クリスマス月間説教01     主の2018年12月2日

 

 

 

 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。彼女はまたその弟アベル産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。

 

 「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せしており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」

 

 カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。

 

 主はカインに言われた。「お前の弟アベルはどこにいるのか。」

 

 カインは答えた。

 

 「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」

 

 主は言われた。

 

 「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を生み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」

 

 カインは言った。

 

 「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」

 

 主はカインに言われた。

 

 「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」

 

 主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。カインは主の前を去り、ノド(さすらい)の地に住んだ。

 

 カインは妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ。カインは町を建てていたが、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付けた。

 

                         創世記第4117

 

 

 

  説教題:「神よりの逃走」 上諏訪湖畔教会牧師 足立 正範

 

 今朝は、人間の孤独がどこから、なにゆえにあるのか、創世記の第4117節の御言葉から学び、クリスマスが人間の孤独に解放を告げる福音であることを聞きたいと思います。

 

 

 

 さて、キリスト教の聖典である旧約聖書は、39巻の書物から成り立っています。昔の神の民イスラエルは、それを3つに分けました。「律法書」と「預言書」と「諸書」です。

 

 

 

神の民イスラエルの指導者モーセがシナイ山で主なる神から直接啓示を授けられました。それを書き記したのが旧約聖書のモーセ五書です。

 

 

 

モーセ五書とは、「創世記」、「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」のことです。この五書を成文律法と呼びます。それに口伝律法が加わり、モーセ律法が生まれ、後のユダヤ教が生まれました。

 

 

 

 モーセ五書は、物語と法から成り立っています。

 

 

 

今朝学びます「創世記」はすべて物語です。

 

 

 

昔の神の民イスラエルは、創世記の物語を読み、そこから教訓を得ようとしました。

 

 

 

しかし、キリスト教は、旧約聖書をキリストの預言の書と理解しました。

 

 

 

だから、わたしたちは、「創世記」のカインの物語から、ただ人生の教訓を得るだけでは不十分です。どうして主イエス・キリストは、神であるのに人となってこの世に来られなければならなかったのかを聞き取ろうではありませんか。

 

 

 

「創世記」という書名は、「ゲネシス」というヘブライ語に由来します。創世記は1章で神が六日間で天地を創造されたことを物語り、2章で神が七日目に休まれたことを記し、24節で「これが天地創造の由来である」と記しています。

 

 

 

この「由来」という言葉がヘブライ語の「ゲネシス」です。「始まり」「起源」を意味します。

 

 

 

だから、創世記は、始まりの物語です。創世記は全部で50章あります。大きく分けると、世界の始まりと神の民イスラエルの始まりを物語っています。

 

 

 

111章は世界の始まりの物語です。1250章は神の民イスラエルの先祖たちの物語です。

 

 

 

12章で神による天地の創造と人間の創造を、世界と人間の始まりを記しています。そして、34章で人間の罪の始まりと神の支えを記しています。

 

 

 

3章で蛇が妻のエバを誘惑し、2章で神がアダムに禁じられていた善悪を知る木の実を、アダムとエバは食べてしまいました。その結果、全人類と神が造られた世界に死が入りました。神に背いて罪を犯したアダムとエバは、エデンの園を追放されました。

 

 

 

しかし、神は、創世記315節でアダムに福音を告げられました。

 

 

 

お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く。彼はお前の頭をくだき お前は彼のかかとを砕く。」

 

 

 

「お前」とは蛇、サタンです。「女の子孫」から産まれる「彼」とはキリストです。キリストは蛇の頭を、サタンの頭を砕いて、滅ぼすが、蛇はキリストのかかとを砕くことしかできません。これが最初のキリストの十字架の預言です。

 

 

 

今日、注目してほしいのは、神が「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く。」と言われたことです。

 

 

 

二種類の人類がこの地上で敵対しながら生き始めるのです。

 

 

 

その始まりを記したのが、カインが弟のアベルを殺したという物語です。最初の殺人事を記し、そして今朝のテーマである人間の孤独の始まりを物語っています。

 

 

 

  さて、今朝の御言葉を見てみましょう。創世記の41節で「アダムは妻エバを知った」と記しています。アダムとエバが夫婦生活をしたという意味です。その結果二人からカインと弟アベルが産まれました。そして、425節でカインが弟アベルを殺したので、神が二人にアベルに代わり、セトを与えられたと、記しています。

 

 

 

 二種類の人類とは、カインの子孫とセトの子孫です。カインと彼の子孫は蛇の子孫です。すなわち、神に背を向けて生きる者たちです。

 

 

 

 セトと彼の子孫は神を礼拝して生きる者たちです。このように二種類の人類が地上に現れたことを、創世記は4章は記すのです。

 

 

 

 さて、今朝のテーマ、人間の孤独とクリスマスの関係について、カインの物語から学びたいと思います。

 

 

 

 アダムとエバの二人の子供たちは、時を経て成人し、カインは農耕の人に、アベルは羊を飼う者となりました。

 

 

 

 そして、二人は主なる神の御前で礼拝を献げました。カインは地を耕して得た穀物を献げました。アベルは、彼が飼っている羊の初子を、肥えた小羊を献げました。

 

 

 

 創世記は、4節後半から5節でこう記します。「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。」。

 

 

 

これは主がアベルの生活を豊かに恵まれたが、反対にカインは主の恵みなく、悪天候で不作だったという意味でしょう。

 

 

 

そこでカインは、主に不満と憤りを覚え、主が弟のアベルに幸いを与えられたのを妬みました。

 

 

 

 二人は同じように主を礼拝し、主に献げ物をしました。わたしはアベルが肥えた小羊の初子を献げたので、主が喜ばれて、彼を祝福されたとは考えられません。

 

 

 

しかし、わたしは主が良き意味で、カインに一つの試練を与えられたと思います。

 

 

 

主はカインの憤り、怒りを見過ごされました。彼の傲慢を耐え忍ばれました。そして主はカインに67節で言われました。

 

 

 

どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せしており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。

 

 

 

 主はいかにカインが怒り憤っているかをご存知です。そして、カインがそれ以上に悪をなさないようにと、主は警告されているのです。

 

 

 

 「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。」。

 

 

 

この御言葉は不思議に、わたしの心にしみます。よくわたしは悪いことして、親や学校の先生に叱られました。その時、わたしは顔を伏せていました。すると親も学校の先生も「顔を上げて、わたしを見なさい」と言い、「叱らないから、本当のことを言いなさい」と言いました。

 

 

 

 だから、わたしは、このカインは、あの時のわたしだと思うのです。親や先生の顔を見て、そこで正直に話すことができれば、本当に悪の連鎖から逃れられたでしょう。

 

 

 

 しかし、悲しいかな。わたしたちは罪人です。

 

 

 

この「罪人」は犯罪者という意味ではありません。生まれながらに心が腐敗し、神の御前に良きことができない者のことです。

 

 

 

