クリスマス月間説教01     主の2019年12月1日

 

 

 

 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、「アッパ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。

 

                   ガラテヤの信徒への手紙第章4-7

 

 

 

  説教題:「時が満ちて、女から生まれるキリスト」 

 

上諏訪湖畔教会牧師 足立 正範

 

 おはようございます。今年もクリスマスの季節がやって来ました。キリスト教会の暦では本日121日より1224日までアドベントです。

 

 

 

教会の暦とは、「教会暦」と呼ばれ、キリストの生涯の主な出来事を、1年を通して記念し、祝って行きます。アドベントから教会の新年が始まります。

 

 

 

アドベントとは「待降節」です。アドベントは「到来」という意味です。主イエス・キリストは父なる神の独り子です。その主イエス・キリストが人となられて、この世にきてくださいました。それが主イエス・キリストの来臨です。

 

 

 

キリスト教の言葉で「受肉と降誕」と言います。それがクリスマスです。主イエス・キリストの誕生です。

 

 

 

1225日が主イエス・キリストの誕生日です。クリスマス後を主イエス・キリストの御降誕を祝う降誕節としました。そして主イエスの御受難と十字架の死と復活を祝う四旬節、復活節と続きます。そして主イエス・キリストの昇天と聖霊降臨を祝うペンテコステ、そして再びアドベントとなるのです。

 

 

 

また、プロテスタント教会では、主イエス・キリストの生涯の出来事を言う以外に、宗教改革の記念日を祝いますし、わたしたちの日本キリスト改革派教会の創立記念日を祝いますし、創立日を祝う教会もありますし、召天者を覚える教会もあります。

 

 

 

教会の暦と共に聖書日課が4世紀ごろから生まれました。1年間を教会の暦に従い、礼拝で主イエス・キリストの生涯の出来事に関連する聖書の箇所の御言葉を朗読し、説教することです。

 

 

 

アドベントの季節には旧約聖書の預言書のメシア預言の聖書箇所が朗読され、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書の聖書箇所が朗読され、説教されます。

 

 

 

さて、アドベント、主イエス・キリストの来臨は、二度あります。第一回目がクリスマスの出来事です。父なる神の独り子主イエスが受肉され、処女マリアから聖霊によってお生まれになった出来事です。それを、ヨハネによる福音書は「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と言い、キリスト教会は「キリストの受肉」、クリスマスと呼んでいるのです。

 

 

 

そして、第二回目のキリストの来臨がキリストの再臨であります。十字架に死なれた主イエス・キリストは、三日目に復活し、天に昇天されました。復活された主イエス・キリストは11弟子たちに聖霊をお約束になり、再びキリストの霊である聖霊として弟子たちといつまでもいることを約束され、この世の終わりに再び来ると約束してくださいました。

 

 

 

だから、アドベントの季節に教会は、主イエス・キリストの御降誕を祝う準備をし、世の終わりに来られる主イエス・キリストに備える準備をするのです。

 

 

 

そういう意味でキリスト教会とキリスト者たちにとってアドベントは、主イエス・キリストを待ち望む希望の時であります。

 

 

 

わたしたちは、今朝からのクリスマス月間、主イエス・キリストの御降誕に備えると共に、再臨の主イエス・キリストを待ち望みながら、共にクリスマスのメッセージを聴き、クリスマス讃美歌を歌いましょう。

 

 

 

さて、今朝は、使徒パウロの御言葉から、どのように主イエス・キリストの受肉の信仰が、わたしたちの前に現れたのか、教会のクリスマスの信仰の始まりを学びましょう。

 

 

 

もう一度今朝の御言葉をお読みします。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。(47)

 

 

 

使徒パウロは、主イエス・キリストの12弟子の中に含まれていません。彼は生前の主イエスとは関係がありません。むしろ彼は主イエスに敵対したファリサイ派の人々に属していました。エルサレムの教会を迫害し、外国のダマスコある教会を迫害しようとしました。その途上で彼は復活の主イエスに出会い、ユダヤ教のファリサイ派からキリスト教に回心し、同時に復活の主イエス・キリストから異邦人にキリストの福音を伝える使徒に任じられました。

 

 

 

彼は、シリアのアンティオキア教会から宣教に派遣されて、小アジア、現在のトルコ、ギリシア、イタリアのローマまで、彼の希望として、スペインまでキリストの福音を伝え、教会を建て上げようとしました。

 

 

 

彼が人々に伝えようとしたキリストの福音を、今朝学びますガラテヤの信徒への手紙は生き生きと伝えているのです。

 

 

 

使徒パウロは、アドベントを、すなわちキリストの到来という歴史的出来事を、「時が満ちる」と言っています。

 

 

 

満ちる」というのは、わたしたちが水道の水をコップに入れて、溢れさせた状態のことです。

 

 

 

それを、昔の神の民であるユダヤ人たちは、捕囚からの解放の日にたとえました。

 

 

 

外典と呼ばれる神の民ユダヤ人たちの書物があります。聖書に入れられていませんが、ユダヤ人たちの敬虔な信仰を伝えている書物です。彼らがどんなに迫害に耐え、熱心に祈り、主なる神を礼拝し、服従したか、彼らの信仰が生き生き伝えられています。

 

 

 

その外典の中にトビト記という書物があります。その書物に「時が満ちるまで」を捕囚からの解放にたとえて、こう記しています。「しかし、神は再び彼らを憐れみ、イスラエルの地に連れ帰り、ご自分の家を再建される、しかし、再建されても、定められた時が満ちるまでは、元どおりにはならない」(トビト記14:5 聖書協会共同訳 旧約聖書続編付き 続編P24)

 

 

 

