コリントの信徒への手紙一説教01         主の201415

 

 

 

 神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあ

 

                  コリントの信徒への手紙一第113

 

 

 

 説教題「挨拶」

 

 あけましておめでとうございます。今朝はひとつのお話から、コリントの信徒への手紙一を学び始めたいと思います。

 

 

 

 昨年にマタイによる福音書を学び終えました。復活の主イエス・キリストは、いつまでも神の教会と共にいると約束してくださいました。その主イエスの約束の御言葉を心に留めながら、パウロの手紙を学ぶことができれば感謝であります。

 

 

 

さて、一つのお話です。

 

 

 

ガリラヤで主イエス・キリストが徴税人のひとり、マタイを弟子にお召しになりました。主イエスは、彼の家で弟子たちと共に大勢の徴税人や罪人たちをお招きになり、一緒に食事をされました。それを見ていたファリサイ派の人々が弟子たちに向かって主イエスを非難しました。「お前たちの先生は、徴税人や罪人たちと一緒になって食事をしている」と。

 

 

 

主イエスはこれを聞いて言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイによる福音書9913)

 

 

 

コリントの人々は、魂の病人でした。体は丈夫でした。コリントの町では、2年に1回オリンピックが開かれていました。人の知恵を誇り、知性がありました。コリントの地は交通の要所であり、経済も宗教も盛んでありました。

 

 

 

しかし、コリントの人々の魂は病んでいました。旧約聖書の中で悪徳の町として有名なソドムの町のように、コリントは不道徳で、悪徳の町でした。

 

 

 

主イエスは、病人を御自身に招かれただけではなく、御自身に代わってパウロを使徒として病めるコリントの町に遣わされました。

 

 

 

ですから使徒パウロは、この手紙の冒頭に「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ」と自己紹介しています。

 

 

 

父なる神とキリストの御心によって、キリスト・イエスの代理人とされ、全権を委ねられて、使徒に召されたパウロは、紀元51年ごろコリントの町に遣わされ、キリストの福音を伝えました。彼は1年と7カ月開拓伝道をしました。その成果の実としてコリント教会が生まれました。

 

 

 

それからパウロはコリント教会を離れました。何年かが過ぎました。パウロは、小アジアのエフェソの町に滞在していました。そこからパウロはコリントにある神の教会に宛てて、コリントの信徒への手紙一を書き送りました。

 

 

 

これは、魂を病んだ教会に宛てた手紙です。人間が病むように、教会も病みます。魂を病める人に主イエスが必要であるように、魂を病める教会にキリストの福音が必要であります。

 

 

 

コリント教会がどんな病気に掛かっていたのか、その時が来れば学びたいと思います。今朝は、パウロの手紙のあいさつから学びましょう。

 

 

 

パウロは、コリントにある神の教会に古代の手紙の慣例に従い、あいさつを書き送りました。「恵み」はギリシア人のあいさつの言葉であり、「平和」はユダヤ人のあいさつの言葉でした。

 

 

 

パウロは、ローマの信徒への手紙と同様に、手紙を「パウロ」という彼の名によって書き始めています。

 

 

 

この手紙の差出人の「パウロ」は、父なる神とキリストが永遠の決意により、キリストの使徒に召された者であります。これが、パウロが自分について理解していることです。

 

 

 

パウロは、主イエスの12使徒たちと同じように復活の主イエス・キリストを目撃しました。そして、キリストの証人として全世界の異邦人たちにキリストの福音を宣べ伝えました。彼は教会を建て上げ、指導する使徒としての特別の任務を、キリストから委ねられていました。

 

 

 

ですから、パウロは、手紙のあいさつの最初に彼の使徒としての働きが父なる神とキリストの御意志であり、キリストが彼を使徒に召されたことを強調しているのです。

 

 

 

それと共に、パウロはこの手紙をプライベートに書いているのではありません。キリストの代理人、キリストの全権を代表する大使として、公のものとして書き送っていることを、コリントにある神の教会に伝えようとしているのです。

 

 

 

ですから、パウロの語ることは、キリスト御自身が語られることなのです。

 

 

 

このパウロを通して、ガリラヤで徴税人や罪人たちを招かれたキリストが、病めるコリントにある神の教会を食卓に招かれているのです。

 

 

 

それゆえにこの手紙の11章にパウロを通して主の晩餐がなされています。

 

 

 

パウロを通して、復活のキリストはコリントにある神の教会と共にいてくださり、「いけにえ」ではなく、「憐れみ」をお求めになりました。

 

