ペンテコステ礼拝説教       2020531

 

その後

 

わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。

 

あなたたちの息子や娘は預言し

 

老人は夢を見、若者は幻を見る。

 

その日、わたしは

 

奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。

 

天と地に、しるしを示す。

 

それは、血と火と煙の柱である。

 

主の日、大いなる恐るべき日が来る前に」

 

太陽は闇に、月は血に変わる。

 

しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。

 

主が言われたように

 

シオンの山、エルサレムには逃れ場があり

 

主が呼ばれる残りの者はそこにいる。

 

             ヨエル書第3章1-5

 

 

 

 説教題:「聖霊降臨」

 

 今朝、わたしたちはコロナウイルスの災禍の中にあって、ペンテコステを祝うために、ここに集まりました。

 

 

 

 ペンテコステは、新約聖書の使徒言行録第2章に記録されています聖霊降臨の出来事を記念し、祝うキリスト教会のお祭りです。

 

 

 

 主イエス・キリストは、十字架で死なれて、三日目に復活されました。そして、四十日間にわたって主イエスは、弟子たちに現れ、彼らに神の国について話され、彼らに「聖霊による洗礼」を約束されました。そして、天にお帰りになられました(使徒言行録1:34)

 

 

 

その主イエスの約束は、十日後のペンテコステ(50をさす数詞)に実現しました。それが使徒言行録の第2章の聖霊降臨の出来事です。

 

 

 

大音響と突風のうちに約束された聖霊が舌のような形で集まっていた120名の者たち一同の上に降ると、聖霊の洗礼を浴びました主イエスの120名の弟子たちは、一斉にペンテコステの祭にエルサレムに巡礼していた諸外国の言葉で神の偉大な救いの働きを語り始めました(使徒言行録2:113)

 

 

 

聖霊が120名の者たちの上に注がれ、彼らはエルサレムに巡礼に来ていた人々の言葉で神の偉大な救いの働きを、すなわち、キリストの十字架と復活の福音を語り始めました。キリストの福音をエルサレムからこの世界の果てまで宣教するキリスト教会が誕生したのです。

 

 

 

 聖霊が下られ、生きて働かれると、この世の闇の世界に光であるキリストの教会が生まれ、120名の主イエスの弟子たちに聖霊が注がれますと、彼らはエルサレム、それからパレスチナ、小アジア、ヨーロッパへとキリストの福音を人々に伝え始めました。

 

 

 

 使徒ペトロは、ペンテコステの出来事に驚いていた大勢の人々に、「今預言者ヨエルの預言を通して言われていたことが成就した」と説教し、ヨエルの預言を引用して次のように語りました。

 

 

 

 「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。(使徒言行録2:1721)

 

 

 

 使徒ペトロは、説教し、ペンテコステの出来事を弁明しました。これは酒に酔ってなされた愚かな出来事ではないと。聴衆たちの中には、酒に酔っているのだと言う者たちがいたのです。

 

 

 

 使徒ペトロは、彼らに今朝の9時であると述べて、まだ食事の時ではなく、酒を飲み酔っぱらうときではないと弁明しているのです。

 

 

 

 そして使徒ペトロは、弁明するだけではありません。さらに彼はこう説教しているのです。この出来事は、主なる神が預言者ヨエルによって語られたとおりに聖霊が注がれた出来事なのだと。

 

 

 

 預言者ヨエルは、「ベトエルの子ヨエル(ヨエル書1:1)ということ以外何も分かりません。

 

 

 

 ヨエル書には、彼が預言者活動をしていた頃に、北イスラエル王国と南ユダ王国を統治していた王の名は記されていません。ヨエル書の背景には、シオン、エルサレムという地名がしばしば出てきます。

 

 

 

 民の指導者は、王ではなく、祭司と長老です。

 

 

 

ヨエル書は、紀元前4世紀のペルシャ帝国時代の末期に書かれたと推測されています。

 

 

 

ヨエル書は、ヘブライ語聖書では新共同訳聖書のように4章あります。新改訳聖書は3章です。22832節に今朝の御言葉があります。

 

 

 

ヨエル書のテーマは、神の審判の到来と神の民イスラエルに罪の悔い改めを勧告することです。預言者ヨエルの時代にいなごの襲来という自然災害があり、預言者ヨエルは、それを神の審判の到来の徴と見たのです。彼は、神の民に神の契約に違反した罪を認めて、神との契約に立ち帰るようにと、罪の悔い改めを迫りました。

 

 

 

