コリントの信徒への手紙一説教04 主の2014年2月2日
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。
「わたしは知恵のある者の知恵を滅ぼし、
賢い者の賢さを意味のないものにする。」
知恵ある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
コリントの信徒への手紙一第1章18-25節
説教題「神の知恵と人の知恵」
パウロは、クロエの家の者たちからコリント教会の兄弟たちが指導者争いをし、一つの教会の中で幾つかのグループに分かれていることを知らされました(Ⅰコリント1:10-13)。
パウロは、コリント教会の兄弟たちの病の一つである分派争いを癒そうと、「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」と、主イエス・キリストの名において一致を勧めました(Ⅰコリント1:10)。
パウロは、コリント教会の兄弟たちの病を癒すことができるのは、「キリストの十字架」であることを知っていました。だから、パウロは、コリント教会の兄弟たちに彼がコリント教会に遣わされた使命、すなわち、福音を告げ知らせることを語り、「キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせている」ことを伝えました(Ⅰコリント1:17)。
パウロは、コリント教会の兄弟たちに17節で神の知恵である「キリストの十字架」と人の知恵である「言葉の知恵」を二つ並べ比べて話しました。
そこで今朝の18-25節において神の知恵、神の力である「十字架の言葉」と人の知恵をさらに説明しています。キリストの十字架をむなしいものにしてしまわないためです。すなわち、教会の礼拝において語られている説教がむなしいものとならないためです。
ここでパウロは、コリント教会の兄弟姉妹たちに「十字架の言葉」の前にこの世と人の知恵は愚かであり、「十字架の言葉」のみがわたしたちを救うことのできる神の力、神の知恵であることを明らかにしようとしています。
「十字架の言葉」の「言葉」は、教理や教えを意味しています。キリストが十字架で死なれたという事実とそれが何を意味するのかを教えることが、「十字架の言葉」であります。それは、使徒パウロが、コリント教会の兄弟姉妹たちに告げ知らせていたキリストの福音の内容そのものであります。今わたしたちが教会の礼拝において聞いている説教であります。
パウロは、20節と21節に「この世」「世」と述べていますね。「世」とは、世界とか、時代、世代を意味します。パウロがこの「世」という言葉を用います時、それは滅びる世界、時代、世代という意味です。ですから、パウロは、コリント教会の兄弟たちにこの手紙の7章31節で、「世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。」と警告しています。
使徒パウロにとってわたしたちが生きている世界は、悪魔や死や罪が支配する地上の過ぎゆくところであり、時代であります。そして、わたしたち全人類は、アダムの罪と堕落により、この世界の中に腐敗して生まれ、罪の中に沈んでいるのです。
キリスト教会は、あたかもノアの箱舟であります。罪の中に沈んでいるわたしたちに、キリストは教会を通して「キリストの言葉」を語ります。
それが、毎週の日曜日に語られている礼拝の説教であります。パウロは、その説教が2種類の人間を分けていると述べています。そのままこの世において罪の中に沈んで「滅んでいく者」と罪の中から「救われる者」であります。
この2種類の人間は、現在進行形であります。まだ決定的ではなく、滅びと救いに向かって二つの道を進みつつあるという状態であります。
「十字架の言葉」、すなわち、教会の礼拝の説教は、この2種類の人間たちに異なる反応を生じさせるのです。滅びの道を歩んでいる者には、愚かという反応を起こさせ、救いにあずかる者には、神の力であるという反応を起こさせるのです。
パウロは、「十字架の言葉」、わたしたちがこの教会の礼拝において聞いている説教を、「わたしたち救われる者には神の力です」と力を込めて言っていますね。
これは、この世の罪に沈んでいるわたしたちを救い得るのは、「キリストの言葉」のみが唯一の道であり、手段であると、パウロは力強く宣言しているのです。
ユダヤ人たちにはキリストが神の呪いの十字架に死に、ギリシア人たちにはキリストが一人の犯罪人として十字架の極刑に死なれました。しかし、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、わたしたちキリスト者にとっては、キリストはこの世の罪に沈み、永遠の滅びに定められたわたしたち罪人の身代わりに十字架に死なれたのです。
この「十字架の言葉」は、人の言葉や知恵ではありません。まさに神の知恵であり、神の力なのです。
この世においてわたしたちは、アダムの原罪のゆえに腐敗して生まれ、この世の中で罪に沈んでいるというのが、わたしたちキリスト者が知っているこの世の現実であります。
わたしたちは、実際に十字架の言葉によって、教会の礼拝説教を聞くことを通して、救われました。パウロは、「実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマの信徒への手紙10:17)と述べています。
パウロは、コリント教会の兄弟たちに「キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせる」と述べています。人の知恵が「十字架の言葉」を妨害するからです。人とこの世の知恵は、神の御前に愚かであります。
使徒パウロは、旧約聖書のイザヤ書29章14節の御言葉から主なる神が人の知恵を、この世の知恵を滅ぼし、無意味にされたと宣言します。
預言者イザヤが生きていました世界では、南ユダ王国が主なる神に信頼しないで、彼らの知恵を用いて敵国アッシリア帝国から国とエルサレムの都を守ろうとしていました。主なる神は、預言者イザヤを遣わして南ユダ王国の王や高官たちに、次のように言われました。主なる神御自身が南ユダ王国とエルサレムの都をお守りになり、主に頼らない彼らの知恵が不要であり、空しいものであることを明らかにすると。
