コリントの信徒への手紙一説教34      主の2014年12月14日
  体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分のものであろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分からなっています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前は要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかより弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中ではほかより恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
  あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者,第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行うものであろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい。
             コリントの信徒への手紙一第12章12-31節

 説教題:「わたしたちはキリストの体です」

 パウロがコリント教会のキリスト者たちに今朝の御言葉で呼びかけていることは、一言で「わたしたちはキリストの体です」ということです。

 パウロは、12節で「キリストの場合も同様である」と述べて、教会とキリストを同じものと見て、わたしたちの体にたとえているのです。

 わたしたちキリスト者は、一人ひとり異なります。しかし、教会、すなわち、キリストの体に結びつけられて、キリストという一つの体を成しています。ですから、パウロはわたしたちを、キリストの一つの体のそれぞれ「一部分」であると述べています。

 どのようにしてわたしたちキリスト者は、キリストの一つの体に組み入れられたのでしょうか。13節でパウロは、「一つの霊によって・・・・・皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです」と言っています。使徒言行録の2章にありますペンテコステの出来事以来、わたしたちは大人であろうと子供であろうと、男であろうと女であろうと、市民であろうと奴隷であろうと、水で洗礼を受けた時に、聖霊のバプテスマを受けて、皆一つのキリストの体に結びつけられたのです。

  「皆一つの霊を飲ませてもらった」とは、聖餐式のことではありません。聖餐式であれば、パウロは過去の出来事として述べなかったでしょう。それに聖餐式で飲むのは、キリストの血であり、聖霊ではありません。「飲ませられた」という言葉をパウロは、この手紙の3章6節で、「わたしは植え、アポロは水を注いだ」と、「注がれる」という意味で使っています。わたしたちがキリストを信じて、洗礼を受けました時に、パウロは「霊を飲ませてもらった」と述べて、聖霊がわたしたちに内住してくださったことを述べたのでしょう。
 
  キリスト者とその子供たちは、洗礼によってキリストと一つにされ、キリストの体なる教会を成しています。キリストの体は一つです。しかし、それは、多くの部分から成り、いろいろであります。それが14-19節のパウロの言っていることです。
 
  そこでパウロはコリント教会のキリスト者たちを戒めているのです。キリスト者たちが高ぶり、教会の中で「足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』。耳が『わたしは目ではないから、体の一部ではない』」と言いました。そして、教会の集会を混乱させました。さらにあるキリスト者たち、兄弟たちを21節で「お前は要らない」と見下していたことを、パウロは批判して述べています。
 
  コリント教会の中には豊かなカリスマを持つキリスト者たちがいました。彼らは自分が持つ特別の霊的賜物を誇りました。そして、彼らは貧しいキリスト者たちを見下げて、自分と彼らとは同じではないから、自分たちは体の一部ではないと言い張り、一人で勝手な行動をしました。彼らはコリント教会の全体の益を考えないで、また配慮もしないで、勝手に異言を語り、集会を混乱させていたのでしょう。
 
 そこでパウロは、彼らに痛烈な批判をしました。自分のカリスマのみを誇り、異言を語れることのみを誇る者に、一つの部分だけで成り立っている体は、お化けであると。目だけである人間の体、耳だけである人間の体を想像してみてください。わたしたちは、「キャー、お化け」と言うのではありませんか。

 さらにパウロは、20-26節で、多くの部分があっても、キリストの体は一つであるという原則を確認しています。続いて、パウロは一つの部分、一つの賜物があれば、他は要らないという主張を退けています。むしろ、パウロは多くの部分が必要であり、それぞれの部分が互いをいたわり合い、配慮し合う調和が必要であると述べています。

 パウロは、わたしたちの体の仕組みを本当によく知っています。わたしたちの体が目だけ、頭だけ、足だけ、耳だけでは、人の体として全く機能しません。人の体は、一つの部分だけではなく、多くの部分から成り立ち、互いにそれぞれの部分が補い合っています。もし体の一つの部分が傷つけば、体の全体が健康を損ないます。

 教会も同じです。いろんな者たちが集まって、一つのキリストの体なる教会です。神は永遠からキリストにあって選んだ者たちを、御心のままにこの教会に集められるのです。そして神は集められた者たちを、キリストの体の一部分として置き、他の体の部分と互いにいたわり合い、助け合うようになさいました。

