コリントの信徒への手紙一説教10         主の2014年4月6日

 だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前ではおろかなものだからです。
 「神は、知恵のある者たちを
   その悪賢さによって捕らえられる」
と書いてあり、また、
 「主は知っておられる、
 知恵のある者たちの議論がむなしいことを」
とも書いてあります。ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。
                    コリントの信徒への手紙一第3章18-23節

 説教題「すべてはあながたのもの」
 パウロは、この手紙で、1章10節より4章まで、クロエの家の人々がパウロにコリント教会の中に分派争いがあると報告しましたので、その問題をこの手紙で扱っております。

  分派争いとは、具体的には誰を自分たちの指導者とするか、という争いでした。
 
  パウロは、まるで医者が病人を診るように、コリント教会の兄弟たちの中に人間を誇るという罪を発見しました。そして、パウロは治療を試みています。
 
  人の罪を癒せるのは、十字架のキリストのみです。十字架の言葉だけが、人を罪の滅びから救うことができるのです。

 パウロは、コリント教会の兄弟たちに彼らが誇る人間の知恵の愚かさを、神の知恵によって明らかにしました。すなわち、人間の知恵は、神を知るに至りませんでした。ですから、神は十字架の言葉によって、すなわち、イエス・キリストがゴルゴタの丘の上で十字架につけられ、人類の罪のために死なれるという、人間の知恵では全く受け入れることのできない愚かな宣教によって、信じる者を救おうとされました。

 だから、パウロはコリント教会の兄弟たちにイエス・キリストだけ、十字架のつけられたキリストだけを説教しました。

 キリストは、今天におられます。そして天よりキリストは聖霊をコリント教会の兄弟たちに遣わされています。だから、聖霊はコリント教会の兄弟たちに御言葉を通して神の知恵を教えられています。すなわち、コリント教会の兄弟たちがパウロの十字架の言葉を聞きました時、聖霊はコリント教会の兄弟たちにキリストの十字架が彼らの罪のためであったと説得してくださいました。そして、聖霊がコリント教会の兄弟たちに御言葉を通してキリストの思いを抱かせてくださったのです。

 争いの渦中にあるパウロ、アポロ、ペトロたちは、神のために力を合わせて働く者たちです。キリストの霊である聖霊が御言葉を通して神の知恵、神の救いを伝えるために、器が必要です。それが使徒であり、伝道者です。

 器である伝道者は、パウロのように種まきをする者がおり、アポロのように育てる者がおります。彼らは皆、神の教会を建て上げるために共に働く者たちです。教会をお建てになるのは、神です。

 伝道者たちは、だれでも十字架の言葉、イエス・キリストの土台の上に教会を建て上げていかなければなりません。最後の神の審判の時に彼らの仕事が残るようにしなければなりません。火で精錬された金銀のように、宝石のように、です。火に燃えて灰になる木や草、わらのようなものではいけません。伝道者は、神に自分の仕事の責任を問われます。仕事が残れば、神に報酬を得、残らなくても神の憐れみにより伝道者自身は救われます。

 パウロは、伝道者が救われるだけでなく、コリント教会の兄弟たちの救いを次のように確信しています。コリント教会の兄弟たちは皆、神の神殿であります。それゆえに聖なる者であります。醜く分派争いしている彼らを、パウロは聖なる者、神の所有であると言っています。

 それゆえにパウロは、分派争いをしているコリント教会の兄弟たちに最後の警告をしました。それが今朝の御言葉です。

 パウロは、コリント教会の兄弟たちに「だれも自分を欺いてはなりません」と、とても強い言葉で警告しています。

 医者も病人に強い言葉で注意を促すことがあります。それは病人が自分で自分を大丈夫と思っているときです。

 コリント教会の兄弟たちは、人の知恵を誇り、己を誇り、他の者たちを排除して分派争いを引き起こしている罪に気づいていません。

 彼らの罪は、続く4章においてもパウロが取り上げております。コリント教会の兄弟たちは王様や大金持ちのように自分を誇っております。

 そこでパウロは、彼らの目を覚まさせるために、「もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。」と警告しました。