顔を上げられないのです。正直に言えないのです。嘘でごまかそうとするのです。だから、わたしは、自分のカインに、言いたいです。あの時親や先生の忠告に正直になり、顔を上げて、言えばよかったと。「僕は、友達のA君が自慢しているものが羨ましかった。だから、お母さんの財布からお金を盗んで、A君と同じものを買いました。ごめんなさい」と。

 

 

 

しかし、カインもわたしも顔を上げられなかった。正直に言えませんでした。

 

 

 

その結果、主の警告の御言葉がカインの現実となりました。罪が人格を持った人のように、彼を誘惑しました。彼に弟のアベル殺しを勧めたのです。

 

 

 

カインは、神の警告を聞きませんでした。彼は、ある日、アベルを野原に誘って殺し、土に埋めました。

 

 

 

9節で主はカインに尋ねられました。「お前の弟アベルはどこにいるのか。」と。

 

 

 

主は単にカインに彼の弟アベルの所在を問われているのではありません。カインは、主の呼び掛けに、彼がどんなに大切なものを失ったのかを知るべきでした。

 

 

 

主はカインと弟のアベルが愛し合うべき兄弟として、また、人間として和合して生きることを願われました。二人が互いに愛し合い、助け合って生きることを願われました。

 

 

 

しかし、主の御心はカインに通じませんでした。彼は主に対して傲慢に答えました。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」と。

 

 

 

彼は主を嘲りました。「わたしは羊を守る羊飼いである弟の番人でしょうか」と言いました。

 

 

 

「人間」という字は、人は人との関わりの中で生きる存在であるという意味だと思います。

 

 

 

だから、人間はひとりでは良くないのです。主なる神は、アダムの助け手であるエバを創造された時に、こう言われました。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を創ろうと。(創世記2:18)と。

 

 

 

主はカインを裁きの場に立たせて、呪いの宣告をされました。カインを訴える者は、地の中に埋められたアベルの血です。

 

 

 

その結果、カインは神と人との関係を一切失いました。

 

 

 

人間の孤独は、カインの罪と神の呪いの宣告によって始まりました。

 

 

 

彼は、主が弟を祝福されるのが妬ましくて、罪に弟を除きさえすればと誘惑を受けて、弟を殺しました。

 

 

 

すると、彼は、すべての関係を失ってしまいました。神との関係も人との関係も失い、生まれ故郷すら住めなくなり、この地上に彼の居場所はどこにもない者となりました。

 

 

 

この世に生きながら、彼はひとりになりました。そして、彼の孤独には不安という恐怖が影のように彼の生涯に追ってくるのです。

 

 

 

その時に彼は、初めて主の御前に自分の罪の重さを知りました。

 

 

 

それが13節と14節での彼の主への告白であります。

 

 

 

 「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。

 

 

 

彼の告白は、真実の罪の告白ではありません。彼は弟を殺したことを悔いてはいません。むしろ、神の裁きが重くて耐え切れないと言っているのです。

 

 

 

彼は、主の裁きですべての関係を断たれて、この地上をさまよう者となりました。そして、この地上で出会う者はだれでも彼を殺そうとするという不安におびえました。この孤独と不安に、カインは絶望したのです。

 

 

 

しかし、主はカインを支えられました。アダムとエバと同じように主は支えられました。

 

 

 

そして、主は、カインが復讐を受けないように、約束の言葉と彼の額にしるしを付けられました。

 

 

 

カインは、主によって故郷から追放され、ノド、「さすらい」という意味の土地で暮らしました。主は彼に助け手を与えられ、エノクという子を与えてくださいました。

 

 

 

しかし、彼は生涯神より逃走しました。孤独と不安の中で生涯生きました。そして、彼に影のように付きまとう不安から逃れようと、堅固な城壁のある町を造り、その中に住みました。

 

 

 

この堅固な城壁のある町がカインの孤独と不安を癒したでしょうか。

 

 

 

むしろ、彼は、主から逃走するのではなく、主の御言葉に心を向けるべきだったのではないでしょうか。

 

 

 

カインは、主の御前で顔を上げることのできない人生を選択しました。神より逃走しました。そのために孤独と不安の人生を生きることになりました。この地上にはどこにも彼の居場所はありません。神を礼拝する場所を失いました。神を仰ぐ希望も失われました。神にも人にも関係することを拒まれました。

 

 

 

しかし、このカインが「わたしの罪は重すぎて負いきれません。」と嘆く声を、主は聞いてくださいました。

 

 

 

神から逃走するカインを、孤独と不安に生きる者を、主は追いかけ、支えられました。孤独な彼に妻を与え、子を与えられ、家族を与えられました。しかし、彼の孤独と不安は癒されないで、彼は堅固な城壁のある町に閉じこもりました。

 

 

 

カインのように、今この地上で数えきれないぐらい孤独と不安の中で生きている者がいるのではないでしょうか。

 

 

 

カインのように、主に顔を上げられないで、神を仰ぐ希望を失っている者が、この地球にどれだけいるのでしょうか。

 

 

 

まさにわたしたちの世界は、神より逃走した者たちの世界です。主に顔を上げられず、真実に自分の罪を認められず、悪から悪へと連鎖が繰り返されている闇の世界です。

 

 

 

だからこそ、神はこの世にクリスマスの光を輝かすことを良しとされたのです。

 

 

 

今朝の御言葉から直接にクリスマスのメッセージを聴くことは難しいでしょう。

 

 

 

しかし、わたしは、ヨハネによる福音書の145節の御言葉を心に留めます。

 

 

 

 「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

 

 

 

この「」は、主イエス・キリストです。このお方の中に永遠の命があり、その命をわたしたちに与えるために、父なる神の独り子である主イエス・キリストは、この闇の世界に、受肉し、人の子(人間)となられて来てくださいました。

 

 

 

これがクリスマスです。

 

 

 

そして、マタイによる福音書の1章によれば、生まれるメシアは「インマヌエル」と呼ばれています。「神は我々と共におられる」という意味です。

 

 

 

わたしは、生涯神より逃走したカインに、主は共にいてくださったと思います。神と人から離れて孤独と不安の中にある者と、主は共にいてくださるのです。

 

 

 

今朝の御言葉から直接にクリスマスのメッセージは聞けませんが、孤独と不安に生きるカインと共に主がいてくださったと、わたしたちが確認するとき、今世界中で孤独と不安に生きる者たちと共に主がいてくださるというクリスマスの喜びを見て取れるのではないでしょうか。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、本日よりアドベントに入りました。

 

 

 

わたしたちは、クリスマス月間として本日より23日までの4主日にクリスマスのメッセージを聴き、クリスマス讃美歌を歌い、主を崇め、賛美します。

 

 

 

どうか、この礼拝を祝し、わたしたちの家族を、知人を、教会の近隣の方々を、諏訪地方の方々をお集め下さり、共にクリスマスを祝わせてください。

 

 

 

神より逃走し、孤独と不安の中に生きる者たちと、主が共にいてくださる喜びを、わたしたちのクリスマスとして、讃美させてください。

 

