コリントの信徒への手紙一説教20        主の2014年8月3日

 未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚をした方がましだからです。更に、既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です。―既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい。―また、夫は妻を離縁してはいけない。その他の人たちに対しては、主ではなくわたしが言うのですが、ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない。また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない。なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です。しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。
              コリントの信徒への手紙一第7章8-16節

 説教題「平和な生活を送る」

  パウロに結婚について質問したコリント教会のキリスト者は、「男は女に触れないがよい」(Ⅰコリント7:1)と考えている禁欲的な者でありました。
 
  パウロの時代、コリント教会だけでなく、どこの教会でも禁欲主義者や独身主義者がおりました。主イエス・キリストは生涯独身でしたし、使徒パウロも独身でした。だから、主イエスやパウロに倣って、独身でいようと思ったキリスト者が多く居たと推測できます。
 
  パウロ自身も、7節で「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。」と述べ、8節でも「皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。」と述べています。
 
  ところで、8節に「独り」という言葉がありますが、実は原文にはありません。文語訳聖書をみますと、「もし我が如くにして居らば彼等のために善し」と訳しています。ここで、パウロは、未婚者とやもめのキリスト者たちに独身でいるか、夫婦でいるかを問題にしているのではありません。
 
  パウロは、7節の後半で「しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」と述べています。今パウロは、神から賜物をいただいて、神の恵みによって生きています。パウロは、コリント教会の未婚者とやもめのキリスト者たちに、彼と同じ生き方を願っているのです。
 
  そのように考えれば、9節で、パウロが結婚を勧めていることがよく理解できます。パウロは、「自分を抑制できなければ、結婚しなさい。」と勧めています。そして、パウロは言っています。「情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。」と。自分で自分をコントロールできなくて、自分の内に現れて来る力が情欲であります。パウロは、そういう人は神より独身の賜物が与えられていないのだから、2節で述べたように「不品行を避けるために結婚する方がよい」と述べています。
 
  字面を読めば、未婚者とやもめのキリスト者に独身か、結婚かを選択する問題に見えますが、パウロはさらに深くキリスト者の生とはどのようなものかを論じています。すなわち、キリスト者の生は、個々人が神から賜物をいただいて、その神の恵みによって生きるものであると。
 
  続いてパウロは、コリント教会の既婚のキリスト者たちに離婚を禁じています。正確には、パウロではなく、主イエスが禁じておられます。主イエスは、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(マルコ10:9)とお命じになりました。そして主イエスは弟子たちに「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」と言われました(マルコ10:11-12)。
 
  ですからパウロは、主イエスの命令に従い、離婚した夫婦に、他の者と再婚しないでいるか、和解して元通りになりなさいと勧めています。
 
 しかし、ここで注意してほしいのは、パウロの離婚者への態度です。パウロは、離婚したキリスト者を戒規していません。むしろ、コリント教会の離婚者たちに「結婚しないままにいるか、妻、また夫と和解して元通りになりなさい」と改善策を示しています。

 さて、次の問題は、パウロの異邦人伝道から生じた問題でした。すなわち、夫婦の片方がキリスト者で、もう片方が異教徒であるという問題です。

  これは、異邦人教会の新しい問題ですので、パウロは、12節で「主ではなくわたしが言うのです」と述べています。主イエスがお命じになられた権威ある御言葉とは別に、使徒パウロが神の霊感によって与えられたものであります。新しい事態への新しい聖書解釈と応用が求められました。
 
  パウロは、キリスト者が宗教の異なる夫と妻をどのように扱うべきかを次のように勧めたのです。キリスト者の側からは離婚してはいけないと。未信者である妻と夫が一緒に生活することを喜んでいるならば、キリスト者である夫と妻は自分から離婚すべきではないと。
 
  更にパウロは、14節で次のように述べています。未信者の夫は信者の妻によって「聖なる者」にされ、未信者の妻も信者の夫によって「聖なる者」とされ、二人から生まれる子供たちは「聖なる者」であると。
 
  この「聖なる者とされる」とは、どういう意味なのでしょうか。16節で、「救いに入れられている者」という意味ではないことは分かります。
 
  昔、神の幕屋やエルサレム神殿で奉仕します祭司やレビ人は、「聖なる者」と呼ばれました。神の御用にとり分けられていたからです。
 
  神が未信者の妻と夫を、信者の夫と妻に連れ合いになさったのは、神がその未信者の妻と夫を御自分の目的と御用に聖別し、選ばれたからです。
 
  一緒に生活することで、未信者の妻と夫は、信者の夫と妻を守り、支え、生まれてくる子供を契約の子として養育するという点で、本人がそれを自覚しているかいないかに関わらず、神の御用に奉仕しているのです。
 
