ジュネーヴ教会信仰問答01             主の2021616                                                               

聖書箇所:創世記第1131(旧約聖書P12)

第一部    信仰について

 第一聖日

問1 人生の特に目指す目的は何ですか。

答 人をお造りになった神を知ることです。

 

問2 そのように言う理由は何ですか。

答 神が私たちを創造され、この世界に置かれたのは、私たちによって御自身が崇められるためでありました。しかも、私たちの生は神御自身がその初めであられるのですから、神の栄光にこれを帰するのは当然であります。

 

「ジュネーヴ教会信仰問答」を学ぼう。

 

この信仰問答の著者は宗教改革者ジョン・カルヴァンである。問答はカテキズム、教理問答である。信じさせるための、信じている事の道筋を整えさせるための信仰告白文書である。カルヴァンは、カテキズムを、信仰告白文書として、信仰内容に関わる規範文書として扱っている。

 

カルヴァンの最初のカテキズムは、「信仰の手引き」(1537)である。彼は、前年に「キリスト教綱要」の初版を発行した。カルヴァンはジュネーヴ市民に信仰告白を誓約させた。この「ジュネーヴ教会信仰問答」の序文に東フリーランドの牧師たちへの手紙が付されている。見出しは、「ジャン・カルヴァンから 東フリースランドで福音の純粋な教理を宣べ伝えるキリストの忠実な仕え人へ」である。

 

カルヴァンは、彼らに使徒パウロが信仰の一致を非常に強く勧めていると述べて、信仰の一致に努力することが牧師の務めであると述べている。すべての者たちの間に教理の一致が保たれ、すべての教会がカテキズムを持つことを、彼は願っている。教える方法はいろいろであっても、皆が一つなるキリストに方向付けられ、キリストの真理に結び合わされ、一つの体、一つの霊にあって成長させられる以上に、皆が一つの口となって、信仰の要理に関わる点(キリストの福音)を宣べ伝えるように、彼は命じている。信仰の一致を目指さない牧師は、分派の種を教会に植え付け、不敬虔な冒涜を礼典に導入し、将来の子孫たちに禍根を残すことになると、彼は警告している。

 

カルヴァンは、牧師たちにこの問答で伝えられている内容がすべての敬虔な人々の間で受け入れられて来た教理と一致する事を強調している。そしてこの問答をラテン語で書く目的について、次のように述べている。ラテン語は万国共通語である。だから、ラテン語のこの問答は、第一に教理の一致を保っているすべての教会が互いに承認し合う証しを公然と立てることができる。カテキズムは、教会相互間の教理的一致の証拠であり、学ある者も無学な者も、子供のときからキリスト教の基本的教理を注ぎこまれ、キリスト教的交わりの正式の印を持たせるものである。第二にラテン語の問答を願う多くの読者がいたのである。彼は、カテキズムの使用の有益性を説いている。

 

それからフランス語版の序文でカルヴァンは、読者に次のように述べている。子どもたちをキリスト教の教理によって教育することは、教会が伝統的に大切にしてきた義務である。学校と家庭で教えられ、教会で子供たちがキリスト教教理の要点に関して試問され、その試問が秩序に従ってなされるためにカテキズムが作られ、一定の教育が施されたと述べている。この問答は古代のキリスト者たちが守っていた慣行以外のものではない、と彼は述べている。

 

ラテン語版の序文はフランス語版の序文と似ている。キリスト教教理が子どもたちに正しく教えられるように努めてきたことは、教会が順守してきたことであり、それを適切に行うために、学校と家庭で教えられ、すべての者たちにキリスト教教理の要点を教会堂で試問し、教育する制度が生まれた。この問答は、古代から真のキリスト教礼拝者によって守られ、実践されてきたと、述べている。

 

この問答は、1542年に用いられた。出版されたのは1545年である。内容は、読者への手紙(フランス語版とラテン語版)、東フリースランドの牧師への手紙(ラテン語版のみ)、信仰問答の本文(問答373)、付録(各種の祈り)である。

 