 

 

パウロの手紙を受け取りましたコリント教会は、病める教会でした。

 

 

 

しかし、パウロを通して、復活のキリストは、罪に病めるコリント教会を拒否されませんでした。むしろキリストはパウロを通して憐れみをお示しになりました。

 

 

 

キリストは、病めるコリント教会との交わりを断つのではなく、パウロを通して関係を持ち続けて、「コリントにある神の教会」として受け入れてくださいました。

 

 

 

キリストが徴税人や罪人たちを招かれ、常に一緒にいてくださるので、この地上の教会は神の教会なのです。

 

 

 

そして、そこでキリストの十字架の福音によって、魂が癒され、神の恵みの出来事が起こるのです。

 

 

 

その恵みの第1が「わたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求める」という出来事です。病めるコリントにある神の教会で神礼拝をする人々が次々と起こされているという恵みの事実であります。

 

 

 

2に病めるコリントにある神の教会は、キリストに召されて、聖なるものとされているという恵みの事実であります。

 

 

 

キリストは、パウロの語るキリストの福音を通して、罪人であるコリントの人々を神の教会に召して、「聖なるもの」とされました。

 

 

 

コリントにいる人々が聖徒、すなわち、キリスト者にされたのはキリストの憐れみであります。

 

 

 

3にコリントにある教会は、公同の教会の豊かな交わりにあるという恵みの事実であります。

 

 

 

「イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。」キリストを信じるすべての者たちは、信仰によって復活の主イエス・キリストの命の交わりに入れられています。

 

 

 

恵みは、ギリシア人のあいさつであり、平和はユダヤ人のあいさつです。

 

 

 

日本語の「『こんにちは』です」と言うと、有難味がありません。

 

 

 

しかし、罪に病める人が、遠く神から離れて生きている人が、キリストと「こんにちは」とあいさつし、父なる神に「こんにちは」と言って親しく近づけることを、神の教会は祈り続けています。

 

 

 

そのために教会は、キリストの福音を人々に伝えているのではありませんか。

 

 

 

使徒パウロは、この手紙のあいさつを書きながら、ガリラヤで徴税人や罪人たちを食卓に招かれたキリストの憐れみを心に留めていたことでしょう。

 

 

 

彼は、心から病めるコリントにある神の教会に、父なる神とキリストの「恵みと平和」があるように祈ったことでしょう。

 

 

 

今から聖餐式にあずかります。

 

 

 

わたしたちの教会もコリントにある神の教会と同じです。病める教会であり、病めるキリスト者です。

 

 

 

だからこそ、復活の主イエス・キリストは、わたしたちを今朝の食卓に招かれました。

 

 

 

そして、御自身の御言葉を通してわたしたちの罪の赦しを宣言し、わたしたちに御国の祝福を約束してくださいます。

 

 

 

そして、パンとぶどう酒を差し出して、パンを食べ、ぶどう酒を飲むわたしたちに、御言葉の約束を保証してくださるのです。

 

 

 

わたしたちの教会を、神の教会とするのは、わたしたちではなく、キリストの福音を通して、わたしたちを召されたキリスト御自身です。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今年よりコリントの信徒への手紙一を学びます。

 

 

 

わたしたちに、ガリラヤで徴税人と罪人を食卓に招かれたキリストの憐れみに、信仰の目を向けることができるようにしてください。

 

 

 

コリントにある神の教会と同じように、わたしたちの教会においてもキリストにより教会に召され、礼拝し、聖餐の恵みにあずかり、聖なるものとされる恵みの事実を今年も見させてください。

 

 

 

心から主を感謝し、賛美し、新しき年を、主の憐れみのうちに歩ませてください。

 

 

 

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

コリントの信徒への手紙一説教02         主の2014112      

 

 

 

 わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。

 

           コリントの信徒への手紙一第149

 

 

 

 説教題「感謝」

 

 コリントの信徒への手紙一の差出人は、使徒パウロと「兄弟ソステネ」であります。しかし、「兄弟ソステネ」については、この手紙の中に何も情報がありません。「兄弟」とありますので、彼はコリント教会に関係した人物であり、コリント教会の兄弟姉妹たちは彼をよく知っていたでしょう。

 

 

 

 使徒言行録の1817節に「ユダヤの会堂長のソステネ」という人物が描かれており、この人物が、後にキリスト者となった「兄弟ソステネ」であると言う人もいますが、その証拠は見つかっていません。

 

 

 

