ハイデルベルク信仰問答 16 2013年5月1日
聖書箇所 マタイによる福音書1章18-25節
問29 なぜ神の御子は「イエス」すなわち「救済者」と呼ばれるのですか。
答 それは、この方がわたしたちを
わたしたちの罪から救ってくださるからであり、
他の誰かに救いを求めたり、
ましてやそれを見出すことなどできないからです。
問30 それでは、自分の幸福や救いを
聖人や自分自身や他のどこかに求めている人々は、
唯一の救済者イエスを信じていると言えますか。
答 いいえ。
たとえ彼らがこの方を誇っていたとしても
その行いにおいて、
彼らは唯一の救済者または救い主であられるイエスを
否定しているのです。
なぜなら、イエスが完全な救い主ではないとするか、
そうでなければ、
この救い主を真実な信仰をもって受け入れて、
自分の救いに必要なことのすべてを
この方のうちに持たねばならないか、
どちらかだからです。
今夜は、ハイデルベルク信仰問答の問29と30と答を学びましょう。問29-52は、子なる神についての信仰問答です。キリスト論を扱っています。キリストの御人格(問29-36)と御業(問37-52)について、わたしたちが何を信じているかを、問うています。
ハイデルベルク信仰問答は、問29と31において神の御子の2重の名称について問うています。問29は、「イエス」と「救済者」です。問31は「キリスト」と「油注がれた者」です。
「イエス」というお名前は、子なる神が「聖霊によりやどり、処女マリヤより生まれ」(使徒信条)た時に名付けられたお名前です。「イエス」は、「ヨシュア」というヘブル語を、ギリシャ語で呼んだ名前です。「主は救い」という意味です。
神の御子に「イエス」と名付けたことの由来が、新約聖書のマタイによる福音書の1章18-25節に次のように記しています。主の天使が夫ヨセフに夢に現れ、妻マリアの胎に宿っておる男の子は、「聖霊によって宿った」と告げました。そして、天の御使いは、ヨセフに「彼女は男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」と告げました。
またルカによる福音書にも、1章26-33節に次のように記しています。天使ガブリエルがヨセフの許嫁マリアに現れ、「あなたはみごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いち高き方の子と言われる」と告げました。そして、ルカによる福音書の2章21節に八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」と記しています。
ハイデルベルク信仰問答は、問21のまことの信仰によって、神の御子を信じようとしています。それは、神の御言葉、聖書において神がわたしたちに啓示された神の御子を、真実神の御子と知り、このお方だけをわたしの救い主と信頼することです。
聖書は、わたしたちに神の御子の誕生の出来事を、わたしたちを罪より救う救い主が生まれ、「イエス」と名付けられた出来事として伝えています。それゆえにハイデルベルク信仰問答は、神の御子が「イエス」と名付けられ、「救済者」と呼ばれるのは、「わたしたちを、わたしたちの罪から救ってくださるから」であると告白しています。
ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに「神の御子イエスは、わたしたちを、わたしたちの罪から救う救済者である」と教えています。「救済者」と「救い主」は、言葉は違っても同じ意味です。助け、救いを行う人です。
問29の答の後半は、神の御子イエス以外にわたしたちの罪を救うお方は、他にないことを教えています。聖書が啓示する罪からの救いとは、罪の赦しのことです。神の御子イエスのみが御自身を罪への犠牲として、十字架の上で死なれ、わたしたちを罪から完全に救われたのです。それ以外にわたしたちが救いを求めることも、見出すこともできません。
ハイデルベルク信仰問答が生まれた16世紀のヨーロッパは、広くカトリック教会の影響下で聖人崇拝が行われていました。ハイデルベルク信仰問答は、まことの信仰によってその聖人崇拝を退ける必要がありました。それゆえに問30と答がなされています。
問30は、自分の幸福と救いを、聖人や自分自身や他のどこかに求めている人々は、唯一の救済者イエスを信じていると言えますかという問です。
ハイデルベルク信仰問答は、宗教を、「自分の幸福と救い」と理解し、まことの信仰を持つ者は、「自分の幸福と救い」を唯一の救済者イエスに求め、信頼すると理解しています。だから、カトリック教会の影響下で聖人崇拝(マリア崇拝を含む)をする者は、唯一の救済者イエスを信じていない者であります。また、それ以外に自分自身に依り頼み、あるいは「他のどこか」とは、異教思想や哲学、文学等に自分の幸福と救いを求める者たちも、イエスを信じ、信頼しているとは言えません。