そして、彼は、3章で神が終末論的な希望の預言を語られたのを、記しています。

 

 

 

2章で預言者ヨエルは、主なる神が神の民イスラエルが神に立ち帰り、再び神との契約関係に入るならば、この世での豊かな祝福に彼らが与ると語ります。

 

 

 

そして「その後」主なる神は、彼らすべてに聖霊を注ぎ、彼らの息子と娘は預言し、老人と若者は夢と幻を見ると告げられています。

 

 

 

4章で主の日、すなわち、神の審判の日に、諸国の民は主なる神に裁かれますが、主なる神はシオンの山に、すなわち、エルサレムに残りの者を残され、彼らすべてが主なる神の御名を呼び、主なる神を礼拝する者たちを終わりの日に救われると言われています。

 

 

 

旧約聖書を読みますと、聖霊が注がれるのは、特別な人だけです。油注がれたのは、預言者と王と祭司です。神の民イスラエルを指導した士師たちも聖霊を注がれました。

 

 

 

しかし、預言者ヨエルを通して主なる神は、「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ(3:1)と宣言されています。聖霊を注がれた者たちは、息子、娘は預言者たちのように神の言葉を語ることができます。老人や若者たちは夢と幻を見ることができます。

 

 

 

主なる神が彼らに聖霊を注がれた結果、彼らは皆、神の啓示を与えられ、神の御言葉を語る働きをするのです。

 

 

 

それから主なる神は、ヨエルを通して自然界に不思議な御業を表すと言われています(34)

 

 

 

主なる神は、奴隷の地エジプトから神の民イスラエルを救い出すために、十の自然災害をエジプトに下されました。同様に主の日に、主が来られて、諸国民を裁かれる前に、天と地に不思議な徴が現され、天体に何か異変が現されると言われています。

 

 

 

これは、キリストの再臨ときに起こるものと考えられています。キリストが再臨される時に、大地震、飢餓、戦争、そして天体が崩れるという、天と地に不思議な徴が現れるでしょう。

 

 

 

今朝、ペンテコステのこの礼拝で、わたしたちが心を留めたいのは、二つのことです。第一に聖霊が注がれる祝福です。第二に主の御名を呼ぶ者はすべて救われるという喜びです。

 

 

 

ペンテコステの聖霊降臨の出来事によって、キリスト教会とキリスト者たちは神の御言葉が語られ、聞かれることを通して、常に主イエス・キリストの臨在の中に置かれる恵みに与りました。

 

 

 

今朝のこの礼拝で神の御言葉が語られ、聞かれることを通して、今ここに主イエス・キリストはわたしたちと共に居てくださいます。

 

 

 

さらに教会は、聖霊に導かれて主イエス・キリストを礼拝し、その御名を常に呼び求めています。それは、主イエス・キリストがこの礼拝へとわたしたちを招かれるからです。

 

 

 

預言者ヨエルは、神の民イスラエルに主なる神との契約関係に戻るように呼びかけました。シオンの山、エルサレム神殿で神の民イスラエルと共にいます主なる神は、彼らを御自身の救いと祝福へと導き入れられ、御自身を礼拝する者たちを「主が呼ばれる残りの者」として、すなわち、神の選びの民として永遠に御自身のところに置かれるのです。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、ペンテコステの朝、御言葉と礼典の恵みにあずかり、心より感謝します。

 

 

 

 聖霊がわたしたち一人一人に注がれ、上諏訪湖畔教会がキリストの福音を宣教する教会として歩むことを確認することができて感謝します。

 

 

 

 ここに今もキリストが生きて、救いの御業をされていることを、わたしたちの家族に、この世に人々に証しさせてください。

 

 

 

 この祈りと願を、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

  2021年度教会聖句による説教01       主の2021131

主は、決して

   あなたをいつまでも捨て置かれはしない。

主の慈しみは深く

懲らしめても、また憐れんでくださる。

人の子らを苦しめ悩ますことがあっても

それが御心なのではない。

                  哀歌第33133

 

 説教題:「主の慈しみを信じ、希望をもって歩む」

 小会は、この後の会員総会で今年の聖句に、旧約聖書の哀歌第33133節の御言葉を、教会目標に「主の慈しみを信じ、希望を持って歩む教会」を、提案します。

 

 一昨年よりコロナウイルスの災禍が続いています。今年に入り、大都市圏だけではなく、地方においても感染が拡大し、まるでわたしたちはコロナウイルスの捕囚の中にあります。

 

 こうした教会の困難さの中で今年も主なる神の御心を求めて、主なる神の慈しみを信じて、希望をもって歩みたいと思います。

 