パウロは、コリント教会の兄弟たちに問いかけます。あなたがたが救われた時、知恵ある者はどこにいたのか。律法学者はどこにいたのか。この世の評論家はどこにいたのか。彼らは、あなたがたの救いに何の役にも立っていないのではないか。
礼拝説教において説教者がキリストを語らないで、この世の事だけを語り、彼の知識のみを語り、わたしたちにただ道徳のみを勧めるだけであれば、聞いていますわたしたちは、語る者の知恵によって自分の罪に目覚め、そして罪を悔いて、キリストを信じ救われることができるでしょうか。
パウロは言っています。悪魔と罪と死が支配し、過ぎ去り、滅びるこの世は、だれも自分の知恵で神を知ることに失敗していると。
この世界と人間は、主なる神が御自身の知恵によってお造りになりました。そして、主なる神は、御自身に似せてわたしたち人間を男と女に創造されました。そして、人間は、主なる神と同様に知恵が与えられました。しかし、アダムとエバは、与えられた知恵によって主なる神を知り、従うことに失敗したのであります。
「それは、神の知恵にかなっている」と、パウロは言っていますね。パウロは、実際には「神の知恵によって」としか言ってはいません。パウロの言いたいことは、今も神に創造されたわたしたちとわたしたちの世界は、神の知恵に囲まれているということです。それにも関らず現代の天文学者も数学者、哲学者、文学者、経済学者、社会学者、そしてあらゆる評論家たちは天地万物を創造し、今も摂理によってこの世界とわたしたちを支配されている神を認めるには至っていません。
人間は、自らの知恵によって神に至ることができませんでした。ですから、パウロは次のように宣言しました。「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」(21節)。
そこで神は、人の知恵を尽くしてではなく、すなわち、人間の努力によってではなく、ただ聞くだけという、だれにでも楽々とでき、しかも、人の目に一見愚かと映る宣教という手段によって、わたしたちキリストを信ずる者を救おうと、御計画されました。
では、宣教とはどこが愚かな手段なのでしょうか。パウロは、ユダヤ人はしるし、すなわち、奇跡を求め、ギリシア人は知恵を探しますと述べていますね。
主イエスは、しるしを求めた律法学者たちに次のように言われました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる、預言者ヨナのしるしのほかにはしるしは与えられない。つまりヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」(マタイ12:39)。
主イエスは、御自身の十字架をしるしとして示されました。ところが、ユダヤ人たちは、その十字架につまずきました。彼らにとって十字架は神に呪われた者が付けられました。神に呪われた者が、彼らのメシア、キリストと信じることができませんでした。
他方、ギリシア人を代表する異邦人たちは、知恵を探求しています。使徒パウロがギリシアの哲学者の町アテネで伝道しましたときに、使徒パウロは、ある祭壇に「知られない神」と刻まれていましたので、その神が十字架で死んで、3日目に復活されたキリストであると伝えました。
哲学者たちは、神の不死を信じていました。だから彼らは、パウロが、神が死に、しかも極悪人同様に十字架という極刑で死ぬと語ると、それを愚かなであると嘲笑い、認めませんでした。不死の神が死に、極悪人がキリストであると信じられなかったからです。
しるしを求め、知恵を求める人は、向上心のある人です。わたしも、教会の門をくぐり、求道したとき、一生懸命学びました。キリスト教を知ることに心を奪われました。自分が学び、知識を深めれば、信仰に至ると思っていました。
しかし、毎週の礼拝で牧師が語ります説教は、ここでパウロが言っているとおりの事でした。「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(Ⅰコリント1:23-24)。
どこを説教しようと、牧師は、「十字架につけられたキリスト」を内容とする説教を語りました。誰もが経験していると思いますが、初めてキリストの十字架を聞いて、「キリストの十字架は、あなたに対する神の愛です」と聞いても、一度で納得できるものではありません。
そのうちに礼拝に慣れてきます。説教は、金太郎飴のようにどこを聞いても、キリストの十字架の言葉であり、いつの間にか礼拝で説教を子守歌代わりに、眠っていました。
長老が求道者のわたしに牧師の説教をノートに筆記するように勧められ、わたしは聖書にそのまま筆記しました。説教中に眠っていたのでしょう。聖書の至るところにみみずの線を引いた箇所がありました。
恥ずかしいわたしの礼拝生活の一端ですが、自分の失敗から本当にその通りだと学んだことが一つあります。ここでパウロが「召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えている」と言っていることです。
説教は、聖霊に導かれなくては、説教者が説教を作り、語ることはできません。だから、説教を作る牧師は、祈りをもって説教を作っています。「聖霊よ、御言葉を語らせてください。」と。そして、説教を聞く者も、牧師の説教を通して今わたしにキリストの言葉を聞き、理解し、キリストに従わせてくださいと祈り、礼拝に集ううでしょう。
なぜなら、キリストが聖霊と御言葉を通して、御自身に招かれている者は、パウロが言うこの「十字架につけられたキリスト」が実際にわたしの救い主としてわたしを救ってくださることを体験します。
聖霊が、説教を通してわたしに十字架に死なれたキリストを提示してくださいました。確かに十字架のキリストは人の目には愚かであるでしょう。弱く敗北のキリストでしょう。しかし、全能の神であるキリストが、罪なきお方であるキリストが十字架に死なれなければ、わたしはいつまでもこの罪の世に身を沈め、最後は亡びざるを得ません。
小さい時から死を恐れていました。自分では、良い子になることができませんでした。キリストが十字架に死なれたことは、わたしのためであると聞いた時に、そして、そのキリストが3日目に復活し、死に勝利されたことを聞いた時、わたしは、自分の罪を認め、キリストを自分の救い主として受け入れ、十字架がわたしの救いと確信しました。その時からわたしが幼いときから心に抱き続けた死への恐れが消えました。