だから、ハイデルベルク信仰問答は、ひと言、「いいえ」と否定します。どうしてか。彼らの行いが唯一の救済者または救い主であるイエスを否定しているからです。口では、「わたしはキリストにつく」と誇っても、罪のとりなしを聖母マリアに、聖人たちにお願いする者です。彼らは、キリストを救い主として必要としていません。
ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに信仰の決断をせまります。わたしたちがまことの信仰によってイエスを完全な救い主とするか、それともイエスは完全な救い主ではないとするかを。
聖人崇拝であろうと、律法であろうと、唯一の救済者であり、救い主であられるイエス以外から自分の幸福と救いを求める者は、主イエスを信じ、信頼してはいません。救い主イエスを、まことの信仰によって受け入れる者は、自分の幸福と救いに必要なすべてのことを、主イエスの内に豊かに持つのです。十字架による罪の赦しと復活による永遠の命を。
ハイデルベルク信仰問答は、中途半端な信仰を戒めています。自分の幸福と救いを、主イエスだけに求めても不十分ではないかと疑うことです。しかし、キリスト教は、イエスのみをキリストと信じて、救われる宗教であります(使徒言行録4:12)。
ハイデルベルク信仰問答 17 2013年5月8日
聖書箇所 マタイによる福音書3章13-17節
問31 なぜこの方は「キリスト」すなわち「油注がれた者」と呼ばれるのですか。
答 なぜなら、この方は父なる神かから次のように任職され、
聖霊によって油注がれたからです。すなわち、
わたしたちの最高の預言者また教師として、
わたしたちの救いに関する
神の隠された熟慮と御意志とを
余すところなくわたしたちに啓示し、
わたしたちの唯一の大祭祭司として、
御自分の体による唯一の犠牲によってわたしたちを救い、
御父の御前でわたしたちのために絶えずとりなし、
わたしたちの永遠の王として、
御自分の言葉と霊によってわたしたちを治め、
獲得した救いによってわたしたちを守り保ってくださる、
ということです。
問32 しかし、なぜあなたが「キリスト者」と呼ばれているのですか。
答 なぜなら、わたしは信仰によってキリストの一部となり、
その油注ぎにあずかっているからです。
それは、わたしもまた、
この方の御名を告白し、
生きた感謝の献げ物として自らをこの方に献げ、
この世においては自由な良心えおもって罪や悪魔と戦い、
ついにはこの方と共に
全被造物を永遠に支配するためです。
今夜は、ハイデルベルク信仰問答の問31と32と答を学びましょう。イエス・キリストの「キリスト」は、人名の姓ではありません。職務の名称です。肩書きです。
「キリスト」は、「メシア」というヘブライ語をギリシャ語に翻訳した言葉です。メシアは「油注がれた者」という意味です。
イエス・キリストは、イエスこそ「メシア」という信仰告白です。そして、「メシア」、すなわち、「油注がれた者」とは、旧約聖書においては主なる神によって特別な職務に召された者という意味を持っていました。神の代理者である預言者、祭司、王が職務に就きます時に油を注がれました。出エジプト記28章41節に大祭司アロンと彼の子たちが油を注がれ、祭司に就いたことを記しています。列王記上19章16節にアラムのハザエル王と預言者エリシャが油注がれて、王と預言者に就いたことを記しています。
ヘイデルベルク信仰問答は、主イエスが父なる神から聖霊によって油注がれ、預言者、祭司、王の職務に就かれたので、主イエスは「キリスト」「油注がれた者」と呼ばれることを教えています。父なる神に聖霊によって油注がれ、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御父の御声によって主イエスはキリスト(メシア)に任職されました(マタイ3:16-17、ルカ3:22)。
キリストは、預言者、祭司、王の職務を通して救い主の働きを行われ、わたしたちの救いを実現されました。
ハイデルベルク信仰問答は、キリストの預言者としての職務を、「わたしたちの最高の預言者また教師」と告白しています。なぜなら、預言者は神の御言葉を取り次ぐ働きですが、主イエスはわたしたちに神の御言葉を取り次ぐだけでなく、御自身が神の御言葉そのものであられました(ヨハネによる福音書1章1-18節)。ですから、わたしたちに隠された救いに関する神の「熟慮と御意志」とを、地上での生涯全体において体現され、「余すところなく」啓示されました。それを文書化したのが新約聖書です。
次にキリストの祭司としての職務を、「わたしたちの唯一の大祭司」と告白しています。旧約聖書の時代に大祭司は、年に一度雄牛の血を携えて、神殿の至聖所に入り、自分自身と民全体の罪の赦しを得るために、執り成しをしました(ヘブライ人への手紙9章7節)。しかし、主イエスは、それを「御自分の体による唯一の犠牲によって」、すなわち、御自身の十字架の身代わりの死によって、「わたしたちの救い」を成し遂げられました(ヘブライ人への手紙9章12節)。そして、キリストは復活し、今も大祭司として父なる神の御前でわたしたちのために執り成しをしてくださっています。
