コリントの信徒への手紙一説教18          主の2014年7月13日

 「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だと知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
              コリントの信徒への手紙一第6章12-20節

 説教題「神に栄光を現しなさい」
 今朝のコリントの信徒への手紙一の6章12-20節の御言葉は、使徒パウロがキリスト者の自由とコリント教会のキリスト者たちのみだらな行いの問題を取り扱っています。

 この問題は、パウロがコリント教会のキリスト者たちに説いたキリスト者の自由を、あるキリスト者たちが誤解したことから起こりました。

 ユダヤ主義者である偽教師たちがコリント教会にやって来て、異邦人キリスト者たちに、「信仰だけでは救われない。モーセ律法を守り、割礼を受けなければならない」と教えました(使徒言行録15:5等)。

  パウロは、偽教師たちの主張に反対しました。そして彼は、コリント教会の異邦人キリスト者たちに、「キリストを信じる信仰によって義とされたキリスト者たちは、モーセ律法の束縛から解放され、自由である」と説きました。

 ところが、思わぬ副作用がうまれました。パウロの教えを聞いたある異邦人キリスト者たちが、「自分たちキリスト者は、すべてのことが許されている。性的なことを含めて、もはやいかなることも許されている。それがキリスト者の自由だ」と主張し、みだらな行いをする者が現れました。

 そこでパウロは、コリント教会のキリスト者たちに自由を、彼らの体を通して正しく用いることを教える必要に迫られたのです。

 12節で「わたしにはすべてのことが許されている」と言っているのは、みだらな行いをしている者たちです。キリスト者の自由を振り回して、自分たちのみだらな行いを正当化しているのです。

 使徒パウロは、彼らの主張を根本的に批判し、同時にコリント教会のキリスト者たちにキリスト者の「体」とは何であるのか、その体をどのように用いることが神の御心に適うのかを教えているのです。

 「わたしにはすべてのことが許されている」と主張する者に、パウロは一言を加えて批判します。「しかし、すべてのことが益になるわけではない。」「しかし、わたしは、何事にも支配されはしない。」と。

 「わたしにはすべてのことが許されている」と主張する者は、自己を中心にしてすべてのことを見ています。自分が合法的であると思うものは、何でもオーケーであります。

  しかし、使徒パウロは、神(キリスト)を中心にしてすべてのことを見ております。だから、キリスト者の自由な行為が、自分中心のものであれば、必ずしも神の御前にすべてが益とはならないだろうと述べています。
 
  また、「自由と解放」とは、その言葉の通りに何者にも支配されない、自由のことです。ところが、そのように主張しながら、コリント教会のあるキリスト者たちはみだらな行いの奴隷になり果てていました。だから、使徒パウロは「しかし、わたしは何事にも支配されはしない」と述べて、「あなたがたはみだらな行いの奴隷になり下がっている」と批判しているのです。
 
  キリスト者の自由を濫用してみだらな行いをしているキリスト者たちの愚かさは、聖書(神の御言葉)を彼らの生活の規準にしないで、自分たちの自由を基準にしたことです。
 
  そこでパウロは、彼らの愚かさを、聖書から批判します。
 
  13節で、「食物は腹のため、腹は食物のためにある」と主張していますのは、キリスト者の自由を濫用する者たちです。要するに彼らは次のように主張していたのでしょう。「食物は腹のために、腹は食物のためにある。同じように性的関係は体のため、体は性的関係のためにある。食物と腹が救いに関係ないように、その性的な関係が合法であろうとそうでなかろうと、キリスト者の霊的な生活には関係ないのだ」と。
 
  それに対してパウロは、一言聖書の思想を付け加えたのです。「しかし、神はそのいずれをも滅ぼされます」と。
 
  パウロは、食物と腹が確かに相互に依存していることを認めます。他方なしに本来の役割を果たすことはできません。しかし、パウロは、その二つについて、聖書の思想から次のように述べています。食物と腹は、人がこの世に生きる間だけ必要であるが、人がこの世を終え、また世の終わりが来れば、神はそれらを滅ぼされると。

 そして、パウロは、「体」について、次のように述べています。「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。」

 パウロにとって「腹」とは、今のわたしたちの肉体を使っている生活であります。フィリピの信徒への手紙3章17節以下で、パウロはキリストの十字架に敵対して歩んでいる者たちを次のように述べています。「彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」

