ハイデルベルク信仰問答 21 2013年6月5日
聖書箇所 ルカによる福音書第23章13-25節(新約聖書P157-158)
問38 なぜその方は、裁判官「ポンテオ・ピラトのもとに」
苦しみを受けられたのですか。
答 それは、罪のないこの方が、
この世の裁判官による刑罰をお受けになることによって、
わたしたちに下されるはずの神の厳しい審判から、
わたしたちを免れさせるためでした。
問39 その方が「十字架につけられ」たことには、
何か別の死に方をする以上の意味があるのですか。
答 あります。
それによって、わたしは、この方がわたしの上にかかっていた呪いを
御自身の上に引き受けてくださったことを、確信するのです。
なぜなら、十字架の死は神に呪われたものだからです。
今夜は、ハイデルベルク信仰問答の問38と39と答を学びましょう。先週は、キリストの「御受難」について学びました。その時に主イエス・キリストの十字架が御受難のクライマックス(最高点)であると説明しました。今夜は、使徒信条の「ポンテオ・ピラトのもとに」と「十字架につけられ」についてのハイデルベルク信仰問答の解説を学びましょう。
ハイデルベルク信仰問答が問38と39に「その方」と言っていますのは、主イエス・キリストです。問38は、なぜ主イエス・キリストは、この世の裁判官である「ポンテオ・ピラトのもとに」裁判を受けて苦しまれたのですかと、問うています。
ポンテオ・ピラトは、ローマ総督でした。総督とはローマ皇帝の代理人のことです。彼は、ローマ皇帝の代理人として10年間ローマ帝国の植民地であるユダヤの国を統治しました。紀元前26年から36年までです。
紀元30年に主イエス・キリストは、ユダヤ人たちに訴えられて、ローマ総督ポンテオ・ピラトの裁判において有罪宣告を受けて、十字架刑に処せられました。
ハイデルベルク信仰問答は、どうして主イエス・キリストは、そのような苦しみを受けられたのかと問うています。
新約聖書の4つの福音書を読みますと、ポンテオ・ピラトは、正義よりも自分の政治的生命を守るために、罪無き主イエス・キリストに有罪宣告をし、十字架刑に処したことを証言しています(マタイ27:19、24、マルコ15:14、ルカ23:4,15,22、ヨハネ19:12)。
ですからハイデルベルク信仰問答は、「キリストが受けられた苦しみ」について、次のように教えているのです。「それは、罪のないこの方が、この世の裁判官による刑罰をお受けになることによって、わたしたちに下されるはずの神の厳しい審判から、わたしたちを免れさせるためでした」
ここから次のことを、わたしたちは学びます。第1に「ポンテオ・ピラトのもとに」キリストの十字架の死がこの世において起こったということです。キリストの十字架は、歴史の事実です。第2にキリストは無実でありました。罪のないキリストが十字架刑によって死なれました。第3に罪のないキリストが罪あるわたしたちの身代わりに死なれたので、本来神に裁かれるべきわたしたちが、罪を赦され、神の裁きから免れました。
ピラトの裁判は、罪無きキリストには理不尽な出来事でした。しかし、神はそれを用いて罪あるわたしたちの裁きを、免れさせてくださいました。
免れさせるとは、自由にするという意味です。キリストがピラトの裁判を受けてくださったので、わたしたち罪人は、そのキリストを救い主と信じることにより、神の審判から自由にされました。
問39は、ハイデルベルク信仰問答が、十字架の意味を問うています。キリストの十字架の死に、特別な意味があるのかと、問うています。他の死に方とは比較できない意味があるのかと、問うています。
総督ピラトは、ローマ法に従って主イエス・キリストに有罪宣告をし、十字架刑によって処刑しました。これは、極悪人の処刑で、最も残酷な処刑法でした。見せしめの刑であり、人が味わう最も恥ずかしく、嫌悪すべき、そして恐ろしいものでした。
聖書は、十字架刑を神に呪われた者の刑であると証言しています。旧約聖書の申命記21章23節に「木にかけられた者は、神に呪われたものだからである」とあります。
ですから、ハイデルベルク信仰問答は、十字架刑による死には、特別な意味があると答えています。「それによって、わたしは、この方がわたしの上にかかっていた呪いを御自身の上に引き受けてくださったことを、確信するのです。なぜなら、十字架の死は神に呪われたものだからです。」
十字架のキリストは、第1にキリストが神の呪われた事実を証言します。第2に罪無きキリストが神に呪われ、苦しまれたのは、わたしたち罪人の上にかかっていた神の呪いを、キリスト御自身の上に引き受けてくださったからです。罪のないキリストがわたしたちの身代わりになってくださいました。第3にこの真理をわたしたちに確信させるのは、聖霊です。