 そのことをパウロが次のようにたとえています。わたしたちは自分の体で格好の悪い所があれば、少しでもそこを良く見せたいと思います。どうすれば人によく見てもらえるかと努力します。キリストの体なる教会も同じです。主イエスは、「丈夫な人には医者は必要でありません」と言われました。強いキリスト者、豊かなキリスト者にはいたわりと助けは必要ありません。しかし、見劣りがする者、弱い者たちにはいたわりと助けが必要です。そこで神は見劣りのする者たちのために、賜物のある者たちを用いてその者たちをよくされ、また豊かな者たちを用いて貧しい者たちを養わせ、力強い者たちを用いて弱い者たちを支えさせられます。

 コリント教会のように、教会の中に分裂があり、混乱があるのは、教会が不健全であるしるしなのです。

 ですから、パウロは、健全な教会について次のように述べています。わたしたちの体の一部分が傷つけば、体の全体が苦しみ、体の一部分が癒されれば体の全体が喜ぶように、教会も一部分である一人の兄弟が苦しめば、教会の全体が共に苦しみ、一部分の兄弟が喜べは、教会の全体が共に喜ぶのが、健全なキリストの体なる教会であると。

  今朝のパウロの御言葉から、わたしたちはキリストの体であり、一人一人はその部分であることを学びます。
 
  キリストの体とは、キリストが御自分の十字架の死によって贖われた体であります。ですからわたしたち一人一人を、キリストは死の代価を支払って、キリストの体なる教会の一員にしてくださったのです。キリストにとっては、わたしたちは御目に尊い、決して失われてはならない者たちであります。ですから、パウロは、コリント教会の強いキリスト者たちが弱いキリスト者たちのつまずきとならないように、また弱いキリスト者たちを受けいれ、彼らの弱さを支えて、共にコリント教会を建て上げてほしいと願っているのです。
 
  今わたしたちの教会に、異言の賜物の問題で、礼拝が混乱しているということはありません。
 
  しかし、わたしたちは、パウロが言っているように、「わたしたちはキリストの体である」と強く確信して教会生活をし、「一人一人はその一部分である」と強く確信して教会の礼拝にあずかり、奉仕にあずかっているでしょうか。
 
  また、わたしたちは、キリストの体であることを意識し、一人一人はその一部分であることを心に留めて、パウロが言う通りにわたしたちの隣に座る兄弟や姉妹たちを、契約の子供たちをいたわり、配慮しているでしょうか。また、わたしたちはお互いに苦しみと喜びを分かち合っているでしょうか。
 
  わたしたちは皆、キリストと一つであり、キリストの体であり、コリント教会の強いキリスト者のように他の兄弟を見下げること、あるいは自分を見下げ、劣等感を持つことは間違いです。教会ではキリストがわたしたちの主として、わたしたちに召しと賜物を与えて、ある者を使徒とし、預言者とし、教師とし、奇跡を行う者とし、癒しを施す者とし、教会を管理させ、異言を語らせ、それを解釈させてくださるのです。
 
  わたしたちは、主から与えられた召しを忠実に果たし、いただいた賜物をこの教会を建て上げるために用いて、少ない群れでありますから、なお一層いたわりと助け合いによって、わたしたちの教会を支えて行こうではありませんか。
 
  お祈りします。
 
  イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちは、今朝使徒パウロより「あなたがたはキリストの体です。一人一人はその部分です」と教えられました。
 
  洗礼を受けて、わたしたちはキリストと一つにされ、キリストの体の一部分とされたことを感謝します。どうか、そのことを常に意識して礼拝を守り、教会の奉仕にあずからせてください。
   
  わたしたちが互いに配慮し、いたわり、助け合うことで、この教会を建て上げさせてください。
 
  わたしたちは、互いにキリストの体なのですから、一人の兄弟姉妹の苦しみはこの教会の苦しみであり、一人の兄弟姉妹の喜びはわたしたちの教会の喜びとしてください。
 
  いよいよ来週にクリスマスを迎えます。先週より大和から湯の脇地区までクリスマスの集いの案内を配布しています。どうか、このチラシを、新聞広告と地域誌の案内を用いてくださり、いろんな方々を教会へとお導きください。
 
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 コリントの信徒への手紙一説教35     主の2015年1月4日

 そこでわたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物のを持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない。
 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
        コリントの信徒への手紙一第12章31節b-13章13節

  説教題:「愛」
  2015年最初の主の日の礼拝で、わたしたちは、使徒パウロが教える「最高の道」である愛について学びましょう。
 
  パウロは、コリント教会のキリスト者たちの質問の手紙に答えて、この手紙の12章から14章まで「霊的な賜物」について述べています。そして、パウロは、コリント教会が今霊的な賜物で、特に異言の賜物で、教会の礼拝が混乱しているので、コリント教会のキリスト者たちに正しい「霊的な賜物」の理解と教会の集会を正しく秩序のあるものにしようとしています。
 
  そこでパウロは、12章1-11節でコリント教会のキリスト者たちにその人がまことに霊の賜物を持つキリスト者であるという規準を示し、その後に霊の賜物の多様性とそれが教会全体の益となるということを教えました。
 
  それから12-31節aで、パウロは霊の賜物を与えられたコリント教会のキリスト者たち一人一人とコリント教会全体の関係を、人の一つの体とその体に属している手や足などの肢体との関係にたとえて、キリストの体なる教会を教えました。すなわち、わたしたちキリスト者は、洗礼によって一つのキリストの体に結びつけられた一つ一つの肢であり、多様性であり、それぞれがいろいろな賜物を与えられています。そして、キリストの一つの体となるように、それぞれのキリスト者たちが与えられた賜物を用いることが必要であると、パウロはコリント教会のキリスト者たちに教えました。
 
  しかし、パウロは、コリント教会のキリスト者たちが関心を持ち、彼に質問した「霊の賜物」やそれを用いることよりももっと大切なものがあることを、今朝の御言葉で教えているのです。
 
  それを、パウロは「最高の道」と言っていますが、「卓越した道」、「遥かに素晴らし道」のことです。「道」とは生き方です。キリスト者として生きる、その根源となるもの、土台となるものです。それがあってこそ、キリスト者に与えられた霊の賜物が生かされます。それがないと、どんなに豊かな霊の賜物を持っていても、キリスト者として生きる上で、何の益もありません。霊の賜物は宝の持ち腐れになってしまうのです。
 
  ですから、パウロは、コリント教会のキリスト者たちが霊の賜物を用いてさらにコリント教会をキリストの体に建て上げることができるように「最高の道」を教えようと述べているのです。
 
  「最高の道」とは、愛です。キリスト者としてこの世に生き、神の御国を目指して歩み、キリストの体なる教会を建て上げることに奉仕しようとするならば、この「最高の道」である愛がなければ、キリスト者としてのあなたのすべての賜物とそれを用いて為すことはすべてが無になると、パウロはコリント教会のキリスト者たちに訴えています。
 
  そこでパウロは、コリント教会のキリスト者たちに1-3節でこの愛がなければ、すべては無益であると諭しています。すなわち、彼らが熱心に今求めている人や天使の異言を語れる賜物があろうと、神の御言葉を語れる預言の賜物があろうと、また神の神秘を知る知識に通じていても、主イエスが12弟子にお示しになった山を動かすほどの完全な信仰があろうと、熱心に貧しい人々に施しをし、この身を犠牲にして殉教しようとも、愛がなければキリスト者として生きることはすべて無であると。それほどパウロは、最高の道である愛はキリスト者にとって最も価値があるものであると教えています。
 
  次にパウロは、コリント教会のキリスト者たちに最高の道である愛がどんな働きをするのかを、4-7節で教えています。4節前半は、愛の働きの積極的な面です。4節後半から7節は、愛の働きの消極的な面です。
 
  「愛は忍耐強い。愛は情け深い」とは、愛が私たちキリスト者に積極的に働きかけます。わたしたちキリスト者を寛容にし、思いやりのある者にするのは、愛の働きかけです。「愛は忍耐強い」とは、愛がわたしたちを寛容にし、相手に対する憤慨の思いに勝つようにしてくれます。「愛は情け深い」とは、愛がわたしたちを、善きサマリア人にしてくれます。彼のように愛がキリスト者を隣人を憐れみ、親切に振る舞うようにしてくれます。
 
  4節後半から7節は、愛の働きの消極的な面です。愛は「ねたまない。自慢しない。高ぶらない。礼を失せない。自分の利益を求めない。いらだたない。恨みを抱かない。不義を喜ばない。」
 
