ハイデルベルク信仰問答53       主の2014年2月5日
 聖書箇所:ヨハネによる福音書第20章19-23節(新約聖書P210)

 問84 聖なる福音の説教によって、
     天国はどのように開かれ閉ざされるのですか。
 答   次のようにです。すなわち、キリストの御命令によって、
        信仰者に対して誰にでも告知され
        明らかに証言されることは、
        彼らが福音の約束を
        まことの信仰をもって受け入れる度に、
        そのすべての罪が、キリストの功績のゆえに、
        神によって真実に赦されるということです。
      しかし、不信仰な者や偽善者たちすべてに告知され
        明らかに証言されることは、
        彼らが回心しない限り、
        神の御怒りと永遠の刑罰とが
        彼らに留まるということです。
      そのような福音の証言によって、
        神は両者をこの世と来るべき世において
        裁こうとなさるのです。
  問85 キリスト教的戒規によって
      天国はどのように開かれまた閉ざされるのですか。
  答   次のようにです。すなわち、キリストの御命令によって、
        キリスト者と言われながら
        非キリスト教的な教えまたは行いを為し、
        度重なる兄弟からの忠告の後にも
        その過ちまたは不道徳を離れない者は、
        教会または教会役員に通告されます。
      もしその訓戒にも従わない場合、
        教会役員によっては
        聖礼典の停止をもってキリスト者の会衆から、
        神御自身によっては
        キリストの御国から、彼らは締め出されます。
      しかし、彼らが真実な悔い改めを約束し
        またそれを示す時には、
        再びキリストとその教会の一部として
        受け入れられるのです。
 
  今夜は、ハイデルベルク信仰問答問84-85と答を学びましょう。
  ハイデルベルク信仰問答問84-85と答は、「鍵の務め」についての各論です。
  ハイデルベルク信仰問答は、「鍵の務め」について次のように教えました。「鍵の務め」は、2つあり、「聖なる福音の説教」と「キリスト教的戒規」であり、この二つによって信仰者に天国が開かれ、不信仰者に天国が閉じざれていると(問83と答)。
  ハイデルベルク信仰問答は、まず、問84と85と答に「鍵の務め」である「聖なる福音の説教」と「キリスト教的戒規」との共通性を教えています。
  問においては、「聖なる福音の説教」と「キリスト教的戒規」とは、「天国」を開閉するものであります。すなわち、キリストが「聖なる福音の説教」と「キリスト教的戒規」を鍵のように用いて天国の扉を開けたり閉めたりされます。
  キリストは、「キリストの御命令によって」、この二つの鍵を、教会を通して遂行されます(マタイ28:19-20、18:15-17)。
  キリストがこの二つの鍵の務めを使用される方法は違います。「聖なる福音の説教」では、「聞く」ことが優先されます。説教を聞くか聞かないかで、天国が開閉されます。すなわち、信仰者に対して天国が開かれ、不信仰者に対して天国が閉じられます。
  「キリスト教的戒規」では、罪を悔い改めるか否かで、天国は開閉されます。罪を悔い改める者に対して天国が開かれ、悔い改めない者に対して天国が閉ざされます。
  ハイデルベルク信仰問答は、キリストの御命令どおりの説教をすることが、天国をキリストが開かれる、第1の重要事であることを教えています。すなわち、すべての信者に対して「福音の約束」を説教することです。「福音の約束」とは、問答の66の答に定義された「十字架上で成就されたキリストの唯一の犠牲のゆえに、神が、恵みによって、罪の赦しと永遠の命とを、わたしたちに注いでくださること」です。福音の説教がこの「福音の約束」を語ることに対して信仰者が「アーメン」と言って受け入れるならば、キリストのゆえに罪の赦しと永遠の命が保証され、天国が信仰者に開かれます。反対に福音の説教を拒む不信仰者と偽善者は、キリスト御自身を拒むのですから、彼らに罪の赦しと永遠の命はなく、天国は閉ざされます。このように福音の説教は、聞く者に対して、この世と来るべき世の裁きとなります。
  「キリスト教的戒規」は、具体的には「聖餐の停止をもって除外する」という仕方で、罪を悔い改める者には、もう一度聖餐にあずかれるように導いて、天国が開かれ、罪を悔いない者は教会の交わりを断たれるという仕方で、天国が閉じざれます。
  そのプロセスは、キリスト者が非キリスト者的な教えと行いをしていれば、兄弟が忠告します。兄弟の忠告を何度も聞かず、罪を悔い改めなければ、兄弟は小会に知らせます。小会の訓戒に対して罪を悔い改めなければ、小会は罪を悔い改めない者に対して、聖餐を停止します。それによって罪を悔い改めない者は、神によってキリストとの交わりから除外され、天国を閉ざされます。
  ハイデルベルク信仰問答は、福音の説教を「明らかに証言されること」と定義し、信仰者と不信仰者が共に聞くことを求め、さらにキリスト教的戒規も、罪を悔い改めない者に聖餐を停止することに留めています。洗礼の場合は、罪を悔い改めない者は自分の子供に洗礼を施すことができません。
  しかし、ハイデルベルク信仰問答は、罪を悔い改めない者たちを、カトリック教会のように破門することはしません。福音を聞く機会を常に与え、罪の悔い改めを求めています。