預言者イザヤは、イザヤ書53章1節に「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主の御腕の力を誰に示されたことがあろうか」と述べて、次のようにキリストの十字架を預言しています。「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ書53:5)。
使徒パウロも、次のように告白しています。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと」(Ⅰコリント15:3)と。
聖書は、キリストの十字架の死と苦しみがわたしたちの罪のためであると証言しています。その証言を読み、わたしの心に確信させてくださるのが、聖霊です。
ハイデルベルク信仰問答 22 2013年6月19日
聖書箇所 ローマの信徒への手紙第6章1-14節(新約聖書P280-281)
問40 なぜキリストは、「死」を苦しまなければならなかったのですか。
答 なぜなら、神の義と真実のゆえに、
神の御子の死による以外には、
わたしたちの罪を償うことができなかったからです。
問41 なぜこの方は、「葬られ」たのですか。
答 それによって、この方が本当に死なれたということを証しするためです。
問42 キリストがわたしたちのために死んでくださったのなら、
どうしてわたしたちがさらに死ななければならないのですか。
答 わたしたちの死は、自分の罪に対する償いなのではなく、
むしろ罪の死滅であり、永遠の命への入口なのです。
今夜は、ハイデルベルク信仰問答の問40-42と答を学びましょう。先週は、キリストの十字架の御苦しみについて学びました。
ハイデルベルク信仰問答が問40-42は、神の子キリストの死の必要性と葬りと信者の死について、その理由が教えられています。
問40と答は、神の子キリストの十字架の死の必要性を教えています。答の「なぜなら」は、その理由を述べようとしています。「神の義と真実のゆえに」と。
「神の義」とは、主なる神が罪を犯した人間に対してただしく対処されることです。それが、旧約の時代においては動物犠牲によってなされ、究極的にキリストの十字架の死によって、神は人間の罪を正しく処置されました。
「真実」とは、「神の真理」のことです。主なる神は、アダムに「善悪の知識の木から、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創世記2:17)と宣言されました。ですから、神の永遠の真理(真実)は、神に背反した人間は、永遠に死ぬのです。この真理に則って神は、人間の罪に対してただしく対処し、処置されました。それが、神の御子キリストが人となり、罪人であるわたしたちの身代わりに十字架の死の苦しみを受けることでした。
だから、ハイデルベルク信仰問答は、「神の御子の死による以外に、わたしたちの罪を償うことなどできなかったからです」と教えています。使徒パウロは、こう教えています。「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」(ローマ8:3)と。神の子キリストは、十字架の死の苦しみを通して、わたしたちに代わって罪の刑罰を受けてくださいました。そして、キリストは復活し、死に勝利することによって「わたしたちの罪を償う」ことができました。
問41と答は、キリストの葬りについて教えています。キリストは、金曜日に十字架につけられ、死なれた。アリマタヤ出身のヨセフが遺体を引き取り、亜麻布に包み、墓に葬りました(マタイ27:57-60)。
ハイデルベルク信仰問答は、「それによって、この方が本当に死なれたことを証しするためです」と教えています。ハイデルベルク信仰問答が証ししているのは、問18と答とに証しされた「まことの神であると同時にまことのただしい人間でもある」「わたしたちの仲保者主イエス・キリスト」が十字架で死なれ、墓に葬られ、真実死なれたことを強調しているのです。この方は、死ぬ人間が塵に帰るように、わたしたちと同じく死んで葬られたのです。使徒パウロは、キリストの葬りがわたしたちキリスト者の希望であることを、次のように証しします。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマ6:4-5)。キリストの死と葬りは、わたしたち信者に死から解放を約束しています。
問42と答は、キリストがわたしたちの身代わりに死なれたのであれば、どうしてわたしたち信者に死があるのかという問いであります。
キリストの死と葬りにより、死から解放されたわたしたち信者に、今なお死があるのか、この死はどういう意味なのか、ハイデルベルク信仰問答は問うています。