さらにキリストの王としての職務を、「わたしたちの永遠の王」と告白しています。旧約時代のダビデやソロモン王は、知恵と武力により神の民イスラエルを統治しました。永遠の王である主イエスは、「御自分の言葉と霊によって」わたしたちを治められます。すなわち、永遠にキリストは、キリスト者の王として御言葉と聖霊によって地上の教会と神の国を支配し守られます。そして、わたしたちがキリストの救いの中で憩えるようにすべての敵から「わたしたちを守り保ってくださいます」。
問32と答は、わたしたちが「キリスト者(クリスチャン)」と呼ばれる理由であります。キリスト者という呼び名は、「アンティオキアで弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった」と、使徒言行録に記してあります(使徒言行録11:26)。
ハイデルベルク信仰問答は、イエスをキリストと信じ、主イエス・キリストの御名によって洗礼を受けた人は、キリストの体なる教会のメンバーの一人となり、「その油注ぎ(キリストの命の交わり)」にあずかっているから「キリスト者」と呼ばれると教えています。
キリスト者は、教会におけるキリストとの命の交わりにおいてキリストとのために生きることを喜び、それにふさわしくなれるように整えられるのです。
毎週の礼拝において「この方の御名を告白し」、「生きた感謝の献げ物として自らをこの方に献げ」(ローマ12:1)ます。
献身の生活は、礼拝だけでありません。キリストは、御父に従順に仕えて、この世において自由な良心を持って罪や悪魔と戦われました。キリスト者もまた、同じ戦いをこの世においてするのです。使徒パウロは、「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具(信仰)を身につけなさい」と勧めています(エフェソ6:11)。キリスト者は、地上の生涯において霊的な戦いがあります。その霊的戦いの武器は、キリストの福音です。
最後にキリスト者は主イエスに勝利を約束されています。キリストと共に御国を相続し、全被造物を永遠に支配するのです(マタイ25:34、Ⅱテモテ2:13)。それは、キリストに従い、共に地上の霊的戦いに忍耐したキリスト者が得る栄誉です。
ハイデルベルク信仰問答 18 2013年5月15日
聖書箇所 ペトロへの手紙一第1章17-21節(新約聖書P429)
問33 わたしたちも神の子であるのに、
なぜこの方は神の「独り子」と呼ばれるのですか。
答 なぜなら、キリストだけが永遠の、
本来の神の御子だからです。
わたしたちはこの方のおかげで、
恵みによって神の子とされているのです。
問34 あなたはなぜこの方を「われらの主」と呼ぶのですか。
答 この方が、金や銀ではなく御自身の尊い血によって、
わたしたちの罪と悪魔のすべての力から救い、
わたしたちを身と魂もろとも贖って、
御自身のものとしてくださったからです。
今夜は、ハイデルベルク信仰問答の問33と34と答を学びましょう。イエス・キリストを、どうしてわたしたちは、「神の独り子」と呼び、「われらの主」と呼ぶのかという質問であります。
問33は、わたしたちキリスト者が「神の子」であることを前提にして、なぜイエス・キリストが神の「独り子」と呼ばれるのかを問うています。使徒信条に「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず」とありますね。どうしてこのように告白するのでしょう。
答は、「なぜなら」と、その理由を述べています。「キリストだけが永遠の、本来の神の御子だからです」。「本来の」という言葉は、「本性上」という意味です。「キリストだけが、永遠からの、本性からの、神の御子であるからです」と教えています。
ヨハネによる福音書は、言である主イエス・キリストを次のように証しします。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネ1:1)、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14)、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ1:18)。
上記の御言葉から分かるように、言であるイエス・キリストのみが、永遠から父なる神と共におられ、神としての本来の御性質からして、「神の独り子」と呼ばれる、「神の子」の資格をお持ちであります。
イエス・キリストを「神の子」「神の生みたまえる御子」と呼ぶのは、主イエス・キリストは父なる神と同じ神であり、神そのものであり、神以外の何ものでもないという、わたしたちの信仰告白です。