 「真の知者となるために、愚かな者となれ」。パラドックスです。真逆です。逆説です。わたしは、ソクラテスの「無知の知」という言葉を思い起こしました。真の知者になりたければ、自分が無知であることを知れという意味です。

 パウロは、そんなことを言っているのでしょうか。

  わたしは、福音書の主イエスのお言葉を思い起こします。主イエスは言われました。「貧しい人々は、幸いである」「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である」と。主イエスもパウロのようによくパラドックスを用いてお話になりました。
 
  主イエスもパウロも、パラドックスを用いて聞く者に次のことを求めています。神の基準とこの世の基準とは、全く異なるものであることを見分けよと。
 
  そのためにパウロは、コリント教会の兄弟たちに自分の誇りを捨てて、謙りなさいと勧め、「この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです」と述べているのです。そして、旧約聖書から二つの御言葉を引用し、人の知恵が神の御前で愚かであることを立証しています。
 
  「神は、知恵ある者たちを その悪賢さによって捕らえられる」という御言葉は、ヨブ記のヨブの友人テマン人エリファズの言葉です。エリファズがヨブに「知恵ある者はさかしさの罠にかかり」と言っています(ヨブ記5:13)。
 
  パウロは、この言葉を引用して、この世の知者が悪知恵によって自らを破滅させる愚かさを明らかにしています。
 
  さらに「主は知っておられる、知恵のある者たちの議論がむなしいことを」という言葉は、詩編94篇11節の御言葉です。「主は知っておられる、人間の計らいを それがいかに空しいかを。」「議論」は、「人間の計らい」のことです。表に現れない人の思いのことです。「人の思いが空しい」とは、口から吐く息のように空っぽであるという意味です。
 
  パウロは、この詩編の言葉を引用して神は何も見ておられないと傲慢にふるまっているこの世の人々の心の空しさを明らかにしているのです。
 
  そこからパウロは、次のようにコリント教会の兄弟たちを戒めています。「だれも人間を誇ってはなりません。」
 
  この手紙の1章31節でパウロが「『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」と言っていることの裏返しです。主以外のものを誇りにするなと、パウロは戒めているのです。
 
  分派争いを喜ぶ者は、人間を誇る者なのです。パウロたち、教会の指導者たちをあたかも自分たちが独占しているように思って、指導者たちを持ち出し、自分たちを知恵ある者とうぬぼれ、自分を誇っているのです。突き詰めると、彼らは、自分を誇り、人間を誇り、人間を崇拝しているのです。
 
  ところが、パウロは、コリント教会の兄弟たちにその罪を明らかにし、断罪していません。むしろ、パウロは、彼らに「人間を誇るな」と戒めて、その理由を次のように述べています。「すべてはあなたがたのものです。」と。
 
  本当にパウロは魂の医者です。ですから、パウロは彼らに「人間を誇るな。なぜなら、それは偶像崇拝の罪であり、許し難い罪だと告知しませんでした。むしろ、パウロは、彼らに「すべてはあながたのものである」と告知しました。
 
  同じことを、コリントの信徒への手紙二の6章10節でもパウロは、次のように述べています。「悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」
 
  パウロは、この根拠を、ローマの信徒への手紙8章32節に次のように述べています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」
 
  パウロは、正しことを教えるに、決して相手を見下すことはありません。相手の小さな誇りをつぶして、相手を自信喪失に落とすこともしません。むしろ、共に信仰を生きる者として、キリストを通して神が与えてくださっているもっと大きな誇りを持とうと、励ましています。パウロは、相手を高める勧めをしているのです。
 
  パウロの言葉は、コリント教会の兄弟たちだけではなく、今ここでパウロの言葉を聞いているわたしたちの心も癒してくれます。
 
  わたしは、聖書の御言葉は必ず実現すると信じています。今朝のパウロの言葉は、必ずわたしたちの身に実現します。実際にわたしたちはパウロが言うように、パウロもアポロもペトロも、聖書を通して、今でも所有しています。
 
