クリスマス月間説教01     主の2017年12月3日

 

 

 

 それゆえ、わたしの主が御自ら

 

   あなたたちにしるしを与えられる。

 

 見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み

 

 その名をインマヌエルと呼ぶ。

 

         イザヤ書第714

 

 

 

 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。

 

 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。

 

 権威が彼の肩にある。

 

 その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる。

 

         イザヤ書第95

 

 

 

  説教題:「クリスマスの預言」 上諏訪湖畔教会牧師 足立 正範

 

 本日より1224日まで4主日に礼拝で共にクリスマスメッセージを聴き、クリスマス讃美歌を歌います。そして、わたしたちの家族や知人、案内チラシを配布しました教会の近隣の方々、新聞や地域誌で広告し案内しました諏訪地方の方々をお誘いし、一緒にクリスマスを祝いたいと思います。

 

 

 

今年のクリスマスメッセージのテーマは、クリスマスの過去、現在、未来です。

 

 

 

 第1主日と第2主日は、クリスマスの過去についてお話しします。今日は、「クリスマスの預言」についてお話しし、次週は、預言の成就である「イエス・キリストの誕生」についてお話しします。

 

 

 

 第3主日は、クリスマスの現在をお話しします。「キリストの誕生と私たち」についてお話しします。そして第4主日は、クリスマスの未来について、「未来の約束」についてお話しをします。

 

 

 

 4週続けて、クリスマスメッセージをお聞きいただければ幸いです。

 

 

 

 さて、キリスト教は聖書の宗教です。

 

 

 

宗教は、英語で「レジジョン」と言い、「再読する」、あるいは、「結合する」という語から派生しました。

 

 

 

 宗教は「再読する」、すなわち、「教義をよく考える」か、あるいは、「結合する」、すなわち、神と人を、あるいは同じ信仰を持つ者を結合するという意味であると考えられます。

 

 

 

 キリスト教は、聖書という正典があり、旧約聖書39巻、新約聖書27巻、合わせて66巻の書物から成っています。

 

 

 

宗教からキリスト教を見れば、キリスト教は正典である旧新約聖書を創世記からヨハネの黙示録まで、繰り返し再読し、キリスト教という教えを確立したものです。

 

 

 

その教えの中心は主イエス・キリストであります。

 

 

 

主イエス・キリストは、父なる神の独り子で、受肉し、人の子(人間)となられた救い主です。

 

 

 

主イエス・キリストは人類を死と永遠の滅びから救い、彼らに永遠の命を与えるために、この世に来られ、わたしたち人類の罪の身代わりに十字架に死なれ、そして、永遠の命の保証として復活されたのです。

 

 

 

主イエス・キリストは、12弟子たちに「わたしをだれと言うか」と問われました。ペトロが「あなたこそ神の子、キリストです」と告白しました(マタイ16:1516)

 

 

 

その告白の上にキリスト教会が建て上げられました。

 

 

 

宗教からみれば、キリスト教会は主イエス・キリストを「わたしの救い主である」と信じる者たちが、信じて洗礼を受け、主イエス・キリストと結合し、そして同じ信仰を告白した者たちが一つに結びついた団体であります。

 

 

 

このように宗教からみれば、キリスト者は聖書を再読する者です。毎週教会の礼拝で、家庭礼拝や個人礼拝でキリスト者は聖書を学び続けるのです。

 

 

 

聖書の教えの中心は、主イエス・キリストとその救いの御業ですから、聖書から聴き続ける者は、「あなたは、主イエス・キリストを誰と言うのか」と問いかけられるのです。

 

 

 

「わたしの救い主です」と告白する者は、洗礼を受けて、キリストに結び合わされ、キリストの体なる教会の一員となるのです。

 

 

 

以上は、宗教からのキリスト教のお話で、キリスト教を分かってほしいと思い、お話ししました。

 

 

 

わたしたちは、聖書を神の啓示の書と信じています。だから、聖書を再読することは、常に神の御言葉を聞くことであると信じているのです。

 

 

 

どうして聖書の中心が主イエス・キリストなのでしょうか。

 

 

 

キリスト教の神は、主イエス・キリストにおいて御自身を父、子、聖霊の三位一体の神として明らかにされたからです。

 

 

 

神の独り子なる主イエス・キリストが人となってこの世に生まれられたからです。

 

 

 

これを、わたしたちはキリストの受肉と言っています。

 

 

 

旧約聖書で、主なる神は御自身を唯一の神であり、他に神はないと啓示されました。しかし、唯一の神に、3つの人格、すなわち、父、子、聖霊があることを、クリスマスという出来事を通して、子なる神である主イエス・キリストが受肉し、人として生まれられることで、わたしたちに明らかにされました。

 

 

 

クリスマスは「神、我らと共にいます」という喜びの出来事であります。

 

 

 

その喜びの出来事を、旧約聖書の預言者イザヤが伝えているのです。

 

 

 

インマヌエル預言と呼ばれているものです。

 

 

 

インマヌエルは、ヘブライ語で「イッマーヌー」と言い、「と共に」を表す「イム」と「わたしたち」という意味の「ヌー」とが結合したもの、「エル」が「神」を表し、「神がわたしたちと共に」という意味です。

 

 

 

さて、今朝は旧約聖書のイザヤ書714節と95節を学びましょう。

 

 

 

 昔、主イエスがお生まれになられる738年前に、預言者イザヤが南ユダ王国で預言者活動を始めました。

 

 

 

 その頃、南ユダ王国は偉大な王ウジアが死にました。彼の子ヨタムも死に、アハズが紀元前733年にユダの王となりました。

 

 

 

アハズは、二つの選択を迫られました。主なる神に頼るか、アッシリア帝国に頼るか、です。

 

 

 

 アハズ王は、主なる神を退けて、アッシリア帝国に頼りました。王の選択は、南ユダ王国の将来に滅亡を招くものでした。

 

 

 

 しかし、主なる神は、残りの者と呼ばれた神の民と共にいてくださいました。

 

 

 

アハズがアッシリア帝国と同盟を結ぶと、アッシリア帝国に敵対した近隣のアラムと北イスラエル王国の連合軍が南ユダ王国に侵略しました。

 

 

 

主なる神は預言者イザヤをアハブ王に遣わされました。

 

 

 

イザヤを通して主なる神は、アラムと北イスラエル王国の滅亡を告げられ、アハブが主を信じなければ、ダビデの家も滅亡すると宣告されました。

 

 

 

主なる神は預言者イザヤを通してアハズに「お前の神、主に徴を求めよ。陰府の深みに、天の高みに」と言われました。

 

 

 

しかし、不信仰な王アハズは、「わたしは求めません。主を試みることはしません」と述べました。

 

 

 

その時に預言者イザヤがインマヌエル預言を告げたのです。

 

 

 

「それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」

 

 

 

不信仰な王と将来滅亡する南ユダ王国の民と主なる神が共にいてくださるというしるしを、主御自身が与えられました。

 

 

 

「見よ」は驚きを表します。神の恵みの中で、「おとめが身ごもって、男の子を産み」という出来事が起こり、生まれてくる男の子は、その名を「インマヌエル」、「神、わらと共にいる」と呼ばれるのです。

 

 

 

この預言は、近くはアハズの子、ヒゼキヤの誕生で実現しました。ヒゼキヤは父アハズと異なり、敬虔な王で主なる神を信頼しました。そして、ヒゼキヤの時代に、南ユダ王国はアッシリア帝国の侵略から主なる神によって救われました。アハズ王から生まれたひとりの男の子であるヒゼキヤ王と、主は共にいてくださいました。

 

 

 

イザヤ書714節は、主イエス・キリストの処女降誕の預言であると言われています。実際にマタイによる福音書は、処女マリアが主イエスを生んだ出来事を、イザヤ書714節の預言の成就であると記しています。

 

 

 

 イザヤが預言する「おとめ」が処女であるかどうかは、今日議論があります。しかし、ヒゼキヤを通して、どのように神が彼と共にいてくださったか、イザヤ書と列王記下は豊かに証ししています。

 

 

 