 キリスト者の自由を主張する者は、パウロの理解では「腹を神とし、恥ずべきものを誇りと」する者たちです。彼らの関心事はこの世のことだけであります。

  それに対して、「体」は主イエスと関係しています。パウロは、先ほどのフィリピの信徒への手紙3章20節以下で次のように述べています。「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光のある体と同じ形に代えてくださるのです。」

 パウロにとって「体」は単なる肉体ではありません。パウロにとって肉体とは「腹」のことです。ですから、パウロは、「わたしたちの体は、みだらな行いをするためにあるのではなく、主との関係に生きるためにある」と述べているのです。

 誤解を恐れずに言いますと、パウロが述べている「体」とは今日の言葉に直すと「人格」です。わたしという神と関係している存在であります。

 ですから13節後半は、次のようにパウロの言葉を置きかえることは可能だと思います。「わたしという存在は、みだらな行いのためではなく、主のためにあり、主はわたしたちという存在のためにおられるのです」と。

 そのように考えると、キリスト者という存在に未来の希望が見えてきます。それを、パウロは復活という言葉で表現しました。

 14節で、パウロは次のようにキリスト者の復活の希望を述べています。「神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。」

 パウロが述べる「体」は、この世だけではなく、永遠の世界に生きる「わたしという」宗教的な存在であります。確かに今のわたしは、パウロが述べている「卑しい体」であります。弱く、汚れた、罪と死に、悪魔に支配されるわたしという存在であります。しかし、神は主イエスを死人の中から復活させられた、その御力によってわたしたちを、キリストに似た存在として新しく復活させてくださいます。

 その保証がキリスト者の洗礼であります。わたしたちは、洗礼においてキリストに結び付けられたのです(ローマの信徒への手紙6:3-5)。キリストの体なる教会の一つの肢として結び付けられました。

 パウロは、この事実を前提にして、15節、16節、19節で3度「知らないのですか」とコリント教会のキリスト者たちに問いかけています。そしてパウロは、コリント教会のキリスト者たちに、キリスト教会がかしらであるキリストの体の肢体として、キリストと結びつき、キリストの御心を実行し、みだらな行いを避けて、各自がキリストから命と力をいただいて、自分という存在を通して神に栄光を現すようにと勧めているのです。

 そのためにパウロは、コリント教会のキリスト者たちに次の3点を勧めています。第1にわたしたちキリスト者は、自分という存在がキリストの体なる教会の一部、すなわち、キリストの体の一つの肢であることを常に自覚すべきであるということです。キリスト者は、常にキリストと関係する宗教的存在です。

 だから、使徒パウロは、わたしたちキリスト者がみだらな行いをし、娼婦、すなわち、売春婦と交わることを固く禁じています。

  第2にパウロは、創世記2章24節の人類の最初の結婚を例にあげて、みだらな行いをし、娼婦と交わる者は主を捨て、娼婦と一体となり、不倫の罪を犯し、宗教的存在である自分の体に対して罪を犯すことになると警告しました。
 
  第3にパウロはこの手紙の3章16-17節でコリント教会がエルサレム神殿のように聖霊が住まわれている聖なる所であると述べていますが、6章19節ではパウロは、キリスト者の体が聖霊の住まわれる聖なる神殿であると述べています。
 
  パウロは、キリスト者の自由を振り回して、自分中心に生きている者たちに、「あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」と戒めました。
 
  なぜなら、キリスト者はキリストの所有であります。そのために主イエスは十字架の死によって、わたしたちの代価を払われました。
 
  ですから、パウロは、コリント教会のキリスト者たちに主イエスの所有である自分という存在を通して神の栄光を現しなさいと勧めているのです。
 
 「自分の体で神の栄光を現しなさい」というパウロの命令は、聞く者に大きな喜びであったと、わたしは思います。

 わたしという存在の中に聖霊が住まわれていることの喜びと恵みを、わたしたちが今朝のパウロの御言葉からどれほど受け取れるでしょうか。

 ブルースという英国の聖書学者が、コリントの信徒への手紙一、二の注解書を出しており、今朝のパウロの御言葉、わたしたちキリスト者に聖霊が宿っていることの大きな恵みを、聖書外典偽典の中にある『十二部族の遺訓』、その『ヨセフの遺訓』の族長ヨセフの言葉を引用しています。ユダヤ人の間に伝えられた伝承であります。族長ヨセフの真正の言葉ではないでしょうが、聖霊が内にいてくださる恵みと大きな喜びを知る者の言葉であります。