ハイデルベルク信仰問答は、キリストの死と葬りと復活によって、わたしたち信者の死の意味が変わったと教えています。
詩編49篇8節に「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。」とありますように、罪に対する神の刑罰が死でありました。その死の刑罰を、キリストが十字架の死の苦しみを通して負ってくださいました。ですから、ハイデルベルク信仰問答は、「わたしたちの死は、自分の罪に対する償いではない」と教えています。
では、信者の死とは何でしょうか。ハイデルベルク信仰問答は、第1に「罪の死滅」であると教えています。信者の死は、罪の刑罰の死ではありません。罪の死滅、すなわち、罪と死別することです。キリストの救いにあずかっても、わたしたちは罪を赦された罪人です。この世に生きる限り、罪に結び付いています。しかし、死によって、真実罪から解放されます。使徒パウロも「死んだ者は、罪から解放されています」(ローマ6:7)と述べています。死は、この世における信者の罪との戦いの終わりです。
第2に信者の死は、「永遠の命への入口」であると教えています。わたしたちは、主イエスを信じて、洗礼を受け、キリストと一つに結びつけられた時、永遠の命を得ました(ヨハネ5:24、ローマ6:4)。神に対して生きる者とされました(ローマ6:11)。
しかし、この世においては、わたしたちはなお罪人であり、罪の戦いがあり、永遠の命を得ているという実感がありません。しかし、死の瞬間にわたしたちの魂は清められ、罪と決別し、キリストに結ばれて、永遠に神と共に生きるのです。
ですから、キリスト者にとって死は、悲しみで終わらないのです。永遠の命の入口であり、天国への凱旋の時です。死の瞬間に一切の罪と苦しみから解放され、先に召された聖徒たちと共に、わたしたちの魂は永遠に憩い、キリストの再臨の時を待つのです。
ハイデルベルク信仰問答 23 2013年6月26日
聖書箇所 ローマの信徒への手紙第6章5-11節(新約聖書P281)
問43 十字架上でのキリストの犠牲と死から、
わたしたちはさらにどのような益を受けますか。
答 この方の御力によって、わたしたちの古い自分が
この方と共に十字架につけられ、死んで、葬られる、ということです。
それによって、肉の邪悪な欲望がもはやわたしたちを支配することなく、
かえってわたしたちは自分自身を感謝のいけにえとして、
この方へ献げるようになるのです。
問44 なぜ「陰府にくだり」と続くのですか。
答 それは、わたしが最も激しい試みの時にも次のように確信するためです。
すなわち、わたしの主キリストは、十字架上とそこに至るまで、
御自身もまたその魂において忍ばれてきた
言い難い不安と苦痛と恐れとによって、
地獄のような不安と痛みからわたしを解放してくださったのだ、と。
今夜は、ハイデルベルク信仰問答の問43-44と答を学びましょう。先週は、主イエス・キリストに結ばれたキリスト者の死は、永遠の命への入口である幸いな死であることを学びました。
問43は、十字架上でのキリストの犠牲と死から、わたしたちキリスト者がさらにどのような益を受けるのかを問うています。すなわち、先に学びましたキリスト者が永遠の命の入口の死に至るまでの、キリスト者の聖化の恵みを問うています。
答を御覧ください。ハイデルベルク信仰問答は、3つの益を述べています。第1は、「わたしたちの古い自分」が死ぬことです。それは、「この方の御力によって、わたしたちの古い自分がこの方と共に十字架につけられ、死んで、葬られる、ということです。」
ハイデルベルク信仰問答が「わたしたちの古い自分」と言っていますのは、神に背を向けて自己中心に生きていたわたしたちのことです。実際に罪に支配された肉的存在としてのわたしたちです。罪の体を持ち、罪の奴隷になっているわたしたちのことです。
キリストの十字架上での犠牲と死によって、「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられました。」(ローマ6:6、ガラテヤ2:19-20)。わたしたちの古い自分がキリストと共に死んだことが、わたしたちにとって大きな益であります。
それによって、第2は、わたしたちが罪の支配から解放されたことです。ハイデルベルク信仰問答は、その喜びを「肉の邪悪な欲望がもはやわたしたちを支配することがなくなり」ましたと述べています。使徒パウロも、ローマ教会のキリスト者たちに次のように喜びを告げています。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためである」(ローマ6:6)。「罪に支配された体が滅ぼされ」とは、罪の体が無力、無能にされるという意味です。それによってわたしたちキリスト者は罪の支配から自由にされました。