しかし、95節で、預言者イザヤは、わたしたちのためにみどりご、ひとりの男の子が生まれ、与えられると預言していますが、それはヒゼキヤに当てはまらないのです。

 

 

 

 95節で、預言者イザヤは「ひとりのみどりご」、幼子が、「わたしたちのために生まれた」、「ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」と告げて、わたしたちのために新しい王に即位したと告げているのです。

 

 

 

その幼子、男の子の王の即位に伴って、彼には4つの名が記されています。「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」。

 

 

 

ユダの王の中にこの4つの名を持ち、その名を実現した者はいません。

 

 

 

だから、イザヤのこの預言は、待望されるメシアの重要な要素と考えられているのです。

 

 

 

来るべきメシアは、御国の王であり、支配者であり、大きな力を有する者です。この王、支配者、大きな力を有する者は、自分のためには神の民に血を求める者ではありません。むしろ、彼は神の民のために自分が血を流して、永遠の平和と喜びにあずからせる者です。

 

 

 

このように主イエスがお生まれになる730年も昔に、預言者イザヤは、ひとりのみどりご、男の子の誕生を、その男の子と共に神が共にいてくださることが、クリスマスの出来事がこの世に起こることを預言したのです。

 

 

 

次週は、マタイによる福音書から、このイザヤの預言が主イエス・キリストの誕生によって実現したことを、そして主イエスの御生涯と十字架の死と復活をとおして、主イエスと共に神がいてくださったことをご一緒に学びたいと思います。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、本日よりアドベントに入りました。

 

 

 

わたしたちは、クリスマス月間として本日より24日までの4主日にクリスマスのメッセージを聴き、クリスマス讃美歌を歌い、主を崇め、賛美します。

 

 

 

どうか、この礼拝を祝し、わたしたちの家族を、知人を、教会の近隣の方々を、諏訪地方の方々をお集め下さり、共にクリスマスを祝わせてください。

 

 

 

クリスマスの過去、現在、未来について、聖書から学ばせてください。

 

 

 

神がわたしたちと共にいてくださる喜びに、わたしたちの心を満たしてください。

 

 

 

主イエスよ、あなたは乏しく、貧しい馬小屋で生まれ、乏しく貧しい者と共に生き、彼らに神の国の福音を語られ、彼らの病を癒されました。

 

 

 

クリスマスに、世界の乏しく貧しい者にキリストの恵みの光を与えてください。

 

 

 

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

「クリスマス月間」説教03         主の20171217

 

 イエスは、ヘロデの時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

 

 

 

 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているかと問いただした。

 

 

 

 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さなものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

 

 

 

 そこでヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せて、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。

 

 

 

 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

 

 

 

 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 

マタイによる福音書第2112

 

 

 

 説教題:「キリストの誕生と私たち」

 

「クリスマス月間」の第3週を迎えました。

 

 

 

今年は「クリスマス月間」のクリスマスメッセージのテーマを、「クリスマスの過去、現在、未来」としました。

 

 

 

先々週と先週は「クリスマスの過去」をテーマに、「クリスマスの預言」と「イエス・キリストの誕生」をお話しました。

 

 

 

預言者イザヤは主イエスが生まれられる730年昔にインマヌエル預言をしました。おとめが男の子を産むという出来事を預言し、「神、我らと共にいます」と預言しました。

 

 

 

このインマヌエル預言からおよそ730年の後、処女マリアから主イエス・キリストがお生まれになりました。紀元前6年と、ほぼ正確な年代が分かっています。

 

 

 

日本から遠く離れた国です。わたしたちの時代から2000年も昔です。「キリストの誕生と私たち」、一体何の関係があるのでしょうか。

 

 

 

クリスマスの過去は、わたしたちにとって遠く離れた出来事です。しかもわたしたちは、聖書の世界では異邦人であります。

 

 

 

旧約聖書の神は、世界の諸国民から神の民イスラエルを選ばれました。彼ら以外は皆、神に見捨てられた滅びの民であり、異邦人であります。

 

 

 

ところが、預言者イザヤは、ひとりのみどりご、男の子がおとめより生まれ、「異邦人のガリラヤは栄光を受ける」(イザヤ8:23)と預言しました。

 

 

 

預言者イザヤの時代、ダビデ王国は南と北に分裂し、イザヤの死後、北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされました。その領地であるゼブルンとナフタリの地には、アッシリア帝国の政策で異邦人たちが入植し、「異邦人の地ガリラヤ」と呼ばれるようになりました。

 

 

 

先週お話ししましたようにマタイによる福音書は、異邦人たちに主イエス・キリストの救いの喜びを伝えるために書かれた福音書です。

 

 

 

マタイによる福音書は、異邦人たちに主イエス・キリストの救いの喜びの訪れを伝えるために、アブラハムからの系図で始めました。

 

 

 

旧約聖書の創世記という書物の中にアブラハムの信仰の生涯が描かれています。彼は神と恵みの契約を結びます。神がアブラハムを祝福し、「わたしは彼と彼の子孫の神となり、アブラハムと彼の子孫はわたしの民となる」と言われました。そして、神はアブラハムを諸国民の父とし、祝福の基とされました。

 

 

 

マタイによる福音書は、異邦人たちにアブラハムからの系図を示して、アブラハムが異邦人たちの父であり、彼の末から生まれた救い主、主イエス・キリストは異邦人たちを自分の民とし、罪から救われると、主イエス・キリストの誕生の喜びを告げ知らせたのです。

 

 

 

さて、今朝はマタイによる福音書第2112節の御言葉から学びましょう。

 

 

 

1節の「イエスは、ヘロデの時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。」は、2章の見出しです。

 

 

 

マタイによる福音書は、異邦人たちに第2章で、主イエス・キリストの幼児の物語を3つ記しています。

 

 

 

1112節です。ベツレヘムにお生まれになられた幼子主イエスを、東方の占星術の学者たちが拝みに来たことです。

 

 

 

21318節です。ヘロデが幼子主イエスを迫害し、幼子主イエスと両親がエジプトに逃れ、ベツレヘムの幼子たちが殺された悲劇です。

 

 

 

31923節です。ヘロデ大王の死後、主イエスと家族がエジプトから帰国し、ガリラヤのナザレに住まわれたことです。すべてが旧約聖書の神の御言葉が実現したと、マタイによる福音書は証言しています。

 

 

 

今朝は第1のベツレヘムに生まれられた主イエス・キリストを、東方の占星術の学者たちが訪れて礼拝したお話から「クリスマスと私たち」との関係について学びたいと思います。

 

 

 

 ヘロデ大王の晩年、ユダヤの国エルサレムの都で、一つの事件が起こりました。

 

 

 

占星術の学者たちがユダヤの国エルサレムの都を訪れました。

 

 

 

マタイによる福音書が「占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て」と記しているように、ペルシャの国から祭司階級(占星術の学者)の人たちが西方に輝く星を観測し、ユダヤの国に新しい王が生まれたと知り、エルサレムの都を訪れて来たのです。

 

 

 

マタイによる福音書は、それを驚くべき出来事として証言しています。

 

 

 

クリスマスの喜びに招かれたのは、ヘロデ大王やエルサレムの都に住む神の民ユダヤ人ではありませんでした。

 

 

 

東方の占星術の学者たちです。

 

 

 

彼らは異邦人であるというだけではありません。旧約聖書の申命記という書物に、神の人モーセが神の民に神の御心を伝え、神に呪われた者であると告げられている者のリストに、この占星術の学者たちが含まれていました(申命記18:1112)

 

 

 

神に呪われた異邦人の占星術の学者たちが、主イエスの誕生、救い主の誕生という神の喜びの出来事に、第1番に招かれました。

 

 

 

マタイによる福音書は、彼らをギリシャ語で「マゴス」と呼んでいます。星を占う魔術師です。彼らは夜空の星を観測し、その年が豊作か、不作かを占い、あるいは、国や人の運命を占いました。

 

 

 

彼らは夜空の星を観測し、ユダヤの方角に希望の星が輝いているのを見つけました。その星を道しるべとして、エルサレムの都まで旅をして来ました。

 

 

 

彼らは言いました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と。

 

 

 