  パウロは、信者と未信者の間に生まれた子供を、「聖なる者」であると断定しています。片方の親が信者であれば、親は信仰のゆえに神の契約の中に入れられており、当然その子は「契約の子」とされ、幼児洗礼を受けることが許されえいます。
 
  さて、15節と16節は、実は大変難しい御言葉です。パウロは、未信者と結婚したキリスト者たちに「結婚に縛られてはいけません」と忠告しています。離婚が許される特殊なケースがあるという意味でしょう。
 
  そのケースとは、未信者の夫、妻が一緒に生活をすることを喜ばず離れて行く場合です。結局信仰の違いから離婚する場合が考えられています。
 
  問題は、15節後半から16節の御言葉にあります。「平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。」
 
  ある人は、このパウロの御言葉を次のように理解しています。「神はあなたがたを平和へと召してくださったのですから、無理に結婚生活を維持して、夫婦で角突き合わせる必要はありません。もっとも、一緒に生活を続けていけば不信者の相手も救われる、と考えている人もあるかもしれません。しかし、妻たるものよ、あなたは不信者である自分の夫を本当に救えるかどうか、知っているのですか。夫たるものよ、あなたは不信者である自分の妻を本当に救えるかどうか、知っているのですか」(佐竹明訳)。
 
  他の人は、このパウロの御言葉を次のように理解します。平和は、夫婦の仲の良い状態と理解します。「しかし、神は、あなたがたを平和に暮らせるために、召されたのである。なぜなら、これを考えなさい。妻として、あなたは、あなたの夫の救いになるやも知れず、夫として、あなたはあなたの妻の救いになるやも知れない。」

 パウロの御言葉を正反対に理解しています。わたしたちの新共同訳聖書は、第1の立場で、訳していると思います。

 わたしは、第2の立場を支持したいと思います。その理由は、パウロが願っていることに目を留めたいからです。パウロは次のことを願っていると思います。信者と未信者の夫婦であっても、神が結び合わされたものであり、未信者の夫と妻は神の御用のために聖別されており、キリスト者の夫と妻は、配偶者が救われるかもしれないという望みによって、今の結婚の絆を大切にしてほしいと。

 今朝のパウロの御言葉を通して、わたしたちは、パウロの福音宣教が結婚と家庭から始められていることを心に留めたいと思います。そして、未信者と結婚されているキリスト者が多い日本の教会は、今朝のパウロの御言葉に励まされるでしょう。

  わたしたちは、夫が未信者であり、妻が未信者であることを恥じる必要はありません。むしろ、神は、信者の夫と妻に神が結び合わされた未信者の妻と夫を、神の御用にお用いくださり、さらにわたしたちが未信者の夫と妻が救くわれるように、祈り願うことを喜ばれているのです。

  お祈りします。

  主イエス・キリストの父なる神よ、
 
  今朝は、パウロがコリント教会のキリスト者たちの結婚の質問に答えて、コリント教会の未婚者とやもめの結婚、既婚者の離婚、そして未信者との結婚の問題についていかに対処すべきかを学びました。
 
  今朝のパウロの御言葉からわたしたちキリスト者の生について、結婚について、未信者との結婚を神がどのように祝福してくださっているかを理解させていただきました。心より感謝します。
 
  何よりも今のわたしたちの教会は、伝道に行き詰まりを覚えています。今朝のパウロの御言葉から、わたしたちの伝道の可能性が家庭にあり、神はキリスト者と未信者と結婚と家庭を用いて神の救いを進めてくださっていることを知りました。
 
  どうか、主イエスよ、わたしたちの兄弟姉妹の御主人や奥様をお救いください。そして、子供たちをお救いください。
 
  この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によっておささげします。アーメン。

 

 

 

コリントの信徒への手紙一説教21        主の2014年8月10日

 おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても。むしろそのままでいなさい。というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。
              コリントの信徒への手紙一第7章17-24節