十字架につけられたキリストは、神の愚かさであり、神の弱さです。しかし、人の賢さや強さとは異なります。この世の罪に沈み、死を恐れるわたしを十字架につけられたキリストは救ってくださいました。人は、どんな賢い人も強い人もわたしを罪と死から救うことはできません。
これからわたしたちを、キリストが聖餐式にお招きくださいます。十字架につけられたキリストの救いの恵みを豊かに実感できるのは、聖餐式にあずかる時であります。毎週の礼拝説教の御言葉に励まされ、この聖餐式へと招かれ、この罪の世に沈み続けるのではなく、永遠の御国へと、キリストに招いていただいていることをいつも感謝しています。この聖餐式ごとに死んだ者はよみがえり、永遠の命を喜び続けることになることを約束され、死を恐れたわたしのこの世における唯一の憩いの場が、この聖餐式であります。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、コリント教会における分派争いを通して、「十字架の言葉」、「十字架につけられたキリスト」の福音の重要性を学び機会を得て感謝します。
十字架のキリストの福音は、人の目には愚かであり、つまずきでありますが、救われたわたしたちには、神の力であります。
どうか神の恵みにより常に牧師が十字架のキリストの福音を語り続け、信徒たちが聞き続ける恵みをお与えください。
今朝はキリストに招かれ、聖餐にあずかることを感謝します。
どうか、わたしたちは罪を赦された罪人です。神の愚かさと弱さであるキリストの十字架によってわたしたちのこの世における信仰生活を支え、そしてキリストの弟子としてさらに導き、御国へと歩ませてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
コリントの信徒への手紙一説教05 主の2014年2月9日
兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
コリントの信徒への手紙一第1章26-31節
説教題「主なる神を誇れ」
パウロは、コリント教会の兄弟たちにコリントの信徒への手紙一の1章18節から2章5節において「十字架の言葉」について語ります。
「十字架の言葉」はパウロの使命である福音宣教の中心であります。パウロは、コリント教会の兄弟たちに主イエス・キリストがゴルゴタの丘で十字架につけられ、死なれたという事実を告げ知らせ、それは人類の罪の身代わりに死なれたのであると説教しました。その結果、今滅び行く者には、パウロの語る「十字架の言葉」は、愚かなものに思えました。ところが、今救いの道を歩み続けているコリント教会の救われたキリスト者たちにとっては、「十字架の言葉」は神の力でありました(Ⅰコリント1:18)。
パウロは、コリント教会の兄弟たちに彼の言葉が真実であることを証明しようとします。パウロは、旧約聖書の預言者イザヤの言葉、「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のない者とする」を引用して、主なる神が人の知恵を空しくされたので、人の知恵では神を知ることができないとはっきりと言っています。
ですから、神は宣教、すなわち、「十字架の言葉」という愚かな手段によって、信じる者を救おうと定められたのであります。
「十字架の言葉」は、神の知恵であります。神が定められた新しい救いの方法であります十字架以外に人類が救われる可能性は全くないのであります。
ですから、十字架の救いは、どんな人間の知恵によっても得られるものではありません。聞いて信じる信仰によって、すなわち、神の知恵である「十字架の言葉」を聞いて信じることによって得られるのであります。
神の知恵である「十字架の言葉」、すなわち、主イエス・キリストが十字架につけられ、死なれたという説教は、聞く人々の目に神の愚かさと見え、あるいは神の弱さと見えて、つまずかせるものでありました。
しかし、パウロは、コリントの町でこの「神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えている」のであります。それによってコリント教会が生まれ、今もコリント教会は成長を続けています。
人間の知恵がコリント教会を造り、成長させているのではありません。「十字架の言葉」が、キリストの十字架の死という方法をとおして、人類を救おうとされた神の愚かさと弱さが、コリント教会を造り、成長させているのです。
そこで、パウロは、コリント教会の兄弟たちに彼らの教会の実例を示して、「十字架の言葉」とこの世の知恵は関係がない事を証明しようとしています。
「兄弟たち」、パウロにとってコリント教会のキリスト者たちは、愛する兄弟であります。コリント教会のキリスト者たちは、とても難しい問題があります。それは、罪であります。しかし、コリント教会は毎週礼拝を守り、聖餐にあずかっています。キリストが共にいてくださるのです。パウロは、その恵みに事実を信じて、コリント教会のキリスト者たちを、主イエスに・キリストにつながる「わたしの兄弟よ」と呼びかけています。
そして、パウロは、彼らに次のように勧めました。「あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい」(Ⅰコリント1:26)と。
パウロは、ズバリ「あなたがたの召しを見なさい」と命令しました。すなわち、パウロは、コリント教会の兄弟たちに「あなたがたが未信者から信者になったことを見てみなさい」と命じました。パウロがコリントの町で開拓伝道し、家庭集会からコリント教会が生まれたころのことでしょう。
「人間的に見て」とは、「肉によって」という言葉です。この世の基準で見れば、という意味であります。コリント教会のキリスト者たちのほとんどは、社会的身分の低い者たちでありました。
紀元2世紀の哲学者ケルススは、激しくキリスト教を批判し、嘲笑して次のように述べています。「教養のある方、賢い方、良識のある方は近寄らないでください。われわれは教養や、賢さや良識を悪と考えているのですから。だが無知な人間、良識や教養のない人間、バカな人間でしたら、どうぞ遠慮なくおいでください。」そして、彼はキリスト者について、こう言っています。「やつらの家に行ってみるがいい。羊毛刈り職人、靴屋、洗張り屋、およそ無教育な下卑た連中ばかりだ。」