 

ハイデルベルク信仰問答54       主の2014年2月12日
 聖書箇所:ペトロの手紙一第2章3-10節(新約聖書P429-430)

 問86 わたしたちが自分の悲惨さから、
     自分のいかなる功績にもよらず、
     恵みによりキリストを通して救われているのならば、
     なぜわたしたちは善い行いをしなければならないのですか。
 答   なぜなら、キリストは、
        その血によってわたしたちを贖われた後に、
        その聖霊によってわたしたちを御自身のかたちへと
        生まれ変わらせてもくださるからです。
      それは、わたしたちがその恵みに対して
        全生活にわたって神に感謝を表し、
        この方がわたしたちによって賛美されるためです。
      さらに、わたしたちが自分の信仰を
        その実によって自ら確かめ、
        わたしたちの敬虔な歩みによって、
        わたしたちの隣人をもキリストに導くためです。
 
  今夜から、ハイデルベルク信仰問答問は第3部「感謝について」学びます。ハイデルベルク信仰問答問86と答よりキリスト者の「感謝の生活」を扱っています。
  ハイデルベルク信仰問答問86は、ハイデルベルク信仰問答の第一部(問3-11)と第2部(問12-85)を要約し、キリスト者にとっての善き行い(善き業)とは何かを問うています。
  第一部の「人間の悲惨さについて」(問3-11と答)の箇所を学びましたとき、わたしたちは人の罪とその悲惨さを知らされました。人は自分の罪と刑罰の重荷のゆえに、キリストなしには人生は絶望でしかないという現実を学びました。第2部の「人間の救いについて」(問12-85と答)の箇所では、救い主イエス・キリストの十字架の血の犠牲による贖いを示されました。その救いの恵みを信じることで、わたしたちは罪を赦され、永遠の命を与えられた喜びを学びました。
  ハイデルベルク信仰問答は、問86の答の中でキリスト者の善き行いについて、次のように定義しています。「それは、わたしたちがその恵みに対して全生活にわたって神に感謝を表し、この方がわたしたちによって賛美されるためです。」
  キリスト者の感謝の生活は、全生涯にわたるものです。使徒パウロは、ローマ教会のキリスト者たちに、次のように感謝の生活を勧めています。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12:1)。
  ハイデルベルク信仰問答がわたしたちに示す「善き行い」とは、パウロが言っています所のキリストに救われた自分自身を、感謝のしるしとして、主なる神に献げる生活のことであります。
  ハイデルベルク信仰問答がわたしたちに示す「感謝の生活」は、キリスト者の聖化の生活であります。ハイデルベルク信仰問答は、問において「なぜ、わたしたちは善い行いをしなければならないのですか」と質問し、答において「なぜなら、キリストは、その血によってわたしたちを贖われた後に、その聖霊によってわたしたちを御自身のかたちへと生まれ変わらせてくださるからです。」と答えています。
  この問答から感謝の生活が、次のようなものであると言えます。キリストがわたしたちに聖霊を遣わされ、聖霊が聖化のお働きにおいて結ばれる実を、わたしたちのものとしてくださることであります。
  使徒パウロは、ガラテヤ教会のキリスト者たちに次のように聖霊が結ばれる実を教えています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5:22-23)。
  ですから、キリスト者の感謝の生活は、聖霊の導きによるキリスト者の生活であり、それは、具体的には主に仕える奉仕、すなわち神礼拝と神賛美の生活であります。
  ですから、使徒パウロは、コリント教会のキリスト者たちに次のように感謝の生活を勧めています。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたは自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」
  以上の事から分かりますように、キリスト者の感謝の生活は、聖霊がわたしたちの心で働くことから生まれます。聖霊は、決して御自身でわたしたちに直接命令し、わたしたちを支配し、強制されることはありません。聖霊が聖書の御言葉と共に、わたしたちに働き掛けられると、わたしたちはあたかもキリスト御自身がわたしたちに命じられたように、喜んで聞き従う形でキリスト者としての行動をするのです。
  ですからハイデルベルク信仰問答は、答においてわたしたちの善き行いを、次のように教えているのです。「さらに、わたしたちが自分の信仰を、その実によって確かめ、わたしたちの敬虔な歩みによってわたしたちの隣人をもキリストに導くためです。」
  ハイデルベルク信仰問答は、キリスト者の感謝の生活を、聖霊の導きであると確信しています。使徒パウロがガラテヤ教会のキリスト者たちに「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(ガラテヤ5:6)と言っている「愛によって働く信仰」から、感謝の生活が生まれます。それを、ハイデルベルク信仰問答は、「わたしたちの敬虔な生活」と言っています。具体的には、神を愛し、隣人を愛する生活であります。
  使徒パウロは、ローマ教会のキリスト者たちに「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストの仕える人は、神に喜ばれ、人に信頼されます。」と述べています。
  ハイデルベルク信仰問答は、パウロの御言葉に基づいてわたしたちに感謝の生活について次のことを約束しています。キリストがわたしたちに遣わされた聖霊によって、わたしたちとわたしたちの人生が変えられたと確信しているキリスト者は、自分たちがキリストの所有であることを認め、聖霊と御言葉に導かれて神を礼拝し、神に仕え、隣人を愛し、敬虔な人生を生きるでしょう。そしてその全生涯にわたって神は、わたしたちを愛し、わたしたちは隣人に信頼されて生きることができるでしょうと。