 今年の聖句と教会目標がわたしたち一人一人の教会生活の励みになることを願っています。

 

 初代教会が礼拝用の聖書に用いていましたギリシャ語の70人訳聖書の序文に、次のような哀歌についての説明文が付されていますので、哀歌は預言者エレミヤの作であると考えられてきました。

 

「イスラエルが捕囚となり、エルサレムが荒廃させられた後、エレミヤは座して泣き、エレミヤはエルサレムのために哀歌を作って言った」と。

 

だから、哀歌は「エレミヤの哀歌」とか、「預言者エレミヤの哀歌」と呼ばれてきました。

 

哀歌は全部で5章から成る小さな書物です。哀歌の作者は複数と考えられています。直接にその場で目撃した者と後に回想する者がいます。

 

2章の作者は、まさにエルサレムの都が包囲され、住民は飢えに苦しみ、母が我が子を食べるという悲惨な光景を目の前で見ているのです。そして、バビロニア帝国の軍隊がエルサレムの城壁を打ち破り、都に乱入し、虐殺と略奪を繰り返している姿を見ているのです。神殿と王宮、住民たちの家屋が炎上するのを見ているのです。エルサレムの都が完全に破壊されるのを見ているのです。

 

主なる神が御怒りによって、ネブカドネツアル王を用いて神の民の罪を裁かれたのです。彼らが偶像礼拝の罪によって、主なる神を捨て、エルサレムの都で流血の罪を犯したからです。

 

4章も第2章と同じように、直接の目撃者によってエルサレムの都の王、祭司、預言者、長老たち、ナジル人たちが主なる神に見捨てられた悲惨さを歌っています。ゼデキヤ王はエルサレムの都を出て、荒野に逃げますが、すぐにネブカドネツアル王の軍隊に追跡され、捕らわれてしまいます。

 

このように第2章と第4章は、エルサレムの都の滅亡の直後に歌われました。だから、エルサレムの都の滅亡と住民の悲惨さと苦痛が、目撃者の肉体的苦痛となっているのです。

 

1章と第5章は、作者が回想して歌っているのです。それほど時が経ているとは考えられませんが、第1章と第5章の作者は、彼の苦痛を内面的なものとして歌っています。

 

3章は、成立年代が分かりません。一番後に書かれました。そして、哀歌の中心に据えられました。だから、希望がテーマになっているのです。

 

哀歌は、一言で言えば、主なる神が御怒りによってエルサレムの都と神の民たちをお見捨てになり、彼らの罪を徹底的に裁かれたその悲惨さを、嘆き歌っているのです。

 

それは、ネブカドネツアル王が紀元前587年にエルサレムの都を包囲して始まりました。都の神の民に飢饉と病気が蔓延しました。彼らは、わが子を食べるという極度の悲惨さに陥りました。

 

更にネブカドネツアル王の軍隊がエルサレムの城壁を打ち破り、城内に乱入しました。彼らは神殿と王宮を破壊し、住民を虐殺し、略奪しました。王は捕らえられ、祭司も預言者も長老も殺されました。激しい主なる神の怒りによって神の民たちは身体的、精神的に苦痛と絶望に陥りました。

 

まさにこの神の民が受けた身体的、精神的苦痛と絶望こそ、哀歌の作者たちが共通に主なる神に問うテーマなのです。彼らは、エルサレムの都の滅亡、神殿の破壊、そして神の民たちの悲惨と苦痛を目撃したのです。彼らの心の奥で、これは何を意味するのですか、どうしてあなたの神の民をお見捨てになったのですかと、彼らは嘆きの問いを歌っているのです。

 

主なる神はモーセを通して神の民イスラエルと契約を結ばれました。主なる神は彼らの神、父となられました。彼らは神の民となりました。主なる神はモーセを通して彼らに十戒を授けられ、主なる神以外に神がいないことを示して、偶像礼拝を禁じられました。彼らが主なる神の命令を破るならば、主なる神は彼らを裁き、見捨てると宣言されました。

 

哀歌の作者たちは、主なる神の審判を受け入れ、エルサレムの都と南ユダ王国の滅亡を、主なる神の摂理として受け入れました。

 

その上で彼らは、主なる神の慈しみと憐れみを信じました。主なる神が残りの民をバビロニア帝国へと捕囚されたからです。

 

3章は、哀歌の中で希望をテーマとします。主なる神は確かにこの歴史においてネブカドネツアル王を用いてエルサレムの都と神の民たちに審判を、彼らの罪に対する怒りの刑罰を下されました。

