ハイデルベルク信仰問答69             主の2014年6月4日
 聖書箇所:出エジプト記第20章16節(旧約聖書P126)、マタイによる福音書第5章33-37節(新約聖書P8)

 問112 第九戒では、何が求められていますか。
 答    わたしが誰に対しても偽りの証言をせず、
         誰の言葉をも曲げず、陰口や中傷をする者にならず、
         誰かを調べもせずに軽率に断罪するようなことに
         手を貸さないこと。
       かえって、あらゆる嘘やごまかしを、
         悪魔の業そのものとして
         神の激しい御怒りのゆえに遠ざけ、
         裁判やその他のあらゆる取引においては真理を愛し、
         正直に語りまた告白すること。
       さらにまた、わたしの隣人の栄誉と威信とを
         わたしの力の限り守り促進する、ということです。
 
  今夜は、ハイデルベルク信仰問答問112と答を学びましょう。ハイデルベルク信仰問答は、十戒の第9戒を解説し、教えています。
  「隣人に関して偽証してはならない」という第9戒は、出エジプト記20章16節と申命記第5章20節に記され、主なる神は、神の民に「共同体における真実と公正の尊重を保持する」ためにお命じになりました。出エジプト記は言葉(「偽りの言葉」)を強調し、申命記は人(「人に偽りを言うこと」)を強調しています。「隣人」とは、自分がかかわるすべての人です。「してはならない」とは、「答える」「応答する」「証言する」という意味です。具体的な状況において隣人に対して偽証することが禁じられています。主なる神は、「うそも方便」と言ったことはお認めになりません。この戒めは、公の場において、法廷において人が取るべき態度を教えています。さらにわたしたちキリスト者が自分たちの人生全般において取るべき態度を教えています。そして、この戒めによって主なる神は、神の民に共同体におけて正義が確立されることを求められました。実際に主なる神は、神の民に多数に追随し、民がへつらって法廷で真実を曲げることを禁じ、貧しい者を訴訟において判決を曲げてかばうことを禁じられました(出エジプト記23:1-3)。
  それゆえハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに「この第9戒では、何を求めておられますか」と質問し、答において次の3つを答えています。「わたしが誰に対しても偽りの証言をせず」「裁判や公の取引において真理を愛し、正直に語りまた告白する」「わたしの隣人の栄誉と威信を、わたしの力の限り守り、促進する」と。
  さて、聖書は、主なる神が偽りの証言をする者を厳しく罰せられています。偽りの証言をする者は、必ず主なる神に滅ぼされます。偽りの証言は、単に隣人に嘘をつかないという道徳ではなく、主なる神が裁かれることであります。
  聖書では、サタンと偽りの証言は、組み合わされています。サタンとは訴える者という意味であります。ですから、ハイデルベルク信仰問答は、答において「あらゆる嘘やごまかしを、悪魔の業そのものとして神の激しい御怒りのゆえに遠ざけ」と述べています。主なる神は、モーセを通して神の民イスラエルに「うそをついてはならない。互いに欺いてはならない」(レビ記19:11)とお命じになりました。そして、北イスラエル王国のアハブ王とイゼベル女王が偽りの裁判によってナボトを殺し、彼のぶどう畑を奪ったとき、主なる神は二人に対して怒り裁かれただけではなく、アハブ家の者たちすべてとアハブ家に親しくかかわった者たちすべてを滅ぼされました(列王記上21章、列王記下9章、10章)。また初代教会においてはアナニアとその妻サフィラの欺きの事件が有名です。彼らは、サタンに心を奪われ、土地の代金をごまかして、献金しました。彼らの上に主の怒りが下り、二人は死んでしましました(使徒言行録5:1-11)。
  また、偽りはサタンに関係するだけではなく、サタンは悪意によって偽るのです。主なる神がヨブを義人としてサタンに誇られたとき、サタンは悪意によってヨブを偽善者であると訴えました。
  ハイデルベルク信仰問答は、第9戒を聖書からキリスト者のこの地上における生活において理解しています。つまり、キリスト者は、キリストの十字架によってサタンの支配下である罪の奴隷から救い出され、神の子の身分を与えられ、聖なる者とされました。
  しかし、キリスト者にとってこの世は、真理の神と偽りのサタンとの対立の場であります。真理と偽り、愛と悪意が対立しています。その中でキリスト者は、キリストを通して「兄弟を愛すること」「隣人を愛すること」を求められています。どのような時にも世の光、地の塩として真理と愛に生き、悪意と偽りを退けることを求められています。
  キリストは、弟子たちに山上の説教において「誓い」についての誠実な生き方を教えられました。すなわち、「誓ったら、それを果たせ」とお命じになり、真実に生きるように教えられました。律法学者たちのように詭弁を弄さず、誠実に生きるのであれば、「はい」を「はい」と言い、「いいえ」を「いいえ」と言うだけでよいと、主イエスは言われました(マタイ5:33-37)。
  うそは、サタンの業であり、悪意から出る。これがハイデルベルク信仰問答が聖書から学んだことです。それゆえにハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに「わたしが誰に対しても偽りの証言をせず」とはっきりと宣言します。それは、わたしは、サタンとサタンの仲間になり、隣人に悪意を向けることはしないという宣言です。だから、隣人の言葉を決して人に曲げて伝えることはしないし、陰口と中傷する者にはならないし、偽りの証言者となり、隣人を陥れることはしないと宣言しています。
  次にうそとごまかしは悪魔の業であり、神の怒りを招くことであるので、裁判所や商取引のところでは真理を愛し、正直に語り、告白すると宣言しています。使徒パウロは愛を「真実を喜ぶ」(Ⅰコリント13:6)ことであり、またキリスト者の愛の生き方は「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語ること」であると述べています。正直に生きることを、ハイデルベルクはわたしたちに勧めています。
  最後にハイデルベルク信仰問答は、わたしたちにこの第9戒を通して「わたしの隣人の栄誉と威信とをわたしの力の限りに守り促進すること」を求めています。
  ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちの日々の生活にこの第9戒が重要であると教えています。それは、人間はコミュニケーションによって日々の隣人との生活を営んでいます。陰口、中傷は、わたしたが隣人の栄誉と威信を傷つける行為です。それだけではなく、聖書は隣人に対して尊敬と敬意を払うことを教えています。面前で隣人を言葉で辱めるのではなく、隣人を高める言葉を話すように、ハイデルベルク信仰問答はわたしたちに勧めています。