 

 

 

 ハイデルベルク信仰問答55       主の2014年2月19日
 聖書箇所:マタイによる福音書第19章16-22節(新約聖書P37)

 問87 それでは、感謝も悔い改めもない歩みから
     神へと立ち返らない人々は、
     祝福されることができないのですか。
 答   決してできません。
      なぜなら、聖書がこう語っているとおりだからです。
        「みだらな者、偶像を礼拝する者、
         姦通する者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、
         人を悪く言う者、人の物を奪う者は、
         決して神の国を受け継ぐことができません。」

  今夜は、ハイデルベルク信仰問答問87と答を学びましょう。
 先週よりハイデルベルク信仰問答の問86-129と答を学び始めました。第3部に入りました。テーマは「感謝について」であります。
  ハイデルベルク信仰問答は、第2部で「人間の救いについて」教えました。神に救われた者は、彼の全生活にわたって神に対する感謝の生活をするでしょう。
  それをハイデルベルク信仰問答は、次のように告白しました。「わたしたちがその恵みに対して全生活にわたって神に感謝を表し、この方がわたしたちによって賛美されるためです。」
  キリスト者の善き業とは、感謝の生活であり、その生活の中心は礼拝であります。すなわち、神の救いの恵みに対する感謝の生活が、キリスト者の善き業であり、それは礼拝を中心としたキリスト者の全生活において神を賛美することであります。
  さらにハイデルベルク信仰問答は、キリスト者の感謝の生活は、聖書の原則に従ってなされることを教えています。すなわち、神の律法とキリストの教えに従順に従うことによってであります。それゆえにハイデルベルク信仰問答は、問92-115と答において神の律法である十戒を解説し、問116-129と答においてキリストが弟子たちに教えられた主の祈りを解説しています。
  問86と答においてキリスト者の善き業を、次のように告白しています。「わたしたちが自分の信仰をその実によって自ら確かめ、わたしの敬虔な歩みによってわたしたちの隣人をもキリストに導くためです。」
  ハイデルベルク信仰問答は、キリスト者を祭司と理解しています。祭司は、自らの聖によってイスラエルの民を主なる神にとりなしました(レビ記22-23章)。ハイデルベルク信仰問答は、キリスト者が祭司のように自らの敬虔な生活によって隣人をキリストに導くことを、キリスト者の善き業と理解しています。
  キリスト者の内に聖霊を通してキリストが宿られ、わたしたちを通してキリストは善き業をなさいます。それをキリスト者は信じています。だから、キリストは、「すべて良い木は良い実を結び」(マタイ7:17)と言われ、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(ヨハネ15:4)と言われました。キリスト者の善き業は、キリストと結びついた業であり、確かめることができると、キリスト御自身が証しされています。