パウロはトビト記を読んでいたでしょう。そして、神の民ユダヤ人の捕囚からの解放を、十字架の主イエス・キリストによる罪からの解放に適用したのです。

 

 

 

だから、彼は、今朝の御言葉で、まず45節でこう言おうとしているのです。「神が定められ、御計画された救いの日が来ました。神は御自分の意志に従って永遠から存在されていた御子なる神を、人間として生まれさせ、しかも、ユダヤ人として生まれさせ、ユダヤ人を通して異邦人にアブラハムの約束の祝福にあずからせるために、この世にお遣わしになりました。その目的は、キリストが十字架で神の呪いとなられて、律法の支配下で奴隷状態にある彼らを買い取り、彼らに神の子の身分を与えるためでした」。

 

 

 

「時が満ちて女から生まれられたキリスト」が十字架のキリストです。十字架のキリストの死は、神の御計画でした。昔神は神の民ユダヤ人たちの先祖アブラハムを神の民としてお選びになりました。

 

 

 

神は彼と契約を結ばれました。神はアブラハムの神となり、アブラハムは神の民となると。そして神はアブラハムに二つのことを約束されました。子を与えることとカナンの地を相続地とするという約束です。その約束によってアブラハムにイサクという子が与えられました。約束のカナンの地、すなわち現在のイスラエルとパレスチナを合わせた地を、アブラハムは相続することはできませんでしたが、将来彼の子孫たちが得るというしるしとして、アブラハムと妻サラを葬る土地を得ました。

 

 

 

使徒パウロは、神とアブラハムとの約束を、メシアであるキリストとそのキリストの御国の相続と理解しているのです。しかもパウロは、神とアブラハムの契約を神の民ユダヤ人だけに限定しませんでした。それ以外の異邦人にも及ぶと考えたのです。

 

 

 

神の民ユダヤ人たちは、神の救いを、捕囚からの解放と理解しました。パウロは神の救いを、罪によって神に呪われた者がキリストの十字架によって神の呪いと永遠の滅びから解放され、贖われて神の子とされ、神の御国の相続人にされることと理解しました。

 

 

 

そのために主イエス・キリストは神とアブラハムの契約を実現するために、神が定められた時に、人間として、アブラハムの末であるユダヤ人として、女から生まれ、神の律法の下に生まれられました。

 

 

 

なぜなら、この世の人はすべて、神の律法を守れず、その律法の支配下に置かれ、罪人として神の呪いと永遠の滅びの下に置かれていたからです。

 

 

 

それゆえ、この世界にはクリスマスの出来事はなくてならないのです。十字架のキリストの死はこの世界の中で神の戒めを守れず、神が「むさぼるな」と命じられたら、むさぼりの罪を犯すわたしたち人間には、女から生まれ、わたしたちと同様に神の律法の下に生まれて、御自身は罪がないのに、わたしたちに代わって神の呪いを受け、わたしたちに代わって神の律法を守り、その従順によって神の義を得て下さる主イエス・キリストが必要です。

 

 

 

主イエス・キリストの従順と十字架の死という神の罪からの解放を、パウロは神がわたしたちを贖うと言っています。「贖い」は奴隷を買い取って、自由にすることです。神は、十字架のキリストによって神の律法の下で罪の奴隷となり、神の呪いによって滅ぶべきものであったわたしたちを贖われたのです。

 

 

 

神の民ユダヤ人でない異邦人であるにもかかわらす、神の民ユダヤ人たちと同様に神の子としてくださいました。

 

 

 

だから、パウロは、ガラテヤの諸教会の異邦人キリスト者たちに、「あなたがたは神と養子縁組を結び神の子とされました」と述べて、続いて67節で、こう述べています。「あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。

 

 

 

キリスト教会では、主イエス・キリストをわたしの救い主と信じ、キリストの十字架がわたしの罪のためであり、キリストの復活がわたしの永遠の命のためであると信じる者に洗礼を授けています。

 

 

 

パウロの御言葉は、洗礼を受けた者がどうして自分が神の子と自覚するのか、罪の奴隷から解放され、神の御国の相続人であると確信するのかを語っているのです。

 

 

 

それは、聖霊と深く関係しています。聖霊は、天にいます父なる神と子なる神キリストがこの世に遣わされた神であり、キリストの霊です。主イエスは、聖霊を助け主と呼ばれています。

 

 

 

眼には見えませんが、キリストの霊である聖霊がいますので、ここに教会が存在し、キリスト者とその仲間が集まり、礼拝がなされています。聖霊がいますので、礼拝の中でこうして神の御言葉である説教がなされ、それをここに集まります者たちは神の御言葉として聞いているのです。

 

 

 

そして、聖霊が聞く者の心に働きかけられるので、聞いた神の御言葉を信じる信仰がわたしたちに与えられます。そしてわたしたちは聖霊に導かれて、心でキリストをわたしの救い主と信じ、口で告白するのです。

 

 

 

だから、ここでパウロは、洗礼のことを語ってはいませんが、教会で行われる洗礼という礼典を前提にして、洗礼を授けられた者たちは、彼らが神の子であるというしるしとして、彼らは、神を「アッパ」と呼ぶ御子霊、すなわち、聖霊を授かりましたと述べているのです。

 

 

 

御子の霊」、すなわち、キリストの霊である聖霊は、キリストが十字架において神とアブラハムとの契約を実現されたことを、異邦人たちに適用してくださるのです。わたしたちを、神の民ユダヤ人でない異邦人も、神との養子縁組を結ばせ、長子であるキリストにつながる神の子としてくださるのです。聖霊がわたしたちを、キリストの十字架のゆえに神の子と保証してくださいます。

 

 

 

