マルコによる福音書説教61              202159

復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけなければならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハム神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いしている。」

                       マルコによる福音書第121827

 

説教題:「生きている者の神」

今朝は、マルコによる福音書の第121827節の御言葉を学びましょう。

 

マルコによる福音書は、主イエスの受難週の三日目、火曜日の出来事を記しています(マルコ11:2013:37)

 

マルコによる福音書は、主イエスがエルサレム神殿の境内でユダヤの指導者たちといろいろなことについて論争されたことを記しています(マルコ11:2712:37)

 

権威について(マルコ11:27-33)、ぶどう園の悪い農夫たちのたとえ(マルコ12:1-12)、ローマ皇帝への納税について(マルコ12:13-17)、これまで学んできました。

 

今朝は、主イエスとサドカイ派の人々との復活についての問答(マルコ12:18-27)を学びましょう。

 

マルコによる福音書は、わたしたち読者にサドカイ派の人々を、次のように紹介します。「復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。(18)と。

 

マルコによる福音書は、サドカイ派の人々の際立った特色が復活を否定することであると述べています。

 

サドカイ派の人々は祭司階級、貴族階級の人々です。彼らは、ファリサイ派の人々のように口伝律法、すなわち、先祖の言い伝えを信じてはいません。復活も天使も悪魔も否定しました。

 

さて、彼らは、主イエスのところに来て、「先生」と呼びかけ、次のように質問をしました。「「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけなければならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」(19-23)

 

サドカイ派の人々は、主イエスやファリサイ派の人々が信じています復活信仰を否定するために、主イエスに次のように質問を始めました。「「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけなければならない』と。

 

サドカイ派の人々は旧約聖書のモーセ五書だけを重んじました。すなわち、旧約聖書の創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記です。この五書だけが、彼らにとって「モーセはわたしたちのために書いています」聖書でした。

 

『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけなければならない』。

 

この聖書の御言葉は、モーセが申命記255節において神の民にレビラト婚について命じた掟です。長男が結婚し、子を設けないで死んだ場合、次男が長男の嫁を妻にし、長男の子を設けなくてはなりませんでした。

 

サドカイ派の人々は、それに従って主イエスに次のように質問しました。もしモーセが命じるレビラト婚に従う場合、復活の時に次のような不都合が生じるのではありませんか、と。

 

ある人に七人の兄弟がおりました。長男がある女性と結婚し、跡継ぎを設けないで死にました。次男は、長男の嫁を妻にしました。しかし彼も跡継ぎを設けないで死にました。こうして三男から七男までその女性を妻にしました。しかし、皆死にました。そして女性も死にました。復活の時、その女性の夫は、七人の兄弟たちの中のだれになるのでしょうか。

 

創世記には主なる神が結婚を一人の男と女に定められています。結婚は本来一夫一婦です。ですから、彼らは、主イエスに復活の時に七人の兄弟たちのだれが、その女性の夫となるのかと質問しました。

 

その質問の意図は復活を否定することでした。彼らは、主イエスにモーセが命じたレビラト婚に従うと、こうした矛盾があるのだから、復活はあり得ないと主張しようとしたのです。

 

ところが、主イエスは、彼らの質問に七人の兄弟たちのだれがその女性の夫なるとお答えになりませんでした。

 

主イエスは、「モーセはわたしたちのために書いています」と、彼らが言っています聖書とその聖書が証しする神の御力について、彼らの無理解を指摘されました。

 

主イエスは、彼らにこう言われました。「「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。

 

主イエスは、彼らに「あなたたちは聖書の目的と聖書が証しする神の御力を知らない」と断言されました。

 

彼らは聖書を、彼らの復活を否定する道具に用いました。聖書の過去の事例を根拠にして、自分たちが復活を否定することが正しいと思っていました。

 

しかし、聖書の目的は罪によって滅びる人間とこの世界に対して、神が新たな命を与え、新しい永遠の関係に入れる神の救いの御力を証しするものです。

 

主イエスは、彼らに復活の時、結婚はないと言われました。復活した人間は天使たちのようになると。

 

主イエスの御言葉は、今のわたしたちには神秘です。そしてこの世と復活した世界は異なるのです。

 

サドカイ派の人々に、主イエスはモーセ五書の中に死者の復活はあると主張され、こう言われています。

 

死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハム神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いしている。(2627)

 

主イエスは、彼らに復活の事実を、「モーセの書の『柴』の箇所」で証明しようとされています。

 

出エジプト記の3章です。主なる神がモーセを召し出される物語があります。羊飼いをしていたモーセは、シナイ山で主なる神に召し出されました。その時に柴が火に燃えており、その炎の中から主なる神が「モーセよ、モーセよ」と呼びかけられました。

 

主なる神は、彼に御自身をお示しになり、出エジプト記36節でこう言われました。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と。

 

マルコによる福音書は現在形で記しています。かつて主なる神は、アブラハム、イサク、ヤコブに現れ、彼らと契約を結ばれました。主なる神は彼らと彼らの子孫の神となり、彼らと彼らの子孫は主なる神の民となりました。それ以来主なる神は、彼らと彼らの子孫の神として、彼らと共に生きられました。