 さて、使徒パウロは、コリントにある神の教会にこの手紙で挨拶をしました。まず自己紹介をしました。それから手紙の宛て先人でありますコリントにある神の教会に挨拶をし、彼らがキリストの召された聖なる者たちの群れであることを知らせています。挨拶の最後にパウロはコリントにある神の教会のために父なる神とキリストからの恵みと平和を祈りました。

 

 

 

それから使徒パウロは、この手紙で神への感謝を述べています。

 

 

 

新年礼拝で使徒パウロのテサロニケの信徒への手紙一第51617節の御言葉を学びました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

 

 

 

使徒パウロは、わたしたちキリスト者に「どんなことにも感謝しなさい」と勧めています。

 

 

 

しかし、わたしたちにとって感謝の祈りほど難しいものはありません。

 

 

 

実際に、わたしたちが病んでいて、神に感謝することができるでしょうか。辛い日々が続き、悲しい日が続くのに、どうして神に感謝できるでしょうか。

 

 

 

使徒パウロも病めるコリント教会の実情を聞いていました。心から悲しみ、涙したでしょう。実際にパウロは、コリント教会に涙の手紙を出しました(Ⅱコリント7)。この手紙は今日存在しません。

 

 

 

病めるコリント教会を、神に感謝するには程遠い有様でありました。

 

 

 

だが、使徒パウロは人間を見ていませんでした。神の主権性と摂理に信頼しました。

 

 

 

新年礼拝で、神への感謝は神の主権性と摂理への信頼であることを学びました。

 

 

 

使徒パウロの信仰に変わりはありません。パウロは、時が良くても悪くてもキリストの福音を宣べ伝え、神に感謝し、神の主権性と摂理を信じて、教会形成に励みました。

 

 

 

ですから、パウロは病めるコリント教会に対して、「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています」と書くことができました。

 

 

 

たとえ病んでいても、コリント教会は「キリスト・イエスによって神の恵みを受けた」ので、この地上に存在しているのであります。

 

 

 

パウロは、キリストの十字架の福音がコリント教会にもたらした神の恵みに目を向けて、神に感謝しました。

 

 

 

病めるコリント教会は、キリスト・イエスによってどんな神の恵みを受けたのでしょうか。

 

 

 

コリント教会は、パウロが伝えたキリストの福音を信じて、キリストと一体となる恵みを得ました。

 

 

 

実際にはコリント教会は、「あらゆる言葉とあらゆる知識において、すべての点で豊かになりました。」(5)

 

 

 

コリント教会のキリスト者たちが、特に関心を持っていたのが、「言葉」と「知識」でした。

 

 

 

言葉とはロゴスです。コリントの人々は、宇宙や人生を支配する原理、すなわち、神と理解しました。

 

 

 

知識はグノーシスです。神認識のことです。宇宙やわたしたちの人生を支配し、動かしているものが何であるかを知り、それに基づいて生きるにはどうすればよいかを知る知識であります。

 

 

 

パウロは、神とキリストによって、この点でとりわけコリント教会が豊かにされていることを感謝しています。

 

 

 

キリストがコリント教会に与えられた言葉の賜物とは、6節の「キリストについての証し」であります。

 

 

 

パウロがコリントの人々に伝えたキリストの福音のメッセージであります。

 

 

 

わたしたちが毎週礼拝で聞いている説教の言葉であります。パウロは、ローマ信徒への手紙の1017節で「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と述べています。

 

 

 

この「キリストの言葉」が、コリント教会のキリスト者たちが愛したロゴスであります。

 

 

 

コリント教会のキリスト者たちは、キリストから知識の賜物を与えられていましたので、使徒パウロとアポロ、そして使徒ペトロが語ります福音を理解することができました。それゆえコリントの町にキリストの福音が沁み渡り、コリント教会が生まれ、キリストの福音は「あなたがたの間で確かなものと」なりました。

 

 

 

コリント教会は、異教と悪徳のコリントの町においてキリストから賜った言葉と知識の賜物によりキリストの福音に生きる教会となりました。

 

 

 

7節にコリント教会が福音に生きる教会となった結果を、パウロは次のように記しています。

 

 

 

1にコリント教会は、キリストにより「賜物に何一つ欠けることがない」という恵みを得ました。

 

 

 

この手紙の12章に聖霊がコリント教会に与えられた霊の賜物のリストがあります。

 

 

 

パウロの言葉が、ここで表現していることは、次のことです。聖霊を通してパウロの語る福音を聞いて、知識の賜物によってそれを理解したコリント教会のキリスト者たちは、キリストを主と信じ、キリストの福音に生きました。そのようにコリント教会は、神の豊かな恵みに生かされました。