 

 

どうかクリスマスに、世界で孤独と不安にある者にキリストの恵みの光を与えてください。

 

 

 

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

クリスマス月間説教02     主の2018年12月9

 

 

 

 主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。

 

 「二人の男がある町にいた。

 

 一人は豊かで、一人は貧しかった。

 

豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。

 

貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに

 

   何一つ持っていなかった。

 

彼はその小羊を養い

 

   小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて

 

彼の皿から食べ、彼の椀から飲み

 

彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようであった。

 

ある日、豊かな男に一人の客があった。

 

彼は訪れて来た旅人をもてなすのに

 

自分の羊や牛を惜しみ

 

貧しい男の小羊を取り上げて

 

自分の客に振る舞った。」

 

 ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を支払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下であなたの妻たちと床を共にするであろう。あなたは隠れて行ったが、わたしはこれを全イスラエルの前で、太陽の下で行う。』」

 

ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」ナタンは自分の家に帰って行った。

 

主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼はひきこもり、地面に横たわって夜を過ごした。王家の長老たちはその傍らに立って、王を地面から起き上がらせようとしたが、ダビデはそれを望まず、彼らと共に食事をとろうともしなかった。

 

七日目にその子は死んだ。家臣たちは、その子が死んだとダビデに告げるのを恐れ、こう話し合った。「お子様がまだ生きておられたときですら、何を申し上げてもわたしたちの声に耳を傾けてくださらなかったのに、どうして亡くなられたとお伝えできよう。何かよくないことをなさりはしまいか。」ダビデは家臣がささやき合っているのを見て、子が死んだと悟り、言った。「あの子は死んだのか。」彼らは答えた。「お亡くなりになりました。」ダビデは地面から起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝した。王宮に戻ると、命じて食べ物を用意させ、食事をした。家臣は尋ねた。「どうしてこのようにふるまわれるのですか。お子様の生きておられるときは断食してお泣きになり、お子様が亡くなられると起き上がって食事をなさいます。」彼は言った。「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食をして泣いたのだ。だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。あの子を呼び戻せようか。わたしはいずれあの子のところに行く。あの子がわたしのもとに帰って来ることはない。」

 

 

 

                         サムエル記下第12123

 

 

 

  説教題:「罪と絶望から神へ」 上諏訪湖畔教会牧師 足立 正範

 

今朝は、ダビデ王の物語からクリスマスのメッセージを聴きたいと願っています。

 

 

 

 さて、ダビデ王の物語はサムエル記上下にあります。

 

 

 

 サムエル記は、ダビデ王の物語ですが、サムエルの誕生物語から始まります。

 

 

 

最初のイスラエルの王はサウルです。彼は紀元前1030年に王に即位します。彼の治世は20年で終わりました。

 

 

 

サウルに続き、ダビデが紀元前1010年にイスラエルの王に即位しました。彼は神の民イスラエルを統一し、ダビデ王国を建てました。そして王国の都をエルサレムに定め、神の幕屋をその都に移しました。

 

 

 

ダビデは40年間王国を治めました。紀元前970年ごろに亡くなりました。

 

 

 

さて、サムエル記上下は、わたしたち読者にダビデ王の栄光と影の生涯を伝えています。

 

 

 

彼は羊飼いから身を起こして、イスラエルの王となりました。若き日のダビデを、サムエル記上は次のように描写しています。「彼は血色がよく、目は美しく、姿も立派であった」(サムエル記上16:12 聖書協会共同訳)と。若きダビデは、サウルの息子ヨナタンに愛され、サウルの娘ミカルに愛されました。

 

 

 

サムエルがダビデに油を注ぎ、主が彼をイスラエルの王になさると、主の霊が激しく彼に下りました(16:13)。主は豊かに彼を祝福し、サウル王の迫害から彼の身を何度も守られ、サウル王の死後、彼の王国をダビデに賜りました。こうしてダビデは王国を確立しました。

 

 

 

ところが、ダビデ王が王国を確立し、彼が安定を得ると、サタンが巧みにダビデ王を誘惑したのです。

 

 

 

この世では、それを「魔が差す」と言いますね。わたしたちの心の中にふと悪心が起こることです。この悪心を、英語は「エビル スピリト」と表現しています。「悪の心」「悪の精神」という意味でしょう。

 

 

 

サムエル記は、わたしたち読者にサムエル記上の16章からサムエル記下の10章までビデ王の栄光を伝えています。そして、サムエル記下の11章からダビデ王の影を伝えています。

 

 

 

影とはダビデ王の罪とその悲惨さです。

 

 

 

ダビデ王の生涯で最大のスキャンダルは、サムエル記下の11章でダビデ王が姦淫と殺人の罪を犯したことでしょう。

 

 

 

ダビデは、彼の家臣ヘテ人ウリヤの妻と姦淫しました。そして彼はウリヤに知られないように、彼をアンモン人たちの手で殺させました。そして、ダビデはウリヤの妻を自分のものとしたのです。

 

 

 

ダビデに姦淫と殺人とむさぼりの罪を犯させたのは、エデンの園でエバを誘惑した蛇、すなわち、サタンです。善悪を知る木の実を見たエバは、食べるように誘惑されました。王宮の屋上で入浴するウリヤの妻の姿を見たダビデは自分のものにしたいという誘惑から逃れられませんでした。

 

 

 

人はだれでも目で見て、心に悪心を起こすのです。どうしても欲しいと思うのです。悪魔の心に理性が働かなくなります。

 

 

 

 この自分の心の中に悪魔の心が起こるということの恐ろしさは、それが人間の日常生活の中で起こるからです。

 

 

 

 ダビデの姦淫と殺人とむさぼりの罪は、ダビデ個人の罪でも、彼に固有の罪でもありません。サムエル記はわたしたち読者に次のように伝えたいのです。このダビデの罪の物語を読み、また、説教で聞くあなたも。あなたの日常生活の中でこの罪の可能から逃れられないのだと。

 

 

 

 さらに、恐ろしいのは、わたしたちの日常生活の中でこの罪の可能性があるだけではありません。ダビデのように、自分ではこの罪を、罪として自覚できないのです。

 

 

 

 だから、主なる神は、預言者ナタンをダビデに遣わされ、彼の罪と裁きを宣告されたのです。

 

 

 

 ナタンは、ダビデ王に子供にも分かるたとえ話をしました。

 

 

 

ある町に二人の男が住んでいました。金持ちと貧乏人です。金持ちは当然たくさんの羊を持っていました。貧乏人は彼が貧しい生活で蓄えたお金で、雌の小羊を買いました。彼にはこの小羊の他に何もありませんでした。だから、彼と彼の家族は小羊を大切に育てました。まるで彼は自分の娘のように育てました。ある日、金持ちの家に旅人が来ました。神の民イスラエルは旅人をもてなす習慣がありました。金持ちは、旅人をもてなす料理のために自分の羊を用いることが惜しくなりました。その時に彼の心に秋間の心が起こりました。彼は、その貧乏人にお金を貸していたのでしょう。貧乏人から小羊を取り上げて、旅人をもてなす料理にその小羊を使いました。