パウロが開拓伝道したコリント教会も変わらなかったでしょう。社会のエリート、高官や身分の高い人々は、「多かったわけではない」のであります。いたでしょうけれども、ほとんどが奴隷であり、下層民の人々でした。
では、神は、どうして「十字架の言葉」という宣教によって、コリント教会のキリスト者たちをお選びになったのでしょうか。
「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」(Ⅰコリント1:27-28)。
「選び」「選ばれた」という言葉は、「召し」「召された」と同じであります。パウロは神の永遠の予定のことを言っているのではありません。コリント教会の兄弟たちがこの世の人々から区別され、聖なる者、神の子とされたことの目的を言っています。
神の知恵である「十字架の言葉」に、神の意図がありました。すなわち、知恵ある者に恥をかかせ、力ある者に恥をかかせ、地位のある者に恥をかかせるという目的であります。
そのために神は、パウロに「十字架の言葉」のみを語らせ、世の無学な者、世の無力な者、世の無に等しい者、身分の低い者、見下げられている者を、世の中から選び召し出されて、コリント教会の兄弟たちとされたのであります。
キリストのガリラヤ伝道を思い起こさせます。キリストは、律法学者やサドカイ人たちに恥をかかせ、祭司長や長老たちに恥をかかせるために、御自身の弟子たちに無教養な漁師たちを選び召されました。そして、罪人たち、徴税人たち、病める者たちをお招きになりました。
神は、神の独り子キリストの十字架の死によって、人々から無視され、差別され、価値無き者とみなされた者たちが、父なる神の御目には御子の死に価するほど尊い者たちであることをお示しになりました。
また、コリント教会においては、召されたキリスト者たちは、無知な者であり、無教養で身分の低い者であり、家畜同然の扱いをされた奴隷たちでした。しかし、彼らは、神の子、キリストのしもべに変えられ、キリストの十字架の言葉と聖霊に導きにより信仰的に成長し、真実神に創造された人間として神のために生きる人生を得、そして永遠の御国の希望に生かされました。
他方、哲学者ケルススのように知恵ある者は、キリストの十字架の言葉をバカにし、キリスト者をバカにしますが、彼ら自身の知恵によって、彼らは自分たちの神を求めても見出すことができないのです。無知、無学な者がキリストを通して真実の神に至り、永遠の命の祝福に入るのに、信仰をバカにした哲学者は何も希望を見出さず、死に、無に帰するのです。
そして、パウロは、コリント教会の兄弟たちに旧約聖書の預言者エレミヤの言葉を引用して、誇る者は主に誇れと勧めております。
パウロは、コリント教会の兄弟たちが分派争いをして、互いに自分たちを誇っていた罪を見抜いていました。
「十字架の言葉」は、知恵ある者に恥をかかせる目的の他に、神の御前に人を誇らせないという目的があります(Ⅰコリント1:29)。
「だれ一人」とは、「すべての肉」という言葉です。「すべての肉」とは、神の御前でははかない存在であるすべての人間を表しています。新共同訳聖書が「だれ一人」という日本語にしたのは、世のすべての人だけでなく、キリスト者も神の御前で自分を誇ることがないためであります。
それは、「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれて」(Ⅰコリント1:30)いるからであります。この御言葉は、次のように理解できます。「あなたがたが神と関係しているのは、キリスト・イエスにおいてである」と。
パウロは、コリント教会の兄弟たちに「わたしたちの教会生活を成り立たせている媒体は、キリストである」と言っているのです。
キリスト者は、かつて無なる者でありました。今有る者となっています。神との関係によって無なる者から有る者とされました。そうなれたのは、イエス・キリストによってでありました。
なぜなら、キリストが「わたしたちにとっての神の知恵」となってくださいました。キリストが「わたしを見た者は、父を見た」と、わたしたちキリスト者を父なる神を示して、導いてくださいます。
キリストが「わたしたちの義」となってくださいました。キリストがわたしたちに示し、導かれた父なる神は、義なるお方であります。このお方とわたしたちが関係するには、わたしたちが正しくなければなりません。
キリストは、罪あるわたしたちの罪を償うために十字架に死なれただけではありません。わたしたちが父なる神の御前に義とされるために、キリストが死に至るまで父なる神に従順に歩まれ、得られた義を、わたしたちにお与えくださり、わたしたちは父なる神に義と宣告されるのです。
キリストは「わたしたちの聖」となってくださいました。わたしたちは、キリストのゆえに無償で義とされ、聖霊のお働きにより常にキリストの交わりの中に生きることができるようにされています。礼拝、聖餐、祈り、奉仕等を通して、わたしたちは常にキリストの聖にあずかり、キリストの所有とされ、この世から分かたれて、聖とされているのです。
最後にキリストは、「わたしたちの贖い」となってくださいました。「贖い」とは、代価を払って奴隷を解放することを意味しました。それが罪の力によって奴隷とされているわたしたちに使われています。
今わたしたちは、この地上で罪の力から解放され、終末にはすべての誘惑と悪から解放されます。これが、わたしたちの贖いであります。十字架のキリストの死によって、そのキリストの命を代価として、わたしたちは罪の力、律法の力、死の力から解放されました。これが、わたしたちの贖いであります。
「誇る者は、主を誇れ」(エレミヤ書9:23)とは、旧約聖書の預言者エレミヤの言葉であります。
預言者エレミヤは、次のように主の言葉を伝えました。「知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富のある者は、その富を誇るな」(エレミヤ書9:22)。
「むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい 目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。」(エレミヤ書9:23前半)。
パウロは、「誇る者は主を誇れ」と、主なる神がキリストであることを、キリストを誇ることを、コリント教会の兄弟たちに命じています。
預言者エレミヤの「誇る」という言葉の使用は、「頼る」という意味です。人の知恵に頼るな、人の力に頼るな、お金に頼るな。人が自分を誇る時に、必ずその人には頼りにできるものがあります。心の拠り所であります。
ハイデルベルク信仰問答の問1に「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」とありますね。「ただ一つの慰め」とは、わたしたちの心の拠り所の事であります。
ハイデルベルク信仰問答は、「わたしたちの真実の救い主イエス・キリストのものであることです」と答えています。
パウロは、コリント教会の兄弟たちの分派争いを通して、人の知恵を誇り、それに信頼するという病気を見つけて、キリストを誇れと呼びかけ、キリストのみを信頼して生きるようにと、彼らの病気をキリストの十字架の言葉によって根本的に治療しようとしているのであります。お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、コリント教会における分派争いを通して、「十字架の言葉」の意図を学ぶ機会を得まして感謝します。
神の御目と人の目が逆転していることを知りました。
主はこの世が誇ることに恥にかかせるため、わたしたちをこの教会に召されました。
わたしたちは、この世の知識人でもなく、エリートでも、名家の者でもありません。普通の市民であり、名もなき者であります。
主はわたしたちをこの世から召されて、上諏訪湖畔教会においてキリストを通して神との関係に生かしてくださり、十字架のキリストゆえに罪を赦し、永遠の命をお与えくださり、感謝します。
どうか、わたしたちもハイデルベルク信仰問答を告白した信仰の先輩たち同様に、「生きるにも死ぬにも、唯一の慰め」が「真実の救い主イエス・キリストのものであることです」と告白させてください。キリストのみを誇り、キリストのみを心の拠り所として、この地上の生涯を歩ませてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
コリントの信徒への手紙一説教06 主の2014年2月16日
兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。
コリントの信徒への手紙一第2章1-5節
説教題「十字架のキリストを伝える」
パウロは、コリント教会の兄弟たちが分派争いという病におかされていることを知り、主イエス・キリストの十字架の言葉によって彼らの病気を根本的に直そうとしました。
そこでパウロは、コリント教会の兄弟たちに彼の使命を伝えました(Ⅰコリント1:17)。
パウロがキリストから与えられた使命とは、十字架のキリストの福音を宣べ伝えるということでありました。しかも、人の言葉の知恵を用いないでキリストの十字架の福音を宣べ伝えるということでありました。
そこでパウロは、コリント教会の兄弟たちに十字架の言葉を説教しました。すなわち、十字架につけられたキリストが人類の救い主であるというメッセージであります。
十字架の言葉は、滅びの道を歩み続けている者には愚かなものでありました。しかし、コリント教会の兄弟たちのように聞いて、十字架のキリストをわが救い主と信じて救われた者たちには神の奇跡的な力でありました(Ⅰコリント1:18)。
ですから、パウロは、コリント教会の兄弟たちに十字架につけられたキリストを宣べ伝えました。十字架につけられたキリストが人類の救い主であるというメッセージは、ユダヤ人にはつまずきとなり、異邦人には愚かなことでありました。しかし、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、それを聞いて、救われ、キリスト者に召された者に、パウロは神の奇跡的な力であり、神の知恵であるキリストを宣べ伝えました(Ⅰコリント1:23-24)。
そこでパウロは、コリント教会の兄弟たちに二つのことを証明しようとしました。パウロの第一の証明は、コリント教会にキリスト者たちが現実に存在していることであります。
パウロは、彼らに彼らがコリント教会のキリスト者になった時のことを思い起こさせています(Ⅰコリント1:26)。
コリント教会は、人の知恵や富によって造られたのではありません。むしろ、パウロが開拓伝道し、コリント教会が生まれた時、コリント教会の中には奴隷や社会の下層の人々がほとんどでした。
神は、キリストを通して無学な者、無力な者、無価値な者、貧しい者を、この世から選ばれます。
主イエスがガリラヤ伝道においてファリサイ派の人々や律法学者たちに恥をかかせ、サドカイ派の人々や神殿の祭司長や長老たちに恥をかかせるために、キリストは御自身の弟子たちに無教養で、下層の漁師たちを召され、罪人や徴税人たち、売春婦たち、そして病人たちを招かれました。
神は、キリストの復活後、そして、今に至るまで知恵ある者に恥をかかせ、力ある者に恥をかかせ、富める者に恥をかかせるために、世の無学な者、無力な者、貧しく身分の低い者を、十字架の福音を通して、この世から召してキリスト者とし、この世にキリスト教会を造られています。
パウロがコリント教会の兄弟たちに証明しようとしたことは、次の事であります。教会は、キリストの言葉によって造られたのであって、人の知恵と富によるではないということであります。
それは、コリント教会の兄弟たちを含めて、すべての人が主なる神の御前で誇ることがなく、むしろ、主なる神を誇るためでありました(Ⅰコリント1:29,31)。
次にパウロの第2の証明が、今朝の御言葉であります。パウロは、コリントの町に行って、開拓伝道しました。その時にパウロは、人の優れた知恵の言葉を用いて説教をしませんでした。
今朝の御言葉は、使徒パウロがコリントの町で開拓伝道し、コリントの町の人々に説教したことの証しであります。
パウロは、説教のことを、「神の秘められた計画を宣べ伝える」と語っていますね(Ⅰコリント2:1)。