 

 

 

2にコリント教会は、キリストの再臨に向けて生きる教会とされました。

 

 

 

「わたしたちの主イエス・キリストの現れ」とは、キリストの再臨のことです。「現れ」とは「啓示」のことです。ベール(覆い)が取れるという意味です。

 

 

 

教会は、キリストの現れとキリストの日、すなわち、キリストの再臨を待ち望み、この世の途上に生きるのであります。

 

 

 

その時に教会を支えるのは、人ではありません。神の主権であり、摂理であります。

 

 

 

現在は、臨在のキリストがわたしたちの目に見えません。わたしたちは、コリント教会と同じように、キリストが遣わされた聖霊によって言葉と知識の賜物をいただき、毎週の礼拝の説教を聞き、理解し、キリストを主と信じて、目に見えないキリストが招かれる聖餐式にあずかり、キリストの再臨と御国の完成を待ち望んでいます。

 

 

 

そこでコリント教会とわたしたちにとって大切なことを、パウロは9節で「神は真実な方です」と信仰告白しています。

 

 

 

キリストは、徴税人や罪人を御自身の交わりに招かれたように、病めるコリント教会の兄弟姉妹たちを、パウロを通して「わたしたちの主イエス・キリストの交わり」に招かれました。それによってキリストをこの世に遣わされた神が真実な方であることが明らかにされました。

 

 

 

なぜなら、キリストは食事に招かれた者たちを、お見捨てになりませんでした。主を裏切りました弟子たちを、復活の主キリストは変わることなく、愛され、食事に招き、彼らの罪を赦され、そして、彼らをキリストの代理人とされました。

 

 

 

目に見えないキリストが今、わたしたちをこの教会の聖餐式を通して、御自身の交わりに招き入れてくださり、御言葉によって罪の赦しを宣言し、御国を約束してくださいます。

 

 

 

神は真実な方ですから、キリストの約束を反故にすることはありません。キリストは、わたしたちに御自身を現わされる再臨の日まで、御自身の主権と摂理により、わたしたちを最後まで支えてくださり、御前に責められるところのない、非の打ちどころのない者としてくださいます。

 

 

 

わたしたちが、本当に頼り、信頼できるのは、真実な神であり、人としてこの世に来てくださり、十字架の贖いを通して、わたしたちをこの教会の聖餐の場に招かれるキリストであります。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、パウロにとって、病めるコリント教会において主イエス・キリストの交わり、すなわち、聖餐式にあずかれた事実こそ、コリント教会についてのパウロの感謝の中心であることを学ぶことができて、心から感謝します。

 

 

 

わたしたちも神が真実なお方であることを信じて、神を礼拝し、聖餐の恵みにあずかり、希望を持って再臨のキリストを待ち望ませてください。

 

 

 

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

コリントの信徒への手紙一説教03         主の2014119

 

 

 

 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。

 

              コリントの信徒への手紙一第11017

 

 

 

 説教題「一致」

 

 コリントの信徒への手紙一は、コリントにある病める神の教会に宛てた使徒パウロの手紙であります。

 

 

 

 病めるコリント教会の第1の症状は、分派争いでありました。

 

 

 

 使徒パウロは、この手紙をエフェソ教会で書いています。クロエの家の人たちがパウロにコリント教会の中で4つのグループに分かれて、争いが起こっているという悪いニュースを伝えました。

 

 

 

 「わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの人たちから知らされました。」(11)

 

 

 

 クロエとは、「最初に出た緑の若穂」という意味であります。女神デメテルにつけられた名前であり、女性につけられる名前であります。クロエがキリスト者であったかどうかは分かりません。少なくともクロエという女主人の下で働いていたクロエの家の人たちはキリスト者たちでありました。彼らは、クロエの子供たちか、彼女の下で働く奴隷たちだったでしょう。

 

 

 

 クロエの家の人たちがパウロにコリント教会の中に争いがあることを知らせました。

 

 

 

どのように彼らは、エフェソにいるパウロに知らせたのでしょうか。エフェソにいるパウロを尋ねたのでしょうか。手紙を出したのでしょうか。

 

 

 

それともクロエの家の人たちはパウロと同じようにエフェソに住んでおり、コリントの町に仕事で出かけて、コリント教会の礼拝に出て、そこで彼らの争いを見て、パウロに知らせたのでしょうか。

 

 

 