  このパウロの言葉をしっかりと心に留めてください。肉であるわたしたちが日常にしていることです。愛が働く反対のことを、肉であるわたしたちキリスト者がこの世でしています。
 
  キリスト者も他人の成功を妬みます。人に見せびらかして自慢します。プライドを持ちます。次にキリスト者が隣人に対してする行動です。不作法をし、自己中心で、相手の言葉や態度に敏感に反応していらだち、隣人に恨みを抱きます。
 
  愛は、わたしたちがこのような悪い感情や思い、考え、態度に打ち勝つことができるように働いてくれているのです。
 
  たとえば、この手紙の6章にコリント教会で裁判沙汰が問題になったことを記しています。あるキリスト者が兄弟から不義不正を受けたので、この世の裁判に訴えました。そのときに愛は、その世の裁判に訴えたキリスト者に対して兄弟の罪を赦すように働きかけてくれます。恨みを抱き世の裁判に訴えるキリスト者に対して愛は、兄弟の悪を数え立てないようにしようと働きかけてくれます。
 
  愛の働きの最後に、「不義を喜ばず、真理を喜ぶ」とありますね。愛は、ここだけは消極的面と積極的面が記されています。愛は常不義には対立する働きをし、真理には共に喜ぶ働きをします。愛はわたしたちキリスト者が不義を憎み、真理を喜ぶように働くのです。
 
  7節は、愛の働きのリストのしめくくりです。愛は、わたしたちが今だれかから悪や不義をうけたときに、それに耐えさせ、どんな時にも主イエスを信じさせ、主イエスにある希望を捨てさせず、そして、将来にわたっても、すべてのことに耐えさせるのです。
 
  パウロは、8-13節で霊の賜物の一時性と愛の永続性を述べています。そこでパウロは、3つのたとえをします。第1に一部分と完全なものというたとえです。霊の賜物がキリストの体なる教会の全体の益となるために、この地上の教会に与えられました。わたしたちの地上の教会は一部分です。その完全なものである御国が来れば、預言も異言も知識も必要なくなります。
 
  第2にパウロは、幼子と成人というたとえをします。幼児期から成人に移るとき、人はしゃべり方も考え方も判断力も変わります。同様に今コリント教会のキリスト者たちは預言と異言と知識の賜物についていろいろと論じ、判断していますが、成人になった時、御国の住民になれば、それらのすべてを棄てるでしょう。
 
  第3にパウロは鏡で見る姿と本当の姿をたとえています。地上の教会では主イエスとわたしたちの関係は、御言葉と礼典による関係です。キリストは、御言葉と礼典を通してわたしたちのところに臨在されていますが、わたしたちははっきりと顔と顔とを合わせて見ているわけではありません。わたしたちは、聖書を通して、礼拝を通して、兄弟姉妹の交わりを通して、神について一部分知っているだけであります。しかし、御国が来れば、わたしたちは完全に主イエスと顔と顔とを合わせ、直接に主イエスを見、知ることが許されます。今主イエスは、わたしたちを完全に知られていますが、その時にわたしたちも自分たちのことを完全に知るのです。
 
  これらのパウロのたとえから、今のわたしたちにとって大切なことは何かを教えられます。それは、神とわたしたちとの関係です。わたしは、キリスト者としてどんな霊的な賜物を持っているかということよりも、わたしに神の愛が注がれているかということの方がもっと大切なのです。神より愛をいただいていることが、やがて神の御国で愛する主イエスと顔と顔とを合わせることの確かな保証であります。
 
  ですから、パウロは「愛は決して滅びない」と断言するのです。そして、御国まで永続する信仰と愛と希望の中で、パウロが「その中で最も大いなるものは愛である」と宣言しているのは、愛だけが神と置きかえられるからです。たとえば、13章の愛を、神とキリストに変えて読んでみてください。何の違和感もないでしょう。
 
  キリスト者は、クリスチャンと呼ばれます。そこからキリストを除けば、ノン、無であります。キリストが臨在されなければ、今朝のわたしたちの礼拝は、どらやシンバルのように騒がしいだけです。キリストが存在されないのであれば、わたしたちが今キリスト者として生き、神を礼拝し、献金をささげ、奉仕し、伝道することは何の益もありません。
 