「神の秘められた計画」とは、「神の奥義」であります。神の独り子キリストが肉体を取り、この世に来られ、十字架の死を通して人類を罪より救い出すという神の御計画は隠されていました。
パウロの十字架につけられたキリストの説教は、この世の知恵から見れば愚かなものであります。しかし、それは神の秘められた計画を宣べ伝えることであり、パウロは、そのとおりに説教しました。
パウロは、神が十字架につけられたキリストを通して、人類を罪より救おうとされたことを、聖書が語るままに説教をしました。
十字架につけられたキリストが人類の救い主であることに、ユダヤ人たちがつまずき、異邦人たちが愚かであると思うだろうから、何か知恵を働かせ、工夫をしてつまずきを取り除くような説教を、パウロはしませんでした。
どうしてか。パウロは、心に一つのことを決めて、コリントの町に行き、開拓伝道したからです。
「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」(Ⅰコリント2:2)。
これは、パウロの説教に対する姿勢であります。
パウロは、ガラテヤ教会の兄弟たちにも次のように言っています。「ああ、物分かりの悪いガタテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」(ガラテヤ3:1)。
同じく「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)。
パウロは、強い人ではありません。わたしたちと同じ人間であります。コリントの町を訪れて、開拓伝道しました時のことを、パウロは正直に打ち明けています。
「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」(Ⅰコリント2:3)。
コリントの町に滞在したパウロは、一人の弱い人でありました。体の不安、心の不安、そして迫害や艱難に対して不安を抱いていました。
何よりもパウロの風采には、人をつまずかせるものがありました(Ⅱコリント12:7-10)。パウロは、主につまずきの刺を取り去ってくださいと祈りました。主はパウロに「わたしの恵みはあなたに十分である」と答えられました。
そして、パウロが語ります説教は、十字架につけられたキリストの説教が世の人々に愚かなように、人々を魅了するものではありませんでした。
実際にパウロはコリントの信徒への手紙二に次のように書いています。「わたしのことを、『手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない』と言う者たちがいるからです。」(Ⅱコリント10:10)。
弱いパウロは、彼が説教する十字架につけられたキリストのみに心を集中しました。一切のこの世の知恵を、パウロは追い出して、コリントの町に滞在し、開拓伝道している間、彼のすべての関心は、十字架につけられたキリストでありました。
ですから、パウロの説教は、主イエス・キリスト、すなわち、主イエスがキリスト、人類の救い主であるということと、十字架につけられたキリスト、すなわち、十字架のキリストの死によって、人類は罪から救われたというメッセージから成り立っていました。
それが、優れた言葉や知恵を用いないパウロの説教でありました。
ですから、パウロはコリント教会の兄弟たちに次のように語りました。
「わたしは、あなたがたに説教した時に、人の知恵にあふれた言葉では語りませんでした。しかし、わたしのつまらない説教を聞いて、あなたがたは主イエスをキリスト、わたしの救い主と信じてくれました。わたしが十字架につけられたキリストを説教すると、あなたがたは自分たちの罪の身代わりに死なれたと受け入れてくれました。そしてあなたがたは洗礼を受けて、コリント教会のキリスト者となりました。それは、わたしが優れた人の知恵の言葉を用いたからではありません。“霊”と力の証明によるものでした。」
パウロは、彼の説教という実例を挙げて、説教は人の知恵によるものではなく、聖霊とその御力によると、教えています。
ですから、パウロは、人の優れた言葉や知恵に頼る必要がありませんでした。パウロが十字架につけられたキリストを説教すれば、キリストの霊である聖霊が、すなわち、キリスト御自身がその奇跡の御力によって聞く者を捕らえてくださいます。
ですから、パウロは、人の知恵ではなく、キリスト御自身の御力を信じていました。
パウロは言います。「それは、あなたがたが人の知恵ではなく、神の力によって信じるようになるためでした。」(Ⅰコリント2:5)。
パウロが、コリント教会の実例と彼の説教の実例を示して、証明したことは、教会は人の知恵によってではなく、十字架につけられたキリストの説教によって立てられるということであります。
パウロは、コリント教会の兄弟たちに最後に「あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。」と述べて、コリント教会の兄弟たちの分派争いという病気を、十字架の言葉、十字架につけられたキリストによって、すなわち、神の御力によって根本的に癒そうとしました。
ここにわたしたちも学ぶべきものがあるのではないでしょうか。
教会は、人の知恵では生まれません。また、わたしたちの信仰も、人に頼って生まれません。教会も、わたしたちの信仰も、神の御力によって生まれます。
神の御力は、十字架の言葉、十字架のつけられたキリストが説教される時に、聖霊が働いてくださいます。
聖霊が説教を聞きますわたしたちの心の内に働いてくださる時に、その効果が表され、わたしたちの心に信仰が生まれるのであります。
その時にわたしたちは主イエスをわたしの救い主と信じます。その時に十字架のキリストを、わたしたちの罪のために死なれたと受け入れます。そして復活されたキリストを、わたしの永遠の命の保証として甦られたと、希望と喜びをもって受け入れるのであります。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、教会と信仰は、人の知恵によらず、十字架の言葉、すなわち、神の力であることを学ぶことができて感謝します。
どうか、牧師と信徒が共に聖霊と神の御力を信じて、聖霊の内的照明を信じて、説教を語り、説教を聞くことができるように、お導きください。