さらにハイデルベルク信仰問答の問33は、続いてどうしてわたしたちキリスト者が「神の子」とされたのかに言及しています。
「わたしたちはこの方のおかげで恵みによって神の子とされているのです」と教えています。
「この方のおかげで恵みによって」とは、この後学びますキリストの十字架の贖いです。父なる神がわたしたちキリスト者を神の子としようと定め(エフェソ1:5)、御自身の独り子イエス・キリストを差し出してくださいました(ヨハネ3:16-17)。キリストが価なしに(恵みによって)わたしたちの罪の身代わりに十字架に死んでくださいました。そしてキリストは、御自身を主と信じるわたしたちに聖霊をお与えくださいました。わたしたちは、聖霊に導かれ、神の子とする霊をいただき、父なる神を「アッパ、父よ」と呼び、礼拝し祈る神の子とされました(ローマ8:16-17)。それは、わたしたちが礼拝において神をたたえるためです(エフェソ1:6)。
問34は、神の独り子であられるキリストを、どうしてわたしたちが「われらの主」と呼ぶのかという問いです。問33と同じく、使徒信条でどうしてわたしたちは、キリストを「我らの主」と信じるのかと問うています。
その理由は、第1にイエス・キリストがわたしたちの主権者だからです。「我らの主」の「主」は、「我らの神」「我らの主人」という意味です。「我らの主イエス・キリスト」は、わたしたちの主人であり、わたしたちの主権者であります。
第2にイエス・キリストは贖い主です。昔イスラエルは、主なる神に自分たちの罪の贖い金を支払いました。また、雄羊や雄牛を、罪の贖いとして主なる神に犠牲として献げました。
しかし、わたしたちが罪と悪魔の奴隷であった時に、まことの神に背を向けて先祖伝来の空しい偶像を拝む生活をしていた時に、そこからわたしたちが贖われたのは、お金ではありません。動物犠牲でもありません。キリスト御自身が十字架において罪無き犠牲の尊い血を流してくださったからです(Ⅰペトロ1:18-19)。
第3にイエス・キリストはわたしたちの所有者です。キリストは、御自身の尊い血によってわたしたちを罪と悪魔の支配から贖い出してくださっただけではありません。買い取って御自分の所有としてくださいました(Ⅰコリント6:20)。罪に滅ぶべきわたしたちの身と魂を、御自分の尊い命によって買い取ってくださったのです。
ですからわたしたちキリスト者は、再び自分勝手に、自己中心に、自由奔放に生きることはできません。わたしたちの主権者であり、主人であるイエス・キリストの御意志に従って生きるのです。キリストの所有として、キリストの栄光のために生きるのです。二度とキリスト以外の奴隷にならないように、弱いわたしたちをこの世においてお守りくださる「我らの主」に信頼と感謝を寄せて、生きるのです。
ハイデルベルク信仰問答 19 2013年5月22日
聖書箇所 マタイによる福音書1章18-25節(新約聖書P1-2)
問35 「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ」とは
どういう意味ですか。
答 永遠の神の御子、
すなわちまことの永遠の神であり
またあり続けるお方が、
聖霊のお働きによって、処女マリヤの肉と血から
まことの人間性を身にまとわれた、ということです。
それは、御自身もまたダビデのまことの子孫となり、
罪は別にしては
あらゆる点で兄弟たちと等しくなるためでした。
問36 キリストの聖なる受肉と誕生によって、
あなたはどのような益を受けますか。
答 この方がわたしたちの仲保者であられ、
御自身の無罪性と完全なきよさとによって、
母の胎にいる時からわたしの罪を
神の御顔の前で覆ってくださる、
ろいうことです。
今夜は、ハイデルベルク信仰問答の問35と36と答を学びましょう。仲保者イエス・キリストの2性1人格の教理を教えています。
問35と答は、使徒信条の「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ」についての解説であります。使徒信条は、イエス・キリストの処女降誕を信仰告白しています。ハイデルベルク信仰問答は、その告白の意味を問うています。
永遠の神の御子キリストが、永遠の神のままで肉体をとり、この世に来られたことを、新約聖書のヨハネによる福音書が証言しています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネ1:1)。言とは、イエス・キリストです。神は父なる神です。イエス・キリストは、父なる神の永遠の御子です。
その永遠の神の御子、すなわち、永遠の神が、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14)。他にも、キリストが永遠の神であり、神の御子であることを証言する聖書の御言葉があります。ヨハネによる福音書10章35-36節、詩編2篇7節、使徒言行録13章33節、コロサイ1章15-17節、Ⅰヨハネ5章20節。