  ところがキリストは、キリストの御霊としてわたしたち内に住まわれ、神がわたしたちに注がれた愛として、わたしたちの内で働かれています。わたしたちが寛容なのは、愛であるキリストのお働きです。善きサマリア人のように人を憐れみ、親切にするのは、わたしたちの内でお働きくださるキリストのお陰です。有名なトルストイのお話、『靴屋のマルチン』のように、御国が来たときに、わたしたちがキリスト者として行なったすべてのことを、主イエス・キリストご自身が、「それはわたしだ」と言われるでしょう。神の愛、キリストの愛こそがわたしたちキリスト者の救いの根源であります。今朝のパウロの御言葉を通して、わたしたちはわたしたちの内に生きているキリスト、わたしたちの内に注がれた神の愛のお働きを、わたしたちの信仰の目を通して見て生きましょう。
 
  お祈りします。
 
  主イエス・キリストの父なる神よ、今年1年間、今朝パウロの御言葉を通してわたしたちに語られた愛、キリストのお働きがわたしたちキリスト者の内に働かれている恵みを見させてください。
 
  聖霊の実を見させてください。わたしたちは肉であります。罪と汚れと不義を行うものです。ねたみと利己主義、不和と人への恨みを持つ者です。御国に相応しくない者です。
 
  しかし、キリストの十字架の死のゆえにわたしたちの罪を赦し、わたしたちをご自身と和解させ、わたしたちの内に神の愛を注ぎ、わたしたちに聖霊の実をお与えくださったことを感謝します。わたしたちの内にいますキリストが、わたしたちを寛容な者とし、隣人を憐れみ、親切をし、兄弟の罪を赦し、心へりくだる者としてくださっていることを心より感謝します。
 
  どうか今年一年間常にキリストと共に歩ませてください。これから今年最初の聖餐の恵みにあずかります。今朝の御言葉を、聖餐を通してわたしたちに確信させてください。そして、今年一年間神の愛に感謝して歩めるようにしてください。
 
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。




 コリントの信徒への手紙一説教36     主の2015年1月11日

 愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。あなたがた皆が異言を語れるのにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。
 だから兄弟たち、わたしがあなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう。笛であれ竪琴であれ、命のない楽器も、もしその音に変化がなければ、何を吹き、何を弾いているのか、どうして分かるでしょう。ラッパがはっきりした音を出さなければ、だれが戦いの準備をしますか。同じように、あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているか、どうして分かってもらえましょう。空に向かって語ることになるからです。世にはいろいろな種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません。だから、もしその言葉の意味が分からないとなれば、話し手にとってわたしは外国人であり、わたしにとってその話し手も外国人であることになります。あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性では実を結びません。では、どうしたらよいでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分らないからです。あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません。わたしは、あなたがたのだれよりも多く異言を語れることを、神に感謝します。しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るよりも、理性によって五つの言葉を語る方をとります。
 兄弟たち、物の判断については子供になってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。律法にこう書いてあります。
 「『異国の言葉を語る人々によって、
    異国の人々の唇で
    わたしはこの民に語るが、
    それでも、彼らはわたしに耳を傾けないだろう』
と、主は言われる。」このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです。教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間のない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。
           コリントの信徒への手紙一第14章1-25節

説教題:「神の御言葉が語られるところに教会は建つ」

 今朝は、使徒パウロがコリント教会のキリスト者たちに互いを造り上げ、教会を造り上げるために熱心に霊的な賜物を求めなさい、特に預言の賜物を求めなさいと奨励していることを学びましょう。

 さて、パウロは、14章で、12章の霊の賜物の議論を再開します。14章1節でパウロがコリント教会のキリスト者たちに「愛を追い求めなさい」と命じています。この一言で、パウロは13章の愛の奨励を要約したのです。この愛がなければ、これからパウロがコリント教会を造り上げるために議論することはすべて無益となります。愛で教会を造り上げるために、これからパウロは霊の賜物の議論を再開し、預言と異言の賜物について論じて行くのです。

 パウロは、12章のところでは、霊の賜物について議論し、最後に「あなたがたはもっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい。」と勧めました。14章1節でパウロは、コリント教会のキリスト者たちに「霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。」と勧めています。異言の霊的な賜物よりも預言する霊的な賜物の方が、「もっと大きな賜物」であることを、ここでパウロが論じているのです。