 

それはまさに哀歌の作者たちにとって彼らの心の奥に、主なる神よ、これは何を意味するのですかと問いかけるものでした。だが、彼らは、その答えを得てはいませんし、主なる神が彼らに答えられないことを不満に思ってもいません。

 

むしろ、彼らは、主なる神の慈しみと憐れみに彼らの心を向けているのです。主なる神が神の民が滅ぼし尽くされず、残りの民を生かして、バビロニア帝国に捕囚の民として送られたからです。

 

22節で、哀歌は次のように主の慈しみと憐れみを賛美しています。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。」と。

 

新改訳聖書は、マソラ本文に従って「実に私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。」と翻訳しています。

 

わたしは、新改訳聖書2017の翻訳を採用して、哀歌の作者の気持ちを理解するのが良いと思います。

 

彼は、エルサレムの都が滅びたのに、神の民たちは滅ぼし尽くされなかったという現実を、神の恵み、憐れみと理解するのです。

 

だから、哀歌は、2324節で次のように希望を、主なる神を待ち望むと賛美しています。「それは朝ごとに新たになる。『あなたの真実はそれほど深い。主こそわたしの受ける分』とわたしの魂は言い わたしは主を待ち望む。

 

主なる神は、捕囚の神の民たちと恵みの契約を新たに更新してくださるのです。神の民は恵みの契約を捨てて、偶像礼拝の罪を犯し、エルサレムの都の滅亡を招きました。

 

しかし、主なる神は恵みの契約をお守りになり、バビロニア帝国に捕囚される神の民をお見捨てになりません。

 

主なる神の真実、すなわち、主なる神が慈しみと憐れみの神であり、変わることなく神の民との恵みの契約を更新してくださる事と、「主こそわたしの受ける分」、すなわち、彼にとって主が彼の嗣業であること、この二つが、彼が主なる神に期待する根拠なのです。

 

この根拠に立ち、哀歌は、3133節で次のように主なる神を賛美しています。「主は、決して   あなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く 懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても それが御心なのではない。」と。

 

わたしたちの聖書の神は、恵みの契約の神です。仲保者主イエス・キリストの十字架の贖いによってわたしたちも洗礼を通してこの恵みの契約に入れられているのです。

 

「主の慈しみ」を、イングリッシュバイブルは、「主の真の愛」と英訳しています。主なる神の変わらない愛です。人の愛は変わりますが、神の真の愛は変わりません。

 

だから、哀歌の作者たちは、エルサレムの都が神の御怒りによって滅ぼうとも、主なる神の慈しみと憐れみに信頼を寄せたのです。

 

主なる神は、神の民たちの神として、常に彼らと共に居てくださり、彼らの罪を裁かれても、彼らをお見捨てになりません。そして、神の民が試練の中で苦難に遭うことは神の御心ではありませんので、必ず主なる神は彼らに逃れの道を備えてくださるのです。

 

同様に主イエス・キリストも、変わることのない十字架の愛によって、常にわたしたちと共に居てくださいます。

 

今わたしたちはコロナウイルスの捕囚の中で厳しい状況に置かれています。しかし、上諏訪湖畔教会の70数年の歴史を振り返って見てください。この教会が、わたしたちの群れがこの地上から消し去られなかったのは、主イエスの慈しみと憐れみが尽きなかったからです。

 

主イエスは、わたしたちを見捨てられることはありません。主イエスは、わたしたちの罪のゆえにわたしたちの教会に、わたしたちに悲しみを与えられるかもしれません。

 

しかし、わたしたちの教会での伝道所設立式や教会設立式において、宣教教師と牧師、長老の就職式において、そして教会員の洗礼式と信仰告白式において、主がわたしたちに約束された恵みの契約をお忘れになることはありません。

 

むしろ、わたしたちが誓約を忘れても、主イエスは覚えていてくださいます。そして恵みの契約の祝福を、豊かにこの教会とわたしたちを恵んでくださいます。それが上諏訪湖畔教会の70数年の教会の歩みなのです。

 

主イエスが何の意味もなく、今わたしたちをコロナウイルスの災禍に置かれ、わたしたちを悩まされることはありません。その意味を今わたしたちが理解できなくても、この哀歌のように主イエスの慈しみと憐れみを信じて、主イエスに希望をもって共に信仰に歩もうではありませんか。

 

主イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わられることはないからです(ヘブライ13:8)

 