 

 

 

そのお話を聞いたダビデ王は、金持ちに激しい憤りを覚えて、「主は生きておられる。彼は死罪に当たる」と告げました。そしてダビデは、「金持ちは貧乏人に小羊の代償として4倍の償いをすべきだ」と告げました。

 

 

 

その時です。ナタンがダビデ王に言いました。「この金持ちはあなただ。主はこういわれる」と。

 

 

 

主は、ダビデの罪を追及されます。その罪とは、主なる神がダビデに施された恵みの数々を侮るものでした。

 

 

 

主はダビデをイスラエルの王としてくださいました。サウルの迫害からダビデを何度も救い出してくださいました。サウル王の死後、彼の王家をそのままダビデに渡してくださいました。ダビデ王は王位を継承し、サウル王家と彼の妻たちを引き継いだのです。ダビデが望むなら、主は何でも与えられました。

 

 

 

主の恵みに、ダビデは、悪でもって答えました。彼は人の目に隠れて、悪を働きました。それを、主は見ておられました。それが、ダビデが家臣のヘテ人ウリヤを殺し、彼の妻を奪った悪事でした。

 

 

 

主はダビデの罪に対して10節で裁きを宣告されました。

 

 

 

剣が永遠にダビデの家から離れることはないと。

 

 

 

剣は、ダビデ家への主なる神の災いです。

 

 

 

この罰の預言は、長男アムノン、三男アブサロム、そして四男のアドニアの不慮の死で実現しました。ダビデの罪によってダビデ家に次々と不幸が訪れました。

 

 

 

特にダビデ家の最大の危機は、三男アブサロムが父ダビデに反旗を翻した事件です。彼は、ダビデの王位を奪い、ダビデの妻たちを白昼堂々と奪いました。ダビデが隠れてした罪を、だれの目にも見えるように行いました。

 

 

 

ダビデ王は、主の御前で「わたしはあなたに罪を犯しました」と告白しました。だから、ナタンはダビデに罪の赦しを告げました。

 

 

 

しかし、ダビデが主を侮り、犯した罪は消えません。まるでダビデの身代わりになるように、ダビデとウリヤの妻との間に生まれた子が死ぬと、ナタンはダビデに告げています。

 

 

 

 ナタンの預言通りに、彼女が産んだ子は、主に打たれて、重い病気になりました。ダビデは、断食して、主に子を助けてくださるように祈りました。断食は通常子供が死んだときに親が悲しみを表す行為でした。だから、ダビデの家臣たちはダビデの行為に戸惑ったのです。

 

 

 

しかし、ダビデの祈りと断食で、主は御心を変えられませんでした。子は七日目に亡くなりました。子供の死を知ると、ダビデは断食と祈りを止め、家に戻り、日常の生活をしました。このダビデの行為も、家臣を戸惑わせました。

 

 

 

ダビデは家臣に彼の行為を弁明しています。そこにわたしたちはダビデの信仰を見ることができるでしょう。

 

 

 

彼は主の憐れみにすがりました。子が悪いことをした時に、親は子を叱り、厳しいことを言います。ダビデは、親に叱られた子のように、主の御言葉を聞きました。親は、子が心から親に謝れば許してくれるでしょう。ダビデは主が親と同様に自分を憐れんでくださると信じて、断食と祈りをしました。

 

 

 

このダビデの信仰の姿勢を、わたしたちは学ぶべきだと思います。ダビデは、主の御言葉を決して運命的に受け取ろうとしませんでした。主が告げられた御言葉であっても、真実に求めれば変えてくださると、彼は信じて断食と祈りをしたのです。ダビデはどんなことでも主に祈って得ようと願いました。

 

 

 

ダビデは、祈って得られませんでしたが、子の死の現実をしっかりと受け止めました。人の死は、こちらでは変えられません。死んだ人間を生き返らせ、この世界にとどめることはできません。しかし、わたしたちは死に、死んだ者たちのところへは行けるのです。

 

 

 

この世においては生から死への一方通行です。

 

 

 

しかし、この世界で1回だけ、死から生へと歩む事件が起こりました。主イエス・キリストの復活であります。

 

 

 

今朝の御言葉からどこでこのお方の福音を、わたしたちは聞くべきでしょか。

 

 

 

それは、預言者ナタンを通して主が語られたお言葉からです。

 

 

 

ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」

 

 

 

ダビデはカインとは違って、真実主の御前で自分が主に対して罪を犯したことを告白し、主に赦しを乞いました。

 

 

 

そのダビデの罪の告白に対して預言者ナタンが主の代理人として「主はあなたの罪を取り除かれる。あなたは死なない」と告げました。主はダビデの罪を赦され、再びダビデを主の交わりに入れてくださいました。彼は、主に罪を赦され、主に近づき、主を礼拝することが許されました。

 

 

 

しかし、それでも、ダビデがウリヤの妻と姦淫し、ウリヤを殺し、主を侮った悪事が消えたわけではありません。

 

 

 

ダビデはこの罪を主に赦していただきましたが、自分では贖うことができなかったのです。

 

 

 

だから、主はダビデに預言者ナタンを通して「しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」と言われました。

 

 

 

死ぬ子がダビデの罪を担うとは言われていません。しかし、ダビデの罪のゆえに、彼が主を侮ったゆえに、彼とウリヤの妻との間に生まれた子は死ぬのです。

 

 

 

明確ではありませんが、ナタンの主の御言葉には、人の罪、人が神に対して犯した罪、それによって主を侮った行いは、誰かの死によって償われなければならないという暗示があると思います。

 

 

 

ダビデの罪はこの子の命によって贖われたということを暗示しています。

 

 

 

実際にこの子がダビデの命を贖うことはできないでしょう。生まれたばかりの子であっても、罪に腐敗しているからです。

 

 

 

ではナタンの主の御言葉を、わたしたちはどう受け止めるべきでしょうか。キリストの予型として受け止めるのです。

 

 

 

ダビデの罪の身代わりに、この世で罪を犯していない産まれたばかりの子が死にました。それは、キリストの身代わりの死を暗示するのではありませんか。

 

 

 

ダビデは、未来のキリストの十字架の死の故に、預言者ナタンを通して主の罪の赦しにあずかったのです。

 

 

 

わたしたちは、死んだ子に、キリストの影を見ることが許されています。そして、今、アドベントの季節に本体であるキリストが産まれられたクリスマスに向けて準備をしているのです。

 

 

 

ダビデの子の死によって暗示された神の子、父なる神の独り子主イエスが、2000年昔にダビデ王の末から、おとめマリアから産まれられました。

 

 

 

その子は成長して、ゴルゴタの十字架で、すべての人の罪を贖われたのです。

 

 

 

その日から今日まで父なる神が永遠からご計画し、命に選ばれた者たちはすべて、罪を赦され、ダビデのように主の家、すなわち、教会に来て、主を礼拝し、主を賛美するのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、アドベントの第二週に入りました。