古代のカテキズムは、主の祈り、十戒、使徒信条が内容であった。カルヴァンは子供が暗記し易いように、簡潔な文章にしている。問答は373で、55聖日(1年が52聖日)で学べるようにしている。

 

福音から律法へと展開するのがカルヴァンの神学である。問答の構成は、次のとおりである。4部構成である。第一部信仰について 第二部律法について 第三部祈りについて 第四部聖礼典について()神の言葉について 付録(各種の祈り)

 

第一部は、信仰の諸条項、使徒信条の解説である。第二部は十戒の解説である。第三部は、主の祈りの解説である。第四部は、洗礼と聖餐の解説である。原理と実践を教えている。

 

1と答は、この問答を構成するすべてを統合するものである。神の認識、神を知ることがこの問答のすべてを統合するものなのである。人の究極の目的は造り主なる神を知ることなのである。神を崇めることが、主なる神に造られた人間の究極の目的である。

 

この問答を学ぶ目的は、教理の一致を確認することが教会の一致につながるからである。ジュネーヴ教会信仰問答を学ぶことは、国境を越えて教会の一致の証しとなるのである。宗教改革の時代のジュネーヴ教会と上諏訪湖畔教会は、教理的一致の教会である。

 

東フリースランドは、ドイツの西北の外れにある。そしてフリースランドはオランダに含まれている。後に1571年にオランダ改革派教会は、国外の東フリースランドで大会を開催した。カルヴァンがこの信仰問答のラテン語版を献呈した東フリースランドの牧師たちがこの問答で教会形成した地が、オランダの宗教改革の基地を提供したのである。

 

 

東フリースランドの宗教改革とカルヴァンは、直接には関係がなかった。この地方の牧師たちは、カルヴァンを尊敬し、彼の著作をよく読んだ。そしてカルヴァンの献呈したこの信仰問答に触発され、彼らも新たな信仰問答を作ったのである(1546)

 

ジュネーヴ教会信仰問答02             主の2021623                                                               

聖書箇所:詩編第104135(旧約聖書P941942)

第一部    信仰について

 第一聖日

問1 人生の特に目指す目的は何ですか。

答 人をお造りになった神を知ることです。

 

問2 そのように言う理由は何ですか。

答 神が私たちを創造され、この世界に置かれたのは、私たちによって御自身が崇められるためでありました。しかも、私たちの生は神御自身がその初めであられるのですから、神の栄光にこれを帰するのは当然であります。

 

今夜は、ジュネーヴ教会問答問12と答を学ぼう。一聖日が第一課である。第一課は、問17と答である。

 

ローマカトリック教会がサクラメントとしての堅信礼が信仰を固くすると教えたのに対して、カルヴァンは神の御言葉の教育のみが信仰を育て上げると主張した(渡辺信夫『ジュネーヴ教会信仰問答』P129)。また幼児に洗礼を授けることが無意味であると攻撃するアナバプティストに対して恵みの契約を重視した教育を施す必要があった。子どもたちが公に信仰を告白し、聖礼典に与る者となることが教理問答の目的であった。それゆえにこの教理問答は、子供たちが聖晩餐に与る共同体の一員であることの承認を得る信仰の規準書であった。

 

キリスト者はだれでも共同体(教会)において説教と聖礼典によって信仰を養われ、一生涯を歩み、御国を目指すのである。教理問答が彼の信仰生活のガイドラインとなる。教理問答の学びは、彼が説教を聞き、聖礼典に与るための予備知識を与える。彼は主の祈り、十戒、使徒信条を学ぶことを通して、聖書の教理の体系を身につけ、それを彼の信仰の実践に応用するのである。

 

カルヴァンは、『キリスト教綱要』を、聖書の教理体系を学び、信仰の道筋を身につける道案内として著した。彼は聖書の神の御言葉を重んじて、聖書自身の中にある教理の体系を、筋道を立てて教えたのである。それによって彼は、わたしたちが神を知り、自己を知ることを願ったのである。

 