  パウロが言うように、わたしたちは、世界と生と死の主人であります。なぜなら、わたしたちは、この世界のために執り成しの祈りをします。パウロは、聖なる者たちが世を裁くと述べています。わたしたちにとって生きることはキリストであり、死ぬことは益であります。
 
  最後にパウロは、わたしたちに神への、すなわち、キリストへの服従の道を説いています。キリストが十字架の死に至るまで父なる神に従順に生きられました。キリストは神のものであるからです。同様にわたしたちもキリストの所有として、生涯をキリストに服従して生きるのです。
 
  それゆえにパウロは、「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」と讃美しています。お祈りします。

  主イエス・キリストの父なる神よ、パウロの「すべては、あなたがたのものです」という御言葉を通して、どんなにわたしたちが神の恵みの豊かさの中に生かされているかを、知ることができて感謝します。
 
  わたしたちもコリント教会の兄弟たちのように、人間を誇り、人間の知恵を誇り、己を誇る罪を捨てきれません。
 
  しかし、魂の医者であるパウロは、わたしたちに正しい道を教え、わたしたちを見下すことなく、わたしたちの小さな誇りを傷つけることなく、それ以上に神の大きな恵みと賜物にわたしたちの信仰の目を向けてくれています。
 
  願わくは、今から兄弟姉妹たちと共に聖餐の恵みにあずかります。わたしたちの信仰の目を、十字架のキリストに向けてください。そして御子をも惜しまないで、十字架に渡された神が、わたしたちに万物をもお与えくださることを確信させてください。来るべき御国を待ち望ませてください。
 
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 コリントの信徒への手紙一説教11        主の2014年4月13日

 こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画を委ねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。
                    コリントの信徒への手紙一第4章1-5節

 説教題「神の奥義の管理者」
 本日より受難週が始まります。キリストの一週間の御受難を覚えて、一週間を過ごしましょう。週報の報告にマルコによる福音書によるキリストの御受難を記しています。どうか、それを用いてキリストの一週間の御受難を瞑想してください。ただし土曜日は詩編139篇をお読みくださり、闇から光へと復活されるキリストを瞑想し、日曜日のイースターに備えていただければ幸いです。

 さて、本日よりコリントの信徒への手紙一の第4章に入ります。パウロは、コリント教会の兄弟たちに4章1節の冒頭で「こういうわけですから」と言っていますね。パウロが1章10節より論じて来ましたコリント教会内の分派争いについて、話を続けています。

 コリント教会内の分派争いとは、だれをコリント教会の指導者にするのかという争いであります。コリント教会の兄弟たちは、使徒パウロを教会の指導者にするというAグル―プ、アポロを、と主張するBグループ、そしてペトロを、と主張するCグループ、キリストを、と主張するDグループに分かれていました。

  それをそのままにしておくと、コリント教会の兄弟たちは自分たちの主張を通すために対立する兄弟たちを排除し、一つの体なるキリスト教会を幾つにも分裂させる危険がありました。

 分派争いの中にパウロは、コリント教会の兄弟たちの危険な罪を発見しました。その危険な罪から教会の中に分派争いが生まれ、そして彼らはパウロが使徒であることを批判しました。その危険な罪とは、彼らが人間を誇り、己を誇ることでありました。

 旧約聖書のサムエル記上15章23節に主なる神は、祭司サムエルを通して次のように人間を誇る高慢の罪を指摘されています。「反逆は占いの罪に、高慢は偶像礼拝に等しい。」と。

 そこでパウロは、魂の医師として、彼らの罪を癒すために、もう一度パウロはコリント教会の兄弟たちにパウロとは何者か、アポロとは何者かを話しました。

 パウロは、コリント教会の兄弟たちに次のように言っています。「人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画を委ねられた管理者と考えるべきです。」(1節)