それによって、第3は、わたしたちが自分を主への感謝のいけにえとしてささげる生活をゆるされていることです。「かえってわたしたちは自分自身を感謝のいけにえとして、この方へ献げるようになるんです。」永遠の命の入口である死に至るまで、わたしたちキリスト者がキリストの御力によって、すなわち、聖霊の助けを受けて、毎週の礼拝の説教と洗礼と聖餐を通して、罪に支配され、罪の奴隷になっていた古い自分をキリストと共に十字架につけて殺し、今のわたしたちが自分自身を感謝のいけにえとして、死にいたるまで主に献げる生活へと導いてくださっています(ローマ12:1)。
益とは、キリストとわたしたちの関わりのことです。キリストとのわたしたちの同時性のことです。十字架上でのキリストは、聖霊を通して罪の奴隷として生きていたわたしたちが、教会生活を通して古い自分に死に、今キリストの僕として生きる喜びへと導いてくださっています。それが、ハイデルベルク信仰問答がわたしたちに教えているキリスト者の聖化の恵みであります。
問44は、使徒信条の「陰府にくだり」についての問いであります。キリストが十字架に死に、墓に葬られたに続いて、どうしてキリストは「陰府にくだり」と告白するのかを問うています。
「陰府」は、死の世界であり、地獄のことです。しかし、ハイデルベルク信仰問答は、キリストの「陰府にくだり」を、キリストが地獄という場所に行かれたと理解してはいません。キリストが、「最も激しい試みに遭われた」ことと理解しています。
陰府は、地獄という場所よりも神から引き離された状態を指します。よくわたしたちは、筆舌に尽くしがたい苦しみを味わいました時に、「神も仏もあるものか」と口にしますね。これは、自分が今生き地獄にいることを表しています。キリストが「陰府にくだり」とは、キリストは死んで墓に葬られただけではなく、キリストの死は神に呪われた死であり、見捨てられた死であったことを告白しているのでしょう。そのように陰府は、全く神との関係が隔絶された悲惨さを表すのです。
ハイデルベルク信仰問答は、答にキリストの「陰府にくだり」を、「わたしが最も激しい試みの時にも次のように確信するためです」と述べています。確信の第1は、キリストは十字架の死に至るまで、御自身の体と魂において御苦しみを忍耐されたということです。
第2の確信は、キリストが「陰府にくだり」、筆舌に尽くしがたい不安と苦痛と恐れを身に受けられたのは何のためかです。それは、罪人であるわたしたちのためです。キリストがわたしたちに代わり、神の呪われた死、神に見捨てられた死を身に受けてくださり、肉体だけでなく、魂においても地獄の苦しみと不安とを受けて忍ばれたので、罪人であるわたしたちは地獄のような不安と苦しみから解放されているのです。
十字架上で主イエスは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました(マタイ27:46)。ハイデルベルク信仰問答がわたしたちに伝えているのは、キリストとわたしたちの関わりであり、同時性です。すなわち、十字架のキリストは、今聖霊を通してわたしたちキリスト者と共にいてくださいます。そして、わたしの罪を執り成してくださっています。もはやわたしたちに地獄の恐怖も苦しみも不安もありません。
ハイデルベルク信仰問答 24 2013年7月3日
聖書箇所 フィリピの信徒への手紙第3章17-21節
問45 キリストの「よみがえり」は、
わたしたちにどのような益をもたらしますか。
答 第一に、この方がそのよみがえりによって死に打ち勝たれ、
そうして、御自身の死によって
わたしたちのために獲得された義に
わたしたちをあずからせてくださる、ということ。
第二に、その御力によって
わたしたちも今や新しい命に生き返らされている、ということ。
第三に、わたしたちにとって、
キリストのよみがえりは
わたしたちの祝福に満ちたよみがえりの
確かな保証である、ということ。
今夜は、ハイデルベルク信仰問答の問45と答を学びましょう。ハイデルベルク信仰問答は、問36、43、45、49、51に「どのような益を受けますか」「どのような益をもたらしますか」と問うています。
繰り返し何度も説明しますが、ハイデルベルク信仰問答はドイツ語です。そして、ハイデルベルク信仰問答が使っていますドイツ語の「益」という言葉の概念には、功利的な利益追求の意味はありません。この言葉の概念で、ハイデルベルク信仰問答が、わたしたちに伝えようとしていますのは、「わたしたちと関わってくださるキリスト」です。そして、現在のわたしたちにとっては、この「益」という言葉の内容を、「わたしたちにおけるキリストの同時性」と表現するのです。よみがえられたキリストは、今のわたしたちに関わってくださるのです。
