2019年度教会聖句による説教01       主の2019127

 

また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。

 

            使徒言行録第1423

 

 

 

 説教題:「持続可能な教会を目指して」

 

 今朝は、使徒言行録第1423節の御言葉から学びましょう。

 

 

 

 使徒言行録は、常に使徒パウロの異邦人伝道に同伴し、彼の弟子であったルカが使徒ペトロとパウロの伝道を記録したものです。

 

 

 

使徒言行録は2部構成になっています。

 

 

 

1章から1535節が第一部です。

 

 

 

主に3つのことを記録しています。第一に聖霊が降臨し、エルサレム教会の12使徒たちがエルサレム神殿を中心に宣教し始めたことです。12使徒のひとり、ペトロの働き、すなわち、彼の説教と奇跡を記録しています。エルサレムからパレスチナ、シリアへと教会の宣教が広がります。

 

 

 

第二にギリシア語を話すキリスト者たちの存在を記録しています。その代表がステパナとパウロ(サウロ)です。ステパナの殉教とパウロの回心と彼が異邦人の使徒に召されたことを記録しています。

 

 

 

第三に最初の異邦人教会が生まれ、シリアのアンティオキア教会が使徒パウロとバルナバを第1回伝道旅行に派遣したことを記録しています。

 

 

 

彼らは多くの異邦人たちをキリスト教信仰に導き、諸教会を設立しました。その結果、エルサレムで使徒会議が開かれました。その会議で異邦人キリスト者たちがモーセ律法に拘束されないことを公に認めたことを記録しています。

 

 

 

1535節以下が第二部です。使徒パウロが地中海世界に、ギリシア・ローマ世界へと宣教したことを記録しています。

 

 

 

使徒言行録は、キリスト教会とキリスト者たちを3つの面から記録しています。

 

 

 

第一は、社会的な面です。

 

 

 

聖霊が降られ、使徒ペトロの説教に代表されるように、エルサレム神殿で使徒ペトロが語る御言葉への聴聞という出来事によって多くのキリスト者たちが生まれました。

 

 

 

使徒言行録は、2章でペンテコステの日の出来事を記録しています。その日に三千人のユダヤ人たちがエルサレム神殿で使徒ペトロの説教を聞き、聖霊によって心動かされ、彼らが十字架につけたキリストが復活されたと聞いて、彼らは自らの罪を知り、主イエスがキリストであることを信じたと。

 

 

 

ペンテコステの日以来、2000年間、教会の礼拝で御言葉を聴聞するという出来事を通して、キリスト者が生まれました。彼らは神の民であることを自覚し、この世に、社会の中にキリスト教会という共同体を形成しました。

 

 

 

第二は実存的な面です。

 

 

 

キリスト者はキリストのリアル・プレゼンスに生きる者たちであるということです。リアル・プレゼンスとは、「キリストの現在」という意味です。「今、ここにキリストがいます」という、常に主イエスの御前に生きることが、キリスト者として今あるという意味です。

 

 

 

牧田吉和先生が「改革派信仰とは何か」という本を書きになりました。その本の中で牧田先生は「改革派信仰とは<神の御前に>徹底的に生きる信仰である」と言われています。

 

 

 

そして、牧田先生は、「信仰には<信じる>という“生命的な事実”が何よりも前に存在するし、存在しなければならない」と書かれています。

 

 

 

キリスト者は、この世にあって主イエスを信じることで、神の命に参与している者です。その具体的な姿が、礼拝するキリスト者です。主の御言葉を聴従し、聖餐の恵みにあずかるキリスト者です。

 

 

 

使徒言行録は931節で「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」と記録しています。

 

 

 

初代教会のキリスト者たちは神の御前に徹底して生きました。彼らは教会の礼拝で神の命に参与しました。だから、彼らは常に復活の主と共にあり、どんな迫害の時も、絶えず喜びに溢れていたのです。その喜びに周りの者たちが教会に誘われ、教会は迫害の中で増え続けました。

 

 

 

第三に、使徒言行録は使徒パウロたちが教会の指導的基盤を確立したことを記録しています。「弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。」と。

 

 

 

復活の主イエスは、11弟子(使徒)たちに大宣教命令を告げられました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。(マタイ28:19-20)

 

 

 

使徒パウロとバルナバは、主イエスの御命令を忠実に守りました。彼らは異邦人たちにキリストの福音を語り、主イエスを信じた彼らに洗礼を授けて、彼らをキリストの弟子、すなわち、キリスト教会の一員としました。

 

 

 

そして、使徒パウロは、「弟子たちのため」教会の指導的基盤を確立しました。各地に生まれた主イエスの弟子たちの信仰を守り、慰め、成長させるために、教会ごとに「長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた」のです。

 

 

 

初代教会を指導する長老の任命は、神の選びと召命によって決まりました。使徒言行録の2028節です。使徒パウロはこう述べています。「どうか、あなたがた自身と群れの全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。

 

 

 

聖霊が神の教会の世話をさせるために、長老を選ばれ、召されたのです。

 