 説教題「ありのままのあなたでよいのです」
 今朝は、コリントの信徒への手紙一第7章17-24節の御言葉を学びましょう。

 パウロは、コリント教会の質問に答えて、「独身と結婚」についての彼の見解と牧会配慮を述べてきました。

 今朝の御言葉は、一見「独身と結婚」の問題とは関係のないことを、パウロが述べているように見えます。

 パウロは、ここでキリスト者各自の召しの問題を述べています。17節で「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。」と、パウロは述べています。

 ある日本語訳聖書(フランシスコ会聖書研究所訳)は、その冒頭で「それはさておき」と記しています。17-24節は、使徒パウロが「独身と結婚」の問題を述べていて、他の話を挿入したのです。中心はキリスト者の召しの問題であります。

 すなわち、キリスト者が神に召されたとき、ありのままのあなたの状態にとどまりなさいと、パウロはコリント教会のキリスト者たちに勧告しているのです。パウロは、キリスト者各人は神が召されたということとキリスト者たちは神に召された時の状態にとどまるという原則を示しています。

 実は、パウロのその原則が大切です。つまり、ここでパウロは、これまで「独身と結婚」の問題について述べていたことと別のお話をしているのではないからです。特にパウロは、キリスト者の夫と妻が、未信者の妻と夫と結婚した異邦人教会の問題を述べてきました。そこでパウロが強調していることは、キリスト者の側から離婚してはいけないということでした。

 パウロは、それをさらに強調するために神の召しにとどまるという原則論を述べているのです。

 神の召しと言えば、わたしたちがイメージするのは、身分、務め、職業です。英語でコールリング(召し)と言えば、職業です。宗教改革以後、特にマックス・ウェバーの『プロテスタント倫理と資本主の精神』という本が世に出て以来、神の召しは、キリスト者の身分、務め、職業と考えるのがこの世の常識になりました。すなわち、ウェーバーは、その本でプロテスタントのキリスト者たちは、神の召しである職業と務めを通して自分たちが神に選らばれていることを確信したと論じました。

 新共同訳聖書には、その影響があると思います。「それぞれ神に召されたときの身分のまま歩みなさい」と訳している点です。

 使徒パウロは、宗教改革者ルターの「神の召し」を職業、身分と理解する考えはありません。パウロは、神の召しを、福音による神の召しと理解しています。それである日本語聖書は、パウロが理解したとおりに「神がそれぞれを信仰者として召してくださった時のままに生活を続けなさい」と訳しています。

 パウロにとって神の召しは、キリスト者の身分、職業より、キリスト者が神に救われた時のことでありました。

 その時にパウロは、コリント教会だけではなく、すべての教会に神の召しにとどまるように、神に救われた時にとどまっているように命令しました。

 パウロは、具体的にユダヤ人キリスト者たちには、18節前半で「割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。」と命令しました。

 ユダヤ人たちは、生まれて8日目に割礼を受けています。ユダヤ教徒にとって割礼は、神の選びの民のしるしでした。ところがそれを恥じるユダヤ人がいました。手術し、割礼の跡を消しました。ですから、パウロは、神に召されたユダヤ人キリスト者たちに、「救われたありのままのあなたでいなさい。割礼の跡を消してはいけない」と命じました。

 パウロは、異邦人キリスト者たちに対しては、18節後半で「割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません」と命じました。

  なぜなら、異邦人キリスト者たちは、偽教師たちに惑わされていました。偽教師たちが異邦人教会に入り込み、次のように異邦人キリスト者たちに言っていました。「キリストを信じて、洗礼を受けるだけでは足りない。あなたがたも、ユダヤ人キリスト者たちのように割礼を受け、ユダヤの祭や習慣を守らなければいけない」と。
 
  パウロは、コリント教会のキリスト者たちに次のように原則を述べました。19節です。「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。」
 
  神に召されたキリスト者、すなわち、神に救われたキリスト者にとって、割礼の有無は問題ではありません。真に問題であるのは、神の掟を守ることです。神の御意志に服従して生きることです。
 
  この割礼の有無の問題に対して、パウロは「神の掟を守る」という原則こそキリスト者にとって重要であり、コリント教会の異邦人キリスト者たちがキリスト者として生きる本質であると述べました。
 
  後は、パウロの勧めを、コリント教会の異邦人キリスト者たちが自分たちの家庭に、その原則を応用すればよいのです。すなわち、キリスト者同士の家庭であるか、キリスト者と未信者の家庭であるかは、問題ではありません。結婚は、「神が結ばれた者を、人は離してはいけない」という神の命令を守ることが、キリスト者としては大切なことであります。
 
