ハイデルベルク信仰問答57 主の2014年3月5日
聖書箇所:ヨハネによる福音書第15章1-10節(新約聖書P198)
問90 新しい人の復活とは何ですか。
答 キリストによって心から神を喜び、
また神の御旨に従ったあらゆる善き行いに
心を打ちこんで生きる、ということです。
問91 しかし、善い行いとはどのようなものですか。
答 ただまことの信仰から、神の律法に従い、
この方の栄光のために為されるものだけであって、
わたしたちがよいと思うことや
人間の定めに基づくものではありません。
今夜は、ハイデルベルク信仰問答問90と91と答を学びましょう。
ハイデルベルク信仰問答は、第3部感謝の生活について信仰告白しています。
ハイデルベルク信仰問答にとって感謝の生活は神の御前においてキリストの十字架の贖いのゆえに「義認」とされた者の生活であります。それゆえに「義認」は包括的であり、人間の悔い改めと回心、すなわち、聖化と善い行いを含んでいます。
ハイデルベルク信仰は、問86の答において「キリストは、その血によってわたしたちを贖われた後に、その聖霊によってわたしたちを御自身のかたちへと生まれ変わらせてくださるからです」と告白していますね。問90の「新しい人の復活」とは、わたしたちの「体のよみがえり」のことではなく、「聖霊によってわたしたちをキリストのかたちへと生まれ変わらしてくださったこと」を言い表しています。すなわち、キリスト者の聖化であります。
ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに聖霊によって「新しい人に復活させられた」、それがキリスト者の感謝の生活であると教えています。キリスト者の感謝の生活は、人が自己を反省して真人間になった生活ではありません。聖霊がわたしたちを「新しい人に」再創造された生活であります。
聖霊がキリストの十字架の贖いのゆえにわたしたちを罪から清め、神のかたちを回復してくださいました。それゆえにわたしたちは、キリスト者の聖化の生活、すなわち、感謝の生活が営むことが許されています。
新し人の復活とは、キリスト者の聖化の生活であります。ハイデルベルク信仰問答は、キリスト者の聖化の生活、すなわち、感謝の生活が礼拝とキリスト者の善き行いであると教えています。
ハイデルベルク信仰問答が、問90の答において「キリストによって心から神を喜び」と告白するのは、神を礼拝することであります。詩編51篇においてダビデが、主なる神に心から喜び主なる神を礼拝させてくださいと祈っています。キリストの十字架の血によってわたしたちは、父なる神との間に平和を得、心から神を崇め、喜ぶことが許されています。
さらにハイデルベルク信仰問答は、「神の御旨に従ったあらゆる善い行いに心を打ち込んで生きる」と告白していますね。これがキリスト者の善い行いであります。
キリスト者は、神を心から礼拝し、聖霊と御言葉に導かれて、聖霊の学校である聖書を通して神の御旨を学びます。すなわち、後に学びます神の律法、その中心である十戒を学び、キリストの御心である「主の祈り」を学びます。
聖霊は、わたしたちが神の御旨に、キリストの御心に従うことだけが善い行いであることを知り、また行えるように、わたしたちを導いてくださいます。
ハイデルベルク信仰問答は、問91と答において善い行いが何かを定義しています。
ハイデルベルク信仰問答は、第1に「善き行い」は、「まことの信仰から」生まれると教えています。まことの信仰とは、わたしたちがキリストに結びついている信仰であります(ヨハネ15:5)。主イエスは、御自分をぶどうの木、わたしたちをその枝にたとえて、わたしたちがキリストにつながらないと、よき実を結べないと言われました。
第2に善き行いとは「神の律法に従」う行いであります。神の律法は、神の御心であり、善き行いは、わたしたちが神の御心を行うことでもあります。具体的には、聖霊の学校である聖書にわたしたちが従って生きることであります。
第3に善き行いは、「この方の栄光のために為されるものだけで」あります。
善き行いは、キリスト者の新生であります。生まれ変わったキリスト者は、自分のために行きません。生きるのも死ぬのもキリストのためであります(ローマ14:8)。
善い行いの主体は神であり、人や自分ではありません。ですから、ハイデルベルク信仰問答は、「わたしたちがよいと思うことや人間の定めに基づくものではありません」と告白するのであります。
善い行いの目的は、神の栄光をあらわすことですので、わたしたちが真の信仰によって礼拝し、神の御心に従うのであれば、まさにわたしたちは神の栄光を輝かしています。
使徒パウロは、コリント教会のキリスト者たちに「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(Ⅰコリント10:31)と勧めています。キリストの十字架によって今を生かされていることを感謝して、わたしたちが飲み食いするのであれば、わたしたちの飲食という行為は神の御心にかなう善き行いであります。
ハイデルベルク信仰問答58 主の2014年3月12日
聖書箇所:出エジプト記第20章1-17節(旧約聖書P126-127)
問92 主の律法とはどのようなものですか。
答 神はこれらすべての言葉を告げられた。
第一戒
わたしは主、あなたの神、
あなたをエジプトの国、
