マルコによる福音書説教56              2021314

それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。

『わたしの家は、すべての国の人の

祈りの家と呼ばれるべきである。』

 ところが、あなたたちは

   それを強盗の巣にしてしまった。」

 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。

                       マルコによる福音書第111519

 

説教題:「神殿を清める主イエス」

レント(四旬節)の第三主日を迎えました。主の御受難を心に留めつつイースターに備えて行きましょう。

 

マルコによる福音書は、受難週の第二日目、月曜日に主イエスが神殿を清められた出来事を記しています。

 

それが今朝のマルコによる福音書第111519節の御言葉です。

 

マルコによる福音書は、神殿を、ギリシャ語で「ヒエロン」と記しています。これは、「きよい」を意味する形容詞の言葉に由来します。

 

新共同訳聖書が15節と16節で「神殿の境内」「境内」と訳しているように、「ヒエロン」がエルサレム神殿の建物を指すことは稀です。ほとんどの場合は、新共同訳聖書が訳していますように「神殿の境内」のことです。

 

エルサレム神殿の境内は、イスラエルの成人男子が礼拝する内庭、女性が礼拝する婦人の庭、そして異邦人たちが礼拝する外庭があります。

 

マルコによる福音書は1111節で「イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回り」と記し、16節で「境内を通って物を運ぶことも」と記していますね。この神殿の境内は、異邦人が主なる神を礼拝する外庭のことでしょう。

 

外庭は、一般の人々や商売する人々が出入りできました。両替人たちが神殿に巡礼に来た者たちのギリシャやローマの貨幣を、神殿用の古いヘブライの貨幣に両替し、その差額で利益を得ていました。また、商売人たちが巡礼者たちに鳩などの犠牲の動物を売っていました。

 

それだけではなく境内を通り抜けて、物を運び、神殿を汚す者たちがいました。だから、主イエスは境内を通り抜けて、物を運ぶことをお許しになりませんでした。

 

主イエスが神殿を清められたのは、利益を貪る両替人と商人たちから、そして、汚れた物を境内に持ち込んで、神聖な場所を汚す者たちから、神殿の聖なる場所を守るためでした。

 

主イエスは、御自身の神殿を清める行為が主なる神の御心に適うことを、旧約聖書の預言者イザヤとエレミヤの御言葉によってお示しになりました。

 

それが、17節の主イエスの御言葉です。「そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』

ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしてしまった。」

 

預言者イザヤは、旧約聖書のイザヤ書第567節で、エルサレム神殿について、こう預言しています。「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き わたしの祈りの家の喜びの祝いに 連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。

 

預言者イザヤを通して、主なる神は異邦人たちや宦官の救いを約束されました。イザヤ書56章以下の預言者イザヤは無名の預言者です。彼は、紀元前515年前後に、バビロン捕囚の民たちがペルシアの王クロスによって解放され、エルサレムに帰還し、第二神殿を再建した前後に活躍しました。

 

預言者を通して主なる神が「わたしの祈りの家」「すべての民の祈りの家」と呼ばれる第二神殿に、異邦人たちを、また、宦官たちを招き入れると約束されています。

 

異邦人たちは、主なる神が御自身の民イスラエルと自分たちを区別されると嘆きました。宦官たちは、「見よ、わたしは枯れ木にすぎない」と嘆きました。

 

しかし、主なる神は預言者を通して、彼らに安息日と恵みの契約の遵守を条件に、異邦人たちを、宦官たちを、聖なるわたしの山、すなわち、エルサレムの都にある神殿での礼拝に招くと約束されました。

 

主なる神は、異民族であることを理由に、あるいは体に欠陥があることを理由に彼らを主の神殿での礼拝から排除することをしないと約束されました。エルサレム神殿はすべての民が主なる神を礼拝するためのものでした。

 

主なる神が異邦人たちや宦官たちに要求されたのは、「公正を守り、正義を行うこと」「安息日を守ること」「悪に手を貸さないこと」「主なる神との恵みの契約を守ること」でした。主なる神との契約を守ることは、主なる神に服従して生きることです。その目に見えるしるしが安息日を守り、主なる神を礼拝することでした。

 

ところが、預言者エレミヤが活躍しました頃、南ユダ王国は滅亡の危機にありました。主なる神は、バビロニア帝国のネブカドネツァル王を用いてエルサレムの都と神殿を、神の民たちを滅ぼそうとされました。

 

主なる神は預言者エレミヤを通して、旧約聖書のエレミヤ書711節で神の民たちにこう預言されました。「わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。

