスはある人を通してわたしたちを教会の礼拝へとお招きくださいました。そして礼拝で聖書の御言葉を聞き、その解き証しである説教を聞くことで、わたしたちは主イエスが悩み苦しみから救って下さったと信じることができました。

 

その時以来、わたしたちもバルティマイのように主イエスの御後に従っているのです。マルコによる福音書にとってキリスト者が礼拝を続けることが主イエスの御後に従う弟子の道を歩むことなのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第104652節の御言葉を学べる機会をお与えくださり感謝します。

 

今朝はバルティマイの信仰を通して、受難の主イエスの御後に従う弟子の道を教えられ、感謝します。

 

どうか、この世においてわたしたちは弱い者です。バルティマイのように主イエスに助けを求め、主イエスが助けてくださると素直に信じさせてください。

 

どうか主イエスの御後に従い、この世にあって神礼拝の人生を歩ませてください。

 

この世の苦難と迫害に恐れることなく、主イエスが約束してくださった御国、永遠の命の希望によって、この世における忍耐に耐えさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

マルコによる福音書説教54              2021221

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐにここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、『その子ろばをほどいてどうするのか』と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。

「ホサナ

 主の名によって来られる方に、

   祝福があるように。

 我らの父ダビデの来るべき国に」

  祝福があるように。

いと高きところにホサナ。」

こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。

                       マルコによる福音書第11111

                

 

説教題:「主がお入り用なのです」

 

本日は、レント(四旬節)の第一主日です。四旬節の主日は五聖日あります。それが終わると、次の主日、すなわち、328日の主日から今年の受難週が始まります。

 

マルコによる福音書は、受難週の出来事を、第11章から15章まで記しています。主イエス・キリストの最後の六日間のお働きと御受難と死を、一日ごとに六日間克明に記しています。

 

マルコによる福音書は、わたしたち読者を、1113章においては主イエス・キリストの御受難へと導こうとしています。その最初が、主イエスがエルサレムの都に子ろばに乗り、王として入城される出来事です。

 

この出来事は、華やかな光の出来事であり、お祝いの出来事です。なぜなら、マルコによる福音書は、神の子、主イエス・キリストの勝利から物語ろうとしているからです。

 

受難週の第一日目は、教会暦では、棕櫚の主日です。その名の由来は、マルコによる福音書11111節の御言葉です。主イエスが子ろばに乗ってエルサレムの都に王として入城された出来事にあります。

 

主イエスに従った12弟子たちと過越の祭を祝うためにエルサレムの都に巡礼に来た群衆たちは、主イエスをダビデの子と叫び、ホサナ(「お救いください」)と、主イエスを賛美しました。

 

また、多くの人たちは、主イエスが子ろばに乗って通られる道に彼らの上着や葉の付いた枝を敷きました。

 

マルコによる福音書は118節でこう記していますね。「多くの人が自分の服を道に敷き、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた」と。

 

葉の付いた枝」はナツメヤシの葉の付いた枝のことです。そしてナツメヤシが棕櫚です。棕櫚は、古代においては勝利の象徴でした。教会はこの棕櫚で、キリスト教の勝利、永遠の命、教会、楽園をあらわしました。

 

エルサレムの都に入城される主イエスを、多くの人々が棕櫚の葉の付いた枝を道に敷いて迎えたように、受難週の主日に教会は、それを記念して、棕櫚の枝を手にして信徒たちが行列して会堂に入りました。

 

このように受難週の第一日に、ダビデの子、主イエス・キリストがメシア、王として、勝利者として、ろばの子に乗ってエルサレムの都に入城されたことを、マルコによる福音書はわたしたち読者に神の子イエス・キリストの福音として伝えようとしています。

 

それは、マルコによる福音書が1118節まで主イエスがエルサレムの都に王として入城される準備をされたことを記している記事からも分かります。

 

主イエスは、旧約の預言者ゼカリヤの預言を実現するために、二人の弟子たちを向こうの村に遣わされました。

 