奴隷の家から導き出した神である。
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
第二戒
あなたはいかなる像も造ってはならない。
上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、
いかなるものの形も造ってはならない。
あなたはそれらに向かってひれ伏したり、
それらに仕えたりしてはならない。
わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。
わたしを否む者には、
父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、
幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
第三戒
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
第四戒
安息日を心に留め、これを聖別せよ。
六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、
いかなる仕事もしてはならない。
あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、
あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。
六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、
七日目に休まれたから、
主は安息日を祝福して聖別されたのである。
第五戒
あなたの父母を敬え。
そうすればあなたは、
あなたの神、主が与えられる土地に
長く生きることができる。
第六戒
殺してはならない。
第七戒
姦淫してはならない。
第八戒
盗んではならない。
第九戒
隣人に関して偽証してはならない。
第十戒
隣人の家を欲してはならない。
隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど
隣人のものを一切欲してはならない。
問93 これらの戒めはどのように分かれていますか。
答 二枚の板に分かれています。
その第一は、四つの戒めにおいて、
わたしたちが神に対して、
どのようにふるまうべきかを教え、
第二は、六つの戒めにおいて、
わたしたちが自分の隣人に対して
どのような義務を負っているかを教えています。
今夜は、ハイデルベルク信仰問答問92と93と答を学びましょう。
ハイデルベルク信仰問答は、問92と答より問115と答まで主の律法を、その中心である十戒を学びます。ハイデルベルク信仰問答がわたしたちに第3部で教えている感謝の生活は、「神の御旨に従ったあらゆる善い行いに心を打ち込んで生きる」生活であります(問90の答)。十戒は、感謝の生活の唯一の規準であります。
出エジプト記31章18節に「主はシナイ山でモーセと語り終えられたとき、二枚の掟の板、すなわち、神の指で記された石の板をモーセにお授けになった」と記されています。主なる神は、モーセに主の律法のすべての言葉を告げられ、それが十戒であると、ハイデルベルク信仰問答はその全文を記しています(問92の答)。感謝の生活は、喜んで神に服従する生活であり、十戒がわたしたちに唯一神への服従を教えることができるのです。
次に問93と答において次のように十戒を、二つに区分します。ハイデルベルク信仰問答は、伝承に従い、モーセの2枚の石の板に、第1戒から第4戒と第5戒から第10戒が刻まれていたと理解しています。そして、第1-4の戒めにおいては、「わたしたちが神に対してはどのようにふるまうべきであるかを教え」、第5-10の戒めにおいては「わたしたちが自分の隣人に対してどのような義務を負っているかを教え」ていると、ハイデルベルク信仰問答は十戒の全文を二つに要約しています。
この十戒の区分は、マタイによる福音書の22章34-39節において主イエスが十戒を神への愛と隣人への愛に要約されたことに基づいています。
ハイデルベルク信仰問答59 主の2014年3月19日
聖書箇所:出エジプト記第20章1-17節(旧約聖書P126-127)
問94 第一戒で、主は何を求めておられますか。
答 わたしが自分の魂の救いと祝福とを失わないために、
あらゆる偶像礼拝、魔術、迷信的な教え、
諸聖人や他の被造物への呼びかけを
避けて逃れるべきこと。
唯一のまことの神を正しく知り、この方にのみ信頼し、
謙遜と忍耐の限りを尽くして、
この方にのみすべてのよきものを期待し、
真心からこの方を愛し、畏れ敬うことです。
すなわち、わたしが、ほんのわずかでも
神の御旨に反して何かをするくらいならば、
むしろすべての被造物の方を放棄する、
ということです。
問95 偶像崇拝とは何ですか。
答 御言葉において御自身を啓示された、
唯一のまことの神に代えて、またはこの方と並べて、
人が自分の信頼を置く何か他のものを考え出したり、
所有したりすることです。
今夜は、ハイデルベルク信仰問答問94と95と答を学びましょう。十戒の第一戒であります。