 

ヨシヤ王が紀元前609年にエジプトのパロ、ネコと戦い、非業の死を遂げました。ヨアハズ王はネコによって廃され、エホヤキムが王に即位しました。しかし、エホヤキム王は、主なる神の戒めを守りませんでした。エルサレムの都は、不義に満ち、王を始め高官たちは弱者を虐げ、主なる神を捨て、偶像礼拝をしました。

 

神の民たちは、主なる神よりも神殿を信頼し、神殿に避けどころを求めました。そして神殿は彼らの不正を守る盾になっていました。だから、泥棒が悪事を働いて、隠れる場所が強盗の巣屈であるように、彼らは自分たちの悪事を隠す場所に神殿を用いていたのです。

 

エレミヤの預言する主なる神は、御自身の御名によって礼拝され、賛美されるお方であるのに、その主なる神を礼拝し、賛美する神殿が悪人の逃れ場となっていたのです。

 

だから、主なる神はエレミヤを通して、昔シロの聖所を破壊したように、エルサレムの都と神殿を破壊するのだと宣言されました。

 

今主イエスの目には、エルサレム神殿がエレミヤの時代の神殿と同じ状況にありました。神殿の動物犠牲は主イエスの十字架の予型であります。神殿は、主イエス・キリストへの信仰を伝える場でありました。

 

しかし、主イエスの時代の祭司やファリサイ派の律法学者たち、そしてヘロデ党の人々、民衆たちも、主イエス・キリストよりも神殿に信頼しました。祭司たちは神殿の礼拝よりも神殿の境内でなされている両替や動物犠牲の売買で得た利益で自分たちの生活を潤そうとしました。

 

主イエスの目には、預言者エレミヤが見たように、神殿が悪人たちの逃れ場になっていました。

 

だから、主イエスが旧約の預言者たちの御言葉によって神殿が悪人の隠れ家になっていると非難されると、支配者たち、すなわち、祭司長たちや律法学者たちはそれを聞いて、主イエスを殺そうと相談したのです。

 

エレミヤの預言が当時の人々に神殿を冒涜していると思われたように、主イエスの御言葉を聞いた祭司長たちや律法学者たちは主イエスが神殿を冒涜されたと思ったのです。

 

預言者エレミヤの預言が実現したように、主イエスの御言葉も紀元70年に実現します。主イエスが強盗の巣にしていると言われたエルサレム神殿は、ソロモン王が建てた神殿がシロの聖所のように破壊されたように、ローマの軍隊によってエルサレムの都と共に破壊されました。

 

マルコによる福音書が神殿をきよめられた主イエスによってわたしたちに伝えようとすることは、次のことだと思うのです。

 

今神殿は、ありません。神殿はわたしたちです。使徒パウロがコリントの信徒への手紙一3章で神殿はわたしたちであると述べています。そして、神殿であるわたしたちは、主イエスがエルサレム神殿の信仰を試されたように、わたしたちの信仰を試されます。

 

主イエスは言われました。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ6:21)と。

 

今やエルサレム神殿はこの世に存在しません。しかし、キリスト者という神殿が存在しています。この神殿は、キリストの十字架の死によって建っています。キリストの十字架は、わたしたちの罪の身代わりであるという信仰です。

 

しかし、キリストの十字架を、わたしたちの悪の隠れ家にするならば、わたしたちは十字架の主イエスへの信仰より、わたしたちの信仰を信頼し、わたしたちに信仰があるからどんなわたしたちの罪も悪事も赦されると考えるようになるでしょう。

 

そうすると、使徒パウロが言うように、わたしたちの神殿は壊されてしまうでしょう。だから、今朝主エスが語られていることは、わたしたちの信仰の問題なのです。

 

レントのこの時に十字架の主イエスへの確かな信仰に、わたしたちが生きているのかと問われているのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、レントの第3主日を迎えました。今朝はマルコによる福音書第111519節の御言葉を学べる機会をお与えくださり感謝します。

 

今朝は、主イエスが神殿をきよめられた出来事を学びました。

 

レントの今、どうか今朝の御言葉を通して、わたしたちの信仰が真実に主イエス・キリストに対する信仰であるのかを顧みさせてください。

 

空念仏のように、「主よ、主よ」と唱えるだけであれば、わたしたちもこの神殿であるわたしたちを、強盗の巣にしていることになります。

 