 

 

 

 

ハイデルベルク信仰問答70             主の2014年6月18日
 聖書箇所:出エジプト記第20章17節(旧約聖書P126-127)、ローマの信徒への手紙第7章7-12(新約聖書P282-283)

 問113 第十戒では、何が求められていますか。
 答    神の戒めのどれか一つでも逆らうような
         ほんのささいな欲望や思いも、
         もはや決してわたしたちの心に
         入り込ませないようにするということ。
       かえって、わたしたちが、
         あらゆる罪には心から絶えず敵対し、
         あらゆる義を慕い求めるようになる、ということです。
 
  今夜は、ハイデルベルク信仰問答問113と答を学びましょう。ハイデルベルク信仰問答は、十戒の第10戒を解説し、教えています。
  「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」という第10戒は、出エジプト記20章17節と申命記第5章21節に記され、出エジプト記と申命記は、「家」と「妻」の順番が逆転しています。その理由は分かりません。主なる神は、神の民に「隣人の所有を貪欲のゆえに奪ってはならない」とお命じになりました。
  ハイデルベルク信仰問答は、第10戒が貪りの意志、つまり、内心の罪を念頭に置いていると、理解しています。それは、宗教改革者ルターが『小教理問答』で「この第両戒は、あらゆる罪悪の根源、すなわち、心中の悪欲ならびに関係するものである」と説いていることを支持しています。ただしルターは、第10戒を、第9戒と第10戒に分けています。ですから「両戒」と述べています。
  それゆえハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに「この第十戒では、何が求められていますか」と質問し、答において神は、わたしたちの内心における悪い欲望、貪りの思いを禁じておられることを、次のように教えています。「神の戒めのどれか一つでも逆らうような ほんのささいな欲望や思いも、もはや決してわたしたちの心に 入り込ませないようにするということ。」
  旧約聖書は、第10戒の「欲しがる」という動詞を、「取る」という動詞に関係づけて用いています。たとえば、主なる神は、モーセを通して神の民イスラエルに申命記の5章25節で「彼らの神々の像は火に投じて焼きなさい。それにかぶせてある銀や金に目を奪われて、それを取っておくことがあってはならない。」とお命じになっています。ところが、ヨシュア記7章でユダ族のアカンが主なる神の第10戒を破ります。彼は、21節で次のように罪を告白しました。「分捕り物の中に一枚の美しいシンアルの上着、銀二百シェケル、重さ五十シェケルの金の延べ板があるのを見て、欲しくなって取りました。今それらは、わたしの天幕の地下に銀を下に敷いて埋めてあります。」
  上記の事例で理解できますように、「欲しがる」という動詞と「取る」という動詞が連続で使われています。アカンの内心の欲望と貪りの罪が、金銀を取るという実際の貪りの悪を犯させたのです。
  新約聖書のローマ信徒への手紙7章において使徒パウロは、7章7-25節で見出しにありますように「内在する罪の問題」を取り上げています。すなわち、「律法(第10戒)が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。」と、パウロは告白しています。パウロは、「わたしは自分の望む善を行わず、望まない悪を行っている。もしわたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ローマ7:19-20)と告白しています。