 

そして、主なる神は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神として彼らと共に生きておられたように、モーセと神の民イスラエルと共に生きておられるのです。シナイ山で主なる神は、彼らに主という御名で現れ、彼らと契約を結ばれました。そして、彼らの神となられ、神の民イスラエルと共に生きておられるのです。

 

わたしはあなたの父の神である」と言われているように、モーセの先祖のアブラハム、イサク、ヤコブは、死んでこの世から消滅してしまったのではありません。彼らの死後も、主なる神は彼らと共に生きておられるのです。彼らは、主なる神と共に永遠の命の中にあるのです。

 

主イエスの御言葉、「死んだ者の神ではなく生きている者の神である」という御言葉は不思議な御言葉です。

 

この御言葉は、直接死者の復活を述べていつわけではありません。

 

しかし、マルコによる福音書は、わたしたちにこの御言葉によってキリストの復活の希望を伝えているのです。

 

主なる神はアブラハムとイサク、そしてヤコブと契約を結ばれ、彼らと彼らの子孫を見捨てることなく、常に彼らと共に生きてくださったし、今もキリストは復活され、キリストの父なる神は、教会を見捨てることなく、今も共に生きてくださっています。

 

主なる神と共に、永遠に今を生きる保証がキリストの復活であり、わたしたちの復活なのです。

 

だから、わたしたちは、思い違いをすべきではありません。主イエスにあって死んでしまった兄弟姉妹たちは、既に死んでしまったものではありません。主イエスが復活し、今も生きておられるように、今もわたしたちと共に生きているのです。わたしたちも主イエスにあって死ぬのですが、主イエスが永遠に生きておられるように、永遠に生きるのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝、マルコによる福音書第121827節の御言葉を学べる機会を得ましたことを感謝します。

 

わたしたちに聖書と聖書が証しする神の御力を正しく理解させてください。キリストの十字架と復活を通して、わたしたちを罪から救い、死から解放し、永遠の命の恵みへと導かれる神の御力を信じさせてください。

 

聖書を通して、恵みの契約の神の祝福に与らせてください。神に見捨てられることなく、永遠に神と共に生きる命の恵みを得ていることに感謝させてください。

 

どうか来るべき御国の到来を、キリストの再臨を、わたしたちの復活を待ち望ませてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

マルコによる福音書説教62              2021516

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

                       マルコによる福音書第122834

 

説教題:「神を愛し隣人を愛する」

今朝は、マルコによる福音書の第122834節の御言葉を学びましょう。

 

主イエスの受難週の三日目(マルコ11:2013:37)に、主イエスはエルサレム神殿の境内に入られました。そして御自身のところにやって来たユダヤの指導者たちと激しい論争をされました(マルコ11:2712:27)

 

それを見守るひとりの律法学者がいました。彼は、主イエスがユダヤの指導者たちの質問に対して立派に答えられるのを見て、とても感動しました。

 

彼には、長年悩んできた神の律法の問題がありました。彼はそれを主イエスに解決してもらうために、主イエスのところにやって来ました。

 

ですから、彼には、主イエスを試み、罠に陥れようという悪意はありませんでした。

 

マルコによる福音書の1228節を御覧ください。「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」」。

 

あらゆる掟」とは、神の諸々の律法のことです。

 

月一度主日礼拝で旧約聖書の詩編を連続講解説教しています。今詩編119編を説教しています。この詩編のテーマは神の律法です。詩編119編は、神の律法を7つの言葉で言い表しています。「律法、戒め、掟、命令、御言葉、法、指図」です。

 

神の律法は、イスラエルの神、唯一の主が発せられた戒めです。

 

主イエスは、マルコによる福音書713節で、それを神の御言葉と言われています。ファリサイ派の人々と律法学者たちが先祖の言い伝えによって神の御言葉を無益なものにしていると非難されています。

 

主イエスは、マルコによる福音書101719節で御自身に永遠の命について尋ねた富める青年に神の戒めが永遠の命に至る道であると教えておられます。

 

このように主イエスにとって神の律法は、神の御言葉であり、永遠の命に至る道を教えるものでした。そして、主イエス御自身が受肉された神の御言葉であり、永遠の命は主イエスを通して開かれた道であります。

 

律法学者は、主イエスに「すべての戒めの中で第一の掟はどれですか」と質問しました。

 

ユダヤ教は、神の意志の統一がトーラーによって与えられると教えていました。だから、神の律法は一つのまとまったものであり、それゆえに神の律法のどれが掟の中で第一であり、第二なのかと区別することが本来不可能であると考えられていたのです。

 

ひとりの律法学者にとっては長年に悩み続けていた問題でありました。

 

ところが、主イエスは、神の律法を総計としての掟ともろもろの掟との区別をされています。

 

主イエスが言われている「第一の掟」と「第二の掟」は、総計としての神の律法です。主イエスは、神の律法全体が第一の掟、「神を愛せよ」、と第二の掟、「隣人を自分のように愛せよ」に区分できると教えられました。