こうした事情はよくわかりません。わかることは、クロエの家の人たちはパウロにもコリント教会の兄弟姉妹たちにも信用されている人々でありました。

 

 

 

パウロは、コリント教会の争いを直接には見てはいません。しかし、身元の確かな、信用できるクロエの家の人たちから情報を得て、確かにコリント教会には分派争いという病があると診断しました。

 

 

 

実際に病めるコリント教会は、教会員各々が勝手に4つのグループを作って言い争っていました。

 

 

 

第1のグループの教会員たちは「わたしはパウロにつく」と主張しました。第2のグループの教会員たちは「わたしはアポロに」と主張しました。第3のグループの教会員たちは「わたしはケファ(ペトロ)に」と主張しました。そして第4のグループの教会員たちは「わたしはキリストに」と主張しました。

 

 

 

「言い合っている」とありますので、教会が決定的に分裂したという深刻な事態にはなっていません。

 

 

 

しかし、パウロには見過ごしにできない状況でした。「言い合っている」というコリント教会の症状を放置すれば、彼らの言い争いはさらにエスカレートし、深刻な対立となり、コリント教会は決定的に分裂しかねませんでした。

 

 

 

何よりもパウロの心を痛めたことは、彼らの言い争いが教会の一致を踏みにじっているということでありました。

 

 

 

ですからパウロは、コリント教会の兄弟たちに次のように勧告したのであります。「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」(10)

 

 

 

パウロは、主イエス・キリストによってコリント教会に遣わされた使徒であります。パウロの勧告は主イエス・キリストの勧告であります。

 

 

 

パウロは主イエス・キリストの心と思いを一つにして、主イエスが勧められるように、パウロはコリント教会の兄弟たちに一致を勧めているのであります。

 

 

 

パウロの勧めは3つであります。

 

 

 

1は、「皆、勝手なことは言わず」という勧めであります。口語訳聖書では「みな語ることを一つにし」と訳されていました。「語ることを一つにする」とは、パウロの時代、政治に使われる言葉で、「国と国が平和条約を結ぶこと」を意味しました。

 

 

 

パウロは、ここで次のことを勧めました。コリント教会の兄弟たちが、皆、勝手に「わたしはパウロに」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」とそれぞれがスローガンを言い争うのではなく、同じ言葉を語り合うように勧めました。

 

 

 

わたしたちは、礼拝の中で同じ言葉を語り合いますね。たとえば、罪の告白の言葉であります。主の祈りの言葉であります。使徒信条やウェストミンスター小教理問答の言葉であります。それによってわたしたちは、信仰において一致しているのであります。

 

 

 

パウロは、コリント教会の兄弟たちにその一致を勧めています。

 

 

 

2は「仲たがいせず」という勧めであります。口語訳聖書では、「お互いの間に分争がないようにし」と訳されていました。

 

 

 

パウロは、コリント教会の兄弟たちに言い争わないようにしなさいと勧めました。言い争いだけでは、すぐに教会の分裂には至らないかもしれません。しかし、それは分裂の火種になる危険があります。だから、仲たがいしないようにしなさいと、パウロは勧めているのです。

 

 

 

3は、「心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」という勧めであります。

 

 

 

心と思いは、今日の言葉に言い直しますと、理性的判断と言えると思います。

 

 

 

理性的判断においてキリスト教についての考え方の全体と、教会におけるいろいろな具体的問題の解決を、一致するように、パウロは勧めています。

 

 

 

ウェストミンスター信仰告白の第1章「聖書について」の6節に、次のように記しています。「また神礼拝と教会統治に関しては、常に守らなければならないみ言葉の通則に従い、自然の光とキリスト教的分別とによって規制されなければならない。人間の行動と社会に共通のいくつかの事情のあること、を認める」

 

 

 

パウロの「心を一つにし思いを一つにして」とは、「自然の光である理性とキリスト教的分別によって」という意味であり、それによって判断し、言い争いを解決し、一致するように、パウロは勧めているのであります。

 

 

 

固く結び合うとは、機械の部品を正常に動くように調整することを意味する言葉でありました。こわれた物を修理するという意味もありました。

 

 

 

パウロがこの言葉を用いて勧めているのは、次のことでしょう。

 

 

 

わたしたちキリスト者は、キリストの一つの体なる教会の一つ一つの肢であります。わたしたちはキリストの体として組み込まれております。だれもが共に御言葉を学び、共に祈り、共に奉仕しています。そのために教会員の各々が訓練されていないと、キリスト教会は正常に動かないということであります。

 

 

 