主なる神はモーセを通してイスラエルの神の民に次のように宣言し、第一の戒めを与えられました。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」(出エジプト20:2―3)。
主なる神が第1戒を通して神の民イスラエルにお命じになられたことは、神の民イスラエルを奴隷の地エジプトから解放された唯一の神、主のほかに他のどのような神も崇拝しないということであります。
ハイデルベルク信仰問答は、十字架のキリストの罪の償いによって罪の奴隷状態から解放されたキリスト者に十戒を適用しています。キリスト者は、主なる神、すなわち、神の御子であり、人としてこの世に来られた救い主イエス・キリストの十字架を通して「自分の魂の救い」と「祝福」を得ました。キリストが遣わされた聖霊により再生され、神の子とされました。そして、今十戒を通して神への感謝の生活を求められています。
ハイデルベルク信仰問答は、キリスト者の生活を第一に考えています。それは、「自分の魂の救い」であり、神の「祝福」の生活であります。この喜びのために主イエス・キリストが十字架の償いをされました。ですから、キリスト者の感謝の生活の第一の心得は、主イエス・キリストが御自身の死によってわたしたちのために得てくださったこの祝福の生活を失わないようにすることです。
わたしは、この問答の「わたしが自分の魂の救いと祝福を失わないために」は消極的な翻訳であると思います。間違ってはいませんが、何か自分たちが恐れて、この第1戒を守るという雰囲気であります。しかし、わたしは、「自分の魂の救いと祝福」を、わたしたちが愛するから、この神の第1戒を喜んで守るのだと思います。
それゆえわたしたちは、この世にある「あらゆる偶像礼拝、魔術、迷信的な教え」を退け、またカトリック教会で行われている「諸聖人や他の被造物への呼びかけ」を排除すべきであります。
わたしたちは、自分たちに魂の救いと祝福をお与えくださった父子御霊なる唯一の神にのみ感謝し、礼拝します。そしてこの神のみを愛して生きるゆえに、あらゆる偶像礼拝と魔術、迷信的教えを退け、たとえカトリック教会において諸聖人崇拝やマリア崇拝がなされていても、わたしたちは排除すべきであります。
次にハイデルベルク信仰問答は、私たちに次のことを教えています。この神の第1戒こそがわたしたち神の民に「唯一のまことの神を知り、この方にのみ信頼」する道を教えていることを。
申命記に主なる神は、モーセを通して神の民に次のようにお命じになりました。「聞け、イスラエルよ、我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4-5)。
神の民イスラエルは、唯一のまことの神を正しく知る時は、主なる神のみを心から愛し、心を尽くして礼拝し、信頼して歩みました。ところが、忘れてしまうと、カナンの地の神々に心を向けて、偶像礼拝をし、魔術や迷信の教えに惑わされました。
主イエスは、弟子たちに祈りを通して、次のように教えられました。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)。
キリストは、わたしたちに聖霊の学校である聖書を通して唯一のまことの神を知らされています。ですから使徒パウロは、コリント教会のキリスト者たちに次のように警告しています。「正しくない者が神の国を継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。」(Ⅰコリント6:9-10)。唯一の神を正しく知らないと、容易に第1の戒めを犯すことになります。
ハイデルベルク信仰問答は、「唯一のまことの神を知る」ことを、神を人格者として知ることであると教えています。そのためにわたしたちは、唯一の神を知るとき、その神の御心に心を向けるでしょう。そして全身全霊で、すなわち、「謙遜と忍耐の限りを尽くして」、その神にのみ、イエス・キリストにのみ、すべての善きものを期待し、心から喜んで神を愛し、神を礼拝します。
それゆえにわたしたちは、神の御心に反することを行うよりも、むしろこの世のものの方を捨て去ります。ハイデルベルク信仰問答が、模範としたのはアブラハムであります。故郷を棄て、すべてを主なる神に期待し、主なる神のみを愛し、礼拝し、歩みました。
問95と答は、偶像崇拝の定義であります。「御言葉」すなわち、聖書に御自身を啓示された唯一の神に代えて、他の神々や被造物を並べて、人が自分の信頼を置く者を考え、所有することです。要するに偶像礼拝とは、わたしたちが唯一の神に代わり、何かを手に加えると救いになるものであります。
偶像礼拝を、わたしたちが排除できる唯一の道は、神礼拝であります。礼拝において神の御言葉を聞き続けることであります。ローマの信徒への手紙10章14-17節に使徒パウロは、福音を宣教する者の幸いを賛美しています。わたしたちは、礼拝を通して真の神を知りました。
ハイデルベルク信仰問答60 主の2014年3月26日
聖書箇所:申命記第4章15-40節(旧約聖書P286-288)
問96 第二戒で、神は何を望んでおられますか。
答 わたしたちが、どのような方法であれ神を形作ったり、
この方が御言葉において命じられた以外の仕方で
礼拝してはならない、ということです。
問97 それならば、
人はどのようなかたちも造ってはならないのですか。
答 神は決して模造されえないし、
またされるべきでもありません。