彼らの質問にヘロデ王は不安を覚え、エルサレムの人々は恐怖を抱きました。ヘロデ王は自らの地位を脅かす存在を恐れ、エルサレムの人々は王が自分の地位を脅かすと疑えば、妻も子も殺すという残虐な振る舞いに恐怖を覚えました。

 

 

 

次にマタイによる福音書は、わたしたち読者に驚くべきことを証言します。

 

 

 

彼らを、救い主イエス・キリストへと導くのは聖書の御言葉であると。

 

 

 

ヘロデ王は聖書の専門家を集めました。民の祭司長たちと律法学者たちです。彼らに旧約聖書から救い主が生まれる預言を探させました。

 

 

 

聖書の専門家たちは、旧約聖書のミカ書51節に、メシアがベツレヘムに生まれると預言していると伝えました。

 

 

 

ヘロデ王は、占星術の学者たちをひそかに呼び寄せました。そして、いつその星が現れたかを確かめました。そして王は彼らに「行って、その子とのことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ」と頼み、「わたしも行って拝もう」 と言いました。

 

 

 

さて、占星術の学者たちが聖書の御言葉に示され、エルサレムの都を出発しますと、東方で見た星が現れ、星は彼らをベツレヘムの幼子主イエスのおられる場所へと導きました。

 

 

 

 彼らは、その星を見て喜びに満ちあふれました。

 

 

 

彼らは、聖書の御言葉に導かれ、その星が彼らを自分たちの救い主へと導いてくれたからです。

 

 

 

 マタイによる福音書は、わたしたち読者に次のように証言します。

 

 

 

 異邦人で、神に呪われた魔術師たちが、神の民に先立って一番にキリストの御許に招かれたと。

 

 

 

また彼らは、喜ばずにはいられませんでした。

 

 

 

地上の偉大な王を求めてユダヤまで旅をし、その旅の途上で聖書の御言葉に出会い、その聖書の御言葉に導かれて、彼らが捜し求める王がこの世の支配者ではなく、神の御子キリストであり、彼らを罪から救う救い主であることを知らされたからです。

 

 

 

さて、占星術の学者たちは家に入り、マリアと共におられる幼子主イエスを礼拝し、黄金、乳香、没薬を献げました。

 

 

 

彼らの献げものは、彼らの幼子主イエスへの献身のしるしです。

 

 

 

マタイによる福音書がわたしたち読者に伝えようとすることは、クリスマス、「神、わたしたちと共にいます」という喜びは、礼拝への招きとして、常に今臨在されるキリストへと招かれるものであるということです。

 

 

 

東方の占星術の学者たちは星を観測し、その星を道しるべに主イエスを求めて、人生を旅し、その途上で聖書の御言葉に出会い、御子キリストの臨在される礼拝に招かれました。そして、彼らは、幼子キリストへの献身のしるしとして黄金、乳香、没薬を献げたのです。

 

 

 

わたしたちも彼らと同じではありませんか。

 

 

 

わたしは異教徒の家庭に生まれ、キリスト教の大学で聖書とキリスト者の教師に出会い、宝塚教会に導かれました。

 

 

 

そこにキリストがこの礼拝と同じように臨在されていました。

 

 

 

わたしは教会に誘われ、1年と3か月礼拝出席し、キリストの十字架によってわたしの罪が赦され、キリストを信じる信仰によって神に義とされ、神の子としていただいたことを喜びました。

 

 

 

占星術の学者たちは幼子キリストを礼拝し、黄金、乳香、没薬を献げ、彼らの残された人生のすべてをキリストに献げて生きることを表しました。

 

 

 

わたしたちも同じです。

 

 

 

毎週主の日の礼拝に招かれ、キリストの御救いを喜び、キリストを礼拝し、献金をもって自らの献身を示し、自分の人生をキリストに献げて生きることを表しているのです。

 

 

 

聖霊と御言葉によって、常にクリスマスはわたしたちにとって現在であります。

 

 

 

わたしたちは、毎週キリストの臨在されるこの礼拝へと招かれ、キリストを礼拝し、賛美し、聖餐式の恵みにあずかり、献金によってこの身をキリストに献げ続けて、この地上から神の御国を目ざす希望の旅へと、わたしたちの人生が変えられたのです。

 

 

 

神がわたしたちと共にいてくださる、今に、わたしたちは生きているのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、東方の占星術の学者たちのように、あなたはわたしたちをキリストの臨在される礼拝にお招きくださり感謝します。

 

 

 

願わくは、この「クリスマス月間」を通して、わたしたちと共に、わたしたちの家族、知人、この町の人々を、礼拝へとお招きください。

 

 

 

どうか、聖霊よ、聖書の御言葉を通して、礼拝の中に、神、わたしたちと共にいますというクリスマスの今を、その喜びを味わわせてください。

 

 

 

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

「クリスマス月間」説教04         主の20171224

 

 

 

 見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。

 

                             ヨハネの黙示録第2212

 

 

 

 説教題:「未来の約束」

 

クリスマスおめでとうございます。

 

 

 

今年の「クリスマス月間」は、「クリスマスの過去、現在、未来」をテーマにクリスマスメッセージを聴いてきました。

 

 

 

「クリスマスの過去」をテーマに「クリスマスの預言」と「イエス・キリストの誕生」を聴きました。過去において預言者イザヤが神の民イスラエルにおとめが男の子を産み、「神我らと共にいます」というクリスマスの喜びの出来事が起こることを預言しました。

 

 

 

イザヤのインマヌエル預言は、処女マリアが男の子を産み、その名をイエスと名付け、男の子が自分の民を罪から救うことで、「神我らと共にいます」クリスマスの喜びが実現することを聴きました。

 

 

 

そして、先週の礼拝で「クリスマスの現在」をテーマに、異邦人の占星術の学者たちが幼子主イエスを訪ねて旅をし、聖書の御言葉に導かれて、メシアである幼子主イエスへの礼拝へと招かれたかれたことを聴きました。

 

 

 

クリスマスメッセージを聴きながら、わたしたちも今、異邦人の占星術の学者たちと同じように今キリストが臨在される礼拝に招かれていることを知りました。

 

 

 

わたしたちがクリスマスの現在に生きていることに目を向けられました。わたしたちは、異邦人の占星術の学者たちと同じようにキリストに招かれ、主イエスをわたしたちの主と信仰告白し、主イエスを礼拝し、賛美し、主イエスが招かれる食事である聖餐式の恵みにあずかり、献金をもってこの身を主イエスに献げ、この地上から神の御国を目ざす希望の旅へと歩み続けている、そこに神がわたしたちと共にいてくださる、クリスマスの現在の喜びがあることを知りました。

 

 

 

さて、今朝はクリスマス礼拝であります。

 

 

 

初めて礼拝に来られた方にクリスマスのお話をしましょう。

 

 

 

ご存知のように一般にクリスマスはイエス・キリストの降誕記念日とされています。

 

 

 

クリスマスは「キリスト」と「マス」の合成語で、「マス」は「ミサ」のことであります。キリストの御降誕を祝うことがクリスマスという言葉の由来です。

 

 

 

古代のキリスト教会は、ローマ帝国が東と西に分かれたように東方と西方に分かれており、共に紀元3世紀ごろにキリストの御降誕を祝うようになりました。

 

 

 

西方教会は4世紀に毎年1225日をキリストの御降誕日として祝いました。異教徒たちが太陽の誕生を祝うことに対抗して、旧約聖書のマラキ書320節で、預言者マラキが「わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る」とメシア預言しています、「義の太陽」を主イエス・キリストであるとし、太陽の誕生が祝われていた1225日を主イエス・キリストの御降誕日として祝いました。

 

 

 

東方教会は「顕現日」をクリスマスから12日後にあたる16日に祝っていました。「顕現日」は、異邦への救い主の顕現を祝う日です。

 

東方の占星術の学者たちが星に導かれて幼子キリストを礼拝したことを中心に、異邦人に対する主の顕現として祝われました。

 

 

 

4世紀後半に東方と西方の教会が調整し、1225日のクリスマスと16日の顕現日の両方を守るようになりました。

 

 

 

教会には昔から教会の暦があり、教会の暦では1年はアドベントの季節から始まります。

 

 

 