マタイによる福音書1章18-25節とルカによる福音書1章35節にキリストの処女降誕を証言しています。ハイデルベルク信仰問答は、それを、「聖霊のお働きによって、処女マリヤの肉と血からまことの人間性を身にまとわれた」と解説しています。
キリスト教会は、イエス・キリストの2性1人格を告白し続けました。イエス・キリストは永遠の神の御子ですが、聖霊を通して、処女マリヤより生まれ、神性と共に、人間性をおとりになりました。「(父なる)神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラテヤ4:4)。
キリストは、約束のメシアとして、「御自身もまたダビデのまことの子孫となり」ました。主なる神は、ダビデと契約を結ばれ、彼の子孫よりメシアを遣わすと約束されました(サムエル記下7:12-16)。ですから、キリストはダビデの子孫であるヨセフとマリヤから生まれられたのです。
キリストの処女降誕は、キリストが神性を捨てられたのではありません。処女降誕を通してわたしたちと同じ人間性をとられたのです。聖霊を通して無罪の人間性をとられました。そして、すべての点で、罪を除き、わたしたちと同じ人間となられました。キリストの人間性には、罪がありません。
問36は、キリストの受肉と誕生が、わたしたちにどのような益があるのかという問いです。この「益」は、功利的な利益でありません。宗教的御利益のことではありません。天使がヨセフにキリストの処女降誕を告げました時に、生まれる男の子を「インマヌエル」と呼びました。「神は我々と共にいてくださる」という意味です。キリストがわたしたちと共にいてくださる、わたしたちに関わってくださることを、ハイデルベルク信仰問答は「益」と言いました。現代では、この「益」を、「実存の関与」と表現したり、「キリストの同時性」と表現する人がいます(ヤコプス『改革主義信条の神学』新教出版社)
つまり、キリストは、わたしたちと同じ人性をとり、わたしたちの仲保者として共にいて、わたしたちに関わってくださいます。「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」(Ⅰテモテ2:5)。受肉されたキリストだけが、父なる神にわたしたち罪人をとりなす仲保者です。
それ故に聖霊のお働きで、キリストは罪無き人間性をおとりになりました。「御自身の無罪性と完全なきよさ」を、身代金としておささげくださり、わたしたちの罪を贖ってくだしました。
母の胎にいる時からのわたしたちの罪を、御自身の罪無きお体を犠牲とすることにより、神の御前に覆ってくださいました。
わたしたちの仲保者キリストは、罪無き、きよき人として、常にわたしたちと共にいてくださり、わたしたちに関わってくださっています。具体的には、キリストの十字架の死です。「わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:19-20)。このようにキリストは、わたしたちの仲保者として、御自身をわたしたちの罪の犠牲としてささげ、神の御前にわたしたちの罪を覆い、わたしたちと共に生きておられます。この喜びを、ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちの「益」であると証言しているのです。
ハイデルベルク信仰問答 20 2013年5月29日
聖書箇所 ローマの信徒への手紙第3章21-26節(新約聖書P276-277)
問37 「苦しみを受け」という言葉によって、
あなたは何を理解しますか。
答 キリストがその地上での御生涯のすべての時、
とりわけその終わりにおいて、
全人類の罪に対する神の御怒りを体と魂に負われた、ということです。
それは、この方が唯一のいけにえとして、
御自身の苦しみによって
わたしたちの体と魂とを永遠の刑罰から解放し、
わたしたちのために
神の恵みと義と永遠の命とを獲得してくださるためでした。
今夜は、ハイデルベルク信仰問答の問37と答を学びましょう。仲保者イエス・キリストの「御受難」を教えています。「御受難」とは、主イエス・キリストが十字架へと赴(おもむ)かれる苦難の道です。
使徒信条は、先週「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ」と、仲保者主イエス・キリストの処女降誕を信仰告白しました。それに続いて、すぐに「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と信仰告白しています。
ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに「ポンテオ・ピラトのもとに」より先に「苦しみを受け」という言葉の理解を問うています。
