ハイデルベルク信仰問答65       主の2014年5月7日
 聖書箇所:出エジプト記第20章13節(旧約聖書P126)、マタイによる福音書第5章21-26節(新約聖書P7)

 問105 第六戒で、神は何を望んでおられますか。
 答    わたしが、思いにより、言葉や態度により、
         ましてや行為によって、わたしの隣人を、
         自分自らまたは他人を通して、
         そしったり、憎んだり、侮辱したり、
         殺してはならないこと。
       かえってあらゆる復讐心を捨て去ること。
       さらに、自分自身を傷つけたり、
         自ら危険を冒すべきではない、ということです。
       そういうわけで、権威者もまた、
         殺人を防ぐために剣を帯びているのです。
 
  今夜は、ハイデルベルク信仰問答問105と答を学びましょう。十戒の第六戒の学びです。殺人を禁じる戒めです。
  この戒めは、出エジプト記20章13節に記されています。「殺してはならない。」申命記第5章17節にも同様に記されています。
  ハイデルベルク信仰問答にとって、第六戒は、神のわたしに対する命令であり、戒めです。ハイデルベルク信仰問答は、わたしが隣人に対してしてはならないことを教えているのです。
  ハイデルベルク信仰問答にとって「わたし」は、神の共同体の「わたしたち」の中の「わたし」です。主なる神は、神の民一人一人に隣人を愛するようにお命じになっています。ですから、神の民である「わたし」は、人を殺すようなことをしてはならないだけでなく、隣人を心で憎み、口に出して侮辱することも禁じられているのです。
  ハイデルベルク信仰問答は、わたしに問105において、「第六戒で神は何を望んでおられますか」と質問しています。第六戒は、「殺してはならない」という、主なる神のとても短い戒めです。殺人禁止の重要な戒めです。殺人は戦争による大量殺人から自死(自殺)に至るまで、みな憎むべき罪であります。なぜなら、人間は神の像に造られているからです。主なる神は、人の血を流す者を厳しく罰せられます(創世記9:6)。命は、神から与えられたものです。何者によっても傷つけられ、奪われることは許されません。主なる神は命の主権者であり、賦与者であり、命を与え、命を奪うことは主なる神にのみ属することであります。
  それだけでありません。さらに主イエスは殺人の行為だけでなく、「思いや言葉、態度」により隣人を傷つけ、憎み、侮辱することも、殺人と同罪であると教えられました。それゆえにハイデルベルク信仰問答は、第六戒を「わたしが、思いにより、言葉や態度により、ましてや行為によって、自分自らまたは他人を通して、そしったり、憎んだり、侮辱したり、殺してはならないこと」と定義しました。明白な殺人を禁止するだけではなく、わたしたちの心や態度でもって犯すすべての「嫉妬、憎悪、怒り、復讐、侮辱」を禁じています。
 ハイデルベルク信仰問答は、第六戒を定義するだけでなく、わたしたちが積極的に守るように3つのことを命じています。
 第1は、わたしたちが「あらゆる復讐心を捨て去ること」です。第2は、「自分を傷つけること」です。第3は「自ら危険を冒すべきではない」ことです。
 ハイデルベルク信仰問答は、第六戒を、主イエスが弟子たちに山上で教えられたマタイによる福音書の第5章21-26節の御言葉に基づいて理解しています。隣人とは、まず自分を含めた神の共同体の兄弟姉妹です。主イエスが弟子たちに「あなたの兄弟」に向かって憎んだり、言葉で「バカ」と侮蔑してはならないとお命じになり、破る者は人殺しとして神の裁きを受けると教えられました。
 ハイデルベルク信仰問答から教えられる第六戒の精神は、「あなたと同じように隣人を愛せよ」という神の御言葉であります。ですから、わたしたちは、兄弟姉妹に対してあらゆる復讐心を捨て去り、また、自分を愛さなければなりません。わたしは、神に命を創造され、キリストの十字架によって永遠の命を与えられた神の子です。決して自分を傷つけ、自死することは許されません。今年の連休は、雪が多くて、登山者の遭難が多くありました。わたしたちは、無謀な計画によって自分の命と隣人の命を危険にさらすべきではありません。
 現代は、科学技術の向上により医療が進み、聖書と教会の信条で解決できない問題が起こっています。安楽死、妊娠中絶、核や原発事故による人類の命の危険の問題、学校と職場のいじめの問題等です。他にもいろいろ問題があり、聖書から直接に答を導きだすことはできません。
  しかし、聖書とハイデルベルク信仰問答は、第六戒を通して神が創造し、賦与された命の尊厳を守ることを命じ、教えています。
  わたしたちは、神より与えられた命を守るという責任から、今日の命にかかわる倫理的問題を考えることを求められているのではないでしょうか。