何よりもわたしたちの信仰、わたしたちがキリスト者であることが、人の知恵ではなく神の主権的な選びであり、聖霊の御力であることを確信させてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
2014年教会標語説教 主の2014年3月2日
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神はあなたがたに望んでおられることです。
テサロニケの信徒への手紙一第5章16-18節
説教題:「聖書的教会の形成を目指して」
今朝は、今年度の教会の目標を覚えて礼拝を守りましょう。
今朝の説教の準備の時に、わたしが特に心に留めましたのは、ウェストミンスター小教理問答の問2と答であります。
問2「神は、私たちに神の栄光をあらわし神を喜ぶ道を教えるため、どんな基準を授けていてくださいますか。」答「旧新約聖書にある神の御言葉だけが、私たちに神の栄光をあらわし神を喜ぶ道を教える、ただ一つの基準です。」
問2の答には、3つの御言葉が挙げられています。
まずテモテへの手紙二3章16節の御言葉から学びましょう。
「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」
聖書は、聖霊が真の著者であります。聖書は聖霊が多くの人々を用いて書かれた神の御言葉であります。
それゆえに礼拝において人に聖書が説き明かされ、神について、人について、罪について、キリストについて、救いについて、終末について教え、また神の御言葉によって人を戒めることができます。そのとき、人は神の御言葉によって自分の罪を悔いて、キリストを救い主と信じ、真の神に背を向けていた誤りを正し、神との正しい関係の中に、すなわち義に生きる訓練をするのであります。
それゆえに聖書は人の信仰と生活にとって唯一の基準であり、有益であります。
パウロのこの御言葉から、私たちは、聖書という神の御言葉に基づいてなされる教会の形成が「聖書的教会」であることを学びます。
実際にわたしたちも、パウロの御言葉通りのことを、信仰体験しています。
すなわち、神の霊感によって記された聖書を、礼拝において牧師が説教することを通して、神の御言葉を聴きますわたしたちは、神の御言葉が「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練」を、わたしたちにし、わたしたちの教会を建て上げてきました。今も建て上げています。わたしは、これが、パウロの語る通りに「聖書的教会の形成」であると思います。
次にエフェソの信徒への手紙2章20節から学びましょう。
使徒パウロは、この御言葉で次のように証言しています。すなわち、キリスト教会は「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり」ますと。
使徒パウロの御言葉から、聖書こそがわたしたちが目指す聖書的教会の土台であることを学びます。
さらに使徒ヨハネもヨハネの手紙一の1章3-4節に次のように証言します。
「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。」
使徒パウロとヨハネの御言葉から、わたしたちは、次のことを学べます。
わたしたちが目指しています聖書的教会は、聖書と礼拝と交わりから成り立っていることを。
使徒言行録に聖霊降臨によって誕生したエルサレム教会のキリスト者たちが、次のように証言されています。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」(使徒言行録2:24)。
さて、わたしたちは、「聖書的教会の形成を目指して」、実施項目の第一として「礼拝の充実」を挙げて、「聖霊と御言葉に導かれ、礼拝が豊かになるように励む」ことにしています。
「礼拝の充実」という言葉から、わたしが連想したのは、ウェストミンスター小教理問答の問1と答であります。
問1「人のおもな目的は何ですか。」 答「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」
神は、御自身を礼拝するようにわたしたち人間を創造されました。
神は言われました。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」(創世記1:26)、神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された(創世記1:27)。
また、神は、わたしたちに御自身を礼拝するように命じられています。モーセの十戒の第1-4の戒めは、神を愛し、神を礼拝する戒めであります。
わたしたち改革派教会の礼拝は、次の3つの原理に従って守られています。
礼拝の第1の原理は、聖書に従うことであります。聖書の御言葉に従う礼拝をするように、わたしたちは励んでいます。
宗教改革者たちは、キリスト教礼拝が聖書に啓示されているように、神の御言葉に従ってなされるべきであると確信していました。
キリスト教礼拝の第2の原理は、キリストの御名によって、礼拝がなされるということです。
使徒パウロは、「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」(コロサイ3:17)と命じています。
使徒言行録には、ペトロの説教を聞いて、罪を悔い改めた人々が、キリストの名によって洗礼を受けて後、キリスト者として礼拝を始めたことを証言しています(使徒言行録2:38-42)。
この原理に従って礼拝がなされるのは、次のような理由があります。礼拝がキリストの体の一つの機能を果たし、キリスト者としてわたしたちが皆、一つの体に結ばれているからです。
キリスト教礼拝の第3の原理は、礼拝は聖霊の御業であるということであります。
使徒パウロは、礼拝が聖霊のとりなしによって成り立つことを次のように証言しています。
「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」(ローマ8:26-27)。
礼拝は、聖霊の御業であり、神の御救いの御業であります。