  第10戒の「むさぼりの罪」は、十戒のすべての罪に関わり、わたしたちの心の中の欲望と意志から生じて、実際に十戒の罪を犯すことになりますので、ハイデルベルク信仰問答は答において「神の戒めのどれか一つでも逆らうような ほんのささいな欲望や思いも、もはや決してわたしたちの心に 入り込まないようにすること」と教えているのです。
  ハイデルベルク信仰問答にとって、第10戒は十戒の最後の戒めであるだけでなく、十戒のすべてをまとめる戒めであります。ハイデルベルク信仰問答は、人間だけが主なる神に所有することを認められた存在であることを知っています。そして、主なる神は、人に所有することを許されたのみではなく、人の所有を保護されました。
  ハイデルベルク信仰問答は、人の心の中の欲望を禁じているのではありません。人の心の欲望から主なる神が許された隣人の所有を取る、すなわち、むさぼりの罪を禁じているのです。
  そのためにハイデルベルク信仰問答は、わたしたちの心に誘惑となる欲望と思いを、どんなささいなことでも「入り込ませないようにする」ことと教えています。現代の情報社会の発展により、テレビ、インターネット等によりわたしたちの心はあらゆる誘惑にさらされています。
  その中でハイデルベルク信仰問答は問8と答において次のように問答しています。「それでは、どのような善に対しても全く無能で あらゆる悪に傾いているというほどに、わたしたちは堕落しているのですか。」「そうです。わたしたちが神の霊によって再生されない限りは。」
  わたしたちは、聖霊によって再生されました。聖霊によって清められています。それゆえハイデルベルク信仰問答を作りましたウルジヌスが第10戒の目指しているところを次のように解説しています。「神と隣人に対するわれらの傾きの正しさである」と。わたしたちの心に隣人に対してむさぼりの思いが起きるならば、わたしたちがパウロのように内なる罪と戦い、あらゆる義を慕い求めるようになることを、ハイデルベルク信仰問答は勧めています。
  「あらゆる義」とは、主なる神が隣人の所有のすべてを認め、守られていることを、わたしたちも守るということです。隣人の命はもとより、隣人の妻も財産(知的財産を含めて)も、生活環境等を、自分の欲によってむさぼり、奪わないことです。浪費もむさぼりの罪です。現代の大量生産、大量消費の中で、わたしたちが物を無駄にしていることを反省しなければなりません。

 

 

 ハイデルベルク信仰問答71             主の2014年6月25日
 聖書箇所:フィリピの信徒への手紙第3章12-16節(新約聖書P365)

 問114 それでは、神へと立ち返った人たちは、
      このような戒めを完全に守ることができるのですか。
 答    いいえ。
       それどころか最も聖なる人々でさえ、
         この世にある間は、
         この服従をわずかばかり始めたにすぎません。
       とは言え、その人たちは、真剣な決意をもって、
         神の戒めのあるものだけではなくそのすべてに従って、
         現に生き始めているのです。
  問115 この世においてはだれも十戒を守ることができないのに、
       なぜ神はそれほどまで厳しく、
       わたしたちにそれらを説教させようとなさるのですか。
  答    第一に、わたしたちが、全生涯にわたって、
         わたしたちの罪深い性質を次第次第により深く知り、
         それだけより熱心に、
         キリストにある罪の赦しと義とを
         求めるようになるためです。
       第二に、わたしたちが絶えず励み、
         神に聖霊の恵みを請うようになり、
         そうしてわたしたちがこの生涯の後に、
         完成という目標に達する時まで、
         次第次第に、いよいよ神のかたちへと
         新しくされてゆくためです。
 