 

 

使徒パウロたちが「長老たちを任命し」とあるのは、神の選びと召しを受けた者を、彼らが按手したという意味です。そして、初代教会は按手を授けるときに、「断食して祈り」ました。

 

 

 

使徒言行録の今朝の御言葉には、この按手については記録されていません。他の聖書の箇所に按手について触れられています。テモテへの手紙一の414節です。使徒パウロは按手を受けた弟子のテモテに次のように勧告しています。「あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたときに、預言によって与えられたものです。

 

 

 

神が長老を選び、召されるのは、その人に豊かな賜物があるからではありません。むしろ、土の器の者を、神は長老に選ばれ、召されます。そして、彼に長老の按手を授けられるとき、使徒たちや他の長老たちが彼の頭に手を置きます。その時に聖霊が按手を授けられた長老に、恵みの賜物をお与えになります。そして、長老に任命された者は、その恵みの賜物をいただいて、職務を果たします。

 

 

 

どうして教会の指導的基盤を確立するために、「断食と祈り」が必要だったのでしょうか。

 

 

 

断食と祈り」は、罪人であるわたしたちが神に近づく道であります。断食すると、わたしたちは肉体的苦痛を覚えます。それを通してわたしたちは自らの深い罪を自覚します。そして神のみ前に出ます。その時ルカによる福音書のあの徴税人のように、神の御前で自分の胸を打ちたたき、熱心に祈り、自らの罪の赦しを求めるのです。主に罪を赦された者だけが、御子の血で贖われた教会の群れを憐れみ、配慮することを許されるのです。

 

 

 

最後に使徒言行録は、使徒パウロたちが「彼らをその信ずる主に任せた」と記録しています。これは、使徒パウロたちが去った後、任命された長老たちの教会における働きについて述べているのです。

 

 

 

教会の問題と働きは、最終的に主イエスの恵みに委ねる他ありません。

 

 

 

使徒パウロとバルナバたちは、主イエスに信頼し、主イエスが恵みの内に彼ら長老たちを守り、導き、彼らの任務を果たさせてくださるのと信じたのです。

 

 

 

バークレーが『使徒行伝』の注解書の中で、こう記しています。「わたしたちが仕事をするとき、自分の名誉や特権のためではなく、ただわたしたちは神のみ手におかれた道具に過ぎないとの確信から出発するとき、はじめてキリスト者の奉仕について、正しい考えをもつことができるのである。」と。

 

 

 

本当にその通りだと思います。わたしたちは、主が御心であれば、これはできると信じ、御心でなければできないと思っています。そして、日々主に土の器であるわたしたちは、聖霊の賜物という豊かな恵みを注がれて、信仰生活をしているのです。

 

 

 

「主よ、お語りください。僕は聞いております」と、少年サムエルのように、毎週主の日の礼拝に出ているのです。

 

 

 

そして、わたしは、この主の日の礼拝における御言葉への聴従がわたしたちの教会の命として、この70年間の上諏訪湖畔教会を、持続可能な教会としてきたと思うのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、2019年となり、一か月が過ぎようとしています。新しい年も、主の恵みのうちにお導きくださり感謝します。

 

 

 

使徒言行録第1423節の御言葉を、今年の聖句に選び、今年一年を、「持続可能な教会を目指して」という教会標語の下で歩みたいと思います。

 

 

 

どうか、わたしたちの教会に長老候補者をお与えください。教会を指導する者を、主が選び、召してください。長老によって牧師が語る御言葉の実を見守らせ、教会が主の恵みと祝福の内に教会が持続できるようにしてください。70年持続した教会が80年、90年、100年持続させてくださり、それを見させてください。

 

 

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

教会設立10周年記念礼拝説教       主の2019428

 

二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。

 

それから、二人はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、ベルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。そして、しばらくの間、弟子たちと共に過ごした。

 

            使徒言行録第142128

 

 

 

 説教題:「神の恵みに委ねられて」

 

 明日29日で教会設立10周年を迎えます。2009429日にわたしたちの教会は政治的独立をし、教会設立式を行いました。

 

 

 

本日は教会設立十周年記念礼拝を守りましょう。使徒言行録第142128節の御言葉から学び、聖餐式をし、共に祝会をし、神に感謝し、喜びましょう。

 

 

 

使徒パウロとバルナバはシリア州のアンティオキア教会から送り出されて第一回伝道旅行しました。その最後の箇所であります。

 

 

 

第一回伝道旅行は、パウロとバルナバが地中海のキプロス島から小アジアへと渡り、多くの異邦人たちにキリストの福音を伝え、彼らをキリストの弟子とし、ピシディア州のアンティオキア、イコニオン、リストラに教会を建てました。

 

 

 

その伝道旅行を終えるために彼らは、ピシディア州のリストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しました。これらの町の教会をフォローアップするためです。彼らは、それぞれの教会のキリスト者たちを励まし、教会に長老たちを任命し、断食と祈りによって長老たちを主に委ねました。

 

 

 