なぜなら、聖霊は、礼拝において御言葉と共に働かれます。聖霊はわたしたちが礼拝において救いの福音を聴くことを通して、わたしたちを罪の自覚と悔い改めに導き、そしてわたしたちがキリストを救い主と信じるように導かれて、わたしたちを罪より救われます。さらに、聖霊はわたしたちを清めて、新しい人に造り変えてくださいます。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
今年の教会聖句です。使徒パウロがテサロニケ教会の兄弟姉妹たちに願っていることです。それは、テサロニケ教会だけでなく、わたしたちの教会にキリストが願われていることでもあります。
そのために使徒パウロは、この御言葉に続けて、「“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。」(Ⅰテサロニケ5:19)と警告しています。
聖霊は、御言葉と共に働かれますので、聖霊の火とは、聖霊の恵みの働きであります。聖霊は、預言、すなわち神の御言葉と共に働かれ、わたしたちに信仰を与え、罪より救い、キリストに結びつけ、神のかたちを回復してくださいます。
使徒パウロは、聖霊の恵みの働きを無駄にしないように、牧師も信徒も神の御言葉を語り、聞くことを軽んじないように警告しています。
わたしたちが聖霊と御言葉に導かれるのであれば、わたしたちの礼拝を充実させられるでしょう。礼拝と信仰生活において「いつも喜び」「絶えず祈り」「どんなことにも感謝」できると思います。なぜなら、聖霊が御言葉を通してわたしたちにキリストの御心をおこなわせてくださるからです。
最後に交わりについて学びましょう。
使徒信条の第3項に「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の命を信ず。」とあります。
教会の交わりの中心は、使徒言行録にありましたように「パンを裂くこと」、聖餐であります。聖徒の交わりは、聖餐を中心にした交わりであります。
この交わりの内容は、「罪の赦し」「身体のよみがえり」「永遠の命」です。
聖餐式にあずかることは、教会の交わりの中心であります。そこに救いの確信があります。
聖餐式に感謝の祈りがささげられます。十字架のキリストの御苦しみによりわたしたちの罪は赦されました。十字架のキリストの復活のゆえにわたしたちも死からの復活にあずかる喜びが与えられました。そして、今キリストは永遠の命を、わたしたちに賜るのです。
この教会の交わりに招くことが、教会の伝道であります。そして、伝道も聖霊の御業であります。
伝道も、礼拝同様に聖霊と御言葉に導かれてなされ、祈りと同様にキリストの執り成しの御業であります。
主イエスは、言われました。「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れとなる」(ヨハネ10:16)。そして、一つの羊の群れは、キリストの貴い御血潮によって買い取られました。
また主イエスは、言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ15:16)。伝道は、キリストの主権的選びによってなされます。わたしたちと教会は、キリストが伝道に用いられる器であります。
使徒言行録を読んでいますと、教会と信徒たちは、キリストの執り成しにより、聖霊と御言葉に導かれ、礼拝と伝道に励み、聖霊である主が救われる人々をエルサレム教会の群れに加えてくださったと証言しています。
わたしたちは、今朝の聖書のいろいろな御言葉から、次のことを教えられます。今年も共に聖霊と御言葉に導かれ、礼拝において神の御言葉を聞き、共に聖餐の恵みにあずかり、教会の交わりをしましょう。
神の主権性と神の摂理を信じ、伝道に励みましょう。主イエスが、救われる人々を、わたしたちの教会に召してくださいます。
わたしたちは、礼拝においても、伝道においても、何をどうすればよいのか、分からないことばかりであります。しかし、主イエスはわたしたちを執り成してくださいます。どのように礼拝すべきか、どのように祈るべきか、どのように家族にキリストを伝えるべきか、神が定められた時に、わたしたちに聖霊と御言葉を通して教えてくださり、具体的に示してくださいます。
わたしは、神学校を卒業し、伝道者になったのに、32年間、どのように家族に伝道し、家族をキリストに導けばよいか、具体的なことは何も分かりませんでした。ただ、「あなたが信じれば、あなたの家族も救われます」という聖書の御言葉と、その御言葉に基づく説教で、語られる御言葉は信じていました。
機関誌の『風』に証ししたとおりです。キリストはわたしの母を執り成してくださり、母は聖霊と御言葉に導かれて、救われました。
わたしは、使徒パウロがコリントの町に滞在した時に、人々を恐れ、伝道に不安になったとき、キリストが彼に「わたしはあなたと共にいる。あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」と言われました(使徒言行録18:10)。
わたしは、キリストのお言葉を信じて、今年の残り10カ月を歩みたいと願っています。
実際今の教会の状況は、厳しいです。2016年に経済的独立をすることは、わたしたちの力では不可能であります。しかし、わたしたちが信じる主イエスは、不可能であると嘆いた弟子たちに「それは人間にはできることではないが、神は何でもできる」と言われました(マタイ19:26)。
わたしたちは、「神は何でもできる」ことを信じて、キリストの執り成しにより、聖霊と御言葉に導かれ、「聖書的教会の形成を目指して」歩み続けようではありませんか。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、はや今年も2カ月が過ぎました。会員総会において決議したことに従い、3月より今年の教会の目標である「聖書的教会の形成を目指して」、今年の実施項目を実施するために小会の指導のもと、全員懇談会を開き、また、伝道委員会の中で話し合い、勧めていきたいと思います。
どうか、わたしたちがキリストの執り成しにより、礼拝を通して聖霊と御言葉に導かれ、少しでも実施項目を達成し、礼拝において神を喜び、共に祈り、「神は何でもできる」ことを信頼し、またすべてのこと感謝し、歩ませてください。
主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。