コリントの信徒への手紙一説教16        主の2014年6月8日

 わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。私が書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々こそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」
              コリントの信徒への手紙一第5章9-13節

 説教題「教会に裁きが必要である」
 今日はペンテコステ、すなわち、聖霊降臨記念日です。主イエス・キリストの昇天と引きかえに、聖霊がエルサレムに集まりました120名の主イエスの弟子たちに注がれて、エルサレムにキリスト教会が生まれた記念日であります。

  よくペンテコステは、教会の誕生日であると言われます。新約聖書は、教会のことを「エクレシア」と名付けています。「招集」という意味です。主イエス・キリストは、天にお帰りになりました。主イエスは、わたしたちが天に住む住まいを用意するために、天に昇られました(ヨハネ14:3)。
 
  今キリストは、天におられ、聖霊を通してわたしたちをこの教会に招集してくださいました。復活の主イエスは、11弟子たちに大宣教命令をなされ、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われました(マタイ28:19-20)。
 
  聖霊降臨も、教会がこの世に存在するのも、この主イエス・キリストの大宣教命令を推し進めるためであります。
 
 
 地上の教会は、外と内で罪と戦っています。外からは迫害があります。国家や異教徒たちの圧迫があります。聖霊は、わたしたちの信仰を強め、信仰を武器にし、キリスト者たちが一致して、外からの戦いに勝利するように導かれます。

 しかし、教会を破壊する力は、教会の内部にもあります。今学んでいますコリントの信徒への手紙一は、コリント教会の内部の混乱によって教会の聖なる交わりが破壊される危機にありました。

 コリント教会の内部の問題は、第1に分派争いでありました。第2に道徳的混乱がありました。性的罪を犯しているキリスト者たちの存在であります。

 今朝お読みしました御言葉に、パウロが以前にもコリント教会に手紙を書き送っていて、「みだらな者と交際しないように」と警告していました。

 この「みだらな者」は、先週学びました近親相姦の罪を犯したキリスト者とは別の者です。性的な罪にふける者です。この者も、教会戒規によってコリント教会から除名されていました。

  それにもかかわらずコリント教会のキリスト者たちは、その者と交際していたのです。パウロは、それによって罪が広がらないように、その交際を禁じたのです。
 
  ところが、コリント教会のキリスト者たちは、パウロの警告を誤解しました。また、教会戒規をよく理解していませんでした。
 
  コリント教会のキリスト者たちは、パウロの警告を次のように理解しました。「この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちとは一切つきあってはならない」と。
 
  パウロは、コリント教会のキリスト者たちに「わたしがそう言ったのであれば、あなたがたはこの世から出て行かなければなりません」と答えています。世を離れて、人との交わりを断ち、隠遁生活、あるいは修道院生活をしなくてはなりません。
 
 
  当然、キリスト者としての日常生活は不可能であります。考えてみてください。車や電車の運転手がキリスト者でないので、わたしはバスや電車に乗らないとしたら。急に病気になっても、救急車を呼べません。またキリスト者の店でなければ、買い物をしないとすれば。キリスト者のお医者さんしか診てもらわないとすれば。こんなことを言っていると、わたしたちはこの町で暮らせませんね。
 
  パウロが前の手紙で警告したのは、未信者との交際ではありませんでした。「兄弟と呼ばれている人」のことでした。主イエスを信じて、洗礼を受け、キリスト者となり、コリント教会において兄弟の交わりをしていた者のことです。
 
  自分の罪によって身を汚すコリント教会のキリスト者がいました。当然使徒たちとコリント教会は、みだらな行いをしたキリスト者を教会戒規によって教会から除名したでしょう。
 
  ところが、教会員の中には除名した者と日常生活において一緒に食事をして交わる者がいたのです。パウロは、教会が除名した者と一切交際してはいけないと勧告したのです。
 
  パウロは、コリント教会のキリスト者たちに教会の外の人たちを裁くのはわたしの務めではないと言いました。それは、神さまのなさることです。
 
  パウロにとって大切なことは、旧約聖書の申命記17章7節に主なる神がイスラエルの民の指導者モーセを通して、神の民にお命じになった「あなたの中から悪を取り除かねばならない」ということでした。
 
  教会は、教会の外の人々を裁く権限を与えられておりません。教会が与えられている権限は、教会の外の人々にキリストの福音を伝えることです。主なる神だけが、裁き主として、すべての人を裁くことがおできになります。
 