彼らは、彼らを伝道に派遣したシリア州のアンティオキア教会へ帰り、教会員を集めて伝道報告会を開き、主が異邦人に信仰の門を開かれたことを報告しました。

 

 

 

注目すべき点は、22節と23節です。パウロとバルナバが建てられた教会をどのように確立し、持続しようとしていたかであります。

 

 

 

そのために重要なことはフォローアップでした。22節です。彼らは「弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。

 

 

 

力づけ」とは、弟子たちの魂を確立させるとか、強めるという意味です。パウロとバルナバは、キリストの弟子となった異邦人キリスト者の魂を神の国へと固定させるために、「「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言っ」たのです。

 

 

 

しかし、「「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」」というこの御言葉が、新米のキリストの弟子たちの魂を確立し、強めたのでしょうか。

 

 

 

わたしはいつもこの御言葉を読むと疑問に思うのです。わたしだけでしょうか。わたしは、大学でキリスト教に出会いました。大学の恩師を通して教会に導かれました。1年半求道し、洗礼を受けてキリスト者になりました。その時のわたしは、一つの恐れがあり、主に一つのことを願いました。それは、大学を卒業し家に帰れば信仰の戦いがあり、キリスト者として生きていけるだろうかという恐れであり、だからこそ主に「わたしをあなたから離れさせないでください」と祈りました。

 

 

 

もしわたしのような弟子がいたら、パウロたちの御言葉は逆効果ではないかと思います。神の国に入るためには、多くの苦難を経なければならないと聞けば、わたしのような弟子たちは「パウロ先生、バルナバ先生、わたしには無理です」と言うのではありませんか。

 

 

 

こんな愚かな考えを持ったのは、わたしが「多くの苦しみを経なくてはならない」ということを、「わたしたちが神の国に入る」ための条件と考えたからです。

 

 

 

新共同訳聖書だけでなく、新改訳聖書2017を読んでも、聖書協会共同訳聖書を読んでも、わたしを、この愚かな考えから解放してくれませんでした。「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければなりません。(新改訳聖書2017)。「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない。(聖書協会共同訳聖書)

 

 

 

説教を準備しているときに、榊原康夫牧師の『使徒言行録講解』を読みました。目から鱗が落ちました。榊原牧師は「『多くの苦しみを経てでも、われわれは神の国に入らねばならない、入るべきだ。』これが言いたいことなのです」と説教しておられます。

 

 

 

これなら新米の弟子たちへのフォローアップになると思います。

 

 

 

パウロとバルナバは、新米の弟子たちの魂を確立し、強めるために「多くの苦難を経てでも、わたしたちは神の国に入らなければならない」と言って、「信仰に踏みとどまるように励ました。」のです。

 

 

 

多くの苦難は神の国に入る条件ではなく、この世におけるキリスト者の置かれた状態です。パウロたちは、新米の弟子たちにそのような状態の中でも神の国に入らなければならないと説教し、信仰を持ち続けるように励ましました。

 

 

 

建てられた教会を確立するために、持続するために、パウロやバルナバのように教会員の魂を確立し、強める説教が必要です。それがあってこそわたしたちはどんな苦難の中でも信仰を持ち続け、「わたしたちの本国は天にあります」と希望を持ち続けることができます。

 

 

 

次のフォローアップは、23節です。「また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。

 

 

 

パウロとバルナバは、弟子たちのためにリストラとイコニオンとアンティオキアの教会に長老たちを任命しました。

 

 

 

パウロは、第三回伝道旅行を終えてエルサレムに向かう途中で、エフェソ教会の長老たちと会い、別れの説教をしました。その中で彼は、教会に長老を任命した目的を次のように語っています。「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。(使徒言行録20:28)

 

 

 

パウロとバルナバは、説教で新米の弟子たちを力づけ、信仰に踏みとどまらせるだけでなく、教会に長老たちを任命して彼らの世話をさせました。

 

 

 

それによって新米の弟子たちがどんな苦難を経ても、「わたしたちの本国は天にあります」という信仰に踏みとどまらせました。そして、建てられた教会が持続するようにしたのです。

 

 

 

任命し」とは、選び出したという意味です。パウロとバルナバは、長老たちをキリストの弟子たちの中から挙手で選び出させ、断食して祈り、選び出された長老たちの頭の上に手を置いて按手し、信じる主に彼らを委ねました。

 

 

 

ここで注意してほしいことは、パウロたちが建てられた教会を確立し持続せるために、二人の長老を任命したことです。教会に長老一人だけでは駄目です。複数の長老が必要です。これが長老制の原則です。

 

 

 

22節と23節はコインの表裏の関係です。長老をパウロたちが2名任命したのは、一つの教会の群れを世話させるためです。その世話の内容は様々あります。しかし、御子の十字架によって買い取られた教会の群れを、御国に入らせることこそ、長老が世話する最も重要なことだと、使徒言行録はわたしたちに証言しているのです。

 

 

 

教会設立10周年ですから、これまで10年間を振り返りいろいろお話しようと準備しました。しかし、今朝の御言葉に集中し、一つの恵みだけお話ししたいと思います。

 