アドベントは到来という意味です。主イエス・キリストは2度わたしたちのところに来てくださいます。

 

 

 

一度目は、わたしたちを罪より救うために、御自身、父なる神の独り子ですが、人となり、処女マリアの胎から聖霊によって生まれられて、この世に来られました。

 

 

 

二度目は、未来のことであります。今朝の礼拝のクリスマスのメッセージと深い関係があります。

 

 

 

一般にキリストの再臨と呼ばれる出来事です。

 

 

 

一度目はわたしたちを救うために、二度目はわたしたちを裁くためにキリストはこの世に来られるのです。

 

 

 

だから、教会の暦の1年の最初のアドベントは、キリストの第1回目の来臨であるクリスマスに心備えをしつつ、キリストの再臨を待ち望む季節であります。

 

 

 

今年は、123日から24日まで、今日までがアドベントでした。

 

 

 

「クリスマス月間」とアドベントが重なりました。

 

 

 

明日の1225日から顕現日の前日の15日までが降誕節です。教会ではクリスマス讃美歌を歌って、キリストの御降誕をお祝いします。

 

 

 

西方教会は1225日に3回のミサがなされました。夜中と夜明けと朝です。キリストの3重の誕生を祝うためです。父なる神のふところで、マリアの胎内で、そして信者の魂の中における誕生を。

 

 

 

クリスマスに付き物のクリスマスツリーは昔ドイツで始まりました。世界に広まりましたのは19世紀のイギリスのヴィクトリア女王の時代です。特にディケンズの文学によって、あの有名な小説「クリスマス・キャロル」が世界中で読まれ、広まりました。日本はアメリカを経て、伝えられました。

 

 

 

さて、「クリスマス月間」の最後に、「クリスマスの未来」についてお話ししたいと思います。お聴きください。

 

 

 

本日は、この礼拝の後にクリスマスを祝うために祝会をします。初めてのお方もご一緒していただければ感謝です。

 

 

 

しかし、「クリスマスの未来」がなければ、神のわたしたちへの未来の約束が本当でなければ、今わたしたちが一緒にクリスマスを祝う意味はありません。

 

 

 

最初にわたしたち異邦人に伝道した使徒パウロは、異邦人のコリント教会に手紙を書きました。

 

 

 

パウロはコリント教会の信徒たちに少なくても3つの手紙を書きました。聖書には2通あります。その一通、コリントの信徒への手紙一15章で、パウロはコリント教会の信徒たちにキリストの復活と死者の復活を語り、次のように警告しています。

 

 

 

もし、死者が復活しないなら、『食べたり飲んだりしよう。明日われわれは死ぬのだ』ということになってしまいます。思い違いをしてはなりません。『悪い付き合いは、善い習慣を損なう』のです。目を覚まして、正気に返りなさい。また、罪を犯してはなりません。神について無知な人がいるからです。あなた方を恥じ入らせようとして、このようにわたしは話しているのです。(Ⅰコリント15:3234)

 

 

 

もし、死者が復活しないなら」とは、来世の希望を捨て去ればということです。

 

 

 

キリスト者は、キリストが死人の中から復活されたように、復活するという、主イエスの未来の約束を信じる者です。

 

 

 

明日に希望を持つ者です。

 

 

 

キリスト者にとってこの世の命、生活は、来世の、すなわち、神の御国のより大いなる復活の命、永遠の命の生活のための準備と訓練のための期間であります。

 

 

 

キリスト者が明日に希望を持てなくなれば、死者の復活を信じられなくなれば、今のキリスト者の生活に価値はなくなります。

 

 

 

それだけではありません。キリスト者としての節操と道徳とのきずなもなくなります。何よりこの世の人々と同じように、この世のことしか関心が無くなるのです。

 

 

 

その結果、この世の人々のように「食べたり飲んだりしよう。明日われわれは死ぬのだから」と、この世の快楽に身を任せてしまうのです。

 

 

 

 実際にコリント教会の信徒たちの中には、キリストの復活も死者の復活も信じない者たちがおりました。彼らはこの世の不道徳な生活が習慣化し、教会の聖餐式で貧しい者たちが来る前に、彼らだけで飲み食いし、教会がこの世と同じ酒宴気分な場になっておりました。

 

 

 

だから、パウロはコリント教会の信徒たちに復活を信じない者と付き合うなと忠告するのです。コリント教会の中で復活を信じてない者と交わると、復活の主イエスとの善い交わりを汚すことになるからです。

 

 

 

パウロにとって復活を否定することは、その者が聖書の神を全く理解していない証拠に他なりませんでした。聖書の神は初めに天地を創造されたお方です。土の塵に息を吹吹きかけ人を生きた者とされ、死者に新しい命を与えて、御自身と共に永遠に生かすことのできる全能の神です。

 

パウロは、コリント教会の信徒たちに「目を覚まして、正気に返りなさい。」と警告しています。

 

 

 

わたしの耳には、「あなたの心を正して、再臨のキリストに備えよ」と聞こえます。

 

 

 

キリスト者は、常に「目を覚まして」いなければなりません。

 

 

 

なぜなら、復活の主イエス・キリストは、今朝の御言葉で、わたしたちに言われています。

 

 

 

見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる

 

 

 

「見よ、わたしはすぐに来る」と、キリストは御自身の再臨を約束してくださいました。

 

 

 

キリストの未来の約束には、二つの目的があります。

 

 

 

キリストの再臨は裁くために再びこの世に来られるのです。再臨のキリストは、この世に生まれたすべての人を、彼らの行いに応じて、裁かれます。

 

 

 

同時に再臨のキリストは、神の御国の偉大な管理者として、この世の終わりにキリストの僕であるわたしたちキリスト者を集めて、ぶどう園の主人が働き人に賃金を払うように、わたしたちキリスト者のこの世における信仰に報いてくださるのです。

 

 

 

主イエス・キリストの御救いが、再臨のキリストのキリスト者の信仰に報いるという形で完成するのです。

 

 

 

だから、「見よ、わたしはすぐに来る」という復活の主イエスの御言葉は、わたしたちにわたしの救いの完成は近いと呼びかけられているのです。

 

 

 

未来の約束を信じる者として、ここにお集まりの方々にお勧めします。どうか主イエスを、あなたの救い主と信じ、受け入れてください。

 

 

 

復活の主イエスは、ヨハネの黙示録227節で、「見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は幸いである」と未来の約束をされています。

 

 

 

この書の預言の言葉」とは、わたしたちが手にしています聖書の御言葉です。

 

 

 

聖書は、わたしたちに次のことを証しするものです。すなわち、(1)父なる神が主イエス・キリストを通してわたしたちを罪と死から救うという御計画をされたこと、そして、(2)主イエスの受肉と十字架と復活という御業を通して父なる神はわたしたちを救われたこと、そして、(3)救われた者をキリストと同じく死者の中から復活させるために、再びキリストは来られ、わたしたちの信仰に報いて下さり、わたしたちを神の御国で御自身と共に永遠に生きる者としてくださるという未来の約束を完成されることを記しているのです。

 

 

 

キリストが来られるまでは、今朝お聞きいただきましたことは、聴く者への喜びの訪れとして伝えられますが、キリストが来られれば、それをわたしたがどのように聴いたのかを問われることでしょう。わたしたちが聴いてキリストを受け入れたように、キリストもわたしたちに報いてくださるのです。

 

 

 

どうか、キリストの未来の約束がここに集まられた方々の祝福となりますように。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、12月の4主日を「クリスマス月間」として、クリスマスメッセージを聴き、「クリスマスの過去と現在と未来」について、聖書が伝えていることを学ぶ機会が与えられ、心より感謝します。

 

 

 

何よりも、「クリスマスの過去と現在と未来」に神が神の民イスラエルと礼拝するわたしたちと御国における神に民と共にいます喜びを聴かされて心より感謝します。

 

 

 

願わくは、「クリスマス月間」を通して聴かされた神の恵みを、わたしたちがわたしたちの家族、知人、この町の人々を伝えることができるようにお導きください。

 

 

 

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

2018年度教会聖句による説教01    主の2018128

 

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、かみがあなたがたに望んでおられることです。

 