  しかし、教会は、教会員の罪を裁かなければなりません。パウロは、これは教会とわたしたちキリスト者の義務であると主張しています。教会の中にみだらなことを行う者がいるのであれば、主なる神は教会戒規によってその者を除名せよと命じておられると、パウロは主張しています。
 
  パウロの御言葉は、聖書の御言葉そのもので、主なる神の御声として、まことに聞くわたしたちの耳に厳しく聞こえてきます。
 
  それは、聖霊を通してわたしたちをこの教会に招かれたキリストの十字架の救いに、わたしたちの目を向けしめるためであります。
 
  神の御子であるキリストは、人の子としてこの世に来てくださいました。そして、罪に汚れたわたしたちのために、罪なき清き体を犠牲として神にささげてくださり、そのキリストの犠牲の贖いにより、わたしたちは罪を赦され、聖なる神の子とされました。
 
  ですから聖なる神の子の交わりである教会は、キリストの十字架の下に立つ以外にありません。愛と厳しさの中に立つ以外ありません。自分の罪を認めて、神に心を向けて、赦しを求める者に、聖霊は礼拝における罪の告白と赦しの宣言の後に、福音の御言葉の恵みを与え、そして聖餐の恵みへとお招きくださり、「罪の赦し、身体のよもがえり、永遠の命」へと、わたしたちをまことの本国である御国へとお導きくださいます。
 
  他方聖なる神の子にされた恵みを忘れ、罪を犯す者には、聖霊は教会戒規を通してその者の罪を裁き、再び罪を悔いるように導かれるのです。
 
  「教会には裁きが必要である」という説教題で、ペンテコステ礼拝を守りましたが、わたしたちは自分の罪を悔い改めて、キリストを信じて救われることを、今朝のパウロの御言葉から教えられたのであります。これが、聖書の教える正攻法のキリスト教信仰であります。
 
  お祈りします。

  主イエス・キリストの父なる神よ、
 
  ペンテコステの記念の日に、パウロの御言葉を学べる機会が与えられ、感謝します。
 
  清き聖霊の光を通して、わたしたちが自らの罪を悔い、キリストの十字架を信じさせてください。
 
  わたしたちを、正攻法のキリスト教信仰に歩ませてください。
 
  どうか、聖霊よ、わたしたちを導き、今から聖餐式にあずかり、パンとぶどう酒をいただき、この世へと派遣してください。聖霊に守られて、わたしたちが一週間の生活でキリストを大胆に証しさせてください。
 
  次週の礼拝において御言葉にあずかれる恵みをお与えください。
 
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

コリントの信徒への手紙一説教17        主の2014年6月15日

 あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件ですら裁く力がないのですか。わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通をする者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。
              コリントの信徒への手紙一第6章1-11節

 説教題「聖なる者とされ、義とされている」
 今朝よりコリントの信徒への手紙一7章に入ります。コリント教会は、教会内にいろんな問題を抱えておりました。

 わたしたちは、最初に分派争い(1章10節-4章21節)を学びました。続いてあるキリスト者が異邦人さえ禁じている近親相姦の罪を犯しているのに、コリント教会が放置していたこと(5章1-8節)を学びました。

 さらにコリント教会のキリスト者たちが教会戒規によって教会から追放された者と平気で交際していたこと(5章9-13節)を学びました。

 今朝の御言葉は、コリント教会のあるキリスト者が教会員との争いごとを、この世の裁判に訴えたことを、パウロが問題にしています。

 教会員同士の間で争いごとが生まれました。その時当事者たちが、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出ました。

 「聖なる者」とはキリスト者のことあり、「聖なる者たち」とはキリスト者たちの集まりであるコリント教会のことです。

 「正しくない人々」は、不道徳な人のことではありません。信仰のない人のことであり、未信者のことであり、異邦人たちのことです。

 ここでパウロが問題にしていることは、コリント教会のあるキリスト者たちが教会員同士の私的なもめごとを解決するために、この世の法廷に訴え出たことでした。

 そのようなコリント教会の不名誉な事件を耳にしたパウロは、コリント教会のキリスト者たちに「なぜそんなことをするのか」と質問しました。

  パウロは、1節から9節までに9回質問をしています。質問を繰り返しながら、教会員同士のもめごとを自分たちで解決しないで、この世の法廷に持ち込んだことを、パウロは厳しく批判しました。

 5節でパウロは、コリント教会のキリスト者たちに「あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています」と記していますので、パウロはとても厳しく叱ったのです。