 

 

422日に始まりました教会墓地の造成と墓碑の建立の工事が5月に完成します。

 

 

 

2012年頃に小会は墓地の用地の購入を検討しました。いろいろ墓地も見学しました。一人の求道者の方が地域誌に墓地の用地を売り出している広告を持ってきてくれました。その地を見て、小会は墓地の用地の購入するために、全員懇談会を開きました。そして、今の教会墓地の用地を購入しました。それから、5年間教会墓地献金を献げていただき、今教会墓地の造成と墓碑の建立工事がなされています。

 

 

 

復活の主イエスが教会を守り、導き、この恵みをわたしたちにお与えくださったからです。

 

 

 

わたしたちは、この世に生きる限り、苦難を避けることはできません。老いの苦しみがあるでしょう。人間関係で苦しむかもしれません。病気で苦しむかもしれません。しかし、死者の中から復活された主イエスは、生きておられます。だから、わたしたちはその主の恵みにゆだねられて、ここで説教を聞き続け、長老たちを中心に慰められ、支えられ、神の御国に入らなければなりません。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、教会設立十周年記念礼拝を守ることができて感謝します。

 

 

 

使徒言行録第1422節と23節の御言葉を中心に御言葉を学びました。パウロとバルナバのフォローアップを通して、わたしたちの教会をこれからも持続していくために、説教と長老たちの働きの大切さを学ぶことができて感謝します。

 

 

 

どうか、毎週御言葉を語る牧師の研鑽と準備を助け、今年一人の長老が休職しましたので、一人長老を増員してくださり、二人の長老で教会の群れの世話をさせてください。

 

 

 

これから聖餐式にあずかります。わたしたちが御子キリストの十字架の血で買い取られた神の子であることを確信させてください。

 

 

 

神の国に入ることができる喜びで満たしてください。

 

 

 

どうか、休職された長老を癒してくださり、長老候補者をお与えください。わたしたちの教会を持続させてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 宗教改革記念礼拝説教(2019年)          20191030

 

 

 

 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 

                       ローマの信徒への手紙第1章1617

 

 

 

 説教題:「義人は信仰によって生きる」

 

 本日は、宗教改革を覚えて礼拝を守り、御言葉と聖餐の恵みにあずかりましょう。

 

 

 

今朝の御言葉はローマの信徒への手紙第11617節です。

 

 

 

ローマの信徒への手紙は、使徒パウロがローマ帝国の首都であるローマ市にいるキリスト者たちに宛て書いた手紙です。紀元58年頃、コリント市に滞在していた時に、彼はこの手紙を書きました。

 

 

 

そのころ使徒パウロは、第三回伝道旅行を終えようとしていました。彼はエルサレムの貧しい教会に集めた献金を届けるためにエルサレムに行こうとしていました。彼はスペインまで伝道するために、どうしてもローマに行こうと思いました。そこで彼はまだ会ったことのないローマのキリスト者たちにこの手紙を書いて、自分のことを自己紹介しました。

 

 

 

彼は、ローマのキリスト者たちに彼が人々に伝えてきたキリストの福音を系統立てて記述しました。そしてキリスト者の生活の指針を具体的に記述しました。そのために彼の手紙は、まるで論文と言ってよいものになりました。

 

 

 

しかし、使徒パウロの熱い思いは、ローマのキリスト者たちによく伝わったと思います。特に今朝の御言葉は、パウロの伝道魂をよく伝えていると思います。

 

 

 

彼は言います。「わたしは福音を恥としない。」と。これは、彼の断固とした決意表明です。

 

 

 

福音」とは、彼が人々に伝えているものです。この手紙の124節でパウロが記している御言葉です。「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方がわたしたちの主イエス・キリストです。

 

 

 

パウロにとって、福音とは永遠の神の御子がダビデの子孫としてこの世に生まれられ、十字架に死なれて、死人の中から復活されたことを、世の人々に告知することです。それを、パウロは神の御前でも人々の前でも決して恥じることはないと告白するのです。たとえこの福音によってつまずきが生まれようと、パウロは「わたしはこの福音を恥じる必要はない」と断言するのです。

 

 

 

そのようにパウロが断言できる理由を、パウロはこう言っています。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。

 

 

 

福音宣教は、父なる神と復活の主イエス・キリストが遣わされた聖霊なる神の御力による救いです。

 

 

 

ユダヤ人は主なる神が選ばれた神の民です。ギリシア人は異邦人のことです。パウロは、「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも」という表現で、世界のすべての人々を指示しています。この世のすべての人々は、パウロが伝える福音を聞く時に、聖霊のお働きでキリストを信じるように導かれるのです。

 

 

 

救いとは、この世のおけるサタンの支配から解放されて、神の恵みが支配する御国に移されることです。

 

 

 

だから、キリストを救い主と信じて、わたしたちの国籍は天にあると、わたしたちが信じることは、神の御力、神の奇跡に御業であると、パウロは断言しているのです。

 