            テサロニケの信徒への手紙一第51618

 

 

 

 説教題:「2018年度教会目標」

 

 今朝は、使徒パウロのテサロニケの信徒への手紙一第51618節の御言葉から学びましょう。

 

 

 

 テサロニケの信徒への手紙は一と二があり、使徒パウロが書いた手紙です。

 

 

 

 使徒パウロが第2回伝道旅行で小アジアからヨーロッパに渡り、マケドニアとギリシアで開拓伝道し、多くの教会を建てました。テサロニケ教会はその一つでした。

 

 

 

 使徒パウロはユダヤ人たちの迫害を避けながら、テサロニケからアテネ、コリントの町へと伝道旅行を続けました。

 

 

 

 そして、コリントの町に着いた時、1年半そこに滞在しました。

 

 

 

 パウロが第2回伝道旅行した時期は紀元49年から52年と考えられています。

 

 

 

そして、パウロがコリントの町に着いたのが50年頃で、その時にこのテサロニケの信徒への手紙一が書きました。

 

 

 

 現在新約聖書の中に13通のパウロの手紙があります。その中でパウロが書いた最初の手紙がテサロニケの信徒への手紙一であり、新約聖書の27巻の文書の中でも一番古いものです。

 

 

 

 パウロは、どうしてテサロニケの信徒への手紙一を書いたのでしょうか。

 

 

 

 このパウロの手紙の目的は、この手紙の413節から511節までに述べられています。

 

 

 

 テサロニケ教会のキリスト者たちは、熱心に再臨のキリストを待ち望んでいました。

 

 

 

 だから、テサロニケ教会のキリスト者たちはパウロに次のような質問をしたのでしょう。

 

 

 

キリストの再臨の前に死んだ者たちは、キリストの再臨の時まで生き残るキリスト者たちに比較して何らかの不利益を蒙るのではないかと。

 

 

 

彼らの質問に、パウロは主の御言葉に基づいてキリストの再臨を説明しました。そして、キリストの再臨の前に死んだ者たちも、再臨の時まで生き残っている者たちも共に復活の主といることになると答えました。

 

 

 

そして、パウロは彼らに主が来られるまで互いに励まし合い、互いの信仰の向上に心がけなさいと勧めました。

 

 

 

パウロは、異教社会の中で、迫害を受けている彼らに、この手紙の結びとして、お願いする形で、512節以下で信仰に労苦し、主に結ばれたテサロニケ教会のキリスト者たちに神の力を信じて、神のご遺志に適った歩みをするように勧告したのです。

 

 

 

そのパウロの勧告の一つが、今朝の御言葉であり、今年の聖句に選ばれたものであります。

 

 

 

パウロは、テサロニケ教会のキリスト者たちに喜び、祈り、感謝を勧めています。

 

 

 

この3つは、パウロにとって、キリストを通して示された神の救いの働きに応答するキリスト者の行動の原動力でした。

 

 

 

パウロは、テサロニケ教会のキリスト者たちに、喜びと祈りと感謝を勧めるだけではなく、彼自身がダマスコの途上で復活の主イエス・キリストに出会い、神の救いの恵みを体験し、それに応答する形で喜びと祈りと感謝を持って使徒の働きをしていたのです。

 

 

 

「いつも」、「絶えず」、「どんなことにも」にも、順境の時も逆境の時も、パウロの使徒としてのすべての人生において、苦難に出会ったときも、挫折した時も、絶望した時でさえも、パウロは喜び、祈り、感謝して毎日を過ごしていたのです。それが、十字架のキリストを通して御自身をあらわされた神の御意志であると、パウロは固く信じていました。

 

 

 

だから、パウロは迷うことなく、躊躇せずに、テサロニケ教会のキリスト者たちが公同の礼拝において、隣人への伝道において、日々の生活の中で喜び、祈り、感謝の生活を証ししてほしいと勧めているのです。

 

 

 

喜びは、十字架の救いの恵みを受けたキリスト者の生きる方向性です。

 

 

 

「いつも喜んでいなさい」。フランシスコ会訳聖書は、「いつも喜びを忘れずにいなさい」と訳しています。

 

 

 

これがキリスト者の最も基本的な在り方なのです。ある牧師は「キリストの事実に基づく喜びである」と説明しています。

 

 

 

キリストの十字架によって、わたしたちキリスト者は罪の赦しの喜びにあずかっているだけではありません。洗礼によって復活のキリストと結び合わされています。礼拝においても、日常の生活においても、キリスト者は主に結びつけられた者としていつでも喜びの中に生きているのです。

 

 

 

確かにこの世においては、いろいろと困難があり、悲しみがあり、そして、死んで行くのです。それでもわたしたちは永遠の希望を持ち、この世で生きているのです。

 

 

 

わたしたちは一つの確かな目的と方向性を持ってこの世を大人も子供も生きているのです。

 

 

 

ウェストミンスター小教理問答の問1と答です。

 

 

 

「人のおもな目的は何であるか。」

 

 

 

「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである。」

 

 

 

「栄光をあらわす」とは、神を称えることです。神を礼拝することです。神礼拝こそがわたしたちキリスト者の人生なのです。神を礼拝して、永遠に神を喜び生きることこそ、神に創造された人間の本分なのです。本当の姿です。「永遠に喜ぶ」とは絶えず、終始喜んでいることです。

 

 

 

バークレーという聖書学者が「いつも喜んでいなさい」というパウロの勧めを次のように説明しています。「それは喜びの教会である。教会には教会員に、ちょうど日光を浴びているように感じさせる喜びの雰囲気がある。真のキリスト教は、心を喜び立たせるものであって、意気消沈させるものではない。」と。

 

 

 

教会の命、喜びは、わたしたちが喜び礼拝する中にあります。なぜなら、礼拝こそ、復活の主イエスがわたしたちの罪をお赦しくださり、わたしたちと共にいて、わたしたちをありのままに受け入れてくださっているところです。

 

 

 

今朝も御言葉でキリストの十字架により罪の赦しを宣告され、キリストの食卓にあずかり、復活の主イエスはわたしたちのすべてをありのままに受け入れてくださっているのです。その事実ゆえにわたしたちはここで喜び神を礼拝し、家庭でも個人でも喜び神を礼拝するのです。

 

 

 

キリスト者の人生の目的と方向性を常に正しく導く手段として、パウロはわたしたちに「絶えず祈りなさい」と勧めています。

 

 

 

祈りは、神の主権性と結びついています。わたしたちは、すべてのこと、すべてのものが神によることを認めているので、「天になるごとく、地になさせたまえ」と絶えず祈るのです。

 

 

 

祈りは、神との会話であり、神のみ旨に聞き従うというわたしたちが真に生きるべき道なのであります。

 

 

 

主イエスの祈りを、よく思い起こしてください。主イエスはガリラヤ伝道においても、ゲツセマネの園でも絶えず父なる神に祈られました。

 

 

 

祈りによって主イエスは父なる神と会話され、父なる神の御心が御自身の身に実現するように祈られ、そして父なる神に服して、十字架の道を歩まれたのです。

 

 

 

使徒パウロの手紙を読んでいますと、パウロは、神に感謝し、神に賛美しながら、神に祈っています。祈りも、神礼拝に結び付くのです。神礼拝に生きるわたしたちは、常に「天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈る者です。常に神の御心を祈っているのが、洗礼によって主イエスに結び付けられたわたしたちなのです。

 

 

 

パウロは、最後に「どんなことにも感謝しなさい」と勧めています。

 

 

 

わたしたちキリスト者は、「どんなことにも感謝」する者のことです。

 

 

 

感謝には二種類あります。第一は、一つ一つ神の恵みを数えて感謝することです。

 

 

 

わたしには家庭がある、仕事がある、健康であるという風に一つ一つ主の恵みを数えることです。こうしてわたしたちは、日々の中に神に感謝すべきことがたくさんあることに気づかされます。

 

 

 

しかし、感謝には別の面があると思います。

 

 

 

わたしが誰かに感謝するとは、感謝する相手に依存して生きることを、わたしが承認することです。

 

 

 