  次にパウロは、奴隷と自由人という具体的な例を挙げています。20-21節で、パウロは、次のように述べています。「おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても。むしろそのままでいなさい。」
 
  先ほど言いましたように、新共同訳聖書は、神の召しを「わたしたちが神に召された時の身分」に関係づけています。パウロは、わたしたちが救われた時のことを述べています。ですから、ある日本語訳聖書は、次のように訳しています。「各自はそれぞれ召された召し、その中に留まっていなさい」と。
 
  わたしは、パウロはわたしたちが神に召された時、わたしたちの身分が何であったか、重要視してはいないと思います。それよりも、神の召しそのもの、神の救いそのものを、心に留めていると思います。
 
  だから、コリント教会には、奴隷のキリスト者が多くいました。パウロは、彼らに、次のように助言しました。「神に召された時、すなわち、自分たちが救われた時、奴隷の身分であったことを気にする必要はない」と。
 
  そして、その次が問題です。21節後半でパウロは、「自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」と言っていますね。
 
  神の召しと身分を強く関係づけたので、このような日本語訳になりました。実は、翻訳することは、大変難しいです。ギリシャ語を日本語に置き換えても、駄目です。パウロの考え、すなわち、パウロが神の召しをどのように理解しているのか、それを理解して、初めてわたしたち読者も読んで分かる日本語になります。
 
  先週もお話ししましたが、新共同訳聖書の翻訳が間違っているわけではありません。教会が伝統的に大切にしてきた理解に従って、ギリシャ語を日本語にしています。確かに神の召しとわたしたちの身分の強く関係づければ、パウロの原則に従えば、神に召された時、奴隷であれば、奴隷の身分のままにいなさいとなります。自由人になる機会があっても、奴隷の身分にいなさいとなります。
 
  このようにして奴隷制は、神が聖書を通して、使徒パウロを通して、認められているという誤った理解を産みました。
 
  しかし、パウロが強調するのは、わたしたちが神に召された時の身分が奴隷であるか、自由人であるかということではありません。神の召しそのものです。わたしたちが神に救われているということそのものです。
 
  そこに強調点を置いて、ギリシャ語を日本語に翻訳すると、新共同訳聖書とは異なる次のような訳が生まれます。ある日本語訳聖書はこう訳しています。「しかし、たとえあなたが自由人になることができるとしても、あなたはむしろ(神の召しそのものは大切に)用いなさい。」また、別の日本語訳聖書はこう訳します。「しかし、もし自由の身になることができるなら、そうしたほうがよいでしょう。」
 
  このようにパウロは、奴隷の身分の人が絶対に奴隷の身分にとどまるべきだとは考えていません。パウロの時代、解放奴隷が存在しました。奴隷の主人が解放を宣言するのです。その主人に奴隷は逆らうことが実際できなかったでしょう。だから、パウロは、次のように願っていたのでしょう。奴隷のキリスト者が主人の奴隷解放によって境遇が激変したら、彼は自由人になればよいだろう。しかし、その時でも彼が神に召されてキリスト者になったことを、彼が救われたことを大切に考えてほしいと。
 
  そして、22-23節でパウロがそのように願う理由を述べています。それは、神の召しに留まって、生きてほしいという願いです。
 
  パウロ自身が、すべての教会のキリスト者たちに自分を紹介する時に、「わたしはキリストの奴隷です」と、手紙に書いています。彼は、キリストに倣ってキリストに仕える苦難のしもべとして生きました。
 
  どうしてでしょうか。パウロは、次のように述べていますね。「あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。」身代金とは、キリストの十字架の死です。キリストは、罪の奴隷であり、悪魔の奴隷であったわたしたちの身代わりに十字架の上に死なれ、わたしたちキリスト者を罪と悪魔の奴隷状態から自由にし、解放してくださいました。その結果、わたしたちキリスト者は、所有者が悪魔からキリストに代わりました。悪魔の支配下で罪の奴隷として生きていたわたしたちが、キリストの十字架の贖いによってキリストの所有とされました。
 
  すなわち、神に召され、救われて、洗礼を受けたわたしたちキリスト者は、主人であるキリストの奴隷となり、キリストに仕え、キリストに服従して生きる者とされたのです。
 
  ですから、パウロは、コリント教会のキリスト者たちに「あなたがたはキリストの十字架によって罪の奴隷状態から救われ、キリストの所有とされたのだから、人の奴隷になってはならない」と命じています。
 