さて、『ジュネーヴ教会信仰問答』の本文は、第一聖日(第一課)から第二十聖日(第二十課)が「信仰について」である。第二十一聖日(第二十一課)から第三十三聖日(第三十三課)が「律法について」である。第三十四聖日(第三十四課)から第四十三聖日(第四十三課)が「祈りについて」である。第四十四聖日(第四十四課)から第五十五聖日(第五十五課)が聖礼典について(神の言葉について)である。

 

「信仰について」は、主に使徒信条の解説である。しかし、第一聖日(第一課)は、使徒信条とは関係がない。

 

わたしは、読んでいて、わたしたちがこの世に生きている事の根源、目的を問われていると思った。この世でわたしたちは人として何のために生きているのかと。これは、哲学の問いではないと思う。わたしたちが聖書を読むならば、必ず聖書自身がわたしたちに問いかける問いである。

 

聖書は、最初に神の創造を物語る(創世記1章,2)。神は、世界を創造し、最後に人間を御自身に似せて男と女に創造された。神は創造の御業によって世界の基を据えられ(詩編104:5)、人間のために、木々や家畜を造られ、人の心を喜ばせられ、支えられた(詩編104:1415)

 

神は人を創造し、人を良く知っておられる。神は御自身の御業の栄光が永遠に続き、人が労働を通して、御自身の御業を誉めたたえて生きることを喜ばれている。人が神を喜び祝うことが、彼の生きる目的であることを、ひとりの詩人を通して証しされている。

 

それゆえに第1の問として、人生の特に目指す目的が、わたしたちに対して問われる。「 人生の特に目指す目的は何ですか。」そして当然、わたしたちの答は、「人をお造りになった神を知ることです」。

 

これは、人間の究極の目的である。人は、目的を立て、それを達成することに喜びを見いだす者である。無数の目的を持つ。そして、達成するために努力する。しかし、この根本的な人生の目的を見失うと、人はこの世で真に生きることができない。創造者である神なしの人の人生は、どんなに物質的に豊かでも霊的には死んだものである。

 

財産争いをしていた者が主イエスに「わたしの兄弟に財産を分けるように言ってください」と懇願した時に、主イエスは彼に愚かな金持ちのたとえを話された。愚かな金持ちはたくさんの収穫を得て、幾つもの蔵を建てた。彼はそれで人生を安心しきった。しかし、神が金持ちの命を今夜にも取り上げられたら、彼の財産はだれのものになるのかと、主イエスは言われた(ルカ12:1321)。神を知り、神に栄光を帰して生きない者の人生は、どんなに物質的に豊かでも、数々の目的を達成し、成功者になっても、神は死によって彼のすべてのものを奪われるのである。

 

 

神がわたしたちを創造されたのは、わたしたちの創造主である神を知り、永遠に神に栄光を帰して、礼拝するためである。神礼拝の人生こそ神に創造された人間の最高の目的である。

 

ジュネーヴ教会信仰問答03             主の2021630                                                               

聖書箇所:詩編第11918(旧約聖書P958959)

第一部    信仰について

 第一聖日

3 では、人間の最高の幸いは何ですか。

答 それと同じであります。

4 どうして、あなたにとってそれが最高の幸いなのですか。

答 神を知ることがなければ、私たちの状態はどこかの獣よりも不幸になるからです。

5 だから、神に向かって生きないという以上の不幸は人間にはあり得ない、と私たちは十分に悟らされるのです。

答 その通りです。

 

今夜は、ジュネーヴ教会問答問35と答を学ぼう。

 

12と答で、次のことを学んだ。人生の目指す目的は創造主なる神を知ることである。その理由は、すなわち、わたしたちがそのように主張する根本的原因は、神が世界を創造され、人間を創造されたのが、被造世界が神の栄光をあらわし、わたしたち人間が神を崇めるためであるからである。

 

今夜は、問35と答を学ぼう。問3と答は、「人間の最高の幸い」を問うている。「最高の幸福」、すなわち、西洋哲学がプラトン哲学以来追求してきた「最高善」である。その伝統的理解は「善なるものは幸いなものである」である。