このようにパウロは、ここでわたしたちがどのようにクリスマスを喜ぶ信仰を得たのかを語っているのです。

 

 

 

どうか、今朝のパウロの御言葉を心に留めて、クリスマスをお迎えください。1224日に家族で、恋人と共に、あるいは一人で、ケーキを食べ、キリストの御降誕を祝いながら、キリストの十字架によってわたしたちは、この世から神の御国へと招かれている喜びに、共に心を向けようではありませんか。

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、本日よりアドベントに入りました。

 

 

 

わたしたちは、クリスマス月間として本日より22日までの4主日にクリスマスのメッセージを聴き、クリスマス讃美歌を歌い、主を崇め、賛美します。

 

 

 

どうか、この礼拝を祝し、わたしたちの家族を、知人を、教会の近隣の方々を、諏訪地方の方々をお集め下さり、共にクリスマスを祝わせてください。

 

 

 

「時満ちて女からうまれられたキリスト」に、わたしたちの心を向け、クリスマスに備えることができるようにお導きください。

 

 

 

どうかクリスマスに、被災された方々と共に、孤独と不安の中に入る方々と共に、そして家族と共に、この町の人々共に、キリストの恵みの光を見させてください。

 

 

 

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 クリスマス月間説教02     主の2019年12月8日

 

 

 

 あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。

 

                   コリントの信徒への手紙二第8章9節

 

 

 

  説教題:「貧しくなられたキリスト」 

 

上諏訪湖畔教会牧師 足立 正範

 

 おはようございます。わたしたちの教会で一緒にクリスマスのメッセージを聴き、クリスマス讃美歌を歌えることを、神さまに感謝します。礼拝後にティ-タイムを設けていますので、しばらくお交わりいただければ幸いです。

 

 

 

 さて、キリスト教会は121日より24日までアドベントの時を過ごします。アドベントは、「到来・来臨」という意味です。キリストがわたしたちの世界に来られたクリスマス、すなわち、キリストの御降誕と将来来られるキリストの再臨に備える時であります。喜びとヘリ下りの心をもって1225日のクリスマスに備えるのです。

 

 

 

 先週に続きまして、今朝も聖書の御言葉からクリスマスは、主イエス・キリストがわたしたちのために貧しくなってくださった出来事であることを学びましょう。

 

 

 

 先週に続いて使徒パウロの手紙を、今朝はコリントの信徒への手紙二第89節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

使徒パウロは、生まれながらのユダヤ人で、主イエスと敵対関係にあったユダヤ教のファリサイ派に所属する者でした。彼は、若いころ、キリスト教会とキリスト者を迫害しました。エルサレム教会とエルサレムの都に住むキリスト者たちを逮捕し、牢獄に入れました。そして大祭司に許しを得て、外国のダマスコに住むキリスト者たちを捕えて獄に入れようとしました。そのダマスコに行く途上でパウロは復活の主イエス・キリストに出会い、ユダヤ教からキリスト教に回心したのです。

 

 

 

使徒パウロにとってはキリスト者となることと使徒の働きに召されることは同時でした。復活の主イエスは、彼を異邦人にキリストの福音を伝える使徒に召されました。彼は、シリアのアンティオケ教会から派遣されて、3度の伝道旅行をし、小アジア、現在のトルコの国とヨーロッパのギリシアの国で福音宣教し、キリスト教会を開拓伝道しました。

 

 

 

コリント教会は、彼が第2回目の伝道旅行でコリント市に一年半滞在し、福音宣教し、開拓伝道した教会です。商業が栄えた豊かな町であり、教会の中には富裕層のキリスト者たちがいました。

 

 

 

使徒パウロは、コリント教会のキリスト者たちに幾通もの手紙を書き送りましたが、新約聖書にはコリントの信徒への手紙一と二の二通だけが収められています。

 

 

 

今朝のコリントの信徒への手紙二の89節は、パウロのクリスマスのメッセージです。

 

 

 

そのメッセージがこの手紙の8章と9章でパウロがコリント教会のキリスト者たちに貧しいエルサレム教会に募金を送ることを訴えている中で語っているのです。

 

 

 

エルサレム教会は、聖霊によって最初に生まれたキリスト教会であり、すべての教会の母教会です。

 

 

 

復活された主イエス・キリストが昇天された後、10日目に復活の主イエスは聖霊を遣わされました。エルサレムの都にいる120名の主イエスの弟子たちの上に聖霊が下りました。彼らは、いろんな国々の言葉で、ペンテコステの日にエルサレム神殿に巡礼に来ていた人々に、キリストの福音を伝えました。そして神殿で使徒ペトロが説教しました。それを聴いた人々が3000人、主イエスを信じて洗礼を受け、キリスト者になりました。

 

 

 

そしてエルサレム教会はサマリア、シリアへと福音宣教し、キリスト教会を建て、さら、シリアのアンティオケ教会がパウロたちを遣わして、ヨーロッパまで福音宣教し、キリスト教会を建てました。その教会の一つがコリント教会です。

 

 

 

使徒パウロは、エルサレム母教会の困窮しているキリスト者たちを経済的に支援するため、コリント教会のキリスト者たちに募金を訴えました。それが、この手紙の8章と9章です。

 

 

 

パウロは、マケドニアにある、すなわち、現在のギリシアの国にあるマケドニアの諸教会のキリスト者たちを模範の例に挙げて、コリント教会のキリスト者たちにキリストの恵みによる信仰の喜びから出る自発的な献金を訴えています。

 

 

 

パウロがここで募金を訴えるのは、ただお金が目的ではでありません。募金の根拠はキリストの恵みです。コリント教会のキリスト者が貧しいエルサレム母教会を経済的に支援することは、彼らにとってキリストの恵みなのです。

 