人間関係の場合は、相手に感謝することは、部分的なことです。お金を工面してもらった、結婚相手を紹介してもらったとか、あることにお世話になって、相手に感謝し、そのことでは相手に依存することを認めているのです。

 

 

 

しかし、神への感謝はある事柄ではありません。わたしたちの命そのものであり、存在そのものについてわたしたちは神に感謝し、神に自分の命そのものを依存していることを承認しています。

 

 

 

どんなことにもわたしたちが神に感謝するのは、この世におけるわたしという存在そのものが、わたしの命が神に支えられているからです。

 

 

 

わたしたちの人生の中に感謝できないことは数々あります。人に言えない悲しみや悩みがあります。不満もあります。妬みもあります。それでもパウロは、わたしたちキリスト者に「どんなことにも感謝しなさい」と勧めています。

 

 

 

この感謝って、何ですか。

 

 

 

それは、ありのままで良いという、神がわたしたちを受け入れ、支えてくださることです。神がわたしたちをハグしてくださることです。

 

 

 

キリストの十字架によって、わたしがどんな状態であろうと、父なる神はわたしたちを子として受け入れてくださっているのです。

 

 

 

だから、わたしたちは日曜日に教会に来て、神を礼拝し、感謝し、喜び、賛美するのです。

 

 

 

本当に、この世ではあり得ないことです。父なる神は、キリストの十字架によってどんな人間もその罪を赦してくださり、わたしたちがどんな状態であろうと、わが子として受け入れて下さり、常に慰め、励まし、そして、永遠の命の喜びへと招いてくださいます。

 

 

 

主イエスは、この70年間、わたしたちがどんな状態であろうと受け入れ、御自身と共に生きることを許してくださいました。

 

 

 

だから、わたしたちは神を礼拝し、御言葉を聴き、そして聖餐の恵みにあずかり、主を賛美し、主に祈り、主に感謝しています。

 

 

 

これが共に教会に生きるという素晴らしさではないでしょうか。主イエスの下に共に喜び生きることではないでしょうか。

 

 

 

ここに集うものは、どんな人であろうと、十字架のキリストのゆえにその罪は赦され、父なる神の子とされ、失敗した人生であろうと、神が肯定してくださるのです。

 

 

 

あなたは主イエスと共に生きて居て良いのです。あなたは、十字架の主イエスに支えられて、生きることができるのです。

 

 

 

このようにどんな人にも生きることができる人生の居場所を、わたしたちの教会は主イエスにあってどなたにも提供できるのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、2018年となり、一か月が過ぎようとしています。主が新しい年、恵みのうちにお導きくださり感謝します。

 

使徒パウロのテサロニケの信徒への手紙一51618節の御言葉に、今年一年導かれて歩みたいと思います。

 

 

 

使徒パウロが勧めてくれました、「いつでも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」という御言葉に力強く押されて、礼拝に励み、そこに生まれる喜びに導かれて、わたしたちの家族や知人にキリストを伝え、今年は家族や知人と共に礼拝できるようにお導きください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

イースター伝道集会説教(2018)        201841

 

 

 

 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。

 

 

 

そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。

 

 

 

ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。

 

 

 

墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。

 

 

 

若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

 

 

 

婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

 

          マルコによる福音書第1618

 

 

 

 説教題:「墓が空になった日」

 

 主イエス・キリストは、死者の中から甦られました。ハレルヤ。イースター、おめでとうございます。

 

 

 

 マルコによる福音書は、わたしたち読者にイースターの出来事を、主イエスの復活の出来事を、次のように紹介しています。

 

 

 

1612節を御覧ください。

 

 

 

「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。」

 

 

 

「安息日」は、ユダヤ教の「安息日」で、今日の土曜日に当たります。ユダヤ人たちは、主なる神の掟を守り、「安息日」には一切の労働を休みました。

 

 

 

安息日が終わる」と、3人の女性たちが働きを出しました。マグラダノマリア、ヤコブの母マリア、サロメという3人の女性たちです。

 

 

 

彼女たちは、金曜日の十字架のキリストの死と葬りを目撃しました(マルコ15:4047)

 

 

 

ですから、マルコによる福音書はわたしたち読者に「安息日が終わると、イエスに油を塗りに行くために香料を買った」と証言しています。

 

 

 

そして、「週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った」のです。

 

 

 

マルコによる福音書は、3人の女性が主イエスの葬られた墓が空であることを発見することを、3つの彼女たちの驚きで描いているのです。

 

 

 

日曜日、日が出て、明るくなり始めると、彼女たちは、主イエスの遺体に油を塗るために、行動を開始しました。

 

 

 

彼女たちの問題は、主イエスを葬った墓の入口をふさぐ大きな岩をどうするかでした。

 

 

 

だから、マルコによる福音書はわたしたち読者に次のように証言しています。「彼女たちは、『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた。」と。

 

 

 

ところが、3人の女性たちは驚かされたのです。主イエスを葬った墓に着くと、彼女たちの目に驚くべき光景が見えたからです。

 

 

 

マルコによる福音書はわたしたち読者に次のように証言しています。「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。

 

 

 

彼女たちが話し合っていた「だれか」が主イエスの墓の入口の非常に大きな石を脇に転がしてくれているではありませんか。

 

 

 

石は非常に大きかった」という表現は、石の大きさをただ驚いているのではなく、その石が転がされているのを見た女性たちの驚きを表現しているのです。

 

 

 

さらに彼女たちは驚いています。主イエスの墓の中で神の御使いを見たからです。

 

 

 

 マルコによる福音書は、わたしたち読者に次のように証言しています。「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。

 

 

 

彼女たちは白い衣を着た若者が右側に座っているのを見たのです。

 

 

 

婦人たちはひどく驚いた」と記していますが、「びっくりした」「ひどく肝をつぶした」と訳している聖書もあります。

 

 

 

彼女たちの驚きは、神的な存在に触れた畏れだったと思います。白い衣を着た若者とは、神の御使いのことです。

 

 

 

そして、若者のメッセージこそが、彼女たちを震え上がらせるほどに、我を忘れさせるほどに驚かしました。

 

 

 

そのことをマルコによる福音書はわたしたち読者に次のように証言しています。

 

 

 

若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

 

 

 

女性たちは、若者から二つのことを告げられました。

 

 

 

第一は主イエス。キリストの復活です。

 

 

 

第二は、復活の主イエス・キリストが約束通りに弟子たちとペトロに先立ってガリラヤに行かれ、そこで彼らと会ってくださることです。

 

 

 

彼女たちは、墓を出ると逃げ出してしまいました。この若者のメッセージに女性たちは非常に驚き、震え上がり、我を忘れたからです。その結果、彼女たちは弟子たちに若者のメッセージを伝えることもできませんでした。

 

 

 

一体マルコによる福音書は、わたしたち読者に3人の女性たちが経験したことを通して、何を伝えようとしたのでしょうか。

 

 

 

神の御使いである若者が証言していますように、3人の女性たちは、ゴルゴタの十字架で死なれたナザレのイエスを捜し求めたのです。

 

 

 

しかし、若者が指さしたようにそこに主イエスの御遺体はありませんでした。

 

 

 

主イエスの復活は、彼女たちの人間理性では理解できませんでした。彼女たちが若者に出会ったという非常な驚きは、彼女らが捜し求めた主イエスが復活したという若者のメッセージで、恐怖となりました。

 

 

 

だから、彼女たちはその恐怖から逃れるために、墓から出ると逃げ出したのです。

 

 

 

どこまでも主イエスの墓から恐怖が彼女たちを追いかけて来たでしょう。

 

 

 

だから、彼女たちはおそらく3人一緒になり、震え上がり、気が動転してしまっていたでしょう。

 

 

 

だから、彼女たちは弟子たちに若者のメッセージを伝えることもできなかったでしょう。

 

 

 

それほどに彼女たちが神の御使いに出会い、そして彼から主イエスが甦られたというメッセージを聞かされたことは、大きな恐怖となったのです。

 

 

 

マルコによる福音書がわたしたち読者に伝える「主イエスの墓は空であった」という復活の出来事は、3人の女性たちの恐怖こそが、まことに彼女たちが経験した主イエスの復活だったのだということを伝えているのです。

 

 

 