 

 

 

わたしたちは、クリスマス月間として23日までの主日にクリスマスのメッセージを聴き、クリスマス讃美歌を歌い、主を崇め、賛美します。

 

 

 

どうか、この礼拝を祝し、わたしたちの家族を、知人を、教会の近隣の方々を、諏訪地方の方々をお集め下さり、共にクリスマスを祝わせてください。

 

 

 

わたしたちがダビデと同様に主なる神の罪の赦しに生きるために、キリストが十字架で命をささげてくださったことを、常に覚えて、礼拝ごとに主を賛美させてください。

 

 

 

どうかクリスマスに、世界でダビデのように、魔が差し神を侮る行為をする者がキリストの福音を聞いて、神に対して行った罪を認めて罪を悔い、ダビデのように主の礼拝に招かれるようにしてください。

  

「クリスマス月間」説教03         主の20181216

 

わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。

 

主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

 

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように

 

この人は主の前に育った。

 

見るべき面影なく

 

輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

 

彼は軽蔑され、人に見捨てられ

 

多くの痛みを負い、病を知っている。

 

彼はわたしたちに顔を隠し

 

わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

 

彼が担ったのはわたしたちの病

 

彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに

 

わたしたちは思っていた。

 

神の手にかかり、打たれたから

 

彼は苦しんでいるのだ、と。

 

彼が刺し貫かれたのは

 

わたしたちの背きのためであり

 

彼が打ち砕かれたのは

 

わたしたちの咎のためであった。

 

彼の受けた懲らしめによって

 

  わたしたちに平和が与えられ

 

彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 

わたしたちは羊の群れ

 

道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。

 

そのわたしたちの罪をすべて

 

  主は彼に負わせられた。

 

苦役を課せられて、かがみ込み

 

彼は口を開かなかった。

 

屠り場に引かれる小羊のように

 

彼は口を開かなかった。

 

捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。

 

彼の時代の誰が思い巡らせたであろうか

 

わたしの民に背きのゆえに、彼が神の手にかかり

 

命ある者の地から断たれたことを。

 

彼は不法を働かず

 

その口に偽りもなかったのに

 

その墓は神に逆らう者と共にされ

 

富める者と共に葬られた。

 

病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ

 

彼は自らを償いの献げ物とした。

 

彼は、子孫が末永く続くのを見る。

 

主の望まれたことは

 

  彼の手によって成し遂げられる。

 

 

 

彼は自らの苦しみの実りを見

 

それを知って満足する。

 

わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために

 

彼らの罪を自ら負った。

 

それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし

 

彼は戦利品としておびただしい人を受ける。

 

彼が自らをなげうち、死んで

 

多くの人の過ちを担い

 

背いた者のために執り成したのは

 

この人であった。

 

 

 

イザヤ書第53112

 

 

 

 説教題:「メシア到来の預言」

 

アドベントと「クリスマス月間」の第3週を迎えました。

 

 

 

今朝は旧約聖書のイザヤ書第53112節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

紀元前626年に新バビロニア帝国が現れ、50年ほどで中近東世界を支配する大帝国になりました。

 

 

 

新バビロニア帝国のネブカドネツァル王は、紀元前597年にエルサレムの都を陥れ、南ユダ王国のヨヤキン王と主要な民たちをバビロンに捕囚しました。そして、紀元前586年に南ユダ王国を滅ぼし、エルサレムの都と神殿を徹底的に破壊しました。そして、残りの主要な民を、バビロンへと捕囚しました。

 

 

 

バビロン捕囚の時代は、紀元前586年から紀元前539年までです。47年間です。第二イザヤは、紀元前549年に主なる神が預言者に召され、捕囚の地バビロンで活躍しました。活躍の期間は紀元前549年から539年までの10年間です。

 

 

 

その10年間でイザヤ書4055章の預言をし、その預言を記録したのです。

 

 

 

彼の活躍した時代は、新バビロニア帝国が没落し、新たにペルシア帝国は中近東世界に勢力を拡大し始めたころでした。

 

 

 

紀元前549年、彼が預言者に召された同じ年に、ペルシア帝国の礎を築くキュロス大王が現れました。主なる神は、彼をバビロン捕囚から神の民イスラエルを救うメシアとされました。

 

 

 

だから、第二イザヤは、捕囚の地の神の民たちに、次のように福音を伝えました。「あなたの贖い主 あなたを母の胎内に形づくられた方 主はこう言われる。」「キュロスに向かって、わたしの牧者 わたしの望みを成就させる者、と言う。エルサレムには再建させる、と言い 神殿には基が置かれる、と言う。

 

 

 

この預言は、実現しました。紀元前539年にキュロス大王は、勅令を出し、バビロンの地に捕囚された神の民たちにエルサレムへの帰国を許しました。そして、シェシュバツァルの一行が帰国し、かつてエルサレム神殿があった跡地に祭壇と神殿の基礎を置きました。

 

 

 

この喜びを、第二イザヤは見られなかったでしょう。彼はその年に死にました。

 

 

 

さらに、キュロス大王は紀元前539年に無血でバビロンに入り、新バビロニア帝国を滅ぼしましたが、バビロンの偶像に膝をかがめて礼拝しました。

 

 

 

第二イザヤにとって衝撃的な出来事でした。キュロスに失望した彼は、主なる神からまことのメシアの幻を見せられました。それが、「主の僕」であります。4214節が第一の主の僕の歌です。4916節が第二の主の僕の歌です。5049節が第三の主の僕の歌です。そして、今朝学びます5213節から5312節が第四の主の僕の歌です。

 

 

 

この主の僕は、主なる神が愛され、選ばれた者です。主なる神によって贖われた者です。主なる神は彼に御自身の霊を与えられます。主なる神は彼の中に御自身の栄光を現わされます。彼は主の御言葉を民に語りますが、民からは辱めを受けます。彼は無抵抗でその辱めに耐えます。この主の僕は、神の民イスラエルのメシアであり、諸国民のメシアでもあります。

 

 

 

 そして、5213節から5312節の「主の僕」の第四の歌につながるのです。

 

 

 

521315節は、第二イザヤが主の僕の栄光(高さ)と低さを賛美しています。

 

 

 

53章から第四の主の僕の歌の本論が始まります。まず、主なる神が賜る素晴らしい福音が神の民たちにも、諸国の民たちにも信じ、受け入れられません。しかし、誰も信じないのではありません。第二イザヤは「主の腕は、誰に示されただろうか」(聖書協会共同訳)と言っているからです。

 

 

 

第二イザヤがわたしたち読者に伝えたいことは、こうです。これからメシアが苦しみを受けて、犯罪者たちと共に十字架で死ぬという出来事を聞くが、それを聞くわたしたちがわたしの福音、すなわち、わたしの喜びと受け取るためには、「主の御腕の力」が必要だということです。

 

 

 