 

だから、主イエスは、律法学者に次のように言われました。「「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:2931)

 

第一の掟は、旧約聖書の申命記第645節の御言葉です。主なる神は、神の民イスラエルに御自身だけが唯一の真の神であり、他に神はないと宣言され、全身全霊で彼らが主なる神に仕えるようにお命じになりました。

 

第二の掟は、旧約聖書のレビ記1918節です。「隣人を自分のように愛しなさい。」という主なる神の命令を、主イエスは、第一の掟同様に、神の律法の重要な掟であると言われているのです。

 

このように主イエスは、神の律法のすべてを価値の等しい律法のまとまりとは理解されていません。第一の掟と第二の掟は、神の律法の他の諸々の戒めに対して明らかに重要度が異なるのです。

 

主イエスは、この神の律法理解によって、ファリサイ派の人々や律法学者たちが先祖の言い伝えを重んじて、礼拝における献げものの戒めを神の御言葉よりも重視する誤りを批判されました(マルコ7:113)

 

ひとりの律法学者もそのことに気づきました。だから、彼は主イエスからの彼の質問に対する答えだけでは満足できませんでした。

 

マルコによる福音書123233節の御言葉を御覧ください。「律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」

 

彼は、主イエスが答えられたことを、主イエスの信仰告白と受け取りました。すなわち、主イエスは、「主なる神はわたしたちの神、主はひとり。ほかに神はない」と告白されたと。そして、彼は心に感動を覚えて、主イエスが答えられた第一の掟と第二の掟が、神を愛することと自分のように隣人を愛することが、どんな動物犠牲を主なる神に献げることよりも良きことであると答えました。

 

主イエスは、この律法学者に対して好意を持たれました。律法学者が適切な答えをしたからです。律法学者は、思慮深く、賢く答えたのです。

 

主イエスは、彼に「「あなたは、神の国から遠くない」」と言われました。主イエスは、更に彼に、御自身について何と答えるのかと、決断を促されました。

 

今朝の主イエスとひとりの律法学者との対話は、マルコによる福音書を生み出した初代キリスト教会において、特に異邦人たちに福音宣教していたユダヤ人キリスト者たちにとっては大きな関心事でなかったでしょうか。

 

ユダヤ人キリスト者たちは異邦人たちに主なる神以外に神がいないことを伝えたでしょう。そしてその唯一の神、主が神の御言葉である聖書を通して異邦人たちに求められるのは、偶像礼拝のように神々に犠牲をささげることではありません。神を愛し、自分のように隣人を愛して生きることです。

 

主イエスが律法学者に言われました。「あなたは神の国から遠くはない」と。

 

わたしは今朝のこの御言葉を、読み、祈り、考えました。そして主イエスが「あなたは神の国から遠くない」と言われたのは、わたしたち上諏訪湖畔教会にも言われたのだと思ったのです。

 

教会における礼拝の喜びは、神の御国の前味です。聖餐式が暗示していますように、わたしたちの真の喜びは神の御国にて復活の主イエス・キリストにお会いし、永遠の命の交わりに入れられることです。

 

教会は、そこから遠くないのです。わたしたちの教会における主にある交わりは、神の御国における復活の主イエスとの交わりから遠くありません。

 

なぜなら、教会はキリストの十字架の愛に支えられているのです、わたしたちに「神を愛し隣人を愛せよ」と命じられた父なる神御自身がキリストの十字架を通してわたしたちを愛されました。そしてわたしたちを神の民とし、聖霊と聖書の御言葉の導きによってわたしたちが神を愛し、自分のように隣人を愛して生きることができるようにしてくださっているのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝、マルコによる福音書第122834節の御言葉を学べる機会を得ましたことを感謝します。

 

どうか、わたしたちが聖霊と聖書の御言葉に導かれて、神を愛し隣人を自分のように愛して生きることができるようにしてください。

 

コロナウイルスの災禍の中で礼拝に集まれない兄弟姉妹も、主日礼拝のオンライン化を通して、共にわたしたちの礼拝に参加させてください。

 

主イエスが神の律法を、第一の掟が神を愛すること、第二の掟が自分のように隣人を愛することと教えてくださり、聖霊の助けによって神を愛し自分のように隣人を愛せるようにしてくださっていることを感謝します。

 

罪ゆえにわたしたちの信仰生活と教会生活が神を愛し隣人を愛することにほころびが出ますが、十字架のキリストのゆえに常に神がわたしたちの罪を赦してくださっていると確信させられて感謝します。

 

残念なことに、こんなにコロナウイルスの災禍の中にあっても、人々は神を恐れることもなく、神に無関心に生きています。

 

わたしたちだけが主イエスの十字架と復活を、この世の人々に証しできます。どうか、聖霊の助けをいただき、わたしたちの家族に知人に、キリストを伝えさせてください。

 

どうかこの世の終わりを思い、来るべき御国の到来を、キリストの再臨を、わたしたちの復活を待ち望ませてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