使徒信条の原文と日本語訳の文章に順序の相違があるからです。使徒信条のラテン語の原文は、ハイデルベルク信仰問答のように、「苦しみを受け、ポンテオ・ピラトのもとに」と続いています。そして「十字架につけられ」と続きます。ハイデルベルク信仰問答は、使徒信条の原文に忠実に沿って、問答しています。
日本語訳の使徒信条に従うと、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」とありますので、キリストの御受難を、「主イエスがポンテオ・ピラトの裁判で苦しみを受け、鞭打たれて、茨の冠をかぶらされ、ローマの兵士たちに侮辱され、そして、十字架刑によって殺された」と理解するでしょう。
地上での全生涯
しかし、ハイデルベルク信仰問答は、キリストの御受難を、ピラトの裁判から十字架刑までの一部に限定しません。「キリストがその地上での御生涯のすべての時、とりわけその終わりにおいて」と教えています。それが、ハイデルベルク信仰問答が使徒信条の「苦しみを受け」の理解です。主イエス・キリストがこの地上にお生まれになり、十字架刑によって殺され、墓に葬られるまで、主イエス・キリストの「地上における全生涯の時」がキリストの御受難でありました。確かに総督ピラトが主イエスを裁判にかけ、死刑を判決し、主イエスがゴルゴタの丘の上で十字架刑によって殺されたことは、キリストの御受難のクライマックスでありました。
しかし、ハイデルベルク信仰問答がわたしたちに、使徒信条の「苦しみを受け」という言葉を理解する上で、主イエスはその最後においてだけ、苦しまれたのではない、主イエスの地上における生涯のすべての時が、キリストの御受難であったと教えています。そして、ゴルゴタの丘の十字架のキリストの叫びは、その御受難のクライマックスであると教えています。
神に呪われた人間としての生涯
次にハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに主イエス・キリストがその地上の全生涯において「苦しみを受けられた」「苦しみ」の内容を教えています。神の独り子であるキリストが肉体を持つ人間としてこの世に来られ、「苦しみを受けられた」「苦しみ」とは、「全人類の罪に対する神の御怒りを体と魂に負われた」という意味です。御受難のキリストの生涯は、「全人類の罪に対する神の御仮を体と魂に負われた」生涯でした。創世記3章17-19節に主なる神は、罪を犯したアダムに呪いを宣言されました。アダムより生まれる全人類が神に呪われた人間として、その生涯を生きる者と定められました。ですから、マリアより生まれられた主イエスも、「苦しみを受け」、神に呪われた人間としてその生涯を生きられたと教えています。
キリストは、唯一のいけにえ
何のためにキリストは、人間としての地上の生涯において「苦しみを受けられた」のか。ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに「それは、この方が唯一のいけにえとして」と教えています。「唯一のいけにえ」とは、人類の罪を、すなわち、わたしたちの罪を償ういけにえのことです。
神がキリストを「唯一のいけにえ」とされた目的を、ハイデルベルク信仰問答は次のように教えています。(1)「御自身の苦しみによって わたしたちの体と魂とを永遠の刑罰から解放」することです。(2)「わたしたちのために神の恵みと義と永遠の命とを獲得してくださるため」です。
使徒パウロは、「唯一のいけにえ」を「罪を償う供え物」と言っています(ローマ3:25)。主イエスは、人の罪を覆ってくださいました。わたしたち罪人が当然に負うべきであった神の御怒りと永遠の刑罰を、罪無き義人の主イエスが負われました。その結果、わたしたちは罪を赦され、体と魂とをきよめられ、神の呪いと永遠の刑罰から解放されました。
さらにハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに「わたしたちのために神の恵みと義と永遠の命を獲得してくださるためでした」と教えています。罪を赦され、神の御怒りと永遠の刑罰から解放されただけではありません。さらに神の恵みによって罪人であるわたしたちがキリストのゆえに神に義と認められ、永遠の命を得る喜びに与ったのです。
ハイデルベルク信仰問答がわたしたちに、使徒信条の「苦しみを受け」という御言葉の理解を求めているのは、キリストの全生涯が全人類にくださる神の御怒りと永遠の刑罰を受けられたという理解です。それ故にわたしたちは、主の日の礼拝ごとに、キリストの御受難によってわたしたちの体と魂が神の御怒りと永遠の刑罰から解放されたことを感謝し喜ぶのです。さらにわたしたちは、罪を赦されただけではありません。御受難のキリストのゆえに、父なる神に義と永遠の命を、礼拝ごとに約束されているのです。
ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに受難のキリストという救い主がいてくださることへの感謝と喜びを伝えてくれています。