 

 

さらにパウロは、続けてこう述べています。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。

 

 

 

福音が信じる者を救う神の御力であるのは、そこに「神の義」が啓示されているからであると、パウロは述べています。

 

 

 

この神の義を、宗教改革者ルターは、神の正義、人の罪を裁く神の義であると理解し、神を畏れ、神に裁かれる自分を思って、苦しんだのです。

 

 

 

しかし、パウロが人々に伝えました福音は、父なる神が神の御子キリストの十字架によって人の罪を赦し、同時にキリストが人となられて、父なる神に従順に従われ、神の律法を完全に行われて、得られた義を、罪人のわたしたちにプレゼントしてくださったのです。

 

 

 

それゆえにパウロが人々に伝えた福音で知らされた神の義は、人の罪を裁く神の義ではなく、罪人の罪を赦し、彼にキリストの得られた義をプレゼントする神の義です。

 

 

 

そしてこの神の義は、聖霊がわたしたちに賜ったキリストに対する信仰の賜物を通して、わたしたちに与えられるのです。福音において提供された神の義は、聖霊の導きを通してわたしたちのイエス・キリストに対する信仰において把握され、自分のものとされるのです。

 

 

 

このように信仰を通して神の義は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも救を得させる神の力を発揮するのです。こうして福音は、サタンに支配された人々の不義を滅ぼし、信じるすべての人々を神の恵みの支配する御国へと移すのです。

 

 

 

信じるすべての人々を救う神の御力が主イエス・キリストにおいてこの世のすべての人々に告げ知らせるのが、わたしたちの教会の伝道、福音宣教です。

 

 

 

パウロは旧約の預言者ハバククの「神に従う人は信仰によって生きる(ハバクク書2:4)を引用して「「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」と述べています。

 

 

 

預言者ハバククは、エレミヤより少し後に預言者活動した者です。バビロニア帝国のネブカドネツァルが紀元前605年に王に即位したころに、預言者活動を始めました。主なる神は彼を通してバビロニア帝国がエルサレムを滅ぼすことを預言し、心を真っすぐに主に向けない者は滅ぼされ、主なる神に従う者は信仰によって生きると約束されました。

 

 

 

こうしてパウロは、神の義のプレゼントは、福音において提供され、キリストを信じる信仰を通してキリストを信じるすべての者を救う神の力となるのだから、最後までキリストに対する信仰を守り抜くようにと、ローマのキリスト者たちに勧めたのです。

 

 

 

 今朝、わたしたちはパウロの御言葉の勧めに従い、日本キリスト改革派教会の源であるスイスの宗教改革者がキリストに対する信仰をどのように守り、わたしたちに伝えてくれているかを学びましょう。

 

 

 

 「改革派」という名称は、「ルター派」に対するものです。マルティン・ルターのドイツにおける宗教改革は、瞬く間にヨーロッパに広がりました。スイスでもツヴィングリ、ブリンガー、カルヴァン、ブツァーたちによって宗教改革運動が起こりました。

 

 

 

彼らは、聖書の権威を強調しました。聖書が非難する事柄、聖書で確証を得ない事柄を教会の営みから排除しました。会堂の中にあるキリストの十字架像、マリア像、字が読めない貧民のための聖書である絵画も取り除きました。

 

 

 

 会堂の中には、講壇と聖餐卓と洗礼盤が置かれ、それを囲むように会衆席が置かれました。講壇にはラテン語の聖書ではなく、自国語に翻訳された聖書が置かれました。

 

 

 

 カトリック教会が教会の権威を強調したのに対して、宗教改革者たちは神の御言葉である聖書の権威を強調しました。とりわけ改革派教会は、聖書の権威を強調するだけでなく、キリスト者の信仰と生活の唯一の規準と定めました。そして、聖書を自国語に翻訳し、当時の民衆の日常語で説教しました。

 

 

 

 ツヴィングリとカルヴァンは、神中心の観点を強調しました。彼らは神を力と活動の源、道徳目標と理解しました。彼らにとって神は自然と歴史の主であり、人間の歴史は神の目的の実現でした。人生の本質は神の目的を具現することであり、カルヴァンにとって神の栄光こそが最優先の課題であり、人間の魂の救いはそれに従属するものでした。

 

 

 

 カルヴァンの神学は、彼の著書『キリスト教綱要』で明らかに述べられています。イエス・キリストにおいて明らかにされた父子御霊なる三位一体の神を中心に据えています。

 

 

 

 カルヴァンは、『キリスト教綱要』で日常の言葉を用いて首尾一貫性をもって聖書を解説しています。

 

 

 

 その時にカルヴァンはキリスト者の経験から生まれる良識ある知恵を用いて説明しています。

 

 

 

聖書自身は神の啓示です。神は人と言葉と彼の経験を用いて御自身を知らされています。

 

 

 

だから、聖書を、信仰を、そして教理を、頭だけで、知識だけで理解しようとしてはなりません。実践に即した学びが必要です。

 

 

 

