2016年「クリスマス月間」説教01 2016年12月4日
「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
わたしは敵意を置く。
彼はお前の頭を砕き
お前は彼のかかとを砕く。」
創世記第3章15節
クリスマス月間説教題:「最初のクリスマスメッセージ」
アドベント、待降節の第2週に入りました。
本日より12月の4主の日にクリスマスメッセージを説教し、アンケートで応募のあったクリスマス讃美歌を一緒に賛美し、主を崇め、主を賛美し、クリスマスをお祝いしましょう。
近年、いろんな事情で、教会員が礼拝を共にできないことが多くなっています。伝道委員会で、今年のクリスマスは、まず教会員が12月の4つの主の日にクリスマスメッセージを聞き、歌いたいクリスマス讃美歌をいつもより多く歌い、主を崇め、クリスマスを喜び、そこに家族や知人、町の人々を招こうと企画しました。
「クリスマス月間」のことを、新聞に広告を載せ、地域誌に案内を載せました。今年は2年ぶりに教会の近隣に案内チラシを戸別配布しました。
わたしは、「クリスマス月間」の主の日にクリスマスメッセージを聞き、クリスマス讃美歌を歌うというシンプルなことの中にクリスマスの喜びを、教会員と、そして一緒にこのクリスマスの礼拝に来てくださった方々に届くと信じていますし、それを願っています。
「クリスマス」という言葉を聞くと、イエスさまの誕生日を祝うキリスト教の祭りであると、誰もが思うでしょう。
すなわち、人々が自分の誕生日を祝うように、キリスト教の創始者であるイエス・キリストの誕生を祝うことであると。
クリスマスは、イエス・キリストの誕生日ではなく、イエス・キリストの御降誕を祝う日であります。誕生日と御降誕とは、同じではないか思われるかもしれません。
違います。誕生日はわたしたちが両親から生まれた記念の日です。人間の誕生日です。イエス様の御降誕は、聖書の言葉を借りますと「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という出来事です(ヨハネ1:14)。
これを昔からキリスト教会は、聖書の受肉の教えと尊んできました。聖書は、受肉の出来事であるクリスマスを「父の独り子としての栄光」と言っています(ヨハネ1:14)。
イエス・キリストは、ヨセフとマリアから生まれられたけれども、わたしたちと同じ誕生ではありませんでした。父なる神の独り子であるイエス・キリストは神であられたのに、人となられたのです。これを聖書はキリストの受肉と教え、キリスト教会はキリストの御降誕として祝うようになりました。
どうしてキリスト教会はイエス・キリストの降誕日を12月25日に定めたのでしょうか。
それは、4世紀後半のことです。その頃太陽を神と崇める異教の宗教があり、12月25日を太陽の誕生日として祝わっていました。
教会はそれに対抗して12月25日をキリストの御降誕の日に定めました。旧約聖書の預言者マラキがキリストのことを「義の太陽が昇る」(マラキ3:20)と預言していましたので、キリスト教会は異教の太陽の誕生日を、キリストの御降誕日に替えたのです。
そして、宗教改革者カルヴァンがクリスマスの真理を次のように発言しています。「受肉において、神は人間の肉体をとってあらわされた」と。
聖書は、わたしたちにこのキリストの受肉を、人間の罪と死からの救いに不可欠の出来事として証言しています。
聖書に従えば、クリスマスとは、神がわたしたちの父として、御自身の御子イエス・キリストを通してわたしたちを罪と死と永遠の滅びから救うと定めてくださった時であります。
聖書をお読みになりますと、よく「その日」「その時」という表現が出てきます。神がわたしたちを救ってくださる時のことです。それが、クリスマスという出来事の日でした。
そうした救いの日がやって来ることを、聖書の中の旧約聖書で神が約束され、新約聖書で神がイエス・キリストを通してその救いのお約束を実現されたことを証言しています。
わたしは、聖書が証言している神の約束とその実現を、4主の日に御一緒に学びたいと願っています。
そこで今朝は、「クリスマスの最初のメッセージ」について、聖書から学びたいと思います。
聖書は、66巻の書物からなっており、その最初が創世記、すなわち、始まりについての書物であります。
そこにすべての始まり、起源が一つの出来事として記されています。
たとえば創世記1章は世界の始まり、2章は家族の始まり、3章は罪と堕落の始まりが一つの出来事として記されています。
それらを要約すると、次のように言えると思います。神は、わたしたちの父であり、この世界を、宇宙を、神の独り子キリストを通してお造りになりました。そして、造られた世界を、わたしたち人間を祝福してくださいました。
ところが、創世記3章に人間の罪と堕落と死が記されていますように、最初の人間であり、人類の代表者であるアダムとエバが、神の御命令を破りました。その結果、この神の造られた善き世界に罪と死が入り込みました。
神が父として愛された人間は生まれながらに腐敗し、兄は弟を殺し、ついには国家と国家が戦争を始めました。そして神が造られた善い世界は人間の罪によって虚無に服するものとなり、今日地球は温暖化等の環境破壊に陥っています。
さらに、わたしたち人間にとって絶望的なことは、人間の原罪によって善き世界と人間が罪へと堕落して、人間は神の刑罰によって永遠の死に至る事態になっているのに、それを自らの手で解決できませんでした。現代でもどんなに人は科学的技術を手に入れても、死を解決できずにいます。
聖書は、わたしたちにはっきり断言します。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ人への手紙9:27)。
このように人は、原罪によってこの世界に人間の悪と世界の虚無が生じたこと、そして人間は死に、世界は滅亡することを、今日まで解決できていません。
ところが、聖書は、わたしたちに救いの時を約束しています。
神がわたしたちの父として、滅び行くわたしたちに救いの手を伸ばしてくださいました。
それが、今朝の御言葉であり、原始福音と呼ばれています。
聖書がわたしたちに伝える神は、わたしたちの父なる神です。わたしの妻は、求道中牧師から、神さまについて次のように教えられ、今も心に留めています。牧師は妻に言いました。「親猫はわが子が迷子になると、見つけ出して、子猫の首の所を口で噛み、安全な所に連れ戻してくれる。神さまも同じですよ」と。
本当に聖書の神さまは、親猫のように迷子のわたしたちを捜しだして、御自身の所に連れ戻してくださるお方です。
罪を犯したアダムとエバを、神さまから隠れようとした二人を、神さまは「どこにいるのか」と呼びかけて捜してくださいました。
そして、神さまは、聖なる、正しいお方ですから、二人の罪を見過ごしにはされません。神さまは彼らに命じられた御言葉通りに、彼らを裁かれました。
神さまは、アダムとエバの原罪を裁かれ、この世界と人間に死が入り込みました。人間は、誰でも生まれて、死ぬ存在となりました。物理的に死ぬだけでなく、人は死んだ後神の裁きがあり、永遠に滅びることを恐れる者となりました。
神の刑罰は、それだけではありません。15節に神さまは「わたしは敵意を置く」と言われていますね。罪を誘惑した蛇と女の間に、神は刑罰として敵意を置くと言われています。