  わたしたちキリスト者は、キリストの十字架の御救いに与り、主イエスを救い主と信じ、洗礼を受けて、キリストの奴隷になりました。だから、パウロは、コリント教会のキリスト者たちにもう二度と人の奴隷になってはなりませんと警告しました。
 
  そのためにパウロは、コリント教会のキリスト者たちに次のように助言しています。「おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい」と。
 
  わたしは、ここでパウロが助言していることは、次のことだと思うのです。神に召され、わたしたちがキリストの十字架によって神のみ救いを忘れないように、わたしたちは常に神の御前に、また、神と共に歩むべきであると。
 
  本当にわたしたちは、そうしないと、自分たちが神に召された時のことを忘れます。キリストの十字架によって救われたことを忘れます。そして、主イエスがありのままの自分で良いと受けいれてくださったことを忘れます。
 
  そして、自分たちがキリストの奴隷であることを忘れて、いつのまにか自分や人の奴隷になり下がってしまうのです。なぜなら、わたしたちは、日々思い煩う生活の中に置かれているからです。
 
  だからこそわたしたちは、この礼拝において十字架のキリストを仰ぎ、「ありのままのあなたでよいです。わが救いのみ手にすべてを委ねよ」と呼びかけたもう声に耳を傾けましょう。
  お祈りします。

  主イエス・キリストの父なる神よ、
 
  今朝は、わたしたちはパウロから「神の召しに留まる」というキリスト者の原則を学びました。
 
  わたしたちの日々の生活は、いろんな困難や思い煩いがあります。しかし、キリスト者として生きる原則は、変わりません。神の召しに留まり、神の掟を守り、キリストの奴隷として神に服従することは、わたしたちにとって大切なことであることを、今朝のパウロの御言葉から教えられ感謝します。
 
  神の召し、わたしたちの救いに心を留める時、十字架のキリストがありのままのわたしをよしと受けいれてくださったことを、忘れることができません。
 
  自分の幻想や人の思いに振り回されないで、神の御前に常に召された自分、十字架によって救われた自分を感謝し、ただキリストの所有とされたことを心に留めて、何よりも神の御意志を第1として歩ませてください。
 
  どうか、主イエスよ、わたしたちをあなた以外の奴隷にしないでください。
 
  この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によっておささげします。アーメン。




コリントの信徒への手紙一説教22        主の2014年8月17日

 未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けていませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます。今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです。妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない。
 しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわらない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。このようにわたしが言うのは、あなたがたのために思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。
 もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。しかし、心にしっかりした信念を持ち、無理に思いを抑えつけたりせず、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人は、そうしたらよいでしょう。要するに、相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです。
 妻は夫が生きている間は夫に結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。ただし、相手は主に結ばれている者に限ります。しかし、わたしの考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です。わたしも神の霊を受けていると思います。
              コリントの信徒への手紙一第7章25-40節

 説教題「結婚は束縛ではなく、品位ある生活」
 今朝は、コリントの信徒への手紙一第7章25-40節の御言葉を学びましょう。
 
  コリントの信徒への手紙一の7章は、コリント教会のキリスト者たちからの質問にパウロが回答した手紙です。質問したキリスト者たちは、禁欲的な者たちでした。7章1節の「男は女に触れない方がよい」というパウロの記述は、質問したキリスト者の言葉を、パウロがオウム返しに述べているのです。パウロは、質問したキリスト者たちに1-24節で、不品行を避けるために結婚を勧め、離婚を禁じました。
 
  さて、25節は、7章1節のパウロの文章に似ています。7章1節ではパウロは、「そちらから書いてよこしたことについて言えば」と述べて、コリント教会のキリスト者たちの質問に回答しました。その回答は24節までです。
 
  続いて25節でパウロは、「未婚の人たちについて」という書き出しで、コリント教会のキリスト者たちが質問したことを7章の終りの40節まで回答しています。
 
  7章で、気づくことは、パウロが結婚と独身について述べているのですが、彼は「主の命令」と「パウロの意見」を区別して、コリント教会のキリスト者たちの質問に回答しています。
 
  10節と11節で、パウロがキリスト者同士の離婚を禁じるのは主の命令であり、12-16節でキリスト者が未信者の夫と妻と離婚することを禁じるのは、パウロが霊感によって、すなわち、聖霊に導かれて自分の意見を述べているのです。
 
