イースター礼拝説教(2024)        2024331

 

 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活されたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体となってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリスト共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このようにあなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

        ローマの信徒への手紙第6111

 

 説教題:「神に対して生きましょう

 イースター、おめでとうございます。

 

 ローマの信徒への手紙6111節の御言葉から主イエス・キリストの復活について御一緒に学びましょう。

 

 わたしはイースター礼拝の説教を準備していまして、10節と11節の御言葉に心を動かされました。特に使徒パウロが復活の主イエス・キリストが「生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。」と述べていること、さらにわたしたちに「あなたがたもキリストに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」と述べていることです。

 

 わたしは、使徒パウロの「神に対して生きている」という御言葉に深い感銘を覚えたのです。

 

 使徒パウロは、信仰に生きるキリスト者の生き方を語ろうとしています。それは、洗礼を受けたキリスト者の生き方です。洗礼はキリストと一つに結ばれることです。キリストと共に神に対して生きることです。

 

 使徒パウロは、キリスト者の生活の原理を述べているのです。

 

 使徒パウロは、キリスト者は罪の中に生きることができませんと述べています。キリストの十字架によって罪から贖われ、キリストに結び合わされたキリスト者は、キリストと共に生きるのです。そしてキリストが十字架で死なれたように、キリスト者は罪に死ぬのです。

 

 そこで使徒パウロは、洗礼をたとえにして、34節で次のように述べています。「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活されたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです

 

 この御言葉は、使徒パウロの時代の洗礼についての理解です。洗礼は、キリストと一つに結ばれるものでした。十字架のキリストと共に洗礼者は罪に死にました。復活のキリストと共に洗礼者は新しい命に生きました。

 

 洗礼は、洗礼者の体を水に沈めるものでした。水に沈められた洗礼者は、キリストと共に死にました。そして水から引き揚げられた洗礼者は、復活の主イエスと共に永遠の命に生きる新しい人として生きる者とされました。

 

 続いて使徒パウロは、56節でキリストとキリスト者を接ぎ木にたとえて、次のように述べています。「もし、わたしたちがキリストと一体となってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリスト共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。

 

 わたしたちキリスト者は、キリストに接ぎ木されています。わたしたちは、信仰によって洗礼を通してキリストと一つにされました。だから、キリストが十字架で死なれたとき、わたしたちも死にました。洗礼はそのしるしです。そして、キリストが復活したとき、その復活のキリストとわたしたちは一つにされました。

 

 使徒パウロは、キリストに接ぎ木されたわたしたちを述べて、わたしたちの古い人はキリストと共に死に、わたしたちの罪の体は廃棄されました。復活のキリストと共に新しい命に生きるキリスト者は、罪の奴隷になることはあり得ないと、使徒パウロは説得しています。

 

 キリストと共に罪に死に、キリストと共に新しい命に生きることは、キリスト者にとっては客観的事実です。その事実の一つがキリスト者の神礼拝です。この事実に基づいてわたしたちは、次のことを理解します。すなわち、使徒パウロの「知っています」は、わたしたちが自覚しているという意味であることを。キリスト者としての私たちに、新しい自覚が生まれるのです。それが神に対して生きるということです。

 

 使徒パウロは、7節で「死んだ者は、罪から解放されています。」と述べています。これは、刑事訴訟のたとえです。この世の裁判では、被告が死にますと、彼の罪状は裁かれることはありません。同じようにキリスト者は十字架のキリストと共に死にました。それによって彼は、罪から解放されました。

 

 さらに使徒パウロは、わたしたちに福音を伝えています。89節です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。

 

 キリストとわたしたちは一つです。だから、使徒パウロは、十字架のキリストを信じ、復活のキリストを信じます。キリストが罪に死なれたように、パウロも罪に死に、キリストが父なる神に復活させられたように、キリスト者も復活させられ、復活のキリストと共に生きることを、使徒パウロは信じているのです。

 

 そして、復活のキリストは二度と死に支配されることはないのです。復活のキリストが死に支配されないことは、永遠に生きておられるということです。キリストと共にわたしたちも永遠に生きるのです。これが、わたしたちキリスト者の新しい命であり、祝福なのです。