  それゆえにハイデルベルク信仰問答は、問87と答において名ばかりの信者はどうなるのかと、問うています。
  具体的には、「感謝も悔い改めもない歩みから神へと立ち返らない人々は、祝福されることができないのですか」という問いであります。
  キリスト者であるのに「不敬虔な感謝のない生活を続けている者」が教会の中にいます。問84の答の中に「不信仰な者や偽善者たちすべて」とありますね。共に教会の中で説教を聞いています。しかし、彼らは、福音の恵みに感謝も罪の悔い改めもしません。神に立ち返らず、罪ある生活を改めないのです。
  このような不敬虔な者を、不信仰者、偽善者たちを、神は祝福されるだろうかと、ハイデルベルク信仰問答は問うています。
  ハイデルベルク信仰問答の答は明白です。「決してできません。」強い否定であります。
  その理由は、聖書が証言しているからです。「みだら者、偶像を礼拝する者、姦通する者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。」(Ⅰコリント6:9-10)
  使徒パウロは、コリント教会の兄弟たちに神の国を受け継ぐことのできない者たちのリストを挙げています。彼らは、コリント教会の信者ですが、不信仰者であり、偽善者であり、パウロの説教を聞きながら、聖霊を拒む者たちであります。
  真実のキリスト者は、洗礼時にキリストより聖霊の賜物を受けます。代表的な賜物が信仰であります。聖霊の賜物を与えられ、キリストを信じると共に、自分の罪を憎み、罪と戦い、何とか罪から離れようとします。主イエスは、罪からお救いになられた者たちに、「もう二度と罪を犯してはならない」と戒められました。
  ハイデルベルク信仰問答が、「感謝も悔い改めもない歩みから神へ立ち返らない人々に神の祝福は決してない」と強く否定していますのは、彼らが聖霊を拒み、十字架のキリストを否定しているからであります。
  問87と答も、キリスト者の善き業について教えています。キリスト者にとって善とは、何でしょうか。金持ちの青年が主イエスに「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」と質問しました。主イエスは、青年に律法に従うように命じられました。青年は、主イエスに「わたしは幼い時より律法を守っています。他に何が必要でしょうか」と質問しました。主イエスは、青年に「財産を貧しい人々に施し、わたしに従え」と命じられました(マタイ19:16-22)。
  この主イエスと金持ちの青年の問答から、わたしたちは善を理解します。それは、キリストに一致し、教えられた律法に服従し、心から神を賛美し、歩むことであります。

 

 

 

 

 ハイデルベルク信仰問答56       主の2014年2月26日
 聖書箇所:ヨハネによる福音書第3章1-10節(新約聖書P37)

 問88 人間のまことの悔い改めまたは回心は、
     いくつのことから成っていますか。
 答   二つのことです。
      すなわち、古い人の死滅と新しい人の復活です。
  問89 古い人の死滅とは何ですか。
      心から罪を嘆き、
        またそれをますます憎み避けるようになる、
        ということです。
 