 パウロの叱責は弟子訓練の一つでした。コリント教会のキリスト者たちに質問を繰り返しながら、パウロは「あなたがたキリスト者とは何者であり、どんな特権に生きているのか」を教えています。

  信仰問答であり、カテキズムです。すなわち、パウロは、2節で「あなたがたは知らないのですか」と質問し、コリント教会のキリスト者たちが「聖なる者」であり、「世を裁く」特権をもって生きていることを教えています。

  預言者ダニエルは、ダニエル書7章18節で「いと高き者の聖者らが王権を受け、王国をとこしえに治めるであろう」と預言しています。「いと高き者の聖者ら」とは、ここでパウロの言う「聖なる者たち」のことであり、わたしたちキリスト者たちのことです。
 
  思い起こしてください。主イエスが12弟子たちに約束された御言葉を。マタイによる福音書19章28節で主イエスは、12弟子たち一同に次のように約束されました。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」
 
  それゆえにヨハネの黙示録2章26節で復活の主イエス・キリストは、次のようにティアティラにある教会に約束してくださいました。「勝利を得る者に、わたしの業を終わりまで守り続ける者に、わたしは、諸国の民の上に立つ権威を授けよう。」
 
  パウロは、質問を繰り返し、コリント教会のキリスト者たちに「あなたがたは聖なる者であり、この世の終わりに再臨のキリストと共にこの世を裁く権能が与えられることを知っているのか」と問うています。
 
  パウロの言葉によれば、裁くのは人だけではありません。堕落した天使たち、すなわち、サタンとその仲間の天使たちも裁くのです。
 
  ですから、パウロはコリント教会のキリスト者たちに3節で「まして、日常生活にかかわる事は言うまでもありません」と述べて、コリント教会のキリスト者たちが教会員同士の私的な争いを、自分たちで解決することを放棄して、この世の裁判所に訴えていることを非難し、反省を促しています。
 
  パウロは、決してこの世の裁判所や裁判官を否定しているのではありません(ローマの信徒への手紙13章1-7節)。ではどうしてパウロは、キリスト者たちがこの世の裁判所に訴え出ることを禁じたのでしょうか。その真意を見て行きましょう。
 
  裁判所の裁判官は異邦人です。異邦人とは、神を畏れず、信仰のない者のことです。それゆえ教会の中では疎んじられている人です。その人の前で、キリスト者たちが自分たちの争いごとを訴え出て、解決を願うことは、神に裁く権能を授けられているキリスト者としては、まことに恥ずかしいことであると、パウロは思っています。
 
  さらに、コリント教会のキリスト者たちが日ごろから自慢していたのは、自分たちが知恵のある者であるということでした。しかし、もめごとを起こした教会員同士を、仲裁する知恵者が一人もいませんでした。
 
  コリント教会はとても恥ずかしい状況でありました。
 
  主イエスは、12弟子たちに新しい掟を与えられました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネによる福音書13:34-35)。
 
  コリント教会のあるキリスト者たちは、キリストの新しい掟に背を向けていました。教会員同士が争い、信仰のない人々の前で裁判沙汰を起こしていました。
 
  そこでパウロは、コリント教会のキリスト者たちに7節で、はっきりと敗北宣言をしました。
 
  パウロの敗北宣言は、勝ち負けの問題ではありません。コリント教会のキリスト者たちの存在理由を、パウロは問うているのです。キリスト者とは、キリストを証しする者です。キリストは、互いに愛し合うことによって、教会の内でも外でもコリント教会のキリスト者たちがキリストの弟子であることを証しするようにお命じになりました。
 
  ところが、コリント教会のキリスト者たちは、互いに裁き合い、争い合っています。しかも信者でない人々の前で、です。そして、教会の外の人々は、コリント教会のキリスト者たちの争いを見て、キリストと教会を軽蔑することは自然の事でしょう。
 
  だから、パウロは教会員同士のもめごとを仲裁する知恵のある人を願ったのです。コリント教会のキリスト者たちは知恵を誇っていたからです。しかし、コリント教会の現実は一人もいません。いれば、理想的だったでしょうが、一人もいないのが今のコリント教会の現実です。
 
  ある意味で絶望的な状況で、パウロがコリント教会のキリスト者たちにしたことは、理想を押し付けることではありません。受難のキリストを、コリント教会のキリスト者たちに差し出すことでした。
 