主なる神が聞く者の心を捕えてくださらなければなりません。主なる神が聞く者にこのメシアの救いの真理を悟らせてくださらなければなりません。そして、聞く者が十字架に死ぬメシアに感謝し、メシアにすがる者としてくださらなければなりません。

 

 

 

第二イザヤは、1節でそのように説明して、2節から5214節の御言葉を具体的に預言しています。

 

 

 

第二イザヤは、この主の僕に「主の御腕の力」を、主の救いを見ることになると預言しているのです。

 

 

 

2節では、主の僕、メシアが卑しい生まれで、貧しく育つことが預言されています。今は、どこの山も荒れ放題で、杉の木やヒノキの枝を切り落とす人はいません。若枝とは、その切り落とされる枝のことです。

 

 

 

この主の僕、メシアは卑しく生まれ、貧しく育ち、切り捨てられるのです。だから、彼は主なる神がお守りになり、育てられるのですが、人々の前では取るに足りない者として卑しく生まれ、貧しく育つのです。

 

 

 

3節の「彼は軽蔑され」は、人々に受け入れられないという意味です。「人々に見捨てられ」は、のけ者にされる、人々から拒まれるという意味です。「多くの痛みを負い、病を知っている」は、彼は病人であるという意味ではありません。この病は人を永遠の死に至らせる罪であり、その罪は主なる神の怒りの対象であり、刑罰の対象です。彼は、その罪を担うゆえに多くの痛みを負っているのです。だから、人々は、彼から背を向けて忌み嫌うのです。彼は贖い主として受け入れません。「わたしたち」はバビロン捕囚期以後の神の民イスラエルのことです。神の民も彼を尊ばないと預言されています。

 

 

 

4節で第二イザヤは主の僕が受ける苦しみは、彼自身の苦しみではなかったと預言します。

 

 

 

46節で主の僕と「わたしたち」が比較されています。彼は自分の罪ではなく、「わたしたちの病」、すなわち、わたしたちが持つ死に至る罪を担います。そしてその罪に伴う神の御怒りという苦痛を担います。しかし、わたしたちは犯罪人と一緒に十字架で死なれた彼は、主の裁きによって苦しめられたのだと思うのです。

 

 

 

5節の「彼が刺し貫かれたのは」は、主の僕が残酷な方法で殺されたという意味です。わたしたちが主なる神に背いた罪のゆえに。「彼が打ち砕かれた」は主なる神に粉々に砕かれたという意味です。咎はすべての人が持っている腐敗した性質です。そこからあらゆる悪が生まれます。主の僕は、わたしたちの贖い主です。彼が主の懲らしめを受けたので、わたしたちは神との平和を得、彼が十字架で受けた傷、すなわち、死によってわたしたちは癒され、救われるのです。

 

 

 

6節の「わたしたちは羊の群れ」とは、神の民であるという意味です。しかし、主を捨て、偶像を神とし、神の民の道から離れてしまったのです。それが、バビロン捕囚という神の民たちの悲惨な状況でした。罪によって故国を失い、諸国に散らされました。主の僕がわたしたちのそのすべての罪を負ってくださるのです。

 

 

 

7節で第二イザヤは、主の僕が黙して身代わりの死を引き受けてくださると預言します。8節で第二イザヤは、主の僕が官憲に逮捕され、裁判で死刑を宣告され、命を取られると預言します。「命を取られた」は突然の死を意味します。「命ある者の地から断たれた」は死んだという意味です。第二イザヤがわたしたち読者に伝えたいことは、主の僕は、人の手ではなく、神の手にかかって死んだということです。主なる神が主の僕を裁かれ、彼は「わたしたち」、すなわち、神の民の身代わりに死んだのです。

 

 

 

しかし、バビロン捕囚の時代の神の民たちは、誰もそれを思い巡らせませんでした。

 

 

 

9節で第二イザヤは、主の僕の葬りを預言します。第二イザヤは、主の僕が無実であるのに悪人とされ、悪人たちと共に処刑にされたが、主なる神は彼を富める者と共に葬られると預言しています。「富める者」とは神に祝福された者のことです。アブラハムやダビデ王のように、主なる神に祝福された者はこの世において「富める者」です。

 

 

 

墓は、この世に生きる人間の体が行き着く場所です。今日散骨し、墓に埋葬しない人が増えています。墓を作り、管理する手間がいりません。合理的でしょう。しかし、「わたしたちは羊の群れ」と告白する神の民たちは、神の民の先祖アブラハムを初め、常に墓を持ち、そこに体を納め、御国を待ち望んでいます。

 

 

 

10節で第二イザヤは、主の僕の死は、人の手によるものではなく、主なる神の御手によることを繰り返し預言します。

 

 

 

主の僕の死は、主なる神が望まれたことです。だから、第二イザヤは、主の僕が主なる神の御心に従い、「彼は自らを償いの献げ物とした」と預言しています。昔、神の民イスラエルは、自らの罪の償いとして、子牛や小羊を主なる神に犠牲として献げました。主の僕は自らが神の民の罪を贖う犠牲となりました。

 

 

 

「彼は、子孫が末永く続くのを見る」とは、主の僕は永遠に生きて、神が彼に与えられた神の民たちを見続けるという意味です。

 

 

 

第二イザヤは、このように主なる神が永遠からご計画された主が選ばれた神の民たちの救いが、主の僕が彼らの身代わりに死ぬことで実現すると預言するのです。

 

 

 

1112節で第二イザヤは、神が創造の時に造られた世界を見て「良し」と満足されたように、主の僕の身代わりの死を見て満足されると預言します。主の僕が自らを投げ打ち、罪人の一人として死ぬことで、多くの人の罪が赦されるのです。彼は多くの人の罪を、主なる神に取り成すのです。それを主なる神は満足し、喜ばれるのです。

 

 

 

気づくと、いつの間にか、「わたしたち」という言葉が消えています。代わって11節と12節に「多くの人」が出てきます。世界の人を意味します。

 

 

 

第二イザヤにとって、この主の僕の苦難による救済が新しい出エジプトなのです。キュロスが世界史を動かすという意味で、神の民をバビロンから解放するという働きをしました。「主の僕」は、この世界史の中で苦難を背負うことで、この世界の人を罪から救い出すのです。

 

 

 

こうしてイザヤ書53章の御言葉を、一つ一つ学びますと、第二イザヤが12節で「彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった」とメシアの到来を預言します時に、その福音を聞きますわたしたちの心は主イエス・キリストの十字架へと向けしめられないでしょうか。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、あなたがわたしたちをキリストの臨在される礼拝へとお招きくださり感謝します。

 

 

 

第二イザヤの主の僕の第四の歌を通して、メシアとして来られた主イエス・キリストの十字架に心をむけさせていただき、心より感謝します。

 

 

 

願わくは、あと1回、この「クリスマス月間」を通して、わたしたちがクリスマスのメッセージを聞き、共にクリスマスの賛美をする機会があります。どうか、わたしたちの家族、知人、この町の人々を、クリスマス礼拝へと誘えるように、お力をください。