 「至高者が住んでさえおられるなら、そねみにあおうと、奴隷になろうと、中傷にあおうと、貞節のゆえに住んでおられる主が悪から救い出されるばかりか、わたしの場合のように、高め、栄誉をも賜わるのである。」
 
  この文は、族長ヨセフが書いたものではないけれども、創世記の族長ヨセフの信仰の生涯をよく知る者が、ヨセフの中に至高者(聖霊)が住まわれて、彼の体を通してヨセフに神の栄光を現わせるようにお働きくださっていることを、信仰の目で見て、証言したのでしょう。
 
  わたしは、この信仰者のように日々聖書を読み、族長ヨセフの生涯を通して、聖霊がヨセフの体の中に内住され、彼の体を通して、どのように彼に神の栄光を現わせるようになさったかを学ぶと共に、わたしたちの教会の歴史の中でも確かに聖霊は宣教師たちの中に、伝道者や信徒たちの中に住んでくださって、その体を通して、どのように彼らが神の栄光が現わせるようにされたかを学ぶことが、今大切であると思います。
 
  そして、わたしたちは、一人一人考える必要があります。それは、今のわたしたちにも聖霊が内住してくださって、聖霊がこのキリストの体なるこの教会を通して、わたしたちの一人一人の体を通して、どのようにわたしたちが神の栄光を現せる御業へと参与させていただいているかを理解することが大切であります。
  お祈りします。

  主イエス・キリストの父なる神よ、
 
  今朝も、パウロの手紙を通して、教会の現実の恥ずべき罪の姿と、その絶望的な状況にもかかわらず、キリストが教会とキリスト者に聖霊が内住してくださっている恵みと喜びを、わたしたちの耳に聞かせていただき、心に留めさせていただき感謝します。
 
  キリストがわたしたちを罪と死の奴隷状態より救い出して、解放と自由を与えてくださり感謝します。どうか、わたしたちキリスト者の自由を、自分たちの欲望のためではなく、神と隣人の益のために用いさせてください。
 
  どうか聖霊よ、わたしたちの内に宿り、わたしたちの体を通して、わたしたちが神の栄光を現わせるようにお導きください。
 
  毎週の主の日の朝に、祈りと賛美をもって礼拝をささげ、神をほめたたえさせてください。
 
  この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によっておささげします。アーメン。

 

 

 

  コリントの信徒への手紙一説教19        主の2014年7月20日

 そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。互いに相手を拒んではいけません。ただ、納得しあったうえで、専ら祈りの時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です。あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません。わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。
              コリントの信徒への手紙一第7章1-7節

 説教題「神の賜物によって生きる」
 本日よりコリントの信徒への手紙一は、第2部に入ります。第1部の1章10節から6章の終りまでは、使徒パウロがクロエの家の人々から受けた報告に、すなわち、コリント教会内の内部分裂と混乱に対処するために、この手紙を書きました(1-6章)。

 第2部は、7-15章の終りまでで、コリント教会のキリスト者たちから寄せられた質問状にパウロが回答し、コリント教会の問題に対処するために、この手紙を書いています。

  7章では「結婚と独身」の問題に、8-11章1節では「偶像礼拝への参加」の問題に、11章では「集会の秩序」の問題に、12-14章では「霊の賜物」の問題に、15章では「復活」の問題にそれぞれ、コリント教会のキリスト者たちの質問にパウロは答えて、教会の問題に対処しています。

 今朝の御言葉を見てまいりましょう。使徒パウロは、7章1節で、「そちらから書いてよこしたことについて言えば」と、この手紙で彼らの質問状に回答し、コリント教会の問題に対処したことを記しています。

 コリント教会のキリスト者がパウロに結婚について質問しました。そこでパウロは、7章1節の後半で、「男は女に触れない方がよい」と回答しています。パウロの回答は、質問したキリスト者の言葉を引用したものです。

 パウロに結婚について質問したコリント教会のキリスト者は、どちらかと言えば、禁欲主義的な男性でした。彼は、パウロに「人は女と性的交渉をしない方がよいのではないでしょうか」と質問しました。

 この質問の背景を想像しますと、コリント教会の中に結婚についての考え方に対立があったと推測できます。今までわたしたちは、コリント教会の中で性的な不品行が行われ、教会の中が混乱していることを学びました。