問45は、キリストの「よみがえり」が、今のわたしたちとどのように関係しているのですかと問うています。
そこでハイデルベルク信仰問答は、キリストの「よみがえり」が今のわたしたちに関わっている3つのことを教えています。
答を見てください。「第一に、この方がそのよみがえりによって死に打ち勝たれ、 そうして、御自身の死によって わたしたちのために獲得された義に わたしたちをあずからせてくださる、ということ。」
キリストは、「よみがえり」により死に勝利されました。そして、「よみがえり」の主イエス・キリストは今生きて、わたしたちと関わってくださっています。それは、何かと言いましたら、御自身が十字架の死によって、わたしたちのために獲得してくださった神の義を、「よみがえり」のキリストが、教会の生きた交わりの中でわたしたちにその義に与らせることがお出来になります。わたしたちは、キリストの「よみがえり」によって、キリストより神の義をいただく恵みを得ました。
人類の最初の人であり、代表者でありましたアダムが罪を犯して以来、人類は堕落し、その行いによっては、神の義を得ることはできませんでした。しかし、「よみがえり」のキリストの十字架の死によって今のわたしたちは罪を赦され、「よみがえり」のキリストによって、今のわたしたちは死の支配から解放され、世の終わり、神の審判の日に「よみがえりの」キリストよりその神の義を、ただ恵みによっていただくことができます。
「第二に、その御力によって わたしたちも今や新しい命に生き返らされている、ということ。」
キリストの「よみがえり」は、今のわたしたちの復活に関わっています。「よみがえり」のキリストは、死に勝利された御力によって、たとえわたしたちが死んでも、御自身のようにわたしたちを新しい命によみがえらせてくださいます。
使徒パウロが十字架とよみがえりのキリストとわたしたちとの同時性を、ローマの信徒への手紙6章5-11節に証ししています。今のわたしたちは、洗礼によってキリストに結び合わされ、キリストと共に罪に死に、キリストと共に新しい命によみがえるのです。「よみがえり」のキリストは、今も生きておられるので、御自身の復活の御力により、わたしたちを新しい命に呼び起こすことがお出来になるお方です。
「第三に、わたしたちにとって、キリストのよみがえりは わたしたちの祝福に満ちたよみがえりの確かな保証である、ということ。」
キリストの「よみがえり」は、今のわたしたちにとって将来のわたしたちの祝福に満ちたよみがえりの確実な保証であります。ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに「よみがえり」のキリストの命が、今のわたしたちの内に宿っていることを教えています。使徒パウロが、次のように証ししています。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(ローマ8:11)。
キリストの「よみがえり」が栄光の姿であるように、キリストにあってよみがえらされるわたしたちは、祝福に満ちたよみがえりであります。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリピ3:21)。
わたしたちは、聖霊を通して「よみがえり」のキリストと共に生かされており、キリストと一つに結合され、主イエスの「よみがえり」は、わたしたちのよみがえりの確実な保証であり、揺るがない希望であります。
ハイデルベルク信仰問答 25 2013年7月10日
聖書箇所 ルカによる福音書第24章50-52節(新約P162)
問46 あなたは「天にのぼり」をどのように理解しますか。
答 キリストが弟子たちの目の前で地上から天に上げられ、
生きている者と死んだ者とを裁くために再び来られる時まで、
わたしたちのためにそこにいてくださるということです。
問47 それでは、キリストは、約束なさったとおり、
世の終わりまでわたしたちと共におられる、というわけではないのですか。
答 キリストは、まことの人間でありまことの神であられます。
この方は、その人間としての御性質においては、今は地上におられませんが、
その神性、威厳、恩恵、霊において
片時もわたしたちから離れておられないのです・
問48 しかし、人間性が神性のある所どこにでもあるというわけではないのならば、
キリストの二つの性質は互いに分離しているのではありませんか。
答 決してそうではありません。
なぜなら、神性は捉えることができず、
どこにでも臨在するのですから、
同時に人間性の内にもあって、
絶えず人間性と人格的に結合しているのです。
今夜は、ハイデルベルク信仰問答の問46-48と答を学びましょう。ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに使徒信条の「天に昇り」を解説しています。
問46は、キリストの昇天をどのように理解するかという問いです。ハイデルベルク信仰問答は、答にキリストの昇天を、「キリストが弟子たちの目の前で地上から天に上げられ」と答えています。
キリストの昇天の出来事は、新約聖書のルカによる福音書24章50-51節と使徒言行録第1章9-11節に証言されています。ハイデルベルク信仰問答は、その証言を、文字通り事実として受け入れています。復活の主イエス・キリストは、11弟子たちの目の前で、弟子たちを祝福しながら天に昇られました(ルカ24:50-51)。それを、弟子たちが見上げていると、神の御使いたちが弟子たちに「あなたがたが見上げているキリストは、天に上げられたと同じ有様で、再びおいでになる」と告げました(使徒言行録1:11)。
ですから、ハイデルベルク信仰問答は、新約聖書の証言を文字通り事実と受け取り、「生きている者と死んだ者とを裁くために再び来られる時まで」、キリストは天におられると告白しているのです。
さらにハイデルベルク信仰問答は、わたしたちにキリストが昇天し、今も天におられるのは、「わたしたちのためである」と告白しています。それだけを述べていますが、聖書の引用箇所を見ると、二つのことを指摘できます。第1は、キリストが天にいてわたしたちのために執り成しをしてくださっていることです(ローマ8:34、ヘブライ7:23-25)。第2は、キリストはわたしたちの救いを完成するために天に昇られました(エフェソ4:8-10)。
天とは、神の領域のことです。キリストは、人としてこの世に来られました。そしてキリストは人間性を持ったまま、神御自身の世界にお帰りになりました。それが昇天です。
問47は、マタイによる福音書28章20節の御言葉に言及しています。復活の主イエスは、11弟子たちに「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されました。ハイデルベルク信仰問答は、その約束はどうなりますかと、問うています。
そこでハイデルベルク信仰問答は、わたしたちにキリストの2性1人格の教理に注目させます。「キリストは、まことの人間であり、まことの神であります。」
キリストの人間性の側から見れば、キリストは天に昇られました。弟子たちは、キリストの姿が見えなくなるまで、天に昇られるキリストを仰いでおりました。だから、ハイデルベルク信仰問答は、「人間としてのキリストは、今地上におられません」と答えています。復活の体を持たれたキリストは、今は天におられるからです。
他方、キリストの神性の側から見れば、それをハイデルベルク信仰問答は「その神性、威厳、恩恵、霊によるなら」と述べています。すなわ、今キリストは、聖霊と御言葉を通して「片時もわたしたちから離れておられることはないのです」。
キリストは、弟子たちに「父なる神に聖霊を遣わしていただき、永遠にあなたがたと一緒にいることができるようにしていただこう」と言われました(ヨハネ14:16)。聖霊と御言葉に共に、キリストの神性がわたしたちと共にあり、世界の人々は今も、福音によって救いの恵みにあずかっています。キリストはわたしたちに命を与える霊として、今も共にいてくださいます(Ⅰコリント15:45)。
問48は、ハイデルベルク信仰問答が、キリストの復活の体は天にあり、キリストの神性がわたしたちと共にあるのであれば、キリストの神性と人性は天と地に分離されているのではないかと、問うています。
ハイデルベルク信仰問答の答は、否です。キリストの神性と人性の分離に対する強い否定です。問35と答を思い起こしてください。受肉前のキリストは、永遠の神の御子でした。神性のみをお持ちでした。キリストの受肉により、キリストは神性と共に人性をおとりになりました。キリストの人格に神性と人性が結合したのです。カルケドン信条は、「この唯一のキリスト、み子、主、独り子は、二つの性において混合、変化、分割、分離できっことはできません。ぬお方」と告白しています。
ハイデルベルク信仰問答は、昇天されたキリストは、神性と人性という異なる二つの性質を持った一人のイエス・キリストというお方であることを告白しているのです。
神性は、永遠・不変であり、遍在です。人は神性を捉えることはできません。どこにでも臨在されます。ですから、世界中で、同時にキリストを礼拝することが可能なのです。
ですから、受肉のキリストの内外にキリストの神性は自由にあるのです。それでも神性と人性は、人格的にキリストに結合しているのです(コロサイ2:9)。