ハイデルベルク信仰問答81         主の2014年9月3日
 聖書箇所:ヨハネによる福音書第15章18-25節(新約聖書P199)

 問127 第六の願いは何ですか。
 答   「われらをこころみにあわせず、
        悪より救い出したまえ」です。
     すなわち、
     わたしたちは自分自身あまりに弱く、
       ほんの一時立っていることさえできません。
       その上わたしたちの恐ろしい敵である
       悪魔やこの世、また自分自身の肉が、
       絶え間なく攻撃をしかけてまいります。
     ですから、どうかあなたの聖霊の力によって
       わたしたちを保ち、強めてくださり、
       わたしたちがそれらに激しく抵抗し、
       この霊的戦いに敗れることなく、
       ついには完全な勝利を収められるようにしてください、
       ということです。

 今夜は、ハイデルベルク信仰問答問127と答を学びましょう。主の祈りの第6の願いは、「試練と誘惑からの救い」を祈っています。
 わたしたちキリスト者は、「この世」、すなわち、神に敵対する世界に、神に属する者、キリストの所有として生きています。ですから、主イエスは、12弟子たちに次のように言われました。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」(ヨハネ15:18)と。それゆえに主の祈りの第6の願いは、この世に生きるキリスト者が等しく祈るべきものです。
 「こころみ」は、二つの意味があります。良い意味と悪い意味です。良い意味は、「試練」です。神がわたしたちに神への忠誠と従順をためされます。族長アブラハムに、神がイサクをモリヤの山で犠牲としてささげるように命じられました。主なる神は、アブラハムの信仰をためされました(創世記22:1-19)。悪い意味は、「悪に陥る誘惑」であります。創世記3章で蛇がアダムの妻エバを誘惑し、罪を犯させました。あるいは、新約聖書のマタイによる福音書4章で主イエスは、荒野で悪魔の誘惑を受けられました。
 「悪」も2通りの意味があります。文字通りの「悪」と「悪魔、悪しき者」であります。「悪」は「悪魔」から出ています(ヨハネ6:44)。だから、主イエスは「悪魔、悪しき者」から救い出してくださいと祈るように教えられました。
 ですから、ハイデルベルク信仰問答は、この第6の願いから次の二つのことを教えています。ハイデルベルク信仰問答は、神の全能性とわたしたちの弱さです。ハイデルベルク信仰問答は、次のようにわたしたちの弱さを告白しています。「わたしたちは自分自身あまりに弱く、ほんの一時立っていることさえできません。」ゲツセマネの園で主イエスは、3人の弟子たちに目を覚まして、共に祈るようにお命じになりましたが、弟子たちは一時も目を覚まして祈ることはできませんでした。
  また、わたしたちは自分の能力を越えた試練に耐えることができません。悪魔やこの世の迫害、そしてわたしたちの心の中の肉欲と自力で戦うことはできません。使徒パウロは、その困難さを、次のように告白しました。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7:15)。ユダは、悪魔の誘惑に負け、銀貨30枚で主イエスを裏切りました。ペトロと他の弟子たちも、ユダヤの官憲の迫害を恐れて、主イエスを見捨てて逃げました。
 同時にハイデルベルク信仰問答は、神の全能性を信じています。天地万物を創造し、支配されておられる神の全能の御力に信頼を寄せています。神は、全能の御力により試みの中で、今にも墜落し、神から離れそうなわたしたちをお守りくださいます。
 それを、ハイデルベルク信仰問答は、「あなたの聖霊の力によって」と表現しています。第6の願いは、この「聖霊の御力によってわたしたちを支え、力強くしてください。悪魔との戦いに、この世の迫害に、わたしたちが聖霊の御力に頼って抵抗し、信仰の戦いに敗れることなく、最終的に勝利をお与え下さい」と祈ることであると、ハイデルベルク信仰問答はわたしたちに教えています。
 主イエスは、わたしたちに聖霊をお与えくださり、わたしたちと一体となり、どんな困難な中でもわたしたちを守り、聖霊と御言葉によって強くし、この世における信仰の戦いに勝利できるようにお導きくださいます。主イエスは、12弟子たちに次のようにお約束くださいました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)と。復活の主イエスは、悪魔と罪と死に勝利されました。そして、終わりの日に再臨されて、わたしたちを永遠の命によみがえらせてくださいます。この最終的勝利を目指して、わたしたちは、「われらをこころみにあわせず、悪よりすく出したまえ」と祈り続けようではありませんか。