  25節でもパウロは、コリント教会のキリスト者が「未婚の人たちについて」質問しましたので、「わたしは主の指示を受けていませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として意見を述べます。」と、パウロは回答しています。
 
  10節と11節では、主の命令か、パウロの霊感を受けた使徒としての命令かの区別でしたが、25節ではパウロは主イエスの命令も、昇天後のキリストが初代教会に啓示された命令も受けてはいないと述べています。25-40節のパウロの意見は、主に敵対していたパウロがダマスコで復活の主イエスに出会い、主の憐れみにより使徒に信任された者としての意見であります。この意見は、40節でパウロが「わたしも神の霊感を受けていると思います」と述べていますように、キリストの代理人としての権威ある命令です。
 
  さて、「未婚の人」とは誰でしょうか。結婚前の若い女性で、結婚の適齢期にある女性のことです。パウロが34節で「独身の女性や未婚の女性」と区別しています「独身の女性」は、適齢期を過ぎた女性でしょう。
 
  結婚の適齢期にある女性に対して主イエスは、何も命じてはおられません。そこでパウロは彼の意見を述べます。使徒としての意見ですので、聞き従ってほしいというのが、パウロの正直な気持ちでしょう。
 
  パウロは26節で彼のこの世理解を述べています。教会とキリスト者にとって、信仰と同時に今がどんな時代であるかを認識することは重要です。
 
  パウロは、26節で「今危機が迫っている状態であるので、こうするのがよいとわたしは考えます」と述べています。そして、その後のパウロの議論を見て行きますと、パウロは今の時代を次のように理解した上で、コリント教会のキリスト者たちに彼のように独身でいることが結婚よりもはるかに望ましいと思っています。
 
  少し先取りしましたが、パウロはキリストの再臨が間近であると信じています。そして、キリストの再臨の前にわたしたちキリスト者とこの世界に大患難が起こり、世の終わりが訪れます。パウロは今がその危機であると述べています。
 
  ですから、パウロの意見は、今危機の時代であるので、「人は現状にとどまっているのがよいのです」というものです。
 
  パウロがこのように勧める根拠を3つ挙げています。第1は、28節でパウロが「結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしはそのような苦労をさせたくないのです」と述べています。
 
  パウロは、キリストの再臨が間近であり、キリスト者とこの世界に大患難と終末が来るから、キリスト者は皆、現状にとどまっていなさいと勧めます。具体的には、27節で結婚している者には離婚を禁じています。婚約しても結婚していない者に結婚をしないように勧めています。同時にパウロは、28節でコリント教会のキリスト者の弱さを配慮して、結婚は罪ではないと教えています。
 
  しかし、パウロの目にはキリスト者の大患難、この世の終わりが見えています。ローマ帝国による迫害を受けるキリスト者夫婦の困難さと労苦が見えています。その時に結婚しているキリスト者は肉の苦難、地上の苦難が伴うのです。
 
  第2は、29節でパウロは「定められた時は迫っています」と述べています。パウロは、コリント教会のキリスト者たちにキリストの再臨の時にこの世は過ぎ去ることを述べています。だから、パウロはコリント教会のキリスト者たちに29-31節で、この世の有様は過ぎ去るから、この世のものに執着しないように勧めています。結婚もこの世の仕事も、喜びや悲しみも、キリストが再臨され、この世が終われば、地上のすべてのものが過ぎ去り、消滅するのです。
 
  第3は、32-35節でパウロは、コリント教会のキリスト者たちの心を一つにし、主を喜ばせ、品位ある生活によって主に仕えるようにさせることを願っています。
 
  パウロは、コリント教会のキリスト者たちの心が、主とこの世に二分されることなく、常に主を喜ばせることに心を用い、常に神と共に聖化の道を歩み、ひたすら主に仕えて生きることを願い、そのように生きてほしいと勧めています。
 
  パウロは、結婚したキリスト者たちの弱さをよく知っています。結婚によって、キリスト者の生活にこの世の思い煩いが入って来ます。キリスト者の生活は主への感謝の生活です。ところが、主を喜ばすことよりも夫や妻を喜ばすことに腐心するのです。主よりもこの世の事に心を遣います。パウロのような独身のキリスト者は、何よりも聖化の道を歩むことに心を遣いますが、結婚している者は世の事に心を遣うのです。
 