マルコによる福音書説教63              202166

イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。

 『主は、わたしの主にお告げになった。

「わたしの右の座に着きなさい。

わたしがあなたの敵を

あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』

 このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。

                       マルコによる福音書第123537

 

説教題:「受難の主イエスはダビデの子以上の者」

今朝は、マルコによる福音書の第123537節の御言葉を学びましょう。

 

受難週の三日目(マルコ11:2013:37)に、主イエスとユダヤの指導者たちとの激しい論争(マルコ11:2712:27)は、一人の律法学者の主イエスへの質問で終わりました。

 

さて、主イエスは、律法学者が思慮深く、賢く答えたので、彼に「「あなたは、神の国から遠くない」」と言われました(34)

 

ひとりの律法学者が主イエスと多くの議論をつくして真理に至ったからではありません。彼が主イエスの教えに心から同意したからです。

 

神の国と教会における多くの議論とに関係はありません。神の国は主イエスを受け入れることです。主イエスに同意することです。教会が宣教しているキリストの福音に同意することです。

 

そして同意した者は、あえて質問をすることはありません。主イエスを受け入れた者が、どうして主イエスに疑問をもち、質問することがあるでしょうか。ひとりの律法学者のように主イエスに同意した者は、あえて質問することはありません。

 

だから、マルコによる福音書は、1234節後半で「もはや、あえて質問する者はなかった」と記しています。こうして神殿における主イエスとユダヤの指導者たちとの論争が終わったということです。

 

そして、マルコによる福音書は、今朝の1235節の御言葉につなげています。「イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。

 

マルコによる福音書は、教師である主イエスを強調しています。主イエスは、12弟子たちを教えるだけではありません。多くの群衆を教えられています。

 

マルコによる福音書は、受難週の三日目の神殿における主イエスの教えを強調しています。主イエスとユダヤの指導者たちとの論争とひとりの律法学者との問答を通して、主イエスには教師として教える権威があることを、わたしたち読者に強調しています。

 

そしてマルコによる福音書は、神殿で教えられていた主イエスが次のような質問されたと、わたしたち読者に紹介しています。

 

35節です。「「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。

 

主イエスは誰に質問されたのでしょうか。マルコによる福音書は記してはいません。37節後半に「大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。」と、マルコによる福音書は記しています。主イエスは、神殿で主イエスの教えを喜んで聞いていた群衆たちに向かって質問されたのでしょう。

 

受難の主イエスは、神殿で主イエスの教えを喜んで聞いていた群衆に向かって、「わたしを誰と言うのか」と質問されました。主イエスの御人格について、御自分は律法学者たちが民衆たちに教えているように「ダビデの子なのか」と質問されました。

 

ダビデはイスラエル王国の二代目の王です。紀元前1010年-970年まで40年間イスラエルを治めました。羊飼いから敵国のペリシテの勇士大男のゴリアトを倒して、先代の王サウルの家来に召し抱えられ、出世し、王となりました。主なる神を畏れる信仰の人でした。サウル王に迫害され苦難を味わいました。しかし、彼はユダヤの国を統一し、都をエルサレムに据えて、そこに神の幕屋を移しました。パレスチナにダビデ王国を打ち立てました。

 

ダビデの子」は、メシアの称号です。ダビデ王国はダビデ王の子、ソロモン王の死後南北に分裂し、北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされて、神の民たちはアッシリアに捕囚されました。南ユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされ、神の民たちはバビロニア帝国に捕囚されました。

 

このように神の民たちは、異民族の王の支配を受けるようになり、ダビデ王のような理想の王がダビデ王の子孫から現れ、神の民イスラエルに勝利を与えてくれることを強く希望するようになりました。

 

ヨハネによる福音書は、74044節において主イエスの御言葉を聞いた群衆たちが、主イエスはメシアか否かと対立したことを記しています。「メシアはダビデの子孫で、ダビデの村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか(ヨハネ7:42)

 

このように律法学者たちはユダヤの民衆に教えていたのです。

 

 しかし、彼らが教えるメシア、ダビデの子は政治的メシアでした。この世の王としてのメシアでした。

 

だから、マルコによる福音書は、1047節で目の不自由なバルティマイが主イエスに目の癒しを求めて、「ダビデの子よ、憐れんでください」と叫ぶと、48節で多くの人々が彼を叱って、黙らせようとしたと記しています。受難の主イエスは、多くの人々が期待したこの世の王ではありませんでした。

 

主イエスは、真の意味で「ダビデの子」メシアです。しかし、律法学者たちが民衆に教えていたダビデ王の子孫から現れるこの世の王ではありません。

 

だから、主イエスは、詩編1101節のダビデ王の言葉を引用されました。36節です。「ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。

 『主は、わたしの主にお告げになった。

「わたしの右の座に着きなさい。

わたしがあなたの敵を

あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』

 

 主イエスは、詩編1101節の御言葉は、ダビデ王が聖霊を受けて、すなわち、聖霊において語ったと言われています。

 