 コリント教会の分派争いとは、中身は言い争いでした。すなわち、教会員たちが各々の自分の心で判断したことでした。「わたしはパウロ先生につく」「わたしは雄弁な説教をするアポロ先生を支持する。」「わたしはペテロ先生につく」「わたしはキリストの声だけに従うだけだ」と、教会員が各々勝手に言い争いをしていました。

 

 

 

 そこでパウロは、彼らの言い争いを処方するために3つの質問をしました。医者が患者に問診するのと同じであります。

 

 

 

 第1は、「キリストは幾つにも分けられたのですか」という質問であります。

 

 

 

 パウロは、この質問によってコリント教会の兄弟たちが勝手に言い争うことによって、本来コリント教会は一つのキリストの体であるはずなのに、実際は教会が分裂しているということを指摘しているのであります。

 

 

 

2は、十字架につけられたのは、だれであるかという質問であります。

 

 

 

 パウロは、自分の名だけを取り上げて、「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか」と質問しています。

 

 

 

「あなたがたのために」とは、「あなたがたの利益のために」という意味であります。コリント教会の兄弟たちの罪を償い、永遠の命を与え、神の子の身分を与えたのは、このパウロなのかと質問したのです。

 

 

 

パウロは、コリント教会の兄弟たちに「パウロ」「アポロ」「ケファ(ペトロ)」「キリスト」という名前ではなく、「十字架のキリスト」の事実のみが重要であることを訴えました。

 

 

 

3は、だれの名で洗礼を受けたのかという質問であります。

 

 

 

 パウロは、ここでも自分の名前だけを用いて、「あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。」と質問しています。

 

 

 

「名によって」とは、所有権を表します。すなわち、パウロはコリント教会のキリスト者たちに「あなたがたは、わたしの所有となるために洗礼を、わたしから受けたのか」と質問したのです。

 

 

 

パウロは、コリント教会の兄弟たちに洗礼を施したのは、数人の者たちであったことを神に感謝しています。コリント教会の兄弟たちが「パウロの名によって洗礼を受けた」と言える者がだれもいないからです。

 

 

 

そしてパウロは、最後に彼の使徒としての使命を語ります。キリストがパウロを異邦人に遣わされたのは、「洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせる」ためでした。

 

 

 

実際にパウロは、異邦人への福音宣教を優先しました。洗礼を施すのはパウロの弟子たちや他の人々でありました。パウロは、キリストの十字架の言葉、キリストの福音を一人でも多くの異邦人に伝えることを優先しました。

 

 

 

パウロは、ローマの信徒への手紙101415節に次のように述べております。

 

 

 

「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。」

 

 

 

パウロは、このキリストの十字架の福音がむなしいものにならないように、言葉の知恵を用いないで告げ知らせると語り、次のコリント教会の兄弟たちの病を処方しようとしているのであります。

 

 

 

コリントの信徒への手紙一は、ある意味で魂の医師であるパウロの診断書のようなものであります。これを見て、わたしたち教会を診断する必要があるでしょう。現在のわたしたちの教会の健康状態はどうでしょうか。

 

 

 

 

 

大きな問題はないかもしれません。目に見えて幾つかのグループに分かれて、言い争うことはありません。しかし、主イエスは、わたしたちにパウロを通して各々が勝手なことをしていないか、仲たがいすることはないか、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合っているかと、問われています。

 

 

 

どう答えるか、魂の医師である主イエスの問診に。大切なことでしょう。

 

 

 

しかし、もっと大切なことは、目に見えないキリストが、ここに臨在してくださっています。わたしたちが礼拝において共に罪の告白の言葉を語り、主の祈り、使徒信条、ウェストミンスター小教理問答を共に祈り、告白し、共に聖書と説教の神に御言葉を聞き、そして臨在のキリストの招かれる聖餐に共にあずかれることは、心から喜び感謝すべきことであります。

 

 

 

罪の赦しと神との和解と、永遠の命があるからです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝は病めるコリント教会における分派争いについて学ぶことが許され感謝します。

 

 

 

コリントの信徒への手紙一は、病める教会のカルテであります。現在のわたしたちの教会を診断するに役立ちます。コリント教会の兄弟たちと同じように、わたしたちにも十字架のキリストの福音が必要であります。

 

 

 

何度でも十字架のキリストの福音を聞き続けて、わたしたちの罪が神に赦されたことを聞き続け、キリストの招かれる聖餐に喜んであずからせてください。そしてキリストの弟子として成長し、御国へと歩ませてください。

 

 

 

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。