お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、2021年となり、一か月が過ぎました。新しい年もコロナウイルスの災禍は終息せず、むしろ、感染がわたしたちの地方にまで広がっています。

 

しかし、主イエスの恵みと憐れみによりわたしたちの教会は礼拝を守り、この後会員総会を開催できることを感謝します。

 

哀歌第33133節の御言葉を、今年の聖句に選び、今年一年を、「今の苦難の中で神の慈しみを信じ、希望を持って歩む教会」という教会目標の下に共に歩みたいと思います。

 

どうか、わたしたちの教会を憐れみ、わたしたちを神の恵みの契約の中に生かしてください。

 

主の恵みと憐れみによってわたしたちをお守りくださり、この教会の礼拝と福音宣教をお守りください。

 

この後開催される会員総会を祝福してください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

イースター礼拝説教(2021)        202144

 

 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。

「死は勝利に飲み込まれた。

死よ、お前の勝利はどこにあるのか。

死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

        コリントの信徒への手紙一第155058

 

 説教題:「死に打ち勝つキリスト」

 イースター、おめでとうございます。

 

 先週一週間、わたしたちはマルコによる福音書によって、キリストの最後の一週間の御苦しみを瞑想し、過ごしました。

 

 そして、今朝わたしたちは、ここに共に集められ、「主イエスは甦られました。おめでとう」と挨拶をします。なぜなら、主イエス・キリストは、死者の初穂として復活されたからです。キリストが死者の中から復活されたように、わたしたちも死者の中から復活するのです。

 

 死に打ち勝たれたキリストは、将来わたしたちが死に対して勝利し、永遠の命に生きる保証であります。

 

 コリントの信徒への手紙一第155058節の御言葉は、復活によるキリストの死に対する勝利を高らかに歌っています。

 

 使徒パウロは、キリストが遣わされた使徒です。神の民ユダヤ人以外の異邦人たちにキリストの福音を伝えることが彼の使命です。

 

彼の若き日、彼はキリスト教徒を迫害する熱心なユダヤ教徒でした。しかし、彼は回心してキリスト教徒となりました。彼の人生が180度変わりましたのは、復活の主イエス・キリストに出会ったからです。

 

 コリントの信徒への手紙一は、使徒パウロが開拓伝道したコリント教会の信者たちに書き送った手紙です。

 

 彼は、生涯において三度の伝道旅行をしました。小アジア、ギリシアを旅し、異邦人たちにキリストの福音を宣べ伝え、教会を建て上げて行きました。

 

 その一つがコリント教会です。彼は二度目の伝道旅行でコリント市を訪れました。そして福音宣教しました。

 

コリント市は、交通の要所でした。商業の盛んな町でした。ローマ帝国にとって重要な植民都市でした。また大きな神殿があり、千人の神殿売春婦がおりました。不品行で、不道徳な町としても有名でした。

 

 それゆえにコリント教会は、いろんな問題を抱えていました。分派争い、近親相姦という不品行、信者の婦人は未信者の夫との生活に悩んでいたこと、神殿で捧げられた動物の肉が市場で売られ、信者たちはその肉を食べることができるか否かを、言い争っていました。

 

信者の日常の問題だけではありません。キリスト教の教えにとって、キリストの復活は大切な教えです。ところが、信者たちの中で、死人の復活を否定し、キリストの復活を否定する者たちがいました。

 

信じられませんね。キリストの復活を信じるから、わたしたちは死者の中からの復活を信じて、キリスト者になったのです。

 

ところがコリント教会のある信者たちは、死人の復活そのものを否定しました。それは、古代のギリシア人たちの人間観に影響されていたからです。

 

使徒パウロが「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした」(Ⅰコリント1:21)と、この手紙で述べています。

 

ギリシア人たちは、人間の肉体を魂の牢獄と考えていました。彼らにとっての救いは、魂が肉体という牢獄から解放されることでした。だから、彼らは、人間の死後の命を、魂が肉体の牢獄から解放され、不滅であると考えました。

 

それゆえ、復活によって再び肉体を得ることは、魂が再び肉体の牢獄につながれることです。彼らにとって復活はあり得ませんでした。

 

そこで使徒パウロは、この手紙の15章で復活について述べています。

 

彼は、コリント教会の信者たちを、「兄弟たち」「あなたがたは」と呼びかけて復活論議を始めています。そして、また「兄弟たち」「あなたがたは」と呼びかけて、それを閉じています。

 

「兄弟たち」「あなたがた」は、パウロが宣べ伝えたキリストの福音を受け入れ、信じたコリント教会の信者たちです。

 