旧約の預言者ゼカリヤは、ゼカリヤ書99節でこう預言しています。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。

 

主イエスは、二人の弟子に預言者ゼカリヤの「雌ろばの子であるろばに乗って」を、「まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。」と言われています。主イエスは、子ろばを御自身にために聖なるものとしてお用いになろうとされているのです。

 

二人の弟子たちがつないである子ろばを見つけて、解いて連れて来るとき、ある人々が彼らになぜ子ろばを連れて行こうとするのかと非難するなら、主イエスはこう言いなさいと命じられました。

 

主がお入り用なのです。すぐにここにお返しになります」。

 

驚くべき主イエスのお言葉です。

 

なぜなら、主イエス御自身が御自分のことを「主」と呼んでおられるからです。主イエスは、わたしたちが主と呼びかけて礼拝する主なる神です。神の子主イエス・キリストです。

 

だから、二人の弟子たちが主イエスの御言葉と命令通りに子ろばを発見し、主イエスのところに連れて来ることを、マルコによる福音書は、わたしたち読者にこう伝えているのです。主イエスはこれから起こる御受難を、御自身の身に主体的に受けとめて行動されていると。

 

主イエスは、父なる神の御心を実現するために、神の御計画を実践するために、エルサレムに来られました。そして、勝利の王としての主イエス・キリストは、エルサレムに迎えられなければなりません。

 

主イエスのエルサレム入城は王の即位式です。

 

しかし、主イエス・キリストは、軍馬にまたがりエルサレムの都に凱旋するこの世の王ではありません。

 

子ろばに乗ってエルサレムの都に入城する王であるキリストは、人々を己に仕えさせるのではありません。むしろ、己を犠牲にして多くの人々を、神の御国へと贖い出すダビデの子、メシアなのです。

 

だから、910節で、人々は共にエルサレムの都に入城される子ろばに乗った主イエスを、ダビデの子、約束の王的メシアとして、わたしたちを救ってくださいと賛美しているのです。

 

主イエスがシオンの娘であるエルサレムに来られたのです。子ろばに乗り、勝利の王として、預言者ゼカリヤが預言したように。

 

そして、キリストがエルサレムに来られ、主であり、ダビデの子であるメシアなのに、自らの身を低くして、十字架への受難の道を歩まれるのです。

 

マルコによる福音書は、わたしたちにこう神の子イエス・キリストの福音を伝えているのです。この受難の主イエスこそ、救ってくださいと祈り求める者たちを救う御力を持つ勝利者、まことの王であると。

 

また、エルサレムに子ろばに乗って入城する王は、死から復活する勝利者であり、永遠の御国を支配する王なのだと。

 

コロナウイルスの感染した今のわたしたちの世界は、子ろばに乗ってエルサレムの都に入城される王を必要としているのではないでしょうか。

 

なぜなら、この世の政治の力では、わたしたちの命は保証されないからです。コロナウイルスという、まさに死の世界を象徴する存在の前に、わたしたちに光と希望を与えるものは、死からの復活という奇跡の希望です。

 

また、この世はすべてのものを使い捨て、消費しています。そして、わたしたち人間も例外ではありません。

 

必要とされない者はまるで生きる価値無き者のように扱われています。

 

しかし、エルサレムに入城された勝利の王、キリストは荷を負うことしか役立たないろばの子を、すなわち、荷を負うことのできない何の役にも立たない子ろばを、「主はお入り用なのです」と言われました。

 

主イエスが王として支配されているこの世の教会と神の御国は、この世で無用とされる様々な者たちを、主イエス御自身がお入り用とされるのです。

 

そしてわたしたちが今この教会に主イエスによって招かれていることそのものが、主イエス御自身がわたしたちをお入り用であると受けいれてくださったからです。

 

この世は、人も物もプラスされることで重んぜられ、マイナスとされることで軽んじられます。だから、人の能力、富、社会的地位等で、人の価値を常に統計的に、ランキングを付して評価します。

 