 パウロはコリント教会の兄弟たちに言いました。「こういうわけですから、人は、わたしたちがキリストに仕える者であり、神の奥義の管理者であるとみなすべきです」と。

 パウロがコリント教会の兄弟たちに3章5節で「パウロは何者か、アポロは何者か」と問いかけて、「この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。」と言いました。

 パウロとアポロは、主人に仕える僕でありました。彼らの主人は、キリストです。ここでの「仕えた者」とは、給仕する僕であります。

 ところが同じ「仕える者」という言葉ですが、4章1節の「わたしたちをキリストの仕える者」とは、奴隷船の一番船底で櫂をこぐ奴隷のことであります。主人のために過酷な肉体労働と下積みの仕事をさせられる全く自分の自由のない奴隷であります。

 パウロは、コリント教会の兄弟たちに、次のように伝えているのです。「自分たちのような使徒たちは、キリストに絶対的に服従する奴隷であり、ただ主イエスの御旨だけを行う者である」と。

 またパウロは、「神の秘められた計画を委ねられた管理者である」と言っていますね。パウロは、2章1節で「神の秘められた計画を宣べ伝える」と言い、2章7節で「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり」と言っていますね。

 日本語は、わたしたちに理解できるようにと、訳者が親切に説明するように訳しています。パウロは、「神の神秘の管理者」と述べています。神秘を「奥義」と表現できるので、「神の奥義の管理者」と、パウロは言っています。

 「神の奥義の管理者」の仕事は、「神の秘められた計画を宣え伝える」ことです。それは、「隠されていた、神秘としての神の知恵」であります。

  キリストの福音は、わたしたち異邦人には隠されていました。それを、神はキリストを通して使徒たちに啓示されました。使徒たちは、そのキリストの福音を異邦人たちに宣べ伝えることによって、神の秘められた救いの計画を公にしました。
 
  一言で言いますと、説教による福音の分配が、神の奥義の管理者の仕事なのです。
 
  わたしたちの教会規程の中の政治規準に教師の職務と働きの多様さをあらわすためにいろいろな呼び名があり、「礼典を取り扱う者であるゆえに、神の奥義の管理者」と呼ばれています。神の奥義の管理者は、御言葉と礼典を通して福音宣教と教会形成の実現を負う者のことであります。
 
  パウロは、コリント教会の兄弟たちに「この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。」(2節)と述べています。
 
  「この場合」とは、「こういう事情であるから」という意味か、「この世では」という意味に取れます。とにかく、管理者に要求されるのは、忠実であることです。「要求されている」とは、強い表現です。管理者に「必要である」「期待されている」より、さらに強い言葉です。管理者に「捜し求められている」「追求されている」という言葉です。
 
  「忠実であること」も、「忠実だと見出されること」であります。忠実は、信仰と同じです。ですから「忠実であること」は「信仰的であること」と同じです。
 
  管理者が忠実であること、管理者が信仰的あることは、主イエスが探し求めて、発見されることであります。
 
  パウロの言葉からキリストの御声が聞こえてきます。主イエスは、言われました。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。」(ルカ12:43-44)。
 
  パウロは、神の奥義の管理者として、ただ主イエスに忠実な者、信仰ある者と認められることのみに心を向けていたのです。
 
  ですからパウロは、コリント教会の兄弟たちに次のように大胆に宣言しました。「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。」(3節)
 
  コリント教会の兄弟たちの中にパウロを裁く者たちがおりました。9章3節でパウロは、「わたしを批判する人たちには、こう弁明します」と述べて、パウロは使徒である自分のことを弁明しています。
 
  コリント教会の兄弟たちは、お気に入りの使徒たち、伝道者、牧会者たちの一覧で、使徒パウロを高く評価する者がおり、パウロを低く評価する者がいたのでしょう。
 
  パウロにとっては、コリント教会の兄弟たちがパウロを高く評価し、あるいは低く評価しても、それは決定的なことではありませんでした。この世における人の裁きと変わりませんでした。パウロには、人の裁きは重要ではありませんでした。ですから、パウロは自分で自分を裁くこと、自己批判すらしません。
 