彼がコリントで異邦人たちにキリストの福音を宣べ伝えましたとき、それを受け入れ、信じた者たちは比較的に貧しい階級に属する者たちでした。彼は彼らを「世の無学な者」「無力な者」「世の無に等しい者」「身分の低い者」「見下げられている者」(Ⅰコリント1:2728)たちと呼んでいます。

 

しかし、この手紙を書き送った現在のコリント教会には貧しい階層の者たちだけではなく、富める知識人たちも加わりました。そして彼らが教会の中で大きな影響力を与えていたでしょう。彼らは、世の知恵によって死人の復活を否定しました。

 

そこでパウロは、15章で復活を述べるにあたり、まず彼自身とコリント教会の兄弟たちが受け入れたキリストの福音としての復活の重要性について語りました。

 

キリスト教会の中ではキリストの復活は、十字架と共に重要な教えでありました。

 

次に彼は、死人の復活を否定すれば、キリストの復活を否定することになると述べています。

 

その結果、コリント教会の宣教は無駄となり、彼らの信仰はむなしくなり、すでに復活を信じて死んでいった信者たちは、罪の中で滅んだこの世で最も惨めな人間になると、彼は述べています。

 

パウロは、さらに彼らに復活の希望を述べました。なぜなら、実際にキリストは死者の中から復活され、死者の復活の初穂となられたからです。アダムの罪によってすべての人が死に、キリストの復活によって主イエスを信じるすべての者が生かされるのです。

 

復活には順序があります。最初にキリスト、そしてキリストの再臨のときに、リストに属する者たち、そして世の終わりにすべての者たちが復活します。

 

さらに、パウロは、死者はどんなふうに復活するのかと、復活の体について述べています。朽ちる体が朽ちない体に復活し、自然の体が霊の体に復活し、地に属する体が天に属する体に復活すると述べています。

 

このように使徒パウロは、当時の信仰告白を用いて、彼がキリストによって遣わされた者であることとキリストの福音の内容がキリストの十字架と復活であることを確認し、キリストの復活に保証された信仰者の体の復活とその将来における現実に焦点を当てて、復活を述べているのです。

 

そして、それによって最後に彼は「兄弟たち」と呼びかけて、キリストの復活による死に対する勝利を高らかに賛美しています。

 

それが今朝の御言葉です。

 

彼の、そして教会が宣べ伝えているキリストの福音を、彼の十字架と復活を受け入れた信者たちは、次のことをよく知るべきです。

 

兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。(50)

 

彼はコリント教会の兄弟たちに、重要なことを言いたいと述べています。それは、生まれながらの自然の体で、死んで朽ちてしまうこの体で、神の国には入れないということです。復活されたキリストの体でなければ、神の国に入ることはできません。復活の体は、わたしたちが神の国に入るために必要です。

 

さらに彼は、わたしたちの復活の体の奥義について、こう述べています。

 

わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります(5153)

 

パウロは、わたしたちの復活の体の奥義、神秘を語ります。すなわち、わたしたちは、必ず死者の中から神によって呼び出されるのです。その時にわたしたちは、死ぬべき体ではなく、永遠に朽ちない復活の体に変えられるのです。着物を着替えるように、変えられるのです。

 

彼は、彼が語る奥義の保証がどこにあるかを述べています。それは聖書に書いてある通りに実現すると。

 

この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。

「死は勝利に飲み込まれた。

死よ、お前の勝利はどこにあるのか。

死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(5455)

 

 死ぬべきわたしたちが復活し、死ぬことのない体に変えられると、聖書はその実現を語っているのです。これが、信仰によってわたしたちが復活について理解すべき重要なことなのです。

 

 復活は、聖書しかわたしたちに教えることはできません。死ぬべき人間が、死から新しい命に復活する、それが実現すると保証してくれるのは、キリストの復活を証言する聖書の御言葉だけであります。

 

 パウロが言う復活の体の奥義は、「聖書に書いてある御言葉にある」のです。

 

 旧約聖書のイザヤ書258節とホセア書1314節にあります。それが「「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」」です。

 

 この預言者たちの聖書の御言葉は、キリストの十字架の死と復活によって実現したのです。

 

キリストが死んで三日目に復活された。聖書が語りますこの御言葉によって、キリストが死に打ち勝たれたゆえに、もう罪と死はわたしたちに対して力はありません。

 

 今、わたしたちは、死が絶対的力を持っていると思っています。だから、死ぬことは避けられないことです。

 