自分の安全や豊かな生活のために、信仰、信仰と言うのであれば、主イエスはそれは偽りの信仰であり、いつの日か神殿であるわたしたちも壊れてしまうと、使徒パウロの口を通して警告されています。

 

どうか十字架の主イエス・キリストへと、わたしたちの目を向けさせてください。口だけではなく、心も体も主イエス・キリストへと向けさせてください。

 

どうか、この教会を、わたしたちの悪事の隠れ家とすることなく、ここで兄弟姉妹と共に主イエスの御言葉を聞き、共に主イエスを神として礼拝し、賛美させてください。共に主イエスをわたしたちの救い主と信じ、御国へと歩ませてください。

 

弱いわたしたちです。信仰につまずき、挫折するかもしれません。それでも十字架の主イエス・キリストにわたしたちの目を向かせてください。

 

わたしたちの罪のために十字架に死なれた主イエスに、わたしたちを委ねさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

マルコによる福音書説教57              2021321

翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」そこで主イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりなると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」

                       マルコによる福音書第112025

 

説教題:「信仰と祈りの力」

レント(四旬節)の第四主日を迎えました。今週も受難の主イエスを心に留めつつ、次週の受難週、そして44日のイースターに備えて行きましょう。

 

今朝は、受難週の第三日目、火曜日の主イエスの受難の出来事を学びましょう。受難週の三日目のマルコによる福音書の記事は、第1120節から1337節までです。

 

マルコによる福音書は、第1112節から14節と2126節で主イエスが実をつけていないいちじくの木を呪われ、根元から枯らされた奇跡とそれに伴う山を移す奇跡の信仰、祈りの確信、罪の赦しについての主イエスの教えを記しています。そして1127節から1244節で主イエスと宗教的指導者たちとの論争を記し、13章で主イエスの終末についての教えを記しています。

 

マルコによる福音書は、主イエスが実のならないいちじくの木を呪われ、枯らされた奇跡の記事で、主イエスがエルサレム神殿を清められた出来事を囲んでいます。

 

このいちじくの木は、不信仰なイスラエルです。主イエスが実のならないいちじくの木を呪って、根元から枯らされた奇跡は、神が不信仰なイスラエルを根元から、エルサレム神殿から裁き、滅ぼされることを意味しているのです。

 

主イエスが実のならないいちじくの木を呪って、根元から枯らされたという奇跡は、実際に起こった出来事です。だから、マルコによる福音書は、112021節で、こう記しているのです。「翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」」。

 

このように主イエスの具体的な活動の記録を残している所に、マルコによる福音書の価値があるのです。

 

マタイによる福音書は、根元から枯れたいちじくの木から主イエスが語られる三つの教訓を記しています。第一に信仰です。第二に祈りです。第三に罪の赦しです。

 

2225節の主イエスの御言葉は、マルコによる福音書の以前に初代教会の中に保存されていたと考えられています。

 

教会は継続されなければなりません。何が教会の力となり、命となるのだろうか。紀元前70年にローマ帝国の軍隊によってエルサレムと神殿が破壊された後に、初代教会のキリスト者たちは考えたでしょう。

 

マルコによる福音書は、呪われたいちじくにではなく、奇跡を行われたキリストに注目しました。それは、初代教会のキリスト者たちが呪われたいちじくにではなく、奇跡を行われた神の子イエス・キリストに注目したからです。

 

わたしたちも受難のキリストに注目しようではありませんか。

 

受難の主イエスは12弟子たちに、22節で「神に対する信仰を持ちなさい」と命令されています。イングリシュバイブルは、「ハブ フェイス イン ゴッド」と英訳しています。日本語訳聖書は、「神を信じなさい」です。

 

主イエスは、12弟子たちに、そしてわたしたちに神に対する信仰を持てとお命じになりました。この信仰は奇跡の信仰です。マルコによる福音書は、23節で、こう主イエスの御言葉を記しています。「そこで主イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりなると信じるならば、そのとおりになる。

 

はっきり言っておく。」は、「アーメン、わたしは言う」という文章です。これは、主イエスが言われていることを、約束として保証するという意味です。

 

この信仰は人が努力して得られるものではありません。神が持たせてくださるのです。聖霊がわたしたちにお与えくださる信仰です。聖霊がわたしたちを神と十字架のキリストへの信仰に導いてくださいます。

 

わたしたちは自らの力に頼み、神に対する信仰を持つことは不可能です。なぜなら、わたしたちの心には不信仰という大きなつまずきがあるからです。例えば、復活の主イエスに出会っても、12弟子のひとりトマスは、信じませんでした。彼は言いました。「復活の主イエスの両手に釘痕を見、わき腹に槍の刺し傷を見るまで信じない」と。