  不思議なことですが、パウロは主の命令ではなく、自分の意見を述べていますが、パウロの言葉を聞いていますと、山上の説教で主イエスが弟子たちや民衆に次のように言われたことを思い起こされます。「だから言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物より大切であり、体は衣服より大切ではないか。・・・・・何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:25、33)。
 
  パウロは、36-38節で婚約したキリスト者たちに勧めをしています。パウロは、婚約者が弱さのゆえに結婚することを認めています。ここでも結婚は罪ではないと述べ、不品行を避けるために積極的に結婚を勧めています。
 
  他方、婚約のままに留まることのできるキリスト者たちには、結婚しても罪にはならないが、現状を維持する方がもっとよいと助言しています。
 
  ここでパウロは、婚約者当人たちに助言しているのか、婚約者の娘の親たちに助言しているのか、二通りの見解があります。
 
  どちらにしましても、パウロは、結婚するか、しないかに重きをおくのではなく、キリスト者たちが今の危機の時代にどのように主を喜ばせることに心を用い、ひたすら主に仕えていくかに、関心を寄せて助言しているのです。
 
  ですからパウロは、39節で未亡人のキリスト者に再婚を許していますが、相手は主に結ばれている者、すなわち、キリスト者に限ると述べています。
 
  パウロは、結婚と離婚について、結婚と独身について、コリント教会のキリスト者たちの質問に答えてきました。パウロの回答は、決して結婚相談所のアドバイスではありません。
 
  パウロは、今の時代がキリスト者にとって危機の時代であることを正しく読み取り、コリント教会のキリスト者たちに再臨のキリストへと心を集中するように勧めています。
 
  わたしたちキリスト者は、十字架のキリストによって罪から救われ、洗礼によってキリストの所有とされてから、常に心を再臨のキリストの向けて生きているのです。パウロは、終末を意識して生きていました。定められた時に向かって、今の危機の時代を生きていました。この世は過ぎ去ると悟り、自分の心を主とこの世に分かつことはしませんでした。パウロに取とって主と主の御言葉は永遠であり、この世は過ぎ去り、滅び行くものであるからです。
 
  わたしたちも、パウロと同じ今危機の時代に生きています。キリストの再臨は、パウロの時代よりも今、更に近づいています。だから、わたしは、次の35節でパウロ述べています御言葉に注目したいと思います。「わたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。」
 
  パウロは、コリント教会のキリスト者たちにキリストの再臨の時が近づいているので、わたしのように独身でいなさいと勧めているのではありません。パウロの願いは、わたしたちキリスト者が「品位のある生活」をし、主に仕えて生きることです。
 
  パウロは、テサロニケ教会のキリスト者たちには、「外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう。」と述べています(Ⅰテサロニケ4:12)。ローマ教会のキリスト者には「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか」と勧めています(ローマ13:13)。
 
  「品位のある」という言葉は、そのまま言葉にすると「美しい姿で」であります。「品位ある生活」とは、「美しい姿で生き、歩む」ということです。パウロは、キリストの再臨が近づいているので、キリスト者は皆美しい姿で生きよと命じています。
 
  キリスト者の美しい姿を、キリスト者以外の者たちに証しできるのは、わたしは結婚生活であると思います。夫婦、お互いが助け合い、協力し合って、自分たちの結婚生活を通して神の栄光を現し、自分たちの信仰を子や孫へと継続し、共に礼拝で主を賛美することは、主の目に美しいのではないでしょうか。
 
  お祈りします。

  主イエス・キリストの父なる神よ、
 
  わたしたちはパウロから結婚と離婚、そして独身について学びました。
 
  わたしたちの結婚生活は、パウロが指摘しますように、いろんな困難や労苦があります。思い煩いもあります。しかし、弱いキリスト者たちが夫婦として、互いに助け、励まし合い、子育てに励み、この世に生きる姿を、主が美しいと見てくださていることを教えられて感謝します。
 
  この世の誘惑があり、弱いわたしたち夫婦の心が主とこの世に、二つに分かたれる危うさがあるかもしれません。どうかわたしたちを憐れみ、わたしたちがキリストの再臨に向けて生きていることを確信させてください。
 
  わたしたちの心を、常に再臨のキリストへと向けて、毎週の主の日の礼拝を通して、主に仕え、どんな時にも主のそばに留まらせてください。
 
  この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によっておささげします。アーメン。