裸の事実を伝えているのです。彼女らがありのまま神の御力に触れたという出来事を伝えているのです。

 

 

 

人間理性だけで、主イエスの復活を理解することは不可能なのです。それは恐怖以外の何ものでもないからです。

 

 

 

しかし、主イエスの墓が空になった日に、主イエスの弟子たちは甦られた主イエスを、救い主として礼拝し始めたのです。

 

 

 

神の御使い、若者が彼女たちに伝えたとおり、ある日曜日に復活の主イエス・キリストはガリラヤの丘の上に立ち、弟子たちと会われました。そこで主イエスの弟子たちは主イエスを礼拝しました。

 

 

 

主イエスが復活されたという喜びは、ガリラヤで復活の主イエスが主イエスの弟子たちと出会われた時に生まれたのです。

 

 

 

確かに主イエスが葬られた墓が空であったことは、彼女たちに恐怖しか産み出しませんでした。

 

 

 

しかし、後に彼女たちも復活の主イエスに出会って、恐怖から喜びに変えられたでしょう。

 

 

 

結局、主イエス・キリストの復活を信じる信仰の基盤は、復活の主イエスとの出会いです。

 

 

 

復活の主イエスが今も生きて働かれていることを、聖霊と神の御言葉を通して示された人だけが、今朝のマルコによる福音書の3人の女性たちが主イエスの墓に行ったが、その中に入ると墓の中は空であったという報告を聞いて、まことに主イエスは生きておられる、だから、わたしは今キリスト者としてここで主イエスを礼拝していると確信できるのです。

 

 

 

どうか、今日を切掛けにして、わたしたちと共にここで主イエスを礼拝してください。そして、今も生きて働かれる主イエスに出会ってください。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

復活であり、命である主イエス・キリストの父なる神よ、イースターの朝、わたしたちの教会は伝道集会をしました。主イエスの墓が空になった日に、主の御名を呼ぶ者たちがこの世に現れました。

 

 

 

彼らは、礼拝ごとに復活の主イエスと出会い、復活の主イエスを信じる信仰を与えられました。

 

 

 

そして、今朝わたしたちも、マルコによる福音書を通して3人の女性たちが主イエスの墓が空であったことを知らされたように、わたしたちも聞きました。人間理性で理解することは難しいですが、礼拝を通してわたしたちが復活の主イエスと出会い、今も生きておられる主イエスを信じることができるようにしてください。

 

 

 

どうかイースターの喜びを、わたしたちの礼拝を通して、わたしたちの家族、この町の人々に伝えさせてください。

 

 

 

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 2018年度教会聖句による説教02     主の2018729

 

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。

 

            テサロニケの信徒への手紙一第51618a

 

 

 

 説教題:「主を喜び、主に祈り、感謝する」

 

 今朝は、テサロニケの信徒への手紙一第51618aの御言葉から学びましょう。

 

 

 

 テサロニケの信徒への手紙一は、新約聖書の中の使徒パウロが書いた13通の手紙の一つです。

 

 

 

新約聖書の順番ではパウロの13通の手紙の中で8番目です。順番は後ろですが、新約聖書27巻の中で最も古いものです。

 

 

 

 主イエス・キリストが受難・死・復活の後(紀元30)、約20年過ぎて、紀元50年頃、使徒パウロはローマ属州のマケドニアの首都テサロニケ教会のキリスト者たちに宛てて、テサロニケの信徒への手紙一と二を書き送りました。

 

 

 

 使徒言行録は、使徒パウロが異邦人たちに向けて3回に渡って伝道旅行したことを記録しています。

 

 

 

それによりますと、使徒パウロたちは紀元49年から52年まで第2回伝道旅行をしています。

 

 

 

そこで彼らはヨーロッパに渡り、マケドニアとギリシアで異邦人たちにキリストの福音を伝えて、開拓伝道しました。そこで設立された教会の一つがテサロニケ教会でした。

 

 

 

 しかし、使徒パウロたちはユダヤ人たちに迫害されました。彼らはテサロニケの町を去り、アテネからコリントの町へと伝道旅行を続けました。

 

 

 

 そして、使徒パウロたちは、49年から51年にかけて、コリントの町に1年半滞在しました。

 

 

 

 その頃、ローマ皇帝クラディウスはローマからユダヤ人夫婦のアキラとプリスカたちを追放しました。彼らはコリントの町に滞在しておりました。彼らは、使徒パウロと同じ皮のテントを作る職人でした。そして、伝道熱心なキリスト教徒たちでした。

 

 

 

使徒パウロたちは、アキラとプリスカ夫妻の伝道協力を得て、コリントの町で1年と6か月、伝道と教会形成に励みました。そして、コリント教会は見る見るうちに大きく成長したのです。

 

 

 

それを記録したのが使徒言行録18章です。

 

 

 

使徒パウロがコリントの町に滞在していた紀元50年頃に、彼はテサロニケ教会のキリスト者たちに宛てて2通の手紙を書き送りました。

 

 

 

それがテサロニケの信徒への手紙一と二です。

 

 

 

実は、この2つの手紙から新約聖書の歴史が開始されました。

 

 

 

だから、次の2点でこの2通の手紙は意義があります。

 

 

 

第一点は、新約聖書中、最初に書かれたものであることです。新約聖書の成立の開始となったという点で意義があります。

 

 

 

第二点は、新約の教え、すなわち、キリスト教の教理が書き留められて書物になる発端となったという点で意義があります。

 

 

 

 さて、パウロがこの2通の手紙を書いた時、彼はおよそ50歳でした。彼がローマで殉教したのが67歳でありますので、残された17年間で残りの11通の手紙を書き、第3回伝道旅行をし、そして囚人としてローマに行き、ローマの人々にキリストの福音を伝えたのです。

 

 

 

 パウロがこの手紙を書いた事情を、217節から18節に次のように述べています。「兄弟たち、わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、-顔を見ないというだけで、心が離れていたわけではないのですがーなおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました。だから、そちらに行こうと思いました。殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました。」

 

 

 

 このようにパウロは、テサロニケ教会のキリスト者たちとの再会を切に望んでいました。ところが、「サタンに妨げられました」。

 

 

 

 カルヴァンは、パウロがサタンの妨害を受けたことについて、次のようにコメントを記しています。「サタンは、教会の建立を妨げ、または邪魔をするために絶えずあらゆる努力をしつづけるものだということは、すべての信徒の心に深く刻み込みたいものである。」(『カルヴァン・新約聖書註解 Ⅺピリピ・コロサイ・テサロニケ書』P197)

 

 

 

 パウロは、テサロニケ教会のキリスト者たちが信仰のゆえにユダヤ人から今受けている苦難と迫害の中で、彼らが動揺することなく、しっかりと信仰に堅く立つように励ますために、この手紙を書き送りました。

 

 

 

 そして、パウロは、テサロニケ教会のキリスト者たちに413節から511節にキリストの再臨の教理を書き留めて、送りました。

 

 

 

パウロは、彼らに主が来られるまで互いに励まし合い、互いの信仰の向上に心がけなさいと勧めています。

 

 

 

また、パウロは、この手紙の36節で、彼の愛する弟子テモテからテサロニケ教会のキリスト者たちの信仰と愛について報告を得たと記しています。

 

 

 

それによれば、彼らは異教社会の中で迫害を受けながら、固く信仰に立ち、よく苦難を忍び、テモテの報告を聞くパウロに喜びを与え、彼らのことでパウロは神に感謝をささげたくなるものでした。

 

 

 

さらにテモテはパウロにテサロニケ教会のキリスト者たちの問題も報告しました。それが先ほど少し触れました。キリストの再臨の問題です。

 

 

 

それは、彼らの信仰生活と深く結びついていました。

 

 

 

彼らの中には、キリストの再臨が間近なので、働く必要はないと怠ける者たちがいました。だから、パウロは彼ら全員が働き、自活することを勧めています。

 

 

 

そして、パウロは、彼らにキリストの再臨について教えた後に、お願いする形で、512節以下で信仰に労苦し、主に結ばれたテサロニケ教会のキリスト者たちに神の力を信じて、神のご遺志に適った歩みをするように勧告したのです。

 

 