  パウロが全身全霊で心を向けているのは、人の裁きではなく、主イエスの裁きであります。まるでパウロは、旧約聖書のヨブ記のヨブのように、何ら人の裁きを問題にしていません。
 
  4節でパウロは、次のように述べていますね。「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。」
 
  パウロの言葉にヨブの声が聞こえてきます。ヨブは正しい人でありました。しかし、主なる神の試みにより数々の苦難に遭いました。3人の友人たちがヨブに、「お前に罪があるから、神はお前とお前の家族に災いを下されたのだ」と諭しました。そこでヨブは、自分の正しさをどこまでも弁明し、自分が神の裁判に出廷して自らの潔白さを神に弁明したいと、神に訴え続けるのです。ヨブは、ヨブ記27章6節で「わたしは自らの正しさに固執して譲らない。一日たりとも心に恥じるところはない。」と主張します。パウロは70人訳の旧約聖書でヨブ記を読んだことでしょう。「何か悪いことをした意識が私にはないから」。ヨブのようにパウロは、自分の良心に何らやましいところはないが、それで自分が神に義と認められるわけではないと告白しています。
 
  パウロにとって一番大切なことは、ヨブのように、主なる神が何と言われるかということでした。「わたしを裁くのは主なのです。」人を裁き、パウロを裁く資格を持つのは、主なる神、主イエスのみであります。なぜなら、パウロは主のしもべであるからです。
 
  教会とキリスト者は、主が再臨され、主が死んだ者と今生きている者を裁かれることを確信しています。パウロは、この確信に立って、コリント教会の兄弟たちに警告します。「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。」(5節)
 
  パウロは、コリント教会の兄弟たちに教会裁判を禁じているのではありません。コリント教会の兄弟たちは、己を誇り、己を裁判官にしています。裁き主は、彼らではなく、主なる神です。パウロは、この厳粛な事実を明らかにしているのです。
 
  そこでパウロは、次のように主なる神の裁きを伝えています。「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。」(5節)
 
  主の裁きは、「闇の中に隠されている秘密を明るみに出すこと」と「人の心の企てをも明らかにすること」です。「闇の中に隠されている秘密」と「人の心の企て」とは、同じものです。そして、この二つのことは、「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」とあります神からおほめにあずかるような動機、良い志であります。
 
  主がキリスト者を裁かれる目的は、神の刑罰を下すことではありません。主なる神は、キリスト者一人一人をおほめくださいます。再臨された主イエスは、神の裁きの座においてわたしたちをほめて、「忠実な良いしもべよ、よくやった」と言ってくださいます。
  主なる神に、主イエスにほめていただけるのです。それが、これからわたしたちが向かおうとしています「生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と告白しています神の裁きであります。
 
  どうか、この一週間、キリストの御受難を覚えて、過ごしましょう。そして今、キリストは復活し、天におられ、必ずわたしたちの所に来られ、わたしたちは主の裁きの前に立ちますが、主イエスに「よくやった」とおほめをいただける幸いを、パウロの御言葉から約束されていることを感謝しましょう。お祈りします。

  主イエス・キリストの父なる神よ、受難週が始まりました。主イエスはパウロを通して再臨の主イエスの裁きの時にわたしたちキリスト者が「おのおのは神からおほめにあずかります」と約束してくださいました。心より感謝します。
 
  十字架のキリストを、日々仰ぎ、キリストがわたしたちの罪のために死なれたことを確信させてください。
 
  わたしたちは、牧師も信徒も、神の奥義の管理者として、主イエスに召されています。家族にキリストを語り、近隣の人々にキリストを伝えることができるようにお導きください。
 
  次週のイースターに伝道集会をします。近隣に配ります案内チラシ、情報誌や新聞の広告、ホームページの案内をお用いください。
 
  イースターの祝会をします。共に愛餐の恵みにあずかり、主イエスの復活を共に喜ぶことを得させてください。
 
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。