 主イエスの時代の人々が詩編1101節をメシア預言として受け入れていたかどうかは分かりません。分かっていることは、マルコによる福音書は詩編1101節をメシア預言として受け入れていたことです。初代教会は、詩編1101節を主イエスの勝利と高挙と理解していました。そして、復活の主イエスが父なる神の右に座され、すべての敵を足もとに置かれる預言として受け入れていたのです。

 

 マルコによる福音書は、初代教会の理解を前提にしています。受難の主イエスは御自身を、律法学者たちが教えるダビデの子、すなわち、ダビデ王の子孫から生まれたこの世の王以上の者であると主張されたと記しています。

 

 その証拠が詩編1101節のダビデの御言葉でした。ダビデが言う「」は主なる神です。「わたしの主」は君主、統治者のことです。詩編1101節を、初代教会はメシア預言として理解しました。そこで「わたしの主」をメシアの予型と考えたのです。

 

 マルコによる福音書は、主イエスもその理解であったと記しています。主イエスは、ダビデがメシアをわたしの主と呼んでいるのだから、メシアは主なる神であり、ダビデの子であるこの世の王以上の者であると言われているのです。

 

 受難の主イエスは、これから十字架刑でゴルゴタの丘で殺されます。しかし、受難の主イエスは、この世の王以上の者です。死から復活し、勝利者として父なる神の右に座され、再臨の時にすべての者を御自身の足下に置かれ、裁かれます。

 

 大勢の群衆たちは、主イエスの教えを喜んで聞きました。彼らは、三日後には主イエスを十字架につけよと叫ぶのです(マルコ15:1314)

 

 

 しかし、今朝の御言葉では主イエスが群衆にとても人気があり、主イエスと律法学者との亀裂は増々大きくなっていったことを、マルコによる福音書は記しているのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝、マルコによる福音書第123537節の御言葉を学べる機会を得ましたことを感謝します。

 

どうか、わたしたちにも聖霊をお与えください。今朝の御言葉を通して、主イエスがこの世の王以上のお方であることを信じさせてください。

 

そのお方が十字架の道を歩まれ、わたしたちを贖って下さったことを信じさせてください。

 

どうか、死に勝利されたキリストを待ち望ませてください。今なおコロナの災禍の中で死に支配に屈しているわたしたちが、キリストの再臨によって永遠の命へと移される恵みに与らせてください。

 

今与る聖餐の恵みを、期待させてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

マルコによる福音書説教64              2021613

イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。

イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。』」

                       マルコによる福音書第123844

 

説教題:「主イエスの御前における影と光」

今朝は、マルコによる福音書の第123844節の御言葉を学びましょう。

 

受難週の三日目(マルコ11:2013:37)に、主イエスは、神殿に集まって主イエスの教えを聞いている者たちに、「「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。」」と質問されました(35)

 

律法学者たちはユダヤの民衆に「メシアはダビデの子だ」と教えていたのです。彼らが教えるメシア、ダビデの子は、ダビデの子孫から出て来る政治的メシアでした。この世の王でした。

 

しかし、主イエスは、詩編1101節のダビデ王の言葉を引用されて、彼らのメシアを否定されました。ダビデ王が聖霊を受けて、すなわち、聖霊において語ったメシアは、主なる神でありました。この世の王ではなく、主なる神でした。

 

 詩編1101節で預言されたメシアを、初代教会は、主イエスの勝利と高挙と理解していました。そして、主イエス・キリストは、死から復活し、昇天されて、父なる神の右に座され、すべての敵を足もとに置かれ、裁かれるお方です。

 

 マルコによる福音書は、初代教会のメシア理解を前提にしています。受難の主イエスは御自身を、律法学者たちが教えるダビデの子、すなわち、ダビデ王の子孫から生まれたこの世の王以上の者である、主なる神であると主張されているのです。

 

 マルコによる福音書は、1237節後半で「大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。」と記しています。主イエスは、大勢の群衆にとても人気がありました。

 

 マルコによる福音書は、大勢の群衆たちが喜んで聞いた「イエスの教え」の中に律法学者たちの偽善に対する主イエスの非難と裁きがあったことを記しています。そして、マルコによる福音書は、律法学者とは対照的にひとりの貧しいやもめの献金を主イエスが賞賛されたことを記しています。主イエスは、御自身の御前にある律法学者の影の部分を裁かれ、ひとりの貧しいやもめの信仰の光の部分を誉められました。

 

主イエスの「教え」は、律法学者たちとは異なりました。主イエスの教えには、権威がありました。今朝の御言葉を読まれても、その権威は明らかであります。

 

主イエスは大勢の群衆たちに律法学者たちに気を付けるように警告されています。彼らの見せかけの敬虔を非難されています。

 

彼らは身なりを整えて人前を往来することを好みました。広場で大勢の人々に挨拶されることを好みました。会堂や招待された宴会では上席に座ることを好みました。彼らは、それらによって自分たちの地位と名声を誇りました。彼らは、今日の弁護士のように人々の争いの仲裁をしていました。主人を亡くしたやもめから家のもめ事を相談されると、やもめを助けないで、やもめの家を食い物にしていたのです。また、人々の前で長い祈りして、自らの敬虔さを誇っていました。