 

神こそが最高善である。なぜなら、「あなたは善なる方、すべてを善とする方。」(詩編119:68)だからである。その聖書の神を実践的に知ることを、聖書自身が幸いであると言っている。

 

いかに幸いなことでしょう まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。いかに幸いなことでしょう 主の定めを守り 心を尽くしてそれを尋ね求める人は。彼らは決して不正を行わず 主の道を歩みます。(詩編119:13)

 

「ジュネーヴ教会信仰問答」(カルヴァン)は、「人生の目指す目的」、すなわち、「創造主なる神を知ること」と「人間の最高の幸い」が同じ意味であり、一致する事柄であると告白している。

 

4と答は、創造主なる神を知ることがわたしたち人間にとって「最高の幸福」となるのは、どうしてかを、問い、答えている。

 

神は御自身の形にわたしたち人間を創造された。男と女に創造された。そして神は御自身が創造された人間を祝福し、文化命令をお与えになった。すなわち、神に代わって人間が神の創造された世界を治める者とされた(創世記1:2628)

 

だから、人間が神を正しく認識しなければ、創造主なる神によって与えられた神の祝福の状態を失うことになる。そして、神が創造された動物たちよりも不幸な状態になるのである。

 

不幸とは、人間の罪の状態である。最初の人間アダムとエバの原罪によって、すべての人間が罪を犯し、堕落し、神を正しく認識できなくなった。そして、神が創造された世界に神の刑罰である死が入り込んだ(創世記2:173:1719、ローマ5:12)

 

動物たちは理性がない。だから、この世界の悲惨さを認識してはいない。ところが、人間は神の形に、理性と意志と感情を持つ者として造られたので、罪に堕落した今の世界の悲惨さを知っているのである。だから、この問答は、「神を知ることがなければ、私たちの状態はどこかの獣よりも不幸になるからです」と答えているのである。

 

罪ある人間だけが、死を知り、その恐怖におののいているのである。だから、この問答は、問5と答で、こう問答するのである。「だから、神に向かって生きないという以上の不幸は人間にはあり得ない、と私たちは十分に悟らされるのです。」「その通りです。」と。

 

神に向かって生きない」とは、人間が創造主なる神を知らないで生きることです。不幸であるのは、それによって彼が自分の存在とその意味を失うからである。ラテン教父のアウグスティヌスは、『告白』という書物においてこう告白する。「あなたはあなたに似せてわたしを造られました。ですから、あなたに憩うまで安らぎを得られないのです」と。

 

罪に堕落し、創造主なる神から背を向けて生きる人間は、回心し、再び神を知ることがない限り、不幸であることを、わたしたちは聖書から十分に理解することができるのである。

 

 

聖書の「トーブ」というヘブライ語「良いこと」が「幸い」「恩恵」を意味する。神に創造された人間の「良いこと」、幸いは、聖書を通して創造主なる神、贖い主なる神を知ることである。そして毎週の礼拝を通して神を崇め、賛美する人こそ、聖書が言う「幸いな人」、「善なる人」である。それは、主なる神に祝福された人なのである。

ジュネーヴ教会信仰問答04             主の202176                                                                

聖書箇所:ローマの信徒への手紙第83139(新約聖書P285286)

第一部    信仰について

 第一聖日

6 さてそれでは、どういうものが神についての真の、また正しい知識でしょうか。

答 それは神に帰すべき誉れが表明されるような知り方であります。

7 では、神を正しく崇める仕方は何でしょうか。

答 神に私たちの一切の信頼を置くこと。みこころに服従しつつ、神を全生活を挙げてほめたたえるように努めること。何かの窮迫に悩まされる毎に神の内に救いを求め、およそ求めてよい善きものはすべて神に祈り求めること。そして最後に、神こそ一切の善きものの唯一の作者であられると、心でも口でも認めることであります。

 

今日は、ジュネーヴ教会問答問67と答を学ぼう。

 