 

 

なぜなら、キリストによって彼らがどんなに豊かにされ、祝福されているかを、それによって証しするからです。さらにその募金によってコリント教会のキリスト者はエルサレム母教会のキリスト者たちとキリストにあってひとつに結び合わされるのです。共に同じ唯一の主を礼拝し、主に在って兄弟姉妹という交わりを持つのです。

 

 

 

わたしたちの上諏訪湖畔教会を見てください。東部中会の諸教会のキリスト者たちの祈りと献金によって支援されています。それによってわたしたちは共にキリストの恵みに感謝し、礼拝し、奉仕し、中会において兄弟姉妹の交わりをしています。

 

 

 

 パウロは、814節で献金という行為が「釣り合いが取れるようにする」ことだと述べています。今日の言葉で言えば、神の恵みによって豊かにされたキリスト者は、自発的に献金によって自分の豊かさを貧しい者たちとシェア、分かち合うということです。パウロにとって、献金というキリスト者の行為は、分かち合うことによってわたしたちの教会への愛、兄弟姉妹への愛を証しするものなのです。

 

 

 

そしてそのわたしたちの愛の動機を、9節でパウロはコリント教会のキリスト者たちに「あなたがたはキリストの恵みを知っています」と述べているのです。

 

 

 

あなたがたはキリストの恵みを知っています」を、イングリシュバイブルは、「あなたがたは、どんなにわたしたちの主イエス・キリストが寛大であったか(気前良かったか)を知っています」と訳しています。

 

 

 

恵み(カリス)」を寛大、気前良さと意訳しています。わたしたちは、キリストの恵みを知っているのです。キリストを通してどんなに神は気前よく、わたしたちの罪に寛大なお方であるか、よく知らされているのです。

 

 

 

コリント教会のキリスト者たちは、毎週の礼拝で説教を通して、洗礼と聖餐という礼典を通して、父なる神は、わたしたちの父として、わたしたちの救いのために御自身の独り子である主イエスをこの世に遣わされ、いかに主イエス・キリストがわたしたちのためにその身を犠牲にされたかを、父なる神の気前良い、寛大な愛と御子キリストの十字架の愛を知らされているのです。

 

 

 

 パウロは、コリント教会のキリスト者たちに募金を勧めて、マケドニア諸教会の貧しいキリスト者たちを模範に挙げて、次のように勧めました。「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。」(Ⅱコリント8:2)

 

 

 

彼らの「人に惜しまず施す豊かさとなった」、その原型を、使徒パウロはキリストの受肉、すなわち、クリスマスと十字架のキリストに見ているのです。

 

 

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された(ヨハネ3:16)。この御言葉こそ神の気前良い、寛大な愛を、神の人に惜しまず施す豊かさを証ししています。キリストの受肉、クリスマスとキリストの十字架を通しての神の愛を証ししています。

 

 

 

 その神の愛に答えるように、パウロはコリント教会のキリスト者たちに次のように9節で述べたのです。「すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。

 

 

 

 「主が豊かであった」とは、先在のキリストのことです。この世界に来られる前のキリストです。永遠から父なる神の独り子なる神です。だから、このお方を通して世界が創造されました。キリストはすべてのものの所有者であり、栄光に富むお方でした。

 

 

 

父なる神は、寛大で、気前よくわたしたちを罪と永遠の死の滅びから救うために、神の独り子を一人の貧しい人として、この世に遣わされたのです。

 

 

 

この世界と人間の創造主が、聖霊を通して、処女マリアから生まれられ、貧しい大工の子として育たれ、貧しき者、罪人の友となり、そしてわたしたちの救いのために十字架の上で死なれました。

 

 

 

パウロは、神の独り子である主イエスがクリスマスという出来事を通して貧しくなられ、さらに十字架の死という悲惨の極みまで貧しくなられたのは、わたしたちを豊かな者とするためであったと述べています。

 

 

 

 「あなたがたを豊かな者とするために」とは、コリント教会のキリスト者たちをキリストの復活にあずかることのできるようにするためということです。

 

 

 

父なる神は、わたしたちキリスト者たちを、復活のキリストの命にあずからせ、キリストと共に御国の相続者としてくださいました。これがわたしたちキリスト者を豊かな者とすることです。

 

 

 

だから、パウロは、この喜びを経験し、この手紙の610節で、このように証ししています。「悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

 

 

 

パウロが言うこのキリスト者の喜びこそ、復活のキリストの命にあずかる者の喜びです。聖霊によって体験するキリストの恵みです。このキリストの恵みを知るゆえに、感謝の応答として、わたしたちは心から喜び、自ら進んで献金をし、この身を神にささげるのです。

 

 

 

教会では、毎月1回聖餐式が執り行われます。わたしたちの信仰を強め、わたしたちに神の御国の前味を味わわせるキリストの恵みであります。

 

 

 

その聖餐式の場でわたしたちはキリストの恵みにあずかる喜びと共に、自らの罪の悔い改めを迫られるのです。

 

 

 

その時わたしたちは、自責の念に苦しむことはありません。なぜならキリストは、クリスマスを通してわたしたちになってくださったからです。罪と永遠の滅びからキリストの十字架によって救われたのに、なおこの世において罪の中にあるわたしたちと共に今もいてくださいます。そして日々御国に至るまでわたしたちを執り成してくださいます。

 

 

 

だから、貧しくなられたキリストのゆえに、わたしたちは日々豊かにされ、確実に神の御国の相続人にされます。

 

 

 

キリストが再臨された時にどんなにキリストの貧しさによって、わたしたちが富む者とされたかを見る喜びが、この教会の礼拝にあるのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、先週よりアドベントに入り、今朝アドベントの第二週に入り、クリスマス月間の第二週の礼拝を守ることがゆるされ感謝します。