  今夜は、ハイデルベルク信仰問答問114-115と答を学びましょう。ハイデルベルク信仰問答は、この世におけるキリスト者が完全に十戒を守れないことを教えています。
  ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちキリスト者、教会員に十戒のすべてを完全に守ることができるかと問うています。この問いに、わたしたちは、「いいえ」としか答えられません。旧約聖書のコヘレトの言葉の7章20節で「善を行い、決して罪を犯さない正しい人は、この地上には一人もいない」と言われているとおりです。わたしたちは、十戒が神の命令であると知っていますが、わたしたちは、この地上に生きる限り、使徒パウロの言う「わたしたちは肉の人であり、罪に売り渡されています」(ローマ7:14)。わたしたちは、これらの証言が正しいという認識を逃れられません。それゆえにヨハネの証言のように、「わたしたちには罪がないと言うなら、わたしたちは自分を欺いて」います(Ⅰヨハネ1:8-10)。
  ところが、ハイデルベルク信仰問答は、続いて、わたしたちキリスト者を次のように励ましています。「それどころか最も聖なる人々でさえ、この世にある間は、この服従をわずかばかり始めたにすぎません。とは言え、その人たちは、真剣な決意をもって、神の戒めのあるものだけではなくそのすべてに従って、現に生き始めているのです。」
  ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちキリスト者の「堅い意志」に語りかけています。十字架のキリストによって贖われ、キリストの所有とされたキリスト者は、神に属する者として可能な限り、神の御意志に服従し始めていると、ハイデルベルク信仰問答は励まし、応援しています。詩編1編1節で神の民の幸いの道が教えられています。悪人の仲間にならず、悪人の道を歩まず、神を嘲る人と共に生きないことです。わたしたちキリスト者は、不完全ですが、御国に向けてこの幸いの道をキリストの服従しながら歩み始めています。
  十戒は、神を愛し、隣人を愛せよという神の御意志です。宗教の領域だけでなく、わたしたちの人生のすべての領域を含んでいます。今キリストは復活され、天に昇られ、父なる神の右に座され、全世界を支配されています。全世界のあらゆる領域に、神の御意志は十戒を通して示されています。
  ですから、わたしたちキリスト者は、十戒の全てを守る努力をすることで、この世界を支配されるキリストに服従するように、現に生き始めているのです。キリストの再臨とわたしたちの復活、そして御国の完成によって完全聖化は実現します。
  ハイデルベルク信仰問答の問115と答は、礼拝の中で十戒を説教することの益を教えています。わたしたちが、十戒を守れないのなら、十戒を説教し、教えることは無駄であり、理不尽ではないか、という非難に答えています。
  それに対してハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに十戒を説教し、教えることの有益さを二つ指摘しています。第1の点は、律法がわたしたちをキリストに導く養育係としての有益な働きです。わたしたちは、全生涯にわたって罪人です。「欲する善をなさず、悪をする」というわたしたちの性質をよく知り、十字架のキリストに望みを置くために、十戒は必要です。礼拝における説教によって十戒を通して自分たちの罪を示されるごとに、わたしたちはキリストの十字架による罪の赦しとキリストの義のゆえにわたしたちが神に義とされることを求めるのです。
  第2の点は、十戒は神の御意志です。礼拝で十戒が説教されるごとに、わたしたちは神の御意志に従いたいと願うでしょう。しかし、自分の中に神の御意志を実行する力はありません。それゆえに
  わたしたちは、神の御意志を行えるように生涯にわたって聖霊の助けを祈り求めるのです。聖霊が恵みによってわたしたちに信仰をはじめ豊かな賜物をお与えくださり、わたしたちが神のかたちへと新しくされ、御国へと導かれるように、祈り求めるのです。
  全員懇談会で、礼拝の要素の一つとして、礼拝順序の中に十戒が入れられることの恵みを、今夜のハイデルベルク信仰問答の問114-115と答は、わたしたちに教えてくれています。

 

 

 

ハイデルベルク信仰問答72             主の2014年7月2日
 聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙一第5章16-18節(新約聖書P379)

 問116 なぜキリスト者には祈りが必要なのですか。
 答    なぜなら、祈りは、
         神がわたしたちにお求めになる感謝の
         最も重要な部分だからです。
       また、神が御自分の恵みと聖霊とを与えようとなさるのは、
         心からの呻きをもって
         絶えずそれらをこの方に請い求め、
         それらに対して
         この方に感謝する人々に対してだけ、だからです。
 