被造物については、それが模造されうるとはいえ、
人がそれを崇めたり、
またはそれによってこの方を礼拝するために、
そのかたちを造ったり所有したりすることを、
神は禁じておられるのです。
問98 しかし、画像は、信徒のための書物として、
教会で許されてもよいのではありませんか。
答 いいえ。
わたしたちは神より賢くなろうとすべきではありません。
この方は御自分の信徒を、物言わぬ偶像によってではなく、
御言葉の生きた説教によって教えようとなさるのです。
今夜は、ハイデルベルク信仰問答問96-98と答を学びましょう。十戒の第二戒であります。ハイデルベルク信仰問答は、十戒の第二戒において礼拝の仕方を教えています。
ハイデルベルク信仰問答は、問96において神がわたしたちに望まれている礼拝について問うています。
そして、ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに神が礼拝においてわたしたちに望まれていることを二つ答えています。それは偶像礼拝の禁止と聖書の御言葉において命じられた以外の礼拝の禁止であります。
第1の偶像礼拝の禁止は、申命記4章15-19節に主なる神がモーセを通していかなる形の像も造ってはならないと禁じられています。すなわち、人間の形、被造物のいかなる形の像を造って拝んではならないと禁じられています。また、主なる神は預言者イザヤを通して偶像礼拝していた神の民を非難し、「お前たちは神を誰に似せ どのような像に仕立てようというのか」(イザヤ40:18)と、彼らの罪を指摘されています。
霊である主なる神を、天地万物を創造された神を、人の目に見える像に形造ったり、礼拝することを、第二戒は禁じているのです。なぜなら、創造主なる神は、被造物と同じではありませんし(使徒言行録17:29)、偶像礼拝は滅びることのない栄光の神を、滅び去る被造物の像に取りかえる罪だからです(ローマ1:23)。
さらにハイデルベルク信仰問答は、わたしたちが主なる神が聖書においてお命じになられた方法以外によって礼拝することを、第二戒は禁じていると教えています。大祭司アロンの息子ナダブとアビフは、主なる神が命じられた以外の「規定に反した炭火」をささげたために、主なる神の怒りを買いました(レビ記10:1-10)。サウル王は、主の御命令の御言葉を退けたので、主なる神は彼の礼拝と犠牲を退けられました(サムエル記上15:23)。主イエスは、サマリアの女に「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」と命じられました(ヨハネ4:24)。
ハイデルベルク信仰問答の問97と答は、わたしたちは「霊と真理をもって礼拝しなければならない」のですから、人の手によって神を摸写すること、すなわち、己自身に似せて神が摸写されることを禁じています。主なる神は全知全能のお方であり、有限な人間が無銀の神を把握できません。神は被造物の何ものとも比較できないし、像を刻みえません。だから、神を摸写することは、それを崇める偶像崇拝の誘惑に陥り、第二戒への違反となります。ただし、ハイデルベルク信仰問答は、人物画、風景画等の摸写は、第二戒の違反ではないと指摘しています。これらは、礼拝に用いる目的で摸写されていませんし、実際偶像礼拝の罪に人を陥らせるものはないからです。美術館でレンブラントの絵画を鑑賞し、ゴッホの絵画を鑑賞して、神を礼拝している者はいません。
ハイデルベルク信仰問答の問98と答とは、当時の社会的背景があります。中世の民衆の多くは、文字が読めず、聖書が読めませんでした。また礼拝はラテン語でなされ、民衆は何も理解できませんでした。文字が読めない民衆のために「貧民の聖書」がありました。それが「信徒のための書物」である画像、すなわち聖画であります。教会堂の中にキリストの十字架像だけでなく、父なる神、御子なる神、聖霊なる神の画像がありました。
有名なのはバチカンのシスティナ礼拝堂であります。キリストとモーセの生涯を描いた聖画があり、天井にミケランジェロが描いた創世記と旧約聖書の物語、そして最後の審判の聖画があります。中世のカトリック教会は、礼拝堂にキリストの十字架像、マリア像、そして天使像を置くだけではなく、壁や天井に聖画を描き、文字の読めない民衆の信仰教育に利用しました。
ハイデルベルク信仰問答は、カトリック教会が礼拝堂に画像を置き、文字の読めない民衆を教育しようとしたことを、「わたしたちは神より賢くなろうとすべきではありません」と批判しました。まさにサタンの誘惑であったからです。サタンがアダムの妻エバを誘惑したように、画像を礼拝堂に置くことは、偶像礼拝の罪の誘惑なのです。
ハイデルベルク信仰問答は、聖書と福音の立場に立ち、主なる神はわたしたちを「御言葉の生きた説教によって教えようとなさる」と教えています。それゆえにハイデルベルク信仰問答を信仰告白した宗教改革の時代のキリスト者たちは、教会の礼拝堂から画像を除き去り、子供たちが聖書を読めるように学校を作り、聖書を母国語に翻訳し、礼拝を母国語で行いました。
現代でもカトリック教会の会堂と礼拝堂には、画像が置かれています。わたしたち改革派教会は教会堂の礼拝堂に画像は置かれていません。聖餐卓と説教台と洗礼盤が講壇に置かれ、説教台に大型の聖書が置かれて、毎週の日曜日の礼拝において御言葉が語られ、礼典が執行されています。