 

 

 

どうか、聖霊よ、今朝の聖書の御言葉と共にお働きくださり、御言葉を聞きましたわたしたちにキリストの十字架がわたしたちの福音であることを悟らせてください。主イエスをわたしの救い主と告白させてください。第二イザヤが預言した通りに、主イエスはわたしたちの罪のために死なれたと信じさせてください。

 

 

 

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

「クリスマス月間」説教04         主の20181223

 

 

 

 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことが表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

 

 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。

 

 その名はインマヌエルと呼ばれる。」

 

この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

 

                           マタイによる福音書第11825

 

 

 

 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

 

 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことはありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

 

実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。

 

                    ローマの信徒への手紙第5111

 

 

 

 説教題:「クリスマス―神の愛が注がれた日」

 

クリスマスおめでとうございます。

 

 

 

今年の「クリスマス月間」は、孤独と絶望からの救いをテーマに旧約聖書のカインの物語、ダビデ王の物語、主の僕の苦難を通して、メシアである主イエス・キリストが到来される預言について学んできました。

 

 

 

カインの物語は、彼が弟アベルを殺したという罪だけでなく、彼が主なる神から逃走し、そこから人間の孤独という悲惨さが生まれたことを学びました。

 

 

 

カインは、主なる神から逃げるだけでなく、隣人からも逃げて、大きな町を建てて、そこに閉じこもり、自分の身を守ろうとしました。

 

 

 

このようにこの世界に存在する都市、城壁のある町は、人間が神より逃走して生まれたのだと、聖書はわたしたちに伝えているのです。

 

 

 

だから、都会は大勢の人が集まっているのに、人は孤独に生きているのです。

 

 

 

 ダビデ王は、彼の部下ウリヤの妻と姦淫しました。彼はその悪事が明らかになることを恐れて、ウリヤを戦場の最前線に立たせて、敵に殺させました。そして彼はウリヤの妻を自分のものにしました。

 

 

 

 主なる神は、預言者ナタンをダビデ王に遣わし、金持ちと貧乏人の話をさせました。ナタンはダビデ王に次のように話しました。金持ちと貧乏人がいた。ある日金持ちの家に旅人が来た。金持ちは旅人をもてなすのに、自分の小羊を料理することを惜しんだ。そこで彼は、貧乏人が自分の娘のように大切にしていた雌の小羊を取り上げて、料理し、旅人をもてなしたと。

 

 

 

 それを聞いたダビデ王は怒り、「主は生きておられる。その金持ちは死罪にあたる」と言いました。その時にナタンは、ダビデで王に「この金持ちはあなただ」と告げて、ダビデの罪を暴き、彼に主なる神の裁きを伝えました。

 

 

 

 ダビデ王は、主なる神に心から自分の罪を悔いました。それゆえに主なる神は、先代の王サウルのように、ダビデを捨てられませんでした。むしろ、ダビデを赦され、彼との関係を断たれませんでした。

 

 

 

 しかし、それで、ダビデ王の犯した罪が消えるわけではありません。

 

 

 

 ダビデ王とウリヤの妻との間に生まれた子が、まるでダビデの罪を負うように生まれて七日目で死にました。

 

 

 

 「罪の支払う報酬は死です」と、使徒パウロは言っています(ローマ6:23)

 

 

 

 自分の死をもって自分が神に対して犯した罪を償うことは、実は人には不可能なのです。

 

 

 

 神の民イスラエルは、自分たちが神に対して犯した罪の身代わりに、傷のない動物を犠牲としてささげました。

 

 

 

 死んだ子供はダビデに代わって彼の罪は担えません。しかし、この子は、わたしたちに次のことを暗示します。主なる神に対して罪を犯し、それを自ら償えない罪人の絶望を救える道は、この子のようにダビデに代わって死んでくれる存在が必要だということを。

 

 

 

 だからこそ、預言者第二イザヤは、イザヤ書でメシアである主の僕の到来を預言しました。主の僕は、主なる神と同等のものです。主なる神が遣わされた神の民の贖い主であり、諸国民の救い主です。

 

 

 

 ところがイザヤ書53章で学びましたように、この主の僕には、人が尊敬をもって見るべき御姿ではありません。むしろ、だれも主の僕をメシアとは信じません。神の民が信じるメシアは、支配者、王です。主の僕は、支配者、王とは反対の存在です。貧しい家庭に生まれ、貧しく育たれ、そして木々の若枝のように無用なものとして切り捨てられ、罪人たちと共に十字架で死なれ、墓に葬られます。

 

 

 

 第二イザヤは、それを次のように解説するのです。主の僕は、神の民のために、主なる神に選ばれた諸国民のために病を負い、悲しみの人となり、彼らの罪の身代わりに十字架に死ぬのだと。そして、それを主なる神が望まれたのだと。

 

 

 

それがキリストの誕生」を聴きました。過去において預言者イザヤが神の民イスラエルにおとめが男の子を産み、「神我らと共にいます」というクリスマスの喜びの出来事が起こることを預言しました。

 

 

 

それは、主イエス・キリストが生まれられる540年昔に第二イザヤが預言したのです。

 

 

 

彼より200年昔に南ユダ王国にアモツの子イザヤという預言者、第一イザヤと呼ばれる者が現れ、ヒゼキヤ王の父であるアハブ王にメシア誕生の預言をしました。

 

 

 

旧約聖書のイザヤ書714節です。「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ」。

 

 

 

先ほどお読みしましたマタイによる福音書第11825節は、その預言の成就を物語っているクリスマス物語です。主イエス・キリストの誕生の次第が物語られています。

 

 

 

母マリアと夫ヨセフは、ユダ族の出身で、ダビデ王の子孫です。婚約は結婚のことですが、まだ夫婦生活はしていないのです。夫婦生活をする前に、マリアは聖霊のお働きで主イエスを身に宿しました。

 

 

 

19節の「表ざたになる」とは、マリアが不義によって裁かれるという意味です。

 

 

 

神がなさった奇跡を、人間は説明できません。説明しても、納得しないでしょう。

 

 

 

マタイによる福音書記者は、ヨセフは正しい人と評価しています。義人であるという意味です。信仰が立派である人、道徳的に立派な人という意味ではありません。主なる神の御心に従い生きたいと思っている人です。憐みの心を持つ人です。

 

 

 

だから、彼は悩むのです。神がなさった奇跡を、正直彼は受け入れないでいるのです。しかし、彼は自分のことよりマリアの身を思いました。「マリアのことを表ざたにすることを望まず」とは、マリアを姦淫の女として、公然と人々の前に出して、裁判にかけ、石打ちの刑に処することです。

 

 

 

そこで密かに離縁することを決意するのです。離縁しても、マリアの身重は明らかになります。しかし、非難はマリアでなく、ヨセフが負うことになります。ヨセフがマリアを身ごもらせ、捨てたと、世間が非難するのです。

 

 

 