 ところが聖書は、キリストが復活によって死に勝利された。復活されたキリストの前に無力なものとなった。だから、死よ、お前は人を傷つける棘にもなれない。もうお前は無力なものであると賛美します。

 

パウロは、勝利者キリストによって死に対してわたしたちも勝利者になったことを、神に感謝しようと述べています。

 

 「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。(57)

 

 わたしたちが将来復活し、死に対して勝利できるのは、キリストの復活という出来事を通して神がわたしたちに死に対する勝利をお与えくださったからです。だから、パウロは、神に感謝しようと述べているのです。

 

 そしてこの神への感謝こそが、コリント教会の信者たちが復活信仰という不動の確信をもって、日々の主の御業、すなわち、キリスト者の生活に励める原動力であると述べています。

 

 キリストが復活されたように、死ぬべきわたしたちも、将来復活するのですから、この世における信仰者の苦労は無駄に終わらないのです。

 

 「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。(58)

 

 キリストの復活こそ、わたしたちの究極の救い、体の復活と御国における永遠の命の保証であり、この世の困難な中でもキリスト者として生きていく力なのです。

 

 どうかコロナウイルスの災禍の中で、復活のキリストが死に勝利されたゆえに、わたしたちも死を恐れることなく、将来のわたしたちの復活を信じて、歩もうではありませんか。

 

お祈りします。

 

「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。

 

復活であり、命である主イエス・キリストの父なる神よ、イースターの朝、わたしたちは、今朝この教会に集められ、コリントの信徒への手紙一155058節の御言葉を開くことが許され、心より感謝します。

 

今年もコロナウイルスの災禍が続き、礼拝できない教会もあるかもしれません。どうか、死に勝利された復活の主イエス・キリストの御力に寄り頼み、今の困難な状況にわたしたちが立ち向かえるようにしてください。

 

どうか、共にこの礼拝に集う者たちを、主よ、憐れんでください。世の知恵では復活は理解できません。どうか聖霊がわたしたちの心に働きかけてくださり、聖書が証しする主イエスの復活とわたしたちの復活を信じさせてください。

 

どうか罪と死が支配するこの世から永遠の命へと、御国へと希望に生きることができるように、わたしたちをお導きください。

 

どうかイースターの喜びを、わたしたちの家族、この町の人々に伝えることができるようにしてください。

 

 

 

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 ペンテコステ礼拝説教       2021523

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自身を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。

わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところに戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て、ここから出かけよう。」

          ヨハネによる福音書第141531

 

 説教題:「約束の聖霊を受ける喜び」

 今朝、わたしたちは昨年来より続くコロナウイルスの災禍の中で、ペンテコステを迎え、祝うために、ここに集められました。

 

 ペンテコステは、新約聖書の使徒言行録第2章に記録されています聖霊降臨の出来事を記念し、祝うキリスト教会のお祭りです。

 

今朝は、ヨハネによる福音書の141531節の御言葉から主イエスが12弟子たちに与えると約束された聖霊について学びましょう。

 

ヨハネによる福音書は、主イエスが受難週の五日目、木曜日に過越祭の最後の食事の後に長いお別れ説教と最後の祈りをなさったことを記しています(ヨハネ13:3117:26)

 

過越祭の最後の食事が終わりますと、裏切り者のイスカリオテのユダは出て行きました。主イエスは残った11弟子たちに御自身がこの世を去ることを予告され、彼らにお別れの説教をし、最後に長い祈りをされました。

 

ヨハネによる福音書の14章で、主イエスは11弟子たちに御自身がこの世を去ると予告されたことに動揺しないように勧告されています。なぜなら主イエスは、彼らのために天に彼らの住まいを用意し、再び彼らのところに戻ってきてくださるからです。

 

そして、今朝の御言葉が続いています。主イエスは御自身が去られたら、父なる神に彼らに別の弁護者、すなわち、真理の霊を遣わしてくださるように、お願いしようと約束されています。

 

そして、主イエスはこの別の弁護者、真理の霊である聖霊と共に、彼らのところに戻ってきてくださいます。

 

聖霊が彼らの心に住み、主イエスも彼らの内にいてくださいます。

 

だから、主イエスは彼らに御自身が去られても、彼らをみなしごのように捨てはしないと約束されています。

 

主イエスは、これからイスカリオテのユダの裏切りで、ユダヤの官憲に捕らえられます。総督ポンティオ・ピラトの裁判で有罪宣告を受けられます。ゴルゴタの丘で十字架刑に処せられて死なれます。そして、三日目に死人の中から復活されます。そして40日間11弟子たちと共に過ごされ、天にお帰りになります。11弟子たちは二度と肉眼で主イエスを見ることはできません。