 

このようにわたしたちの心が少しも疑わないという保障はありません。むしろ、わたしたちの心もまた、不信仰があふれ出て来るし、疑いが常に生まれてきます。

 

信仰を持つという保証は、わたしたちにはありません。むしろ、今主イエスが約束してくださっているのです。主イエスは、12弟子たちに信仰を持ちなさいとお命じになり、ペンテコステの日に彼らに聖霊を遣わされて、聖霊を通して神に対する信仰、主イエスに対する信仰をお与えになりました。だから、彼らは信仰を持つために何の努力もしてはいません。聖霊が彼らに信仰を与えられ。彼らの口を通して「アバ、父よ」と呼びかける、神に対する信仰をお与えくださったのです。だから、主イエスが「信仰を持ちなさい」とお命じになる信仰は、神の奇跡の信仰です。

 

そしてこの信仰は、神に、受難の主イエスに寄り頼む信仰です。わたしたちは、神を仰ぎ、十字架の主イエスを仰ぐだけで良いのです。神に期待し、キリストに期待するだけで良いのです。

 

神御自身が成し遂げてくださいます。強い信仰でなくても、神を信じ、主イエスを信じているならば、父なる神と主イエスがわたしたちをこの世から神の国へと移してくださるのです。

 

この信仰がこの世で教会とキリスト者たちを堅く守るのです。

 

そして、信仰は祈りという行動を通して具体的となるのです。主イエスは、24節でこう言われています。「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。

 

言っておく。」には「アーメン」という言葉はありません。しかし、主イエスが言われることは、わたしたちにとって確かな約束です。

 

ウ小教理問答を読んでみてください。神の恵みの外的手段が御言葉と礼典と祈りであると教えています。

 

聖霊は直接わたしたちの心に働かれて、わたしたちが信仰と罪の悔い改めをなすように導いてくださいます。そしてわたしたちが口で告白した信仰を強めるために、聖霊は礼拝において御言葉と礼典を用いられ、キリストの十字架の贖いをわたしたちに伝えられます。

 

祈りも同じです。祈りを用いて聖霊は、キリストの十字架の贖いの恵みをわたしたちに伝えられます。

 

有名な祈りは、主の祈りです。主イエス御自身が12弟子たちに教えられ、わたしたちに教えてくださった祈りです。

 

そしてこの祈りが信仰を持ってこの世を生きるキリスト者たちの指針となっています。

 

わたしたちは、主の日の礼拝ごとに主の祈りを唱えています。すると、主イエスは今朝のマルコによる福音書の御言葉によって、「主の祈りを祈り求めるあなたがたは、既にすべてを得ていると信じなさい」とお命じになっています。そうすれば、主の祈りの通りになると約束されているのです。

 

主イエスは、このように信仰と祈りを通して、この世の闇の中で教会を光として輝かせてくださっています。

 

教会の輝きの中心は、十字架です。主イエスの十字架によって教会は、神に罪を赦され、神と和解する場所となっただけではありません。わたしたちがキリストの十字架によって罪を赦され、神の子とされました。わたしたちは、神の家族となりました。だからわたしたちは、兄弟姉妹です。互いに十字架によって敵意を除かれました。教会はわたしたちが互いに罪を赦し合ってこそ、十字架の下に立つ教会なのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、レントの第4主日を迎えました。今朝はマルコによる福音書第112025節の御言葉を学べる機会をお与えくださり感謝します。

 

今朝は、主イエスに呪われて、根から枯れたいちじくの木が不信仰なイスラエルであり、主イエスが清められた神殿であることを学びました。

 

また、呪われ、枯れたいちじくの木に注目するのではなく、受難の主イエスに注目することの重要性を学びました。

 

父なる神と主イエスが聖霊を通してお与えくださる信仰、そして祈りがこの教会とわたしたちを、この世の闇の中で光として輝かせている喜びを知り感謝します。

 

また、毎週の礼拝ごとに主の祈りを祈るごとに、すでに主イエスがこの祈りをかなえて下さっている恵みを知り、感謝します。

 

この教会がキリストの十字架によって、わたしたちとこの世の人々との和解の場としてください。主よ、あなたによって罪を赦されたのですから、兄弟姉妹の罪を、隣人の罪を赦すことができるようにしてください。

 

どうか今週も十字架の主イエス・キリストを瞑想し、次週の受難週へと備えさせてください。

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。