この神の刑罰によって、人間は蛇の子孫とエバの子孫たちの間に敵意が置かれました。すなわち、神の刑罰によって人類が2種類に分けられ、その間に敵意が置かれました。
2種類に分けられた人類の代表が創世記4章の兄弟カインとアベルです。神の刑罰によって、エバから生まれた二人の兄弟の間に敵意が置かれ、兄のカインは弟のアベルを殺しました。
主イエスが、ヨハネによる福音書8章44節で、次のように述べておられます。「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしてはいない」。
聖書は、人殺しのカインの子孫が蛇の子孫であり、アベルに代わって、エバが生んだセトと彼の子孫が女の子孫として、主の御名を呼び、主を畏れ、礼拝したと、記しています(創世記4:26)。
それ以後、聖書は主を礼拝するセトの子孫と神に背を向けるカインの子孫の歴史を記しています。
原始福音には、神の刑罰による敵意だけでなく、女の末から一人の勝利者を与えることを、神は約束されています。
その勝利者は、アダムとエバのように蛇に誘惑されて、敗北することはありません。彼は、蛇の頭を砕いて、徹底的に蛇であるサタンに勝利します。
だが、蛇に勝利者は足の踵を噛まれ、傷を負います。
このように神は、アダムとエバに最初のクリスマスメッセージを語られました。
神さまが一人の勝利者、二人が誘惑された蛇に勝利する者を、エバの末から与えると。神が約束された救い主、一人の勝利者は女の子孫です。女から生まれます。神が救い主を女から生まれる人間として、この世に遣わされます。彼は、自ら傷を負い、蛇の頭を砕きます。すなわち、サタンに勝利し、人間の罪を克服するということです。
わたしは、十字架のイエスこそ蛇に踵を噛まれ、蛇の頭を砕いて、わたしたちの罪を克服してくださったと信じる者です。
この原始福音は、アダムからセトに、そしてノア、アブラハムへと伝えられました。旧約聖書の神の民たちはどんなに絶望的な状況に追いやられても、神さまが原始福音で伝えられた救い主への希望を見失いませんでした。自分たちが弱さのゆえに、罪に陥っても、また他国で奴隷になり、捕囚され、エルサレム神殿を破壊されても、クリスマスの時が来る、救い主がこの世界に訪れてくださるという確信を捨てませんでした。
クリスマスは、アダムから、ノアへ、そしてアブラハムからダビデへ、旧約聖書全体にわたって受け継がれた確信です。
旧約の神の民たちが本当に長い歴史の中で、クリスマスを待ち続けることができたのは、神さまが天地創造のわたしたちの父と信じることができたからだと思います。
神は人間を造られ、命をお与えくださった、わたしたちの父です。父であるなら、子猫の親のように、決してわたしたちとの関係を切り捨てられないでしょう。子供を見捨てる親は、普通いません。だから、神さまは、わたしたちの父として、今もイエスさまを通して、「お前はどこにいるのか」と捜し回ってくださっているのです。
今、わたしたちにどんなにひどい苦しみが訪れても、絶望の淵に落とされても、どうかクリスマスに父なる神の愛を、主イエス・キリストを通して見つめて下さり、いつの日か、わたしたちを助け、救うために、神さまは、わたしたちの父として、キリストを再びわたしたちの世界に遣わして、わたしたちを救ってくださる日が来ると信じましょう。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、
アドベントの第2週に入りました。本日より「クリスマス月間」に入ります。
クリスマスメッセージを説教します。どうか、説教を聞きますわたしたちの心を、わたしたちの父なる神の愛に向けさせてください。
わたしたちは、迷える小羊です。どうか飼い主である主イエス・キリストを通して、父よ、わたしたちを捜し、あなたの懐に入れて、お守りください。
日本中で、世界中で、クリスマスが祝われます。どうか、世界中の教会で、クリスマスのメッセージが説教され、「実に、神は独り子をお与えになるほど、この世を愛された」という福音が世界中の人々に伝えられるようにしてください。
しかし、クリスマスの賑わいの中で、この世から忘れ去られた人々がいます。希望が裏切られた人々がいます。原発事故で他県に逃れた子供たちが「ばい菌」と呼ばれていじめられています。わたしたちの教会も今年一年を振り返る時に、成果なく、意気消沈しそうです。
しかし、神はわたしたちの父として、わたしたちの世界を造り、わたしたちを造り、命を与えてくださいました。神がわたしたちの父であることを信じ、必ずわたしたちを主イエス・キリストを通して御国へと導いてくださることを信じさせてください。
どうか、主イエスを来てください。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
2016年「クリスマス月間」説教02 2016年12月11日
「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国をゆるぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。」
サムエル記下第7章12-13節
クリスマス月間説教題:「ダビデの末より生まれるキリスト」
アドベント、待降節の第3週に入りました。
今朝は、「クリスマス月間」の第2主の日です。今朝もクリスマスメッセージを説教し、アンケートで応募のあったクリスマス讃美歌を一緒に賛美し、主を崇め、共にクリスマスをお祝いしましょう。
前回は、「最初のクリスマスメッセージ」についてお話ししました。クリスマスの始まりについて、創世記3章15節より学びました。
今朝は、「ダビデの末より生まれるキリスト」について、旧約聖書のサムエル記下の7章12-13節の御言葉から学びましょう。
聖書のクリスマスは、神が約束する始まりがあり、それを成就する終わりがあります。そして、始まりから終わりまで、実に長い時間が経過しています。
旧約聖書は、それを、「恵みの契約」という言葉で表現しています。
「恵みの契約」という言葉を耳にすると、わたしたちは、「アブラハム契約」を頭に浮かべるでしょう。すなわち、アブラハムと彼の子孫、そして、アブラハムの信仰の子孫であるわたしたちと神が結ばれた恵みの契約であります。
神は、それによって次のように約束してくださり、そして、アブラハムと彼の子孫、アブラハムの信仰の子孫であるわたしたちが神の御前でその約束によって生きることができるようにしてくださいました。
アダムの原罪で、生まれながらに堕落した人類が、この神の恵みの契約によって、神がアブラハムと彼の子孫、そして信仰の子孫であるわたしたちの父となられることで、アブラハムやダビデの生涯のように信仰と服従をもって、神の御前に生きることが許されたのです。
だから、「神の恵みの契約」は、アブラハムと彼の子や子孫の信仰の生涯、そして、今朝学びますダビデの信仰の生涯、そして、わたしたちの信仰の生涯を理解して、初めてこの恵みを、歴史的な神の恵みとして、わたしたちが生きている時間の経過の中で理解できるのです。
同時に、アダムの原罪後、人類が女の子孫と蛇の子孫に分かたれたということに、目を留めてほしいと思います。人類は神を畏れ崇める女の子孫たちと神を恐れない人殺しの蛇の子孫たちとに分かたれました。
そして、世界に神を恐れない者たちの悪が満ちた時に、神はこの世界を造られたことを後悔され、有名なノアの洪水によって人類を滅ぼされました(創世記6-9章)。