 

 

 

 

 ハイデルベルク信仰問答66       主の2014年5月14日
 聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙第5章19-21節(新約聖書P350)、マタイによる福音書第5章3-12節(新約聖書P6)

 問106 しかし、この戒めは、殺すことについてだけ語っているのではありませんか。
 答    神が、殺人の禁止を通して、
         わたしたちに教えようとしておられるのは、
         御自身が、ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心のような
         殺人の根を憎んでおられること。
       またすべてそのようなことは、
         この方の前では一種の隠れた殺人である、
         ということです。
  問107 しかし、わたしたちが自分の隣人を
       そのようにして殺さなければ、それで十分なのですか。
  答    いいえ。
       神はそこにおいて、
         ねたみ、憎しみ、怒りを断罪しておられるのですから、
         この方がわたしたちに求めておられるのは、
         わたしたちが自分の隣人を自分自身のように愛し、
         忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を示し、
         その人への危害をできうる限り防ぎ、
         わたしたちの敵に対してさえ善を行う、
         ということなのです。
 
  今夜は、ハイデルベルク信仰問答問106と107と答を学びましょう。ハイデルベルク信仰問答の問105より十戒の第六戒を学んでいます。
  この戒めは、出エジプト記20章13節と申命記第5章17節に記されていますように、殺人を禁じる戒めであります。
  ハイデルベルク信仰問答の問106と答は、第六戒の殺人の禁止を通して、神がわたしたちに「殺人の根を憎んでおられること」を教えていると指摘しています。
  「殺人の根」とは、「ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心」であります。ハイデルベルク信仰問答は、「殺人の根」を、「この方の前では一種の隠れた殺人である」と断罪しています。「ねたみ、怒り、復讐心」は、人の心の中の問題であります。心の中のことは、隣人に隠された事柄であります。
  ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに問106の答において、神はわたしたちが心の中に「殺人の根」を持ち、すなわち、隣人の目には隠された一種の殺人を心の中に持ち、それを実行に移すことを憎まれると教えています。
  実例を挙げれば、創世記の第4章に人間の最初の殺人、兄のカインが弟のアベルを殺した事件を記しています。主なる神への献げ物のことで、兄のカインは、心の中で弟のアベルにねたみと怒りを持ちました。主なる神は、カインに心の中のねたみと怒りをおさめるように警告されました。カインは、主なる神の忠告を聞かないで、アベルを野原に誘い出して殺しました。
  「殺人の根」は、「肉の業」であります。使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙5章19-21節に「肉の業」を列挙し、「敵意、争い、そねみ、怒り、ねたみ」等を挙げて、「このようなことを行う者は、神の国を継ぐことはできません」と断罪しています。
  「復讐心」は、人間の権限を越えています。復讐は神にのみ許された権限です(創世記9:5、ローマ12:19)。わたしたちが隣人に復讐心を持ち、隣人に復讐を実行すれば、神の権利を侵害し、神の怒りによってわたしたちは裁かれます。
  主イエス御自身がわたしたちに隣人に対して腹を立てるなと命じられました。隣人を心の中で怒る者は殺人者と同様であると宣告されました(マタイ5:21-26)。
  ハイデルベルク信仰問答問107と答は、どうしてわたしたちキリスト者はこの世に存在しているのか、と問うています。
  質問は単純です。「わたしたちは、隣人を殺さなければよいのですか。」答も単純で、一言「いいえ」です。後は、その説明であります。そしてその説明が、わたしたちキリスト者がこの世に生きている理由です。キリスト者は、神を愛し、隣人を愛するために生きています。
  神は、主イエスを通して、わたしたちの心の中の「ねたみ、怒り、復讐心」を断罪されました。それは、主なる神がわたしたちに隣人愛を求めておられるからです。「心の中で兄弟を憎んではならない。復讐してはならない。自分を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:17-18)。主イエスも山上の説教において弟子たちに「柔和、義、憐れみ、寛容、平和」を求められました(マタイ5:3-12)。主イエスは、弟子たちに「敵を愛せよ」とお命じになりました(マタイ5:44)。
  ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちが隣人の命を脅かすことを慎むだけでは不十分であり、積極的に隣人の危害をできる限り防ぎ、わたしたちの敵に対して善を行うことを奨励しています。隣人の命を尊び、守り、敵であっても隣人の危害をできる限り防ぎ、善を行うことを求めています。
  今日本の国は大きな岐路にあります。安部首相と政府は集団的自衛権が行使できる国にしようとしています。これ自体は政治の問題であります。
  しかし、集団的自衛権を行使することは、敵国に自衛と報復戦争をすることです。ハイデルベルク信仰問答は、その点を問題にしていないでしょうか。つまり、復讐と報復は神のみの権限です。人の心の中の「ねたみ、怒り、復讐心」を隠れた殺人として憎まれる神は、集団的自衛権を行使し、わたしたちが敵国の隣人を殺すことを憎まれるのではないでしょうか。主イエスは、はっきりと「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)と言われました。
  わたしは、教会の中で集団的自衛権を反対したいわけではありません。聖書とハイデルベルク信仰問答によって、今日の日本の状況下でどのようにキリスト者として生きていくのかを、今考えたのです。
  わたしたちキリスト者は、この世の暴力の支配の中で、今集団的自衛権という一種の暴力が執行されようとしている日本の状況の中でどのようにして主なる神の「自分のように隣人を愛せよ」という命令を、そして主イエスの「敵を愛せよ」という命令に従うのか、問われています。
 