信仰を生活化するためにカルヴァンは、『キリスト教綱要』を書いたと思います。実践的なところに方向を定めて、『キリスト教綱要』を学ぶことが、すなわち、わたしたちの信仰の益となるようにグループで学ぶなら、今日でも益があると思います。

 

 

 

カルヴァンは、文章も言葉の表現も簡素さに特色があります。虚飾がなく、明快で、日常に使われる言葉を用いています。

 

 

 

彼は、創造主である神と被造物を厳格に区別します。神の超越性、主権性を強調すると共に、で神の内在を強調しています。それは、キリストの人格に、聖霊に、そして神の御言葉と聖礼典に、教会の本質においてよく表れています。

 

 

 

彼は救いに関して神の働きの恵み、神の先行的恵みを強調します。神の選びの教理で分かるように、彼は人よりも神の働きを最優先します。

 

 

 

『キリスト教綱要』は創造主なる神と贖い主なる神を関連付けて論述しています。福音と律法を、義認と聖化を混同し、分離することを拒否します。

 

 

 

カルヴァンは神の主権の下で教会を形成しようとします。教会と国家がそれぞれ主イエス・キリストの支配下にあり、異なる委託を受けていることを強調しました。

 

 

 

スイスの宗教改革者たちは、世界(社会)が神の権威の下にあり、神の栄光を反映すべきであるという点で一致していました。

 

 

 

わたしたちの日本キリスト改革派教会は、小さな群れでありますが、使徒パウロ、宗教改革者たちのキリストに対する信仰を受け継ぎ、義人は信仰によって生きるという旧約の預言者の信仰にパウロや宗教改革者たちと共に信仰を通して生きているのです。

 

 

 

御国が約束通りに到来する時、義人は信仰によって生きるという神の約束が実現するのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、宗教改革を覚えて記念礼拝を行い、御言葉と聖餐の恵みにあずかれることを感謝します。

 

 

 

使徒パウロのように、「わたしは福音を恥としない」と心から信仰告白させてください。

 

 

 

今朝の福音の御言葉に、わたしたちも宗教改革者たちが見出した救いの喜びを見させ、キリストに対する信仰をお与えください。

 

 

 

使徒パウロの伝える福音が宗教改革者たちに、そして500年後のわたしたちにも伝えられていることを感謝します。

 

 

 

どうか御言葉と共に、聖餐にあずかります。教会の福音宣教によって悪魔に支配された人々を、神の恵みの支配の下に、御国へと移す神の救いの御力をこの教会にあらわしてください。

 

 

 

諏訪地方のプロテスタント教会が1117日に諏訪湖ハイツに集まり、合同集会をします。わたしたちも共にあずかり、礼拝をもって主なる神を共に礼拝し、賛美し、献身し、主なる神の栄光をあらわすことができるようにしてください。

 

 

 

また12月のクリスマス月間に、わたしたちの家族や知人、この町の人々をお誘いし、共にクリスマスを祝い、主なる神を礼拝し、賛美する喜びに満たしてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によってお聞きください。アーメン。

 

 

イースター礼拝説教                               2019412

 

 

 

 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメはイエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。

 

さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。

 

婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」

 

          マルコによる福音書第1618

 

 

 

 説教題:「十字架のイエスを捜して

 

 イースター、おめでとうございます。

 

 

 

 世界中が今コロナウイルスの災禍のある中で、喜びと祝福の挨拶をすることは、勇気が入ります。人々が悲しんでいる時に、主イエスはよみがえられたと、喜ぶことは勇気が入ります。

 

 

 

しかし、キリスト教会は、2000年間、世界の人々が戦争、疫病、飢饉、地震や台風等の自然災害の中でも、主イエスがよみがえられたというメッセージを語り続けました。そして「イースターおめでとう」と、この世の人々に挨拶を続けて来たのです。

 

 

 

なぜなら、十字架の主イエス・キリストこそが悲惨の中にある世界と人類を救う唯一のお方であるからです。その方が、死者の中からよみがえられ、死に勝利されたのです。

 

 

 

主イエス・キリストの復活によって、この世界が滅びで終わらないのです。アダムの罪によって死に定められた人類が死で終わらないのです。

 

 

 

コロナウイルスの災禍の中で人の集まりが制限されている中で、今日、「主イエスは復活された。おめでとう」と、世界中のキリスト教会が喜びと祝福の挨拶をしています。その中にわたしたちの教会も加わることができるのは、本当に神の大きな恵みです。

 

 

 

 

 

 先週一週間、わたしたちは昨年同様にマルコによる福音書に従って、キリストの最後の一週間の受難をたどりました。

 

 

 

ゴルゴタの十字架の道を歩まれるキリストの御苦しみを瞑想しました。そして、先週の主の日の礼拝の招きの御言葉で、預言者イザヤが預言しました主イエス・キリストの御苦しみ、十字架の死がわたしたちの罪を癒すためであったことを、主イエスはわたしたちの罪の身代わりに死なれたのだということを、繰り返し思い起こしました。

 

 

 