  7節で、パウロがこう言っていますね。「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。むしろ奪われるままでいないのです。」
 
  パウロは、コリント教会のキリスト者たちに「受難のキリストを見よ」と呼びかけました。そして、パウロはコリント教会のキリスト者たちに「受難のキリストがなさったとおり、あなたがたはどうして不義を甘んじて受けないのですか。奪われるままでいないのですか。」と問うているのです。
 
  これが、パウロにとってはキリスト者の真摯な態度であります。
 
  受難のキリストは、弟子たちに山上の説教において次のように命じられました。「わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬を向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。」(マタイ5:39-40)。
 
  まさに受難のキリストは、そのお言葉通りになさいました。キリストは黙って不義を甘んじて受けられ、すべての物を奪われ、最後に尊き命をも奪われました。
 
  パウロは、コリント教会のキリスト者たちに「あなたがたが兄弟を裁判に訴えるならば、それは受難のキリストの御命令に背くことであり、あなたがたは兄弟に対して不義を行い、兄弟の物を奪い取っています。」と断言しました。
 
  最後にパウロは、コリント教会のキリスト者たちに神の国を受け継ぐことのできない者たちのリストを提示しています。
 
  それは、異邦人の町コリントでよく見かけることができる者たちでありました。コリント教会のキリスト者たちの中には、洗礼を受ける前にそのリストに挙げられた者たちと同じ生活をしていました。
 
  そこで、パウロは、コリント教会のキリスト者たちに洗礼を思い起こさせています。彼らは、コリントの町からキリストによって選び分かたれ、主イエスが神の御子であり、罪人である自分たちの救い主と信じて、洗礼を受け、コリント教会のキリスト者になりました。
 
  パウロは、コリント教会のキリスト者たちが洗礼によってキリストと一つにされ、聖とされ、神の御前に義とされ、教会員とされたことを思い起こさせています。
 
  今朝のパウロの御言葉に耳を傾けながら、わたしたちもコリント教会のキリスト者たちと同じであると思います。キリストの「互いに愛し合いなさい」という掟の前に、背を向けたわたしたちの教会生活、信仰生活が現実としてあります。
 
  兄弟をこの世の裁判に訴えることはしていませんが、教会員同士が裁き合い、争うことは、わたしたちの教会の現実としてあり、理想としては仲裁する知恵のある人がいれば、と思うことがあります。
 
  しかし、パウロはコリント教会のキリスト者たちと同じく、わたしたちにも彼の理想を押し付けることはしません。
 
  キリストの新しい戒めに生きることのできないわたしたちの教会の現実を受け入れて、パウロはわたしたちにも受難のキリストを差し出しています。
 
  パウロは、わたしたちを、先祖伝来の空疎な生活から受難キリストによって救われた恵みに、わたしたちが教会において洗礼を受けたという事実に導きます。
 
  神の霊である聖霊によって、わたしたちは水で洗礼を受けました時、罪を洗われ、受難のキリストと一体とされ、キリストの所有とされました。神の子の身分を与えられ、聖なる者とされ、神の御前に義とされ、神との平和を得ました。
 
  ですから、パウロは、わたしたちにもう2度とキリスト者以前の異教の生活に、先祖伝来の空虚な生活に戻り、不道徳に生き、また教会員同士が争い、この世の裁判に訴え合うことは絶対に許されないと教えているのです。
 
  お祈りします。

  主イエス・キリストの父なる神よ、
 
  今朝も、パウロの手紙を通して、現実の教会の恥ずべき罪の姿と、その絶望の状況の中に受難のキリストが福音を通して差し出されている恵みを、わたしたちの耳に聞かせていただき、感謝します。
 
  キリストが新しい掟を命じられると、その御言葉の光がわたしたちを照らして、わたしたちが兄弟を裁く罪が濃い陰となりあらわれます。人影がわたしたちから離れないように、わたしたちの罪も離れません。
 
  だからこそ、わたしたちを受難のキリストへとお導きください。キリストの十字架がわたしたちの罪の身代わりであることを信じさせてください。
 
  どうか、聖霊よ、わたしたちが洗礼を受けたことを思い起こさせてください。聖霊によって、わたしたちが水で罪が洗われ、キリストとひとつにされ、聖とされ、義とされて、神の子の身分をいただいたことを、今一度心に留めさせてください。
 
  どうか2度と先祖伝来の空しい生活に戻さないでください。我らの国籍が天にあることを確信させてください。
 
  この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。