 

主イエスは、大勢の群衆に言われました。「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と。彼らを裁かれるのは、主イエスです。「人一倍」は、あふれるほどのという意味です。

 

主イエスは、御自身の教えを通して、人の罪を赦す権威を持たれているし、人にあふれるほどに厳しい裁きを行う権威を持たれています。主イエスは全権をもって、人の罪を赦し、裁き、奇跡を行うお方です。

 

これが、マルコによる福音書がわたしたちに伝えている神の子主イエス・キリストです。

 

マルコによる福音書は、わたしたちに神殿における主イエスの教えが大勢の群衆たちに人気があったことを伝えると共に、律法学者たちの偽善を教える主イエスの教えには、彼らを裁く権威があることを伝えています。

 

そして、マルコによる福音書は、主イエスが律法学者たちを非難されたこととセットで、彼らに食い物にされていたひとりの貧しいやもめの信仰を主イエスが誉められたことを記しています。

 

イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。』」(4144)

 

エルサレム神殿の婦人の庭に13個の賽銭箱が置かれていたそうです。定められた租税を納めるための賽銭箱であり、特定の目的を持った賽銭箱であり、残り一つの賽銭箱が自由献金に用いられていました。神殿で参拝者たちが賽銭箱に投げ入れたお金は、祭司たちによって神殿の貯蔵庫に保管されました。

 

そのために賽銭箱に投げ入れられた献金は、祭司たちによって吟味されました。本来であれば、ひとりの貧しいやもめのレプトン二枚の献金は、祭司によって嘲笑されたでしょう。

 

人の目からすれば、祭司の態度は当然です。レプトンは、薄い、小さいという意味です。当時のギリシアの最小青銅貨でした。一レプトンは、当時の一日の賃金デナリオン銀貨の128分の1でした。

 

ギリシアのレプトン二枚は、ローマ帝国の貨幣では「一クァドランス」です。一クァドランスは、ローマ帝国の青銅貨で、一デナリオン銀貨の64分の1でした。

 

婦人の庭で賽銭箱に献金を投げ入れることは、金持ちが自分の豊かさを誇る機会でありました。彼らは、有り余るお金を献金箱に投げ入れていました。その献金で、彼らの生活が困ることはありません。

 

ところが、ひとりの貧しいやもめは、人の目には雀の涙ほどの献金を、賽銭箱に投げ入れました。しかし、彼女の献金は、彼女の全財産であり、生活費のすべてでした。

 

どうして主イエスは、その女性の献金が彼女の全財産、生活費のすべてであることを知られたのか、マルコによる福音書は何も記してはいません。関心もありません。

 

マルコによる福音書が関心のあるのは、主イエスのひとりの貧しいやもめに対する評価だけです。

 

主イエスは全権を持たれた神の子です。そのお方の献金者に対する評価は、献金の額ではありません。

 

主イエスは、献金の額よりも献金する者の心を御覧になりました。聖書が一貫して主張していることは、主なる神は人の心を御覧になるということです。

 

主イエスは、敬虔であることを見せかけることで、貧しいやもめの家を食い尽くす律法学者の貪欲の心を御覧になり、厳しく裁かれました。

 

他方、人の目には嘲りたくなるほどの献金であっても、ひとりの貧しいやもめは自分の全財産、生活費すべてを献げました。彼女は、その献金によってすべてを、彼女の命さえ、主なる神に委ねたのです。

 

受難の主イエスは、彼女の献金を御覧になり、12弟子たちを呼び寄せられました。主イエスは、御自身に従う12弟子たちに、彼女の信仰を、すべてを主なる神に委ねる信仰を学ばせようとされました。

 

主イエスの12人の弟子たちが一人の貧しいやもめを見て、どのような態度を示したかは、マルコによる福音書は記してはいません。なぜなら、今朝この御言葉を聞いているわたしたちの、この教会の問題であるからです。

 

しかし、一つ注意が必要です。どうして受難の主イエスが12弟子たちを呼び寄せて、彼女の献金を誉められたのでしょうか。

 

当然、わたしたちは目で見たことを答えるでしょう。多くの金持ちは有り余る中から献金したが、彼女は全財産、生活費すべてを献金したからだと。

 

では、わたしたちが全財産、生活費すべてを献金すれば、主イエスは喜んで下さるのでしょうか。

 

初代教会において献金は大きな問題でした。見せかけの信仰に陥りやすいからです。使徒言行録5章にアナニヤとサフィラ夫婦が見せかけの献金をし、土地の代金をごまかして献金した事件が記されています。彼らは、多く教会に献金したと見せかけて、主なる神を欺こうとしました。

 

このように献金は、主なる神に依り頼む信仰なくしては、見せかけの偽りとなる危険があります。

 

たとえわたしたが全財産、生活費全部を献金しても、主イエスにすべてを委ねる信仰がなければ、見せかけの敬虔に陥る危険があります。

 

反対に生活費のすべてを献金しなくても、すべてを主イエスに委ねて、得られた収入から最初に献金のために取り除いて、残りのお金で生活費を賄うようにすれば、有り余る中から献金するという誤りを避けることができると思います。