彼は世間からは人でなしと非難されますが、マリアと身ごもった子供は守られるでしょう。

 

 

 

しかし、神がなさったことは神が解決してくださいます。神は天使を遣わし、ヨセフが眠りました時に、夢でお告げを伝えられました。

 

 

 

ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。(2021)

 

 

 

処女マリアは、聖霊のお働きで、彼女の胎に子を宿し、そして彼女は男の子を産むのです。み使いはヨセフに「その子をイエスと名付けなさい。」と命じました。「イエス」は、旧約聖書のモーセの弟子で、指導者モーセの後継者となったヨシュアと同じ名です。ヘブライ語でヨシュア、ギリシャ語でイエスです。その名の意味は、主は救いです。要するにみ使いは、ヨセフに神がこの男の子を用いて神の民を罪から救われると伝えたのです。

 

 

 

22節の「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」という文章は、マタイによる福音書記者の解説です。そして、福音書記者は、彼の解説の根拠となる御言葉を引用しているのです。それがイザヤ書714節です。

 

 

 

そして、マタイによる福音書記者は、わたしたち読者にクリスマスとは、「おとめが身ごもって男の子を産む」出来事であると伝えているのです。

 

 

 

主イエスは、ヨセフが聖霊によって身重になったマリアを妻に迎えることで、この世の産まれられたのです。

 

 

 

そして、第二イザヤが預言したように、主イエスは貧しい大工の家に生まれ、貧しく育ち、神の民が描くメシアにほど遠く、この世の王として世界と民を支配されるのではなく、貧しい者、差別されている者、病める者と共に生き、神の御国の福音を伝え、そして、ゴルゴタの十字架の道を歩まれました。罪なきお方なのに、神を冒涜した者として、またローマ帝国の反逆者に仕立て上げられて、主イエスは裁判にかけられ、死刑判決を受け、そして、十字架の上で、7つの言葉を残され、死なれました。

 

 

 

それによってこの世にどんな喜びが生じたのでしょう。

 

 

 

神我らと共にいます」という喜びが、神の民に実現しました。

 

 

 

神と神の民との和解であります。

 

 

 

それを使徒パウロは、ローマの信徒への手紙第51節でその喜びを語っているのです。パウロは「わたしたちは信仰によって義とされた」と言います。これは、キリストの十字架の死によって、わたしたちと神との関係が回復されたという意味です。罪なきキリストがわたしたちの罪を負い、わたしたちはキリストが十字架の死に至るまで父なる神に従順に従われて得られた義をいただきました。

 

 

 

こうして「神われらと共にいます」という神との平和を得たのです。キリストが得られた義と十字架の死によって、神との和解という恵みに入れられているのです。

 

 

 

それが、今こうしてわたしたちが今ここで神礼拝をし、神の御言葉を聴く恵みにあずかっていることなのです。

 

 

 

キリストのお陰で、今わたしたちは、この礼拝を通して、将来御国で神の栄光にあずかれることを誇りに思っているのです。

 

 

 

今、ここでわたしたちが礼拝していることは、キリストのお陰であり、神の恵みです。しかし、それは、信仰によってわたしたちが知りえることです。だから、パウロは、「今の恵みに信仰によって導き入れられ」と言っているのです。

 

 

 

主の僕、メシアである主イエスが苦難の中を生きられたように、わたしたちも、この教会も苦難の道を歩むのです。

 

 

 

わたしたちの教会の70年は、苦難の70年だったのでないでしょうか。諏訪大社のお膝元で諏訪地方のすべての方々が氏子で、すべては御柱のために生きておられるなかで、20人も切る群れが、キリストの福音を伝えているのです。

 

 

 

しかし、わたしたちの先輩たちもわたしたちもその苦難の中で忍耐を生み出したのです。日本語にすると、忍耐としか訳せません。忍耐だと、まずは我慢するという意味になります。この地の伝道の困難さで、わたしたちは我慢強くなったと。そうではなく、忍耐するとは、信仰において心の動揺をしないということです。どんなに伝道が困難でも、いろいろと祭りに誘われ、神社の寄付金を求められても、わたしたちは心の動揺をすることなく、それに対処します。丁寧にわたしたちの信仰を説明して、寄付を断ります。断りますが、地域との結びつきを切ることなく、信仰をもって隣人への奉仕をします。地域の清掃にも積極的に参加します。

 

 

 

それでもわたしたちはいろいろと主の試みに、試練に遭うことがあります。それを、パウロは練達と言うのです。わたしたちの信仰が試される場面に何度も出くわすのです。

 

 

 

その度に、幾度となく神われらと共にいますという体験を、わたしたちはこの世でするのです。本当に信仰の行き詰まり、どうしようもないと思うと、ある日教会員の方が来られて、祈り、励まして帰られることがあります。遠くから信仰の導き手であった恩師が励ましの手紙をくださることがあります。逆に信徒の方々も牧師夫妻が訪問し、祈り、励まされて、試練を乗り越えたというお方もあるでしょう。

 

 

 

こうしたことが、われらの国籍は天にありという希望、神は我らと共におられるという希望を生むのです。

 

 

 

5節でパウロは、「希望はわたしたちを欺くことがありません」と言っていますね。これは、希望がわたしたちに恥をかかすことはないという意味です。詩編2525節でダビデ王が主なる神に助けを求めて、「御もとに身を寄せます。わたしの魂を守り、わたしを助け出し 恥を受けることのないようにしてください。」と祈っています。

 

 

 

わたしたちの教会の70年は、人の目で見れば教会が経済的に独立できず、東部中会に今も援助を受け、何度か独立を試みたが成果のないものであったでしょう。しかし、パウロの言う苦難と忍耐と練達と希望の70年であり、常に復活の主イエスが我らと共にいてくださった70年だったのではないでしょうか。

 

 

 

どこにその証拠があるのかと、お聞きになるでしょう。

 

 

 

パウロは言います。5節後半です。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

 

 

 

70年間、上諏訪湖畔教会は毎日曜日の礼拝を休むことなく、礼拝で聖書の御言葉を読み、牧師が、ある時は長老や神学生がその聖書の御言葉を解き明かす説教をし続けてきたのです。その度に聖霊がわたしたちの心に神の愛を注いでくださいました。

 

 

 

 

 

クリスマスの日に、おとめマリアから男の子が生まれることで、この神の愛が神の民イスラエルだけでなく、すべての国の民たちに注がれたのです。

 

 

 

その喜びを伝えるために、上諏訪湖畔教会はこの諏訪の地で70年間、教会の活動を続けて来たのであり、これからも続けていくのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、123日の主の日より4週続けてきました「クリスマス月間」を、今日終えることができて、感謝します。4週にわたってクリスマスメッセージを聴き、クリスマス讃美歌を共に歌うことができて、心より神に感謝します。

 

 

 

願わくは、「クリスマス月間」を通して聴かされた神の愛を、わたしたちがわたしたちの家族、知人、この町の人々を伝えることができるようにお導きください。

 

 

 

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。