神は、御自身が選ばれたノアと彼の家族と動物たちを箱舟の中に入れて、洪水から守られました。そして、神はノアと自然契約を結ばれました。神は、ノアにそれによって次のことを約束されました。二度とこの地球で、洪水によって人類を滅ぼすことはしないと。そのしるしとして、神は虹を与えられました。
この後、人類は再び神の御前に己を高ぶらせ、天にまで届く塔を建てようとしました。神は人類の悪を裁かれましたが、洪水によってではなく、人類の言葉を乱されました。人類は、言葉で人の心を理解します。人類が一つの言葉で、心を一つにしようとすれば、バベルの塔を建てるという大きな悪を神の御前で行うようになります。そこで神は、人の言葉を乱され、人類を世界に散らされたのです(創世記11章)。
神は人類を世界に散らされた中から、アブラハムと彼の子孫を御自身の民に選ばれました。「わたしはあなたとあなたの子孫の神となり、あなたとあなたの子孫はわたしの民となる」と、神はアブラハムと恵みの契約を結ばれて、御自身の交わりに彼と彼の子孫を招き入れられました(創世記12章)。
こうして旧約聖書に証しされていますように、アブラハムと彼の子孫は神の民としてカナンの地で生きました。
旧約聖書を読みますと、誰もが聖書の神が歴史の中で人間と関われることを実感できます。神は、アブラハムに次のように約束されました。
「わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。
あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族のすべて
あなたによって祝福に入る。」(創世記12:2-3)
この神の御言葉は、クリスマスの出来事を通して、わたしたち日本人にも祝福となりました。なぜなら、キリスト者はアブラハムの信仰の子孫として、「わたしはあなたとあなたの子孫との神となり、あなたとあなたの子孫はわたしの民となる」という神の祝福に招き入れられたからです。
また、神はアブラハムに次のように約束されました。
「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。」(創世記17:4-6)。
神は、アブラハムとの約束の中で、彼の子孫からダビデ王国の王ダビデを選び、約束されていたのです。
アブラハムからダビデまで、実に千年の歴史的経過があります。その間で神の民イスラエルは、エジプトで300年間奴隷生活をします。神は民の指導者モーセを選ばれ、モーセは神の民たちを奴隷の地からシナイ山に導きます。そこで神は、神の民イスラエルとモーセ契約を結ばれ、「わたしはおまえたちの神となり、おまえたちはわたしの民となる」と約束されました。そして、神はモーセを通して彼らに十戒を与えられ、神の民が主なる神の御前に生きることができるようにされました(出エジプト記、民数記、申命記)。
こうして神の民イスラエルは、約束の地カナンに導かれ、最初はモーセの後継者ヨシュアに導かれましたが、彼の死後士師と呼ばれる指導者に導かれました(ヨシュア記、士師記)。
最後の士師であり、祭司であり、預言者であったサムエルに、神の民たちは王を求めました。神の民の王は、主なる神であるので、サムエルは神の民の要求に反対しましたが、主なる神は神の民の要求を退けられませんでした(サムエル記上8章)。
主なる神は、アブラハムとの約束を、神の民の要求の時に実現されました。こうして最初の王サウルが選ばれました。しかし、彼は、主の御心に適う者ではありませんでした。だから、彼の家は王座を堅く据えることができませんでした。
主なる神は、ベツレヘムの出身で、羊飼いをしていたエッサイの子ダビデを王に選ばれました。神は、ダビデとは恵みの契約であるダビデ契約を結ばれました(サムエル記下7章)。
それが今朝の御言葉です。主なる神は、ダビデと彼の子孫と恵みの契約を結ばれました。主なる神は、恵みによってダビデを羊飼いからイスラエルの王に選ばれました。主なる神がダビデの王家を興され、ダビデが生涯神の御前にイスラエルの王として生きるだけでなく、彼の死後彼の子孫がダビデ家の王となると約束されました。
今朝の御言葉の前後を見ますと、前の6章で二つの事柄が問題になりました。一つは、ダビデがエルサレムの都に運び入れた神の箱を安置する幕屋は、将来どうなるのかということです。二つは、ダビデの正妻ミカルにはダビデとの間に子ができませんでした。それゆえ誰がダビデの王位を継承するのかです。
そこで主なる神は預言者ナタンをお遣わしになり、ダビデ契約を結ばれました。預言者ナタンを通しては主なる神は、神殿は必要ないと言われました。ダビデが神殿を建てることは許されませんでした。その理由を、主なる神は述べられていません。
王朝については、先の王サウルは許されませんでした。王座はサウルからダビデに移されたからです。
主なる神は、預言者ナタンを通して、ダビデにダビデの家に王座を継がせ、永遠にダビデの王座は堅くされると約束されました。
実際に南ユダ王国がバビロンに滅ぼされるまで、ダビデ王朝は400年間続きました。
今朝の御言葉で、主なる神は、ダビデに彼の王朝は永遠に続くと約束されています。滅ぶことなく、揺るぐこともないと約束されています。
だから、13節の「この者」とは、ダビデの末より生まれるメシア、イエス・キリストのことであります。ナタンは、メシアを預言したのです。
ダビデの末より、すなわち、ダビデの子孫であるイエス・キリストが、将来メシアとしてこの世に来られ、ダビデのように油注がれた王として永遠の王国を建てられると、主なる神は預言者ナタンを通してダビデに約束されました。
神の恵みの契約は、実にこの世の歴史の中で、ただただ神の恵みとして神が約束されたことが、御言葉通りに実現しました。
聖書を読まれて、人類が神の御前に生きることは、常に罪の歴史を生きることであると知らされます。どなたが読まれても、アブラハムとダビデの生涯に罪を発見されるでしょう。人は、神の御目に罪を犯すことなく生きることは不可能であることを知らされます。
問題は、どんなに人間の歴史が罪の繰り返しでも、神の恵みと約束は変えられなかったと、聖書がわたしたちに証ししていることです。
たとえば、サウル王とダビデと、どこが違うのでしょうか。サウルが罪を犯せば、ダビデも罪を犯します。罪人であることは同じです。しかし、主なる神はサウルを捨て、ダビデを選ばれました。だから、ダビデと彼の子孫が王としてどんなに罪を犯しても、主なる神はダビデの王家を捨てられませんでした。ダビデ王朝は何度も危機を迎えますが、その度に主はダビデとの契約を覚えて、彼の子孫を王に立てられました(列王記下)。
神の民たちは、主なる神がダビデに約束されたことを常に守られるので、紀元前586年にバビロンによって南ユダ王国とエルサレムの都と神殿が滅ぼされても、今朝の主なる神がダビデに約束された御言葉を信じたのです。
メシアと呼ばれる者が必ずダビデの末より生まれると。
クリスマスを信じるとは、わたしたちの生きる世界の罪の歴史の中で、神が、常に恵みの契約を通してわたしたちの御救いのために働きてくださっているということを信じるということです。
リジョイスの今月の祈りに、次のような祈りの言葉があります。
「主の降誕節において覚えますことは
そこに表された神の限りない恵みと愛です。