 

そして、受難主イエスに、わたしたちの信仰の目を注ぎます時に、主イエスの十字架が神のわたしたちに対する愛と憐れみであることを知るでしょう。

 

わたしたちにとって必要なことは、律法学者たちや有り余る中から献金する者たちの見せかけの信仰ではありません。

 

わたしたちに対する神の愛と憐れみの御心です。人の目には嘲られるひとりの貧しいやもめの献金を、受難の主イエスは受け入れてくださいました。彼女を憐れんでくださいました。

 

わたしたちは、この教会で献金するごとに、この女性のように主イエスは御自身の十字架によって、罪深いわたしを受け入れ、憐れんでくださったことを心に留め、主なる神に感謝しようではありませんか。 

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝、マルコによる福音書第123844節の御言葉を学べる機会を得ましたことを感謝します。

 

主イエスの御前における影と光、それがこの世のキリスト教会の姿です。見せかけの信仰と真実の信仰が常に教会において交差しています。

 

わたしたちの目には、主イエスが非難される律法学者は敬虔な人に見え、教会で大切な人に見えます。他方、レプトン二枚献金した女性は、教会にとって何の役にもたっていないと思ってしまします。

 

しかし、今朝の御言葉を通して、主イエスは12弟子たちだけではなく、わたしたちにも献金を通して主なる神がお求めのものが、すべてを主なる神に委ねる心であり、主イエス・キリストの十字架を通しての神の愛と憐れみに感謝することであると教えられました。

 

どうか、わたしたちを見せかけの信仰からお守りください。どうか、礼拝献金を通して、自らを主に委ねる信仰を、主イエスの十字架を通して示された神の愛と憐れみに感謝する心を養うことができるようにしてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

マルコによる福音書説教65              2021620

イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときは、どんな徴があるのですか。」イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗るものが大勢現われ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。」

                       マルコによる福音書第1318

 

説教題:「神殿の崩壊の時と終末のしるし」

今朝は、マルコによる福音書の第1318節の御言葉を学びましょう。

 

マルコによる福音書は、12章でエルサレム神殿の境内を舞台にした物語を記してきました。

 

主イエスは、エルサレム神殿を清められました(マルコ11:1518)。そして、主イエスはその神殿の境内でとユダヤ指導者たちと論争し(マルコ11:2712:27)、律法学者の見せかけの敬虔を非難され(マルコ12:3840)、婦人の庭で賽銭箱にレプトン銅貨二枚を投げ入れた貧しいやもめをお誉めになりました(マルコ12:4144)。彼女が全財産、生活費のすべてを神さまに捧げたからです。

 

この主イエスの一連の行為を、マルコによる福音書はエルサレム神殿での祭儀に対する主イエスの批判であると理解しているのです。

 

もはやエルサレム神殿での祭儀、すなわち、礼拝は、主なる神を、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛する信仰よりも、偽りの信仰が幅を利かせていたのです。

 

主なる神を礼拝すべき所が、主なる神よりも己を誇る所になるならば、そこに主なる神が臨在されることはありません。どんなに人の目で見て、立派な宗教的建物であっても、主なる神はお見捨てになるでしょう。

 

主イエスに従っていたひとりの弟子が、エルサレム神殿を出て行かれる主イエスの後について行き、「先生、御覧ください。何とすばらしい石でしょう。何とすばらしい建物でしょう」と、エルサレム神殿をほめたたえました。

 

ヘロデ大王がエルサレム神殿を修復し拡張しました。壮麗ですばらしい神殿でした。主イエスのひとりの弟子は、エルサレム神殿の土台である大きな石と壮麗ですばらしい神殿の建物を見て、驚いてしまいました。彼の口から思わず賞賛の言葉が出ました。

 

主イエスは、ひとりの弟子に言われました。「あなたは、これらの大きな建物を見ているのか。ここに一つの石も崩されないで、他の石の上に残されることはない」と。

 

 

これは、主イエスがエルサレム神殿の崩壊を預言されたのです。紀元70年に主イエスが預言された通りにエルサレム神殿はローマ帝国の軍隊によって徹底的に破壊されました。

 

主イエスは神殿を出て、オリーブ山に行かれました。弟子たちもついて行きました。主イエスは、オリーブ山で神殿に向かって座られました。

 

主イエスの預言を聞いておりました4人の弟子たち、ペトロとヤコブとヨハネとアンデレが人目を避けて主イエスのところに来ました。そして、彼らは主イエスに質問しました。「わたしたちに言ってください。いつ、これらの事はあるのですか。これらの事がすべて実現しようとするとき、何か徴がありますか。」(4)

 

主イエスは四人の弟子たちの質問に答える形で、長い説教をされ、彼らが世の終わりの徴を求めることを批判されたのです。

 

523節の主イエスの黙示文学的説教が具体的に何を指しているのか、一つ一つ見て行きたいと思います。

 