  それとは反対にコリント教会の中には禁欲主義的なキリスト者たちもいました。男女の性的行為を、極端に嫌い、「男は女に触れない方がよい」と主張し、結婚することに疑問を持つキリスト者たちがいました。

 使徒パウロは、質問した禁欲主義的な男性キリスト者に「男は女に触れない方がよい」と回答しました。これは、パウロが一般的原則を示しています。パウロは、独身生活を肯定しています。その理由は、すぐに主イエスが再臨されると信じて生きていたからです。7章26節でパウロは、「今危機が迫っている状態にある」と述べています。ですから、今独身の者はそのままでいることを、パウロは勧めています。

 しかし、パウロの一般原則は、強制ではありません。パウロは、コリント教会のキリスト者たちが「男は女に触れない方がよい」という一般的原則を守り、無理やり独身でいることを願ってはいません。人は弱いからです。

 だから、パウロは、質問したキリスト者に2節で次のように結婚の勧めをしています。

 「しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。」

  昔の口語訳聖書は、パウロの「持ちなさい」という命令を、「持つがよい」という許可に訳していました。
 
  パウロの結婚の勧めは最上ではありませんが、許される、差し支えがないというものであります。
 
  パウロが結婚を勧める動機は、コリント教会のキリスト者たちがみだらな行いを避けるためでありました。
 
  パウロのこの結婚の勧めには、旧約聖書の創世記に示されています結婚の祝福とか、夫婦間の助け合いによる人格的向上という思想はありません(創世記1:27-28)。
 
  それは、パウロがそれを無視しているからではありません。みだらな行いをキリスト者たちが行い、教会が混乱している中で、パウロは何とか教会の乱れを、キリスト者たちの乱れた生活を防ぐために、結婚を実際的に勧めたのです。
 
  そして、パウロは、3-5節前半で次のようにコリント教会のキリスト者たちに勧告しています。
 
  「夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。互いに相手を拒んではいけません。」

 パウロのこの強い勧告は、わたしたちにコリント教会のキリスト者たちの中に夫婦間において禁欲主義を守るべきだと主張する者たちがいたことを推測させます。

 パウロは、禁欲的な夫婦に対して夫と妻の「務めを果たせ」と勧告しています。それは、夫婦生活のことであり、夫婦の性的行為です。パウロは、夫婦は、相互に相手の体を自由にすることが許されているから、夫も妻も一方的に性的行為を拒むことはできないと勧告しています。

 このパウロの勧告に、強く夫婦の同等性の主張があります。パウロは、旧約聖書の教えに従い、夫婦を同等に考えています。

 創世記の30章に族長ヤコブの長男ルベンが野原で恋なすびを見つけ、母のレアのところに持って行きました。レアの妹のラケルがその恋なすびを欲して、その夜は、ヤコブはラケルと夫婦の営みをすることになっていましたが、レアは息子の見つけた恋なすびとラケルの夫婦の営みとを交換しました。そこでヤコブが夜に仕事から帰ると、妻のレアは夫に言いました。「あなたはわたしのところに来なければなりません。わたしは、息子の恋なすびであなたを雇ったのです。」

 夫婦は互いに体を自由にすることが許されています。ヤコブは、妻レアの申し出を拒むことはできませんでした。

 少し話が横道に逸れたので、元に戻します。夫婦は互いに体を所有し合い、夫婦の営みの義務を果たさなければなりませんが、パウロは一つだけ例外があると述べています。

 5節の中ほどの御言葉です。「ただ、納得しあったうえで、専ら祈りの時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です。」

 それは、夫婦がそれぞれ祈りに専念する時です。パウロは、夫婦が共に納得し、祈りに専念するために別居し、また祈りの期間が終われば一緒に生活するのであれば、しばらくの間夫婦の営みをしなくても差し支えはないと述べています。

 旧約聖書の神の民たちは、夫婦の営みをみだらな行いとは考えませんでしたが、神はそれが体を汚し、その体を持って神殿で礼拝することも神に奉仕すること、戦争に行くことをお許しになりませんでした。当然、夫婦の営みをし、祈りに専念する(エルサレム神殿への巡礼も含まれます)ことはできません。

 しかし、祈りに専念する期間が終われば、夫婦は一緒に生活するように、パウロは強く勧めています。

 その理由は、5節後半の御言葉です。「あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。」

 自制することの難しさを、パウロはよく知っています。人が自制できない弱さに乗じて、サタンは人を誘惑するのです。信仰の勇者ダビデ王は、入浴しているウリアの妻バト・シェバを見て、自制できずに姦淫を行いました。一体どれぐらいのキリスト者たちが自制できず、サタンの誘惑によってみだらな行いをしていることでしょう。パウロは、常にその危険を思い、コリント教会のキリスト者たちに結婚を進め、キリスト者の夫婦には常に一緒にいるようにと勧めたのです。