『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで
永遠の命を得るためである』
と聖書は証言しています。
どうど、私たちが、
やがて迎える新しい年もこの主の憐れみと恵みに生かされ
主と共に、御名のゆえの苦難を恐れず
主を大胆に証しする者とならせてください。」
本当にわたしは、この祈りの者にアーメンです。
ダビデの末より生まれるキリストが、神の民に対する神の御心を必ず成就するのです。神がダビデに与えられた約束は、決してこの罪の世界から消されることはありません。
南ユダ王国が滅びて、神の民が故国を失い、異国のバビロンやペルシャの国で離散のユダヤ人の苦難生活を余儀なくされても、神の民はダビデの末よりメシアが生まれる希望を見失いませんでした。
ユダヤ人たちがローマ帝国に支配され、ヤコブの兄エサウの子孫、ヘロデ大王がイスラエルの支配する、神の民にとって暗黒の時代に、神は神の民の御救いをなすために、ダビデの末より、すなわち、ヨセフとマリアの子として、救い主キリストをこの世にお遣わしくださったのです。
わたしたちは、ダビデの末よりこの世に来られたキリストを通して、恵みの契約を父なる神と結びました。
父なる神はキリストを通してわたしたちの父となり、わたしたちは神の子となるというお約束です。
キリストへの信仰と服従をもって、わたしたちキリスト者はアブラハムの信仰の子孫として、アブラハムのようにこの世で御国を目ざして信仰の旅を続けています。
教会もキリスト者も、アブラハムとダビデ同様に、この世の歴史の中で罪を避けることはできません。真実神を父と信頼して歩む者は、アブラハムとダビデのようにこの世界では少数者です。
諏訪地方はアブラハムの生きたカナン地方と変わらない異教の地であり、偶像礼拝と異教的習慣の満ちた世界です。ソドムの町のように不道徳が満ちた世界です。
その世界で、アブラハムの甥ロトのように、少数者として、あるいは人々に煙たがれて生きなければならないでしょう。
実際に、上諏訪湖畔教会も、およそ70年前に25名の信者で始められました。時には礼拝者数人の時もありました。今もわたしたちは、今後この教会を維持できるのか自信がありません。
単なる人の集まりであれば、これからに希望はないでしょう。
しかし、わたしたちは、神の選びにより、恵みの契約によって、上諏訪湖畔教会の信者として、今ここにいるのです。
2018年に上諏訪湖畔教会は70周年を迎えます。この70年は、わたしたちにとっては罪と弱さの歴史でした。しかし、キリストを通して神は、わたしたちの父として、恵みの契約を結ばれたのです。
「わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの子となる」と約束してくださいました。だから、わたしたちは、毎週の主の日の礼拝を守り、御言葉を聞き、聖餐にあずかり、キリストへの信仰と服従をもって、父なる神の御前に神の子として生きることを許されているのです。
この教会では、普段の礼拝で、罪の告白と赦しの宣言があります。これは、わたしがこの教会の牧師になり、礼拝に取り入れました。
恵みの契約を、礼拝を通して体験できる貴重な機会と思っています。キリストを信じて、洗礼を受けた者が、恵みの契約の中に生きるとはどういうことであるかを、罪の告白と赦しの宣言を通して礼拝体験することができるのです。
この世は人の罪の歴史であり、わたしたちもこの世に生きる限り、罪から逃れられません。キリスト者の聖化の道は、罪の繰り返しで、日々父なる神に罪の赦しを求める生活です。あの放蕩息子のように、天に対しても、父に対しても罪を犯しましたと、口で告白して、父なる神に戻るのが主の日の礼拝なのです。
放蕩息子のように、わたしたちはこの礼拝において普段は罪の告白をし、その罪を神がわたしたちの父であるゆえに、キリストの十字架の贖いを通して赦してくださるのです。
神はわたしたちと父となってくださるので、礼拝に来て罪の赦しを願うわたしたちを、わが子として、無条件に赦してくださり、どんな時にもわたしたちと和解してくださるのです。
だから、罪の告白と赦しの宣言がなされる教会こそ、わたしたちがこの世にあって唯一居て良い場所なのです。
羊飼いたちが天使のお告げによって、ベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶に寝かされた乳飲み子に導かれたように、わたしたちもこの教会のクリスマスに導かれました。ここには乳飲み子のイエス様はおられませんが、死人の中から甦られたキリストが霊において臨在されています。キリストに向けて、心から喜び、クリスマス讃美歌を賛美しましょう。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、
アドベントの第3週に入りました。「クリスマス月間」の第2主の日に入ります。
「ダビデの末より生まれられたキリスト」という題で、クリスマスメッセージを説教しました。どうか、説教を聞きましたわたしたちの心を、神がわたしたちの父となり、わたしたちが父なる神の子とされた喜びで満たしてください。
わたしたちは、この世界の中で罪なしに生きることはできません。どうかダビデの罪を赦された恵みの神よ、イエス・キリストの十字架の贖いを通して、わたしたちの罪をお赦しください。
日本中で、世界中で、クリスマスが祝われます。どうか、世界中の教会で、クリスマスのメッセージが説教され、「実に、神は独り子をお与えになるほど、この世を愛された」という福音が世界中の人々に伝えられるようにしてください。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
2016年「クリスマス月間」説教03 2016年12月18日
それゆえ、わたしの主が御自ら
あなたたちにしるしを与えられる。
見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
その名をインマヌエルと呼ぶ。
イザヤ書第7章14節
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は、「驚くべき指導者、力ある神
永遠の父、平和の君」と唱えられる。
イザヤ書第9章5節
クリスマス月間説教題:「キリスト誕生の預言」
アドベント、待降節の第4週に入りました。
前回は、「ダビデの末より生まれるキリスト」についてお話ししました。
クリスマスは、歴史の中で、神の約束が成就するという出来事です。その歴史を、改革派教会は、恵みの契約と呼んでいます。すなわち、神がわたしたちの父となり、わたしたちが父なる神の子となるという契約です。
神は最初にアブラハムを選ばれ、彼と恵みの契約を結ばれました。そして神は彼と彼の子孫を祝福されました。神はアブラハムを通して、世界の諸国民が祝福し、彼の子孫から王が現れることを約束されました。
千年後、神はダビデをイスラエルの王に選ばれ、彼と恵みの契約を結ばれました。神はダビデの王家を堅く立て、ゆるぎないものとすると約束し、彼の末からメシアが現れ、彼が永遠の御国を確立すると告げられました。
ダビデ王朝は、およそ400年間継続し、バビロンに滅ぼされました。その間にイスラエルには多くの預言者が現れました。イザヤもその一人です。