 しかし、今のわたしたちにとって主イエスの十字架は過去の出来事です。2000年昔に十字架の上で死なれた主イエスと今のわたしたちに何の関係があるのでしょう。どうしてわたしたちは、主イエスの十字架がわたしたちの罪のためであると信じることができるのでしょうか。

 

 

 

 今朝は、先ほどお読みしましたマルコによる福音書第1618節の御言葉から十字架の主イエスを墓の中に捜そうとする3人の女性に主の御使いが主イエスはよみがえられたことを告げた出来事を、ご一緒に学びましょう。

 

 

 

マルコによる福音書は、わたしたちに主イエス・キリストの復活の出来事を次のように物語ります。

 

 

 

安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメはイエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。(マルコ16:12)

 

 

 

安息日が終わる」とは、週の第七日、土曜日がユダヤ教安息日で、ユダヤ人たちは土曜日を聖なる日として厳粛に守りました。ユダヤ人にとって割礼と安息日の遵守が神の民であることの証しでありました。

 

 

 

安息日に六日間の労働を一切休まなければなりませんでした。ユダヤ教を教える宗教的指導者であるファリサイ派の人々は、ユダヤの民衆たちに安息日を守るように厳しく教えていました。彼らは、安息日に禁止された労働を39挙げていました。例えば、マルコによる福音書に主イエスの弟子たちは安息日を破った事件を記しています。彼らが麦畑を通りました時、彼らは空腹で麦の穂を摘んで、それを手で揉み、麦の粒を取り出して、食べました。それを見ましたファリサイ派の人々は弟子たちの行為が収穫の行為に当たると判断し、彼らが安息日の律法を破ったと非難しました(マルコ2:2324)

 

 

 

 ですから、ユダヤ人たちは、十字架の主イエスがそのままされて、安息日が汚されることを恐れまして、金曜日に十字架の主イエスを急いでアリマタヤのヨセフの墓に埋葬したのです。

 

 

 

 主イエスは、普通死者が墓に葬られるように葬られませんでした。死体に香油を塗り、布で体を包み葬ることができなかったのです。

 

 

 

 

 

だから、安息日が終わり、日曜日の朝早く、3人の婦人たちが香料を買い、主イエスが葬られた墓を訪れたのです。

 

 

 

週の初めの日」は、キリスト教用語です。週の第一日、日曜日のことです。ユダヤ教の安息日に対してキリスト教安息日は週の第一日、日曜日です。その日に主イエス・キリストが復活されたからです。

 

 

 

マルコによる福音書は、その日に3人の婦人たちがどのようにキリストの復活の出来事を経験したかを物語るのです。

 

 

 

週の第一日、日曜日の朝早く、3人の婦人たちが十字架の主イエスが葬られた墓を訪れました。そして、彼女たちは、墓が空であることを見出しました。

 

 

 

主イエスの遺体が置かれていた右側に白く長い衣を着た若者が座っていました。彼は、彼女たちに次のように十字架の主イエス・キリストは復活されたとメッセージを伝えています。

 

 

 

若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。(マルコ16:67)

 

 

 

彼女たちにとってキリストの復活は、墓が空であることを見て、恐怖に包まれる出来事でした。身震いし、不安に襲われました。だから、マルコによる福音書は8節で、こう記しているのです。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

 

 

 

彼女たちは、主イエスのからの墓から逃げ去りました。彼女たちの身体は恐怖で震えており、彼女たちは我を忘れてしまう状態になりました。だから、新共同訳は「正気を失っていた」と訳しています。

 

 

 

どうして彼女たちは、墓が空であり、若者の姿をした主の御使いがあらわれたことに恐れとおののきを覚えたのでしょうか。

 

 

 

実は、マルコによる福音書の本文は、彼女たちの恐怖の体験、だれにも話せなかったキリストの復活の出来事で終わっています。

 

 

 

マルコによる福音書にとって彼女たちの空の墓と御使いの現れという出来事だけが驚くべき恐るべき出来事であったのはありません。

 

 

 

マルコによる福音書の全体を通して、主イエスの奇跡も教えも驚くべき、そして恐るべき出来事でした。主イエスがそこにおられるだけで、驚くべき、そして恐るべきことでした。

 

 

 

マルコによる福音書は、11節の冒頭で「神の子イエス・キリストの福音の初め」という表題で物語り始め、1618節で十字架の主イエスが三日目の朝早く復活されていて、墓は空になっており、神の御使いが彼女たちに「十字架の主イエスは復活したのだ」と告げたことを物語っています。

 

 

 

神の御使いは、彼女たちに喜びと希望を告げました。しかし、彼女たちは御使いのメッセージに喜ぶどころか、キリストの復活そのものに恐怖を覚えました。

 

 

 

だから、彼女たちは、御使いが次のように伝えたメッセージに喜びを見出せませんでした。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と

 

 

 

マルコによる福音書は、わたしたちに次のことを伝えようとしています。彼女たちが主イエスの空の墓と御使いの現れに恐怖したことが、12弟子たちが舟に乗り、嵐に出会い、恐怖を感じ、そして静める主イエスを見て非常に驚いたことと同じであると。