王であるキリストが支配される教会と神の国は、人もものもある意味で初めから無価値であります。子ろばのように何の役にも立ちません。しかし、主イエス御自身が子ろばを、「主がお入り用なのです」と言われた時、価値あるものとなり、命あるものとなりました。

 

わたしたちも子ろばと一緒です。父なる神が永遠の御計画の中で罪ゆえに滅ぶべきわたしたちを、御子主イエスが必要としてくださったのです。それゆえにわたしたちは、主イエスの十字架の死によって神に対するわたしたちの罪を赦され、主イエスと共に生きる新しい命を、信仰に生きるという命を与えられたのです。

 

そして、生きている、こうして主を礼拝している、それだけでわたしたちは、今自分のためではなく、主イエスのために生きているのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、レントの第1主日を迎えました。今日よりマルコによる福音書第11章の御言葉を、キリストの受難を、学べる機会をお与えくださり感謝します。

 

今朝は、エルサレムの都に子ろばに乗って、入城される受難の主イエスを学び、勝利の王キリストについて知ることができて感謝します。

 

神の子イエス・キリストが御自身の身を低くし、十字架の道を歩まれたゆえに、わたしたちは死から新しい命に生きる奇跡の希望の恵みに与れたことを感謝します。

 

どうか主イエスがわたしたちに「わたしはあなたが必要である」と言って下さることに、この世にあって生きる喜びを感じさせてください。

 

主イエスがわたしたちと共に居てくださるので、この世で滅ぶべき、無益なわたしたちが主イエスによって必要なものとされていることを心に留めさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

マルコによる福音書説教55              202137

翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。そこで葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなっていないかと近寄られたが、葉のほかはなにもなかった。いちじくの季節ではなかったからである。イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。

                       マルコによる福音書第111214

                説教題:「主イエス、いちじくの木を呪う」

 

レント(四旬節)の第二主日を迎えました。主の御受難を心に留めつつ四旬節を過ごしていきましょう。

 

マルコによる福音書は、受難週の第二日目、月曜日の朝の出来事を記しています。主イエスがいちじくの木を呪われた出来事です。

 

今朝の主イエスが為さった奇跡は、非理性的な、理不尽なものに思われています。

 

主イエスは、葉は茂っていても、実のならないいちじくの木を呪い、枯らす奇跡をなさいました。

 

いちじくの木の実が熟するのは6月です。34月ごろのいちじくの木は、葉は茂っていても、実をつけていないのが自然です。

 

マルコによる福音書は、受難週の二日目の朝の出来事を、次のように記しています。「一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。

 

空腹」は、飢えのことです。主イエスが荒野で4040夜、断食し、祈られました時に、主イエスは空腹を覚えられました。飢えを感じられたのです。すると、サタンが主イエスに「この石をパンに変えて見よ」と誘惑しました。

 

しかし、マルコによる福音書がわたしたち読者に伝えようとしていることは、別のことです。主イエスは腹が減っていたということではありません。それ以上に主イエスは飢えを覚えられたのです。

 

霊的な飢えだと思います。

 

主イエスは、日曜日にエルサレムに入城され、マルコによる福音書はわたしたち読者に1111節で「イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた」と伝えています。

 

簡潔な文章です。しかし、今朝の主イエスの行動を理解する手がかりであります。

 

主イエスは、いちじくの木を呪う奇跡をなさった後、エルサレム神殿を清められ、翌朝いちじくの木が枯れておりました。それを見つけた12弟子たちに、主イエスは正しい信仰と祈りについて教えられました。

 

この文脈をたどれば、エルサレムに入城され、神殿を見回れた主イエスが、エルサレム神殿を中心としたイスラエルの民たちの不信仰を見られて、ベタニアに行かれたことを想像することは容易なことです。

 

その理解の道筋で、今朝の主イエスのいちじくの木を呪うという奇跡を一緒に考えて見ましょう。

 

主イエスはエルサレムに入城され、エルサレム神殿を強盗の巣にしている宗教的指導者たちの不信仰と戦われ、彼らと神殿で論争をし、対決され、ゴルゴタの丘の十字架へと歩まれます。