 

 

 

 ハイデルベルク信仰問答67       主の2014年5月21日
 聖書箇所:出エジプト記第20章14節(旧約聖書P126)、マタイによる福音書第5章27-32節(新約聖書P7-8)

 問108 第七戒は、何を求めていますか。
 答    すべてみだらなことは神に呪われるということ。
       それゆえ、わたしたちはそれを心から憎み、
         神聖な結婚生活においてもそれ以外の場合においても、
         純潔で慎み深く生きるべきである、ということです。
  問109 神はこの戒めで、姦淫とそのような汚らわしいこと以外は、
       禁じておられないのですか。
  答    わたしたちの体と魂とは共に聖霊の宮です。
       ですから、この方はわたしたちがそれら二つを、
         清く聖なるものとして保つことを望んでおられます。
       それゆえ、あらゆるみだらな行い、態度、言葉、思い、欲望、
         またおよそ人をそれらに誘うおそれのある事柄を、
         禁じておられるのです。
 
  今夜は、ハイデルベルク信仰問答問108と109と答を学びましょう。ハイデルベルク信仰問答は、十戒の第7戒を解説し、教えています。
  「姦淫してはならない」という第7戒は、出エジプト記20章14節と申命記第5章18節に記され、主なる神は、神の民に正しい性の関係を尊ぶようにお命じになりました。すなわち、男子は人の妻と肉体的交渉を持つことを禁じられました。結婚の神聖を守るための戒めでした。
  ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちにこの第7戒がわたしたちに何を求めているかと質問しています。神の民としての純潔を守ることです。
  主なる神は、神の民イスラエルに「これまで行われてきたいとうべき風習の一つでも行って、身を汚してはならない」(レビ18:30)と命じ、使徒パウロは、エフェソ教会のキリスト者たちに「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。」(エフェソ5:3)と命じ、使徒パウロは「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできない」(エフェソ5:5)と述べています。
  ハイデルベルク信仰問答は、第7戒の「姦淫」を男女の関係だけではなく、「すべてみだらなこと」と解説し、「すべてみだらなことは神に呪われる」と教えています。そこでハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに第7戒において二つのことを求めます。
  第1に「わたしたちはすべてみだらなことを心から憎むこと」です。ユダ書に「肉によって汚れてしまった彼らの下着さえも忌み嫌いなさい」(ユダ23)と命じられています。「心から憎む」とは、わたしたちがすべてのみだらな行いと敵対関係となり、それから離れることです。
  第2に結婚生活において、あるいはそれ以外の生活において「純潔で慎み深く生きること」です。ハイデルベルク信仰問答は、不倫については言及していません。第7戒が不倫を禁じていることは自明のことであると考えられたからです。
  聖書はわたしたちの結婚を、神が創造において定められた聖なる制度である(創世記2:24)と教えています。結婚は神の摂理の下に一人の男と女が合わされ、愛と信頼と約束のもとに家庭を築いて行くのです(例:創世記の族長イサクとリベカ)。ですから、夫と妻は相手に尊厳を抱き敬意を示し、主なる神が二人を合わせ、連れ添いとしてくださったことを感謝し、生きるべきです。