  今夜は、ハイデルベルク信仰問答問116と答を学びましょう。
  復習になりますが、ハイデルベルク信仰問答は第3部において「感謝について」(問86-129と答え)教えています。
  感謝の生活は、第1に十戒(律法)に服従するキリスト者の生活(問92-115と答)です。キリスト者は、神の恵み(キリストの十字架の救い)に対する感謝の応答として神の御意志に服従して生きるのです。その神の御意志が十戒に要約された神の律法であります。
  キリスト者は、洗礼と聖餐において十戒(神の律法)を成就されたキリストと一つに結合され、キリストの十字架の死と共に「古い人は滅び」、キリストの復活と共に「新しい人に復活」しました(問88-91と答)。
  それゆえにキリスト者は、キリストと結び合わされ、活ける真実の信仰において律法の第3用益である善き業に励むのです。ハイデルベルク信仰問答にとってキリスト者の善き業は、信仰そのものです。信仰の実践であるからです。
  ハイデルベルク信仰問答にとってわたしたちキリスト者は、聖霊によってキリストに似る者に更生され、十戒を通して神の恵みへの感謝と賛美をなすのです(神に栄光を帰します)。
  さて、ハイデルベルク信仰問答は、第3部の「感謝について」の最後に祈りについて教えています。
  それについてハイデルベルク信仰問答は、問116の答で次のように答えています。「なぜなら、祈りは、神がわたしたちにお求めになる感謝の最も重要な部分だからです。」
  ハイデルベルク信仰問答にとって、キリスト者の感謝の生活は、信仰と悔い改め(まとめて「信仰」)と聖化、服従と祈り(賛美)です。使徒パウロは、次のように述べています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)。主イエス御自身が聖霊に導かれ、12弟子たちを離れ、ひとり山に登り祈られました(マタイ14:23他)。十字架にかかられる前の夜にゲツセマネの園で祈られました(マタイ26:36-44、マルコ14:32-42、ルカ22:39-44)。
  聖霊に導かれたキリストにとって祈りは、父なる神の御意志を知り、服従されるキリストの重要な部分でした。同様にキリスト者にとって祈りは、キリストの体なる教会におけるひとつひとつの肢である教会員のうちに働く聖霊の働きであります。
  ハイデルベルク信仰問答の問116の答において、ハイデルベルク信仰問答は「神が御自分の恵みと聖霊を与えようとなさるのは」と述べていますね。祈りは、神の恵みの賜物であり、教会とキリスト者が主イエスのように、「聖霊をいただいて」できる行為であります。
  ハイデルベルク信仰問答は、キリスト者の祈りの必要性を次のように述べているのです。祈りは、神の恵みの賜物であり、聖霊をいただかなくては真実の祈りはできません。何よりもキリスト者の模範であるキリストが祈り、次にキリストによって12使徒たちが祈り、ペンテコステにおいてキリストの体なる教会が祈り、そして、洗礼を通して聖霊をいただいた教会員の個々人が祈ると。つまり、わたしたちキリスト者は、教会の交わり(聖徒の交わり)を通して祈るのです。
  キリスト者の感謝の生活は、神の恵みと聖霊をいただき、なされるのです。ハイデルベルク信仰問答にとって祈りは、「心からの呻きをもってたえずそれらを(神の恵みと聖霊)をこの方に請い求める」ことであります。そして、神は、神の恵みと聖霊を、神に感謝する者たちにのみ与えることを喜ばれているのです。
  このように学びますと、わたしたちに一筋のキリスト者の感謝の生活の道が見えてきます。それは、喜びと祈りと感謝の生活です。父なる神がキリストを通してわたしたちにお与えくださった救いの恵みに、わたしたちが心から感謝して生きるために、十戒を通して善き業に励み、聖霊に導かれて祈りを身につけるように、ハイデルベルク信仰問答は教えているのです。
  キリスト者に祈りが必要なのは、わたしたちキリスト者が神の恵みと聖霊をいただく手段が祈りを通してだからです。
  自動車がガソリンや電気、水素をエネルギーにして走るように、キリスト者の感謝の生活は、神の恵みと聖霊を神からいただくことで行われるのです。神の恵みと聖霊が神からわたしたちに届くのは、祈りという手段(パイプ)を通してであります。