ハイデルベルク信仰問答 31           2013821

 

聖書箇所 使徒言行録第24347(新約聖書P217)

 

 

 

 問55 「聖徒の交わり」について、あなたは何を理解していますか。

 

 答   第一に、信徒は誰であれ、群れの一部として、

 

       主キリストとこの方のあらゆる富と賜物に

 

       あずかっている、ということ。

 

     第二に、各自は自分の賜物を、

 

       他の部分の益と救いのために、

 

       自発的に喜んで用いる責任があることを

 

       わきまえなければならない、ということです。

 

 

 

今夜は、ハイデルベルク信仰問答の問55と答を学びましょう。ハイデルベルク信仰問答は、使徒信条の「聖徒の交わり」について解説しています。

 

使徒言行録の243節から47節にペンテコステの日に救われた3000人の信者の生活が要約されています。その要約に聖徒の交わりが描かれています。

 

「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」(使徒言行録24447)

 

ハイデルベルク信仰問答は、使徒信条の「聖徒の交わり」について、「あなたは何を理解しているか」と問い、第1に使徒言行録の2章の初代教会の信徒たちの生活を下敷きにして、次のように答えています。「第一に、信徒は誰であれ、群れの一部として、主キリストとこの方のあらゆる富と賜物にあずかっている、ということ。」

 

 ハイデルベルク信仰問答が、わたしたちに「聖徒の交わり」について教えたいことは、聖徒は誰でも、キリストの十字架によって罪を贖われ、罪を赦され、神の子とされた群れであるということです。ですから、ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに聖徒は皆、キリストのゆえに罪を赦され、神の子とされ、神の御国の相続人として「主キリストとこの方のあらゆる富と賜物にあずかっている」ということを伝えています。

 

 そのことを証言するのは、使徒パウロです。彼はローマ教会のキリスト者たちにキリストの十字架の贖いによる神の愛を伝え、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」と伝えています(ローマ832)。聖徒は、罪の赦しのみではなく、御国の相続人として「主キリストとこの方のあらゆる富と賜物にあずかる」と、使徒パウロは証言しています。

 

 また後先になりますが、使徒パウロは、聖徒はキリストを信じる信仰によってキリストと一つに結ばれ、一つの群れとなることを、次のように証しします。「主に結び付く者は主と一つの霊となるのです」(1コリント617)。聖徒一人ひとりは、その一つの霊によって、一つの体となるために、洗礼を受け、共に聖餐の恵みに与るのです(1コリント1213)

 

 使徒ヨハネは、わたしたちに「聖徒の交わり」を「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストの交わりです」(1ヨハネ13)と定義しています。

 

 ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに「聖徒の交わり」について、使徒言行録、使徒パウロヨハネを通して、次のように教えています。それは、主イエス・キリストを信じる信仰によって、心を一つにし、洗礼と聖餐を通して一つの群れとなり、御国の相続人としてキリストよりの豊かな富と賜物を分け与えられていると。

 

 使徒パウロは、「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(Ⅱコリント89)

 

 次に聖徒の交わりは、自己実現をする交わりではありません。主イエスは、12弟子たちに「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ1513)とお命じになりました。

 

 ですから、ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに「第二に、各自は自分の賜物を、他の部分の益と救いのために、自発的に喜んで用いる責任があることをわきまえなければならない」と教えています。

 

 使徒パウロは、ローマ教会のキリスト者たちに「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい」(ローマ121)と勧めて、ローマ教会のキリスト者たちが各自、キリストから賜った賜物を分かち合い、各自が奉仕に専念し、キリストの教会を立て上げるように促しています(ローマ1248)

 

 聖徒は、キリストの体なる教会の一部分です。そして、聖徒の各自がキリストよりそれぞれ異なる賜物が与えられ、奉仕を通してキリストの体なる教会を立て上げるように召されているのです。互いに愛し合い、互いに支え合い、補い合って、キリストの体なる教会を立て上げていくのです。

 

 ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに使徒パウロの証言を通して、次のことを聖徒の交わりが信徒一人ひとりの自己実現の場ではなく、むしろ、信徒一人ひとりが他者である兄弟姉妹を愛し、その兄弟姉妹の益と助けを自発的にして、一緒にキリストの体なる教会を立て上げる責任があることを自覚するように教えています。

 

 聖徒の交わりの中心的原理は、主イエスが12弟子たちに命じられた愛の原理です。教会の奉仕は、自己実現のためになすのではなく、主を愛し、兄弟姉妹を愛するためになされるのです。その意味で聖徒の交わりは、愛の共同体であると定義できます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハイデルベルク信仰問答 32           2013828

 

聖書箇所 ローマの信徒への手紙第72125(新約聖書P217)

 

 

 

 問56 「罪のゆるし」について、あなたは何を信じていますか。

 

 答   神が、キリストの償いのゆえに、

 

       わたしのすべての罪と、

 

       さらにわたしが生涯戦わなければならない

 

       罪深い性質をも、

 

       もはや覚えようはなさらず、

 

     それどころか、恵みにより、キリストの義をわたしに与えて、

 

       わたしがもはや決して

 

       裁きにあうことのないようにしてくださる、

 

       ということです。     

 

 

 

今夜は、ハイデルベルク信仰問答の問56と答を学びましょう。ハイデルベルク信仰問答は、使徒信条の「罪の赦し」について解説しています。

 

ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに使徒信条の「罪の赦し」を告白する時、その「罪の赦し」について何を信じているのかと、問うています。

 

1に「罪のゆるし」は、神が恵みによりキリストを通してなさる神の救いの御業です。「神」とは、父なる神です。「恵みにより」とは、人の行いではなく、神の価なしの恵みにより、という意味です。

 

2に罪の赦しは、神が「キリストの償い」と「キリストの義」のゆえに行われました。

 

「キリストの償い」とは、キリストの十字架の死を意味しています。改革派教会は、それを、「キリストの消極的服従」と言っています。キリストがわたしたちの罪の身代わりに罪の刑罰を負われ、十字架の上で神の呪いを受けて死んでくださいました。

 

それゆえにハイデルベルク信仰問答は、次のように告白しています。「神が、キリストの償いのゆえに、わたしのすべての罪と、さらにわたしが生涯戦わなければならない罪深い性質をも、もはや覚えようはなさらず」

 

 キリストが十字架の死により「わたしのすべての罪」とキリスト者として生涯戦わなければならに罪深い性質をも、償ってくださいました。詩編103篇の詩人ダビデが次のように歌っている通りです。「主はお前の罪をことごとく赦し 病をすべて癒し 命を墓から贖い出してくださる。」(34)、「主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく わたしたちの悪に従って報いられることもない」(10)、「わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。」(12)

 

 預言者ミカも罪赦される神について次のように預言しています。「あなたのような神がほかにあろうか 咎を除き 罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に いつまでも怒りを保たれることはない。神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ 我らの咎を抑え すべての罪を海の深みに投げ込まれる。」(ミカ71819)

 

 使徒パウロもローマの信徒への手紙7章にキリスト者の罪との戦いとキリストの十字架による御救いを証言しています(ローマ72125)

 

 キリストの消極的服従である「キリストの償いのゆえに」、すなわち、キリストの十字架の死によって、神はわたしたちのすべての罪を赦し、そしてわたしたちがキリスト者の生涯において苦しみました罪深い性質を赦し、もはや心に留めることをなさいません。

 

 「罪の赦し」について、わたしたちが今信じていることは、次のことです。神は、キリストの十字架の死のゆえにわたしたちが過去に犯したすべての罪、キリスト者として今犯しているすべての罪、そしてわたしたちの将来に犯すであろうすべての罪を心の留めず、忘れてくださるということです。

 

 「キリストの義」は、キリストの積極的服従です。キリストは、わたしたちと同じ人間となり、へりくだって、十字架の死に至るまで父なる神に従順でした(フィリピ28)。それによってキリストは、父なる神より義を得られました。

 

 それゆえにハイデルベルク信仰問答は、次のように告白しています。「それどころか、恵みにより、キリストの義をわたしに与えて、わたしがもはや決して裁きにあうことがないようにしてくださる、ということです。」

 

 神は、恵みにより、すなわち、わたしたちに行いを要求しないで、キリストが父なる神に積極的に服従されて得られた義を、わたしたちにお与えくださり、わたしたちを神の御前に義人とし、わたしたちが決して裁きにあうことがないようにしてくださいました。

 

 使徒ヨハネは、神がキリストをこの世に遣わされたのは、「世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。」と証言しています(ヨハネ31718)。使徒パウロも、「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が罪と死との法則からあなたを解放したからです。」と証言しています(ローマ812)

 

 罪の赦しを信じるとは、父なる神が「キリストの償いのゆえに」(キリストの消極的服従)と「キリストの義のゆえに」(キリストの積極的服従)わたしたちをあたかも罪を犯したことがないかのように扱ってくださることを信じていることです。父なる神は、キリストの十字架によって罪に対する刑罰に満足されました。ですから、わたしたちがキリスト者として生活し、今犯す罪も、将来に犯すであろう罪もすべて赦してくださいます。

 

 赦される以上にわたしたちはキリストの義をいただき、神の御前に義人とみなされる故に、父なる神は御自身の審判においてわたしたちを罪のない者と判定してくださいます。  

 

 このようにハイデルベルク信仰問答が、わたしたちに教えている教会、キリストの共同体は、罪の赦しの共同体です。神が聖霊と御言葉を通して招かれた者たちは皆、キリストの身代わりを死を信じて、洗礼を受け、キリストに結び付けられ、キリストの義をいただき、すべての罪を赦され、終わりの日に神の裁きからも逃れることができるのです。

 

 

 

 

 

ハイデルベルク信仰問答 33           201394

 

聖書箇所 コリントの信徒への手紙一第155058(新約聖書P322323)

 

 

 

 問57 「身体のよみがえり」は、あなたにどのような慰めを与えますか。

 

 答   わたしの魂が、この生涯の後直ちに、

 

       頭なるキリストのもとへ迎え入れられる、というだけではなく、

 

       やがてわたしもこの体もまた、

 

       キリストの御力によって引き起こされ、

 

       再びわたしの魂と結び合わされて、

 

       キリストの栄光の御体と同じ形に変えられる、ということです。

 

        

 

今夜は、ハイデルベルク信仰問答の問57と答を学びましょう。ハイデルベルク信仰問答は、使徒信条の「身体のよみがえり」について解説しています。

 

ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに使徒信条の「身体のよみがえり」をわたしたちの慰めとして告白しています。

 

ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに「罪のゆるし」について何を信じるか(56)と、質問しました。そして、神がキリストの消極的服従(キリストの罪の償い)と積極的服従(キリストの義をわたしたちに与えること)によって、わたしたちの罪を赦し、最後の神の審判においてわたしたちが決して裁かれないことを学び、確信しました。

 

しかし、キリスト者は、現実において死があります。わたしたちは、死と死後にどんな慰めがあるのか。それは、わたしたちの大きな問題です。

 

そこでハイデルベルク信仰問答は、わたしたちにまずわたしたちの死の時の慰めを次のように聖書から教えています。「わたしの魂が、この生涯の後直ちに、頭なるキリストのもとへ迎え入れられる」と。

 

ルカによる福音書の234243節に十字架の主イエスと罪を悔い改めた罪人の対話があります。彼は、主イエスに「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言いました。すると主イエスは、彼に言われました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。

 

また、使徒パウロ自身も、この世でキリストのために生きることと、死んでキリストのところに行き、キリストと共にいることの喜びとどちらを選んだらよいかわからないと、フィリピの信徒への手紙の12123節に述べています。

 

わたしたちの魂は、ここでハイデルベルク信仰問答が主イエスとパウロの御言葉によって教えるように、わたしたちの生涯の後、直ちに、すなわち、死の時に「頭なるキリストもとへ迎え入れ」られます。

 

これは、わたしたちに確かな平安を与えてくれます。死と死後にわたしたちの魂がわたしの知らないところにさまようのではありません。死後直ちにわたしたちの魂は、キリストのもとに迎えられます。だから、この世に残された者によってわたしたちの魂を慰霊し、供養してもらう必要はありません。記念会は、故人の信仰を証しし、残された遺族と教会員たちの信仰を、聖書の御言葉によって励まし、慰めるためになされます。

 

さらにハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに続いて「というだけではなく」と述べて、「やがてわたしのこの体もまた、キリストの御力によって引き起こされる」と教えています。

 

ハイデルベルク信仰問答は、聖書の教えに従い救いを、魂の救いのみではなく、わたしたちの身体の救いでもあると教えています。聖書は、「わたしたちの身体のよみがえり」を、キリストが十字架に死に、3日目で復活されたことを根拠にしています。そして、使徒信条はその根拠によって「身体のよみがえり」を信ずると告白します。

 

わたしたちの「身体のよみがえり」を保証するのは、キリストの復活の事実です。使徒パウロは、「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(Ⅰコリント1520)と証言しています。さらに使徒パウロは、次のように復活の体を証言しています。復活の体は、朽ちる体が朽ちない体に復活します。卑しい体が栄光の体に復活します。弱い体が強い体に復活します。自然の命の体が霊の体に復活します(Ⅰコリント154246)。使徒パウロは、わたしたちの身体の復活を「死ぬべきものが死なないものを着る」と表現しています。

 

このように現在のわたしたちの罪に汚れた体が、弱く死ぬべき体が、キリストの復活の御力によって罪なき栄光の体によみがえらされる、ということです。ハイデルベルク信仰問答は、それをわたしたちの慰めと教えています。

 

最後にハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに「再びわたしの魂と結び合わせて。キリストの栄光の御体と同じ形に変えられる」と教えています。

 

現在罪に汚れたわたしたちの体が、キリストの栄光の体に変えられて、よみがえらされるのです。その慰めを、ハイデルベルク信仰問答は、聖書の教えに従って具体的に教えています。

 

たとえば使徒パウロは、次のように証言しています。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリピ321)

 

「身体のよみがえり」とは、キリストの栄光ある体と同じ体です。それは、魂と体が結び合わされています。キリストがキリストとして復活されたように、今のわたしが新しいわたしとしてよみがえるということです。復活は別人になることではありません。

 

要するにハイデルベルク信仰問答が、わたしたちの「身体のよみがえり」を教えるのは、聖書が証言する神に創造された人間、わたしのよみがえりです。神がわたしを創造されたのは、わたしに生きる使命を与えられたからです。創造者なる神を愛し、神が創造された世界において神の栄光をあらわすためです。

 

ハイデルベルク信仰問答の問6の答にように記されています。「神は人を良いものに、また御自分にかたどって、すなわち、まことの聖と義において創造されました。それは、人が自らの造り主なる神を知ただしくり、心から愛し、永遠の幸いのうちを神と共に生き、そうして神をほめ歌い賛美するためでした」

 

現在のわたしたちは、その使命を十分に果たせません。しかし、今のわたしたちがキリストの栄光の体と同じ姿に復活させられ、キリストに結び合わされて、心から神を喜び、礼拝し、復活の体を通して神の栄光をあらわして、神と共に生きていくのです。

 

「身体のよみがえり」を信じる慰めは、現実に死に火葬に付され、灰となるわたしたちの姿を思う時に、わたしたちの死ぬべき体、朽ちる体が、キリストの栄光の体と同じように復活させられると信じることができることは、わたしたちの慰めであり、希望であると思います。

 

 

 

 

 

 

 ハイデルベルク信仰問答 34           2013911

 

聖書箇所 ヨハネによる福音書第3115(新約聖書P167)

 

 

 

 問58 「永遠の命」という箇条は、

 

あなたにどのような慰めを与えますか。

 

 答   わたしが今、永遠の喜びの始まりを心に感じているように、

 

       この生涯の後には、

 

       目が見もせず、耳が聞きもせず、

 

       人の心に思い浮かびもしなかったような

 

       完全な祝福を受け、

 

       神を永遠にほめたたえるようになる、ということです。

 

        

 

今夜は、ハイデルベルク信仰問答の問58と答を学びましょう。ハイデルベルク信仰問答は、使徒信条の「永遠の命」について解説しています。

 

使徒信条は、父なる神、子なる神キリスト、聖霊の三位一体の神を告白し、その神がわたしたちのために成し遂げてくださった救いの御業を告白しています。「罪の赦し」と「身体のよみがり」、そして「永遠の命」であります。ハイデルベルク信仰問答も、わたしたちに使徒信条の構造と意図に沿って三位一体の神とその救いの御業を教えてきました。

 

ハイデルベルク信仰問答は、問311と答に罪と悲惨な状態に堕落した人間を、聖書の御言葉によって明らかにしました。そして、罪と悲惨な状態に堕落した人間が救われるためにただ一人の仲保者が必要であることを、問1219と答で明らかにしました。そして、ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに聖書の教える真の信仰を学ぶために、問2064まで使徒信条を解説しました。使徒信条に従って父なる神(2628と答)、子なる神(2952と答)、そして聖霊(5364と答)、そして三位一体の神の御救いを、聖書の御言葉によって説明しました。

 

以上のことは、罪と悲惨の状態に堕落したわたしたち人間が再び救われるために信じる必要があります。しかし、問8の答にありますように、「わたしたちが神の御霊によって再生されない限りは」、ハイデルベルク信仰問答が使徒信条を通して教えている真の信仰を信じ、その信仰に慰めを得ることはできません。

 

ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに使徒信条の「永遠の命」の箇条を、わたしたちの慰めとして、教えようとしています。

 

「慰め」は、「励まし」と同じです。「永遠の命」を信じることが、今のあなたの信仰生活に、教会の礼拝や活動にどんな励ましを与えてくれていますか。このようにハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに問い掛けてくれています。

 

ハイデルベルク信仰問答は、「永遠の命」を、「わたしが今、心に感じている」と告白しています。「永遠の命」は、「わたしたちが神の御霊によって再生されない限りは」(8の答)、「わたしたちが今、永遠の喜びの始まりを心に感じる」(58の答)ことはできません。

 

ヨハネによる福音書の3章に主イエスとファリサイ派のニコデモとの対話が記してあります。神の国、すなわち、永遠の命について、主イエスとニコデモが対話しています。そこで主イエスは、ニコデモに「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ33)と言われました。わたしたちは、神の御霊(聖霊)によって再生されない限り、神の国、すなわち、永遠の命を見ることはできません。さらに主イエスは、ニコデモに「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハネ315)と言われ、主イエスを神の子と信じなければ、神の国は入れないことを教えておられます。

 

また使徒パウロは、永遠の命、すなわち、神の国について次のように教えています。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(ローマ1417)。これは、聖霊が礼拝を通して再生したキリスト者に与えてくださる恵みです。聖霊は、御言葉を通して再生されたキリスト者にキリストの義を与え、罪の赦し、神の子とし、神との平和をお与えくださいます。そして、聖餐の恵みを通して永遠の命の喜びにあずからせてくださいます。

 

このように聖霊によって再生されたキリスト者は、「今、永遠の喜びの始まりを心に感じて」、主の日の礼拝をし、日々の信仰生活をしていると、ハイデルベルク信仰問答が、わたしたちに教えています。

 

キリスト者の礼拝生活は、「今、永遠の喜びの始まり」です。終わりの日がキリスト者の地上の生涯の後に来ます。使徒パウロは、それを次のように教えています。「しかし、このことは、『目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された』と書いてあるとおりです。」(Ⅰコリント29)

 

 わたしたちは、死後について未知です。自分の死後を見たことも、聞いたことも、想像することすらできません。使徒パウロが、預言者イザヤの口を通して語る通りです。パウロは、神がわたしたちキリスト者に永遠の住まいを準備され、主イエスは弟子たちに永遠の住まいを準備できれば、再臨すると約束されました(ヨハネ1413)

 

 それは、わたしたちキリスト者にとって大きな喜びです。なぜなら、主イエスは弟子たちに「永遠の命」を次のように教えられました。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ173)。主イエスが教える永遠の命は、わたしたちの命が単に永続することではありません。父なる神とキリストと共に生きる命のことです。

 

 この喜びは、わたしたちの想像力を越えています。だから、ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちが死後、永遠の命の喜びに入れられることを、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かばなかったような完全な祝福」と教えています。

 

 永遠の命は、わたしたちの救いの完成であり、究極の喜びの状態です。それは、わたしたちの創造主であり、救い主である三位一体の神と共に生きる命に与ることです。

 

 キリスト者であるわたしたちは、信仰を通してキリストと一つにされ、義とされ、子とされただけでも、大きな喜びであるのに、死後三位一体の神と共に永遠に生きる喜びが与えられ、「神を永遠にほめたたえるように」なるのです。

 

 ウェストミンスター小教理問答は、問1と答に「人生の主な目的は何か。」 答「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである」と告白しています。ハイデルベルク信仰問答も同様です。わたしたちキリスト者は、教会の礼拝を通して永遠の命の始まりを心に感じながら、想像することすらできない三位一体の神との完全な交わりと祝福と喜びの中で、神をほめたたえて、永遠に神と共に生きるのです。これが信徒信条の「永遠の命」を信じるわたしたちの慰めであり、励ましであります。

 

 

 

 

 

 

 

 ハイデルベルク信仰問答 35           2013918

 

聖書箇所 ヨハネによる福音書第33136(新約聖書P168)

 

 

 

 問59 それでは、これらすべてを信じることは、

 

あなたにとって今どのような助けになりますか。

 

 答   わたしが、キリストにあって神の御前で義とされ、

 

       永遠の命の相続人となる。ということです。

 

       

 

今夜は、ハイデルベルク信仰問答の問59と答を学びましょう。ハイデルベルク信仰問答は、使徒信条の全箇条を学びましたわたしたちに、「これらすべてを信じる」、すなわち、使徒信条の全体を信じることが、「あなたとって今どのような助けとなりますか」と問うています。

 

ハイデルベルク信仰問答は、「使徒信条」を、わたしたちにとって「福音」の要約であると理解しています。ハイデルベルク信仰問答の問22と答を思い起こしてください。問22「それではキリスト者が信じるべきこととは何ですか。」答「福音においてわたしたちに約束されていることのすべてです。わたしたちの公同の疑いなきキリスト教信仰箇条が、それを要約して教えています。」

 

またハイデルベルク信仰問答が「これらすべてを信じる」と述べているのは、「まことの信仰」を言及しているのです。ハイデルベルク信仰問答は、問20において「すべての人がキリストを通して救われるのですか」と問い、「まことの信仰によってこの方と結び合わされ、そのすべての恵みを受け入れる人だけが救われるのです」と答えています。そして、問21の答において「まことの信仰」を、「福音を通して聖霊がわたしのうちに起こしてくださる、心からの信頼のことである」(21の答)と定義しています。

 

以上のように見てきますと、ここでハイデルベルク信仰問答がわたしたちに問うていることは、次のことでしょう。福音の要約である使徒信条のすべての箇条を通して、聖霊がわたしたちのうちに起こしてくださる、心からの父子聖霊なる三位一体の神への信頼、このまことの信仰がわたしたちにとって今どのような助けとなるでしょうか。

 

ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに二つの祝福を約束しています。「わたしが、キリストにあって神の御前で義とされ、永遠の命の相続人となる。ということです。」

 

 この福音を信じる者はだれでも、「キリストにあって神の御前で義とされます。」これが、罪人であり滅びるばかりの今のわたしたちへの助けであります。ハイデルベルク信仰問答は、罪人であるわたしたちは、自分の罪に対する神の刑罰を免れることはできないと教えています。そして、わたしたちは自分の罪を償わなければなりません。しかし、自分の罪を償うことができません。自分の罪を他の被造物に償わせることもできません。それゆえに仲保者または救い主が必要です。そのお方は神であり、人であるお方です。なぜなら、神の義は、罪の償いを、罪を犯した人に求めています。そして、神であり人である仲保者のみが、人の罪を償うために神の怒りを担うことができるのです。イエス・キリストこそが神であり、人である唯一の仲保者であり、わたしたちに完全な救いと義を与えてくださったのです(ハイデルベルク信仰問答問1219と答)

 

 「義」とは、神と神の律法の尺度に一致することです。罪を犯し続けているわたしたちが、キリストの消極的服従(十字架の死)と積極的服従(十字架の死に至るまで父なる神に従順に従い神の義を得られたこと)によって、「信仰によってこの方と結び合わされ」、キリストにあって神の御意志に一致していると、神が見なしてくださったのです。これが「神の御前で義とされる」ことです。

 

 そして、ハイデルベルク信仰問答は、義とされたキリスト者は、「永遠の命の相続人」という祝福にあずかることを教えています。

 

 「今どのような助けとなっていますか」という問いは、「今どのような益となっていますか」という問いと同じであります。キリストを信じるキリスト者は、今永遠の命の相続人となっています。今キリスト者は、永遠の命の喜びを心に感じつつ、この世を生きているのです。

 

 ハイデルベルク信仰問答は、この喜びを、ヨハネによる福音書とローマの信徒への手紙から次のように証言しています。「御子を信じる人は永遠の命を得ている」(ヨハネ336)。「『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」(ハバクク24、ローマ117)。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りとしています。」(ローマ512)