列王記下17章13節に、主なる神が北イスラエル王国と南ユダ王国に預言者を遣わされて、神の民を警告されたことを、次のように記しています。
「主はそのすべての預言者、すべての先見者を通して、イスラエルにもユダにもこう警告されていた。『あなたたちは悪の道を離れて立ち帰らなければならない。わたしがあなたたちの先祖に授け、またわたしの僕である預言者たちを通してあなたたちに伝えたすべての律法に従って、わたしの戒めと掟を守らなければならない。』」
ミアーズは、イザヤのような預言者について、こう語っています。「預言者は、イスラエルの歴史の暗黒時代に神に立てられた人たちだった。彼らは当時の伝道者、宗教的愛国主義者だった。」と。
イザヤは、南ユダ王国のウジア王が死んだ年に、主なる神より預言者に召されました。そして彼はヨタム、アハズ、ヒゼキヤ王の時代に活躍しました。
このイザヤを、今日「第1イザヤ」と呼んでいます。
預言者の活躍する時代は、イスラエルの暗黒時代です。神の民が主なる神に背き、主の戒めと掟を捨て、偶像を礼拝し、不道徳な生活をしていました。
イザヤの活躍した時代、中近東世界はアッシリア帝国が全盛期でした。パレスチナにある諸国がアッシリア帝国に服従するか、否かは、外交にとって重要でした。
南ユダ王国のアハズ王は、不信仰な王でした。彼は主なる神に頼るよりも、アッシリア帝国に服従するほうを選びました。
ところが、北イスラエル王国とアラムはアッシリア帝国に服従しませんでした。北イスラエル王国とアラムは、南ユダ王国に軍事的圧力をかけ、アハズ王を退位させ、別の王を立て、同盟を迫りました。
アハズ王は苦しい立場に追い込まれました。
主なる神は、アハズ王に救いの手を差し伸べるために、イザヤを遣わされました。
しかし、アハズ王は自分の生き方を変える意志はありません。主なる神に立ち帰る気はありません。
だから、アハズ王は主なる神がイザヤを通して、「しるしを求めよ」と救いの手を差し出されたのに、「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」と答えました。
アハズ王は敬虔な態度を示しましたが、彼の心は主から遠く、主の助けの手を拒みました。
しかし、主なる神は、ダビデとの約束を忘れておられません。主なる神は、アハズ王の不信仰にもかかわらず、イザヤを通してダビデの家に祝福のしるしを与えられました。
主がしるしを与えられる「あなたたち」とは、主なる神に選ばれた者たちのことです。彼らは、南ユダ王国の中で主なる神に服従する神の民です。
主なる神は、彼らに一つの希望を与えられます。イザヤを通して、主なる神は神の民に「見よ」と呼びかけられ、次のように告げられました。
「おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ」と。
メーチェーンは、彼の著書『キリストの処女降誕』で、次のように記しています。
「イザヤは言っている。わたしは素晴らしい子どもを見る。一人の素晴らしい子どもである。彼の誕生は彼の国民に救いをもたらすであろう。そして、子どもの受胎と分別年齢の間に過ごされるほどの期間で北イスラエル王国とアラムの地は見捨てられるであろう」
「インマヌエル」は「神、我らと共にいます」という意味です。
メーチェーンの言葉と「インマヌエル」の意味を合わせて、今朝のイザヤ書7章14節の御言葉を考えると、次のように理解できます。
アハズの息子ヒゼキヤの誕生です。主なる神は、男の子の誕生を、主なる神が南ユダ王国の救いのしるしとされました。すなわち、ヒゼキヤが生まれ、分別がつく年齢に達した時、北イスラエル王国とアラムは滅び、南ユダ王国は救われると。この救いは、神が南ユダ王国の選びの民と共にいてくださったからです。
イザヤの預言を、新約聖書のマタイによる福音書は、イエス・キリストの誕生の預言と理解しています。神に選ばれた諸国の民の救いのために、イエス・キリストがおとめマリアより生まれられたと。マタイによる福音書は、この出来事によって、神が我らと共にいてくださるクリスマスの出来事を証ししました。
アッシリア帝国の王テグラトピレセルが紀元前732年にアラムの首都ダマスコを滅ぼし、ガリラヤをアッシリアの属州にしました。
これが9章の歴史的背景です。
アッシリア帝国の強力な軍事力により、パレスチナの諸国は次々と滅ぼされていきます。ガリラヤもアッシリア帝国の属州となり、異邦人によって汚されてしまいます。
神の民たちの目に、この世は暗黒時代です。
しかし、主なる神は、イザヤを通して暗黒の地に光を輝かせると告げられました。神は、ひとりのみどりこの誕生によって、大きな喜びを与えると告げられています。
その大きな喜びとは、主なる神がお与えくださる平和です。アッシリア帝国のように巨大な軍事力により地を平定することではありません。
イザヤ書9章5節は、クリスマスメッセージと呼ばれています。
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」
「わたしたちのために」という言葉は、神の選びの民を意味しています。神と恵みの契約を結んだ者たちのために、ひとりの赤ちゃんがこの世に生まれました。ひとりの男の子を、神は神の民たちに与えられました。
その男の子は、彼の名が示すように、神の民の王であり、支配者であり、大権を持つ者です。しかし、ヒゼキヤ王のようなこの世の王ではありません。
彼は「驚くべき指導者」とは、人間に捉えきることのできない存在者という意味です。彼は「力ある神で、永遠の父、平和の君」です。来るべき救い主の神性を現しています。
主なる神はイザヤを通して、ダビデの末から生まれるキリストを預言されたのです。
イザヤを通して、クリスマスは、闇の中に光が輝く出来事と告げられました。だから、マタイによる福音書もルカによる福音書も、キリストの御降誕は闇に光が輝く出来事として証しされています。
ヨハネによる福音書も、クリスマスを、闇に光が輝く出来事として証ししています。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1:14)と。
神の独り子キリストが「わたしたちの間に宿られた」この世は、罪の世です。人間は罪と死の力に対して無力な存在です。
わたしは、物心がついた時から、「どうして人は死ぬのだろう」と思い、死ぬことが怖くてたまりませんでした。
それから、悪いと分かっているのに、どうして悪いことをするのだろうと、思っていました。悪いことをすると、親にも学校の先生にも、どうしてやったと問われても、よく答えられませんでした。ほしいと思うから、親の財布からお金を盗み、ほしいものを買いました。でもどうしてほしいと思ったのか、親に怒られ、先生に怒られると分かっているのに、どうして止められないのか、分かりませんでした。だから、自分が自分を嫌っていました。
しかし、大学生の時に教会に行きました。礼拝で牧師が語る説教を聞き続けました。説教を聞く中で、わたしの心をとらえたのは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という御言葉がわたしの心を捕らえました。
わたしの罪、わたしが止められないわたしの悪のために、神が御自身の独り子をこの世に遣わしてくださったことを知りました。キリストの十字架はわたしの罪のためであるjことを受け入れることができました。