 ところが、6節でパウロは、彼の結婚の勧めが強制ではないと述べています。「もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません。」

 パウロにとりまして、コリント教会のキリスト者たちに結婚を勧めるのは、今のコリント教会の事情を考えれば、許されるし、差し支えないのであって、パウロにとりましては譲歩するのであって、命令しているのではありません。

 そして、パウロは7節で、彼の本心をもらしています。

 「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。」

 パウロの本心は、できれば、コリント教会のすべてのキリスト者たちが一般的原則に従って、パウロのように独身を通すことが願いです。しかし、今のコリント教会の現状では、困難であります。パウロが、自分のようにコリント教会のキリスト者たちに独身を命じても、彼らの弱さに乗じてサタンが彼らにみだらな行いをするように誘惑し、かえってコリント教会が混乱するだけです。

 わたしたちは、今コリント教会と同じ問題を抱えていないかもしれません。しかし、コリント教会のキリスト者同様の自制のなさという困難な問題を抱えているのではないでしょうか。

 たとえばわたしたちの教会にみだらな行いが、今は見えないとしても、わたしたちが生活する社会の中に不道徳がないわけではありません。テレビや映画、インターネットなど、情報社会の中にわたしたちキリスト者は生きています。そして、その情報社会の中でみだらな行いがなされており、わたしたちはその危険に晒されえいます。

  教会の若者や独身者を、その危険から逃れさせるために、教会はパウロのように結婚を勧めることが許されています。
 
  パウロは、結婚問題が扱っていますが、それは、教会の真の問題を取り扱うためであります。
 
  それは、何か、パウロは7章35節で、「ひたすら主に仕えさせるためである」と述べています。また、6章20節では「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」と述べています。
 
  キリストの十字架の贖いにより、救われて、神の所有者とされたわたしたちキリスト者は、主に仕える、主の栄光を現すことこそ、キリスト者としてもっとも正しい道でしょう。

 幸いに今、パウロは、神より自制の賜物を与えられ、独身のままでひたすら主に仕えて生きています。しかし、コリント教会のキリスト者たちのように神より自制の賜物をいただかないで、みだらな行いを避けるために結婚するキリスト者たちもいます。

 8節のパウロの言葉は、本当に教会の困難、キリスト者の困難を思う時、大きな慰め励ましではないでしょうか。

 「しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。」

 パウロは、結婚の賜物と独身の賜物の話をしてはいません。「あるキリスト者は自制の賜物を受けているが、他の人は受けていない。」神の賜物を受けたキリスト者と受けていないキリスト者とが、別の歩みをするのは当然のことであり、わたしたちキリスト者は聖霊を通して神より与えられた賜物に従って、各々の生活を営んでいるのです。

 わたしたちは、結婚にしろ、独身にしろ、わたしたちの意志で行うことはできないと知っています。わたしたちそれぞれも、聖霊を通して神がお与えくださった賜物によって、ある兄弟姉妹たちは結婚し、ある兄弟姉妹たちはパウロと同じように独身で神に仕えるでしょう。キリスト者の人生は、個々のキリスト者に神が賜る賜物によって生かされたその人その人の大切な信仰生活なのであります。
  お祈りします。

  主イエス・キリストの父なる神よ、
 
  今朝から、コリントの信徒への手紙一の第2部を学び始めました。パウロがコリント教会のキリスト者たちの質問に答えて、コリント教会の問題と現実に対処しています。
 
  今朝のパウロの御言葉からわたしたちにキリスト者の本分が何であるかを理解させてください。パウロの結婚の勧めから、わたしたちの弱さを理解させてください。
 
  わたしたちとわたしたちの教会にも、さまざまな問題があります。今朝のパウロの御言葉から知恵をいただき、兄弟姉妹たちとこの教会の問題に対処させてください。
 
  どうか父なる神とキリストが聖霊を通して、わたしたち一人一人に賜った賜物によって、わたしたちの体を通し、このキリストの体なる教会を通して、わたしたちがひたすら主に仕え、神の栄光を現わせるようにお導きください。
 
  この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によっておささげします。アーメン。