12と答で、人生の目指す目的が創造主なる神を知ることを学び、問35で、人間の最高の幸いが、人生の目指す目的と同様に創造主なる神を知ることであることを学んだのである。創造主なる神御自身のかたちに似せて造られた人間が、神に向けて生きることが最高の幸福だからである。

 

信仰問答の問17(1聖日(第1課))は、聖書の教理体系への導入部であり、総括でもある。カルヴァンは、こう述べている。「我々の知恵で、とにかく真理に適い、また堅実な知恵と見做さるべきものの殆ど全ては、二つの部分から成り立つ。すなわち、神を認識することと、我々自身を認識することである。(渡辺信夫『キリスト教綱要 改訳版 第1編・第2編』P38)。神認識なしに、人間の人生の目的と幸福はあり得ないのである。

 

だから、信仰問答(カルヴァン)は、問6で私たちに「どういうものが神についての真の、また正しい知識でしょうか」と問いかけているのである。この「神についての真の、また正しい知識」は、単に頭で理解するものではない。学校や塾で生徒が教科書を学び、頭に暗記する知識ではない。教養を身につけるために大人たちが講座で学んで得る知識でもない。だから、信仰問答は、「それは神に帰すべき誉れが表明されるような知り方であります。」と答えているのである。

 

「ジュネーヴ教会信仰問答」にはプルーフテキスト(証拠聖句)が付されていないが、私は、問6と答のプルーフテキストは、ローマの信徒への手紙第1136節がふさわしいと思う。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。

 

これは、使徒パウロの頌栄賛美である。彼の神認識が彼を神に栄光を帰させ、神への賛美に導いている。使徒パウロは、神を万物の創造者、万物の摂理の神、万物の完成者と神賛美し、神を崇めているのである。使徒パウロは、その神が神の民イスラエルだけではなく、異邦人も救済されるという、人間には測りがたい神の知恵を、崇め、賛美している。そして、この神と共に生きることが、彼の目指す人生の目的なのである。

 

どの教会でも普通教会学校がある。それは、日曜学校や契約の子たちの教理学級だけではない。求道者の聖書と教理の学び、信者たちのための成人科がある。礼拝前に信者たちと契約の子たち、そして求道者は、成人科、教理科、聖書と教理の学びを通して、聖書の神を知るのである。

 

知ることは、教会の場合、知識でなく、交わりである。主イエスは言う。「永遠の命とは、唯一まことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(ヨハネ17:3)。私たちは、聖書の神を知り、礼拝において主なる神との人格的な交わりをする。その交わりは、愛の交わりである。だから、私たちは神礼拝において神を愛し、神を賛美し、神に栄光を帰するのである。

 

7と答は、「神を正しく崇める仕方」を問うている。正しく神を知る方法である。私たちは、具体的にどのようにして正しく神を知り、礼拝するのだろうか。信仰問答は次の4つを挙げている。

 

第一は、神への信頼である。「 神に私たちの一切の信頼を置くこと。」神の愛に土台を置く神への信頼である(ローマ8:3139)。キリストの愛は、キリスト者を御自身の十字架の苦しみと死へと招かれるだけではなく、キリストの復活を通して死からの勝利へと導いてくださる。だから、キリスト者はキリストの愛にのみに信頼すべきである。

 

第二は、「みこころに服従しつつ、神を全生活を挙げてほめたたえるように努めること。」である。キリスト者の全生涯は神礼拝の人生である。それは、神の御心への服従であり、すべてにおいて神に栄光を帰すことである。カルヴァンは、キリスト者が十戒に生きることを勧めている。

 

第三は、神に祈り求めることである。キリスト者は、主の祈りを祈るだけはなく、主の祈りを生きることが大切である。私たちの心に、苦しみが生まれるとき、私たちは主に助けを求めて祈るべきである。

 

何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。(Ⅰヨハネ5:1415)。神は私たちに常に善き物を約束されるし、祈りを聞き入れてくださる。だから、私たちは神の御心が行われるようにと祈ろう。

 

 

第四は、神が一切の善きものの作者であると認めることである。「神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。(Ⅰテモテ4:4)