クリスマスは、わたしにとって闇に光が輝く出来事となりました。どうして人は死ぬのかと、死におびえていた人生から、キリストと共に死から永遠の命への希望に生きる人生に変えられました。
欲する善をなさず、欲せぬ悪をなす自分に苦しむ人生から、十字架のキリストによって自分のすべての罪は赦されているという喜びに変えられました。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、
アドベントの第4週に入りました。多くの教会で、クリスマス礼拝が守られています。わたしたちの教会は「クリスマス月間」の第3主の日として、クリスマスメッセージの説教を聞き、クリスマス讃美歌を賛美しています。共にクリスマスを祝えることを感謝します。
本日はイザヤ書から「キリストの誕生の預言」という題で、クリスマスメッセージを説教しました。どうか、説教を聞きましたわたしたちの心を、神がわたしたちのために与えられたひとりのみどりご心を向けさせてください。
処女マリアから、聖霊によって身ごもられ、罪なきお方として生まれられたキリストが、わたしたちの罪の身代わりになってくださった神の恵みに感謝します。
本日日本中で、世界中で、教会がクリスマスを祝っています。どうか、世界中の教会で、クリスマスのメッセージが説教され、「実に、神は独り子をお与えになるほど、この世を愛された」という福音が世界中の人々に伝えられるようにしてください。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
2017年度教会聖句による説教01 主の2017年1月29日
今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。
ネヘミヤ記第8章10節
説教題:「主を喜び祝う」
本日は、礼拝後に会員総会を開きます。
小会は本年度の教会の目標を「持続可能な教会を目ざして」とし、今年度の聖句をネヘミヤ記第8章10節の御言葉を選び、実施項目と共に提案しました。
「持続可能な教会」は、一昨年から取り組んでいます。今年度も継続したいと願っています。
わたしは、「持続可能な教会」を、主の日の礼拝を持続する、伝道を持続する、教会の世代交代が継続される教会と理解しています。
わたしは、今述べたことを前提にして、今朝ネヘミヤ記から、特に8章10節の御言葉より、「主を喜び祝うこと」が「持続可能な教会」の土台であり、出発点であることを学びたいと思います。
ネヘミヤ記は旧約聖書の中の一つの書物です。昔はエズラ・ネヘミヤ記が一つの巻物となっていました。
旧約聖書の神の民イスラエルにとって、大きな事件が二つあります。出エジプトの事件とバビロン捕囚とそこからの帰還であります。
そして、この二つの事件は、後のキリストの十字架と復活の御業によってわたしたちキリスト者が罪と死から解放された出来事の予型でありました。
ですから、律法学者のエズラと総督のネヘミヤは、わたしたちキリスト者の信仰と生活の模範であります。
バビロン捕囚から帰還した神の民がどのように彼らの信仰の共同体を再建し、持続可能な神の民を形成したか、今のわたしたちにとっては、多くのヒントを与えてくれると思います。
わたしたちは、エズラ・ネヘミヤと同じ主なる神を信じ、毎週の主の日の礼拝で聖書の神の御言葉に聞き従おうとしています。エズラ・ネヘミヤの時代にレビ人がモーセの律法を神の民に朗読し、解釈したように、教会の礼拝で牧師が聖書の御言葉を朗読し、解き明かしの説教をしています。
この継続が神の民を持続させ、上諏訪湖畔教会を持続させています。
わたしは、このことで、常に心に留めることは、わたしたち改革派教会の20周年宣言の「礼拝」の項であります。
「教会の生命は、礼拝にある。キリストにおいて神ひとと共に住みたもう天国の型として存する教会は、主の日の礼拝において端的にその姿を現わす。わが教会の神中心的・礼拝的人生観は、主の日の礼拝の厳守において、最もあざやかに告白される。神は、礼拝におけるみ言葉の朗読と説教およびそれへの聴従において、霊的にその民のうちに臨在したもう。」
「持続可能な教会」は、「持続可能な礼拝」の上に成り立つ教会です。キリストの臨在される教会です。なぜなら、教会の土台はキリストだからです。
使徒ペトロが主イエスの「あなたがたはわたしを何者だと言うか」という問いに、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白しました(マタイ16:15-16)。主イエスは、その信仰告白の上に御自身の教会を建てると約束してくださいました。
ネヘミヤ記を読みますと、バビロン捕囚から帰還した神の民の再建が、ネヘミヤの祈りから始まったことを記しています。
ネヘミヤは、祈りの人です。主なる神が預言者エレミヤやエゼキエルなど、預言者たちを通して約束してくださった御言葉を信じて、彼は主が実現してくださるように祈りました。
総督として、ペルシア王からエルサレムに遣わされましたが、ネヘミヤは国家権力によって神の民の再建を企てませんでした。彼は、主なる神に信頼し、主なる神にまず祈って、エルサレムの都の城壁を再建しました。敵の妨害がありました。命の危険がありました。その度にネヘミヤは、主なる神を信頼し、「わたしたちの神よ、お聞きください」と祈りました(ネヘミヤ3:36)。
不可能であると思われたエルサレムの都の城壁の修復は、52日で完成しました(同6:15)。
この御言葉を読みます時に、わたしたちは励まされます。将来の新会堂に備えて、積立献金をしています。現状では、新会堂建築はとても不可能です。
しかし、ネヘミヤの祈りから、わたしたちは次のことを学びます。わたしたちが主イエスに信頼し、新会堂建築のために祈るならば可能であると。なぜなら、主がわたしたちの教会を持続するとお決めになれば、決して不可能ではないからです。
ソロモンが詩編127編1節で次のように賛美していますね。「主御自身が建ててくださるのでなければ 家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ 目覚めているのもむなしい。」
本当にその通りであると、わたしは思います。
さらにネヘミヤは、エルサレムの都の城壁を再建すると、神の民の改革をしました。民を集め、彼らにモーセの律法を朗読し、レビ人がそれを解説しました。神の民は皆、それに耳を傾けました。
レビ人は、モーセ律法を朗読し、解説し、レビ記の中に記されていないことを集まった神の民の状況を踏まえて語りました。
それが、今年度の聖句に決めたネヘミヤ記8章10節後半の御言葉であります。
モーセ律法のレビ記には第7の月の1日を、新年を祝う「聖なる日」、安息日として、集会を守るように教えています(レビ記23:24-25)。ところが、ここではレビ人は、一人で安息日を喜ぶのではなく、貧しい者と共に喜べと命じて、「悲しんではならない」と命じています。これはレビ記にはありません。
要するにネヘミヤ時代のレビ人は、教会の牧師のように聖書の御言葉を神の民たちに解き明かしているのです。そして、レビ人の解き明かしを、神の民たちは神の御言葉として聴き、ネヘミヤはこのようにネヘミヤ記に書き留めたのです。
そして、レビ人のモーセ律法の解き明かしを聞きました神の民たちは、安息日の聖なる日を悲しむことなく、心から喜び守ったと、ネヘミヤ記は記しています。