  「純潔で慎み深く生きるべき」とは、今日の言葉でいえば、「配慮に満ち、責任を自覚して生きるべきである」となります。ハイデルベルク信仰問答は、夫婦は結婚式で神の御前に約束したことを思い起こし、互いに配慮と責任を持ち、結婚生活を営みましょうと勧めています。そして、結婚以外のこの世の生活の場合にも同じであります。
  ハイデルベルク信仰問答問109は、第7戒がわたしたちに求めているのは結婚の神聖を守ることだけなのかと質問しています。
  ハイデルベルク信仰問答は、まずわたしたちは何者であるか、定義します。「わたしたちの体と魂とは共に聖霊の宮です」。「聖霊の宮」とは、神殿です。キリスト者は、キリストの十字架により罪を赦されました。洗礼によってわたしたちの罪と汚れは洗い流され、わたしたちはキリストと一体にされ、聖なる者とされました。
  ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちにわたしたちは神に聖なる者とされ、また、神の栄光をあらわす者として召されたのであるから、わたしたちの体と魂の二つを清く保つことを、主なる神は望まれていると教えています。
  具体的には、主イエスが山上の説教で教えられたことであり、使徒パウロがコリント教会やエフェソ挙会のキリスト者たちに教えたことであります。異教の偶像礼拝から来ているすべてのみだらな行い、態度、言葉、思い、欲望です。そしてわたしたちを誘惑する恐れのあるすべての事柄であります。
  旧約聖書の時代の神の民たちは、異教の祭りに加わり、異教徒と交わり、酒を飲み、みだらなことを行いました。新約の時代の教会も、その危険から逃れられません。そして神の御子主イエスがこの世に来られ、わたしたちの態度、言葉、思い、そして欲望において罪を犯さないように命じられました。「もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。全身が地獄に投げ込まれない方がましである」(マタイ5:2)と言われました。
  インターネット、新聞、テレビ、映画、小説、ゲーム等、わたしたちをみだらなことへと誘惑する事柄が、今日情報として溢れています。インターネットはわたしたちが情報を得る手段であり、それ自体を罪への誘惑として排除することはできません。それを用いるわたしたちの思い、欲望がわたしたちの魂と体を汚しているのではないかと、ハイデルベルク信仰問答は問題としているのです。

 

 

 

 ハイデルベルク信仰問答68       主の2014年5月28日
 聖書箇所:出エジプト記第20章15節(旧約聖書P126)、マタイによる福音書第7章7-12節(新約聖書P11)、

 問110 第八戒で、神は何を禁じておられますか。
 答    神は権威者が罰するような
         盗みや略奪を禁じておられるのみならず、
         暴力によって、
         または不正な重り、物差し、升、商品、貨幣、
         利息のような合法的な見せかけによって、
         あるいは神に禁じられている何らかの手段によって、
         わたしたちが自分の隣人の財産を
         自らのものにしようとする
         あらゆる邪悪な行為また企てをも、
         盗みと呼ばれるのです。
       さらに、あらゆる貪欲や
         神の賜物の不必要な浪費も禁じておられます。
  問111 それでは、この戒めで、神は何をあなたに命じておられるのですか。
  答    わたしが、自分になしうる限り、
         わたしの隣人の利益を促進し、
         わたしが人にしてもらいたいと思うことを
         その人に対してしても行い、
         わたしが誠実に働いて、
         困窮の中にいる貧しい人々を助けることです。
 