 

 

 

信仰によって主イエスを受け入れることができなければ、不信仰という驚きですべては終わってしまうということです。

 

 

 

わたしたちは、自然科学、技術の進歩した時代に生きています。超自然的な事柄に対しては、説明で納得できないことは、受け入れることはできません。

 

 

 

十字架の主イエスを墓の中に捜そうとした3人の婦人たちは、この世界の中で十字架の主イエスを捜そうとするわたしたちです。

 

 

 

十字架の主イエスをわたしたちは自分の理性で追い求めようとしています。歴史的に捕らえようとします。

 

 

 

しかし、神の御使いのメッセージは、人間の理性で理解できません。なぜなら、わたしたちは、主イエスが葬られた墓が空であったということを、キリストは死人の中から復活されたと素直に理解できないからです。

 

 

 

マタイによる福音書によれば、ファリサイ派の人々は墓が空であったのは、弟子たちが主イエスの遺体を盗んだからだと説明し、彼らの主イエスが復活したというのはデマであると主張しています。

 

 

 

マルコによる福音書によれば、主イエスは御自身の復活を、三度予告されています。そして最後の晩餐の後に主イエスは12弟子たちに「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く。」と約束されました。

 

 

 

キリストの復活は神の啓示の出来事です。主イエスの御言葉の実現です。十字架の主イエスを葬った墓が空であったのは、事実です。神の御使いが現れ、キリストの復活のメッセージを語りましたのも事実です。

 

 

 

しかし、復活のキリストを信じることは、信仰なしには不可能であると、マルコによる福音書はわたしたちに伝えているのです。

 

 

 

なぜなら彼女たちは、信仰がなかったので、まだ聖霊によって信仰を与えられていなかったので、神の啓示としての出来事であるキリストの復活を信じることができず、恐怖と驚きで、我を忘れてしなったのです。

 

 

 

それは、わたしたちも同じです。今朝わたしたちは、彼女たちと同じように、十字架のイエスを捜しにこの教会を訪れました。

 

 

 

空の墓はこの教会です。来られても、復活の主イエス・キリストはおられません。いやわたしたちの目には見えないのです。

 

 

 

若者が彼女たちに「あなたがたが捜している十字架のナザレのイエス復活された」と告げるように、わたしがここに集まられた方々に「今主イエス・キリストは復活され、御国であなたがたをお待ちになっています」と告げましても、信仰が無ければ彼女たちと同じ反応をされるでしょう。

 

 

 

科学が万能で、お金が万能である世界に生きるわたしたちは、彼女たちのようにこの教会が空であることに恐怖を覚えることはありません。むしろ、疑いを覚えるでしょう。本当にキリストは復活したのかと。

 

 

 

しかし、今世界と人類の科学信仰、技術万能主義、お金がすべてという価値観がコロナウイルスの災禍の前に破綻しようとしています。人間の死とその悲惨さは、この世も人類も解決できないことを明白にしました。人は死の恐怖から逃れることはできません。

 

 

 

なぜなら、この世に夢と希望を描ける人類も、死後の世界に希望を描くことはできないからです。

 

 

 

だから、この世にある教会は、この世界にとって、人類にとって希望の光なのです。なぜなら、「キリストは復活されました。教会は空ですが、常に主の御使いのように、あなたがたより先に、復活のキリストは御国に入られ、あなたがたをお待ちです」と伝えることができるからです。

 

 

 

そして、聖霊によって信仰を与えられた者たちは、この教会が空であっても、失望しません。ここには主イエス・キリストは復活されたという希望のメッセージがあります。復活された主イエスは、わたしたちに神の御国を約束してくださいます。そして、洗礼と聖餐によってわたしたちと共におられ、確実にわたしたちをこの世の闇から神の御国への希望に導かれています。

 

 

 

主イエス・キリストは復活されました。ここに集まられた方々の上に復活の主イエス・キリストの豊かな祝福がありますように。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

復活であり、命である主イエス・キリストの父なる神よ、イースターの朝、わたしたちは、今朝この教会に集められ、イースター伝道集会を開くことが許され、心より感謝します。

 

 

 

コロナウイルスの災禍の中、礼拝できない教会もあります。集まることを自粛する教会もあります。そうした中で時が悪くても良くても、福音宣教することがこの世の教会の使命です。その使命を果たす機会を得られたことを感謝します。

 

 

 

どうか、この集まりをお守りください。

 

 

 

どうか、共にこの礼拝に集われた方々を憐れみ、人間理性では理解することが難しいキリストの復活を、今朝の福音宣教を通して、聖霊がわたしたちに信仰をお与えくださることによって、キリストの復活を信じさせてください。

 

 

 

そして罪と死が支配するこの世から永遠の命の希望がある御国へとわたしたちにお導きください。

 

 

 

どうかイースターの喜びを、わたしたちの家族、この町の人々に伝えることができるようにしてください。

 

 

 

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。