 

 キリスト者の新しい命には、一つの方向性があります。それが1011節です。「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このようにあなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

 

キリストが十字架で死なれたのは、わたしたちの罪のために死なれたのです。罪に対して死なれたのです。そのことを信じますキリスト者は、キリストと一つに結び合わされたのですから、キリストが十字架で死なれたと共に、わたしたちも死んだのです。キリスト共に罪に死んだわたしたちは、もはや罪に対して、罪に向けて生きてはいないのです。

 

むしろ、復活のキリストが彼を復活させられた神に対して生きておられるように、わたしたちは神に対して、神に向けて生きているのです。わたしたちキリスト者の新しい命、生き方は、神に対して、復活のキリストに向けて生きることです。

 

わたしたちは、古き自己のとき、神に背を向けて、キリストに背を向けて、この世に対して生きていたのです。わたしたちの関心は、この世のものでした。スマートフォンで検索できるものでした。ファッション、ブランドもの、名誉や地位、学歴、お金でした。

 

これらは、今わたしたちが生きているので、わたしたちにとって価値があるのです。明日わたしたちのこの世の命が終わると、宣告を受ければ、何の価値があるのでしょうか。

 

断捨離という言葉がありますが、わたしたち持っているものを皆捨てると、最後に何が残るでしょか。わたしは、命だと思うのです。そして、この命も終わりが来るのです。すべての人に、一度は死が訪れるのです。この死に勝利できる人は、この世には誰もいません。 

 

ところが、聖書は、わたしたちに復活のキリストがおられると告げてくれるのです。キリストは、わたしたちのように人として、一度死なれました。ご自身罪なき神の御子でしたが、わたしたちの罪のために、ただ一度死なれました。そして、キリストは、神によって死から復活させられました。だから、復活のキリストは今も生きておられます。永遠の父なる神に対して生きておられるのです。

 

それゆえに使徒パウロは、わたしたちによく考えなさいと勧めています。わたしたちは、復活のキリストと一つに結び合わされています。だから、わたしたちは罪に対して死にました。同時に復活の主キリストが神に対して生きておられるように、わたしたちも神に対して生きているのです。

 

古い自己は、罪に対して、罪に向けて生きていました。その終わりは死でした。今わたしたちは、神を毎週礼拝し、神に祈り、生きています。その終わりは永遠の命です。

 

わたしは、18年間、この教会の牧師として働けたことを感謝しています。しかし、この世の人々の目から見れば、教会の牧師は何もしていません。誰も何をしているのか知りません。何か社会のために役立つことをしているなら、人々は評価するでしょう。しかし、牧師としてわたしがしていることは、毎週の礼拝で説教し、祈り、教会や中会、大会の仕事をしていることです。

 

しかし、70数年間、上諏訪湖畔教会でわたしたちが神礼拝をし、祈祷会をし、伝道をし、教会活動をしてきた、神に、復活の主キリストに対して生きてきたのです。この神礼拝のキリスト者の人生の終わりは、永遠の御国です。そこでわたしたちは、心から喜び、復活の主イエスと共に父なる神をほめたたえるのです。

 

お祈りします。

 

復活であり、命である主イエス・キリストの父なる神よ、イースターの朝、わたしたちは、この教会に集められ、ローマの信徒への手紙6111節の御言葉を学ぶことができて、心より感謝します。

 

今年は、わたしが813日で定年を迎え、7月末でこの教会の牧師を辞職します。これから困難な状況を迎えることになりますこの教会が、明日に向けて希望をもって歩めるようにしてください。

 

どうか、復活の主イエスよ、常にわたしたちと共にいてください。これまで通り、日曜日の礼拝、祈祷会、聖書の学び、婦人会と男子会の活動を続けさせてください。

 

どうか罪と死が支配するこの世から永遠の命へと、御国へと生きる希望をお与えください。

 

今朝のイースターのこの喜びを、わたしたちの家族、この町の人々に伝えることができるようにしてください。

 

 

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。