毎週の主の日の礼拝も同じです。わたしたちは、悲しむために、ここに集まるのではありません。キリストの十字架によって父なる神に罪を赦され、キリストの復活によって新しい命に生きる者とされた喜びを、心から感謝し、主を祝うためにこの礼拝に集うのです。
ネヘミヤと神の民たちは、聖なる日を喜び祝うと、彼らの罪を主の前に告白し、彼らの生活を清めました。偶像礼拝を廃し、その危険がある雑婚を廃しました。
わたしたちキリスト者は、同じことをする必要はありません。今のわたしたちも偶像礼拝は禁じられていますが、未信者との結婚は許されています。なぜなら、わたしたちのゆえに未信者の夫と妻は聖なる者とされているからです(Ⅱコリント7:1-16)。
だからこそわたしたちは、主に感謝し、喜んで家族が一緒に礼拝に集えるように祈ろうではありませんか。
わたしたちの家族だけでなく、アブラハムのように諏訪、松本、伊那に住む人々のためにとりなしの祈りをしようではありませんか。
わたしたちの教会がとりなしの祈りを続けるならば、それは主の御心に適うことであり、主はわたしたちの教会を持続させてくださるでしょう。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、2017年となり、一か月が過ぎようとしています。主が新しい年、恵みのうちにお導きくださり感謝します。
ネヘミヤ記の8章10節の御言葉に、今年一年導かれて歩みたいと思いす。
また、ネヘミヤをわたしたちの信仰の模範として、今年一年を歩ませてください。
ネヘミヤ記の「主を喜び祝うことは、わたしたちの力の源である」という神の御言葉を信じて、どうか、わたしたちが主の望まれることを、聖霊の導きと祈りによってなし、わたしたちの教会を持続可能な教会としてください。
午後の会員総会を祝してください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
イースター伝道集会説教(2017年) 2017年4月16日
ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人クレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓に行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先に行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるために家に入られた。一緒に食事の席に着いたときい、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
ルカによる福音書第24章13-35節
説教題:「復活の主イエスとの出会い」
主イエス・キリストは、死者の中から甦られました。イースター、おめでとうございます。
世界中の教会で、キリスト者たちが互いに、今日は「主イエスは甦られました。おめでとうございます」と挨拶をします。
「イースター」は「復活祭」とも呼ばれています。日曜日の朝に、死者の中から復活された主イエス・キリストを記念し、お祝いするキリスト教会のお祭りです。
「イースター」は、わたしたちが生きているこの世界で起こった出来事です。わたしたちが手にしている聖書だけが証ししています。
ですから、ルカによる福音書も他の福音書に合わせて、主イエス・キリストが死者の中から復活されたのは、「週の初めの日」、すなわち、一週間の最初の日の日曜日であったと記しています(ルカ24:1)。
当然、わたしたちの日常世界において起こった出来事ですから、目撃者がいます。
その目撃者は、主イエス・キリストがゴルゴタの丘の上で十字架刑によって死んだことを目撃していました。
そして、主イエス・キリストが死者の中から復活し、彼らの前に現れたことを目撃したのです。
ルカによる福音書の24章は、その目撃者たちの証言を記録したものです。最初に遠くからキリストの十字架刑を見守っていた婦人たちの証言が記されています。
彼女たちは、主イエスが死なれて、3日目、週の初めの日の朝早く、主イエスが葬られた墓を訪れました。ところが、既に墓の入口をふさいでいた大きな石は取り除かれており、墓の中に主イエスの遺体を見つけることができませんでした。二人の御使いが彼女たちの前に現れ、主イエスが復活されたことを告げました。
墓から戻りました婦人たちは、エルサレムの町のある家に隠れていた主イエスの弟子たちに、墓の中に主イエスの遺体が見つからなかったことと御使いが「主イエスは復活した」と告げたことを伝えました。
婦人たちの証言を聞いて、ペトロが墓に行って確かめました。墓の中には主イエスの遺体を包んでいた亜麻布しか残っていませんでした。
このようにルカによる福音書は、わたしたち読者に主イエスの弟子たちやガリラヤから主イエスと弟子たちのお世話をするためについて来た婦人たちの証言を通して、主イエスが葬られた墓に、主イエスの遺体がなかったという事実と御使いたちが「主イエスは復活なさったのだ」というメッセージを通して、主イエス・キリストの復活を証言しています。
今朝の御言葉のメッセージの中心は、23節の二人の御使いのメッセージ「イエスは生きておられる」であります。
主イエス・キリストの復活とは、主イエスは今生きておられる、という真実であります。
この真実を聖書はわたしたちに証言し、わたしたちはその証言を信じているので、こうして日曜日の朝に復活の主イエスの復活を記念して毎週礼拝をしているのです。
しかし、二人の御使いたちの「主イエスは生きておられる」というメッセージだけでは不十分であることを、ルカによる福音書は知っているのです。
「主イエスは復活された」「主イエスは今生きておられる」と言う限りには、復活し、今生きている主イエス御自身が現れ、それを目撃するのでなければ、御使いたちのメッセージが真実とは言えないと、ルカによる福音書は考えたのではないでしょうか。
そこでルカによる福音書は、続けて同じ日の夕方に、復活し、今生きている主イエスが彼の二人の弟子たちに現れてくださったことを記しています。
日曜日の夕方の出来事です。エルサレムの都から11キロ離れたエマオの村へと主イエスの弟子のクレオパともう一人の弟子が歩いていました。
彼らは、週の初めの日の一日の出来事を話し合いながら歩いていました。朝早く婦人たちが主イエスの墓を訪れたそうだ。ところが墓の中に主イエスの遺体を見つけることができず、二人の御使いが彼女たちに「主イエスは復活した」と告げたそうだ。そこで婦人たちがエルサレムの都にわたしたちに伝えてくれたわけだが、ペトロたちが墓に行き、主イエスの遺体がなかったことを確かめきた。何が何だか分からない。本当に驚かされる一日だ。
そのように会話しながら歩いている二人。彼らは、婦人たちが彼らに伝えた二人の御使いの「主イエスは復活された」というメッセージを信じてはいません。
彼らが信じるためには、復活し、今生きている主イエスが二人の弟子の前に現れてくださる必要がありました。
だから、ルカによる福音書は、復活の主イエスが旅人の姿で現れ、二人に近づかれ、彼らと一緒に歩かれたと記しています(15節)。
ルカによる福音書は、わたしたち読者に次のことを伝えています。すなわち、どうして復活の主イエスが旅人の姿で二人の弟子たちに現れたかであります。
それは、主イエスが復活されたことを信じない弟子たちが信じるようになるためであります。