 ハイデルベルク信仰問答82         主の2014年9月10日
 聖書箇所:歴代誌上第29章10-13節(旧約聖書P669)

 問128 あなたはこの祈りを、どのように結びますか。
 答   「国とちからと栄えとは、
        限りなくなんじのものなればなり」
              というようにです。
     すなわち、
     わたしたちがこれらすべてのことをあなたに願うのは、
       あなたこそわたしたちの王、
       またすべてのことに力ある方として、
       すべての良きものをわたしたちに与えようと欲し、
       またそれがおできになるからであり、
     そうして、わたしたちではなく、あなたの聖なる御名が、
       永遠に讃美されるためなのです。
 問129 「アーメン」という言葉は、何を意味していますか。
 答    「アーメン」とは、
       それが真実であり確実である、ということです。
     なぜなら、これらのことを神に願い求めていると、
       わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、
       わたしの祈りはこの方に聞かれているからです。

 今夜で、ハイデルベルク信仰問答の学びは終わります。問128と129と答を学びましょう。主の祈りの結びの祈りと「アーメン」について学びましょう。
 主の祈りは、「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン」で締めくくられています。
 この言葉は、マタイによる福音書6章とルカによる福音書11章で主イエスが12弟子たちに教えられた「主の祈り」にはありません。ですから、カトリック教会は、主の祈りを祈ります時、この言葉を祈りません。
 ところが、プロテスタント教会は、初代キリスト教会が教会の祈祷文として主の祈りを祈ります時、この結びの言葉を入れて、「主の祈り」を祈りました伝統を採用しました。
 その理由は、主の祈りが「御名を崇めさせたまえ」という祈りで始まりますので、祈りの結びの言葉として、「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン」という言葉をふさわしいと考えたのでしょう。
 ハイデルベルク信仰問答は、この結びの祈りの言葉で、わたしたちキリスト者がこの主の祈りを主なる神に向けて祈り、願うことがどんなにふさわしいかを教えています。
なぜなら、主なる神は「わたしたち王」で、神のみ国の王です。「すべてのことに力ある方」、すなわち、創造された万物を意のままに支配される全能者です。「すべての良きものをわたしたちに与えようと欲し」と言われているように、わたしたち神の子にすべての良きものをお与えくださる慈愛の父であります。主イエスが父親は、自分の子に良いものを与えるように、慈愛の父なる神は神の子のわたしたちに良きものをお与えになることができます(マタイ7:11)。
そして、ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちが「主の祈り」を祈る目的を次のように記しています。「そうして、わたしたちではなく、あなたの聖なる御名が、永遠に讃美されるためなのです」と。
使徒パウロは、「すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです」(ローマ10:12)と証ししています。そして、主イエス御自身も12弟子たちに「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる」(ヨハネ14:13)とお約束くださいました。
今も礼拝の中で主の祈りがなされるのは、「神の御名が永遠に讃美される」ためであり、主なる神は主の祈りを唱える者を救われるだけでなく、彼らが主イエスの御名で祈るすべてのものを、慈悲なる父としてお与えくださることの証しであります。だから、わたしたちは、礼拝ごとに主なる神に感謝し、栄光ある神の御名を賛美するのです。
問129と答の「アーメン」の意味とは何かを答えて、ハイデルベルク信仰問答は、閉じられています。「アーメン」は主の祈りの結びであり、ハイデルベルク信仰問答の結びでもあります。「アーメン」とは、「それが真実であり確実である、ということです。」わたしたちの祈りによる願いの真実さを示す言葉であり、祈りが主なる神に聞かれる確かさを告白する言葉でもあります。
礼拝の中で主の祈りを唱えていると、「わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているから」です。預言者イザヤが証しするとおりです。「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え まだ語りかけている間に、聞き届ける」(イザヤ65:24)。使徒パウロも、次のように証しします。「神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となったからです。それでわたしたちは神をたたえるため、この方を通して『アーメン』と唱えます。」(Ⅱコリント1:21)。
キリストだけがわたしたちの救いを実現し、わたしたちの祈りを実現することがおできになります。この確かさの中に生きるのが、教会の礼拝であります。