2426節で主イエスは、御自身の再臨を述べておられます。だから、そこから先が終末の描写です。だから、主イエスは、4人の弟子たちに523節で終末の出来事とか、終末が始まる徴を教えておられるのではありません。

 

マルコによる福音書は、主イエスの教えが4人の弟子たちの問いに対する答えではなく、彼らの終わりは何時起こり、それらがすべて実現する時の徴は何かと問うことが無意味なのだと言われているのです。

 

この世におけるキリスト教教会という実存は、世の終わりにあるのでも、世の終わりにすべてのことが実現するときにどんな徴があるのかというところにもありません。

 

ではどこにあるのか、復活された主イエス・キリストと再臨される主イエス・キリストの間にあるのです。すなわち、この世のキリストの教会は歴史の中にあるのです。

 

その歴史の中におけるそれぞれの出来事が、この世におけるキリストの教会とキリスト者にとっては重要なのです。

 

だから、主イエスは、この世の終わりの徴を求める4人の弟子たちの質問に答えられて、黙示文学的説教を話し始められました。これからこの世でキリスト教会とキリスト者たちに起こる歴史的出来事です。

 

キリストの教会とキリスト者たちは、この世、罪の世に生きるのです。キリストが再臨される時まで、この世の歴史的経過の中で様々な出来事を経験するのです。だから、主イエスは、4人の弟子たちに5節で「気をつけなさい、だれかがあなたがたを惑わさないように」と警告されるのです。これは、主イエスの説教の表題です。

 

4人の弟子たちがこの世の終わりはいつ来るのか、終わりが実現する時にどんな徴があるのかと質問したことは、主イエスには無意味だったのです。

 

それよりも主イエスは彼らに迷わされないように注意せよと言われました。主イエスは、この世の終わりがいつ来るのか、その時にどんな徴があるのかを話されているのではありません。むしろ、教会やキリスト者たちがこの世のいろんな出来事でこの世の終わりの徴だと騒ぎ立て、正気を失ってしまうことを警告されているのです。

 

主イエスは、6節でキリスト再臨を叫ぶ者が多くの人々を惑わすだろうと警告されています。主イエスは、7節で戦争が終末の徴だと言う者がいても、慌ててはならないと警告されています。主イエスは、8節で地域や国家間の紛争、地震、飢饉が起こっても、これらは産みの苦しみの始まりであると言われています。

 

実際にエルサレム教会やキリスト者たちは、偽キリスト、偽預言者たちに惑わされ、この世における戦争、地震、飢饉等の出来事があれば、終わりが近いと、キリストの再臨を待ち望む信仰を燃え上がらせていたのです。

 

使徒パウロたちが使徒言行録の1422節でリストラ、イコニオン、アンティオキアの教会のキリスト者たちの信仰を励まし、こう告げていました。「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と。

 

この世で偽キリスト、偽預言者に惑わされることも、戦争、紛争、地震、飢餓、疫病も、この世におけるキリスト者が多くの苦しみを経て、神の御国に入るための産みの苦しみの始まりに過ぎません。

 

この世における教会とキリスト者たちは、今終末を生きているのです。しかし、キリストの再臨が何時であるか、だれも知りません。その時までこの世における教会とキリスト者たちは、歴史における多くの苦難の出来事を経験しなければなりません。

 

主イエスは、この世における苦しみの出来事が終わりの徴ではなく、産みに苦しみの始まりであると言われました。

 

今わたしたちは、20世紀の終わりごろから国々の戦争、民族間の殺し合い、地震と津波の被害、飢餓、台風等の自然災害、そして今コロナウイルスが世界中で流行しています。

 

これらは、この世の終わりを告げる徴ではありません。苦しみはまだまだこの世において、歴史の中で起こります。

 

惑わされないことが重要です。慌てないことが重要です。復活の主イエスは、必ず再臨されます。この世の教会とわたしたちにとって、大切なことはこの世には多くの苦しみがあるけれども、教会とわたしたちには神の御国が用意されているし、再臨のキリストによって教会とわたしたちはこの世に勝利するということです。わたしたちは、復活の主イエス・キリストによって死に打ち勝つ信仰を得ているのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝、マルコによる福音書第1318節の御言葉を学べる機会を得ましたことを感謝します。

 

だれもがこの世の終わり、キリストの再臨が何時であるのか、それらが起こるときにどんな徴があるのかと質問します。

 

主イエスは、その質問の無意味なことを告げられ、わたしたちに惑わされないようにと警告されました。

 

いつの世にも偽キリストが現れ、偽預言者が現れ、わたしがキリストだと言い、再臨のキリストが来たという者がいます。どうかわたしたちがその惑わしに耳を傾けることなく、主イエスが来られることを待ち望ませてください。

 

戦争、地震、飢餓、疫病と、この世ではいろんな苦しみの出来事が起こりますが、わたしたちは主イエスが来られるまで、この世で多くの苦しみを経なければならないことを心に留めさせてください。

 

最後まで耐え忍ぶ者は救われると、主イエスは約束してくださいました。毎週礼拝を楽しみ、主にある兄弟姉妹の交わりを楽しみ、御国の到来を待ち望ませてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。