 

 

 

22日までクリスマスのメッセージを聴き、クリスマス讃美歌を歌い、共にクリスマスを祝うことができるようにしてください。

 

 

 

どうか、この礼拝に、わたしたちの家族を、知人を、教会の近隣の方々を、諏訪・伊那・松本地方の方々をお集め下さり、共にクリスマスを祝わせてください。

 

 

 

「貧しくなられたキリスト」によって、わたしたちがどんなに豊かなものとされているか、わたしたちが与えられている神の恵みを分かち合うことで、証しさせてください。

 

 

 

どうかクリスマスに、被災された方々に、仮設住宅や路上生活で孤独と不安の中に入る方々に、そして家族に、この町の人々に、キリストの恵みの光を見させてください。

 

 

 

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

クリスマス月間説教03           主の2019年12月15日

 

 

 

 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 

ルカによる福音書第2章1-7節

 

 

 

  説教題:「イエスの誕生」 

 

上諏訪湖畔教会牧師 足立 正範

 

 おはようございます。アドベントの第三週を迎えました。次週はクリスマス礼拝です。

 

 

 

「アドベント」とは、「到来」、「来臨」という意味のラテン語です。昔ローマ帝国時代の人々は、この言葉をローマ皇帝が国や都市を訪問する時に、ローマ皇帝の現存、到着を、アドベントと言っていたのです。

 

 

 

その言葉を、初代教会は主イエス・キリストの到来、来臨に用いたのです。神がキリスト者たちに栄光と光輝の内に顕現され、到来される。それがクリスマス、すなわち、神の独り子キリストの受肉と再臨です。

 

 

 

ですから、キリスト教会は、アドベントの季節にキリストの御降誕、クリスマスとキリストの再臨に向けて、キリストを迎える心の準備をするのです。

 

 

 

そのためにアドベントの4主日の礼拝で一緒にクリスマスのメッセージを聴き、クリスマス讃美歌を歌うことは、理に適ったことであると思います。

 

 

 

礼拝に来られない兄弟姉妹たちとこの町の人々やわたしたちの家族と共に、一緒に集まり、心を一つとし、神を崇め、賛美し、一緒にクリスマスのメッセージを聴き、一緒にキリストの御降誕を賛美し、クリスマスを祝いましょう。

 

 

 

 今朝は、クリスマスの物語です。父なる神の独り子キリストが、幼子イエスとしてお生まれになられた物語です。

 

 

 

 歴史書の叙述とは区別された、歴史を叙述するより物語るという形式で、ルカによる福音書は記されています。

 

 

 

 比較的短い文書で、主イエス・キリストの御降誕が物語られています。旧約聖書のルツ記、エステル記、ヨナ書と同じです。それらの書物は短い文書で、歴史において起こった出来事を一般の歴史書のように叙述するのではなく、むしろ読者に物語り、主人公の数奇な運命を伝えています。

 

 

 

 言葉にすれば、誤解を生むかもしれませんが、わたしは、事実を物語文学の形式を使って伝えていると思います。それが、福音書というものです。

 

 

 

 ルカによる福音書の一つの特色は、神の独り子主イエス・キリストの受肉、すなわち神が人となられたという出来事を、世界史の出来事として物語ることです。

 

 

 

 それが、ルカによる福音書の212節の御言葉です。「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。

 

 

 

 「皇帝アウグストゥス」は歴史上の人物です。「アウグストゥス」は、「尊厳ある者」という意味です。ローマ帝国の最初の皇帝オクタウィアヌスのことです。紀元前27年にローマの元老院がオクタウィアヌスに「アウグストゥス」という称号を贈りました。

 

 

 

 ですから、ローマ帝国の最初の皇帝オクタウィアヌスが統治していた時代に、主イエス・キリストがユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。紀元前6年に生まれられたと考えられています。

 

 

 

 皇帝アウグストゥスは、告示を通してローマ帝国全体を対象とした租税台帳への登録命令を発しました。

 

 

 

 そしてこの登録は、属州シリアの総督キリニウスの下でガリラヤおよびユダヤで実施されました。

 

 

 

 それによって主イエスの父ヨセフと母マリアはガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムまで旅立たなければなりませんでした。

 

 

 

 今日ルカによる福音書がどんな資料を用いてアウグストゥスのこの勅令を物語っているのか、ここに物語られている以上のことは分かりません。

 

 

 

 しかし、ルカによる福音書がわたしたち読者に世界史の出来事の中でイエスは誕生されたということを伝えようとしていることは分かるでしょう。

 

 

 

わたしたちの実存を考えて見てください。今日テレビやインターネットの普及でわたしたちは、日々世界のニュースを聞きながら、日々日常を過ごしています。滅多にないとしても、テレビやインターネットで伝えられた世界のニュースがわたしたちの家庭に影響を与えることもあります。

 

 

 

同様にローマ帝国の皇帝アウグストゥスが租税台帳の登録をせよと勅令を出した出来事が、ヨセフとその婚約者マリアにガリラヤのナザレの村からユダヤのベツレヘムの町まで登録のために旅するという困難な状況を生み出しました。

 

 

 

45節でルカによる福音書はわたしたち読者にこう物語ります。「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。

 

 

 

ヨセフは、「ダビデの家に属し、その血筋であった」。すなわち、ダビデ王、紀元前1000年にダビデ王国、イスラエル王国を築いた王の子孫です。

 

 

 

主なる神は、預言者ナタンを通してダビデ王と恵みの契約を結ばれました。主なる神はダビデと彼の子孫の神となり、ダビデと彼の子孫は神の民となるという契約です。主なる神は、一方的な選びによってダビデをイスラエルの王として選ばれ、彼の家系を保護されました(サムエル記下7)