 

パウロの勧告の諸々の一つが、今朝の御言葉であります。

 

 

 

パウロは、テサロニケ教会のキリスト者たちに、こう勧めています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。

 

 

 

「喜び」と「祈り」と「感謝」、この3つは、パウロにとって、キリストを通して示された神の救いの働きに応答するキリスト者の行動の原動力であります。

 

 

 

パウロは、キリスト者の行動の3つの原動力に、「いつも」、「絶えず」、「どんなことにも」という言葉を添えています。

 

 

 

それによって、パウロはテサロニケ教会のキリスト者たちにキリストの十字架によって救われたキリスト者たちの生き方を指し示しているのです。

 

 

 

パウロの考えでは、キリストの十字架と復活の御業によって、一つの共同体が生まれました。

 

 

 

だから、パウロの語る「喜び」と「祈り」と「感謝」は、キリスト者個人の内面を問題にしているのではありません。

 

 

 

むしろ、一つの共同体である教会の礼拝と伝道の証しを問題にしているのです。

 

 

 

だから、パウロは、テサロニケ教会のキリスト者たちに「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」と勧めているのです。

 

 

 

パウロは、彼らに彼らが心一つとなり、主を喜び礼拝し、共に主に祈り、そして主に感謝することを、主イエス・キリストを通して神が望まれていると伝えたかったのです。

 

 

 

1月に同じ個所を説教しました。その時にも、「いつも喜んでいなさい」を、フランシスコ会訳聖書が「いつも喜びを忘れずにいなさい」と訳していることを紹介しました。

 

 

 

今年も時間が過ぎ去るのは早いものです。7月が過ぎ去ろうとしています。半年以上過ぎました。

 

 

 

いよいよ下半期も始まり、今年度の教会目標と実施項目を、小会で検討すべき時期となります。毎年思うことは、達成は難しいということです。

 

 

 

しかし、教会の事情がどうあれ、わたしたちが忘れてならないことは、「喜び」「祈り」「感謝」です。

 

 

 

教会員の礼拝出席は、礼拝によっては半数以上の者たちが礼拝欠席という状況にあります。

 

 

 

それでも、パウロは、今朝の御言葉をもって、わたしたちに礼拝を喜ぶこと、主に祈ること、主にすべてを感謝することを、上諏訪湖畔教会の最も基本的な在り方としなさいと勧めます。

 

 

 

カルヴァンは、こう言っています。「いつも喜んでいなさい」。「災難にあって静かに自制し、苦しみや悲しみに対する抑制を緩めないとき、これは帰するところ心の節度にあるのだと、わたしは思う。」

 

 

 

そして、「喜び」「祈り」「感謝」は、カルヴァンにとって、キリスト者が危機にある時の心の節度であると言っています。

 

 

 

心は、わたしたちの中心です。人間には理性と感情と意志があり、それを中心の心がコントロールしているのです。

 

 

 

だから、その心で信仰者の行動の3つの原動力をコントロールしなければなりません。

 

 

 

だから、わたしたちの心でパウロの3つの勧めを、一つに結び付けて学ぶことを、カルヴァンは勧めています。

 

 

 

礼拝の喜びは、キリスト者の心の喜びでもあります。さらに言い足しますと、キリスト者の心が礼拝で得た喜びです。具体的には信仰の喜びであり、キリストの十字架による罪の赦しの喜びです。

 

 

 

わたしたちは、その喜びに生きるために、教会の礼拝に集うのです。そして、主に祈ります。この罪人を赦し、主の恵みにあずからせてくださいと。

 

 

 

すると、わたしたちは気づかされます。実に礼拝にあずかる今が神の恵みの時であり、救いの時であると。そして、神の御言葉と礼典を通して、聖霊に導かれて、わたしたちはキリストの十字架を通して神に愛され、神に罪を赦され、神の子とされていると。

 

 

 

何の功もない者がただ恵みによって神に上諏訪湖畔教会の礼拝に招かれ、神の御言葉をいただき、キリストの救いにあずかり、そして聖霊を通して信仰を与えられています。これを喜ばないで、何を喜ぶのでしょうか。

 

 

 

礼拝だけではありません。キリスト者の人生も同様です。

 

 

 

わたしは、未信者の家庭に生まれました。キリスト教も聖書も知らない前から、主イエスはわたしを知り、時至って教会へと導いてくださいました。そして、教会の礼拝を続ける中で、聖霊がわたしに信仰をお与え下さいました。そして、わたしを教会に結び付け、それからは礼拝人生へと歩ませてくださいました。

 

 

 

わたしは、自分一人でキリスト者になったのではありません。宝塚教会で他のキリスト者たちと共に礼拝し、祈祷会で祈り合い、共にキリストの十字架に感謝し、共に自分の身をささげました。

 

 

 

洗礼は、わたしの人生で一度のことでしたが、それによってわたしは復活のキリストに結び合わされた喜びを知りました。礼拝で聖餐の恵みにあずかるごとに、兄弟姉妹と共に、主イエスの命に共に生されている喜びを教えられました。

 

 

 

わたしは、バークレーという聖書学者の次の言葉を忘れることができません。「いつも喜んでいなさい」。「それは喜びの教会である。教会には教会員に、ちょうど日光を浴びているように感じさせる喜びの雰囲気がある。真のキリスト教は、心を喜び立たせるものであって、意気消沈させるものではない。」と。

 

 

 

わたしは、本当にバークレーの言うとおりだと思います。

 

 

 

本日、礼拝後に甲信地区一日修養会の反省会をします。

 

 

 

反省会というと、ちょっと出たくないなあと思われる方もあるかもしれません。

 

 

 

でも、そこで語られることは、喜びだと思うし、祈りだと思うし、感謝だと思います。

 

 

 

事実、今回は本当に喜びと祈りと感謝を覚えました。

 

 

 

甲信地区の3つの教会と伝道所が一か所に集められ、共にジュネーブ詩編歌を学ぶ機会が与えられました。

 

 

 

今深刻な問題は、礼拝も一日修養会も奉仕者が少ないことです。

 

 

 

だから、修養会の運営に一抹の不安がありました。

 

 

 

しかし、いろいろな不備が、一日修養会の時には初めから終わりまで何事もなく進みました。

 

 

 

わたしは自分が失敗と思ったことを、主が益に変えて下さったことを体験しました。

 

 

 

奉仕者が少ないという不安を、主は客員と求道者の奉仕で助けてくださいました。

 

 

 

そして、わたしは、本日の反省会で一日修養会を喜びと祈りと感謝で終えられることを、うれしく思っています

 

 

 

毎年教会目標と実施項目をかかげ、下半期に入りますと、自分たちが成し遂げられることが少ない、あるいは、ないと落胆します。

 

 

 

でも、本当にそうでしょうか。実は主がわたしたちの弱さを、不足を、未完成を常に補ってくださるのです。

 

 

 

だから、わたしたちは善くても悪くても、主が招かれる礼拝にあずかるだけです。兄弟姉妹たちと子供たちと友たちと共に礼拝をするのみです。主にすべてを委ねて祈り、すべてを主が備え、そして、わたしたちを主が用いてくださり、この教会は昨日のように今日を、昨年のように今年を、「いつも喜び、絶えず祈り、何事にも感謝して」生きることができると良いと思うのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、2018年も、下半期に入り、一か月が過ぎます。

 

 

 

今年度の教会目標と実施項目がどうなるかと気になりますが、それ以上に主がわたしたちのためにすべてを備え、わたしたちが礼拝を喜び、主に祈り、すべてを感謝できるようにしてくださっていることを心に留めています。

 

 

 

どうか、使徒パウロのテサロニケの信徒への手紙一51618aの御言葉を学びながら、喜びと祈りと感謝にわたしたちを生かせてください。

 

 

 

「いつでも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」というパウロの御言葉に力強く支えられ、わたしたちが礼拝に励み、伝道に励み、そして、この教会がこれからも継続されるように励ましてください。

 

 

 

どうか、下半期の教会の歩みを祝福してください。教会の会計を健全に導いてください。教会の世代交代を導いてください。

 

 

 

そのために主よ、あなたの民をこの教会にお集め下さい。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。