 それが2-4節です。異言はコリント教会のキリスト者たちを互いに高め合い、教会を建て上げて行くことができません。なぜなら異言は、祈りです。個人が密室で、異言で祈ることは有益でしょう。しかし、異言は人に向かって語られる言葉ではありません。「霊によって神秘を語る」ので、決して他の人には理解ができません。異言は語る人を造り上げても、他人を慰め、励まし、造り上げることはできません。教会を建て上げることに不向きなのです。

 他方、預言は人に向かって語られる言葉です。キリスト者たちが集まりました中で、キリストの御心を理解できる預言が語られ、聞きます者たちに説得力をもってそれが宣言されれば、人を造り上げ、励まし、慰めるでしょう。こうしてコリント教会が預言の賜物によって形成されるのです。

 パウロは異言を霊的な賜物と認めています。だから、彼は異言を否定しません。しかし、異言には限界があります。解釈する者がなければ、教会を造り上げることには貢献できないということです。その点でパウロは、預言を語る方が教会を形成するのにまさっていると正しく評価しています。

 次にパウロは、6-12節で教会を造り上げる上で、重要な点は言葉が理解される必要があるということです。

 パウロはコリント教会へ行って、異言の祈りをしても、コリント教会の役には立たないと述べています。なぜなら、パウロが「啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ」、コリント教会のキリスト者たちが神の御心を理解できないし、神から慰めと励ましを得ることもできないからです。

 そこでパウロは、コリント教会のキリスト者たちに教会を造り上げるために理解することの重要性を次のようにたとえています。

 第1は楽器のたとえです。命のない楽器は音階の変化がないと何を吹き、何を演奏しているのか分かりません。

 第2は、ラッパのたとえです。進軍のラッパか、退却のラッパか、ラッパがはっきりした音をださないと、兵士は戦いの準備ができません。

 同様に異言の祈りも、だれもが分かる言葉で語られないと、何を話しているのか分かりません。それでは、空に向かって語られているようなものです。何の意味もありません。

 第3は言葉のたとえです。言葉は、世界中にいろいろあります。そして人が語る言葉には意味のないものはありません。しかし、理解できなければ、話し手にとって聞くわたしは外国人であり、わたしにとっても話している人は外国人です。

 このパウロの話しを聞いていて、旧約聖書の創世記11章で主なる神がバベルの塔を建て、神に反逆した人類の言葉を混乱させて、世界に散らされた出来事を思い起こしました。人はコミュニケーションが成り立たないと、集まるのではなく、散らされて行きます。

  教会も同じです。わたしたちが口にする言葉が、理解できないものとなれば、教会は集まるところから散らされるところとなります。
 
  だから、わたしたちは、パウロが勧めるように共に神の御言葉を聞くことができるように、それによって教会を造り上げることができるように、熱心に求める必要があります。
 
  13-17節で、パウロは異言を語る者を配慮しています。コリント教会のキリスト者たちの中には、異言の賜物を教会のために用いたいと願う者がいたからです。それでパウロは、異言を祈る者に、集会に集まる者たちが理解できる言葉で異言を祈るように勧めました。
 
  霊で祈っても、人には理解できません。そこでパウロは、異言を祈る者に霊で祈ると同時に、だれにも分かる言葉にして祈りましょうと勧めました。霊で賛美すると同時に、だれにでもわかる言葉で賛美しましょうと、勧めました。新来会者をつまずかせないためであります。彼らが祈りと賛美を理解して、「アーメン」と唱えられるように、パウロは教会の中で祈り、賛美しましょうと呼びかけています。
 
  このようにパウロの勧めを聞いていますと、パウロがわたしたちに教えています「教会を造り上げる」ということは、教会に集められただれもが、共に賛美し、祈り、御言葉を聞き、信仰を告白し、聖餐にあずかり、ささげ、感謝するということであると、そのように礼拝のことであると理解できないでしょうか。
 
  18-19節でパウロは、だれよりも多く、異言の祈りができることを神に感謝しています。この感謝は、異言を語る者たちからの反論を封じるためです。だれよりも多く異言の祈りができるパウロが、教会を造り上げるために異言の賜物よりも預言の賜物を重んじているのです。教会を造り上げるためには、異言の祈りよりも、だれもが分かる言葉で教えることの方が不可欠なのです。だからパウロは、一万の異言の言葉よりも、人に分かる五つの言葉を語ると述べています。
 