 

 

 

その後、主なる神から遣わされた預言者たちは、ダビデの血筋からメシアが生まれると預言し(イザヤ書等)、預言者ミカはミカ書に「エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」と預言したのです。

 

 

 

その「ベツレヘム」は「ダビデの町」と呼ばれ、ダビデ王の出身地で、彼の子孫であるヨセフの町でもありました。だから、彼は租税台帳に登録するために、自分の町ベツレヘムに帰ったのです。

 

 

 

出産の近いマリアと共に旅することは、大変だったでしょう。ベツレヘムの町に到着してからも、さらに大変でした。

 

 

 

ルカによる福音書はわたしたちにこう物語り、伝えています。「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

 

 

 

 ヨセフとマリアがベツレヘムの町に滞在中に、マリアが出産の日を迎えてしまいました。初めての子は男の子でした。その子を布で包み、馬小屋の飼い葉桶に寝かせました。宿屋は登録の人々で込み合い、彼らが泊まれる部屋がありませんでした。そこでマリアは馬小屋で出産し、主イエスは家畜の糞尿が匂う馬小屋で生まれられたのです。

 

 

 

 旧約の預言者たちが預言したメシアは生まれられたのです。そのために神は、ローマ帝国の皇帝アウグストゥスをお用いになりました。世界の出来事を通して、キリストは生まれられました。

 

 

 

 旧約の預言者たちが預言した通り、ダビデの家系から、ダビデの血筋から生まれられました。

 

 

 

 預言者ミカが預言した通り、ダビデの町ベツレヘムで生まれられました。

 

 

 

しかし、主イエス・キリストは王の子として生まれられたのではありません。ガリラヤのナザレ村の貧しい大工の子として生まれられました。王宮ではなく、家畜小屋で生まれられました。

 

 

 

ルカによる福音書は、わたしたちにイエスの誕生をこのように物語ることによって、これが神の子が人の子として生まれられた歴史的事実であると伝えているのです。

 

 

 

ルカによる福音書は、わたしたち読者にこのようにキリストの貧しい誕生を物語ることで、このように神が人となられて、わたしたちのために貧しくなられない限り、この罪の世界に生きる人間の救いはないことを伝えようとしているのです。

 

 

 

神に背を向けて生きるわたしたち人間に、最終的に訪れるのは、死と滅びです。誰も死から逃れられません。その先に永遠の滅びという闇が待ち受けているのです。

 

 

 

この世の世界史の出来事の中で、わたしたちが知る真実は、高貴な者も貧しく卑しき者の共に死ぬという真理です。

 

 

 

人は流れる川のように、世界史という歴史の川の中で生まれて、死ぬのです。その繰り返しです。人類の始祖アダムが神の御前で罪を犯して以来、世界史の中ですべての人は、その罪に死ぬのです。罪の縄目と死の罠から逃れることの出来る人は誰もいません。

 

 

 

だから、神御自身が人となって、この世界史の中に来られたのです。天から下られ、この世で最も貧しい者となられました。最も絶望的な者となられ、ゴルゴタの刑場で人の罪を担って十字架の刑罰を受けて、死なれたのです。そして、三日目に復活されたのです。主イエス・キリストは罪と死に勝利されました。

 

 

 

クリスマスは、わたしたちを人類の唯一の救いの活路へと導いてくれます。

 

 

 

神の独り子が受肉し、生まれられたことは、世界史の出来事です。しかし、生まれられた主イエスを、神の子、わたしたちの救い主と信じるのは、この聖書の啓示によるのです。

 

 

 

だから、キリスト教は聖書の宗教であり、聖書は事実を物語り、その事実は聖霊によってわたしたちに信仰が与えられ、信じることができるのです。

 

 

 

このように聖書が物語るクリスマスは、世界史の中の出来事であり、聖霊なる神によってわたしたちが信仰を得る時に、わたしたち自身が救われる神の救いの物語となり、その物語を、わたしたちはキリスト者として証しする使命を与えられています。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、アドベントの第3周に入りました。今朝は、ルカによる福音書を通してイエスの誕生について学ぶ機会が与えられ感謝します。

 

 

 

世界史の中のクリスマスの出来事が、聖霊なる神の導きにより、信仰によってわたしたちの救いの物語となる喜びを知らされて感謝します。

 

 

 

22日のクリスマス礼拝で、もう一度クリスマスのメッセージを聴き、クリスマス讃美歌を歌い、共にクリスマスを祝うことができることを感謝します。

 

 

 

どうか、クリスマス礼拝に、わたしたちの家族を、知人を、教会の近隣の方々を、諏訪・伊那・松本地方の方々をお集め下さい。共にクリスマス祝会を祝わせてください。

 

 

 

馬小屋に生まれて、貧しくなられた主イエスによって、わたしたちがどんなに豊かなものとされ、罪を赦され、永遠の命が与えられ、死から御国への希望に生かされていることを感謝し、この神の恵みを証しさせてください。

 

 

 

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

2019年クリスマス月間(クリスマス礼拝)説教04    主の20191222

 

 イエスは、ヘロデの時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

 

 

 

 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているかと問いただした。

 

 

 

 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さなものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

 

 

 

 そこでヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せて、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。

 

 

 

 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

 

 

 

 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 

マタイによる福音書第2112

 

 

 

 説教題:「クリスマスの喜び」

 

クリスマスおめでとうございます。

 

 

 

今朝は、マタイによる福音書第2112節の御言葉から「クリスマスの喜び」をこの礼拝で、そして礼拝後のクリスマス祝会で共にしましょう。

 

 

 