 

すなわち、主イエスはエルサレムに入られて、イスラエルの不信仰に出会われ、奇跡をなさらなかったのです。

 

しかし、ただ一つの奇跡をなさいました。それがいちじくの木を呪うという奇跡です。彼らの主イエスに対する不信仰を、主イエスは裁かれることをその奇跡によってお示しになられたのです。

 

主イエスの空腹は、主イエスが神の民たちの主イエスに対する信仰によって満たそうとされたのです。ところが、彼ら信仰の中心である神殿を見回しても、御自身への信仰を見つけられませんでした。

 

それを、主イエスが空腹で、葉の茂ったいちじくの木を見つけられ、熟した実を探したが見つからなかったので、主イエスは、いちじくの木に向かって「今後はいつまでも、お前から実を食べる者がないように」と呪われたのです。

 

いちじくの季節ではなかったからである」という文章は、マルコによる福音書の説明の記述です。葉の茂ったいちじくの木に実が熟していなかったのは、6月ではなく、34月だったからであると。

 

その事実が正しくても、主がいちじくの木に実を求められたのに、いちじくの木はいっぱいに葉を茂らせ、豊かな木に見えたのに、肝心の実がなかったのです。

 

同じように主イエスは、エルサレム神殿を見回されて、神の民の御自身に対する信仰を求められました。ところが、エルサレム神殿はそこで商売人が商売し、物質的には豊かでした。そしてその神殿に参拝する者たちもこの世での豊かさを願い祈っていました。しかし、神の子イエス・キリストへの信仰はありませんでした。

 

主イエスは、旧約聖書の中で預言者たちが神の民イスラエルを、主なる神が好まれる初なりの実をつけていないいちじくの木にたとえられているのを、よくご存じでした。主イエスに対する信仰を持たないエルサレムの人々がこのいちじくの木にたとえられているのです。

 

エルサレムに王として入城された主イエスを、エルサレムの人々はメシアであることを、ダビデの子であることを拒むのです。そして彼らは、主イエスをゴルゴタの十字架へと押しやるのです。

 

そのように神の子主イエス・キリストを信じることを拒否する不信仰なイスラエルは神の民として断たれるのだというのが、いちじくの木を呪われた主イエスのメッセージなのです。

 

いちじくの季節ではなかったからである」というマルコによる福音書の説明文は、こう理解しても良いのかもしれません。エルサレムの都の神の民たちがエルサレム神殿を中心としてまことの悔い改めをなせる機会(主なる神に立ち帰る機会)はもう時期を逸してしまったのだと。

 

実際にエルサレムの都と神殿は、紀元70年にローマ帝国の軍隊によって破壊されました。エルサレム神殿を中心としたユダヤ教は、主イエスが呪われたいちじくの木のようになってしまいました。

 

教会も同じです。十字架の主イエスを信じない教会は、この世でどんなに豊かでも、主イエスが呪われたいちじくの木と同じです。神に立ち帰る機会を失してしまうのです。

 

だから、このレントの季節にわたしたちは、主イエスが呪われたいちじくの木に、自分たちもなっていないかを顧みることが大切ではないでしょうか。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、レントの第2主日を迎えました。マルコによる福音書第111214節の御言葉を学べる機会をお与えくださり感謝します。

 

今朝は、主イエスが実のならないいちじくの木を呪われた奇跡を学ぶことができて感謝します。

 

どうか今朝の御言葉を通して、わたしたちとこの教会が神の子イエス・キリストへの信仰をもって歩めるようにしてください。

 

どうかわたしたちの目がこの世の豊かさに奪われないようにしてください。主イエスの十字架からわたしたちの目を逸らさせないでください。

 

主イエスは、いちじくの木を呪われましたが、御自身がその呪いを、わたしたちに代わって十字架で負ってくださいました。わたしたちは、キリストと共に十字架に死に、キリストと共に永遠の命に生かされていることを心から感謝します。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。