  20-25節でパウロは、異言は信じていない者のためのしるしであり、預言は信じる者のためのしるしであると述べています。
 
  パウロは、異言の祈りのみを求めるキリスト者たちを未熟な者と評価しています。キリスト者にとって大切なことは他にもたくさんあります。子供は、これが欲しいと思うと泣きわめいて親にねだります。大人は物の判断をするときに、役に立つかどうかをよく吟味します。パウロは、コリント教会のキリスト者たちに物の判断は大人のように、そして幼子のように悪に染まらないで純真に生きてほしいと勧めています。
 
  パウロは、コリント教会の置かれている状況に相応しい神の御言葉があると、イザヤ書28章11節と12節の御言葉を自由に引用しています。
 
  預言者イザヤが南ユダ王国の神の民たちに彼らの生き方の愚かさを警告しました時に、神の民たちは預言者イザヤを赤ちゃんの言葉で嘲りました。そこで預言者イザヤは、その嘲りの言葉を逆手に取り、神の民たちの耳に理解できない外国語の言葉で、主の御言葉を語りました。そして預言者イザヤは知っていました。神の民たちは、異国の言葉で主の救いの約束を語るイザヤの言葉を信じないと。イザヤが外国語で語りました主の御言葉は、不信仰な神の民に対する呪いのしるしとなりました。
 
  パウロがイザヤの言葉を引用したのは、コリント教会のキリスト者たちが熱心に神の御言葉に耳を傾けていないからです。だから、今異言の祈りがコリント教会において信じない者のためのしるしとなりました。異言の祈りは教会を造り上げるどころか、教会の伝道を妨げるものとなりました。
 
  たとえば、集会で異言の祈りがなされている中に新来会者が入り、理解できない祈りを聞いて、この集会の者たちは皆おかしいと判断し、コリント教会の伝道は異言の祈りに阻害されました。
 
  反対に、預言は信じる者のためのしるしであり、集会で預言が語られている中に、新来会者が入ると、彼の内なる秘密が暴かれ、彼の罪が指摘され、これはわたしに向けられた神の御言葉と悟り、彼はひれ伏して「まことに、神があなたがたの中におられます」と信仰告白するだろうと、パウロは述べています。
 
  この異言の問題は、今日でも教会の中で起こります。実際にわたしたち東部中会の中でも新ペンテコステ運動がアメリカから持ち込まれ、宣教師の影響で教会の中で牧師と教会員が異言を語るという事件が1970年代に起こりました。それによって教会は混乱し、教会の伝道は大きく妨げられました。
 
  また、わたしは、他派の方から異言を語るということを聞くことがあります。しかし、今朝学びましたように教会を造り上げるために何の益もありません。むしろ、異言の祈りは、神の御言葉を熱心に聞くことから目をそらせた不信仰な者たちのためのしるしとなっています。教会の集会を混乱させ、求道者に疑いの目を向けさせ、伝道にとって大きな障害となるでしょう。もちろん、わたしたちが異言の祈りによって神の御心を知ることはありませんし、わたしたちに向けて語られた神の御言葉と励まされたり、慰められることもありません。
 
  わたしは、今朝のパウロの教えから、だれにも理解できる言葉で、御言葉が語られるところにキリストはおられると信じます。わたしたちは神の御言葉を聞くことに熱心であれば、御言葉は信じるわたしたちのための神の祝福のしるしとなり、わたしたちをこの教会に集め、共に主に励まされ、共に主を賛美し、祈り、聖餐にあるかり、ささげ、感謝し、「わたしはいつもあなたがたと共にいる」と約束されたキリストと共に生きることがゆるされるでしょう。
 
  お祈りします。
 
  イエス・キリストの父なる神よ、どうかわたしたちに真理と偽りを見抜く心をお与えください。わたしたちも、教会形成に役立つ霊の賜物をお与えください。わたしたちの目と耳を開き、聖書と説教を理解させてください。わたしたちの心の神の愛を注ぎ、共に集まり、礼拝をし、共に賛美し、祈り、聖餐にあずかり、ささげ、感謝させてください。
 
  この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈りますアーメン。