ハイデルベルク信仰問答49       主の2014年1月8日
 聖書箇所:ヨハネによる福音書第4章19-26節(新約聖書P169-170)

 問80 主の晩餐と教皇のミサとの違いは何ですか。
 答   主の晩餐がわたしたちに証しすることは、
       イエス・キリスト御自身が
       ただ一度十字架上で成就してくださった
       その唯一の犠牲によって、
              わたしたちが自分のすべての罪の
              完全な赦しをいただいているということ。
      〔また、わたしたちが聖霊によって
              キリストに接ぎ木されている、ということです。
              この方は、今そのまことの体と共に
              天の御父の右におられ
              そこで礼拝されることを望んでおられます。〕
     しかし、ミサが教えることは、
       今日も日ごとに司祭たちによって
       キリストが彼らのために献げられなければ、
       生きている者も死んだ者も
       キリストの苦難による罪の赦しをいただいていない、
       ということ。
      〔また、キリストはパンとブドウ酒の形のもとに
       肉体的に臨在されるので、
       そこにおいて礼拝されなければならない、
       ということです。〕
     このようにミサは、根本的には、
       イエス・キリストの唯一の犠牲と苦難を否定しており、
      〔呪われるべき〕偶像礼拝に〔ほかなりません。〕
 
  今夜は、ハイデルベルク信仰問答問80と答を学びましょう。
  宗教改革の時代に、聖餐の理解について、プロテスタント教会とローマカトリック教会との間で大きな論争があったことを学びました。
  ハイデルベルク信仰問答問80と答は、主の晩餐と教皇のミサとの違いを教えています。この問答は、ローマカトリック教会が1545年にトリエント公会議を開き、1562年にプロテスタント教会の聖餐の教えを弾劾しました。ハイデルベルク信仰問答は、その翌年に作られました。そして、ローマカトリック教会の弾劾を聞いたゆえに、この問答の80と答が付け加えられました。教皇のミサを、ハイデルベルク信仰問答は、「いまいましい呪われた迷信」として、「〔呪われるべき〕偶像礼拝に〔ほかなりません〕」と弾劾しています。これは、プロテスタント教会の弾劾です。
  カトリック教会のミサに対して、プロテスタント教会が異議を申し立てるのは、ミサの犠牲の性格についてであります。
  そこでハイデルベルク信仰問答は、主の晩餐においてわたしたちが証しするキリストの犠牲について説明し、ミサの教えるキリストの犠牲について説明し、カトリック教会が行っているミサは、イエス・キリストの唯一の犠牲と苦難を否定した、神に呪われた偶像礼拝であると弾劾するのです。
  わたしたちの主の晩餐は、ただ一度のキリストの十字架の死と苦難によって、わたしたちの罪が赦されたことを、聖霊が保証してくださるのです。確かに、キリストは天におられます。しかし、聖霊を通してわたしたちのところに臨在し、信仰によってパンを食べ、ぶどう酒を飲むわたしたちを、聖霊はキリストに一つに結び付けてくださいます。こうしてわたしたちは、天にいますキリストがお望みになる礼拝をします。
  ところが、ローマカトリックが教えるミサは、次のようなものでした。キリストを象徴的に、血を見ないで、神に犠牲として今もミサにおいて献げます。それにより生きている者も死んだ者も共に教会の恵みの財産にあずかるのです。すなわち、生きている者は神に気に入られる存在になることを助け、死んだ者は煉獄の浄罪火から助けられます。こうしてキリストの唯一の犠牲と苦難を疑わしいものにしているのです。
  また、ローマカトリックは、化体説を唱え、キリストがミサにおいてパンとブドウ酒の形で肉体的に臨在され、ミサにおいて礼拝がなされなければならないと主張しました。
  それに対してハイデルベルク信仰問答は、はっきりとミサを否定し、キリストの犠牲はただ一度であり、反復されるものではなく、むしろ主の晩餐において永続的に証しされるものであることを教えています。それは、キリストの犠牲は、ただ一度十字架の上で完了し、わたしたちはすでに完全に罪を赦されているということです。そして、永遠の命がキリストの十字架の死によって基礎づけられていることを、主の晩餐はわたしたちに常に明らかにしているのです。
  最後にハイデルベルク信仰問答は、ローマカトリック教会のミサを、「教皇のミサ」と呼んでいますね。ローマカトリック教会の教えでは、有効なミサは叙階された司祭によってだけ執行されます。司祭は教皇の裁治権と管理権の下にあります。だから教皇のミサなのです。
  宗教改革者ルターは、95カ条の提題に教皇のミサと戦い、次のように述べています。「信仰の修練として教会の制度はかなり役に立つ。しかし、罪の赦しは絶対教会の制度によっては成し遂げられない」と。罪の赦しは、キリストの十字架によって成し遂げられるのであって、教会の設けた制度上の行為によって成し遂げられません。
  それゆえハイデルベルク信仰問答は、教皇のミサを厳しい言葉で弾劾したのです。
  現在、エキュメニカル運動が進み、カトリックとプとテスタント教会との間に対話がなされ、ミサと聖餐の溝を埋める試みがあります。しかし、プロテスタント教会の神学者たちが気付かされたことは、聖餐はわたしたちのものでも、教会のものでもなく、キリスト御自身のものであるということでした。キリスト御自身が聖餐の食卓にあらゆる国々の人々をお招きになるのです。

 

 

 ハイデルベルク信仰問答50       主の2014年1月15日
 聖書箇所:マタイによる福音書第9章9-13節(新約聖書P15)

 問81 どのような人が、主の食卓に来るべきですか。
 答   自分の罪のために自己を嫌悪しながらも、
       キリストの苦難と死とによってそれらが赦され、
       残る弱さも覆われることをなおも信じ、
       さらにまた、よりいっそう自分の信仰が強められ、
              自分の生活が正されることを
              切に求める人たちです。
     しかし、悔い改めない者や偽善者たちは、
              自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
 
  今夜は、ハイデルベルク信仰問答問81と答を学びましょう。
  ハイデルベルク信仰問答問81と答は、どのような人を、キリストは御自分の食卓に招かれたのかを問うています。
  キリストが食卓に招かれたのは、徴税人や罪人たちでした(マタイ9:9-13)。主イエスは、言われました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)。教会の「主の食卓」は、罪人を招きます。その罪人とは、キリストによって罪を赦された罪人です。キリスト者は、キリストの十字架によって罪を赦されましたが、なおこの世の生涯において罪人に留まり続けます。ですからハイデルベルク信仰問答は、わたしたちキリスト者が罪人に留まり続ける現実を、「自分の罪のために自己を嫌悪しながらも」と告白するのです。
  次にハイデルベルク信仰問答は、「信仰によって」キリスト者は、喜んで主の食卓に、キリストの招きにあずかることを勧めています。
  具体的にはキリスト者は、キリストの十字架のゆえに罪の赦しを信じて、主の食卓にあずかるようにと勧めます。
  「キリストの苦難と死とによってそれらが赦され、残る弱さも覆われることをなおも信じ」。聖餐にあずかるキリスト者は、そこでキリストの苦難と死に目を向けるのです。キリストがただ一度わたしたちの罪の身代わりに十字架の上で死なれたことに目を向けます。
    キリストの十字架を通して神の赦しは、キリスト者の全生涯における罪の赦しであります。ですから「残る弱さ」であるキリスト者の罪も、キリストの十字架によって覆われていることを信じて、キリストが招かれる教会の聖餐式にあずかるように、ハイデルベルク信仰問答は勧めています。
    さらにハイデルベルク信仰問答は、自分の罪に、信仰の弱さに悩み、苦しんでおり、それでも主イエスの弟子として生きたいと願う者は、キリストの招かれる聖餐にあずかるべきであると勧めています。
  「さらにまた、よりいっそう自分の信仰が強められ、自分の生活が正されることを、切に求める人たちです。」
  聖餐式において必要なのは、信仰の覚醒であります。自分の罪を知り、十字架のキリストに信頼し、罪の赦しの恵みに生きることのできる感謝であります。
  聖餐のたびに十字架のキリストを仰ぎ、神の赦しが自分の罪よりも大きいことを知り、神に信頼し、感謝する時、自分たちの信仰が強められ、自分たちの生活が正されます。
  キリストに愛され、罪を赦され、キリストに招かれたから徴税人マタイは、罪人からキリストの弟子へと人生を転換しました。わたしたちも同じです。キリストに愛され、罪を赦され、キリストの食卓へと招かれ、キリスト者の生活を歩み続けています。
 さらに主イエスはわたしたちに聖餐式において御国を約束してくださいます。キリストの者の地上の歩みは、主イエスが約束された御国への歩みです。「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)。
 それゆえにハイデルベルク信仰問答は、最後に「しかし、悔い改めない者たちや偽善者たちは、自分自身の裁きを飲み食いしている」と戒めています。
 「悔い改めない者や偽善者たち」とは、自分の罪をどうでもよいと思っている者たちのことです。十字架のキリストの罪の赦しを信じないで、キリストにより頼まない者たちです。彼らは、神の御前に自分たちの罪が裁かれることに全く関心を持っていません。ですから、終末の神の裁きの日に向けて、彼らは自らの裁きを、聖餐を通して定めているのです。
 ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに聖餐は、わたしたちの信仰を持ってあずかることなしには祝福とならず、呪いとなると戒めています。
  キリストの聖餐に招かれる者は、聖餐の意味を正しく理解し、自分の罪を悲しみ、キリストの十字架のゆえに神の罪の赦しを信じ、信仰を強められ、約束の御国を強く望む者です。
  弱く、疑い深い信仰者を、キリストは使徒トマスを招かれたように、招かれています。信仰を強めて、力づけるために、キリストは教会の聖餐式にわたしたちをお招きくださっています。

 

 

 

 ハイデルベルク信仰問答51       主の2014年1月22日
 聖書箇所:詩編第50篇16-23節(旧約聖書P884)

 問82 それでは、その信仰告白と生活によって
     不信仰と背信とを示している人々でも、
     この晩餐にあずかれるのですか。
 答   いいえ。
     なぜなら、それによって神の契約を侮辱し、
       御怒りを全会衆に招くことになるからです。
     それゆえ、キリストの教会は、
              キリストとその使徒たちの定めに従って、
              そのような人々をその生活が正されるまで、
       鍵の務めによって締め出す責任があります。
 
  今夜は、ハイデルベルク信仰問答問82と答を学びましょう。
  ハイデルベルク信仰問答問80-82と答は、どのような人がキリストの聖餐に招かれているかを問うています。
  キリストの聖餐に最初に招かれたのは、12弟子たちです(マタイ26:26-29、マルコ14:22-25、ルカ22:14-21)。ペンテコステ以後に初代教会において信者たちが招かれました(使徒言行録2:42、46)。そして使徒パウロが司式し、コリント教会の信者たちが聖餐に招かれました(Ⅰコリント11:23-26)。聖餐にあずかることができるのは、キリストの弟子、信者のみであります。
  答に「神の契約を侮辱し」と記してありますように、信仰者は通常、自らの信仰を神と教会との前で告白し、また誓約をし、洗礼を受けます。その洗礼を受けている者のみがキリストの聖餐に招かれます。ただし幼児洗礼者は、信仰告白をしていませんので、聖餐にあずかることはできません。
  次にハイデルベルク信仰問答は、信者の過去の信仰告白ではなく、今の現在の信仰を問うています。信者は、神と教会との前で信仰告白し、洗礼を受けました。ハイデルベルク信仰問答は、それで十分であると教えていません。むしろ、信者は、ふさわしい陪餐者であることを求められました(問81と答え)。
  信者は、常に信仰と罪の悔い改めを求められます。自分の罪を憎み、十字架のキリストによる罪の赦しに信頼する者こそ、ふさわしい陪餐者であります。
  使徒パウロは、コリント教会の信者たちに聖餐式にふさわしくあずかるように勧告し、実際に信者たちがふさわしくあずからなかったので、「自分自身に対する裁きを飲み食いしている。そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです」(Ⅰコリント11:29-30)と述べています。
  さらにハイデルベルク信仰問答は、洗礼を受けて信者になったが、今はその信仰を捨て、彼の生活において不信仰と背信を示している人々、すなわち、棄教した者たちも聖餐式にあずかれるのかと問うております(問82)。
  答は、断固として「いいえ」です。棄教した者が聖餐にあずかることは、神の契約を侮辱する行為であります。それは、神を辱める行為であります。それゆえにその者がふさわしくないままに聖餐にあずかり、神の御怒りの裁きを招くだけでなく、あずからせた教会全体に神の御怒りがくださります。
  神の契約は、公の場で、公の事柄としてなされています。旧約聖書において民が神の契約を破れば、契約を破った民だけではなく、イスラエルの全会衆がその罪の責任を負いました。同様にわたしたちが洗礼式において誓約しました、あの神の契約を破り、罪を悔い改めず聖餐にあずかるならば、その者だけでなく、わたしたちの教会全体が神を侮辱した者として、神の御怒りを受けるのであります。
  実際にコリント教会では、ふさわしくないままに聖餐式を施していましたので、神の裁きを招いて、病気になった者、死んだ者たちが大勢いました。
  それゆえハイデルベルク信仰問答は、キリスト教会が「キリストと使徒の定めに従い」、棄教した信者たちが信仰を正すまで、鍵の務めによって彼らを聖餐から締め出す責任があると教えています。
  ハイデルベルク信仰問答は、信仰(教理の面)と生活の両面から聖餐の交わりを純粋に保持し、教会を守ろうとしています。そのために聖礼典と教会戒規とを密接につなげています。
  ただし、ハイデルベルク信仰問答は、教会が鍵の務めを果たし、聖餐の交わりから不信者と不敬虔な者たちを締め出さなければならないと教えているのではありません。
  主の食卓に来るべき人について、問81に問うていますように、キリストの体なる教会の清さは、除名することで保持されません。キリストに招かれたわたしたちが自分たちの罪を悔い改め、十字架のキリストの罪の赦しを信じ、頼ることで保持されます。
  ですから教会が鍵の務めを果たすとは、信仰を弱めた者が自分の罪を悔い改め、十字架のキリストの罪の赦しを信じて、再び聖餐にあずかれるように導くことです。その者に信仰の訓練を施すことです。しかし、不信仰と不敬虔のゆえに自分で自分を教会から除名した者がいます。その人々を、教会は鍵の務めによって除名の手続きをとります。
  この除名もその人々の生活が正されるまでです。つまり、その人々が教会に戻り、礼拝においてキリストの福音を聞いて、心から自分の罪を悔い改めるならば、聖餐の交わりにその人々を復帰させなければなりません。
  最後にハイデルベルク信仰問答がわたしたちに教えている慰めと警告は、聖餐式を通してわたしたちは信仰によって天国の門が開かれ、不信仰によって天国の門が閉じられているという聖書の真理であります。そして、わたしたちは神の御前に真実に生きる生き方を問われているのです。生涯、神の御前に悔い改めて生きることです。
 

 

 ハイデルベルク信仰問答52       主の2014年1月29日
 聖書箇所:マタイによる福音書第16章16-19節(新約聖書P32)

 問83 鍵の務めとは何ですか。
 答   聖なる福音の説教とキリスト教的戒規のことです。
      これら二つによって、天国は信仰者たちには開かれ
        不信仰者たちには閉ざされるのです。
 
  今夜は、ハイデルベルク信仰問答問83と答を学びましょう。
  ハイデルベルク信仰問答問83-85と答は、「鍵の務めについて」問うています。
  「鍵」とは、天国を開き、また天国を閉じるものであります。鍵は、戸や門を開け閉めする道具です。
  主イエスは、ペトロに次のように約束されました。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:19)。
  主イエスは、「鍵の務め(鍵の権能)」を、「つなぐ」・「解く」と説明されています。「つなぐ」とは、神に禁止された事項であり、「解く」とは神に許された事項です。「つなぐ」・「解く」こが鍵の務めであります。
  さて、キリストは、「教えの権能」「統治の権能」「戒規の権能」を教会に授けられました。ですから「鍵の務め」は「教えの権能」「統治の権能」「戒規の権能」であります。キリストは、ペトロに教会で行使される鍵の務めが天国でも通用するようにすると約束されました。
  そして、キリストは、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と言われました。厳密に言えば、キリストはペトロに御自身の権威を一任されたのではありません。また牧師や長老たちに一任されたのでもありません。教会の頭であり、究極の権威者であるキリストが教会において鍵の務めをふるわれるとき、キリストの手先(道具)としてペトロと牧師と長老たちを用いられるのです。
  ハイデルベルク信仰問答は、具体的に二つを挙げています。「聖なる福音の説教」と「キリスト教的戒規」であります。
  「キリスト教的戒規」とは、正確には「キリスト教的な悔い改めの戒規」であり、言葉を言い換えると「牧会」のことであります。
  キリストは、今日教会において説教と牧会を通して鍵の務めを遂行されています。牧師と長老たちは、生けるキリストが教会において鍵の務めをふるわれる時、キリストの手先(道具)として用いられるのであります。
  それゆえ「鍵の務め」は、教会が勝手に、あるいは、牧師や長老たちが勝手に開け閉めできることではありません。
  ヨハネによる福音書第20章22-23節に復活のキリストは11弟子たちに次のように言われています。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
  「聖霊を受けなさい」の「受けなさい」は、聖餐式の時の「パンを取れ」の「取れ」と同じ言葉です。鍵の務めは、弟子たちがキリストの手先として道具として、遂行することですから、聖霊を祈り求め、キリストの霊である聖霊に導かれて行わなければなりません。なぜなら、11弟子たちとわたしたちには、人の罪を赦す権威がありません。罪を赦す権威をお持ちであるのは、父なる神とキリストであります。
  キリストが、牧師の説教をお用いになり、小会を通しての牧会をお用いになり、説教を聞いて、罪を悔いてキリストを信じる者に、そして教会の戒規に服する者に天国を開かれ、説教を聞いても、罪を認めず、キリストを信じない者に、そして教会の戒規に服さない者に天国を閉じられるのです。
  キリストは、牧師の説教と小会の戒規(牧会)を通して、キリストを信じ、服する者に罪を赦し、信ぜず、服さない者に罪が残るという形で、鍵の務めを行使されています。
  鍵の務めは、牧師や小会が教会員を支配するために用いることは許されません。ローマ教皇は、信徒を教会からの破門できるという権威によって、教会を支配しました。しかし、鍵の務めは、人を支配することではなく、人を御国に導くために、人が神との関係に導かれ、罪を悔い、キリストを信じて、キリストに服従して生きるために、用いるものであります。