今朝は、東方の占星術師たちが生まれられた幼子主イエスを旅して、尋ね、見いだし、喜びに満たされて礼拝したというクリスマスの喜びをご一緒に聖書から聴こうではありませんか。

 

 

 

マタイによる福音書は、今朝の御言葉でわたしたち異邦人たちに主イエス・キリストの救いの喜びを伝えるために東方の占星術師たちがベツレヘムで生まれられた幼子主イエスを訪問し、礼拝したという出来事を物語っているのです。

 

 

 

「異邦人たち」とは、神の民イスラエル以外の世界にいる諸民族です。神の民から見れば、異邦人たちは主なる神を知りません。主なる神の律法を守ることもできません。主なる神の怒りと刑罰により永遠に滅ぶべき者たちであります。

 

 

 

しかし、神の民たちの思いを越えて、主なる神は滅ぶべき異邦人たちも、主イエス・キリストによって救い、祝福する御計画を立て、この世界の歴史の中で実行されました。

 

 

 

だから、マタイによる福音書は、わたしたち異邦人たちに主イエス・キリストの救いの喜びを伝えるために、アブラハムからの系図で始め、東方の占星術師たちが幼子主イエスを見つけて礼拝をしたということを物語っているのです。

 

 

 

では、マタイによる福音書が語りかけるクリスマスに耳を傾けましょう。

 

 

 

1節で「イエスは、ヘロデの時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。」と記しています。これは、2章全体の見出しです。

 

 

 

この見出しで、マタイによる福音書は、わたしたち読者に、すなわち、異邦人たちに幼子主イエス・キリストの3つの物語を記しています。

 

 

 

その第一の物語が112節の御言葉です。ベツレヘムにお生まれになられた幼子主イエスを、東方の占星術の学者たちが拝みに来たことです。

 

 

 

第二の物語は、1318節の御言葉です。ヘロデ大王が幼子主イエスを迫害し、幼子主イエスと両親がエジプトに逃れ、ベツレヘムの幼子たちが虐殺されたという悲劇の物語です。

 

 

 

第三の物語が1923節の御言葉です。ヘロデ大王の死後、主イエスと家族がエジプトから帰国し、ガリラヤのナザレの村に住まわれたという物語です。

 

 

 

マタイによる福音書は、わたしたち読者に歴史的事実を物語の文学的形式で伝えようとしています。特にマタイによる福音書が強調しているのは、2章のすべての出来事が旧約聖書で主なる神が預言者の口を通して預言されていたことの実現であるという証言です。

 

 

 

 ヘロデ大王がユダヤの国を支配していた晩年に、ユダヤの国エルサレムの都で、一つの事件が起こりました。

 

 

 

 1節後半から2節です。「そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

 

 

 

東の方から」とは、現在のイランの国、昔のペルシャの国です。占星術の学者たちがユダヤの国エルサレムの都を訪れました。

 

 

 

占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て」とは、ペルシャの国から祭司階級の人たち、すなわち、占星術の学者たちが西方に輝く星を観測し、ユダヤの国に新しい王が生まれたと知り、エルサレムの都を訪れて来たということです。

 

 

 

マタイによる福音書の1節の「そのとき」は、「見よ」という驚きを表す言葉です。ペルシャの国からメシアを尋ねて異邦人の占星術師たちが来たということは、驚くべき出来事だと、証言しているのです。

 

 

 

クリスマスの喜びに招かれたのは、ヘロデ大王でも、エルサレムの都に住む祭司長や律法学者たちでもなく、神の民ユダヤ人が軽蔑していた異邦人たちだったのです。

 

 

 

東方の占星術の学者たちだったのです。

 

 

 

彼らは異邦人である以上に、神に忌み嫌われた魔術師たちでした。旧約聖書に申命記という書物があり、神の人モーセが神の民に神の御心を伝え、神に呪われた者であると告げられている者たちのリストに、この占星術の学者たちも含まれていました(申命記18:1112)

 

 

 

だから、マタイによる福音書は、わたしたち読者に占星術の学者たちが主イエスの誕生、救い主の誕生という神の喜びの出来事に招かれたことを、「見よ」と驚きをもって伝えているのです。

 

 

 

占星術師は、「マゴス」というギリシャ語で、星を占う魔術師です。彼らは夜空の星を観測し、その年が豊作か、不作かを占い、あるいは、国や人の運命を占いました。

 

 

 

彼らが夜空の星を観測していると、ユダヤの方角に希望の星が輝いているのを見つけました。そこで彼らは、その星を道しるべとして、新しく生まれた王に会おうと、エルサレムの都まで旅をして来ました。

 

 

 

だから、彼らはヘロデ大王に謁見し、尋ねたのです。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と。

 

 

 

ところが、彼らの言葉を聞いた王とエルサレムの人々の反応は、喜びではなく、恐怖でした。

 

 

 

これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。(3)

 

 

 

彼らの質問にヘロデ大王は自分の地位が危うくなると不安を覚えました。エルサレムの人々はヘロデ大王が疑心暗鬼で人々を殺すのではないかと恐怖を抱きました。

 

 

 

次にマタイによる福音書は、わたしたち読者にさらに驚くべきことを証言します。

 

 

 

王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さなものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」(46)

 

 

 

占星術師は、彼らの星の観測によってではなく、聖書の御言葉によって救い主イエス・キリストへと導かれたのです。

 

 

 

ヘロデ大王は聖書の専門家を集めました。民の祭司長たちや律法学者たちです。彼らは旧約聖書から救い主がどこに生まれると預言されているかをよく知っていたのです。

 

 

 

それは、旧約聖書のミカ書51節です。「『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さなものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』

 

 

 