  今夜は、ハイデルベルク信仰問答問88と89と答を学びましょう。
 ハイデルベルク信仰問答にとって「信仰」は、「善き行い」であり、「善き行い」は「信仰」の実践であります。「善い行い」は、「信仰」に含まれ、「信仰」から切り離すことはできません。それを、主イエスは「信仰」と「善き行い」の関係を木と枝にたとえて、「すべて良い木は良い実を結び」(マタイ7:17)と言われました。
 またハイデルベルク信仰問答にとって「義認」は単なる法廷的用語ではありません。もっと包括的であり、人間の悔い改めと回心、すなわち、聖化と善い行いを含んでいます。
 ですからハイデルベルク信仰問答は、問86の答において「わたしたちが自分の信仰を その実によって自ら確かめ」と告白できるのです。
  そして、ハイデルベルク信仰問答にとって「わたしたちの敬虔な歩み」は、「人間のまことの悔い改めまたは回心」から始まるのであります。
  ハイデルベルク信仰問答は、問86の答において「なぜなら、キリストは、その血によってわたしたちを贖われた後に、その聖霊によってわたしたちを御自身のかたちへと生まれ変わらせてもくださるからです。」と告白していますように、キリストの十字架の血の償いと聖霊のお働きによりわたしたち人間の内にまことの悔い改めと回心が生まれるのであります。
  ハイデルベルク信仰問答は、問88-91と答において悔い改めと善い行いについて教えております。今夜は、問88-89と答の「悔い改めまたは回心」について学びましょう。
  ハイデルベルク信仰問答は、まことの信仰によって救い主を信じた者は皆、聖霊のお働きによって、新しい誕生と生命を与えられることを教えています。使徒パウロも「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」と語っています(Ⅱコリント5:17)。
  このパウロの御言葉に従って、ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちの聖霊による新しい誕生、すなわち、悔い改めまたは回心が二つのことより成り立っていることを教えています。
それは、「古い人の死滅」と「新しい人の復活」であります。
  使徒パウロは、「古い人の死滅」と「新しい人の復活」について次のように証言しています。「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(エフェソ4:22-24)、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々に新たにされて、真の知識に達するのです。」(コロサイ3:9-10)。
  ハイデルベルク信仰問答にとって「感謝の生活」は、「悔い改めまたは回心」の生活であります。聖霊によって新しい人に生まれ変わらされた生活であります。この恵みを「新生」と呼びます。神からの恵みの賜物としての奇跡的誕生であり、1回限りの出来事であります。
  「新生」によってわたしたちに生じた新しい命は、わたしたちを常に神に向けて生かし続けます。これを、わたしたちは「聖化」と呼んでいます。
  聖化は、キリスト者の成長の過程であります。この世においての聖化は、日々罪と戦う生活であります。これが、わたしたちの信仰生活であります。
  ハイデルベルク信仰問答問89と答は、感謝の生活の「古い人の死滅」の面を教えています。日々罪と戦うキリスト者の生活であります。「心から罪を嘆き、またそれをますます憎み避けるようになる」ことであります。
  吉田訳が「悔い改めまたは回心」と訳したのは、悔い改めが人間の後悔のことではないからです。後悔は失敗して悔いることです。それは、自分のことにすぎません。「悔い改めまたは回心」は、「神に対する悔い改め」(使徒言行録20:21)であります。ラテン語のハイデルベルク信仰問答は、「まことの悔い改めまたは回心」が「神に向けての悔い改めまたは回心」となっているそうです。「神に向けての悔い改めまたは回心」は、「古い人の死滅」と「新しい人の復活」という面があります。
  「古い人の死滅」ということは、神に対して自分の罪を心から嘆くことであります。そして、自分の罪を憎み、罪から離れ、罪を避けることであります。
  「古い人の死滅」の例として有名なのが、使徒パウロの罪の嘆きであります。パウロは、次のように自分の罪を嘆き、罪と戦っていることを告白しました。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善を行わず、望まない悪を行ってい
  る。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ローマ7:18-20)、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマ7:24)。
  キリスト者は、罪を赦された罪人であります。パウロ同様にキリスト者がこの世に生きる限り完全聖化はありません。罪との戦いから解放されることはありません。「古い人の死滅」は繰り返されます。
  ですから、ハイデルベルク信仰問答は、洗礼という礼典の重要性を教えて来たのであります。キリストの十字架の血によってわたしたちの罪は、過去の罪だけでなく、現在の罪と将来の罪をすべて、確実に洗っていただけることを、洗礼がわたしたちに保証のしるしとなっています(問69-73と答)。
  「古い人の死滅」は、わたしたちの側の悔い改め、回心であります。つまり、わたしたちの側が神に立ち帰ることであります。放蕩息子のように自分の罪を嘆き、父なる神に立ち帰ることであります。キリスト者は、十字架のキリストと共に罪に死ぬことであります(ローマ6:6)。