不信仰のため、目が遮られて、今主イエスが生きて、彼らの御前におられるのに、目が遮られて、復活の主イエスが見えていない弟子たちが見えるようになるためです。
そのために主イエスは、二つのことをなさいます。第1に主イエスは弟子たちに旧約聖書を紐解いて、御自身の受難と死と復活を説明されました。第2に彼ら共に聖餐の食事をなさいました。
最初は、復活の主イエスに気づかない二人でしたが、主イエスが旅人の姿で、二人に旧約聖書から解き起こして、キリストが死者の中から復活することを明らかにされ、その主イエスの説明を聞いていて、彼らの心が熱くなりました。そして、二人は旅人の話を聞きたくて、彼らの家に旅人を迎え入れました。そして一緒に食事をしました。その時です。主イエスが二人の前でパンを裂かれると、彼らの目は開かれて、復活し、今生きておられる主イエスの現れを目で捕らえました。すると、主イエスは消えてしまわれました。
クレオパともう一人の弟子はエルサレムの都に戻りました。すると、ペトロたちが復活し、今生きておられる主イエス・キリストの現れを話し合っていたのです。
聖書は、一人だけの証言では、信用できないと教えています。しかし、二人、三人、さらに多くの者たちが、復活し、今も生きている主イエスの現れを証言するのであれば、それは真実であると教えています。
使徒パウロはファリサイ派の者で、ダマスコにいるキリスト者たちを迫害する途上で、復活し、今も生きている主イエスの現れに出くわしました。そして、キリスト教会を迫害する者からキリストの福音を伝える使徒に変えられました。復活の主イエスは、彼だけでなく「五百人以上もの兄弟たちに同時に現れ」(1コリント15:6)と、パウロは証言しています。それだけ多くの復活の主イエスの現れを目撃した者たちがいるのですから、聖書はキリストの復活は信用してもよいと証言しています。
この説教を準備しています時に、萩耿介という作家の「イモータル」という題の小説を読みました。
聞きなれない作家だと思います。しかし、店頭にその作家の本が積み上げられていました。キリスト教とは関係のない本です。主人公の兄がインドの思想に魅かれて、インドに旅し、亡くなります。その兄を追って、インドに行きます。兄が残した「智慧の書」に関わる人々が描かれています。
その本の中で次のような言葉に出会いました。「言葉によっても思考力によっても視覚によってもそれは得られない。それはただ『ある』というようにだけ理解される」(「イモータル」P159)。
牧師は、言葉が仕事です。言葉で復活の主イエスの現れを伝えること、これが牧師の説教という行為を通してなしている務めであります。
今、わたしは、「イースターって何」ということを、ルカによる福音書24章の御言葉を解き明かすことで、伝えようとしています。
イースターを理解していただくためには、今朝の御言葉の中心である「イエスは生きておられる」ことを理解していただかなくてはなりません。
しかし、それは、小説の言葉に一節のように、言葉で、思考力で、そして、わたしたちの目で得られません。
「それはただ『ある』というようにだけ理解される」のです。
主なる神は、昔の神の民の指導者モーセに御自身の現れをお示しになり。「わたしは『ある』ものである」と言われました。そして、主なる神はモーセに「イスラエルの子らに言え、『<わたしはある>という方がわたしをあなたのもとへ遣わされた』と」(出エジプト記3:15)
わたしたちの日本キリスト改革派教会の創立者の一人、岡田稔先生は、主なる神の自己啓示を次のように『教理学教本』の中で説明されています。
「聖書において神は自存者であるばかりではなく、行為し、語り、計画し、実行する。それは何であるよりも生ける神であると言われる。」(『教理学教本』P53)。
復活し、今も生きている主イエスは、わたしたちには毎週の日曜日の礼拝を通して「ある」というようにだけ理解されるのです。
たとえば、牧師が聖書の御言葉を解き明かし、説教します時に、先週の礼拝では、復活し、今も生きておられる主イエスは牧師の説教を通して御自分を「わたしは良い羊飼いである」と言われました。
そして、主イエスは「良い羊飼いは、自分の羊のために命を捨てる」と言われました。
ルカによる福音書は、わたしたち読者に主イエスが二人の弟子に現れたことを伝えておりますが、その出会いに二人の弟子たちが気づくのは、主イエスが旧約聖書を通して彼らに御自身の受難と死と復活を説明され、共に聖餐の食事でパンを裂くことを通してでありました。
このことを、今この礼拝で理解していただくことが、わたしたちが主イエスの現れに気づき、今わたしたちも復活し、今も生きている主に出会う一番の近道です。
どうか、許す限り、これからもご一緒に礼拝を共にしていただき、共に説教を聞き、聖餐式に参加していただきたく、わたしはここでお勧めします。
実は、先週の礼拝で、わたしが大学時代に教会の礼拝の説教と聖餐式に導かれ、今年の夏で43年になりますというお話をしました。
わたしは不信仰で、悟ることに鈍い者でしたが、ルカによる福音書が今朝の御言葉で証ししますように、教会の礼拝で説教を聞き続け、聖餐式でパンとぶどう酒にあずかるごとに、本当に復活の主イエスは、わたしの羊飼い、命のパン、命の水であり、真理であり、光であると理解しました。その理解を通して、今ここにわたしと共に「ある」復活の主イエスに、わたしは出会ったのです。
主イエスはわたしの羊飼いとして、礼拝に常にわたしと共に「ある」お方です。そして、わたしをこの世の罪から確かに連れ出し、毎週日曜日に礼拝で御言葉の糧をくださり、そして、聖餐式を通して養い、御国へと導いてくださっています。
それは、わたしだけでありません。復活の主イエスが教会の礼拝に招かれた一人一人に、礼拝の説教を通して、「わたしは良い羊飼いである」と言ってくださり、「わたしは命のパン、命の水である」と呼びかけて、聖餐式に招いてくださり、永遠の命へと導き、死に至るまで、そして死後をも、羊飼いとして導いてくださるのです。
どうか、今朝を機会に、そして毎週の礼拝を通してここに「ある」主イエスに出会っていただきたいと、お勧めし、終わりにしたいと思います。
お祈りします。
復活であり、命である主イエス・キリストの父なる神よ、今朝のイースターの朝、わたしたちの教会は伝道集会をしました。復活の主イエス・キリストが死に勝利され、この主の御名を呼ぶわたしたちに永遠の命をお与えくださり、心より感謝します。
ルカによる福音書を通して復活の主イエスの現れについて学びました。
復活の主イエスの出会いは、信仰の出会いであり、言葉で、思考力で、目で理解することはできませんが、わたしたちの信仰によってのみ、復活し、今も生きる主イエスが、ただ「ある」というように、わたしたちは信仰によって理解できることを教えられました。
難しいことですが、信じて、礼拝をわたしたちと共にしようとする方を起こしてください。
讃美歌146番4節に「主の死に生かされ 御傷にいやされる よろこびたたえ」とあります。主イエスが復活し、今も生きて、わたしたちの救いのためにお働きくださっていますので、このように賛美できることを感謝し、この喜びの礼拝にわたしたちの家族、この町の人々を、そして、日本中、世界中の人々をお招きください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。