ベツレヘムの町はダビデの王の生まれた所です。祭司長たちと律法学者たちはダビデ王の子孫から、ダビデ王の生まれたベツレヘムで、メシア、救い主が生まれることを、旧約聖書から知っていたのです。

 

 

 

しかし、聖書の専門家であっても、主なる神が招かれなければ、幼子主イエスのところに行こうという思いは与えられません。これが人の知識の限界です。心が動かされないと、人は行動しません。

 

 

 

ヘロデ大王も同じです。彼も聖書からメシアの誕生と場所を知りましたが、心を動かされることはありませんでした。

 

 

 

だから、マタイによる福音書は、わたしたち読者にこう伝えています。「 そこでヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せて、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。

 

 

 

ヘロデ大王は、占星術の学者たちをひそかに呼び寄せました。そして、いつその星が現れたかを確かめました。そして王は彼らに「行って、その子とのことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ」と頼み、「わたしも行って拝もう」 と言いました。しかし、彼は行動を起こしませんでした。主なる神に招かれていなかったからです。

 

 

 

マタイによる福音書は、東方の占星術の学者たちが聖書の御言葉と彼らが観測した星に導かれて、ベツレヘムの町に行き、幼子主イエスを礼拝したと、次のように物語っています。

 

 

 

 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(911)

 

 

 

さて、占星術の学者たちが聖書の御言葉に示され、エルサレムの都を出発しますと、東方で見た星が現れ、星は彼らをベツレヘムの幼子主イエスのおられる場所へと導きました。

 

 

 

実は、9節に「見よ」という驚きを示す言葉があります。「彼らは王に聞いて出かけた。見よ、東で見た星が彼らを導き、進んで幼子がいる所の上で止まった」

 

 

 

主なる神が為さる奇跡に導かれて、占星術師たちはベツレヘムの町におられた幼子主イエスのところへと導かれました。

 

 

 

マルコによる福音書は、10節で「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」と記しています。直訳するとこうです。「それでその星を見て、彼らは非常に大喜びで喜んだ」

 

 

 

イングリシュバイブルは、占星術師たちの喜びを「オーバージョイ」と英語で表現しています。

 

 

 

ウェストミンスター小教理問答の問1と答に「人生の主な目的は何ですか。」「人生の主な目的は神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」とあります。

 

 

 

この喜びは、インジョイという英語で表現されています。永遠に喜ぶとは、終始、絶えず喜んでいることでもあります。ショイには、神を味わい楽しむという意味もあります。

 

 

 

マタイによる福音書は、わたしたち読者に彼らの喜びの姿を、次のように証言します。

 

 

 

 彼らは観測した星を再び見出した。その星は、彼らを豊年か凶作かを占うことに、あるいは、どこかの国に新しい王が生まれたというお祝いに導くのではなく、彼らの救い主、彼らが真に礼拝すべきお方へと導いてくれた。主なる神に忌み嫌われる魔術師たちが、神の民に先立って幼子キリストに招かれた。

 

 

 

彼らは、それを大いに喜ばずにはいられませんでした。いつまでも楽しまないではおれませんでした。それが、彼らが幼子キリストを礼拝するということだったのです。

 

 

 

彼らは地上の偉大な王を求めてユダヤまで旅をし、その旅の途上で聖書の御言葉に出会い、その聖書の御言葉に導かれて、彼らが捜し求める王がこの世の支配者ではなく、神の御子キリストであり、彼らが真に礼拝すべきお方であることを知らされたのです。

 

 

 

ですから、占星術の学者たちは家に入り、マリアと共におられる幼子主イエスを礼拝し、黄金、乳香、没薬を献げました。

 

 

 

彼らの献げものは、彼らの幼子主イエスへの献身のしるしです。

 

 

 

マタイによる福音書がわたしたち読者に伝えようとすることは、クリスマス、「神、わたしたちと共にいます」というクリスマスの喜びは、礼拝への招きとして、常に今臨在されるキリストへと招かれる喜びであるということです。

 

 

 

わたしたちも彼らと同じではありませんか。

 

 

 

わたしは異邦人の家庭に生まれ、キリスト教の大学で聖書とキリスト者の教師に出会い、宝塚教会に導かれました。

 

 

 

そこにキリストがこの礼拝と同じように臨在されていました。

 

 

 

わたしは宝塚教会へと招かれ、礼拝し始めて1年と3か月で、洗礼を受けてキリスト者となりました。聖書の説き明かしである説教を聴き続けているうちに、キリストの十字架によってわたしの罪が赦され、キリストを信じる信仰によって神に義とされ、神の子としていただいたという喜びを味わいました。

 

 

 

占星術の学者たちは幼子キリストを礼拝し、黄金、乳香、没薬を献げ、彼らの残された人生のすべてをキリストに献げて生きることを表しました。

 

 

 

わたしたちも同じです。

 

 

 

毎週主の日の礼拝に招かれ、キリストの御救いを喜び、キリストを礼拝し、献金をもって自らの献身を示し、自分の人生をキリストに献げて生きることを表しているのです。

 

 

 

クリスマスの喜びは、わたしたちを礼拝の喜びへと導き、神がわたしたちと共にいてくださる、その神を、わたしたちは永遠に喜び生きているのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、東方の占星術の学者たちのように、あなたはわたしたちをキリストの臨在される礼拝にお招きくださり感謝します。

 

 

 

願わくは、この「クリスマス月間」を通して、わたしたちと共に、わたしたちの家族、知人、この町の人々を、礼拝へとお招きください。

 

 

 

どうか、聖霊よ、聖書の御言葉を通して、礼拝の中に、神、わたしたちと共にいますというクリスマスの今を、その喜びを味わわせてください。

 

 

 

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。