  今夜は、ハイデルベルク信仰問答問110と111と答を学びましょう。ハイデルベルク信仰問答は、十戒の第8戒を解説し、教えています。
  「盗んではならない」という第8戒は、出エジプト記20章15節と申命記第5章19節に記され、主なる神は、神の民に隣人の所有権を尊ぶようにお命じになりました。すなわち、わたしたちは取る権利のないものを取ってはならないのです。
  それゆえハイデルベルク信仰問答は、わたしたちにこの第8戒がわたしたちに何を禁じているかと質問し、問110の答において「神は権威者が罰するような盗みや略奪を禁じておられる」と解説しているのです。
  第8戒は、国家や権威者が罰する盗みや略奪を、主なる神も禁じておられるのです。泥棒が隣人の家に盗みに入り、現行犯で捕まれば、国家や権威者は泥棒の盗みを悪として罰します。
  ハイデルベルク信仰問答は盗みの現行犯だけではなく、国家や権威者が罰しない「暴力によって、また不正によって」隣人の所有物を盗み、奪うことも、主なる神は禁じておられると教えています。
  「暴力によって」には、例がありません。聖書を読みますと、預言者ナタンがダビデ王の姦淫の罪を責めました時、彼は金持ちが客をもてなすのに、自分の羊を惜しんで、貧しい隣人が子供のように可愛がっていた羊を取り上げて、客をもてなしたことをダビデ王に話しました。そして彼は、ダビデ王にいかがかと尋ねました。ダビデ王は、その金持ちの悪を裁きました。預言者ナタンは、ダビデ王に、「金持ちはあなたである」と告げました。権威者が暴力によって部下の妻を盗みました。国民はダビデ王の悪を裁けません。ナタンは主なる神が裁かれると告げました。
  ハイデルベルク信仰問答は、「不正によって」の例を多く挙げています。人間は悪賢く知恵を用いて隣人のものを不正に盗みます。ごまかして、法の目をくぐりぬけます。それを、ハイデルベルク信仰問答が列挙しています。「不正な重り、物差し、升、商品、貨幣、利息」等。現在では便乗値上げ、商品の不正表記、闇金の高利等です。
  また国家や権威者が罰しなくても、主なる神が禁じておられる何らかの手段があります。主なる神は、不正を禁じられました(申命記25:13-16)。主なる神は、隣人に金を貸して利息を取ること、わいろを受け取り、隣人を罪に陥れることを禁じられました(詩編15:5)。ごまかすことを禁じられました(箴言12:22)。
  ハイデルベルク信仰問答は、悪知恵を働かせ、国家や権威者に罰せられないやり方で、一見合法的であるやり方で隣人の財産を奪うことを、主なる神は盗みと見て、禁じられていると教えています。土地バブルのころ地上げ屋が暗躍しました。日本では連帯保証人になり、大切な財産を失う人が後を絶ちません。その中には邪悪な行為や企みで、罠に落ちた人々もいるでしょう。こうした隣人を国家も権威者も守れませんが、主なる神は盗みとして、見過ごしにされません。
  ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちの貪欲と浪費も、主なる神が禁じられた盗みであると教えています。主なる神は、アブラハム、ヨブ、ダビデ王等が富むことをお認めになりました。使徒パウロも「豊かに暮らすすべも知っています」(フィリピ4:12)と述べて、富むこと、豊かに暮らすことを肯定しています。問題は、その富を私有化することです。富は神の賜物であり、神の所有です。わたしたちは管理人にすぎません。貪欲な金持ちは、間違った管理人でした(ルカ12:13-21)。主イエスは、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言われました。
  ですからハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに問111と答で、第8戒がわたしたちに神の前にわたしたちが富む道を教えていると、解説しています。
  主イエスは、弟子たちに「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者(旧約聖書)である」と言われました。盗みの反対語は、隣人を愛し、隣人の願うことをすることです。「自分のなしうる限り」とは、自分の能力・賜物と財でできうる限りということです。隣人の利益を促進し、隣人の願いを行うことを、主なる神は願われています。
  宗教改革の時代、商業が盛んになり、都市が形成され、後に市民と呼ばれる豊かな人々が現れると共に、農村から都市に入ってきた、貧しい人々がいました。またペストという恐ろしい流行病がはやり、孤児がたくさんいました。
  ハイデルベルク信仰問答は、市民であるキリスト者たちに何のために働くのかを教えました。誠実に働き、正当な労働で得た富を「困窮の中にいる貧しい人々を助ける」ことに用いるためであると。これは、使徒パウロがエフェソ教会の信徒たちに勧めた教えです。「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々の分け与えるようにしなさい」(エフェソ4:28)。オランダの市民たちは、自分たちが労働で得た収入の30パーセントを隣人のために用いています。