 

しかし、主イエスが復活されて五十日目、主イエスが天に帰られて十日目に父なる神は主イエスの願いをお聞きになり、聖霊を遣わされました。それが使徒言行録の第2章聖霊降臨の出来事です。

 

ヨハネによる福音書の1420節で主イエスが言われています「かの日には」とは、使徒言行録第2章の聖霊降臨の出来事の日です。

 

使徒言行録は、聖霊降臨を「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と記しています(使徒言行録2:3)。すると、エルサレム教会の11人の使徒たちとその仲間たちは聖霊に満たされて、聖霊が語らせるままに、ペンテコステの祭に集まりました人々に、他の国々の言葉で神の偉大な働きについて証ししました。

 

主イエスは、御自身の霊である聖霊と共に、ペンテコステの日に11人の弟子たちと彼らの仲間たちの所に戻ってきてくださったのです。

 

そして、聖霊降臨の日に下って来られた聖霊は、主イエスが11弟子たちに約束された通りに真理の霊としてキリスト者とその共同体の内にとどまってくださいました。

 

こうして主イエスが11弟子たちに臨在される仕方は、肉体から霊に代えられました。

 

聖霊は、11弟子たちにとって、そしてその仲間である者にとって弁護者です。助けてくださるお方です。

 

聖霊は、真理の霊として11弟子たちとその仲間たちに主イエスが語られた御言葉と教えを思い起こさせ、理解できるように助けてくださいます。主イエスの福音を、十字架と復活の御救いを、常に11弟子たちとその仲間たちが思い起こし、理解し、この世の人々に告げ知らせるように助けてくださいます。

 

この世は主イエスも父なる神も知りません。むしろ、無関心です。

 

この世において、聖霊は教会を造られ、11弟子たちを神礼拝へと導かれます。その神礼拝で、御言葉が語られ、洗礼と聖餐が行われます。そこに主イエスは霊的に臨在され、牧師の口を通して御言葉を語られ、洗礼と聖餐を執行されます。彼らは信仰を通してそれを理解します。

 

真理の霊である聖霊は、諏訪大社のお膝元である諏訪市に上諏訪湖畔教会を建てられました。そして主イエスは偶像のように死んだ神ではなく、生きた神であることを、教会における神礼拝と福音宣教と兄弟姉妹の交わりを通して証しされてきました。それゆえにわたしたちは死んでも主イエスが父なる神と共に永遠に生き給うように生きることを確信させられるのです。

 

第一と第三の木曜日に聖書を学ぶ集いを開いています。そこで旧約聖書の預言書エゼキエル書を学んでいます。主なる神は預言者エゼキエルを通して神の民イスラエルに「わたしは生きている」としばしば宣言されています。

 

聖書の神は、生きておられる神です。天地万物を創造し、罪によって堕落し、永遠の滅びへと落ちて行った人間を、主イエス・キリストを通して救い、救った人間を永遠の御国へと導き守るお方です。

 

主なる神、主イエスは生きておられるので、わたしたち死ぬべき人間を、永遠の命に生かすことのできるお方です。

 

約束の聖霊を受ける喜びは、主イエスを信じる者がこの世の死で終わるのではなく、死んで復活された主イエスと共に永遠の命に生かされているということを知ることです。

 

 別の言葉に換えますと、父なる神と子なる主イエスに愛され、父なる神と子なる主イエスを愛して生きることです。

 

 父なる神と子なる主イエスは、この世に御自身の愛を現されません。教会における礼拝と交わりを通して、福音という形で御自身の愛をわたしたちに現されました。

 

 わたしたちは、聖霊と御言葉を通して父なる神と主イエスに愛されているという形で、そしてわたしたちが愛するという形で知ることを許されているのです。

 

 聖霊は、主イエスが「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」と約束されたことを、わたしたちの礼拝と交わりを通して実現されています。

 

コロナウイルスの災禍が続く中で上諏訪湖畔教会は礼拝と交わりを休むことなく続けています。また、それだけではなく、高齢化やいろんな事情で礼拝に出席できない方に、今ネットを通して礼拝を共にしていただいています。

 

これは、聖霊がわたしたちを助けてくださっているお働きです。聖霊は、わたしたちが主イエスを信じ、互いに兄弟姉妹を愛することを、一緒に礼拝するという形で実現されているのです。

 

そして、その実現を通して、聖霊はわたしたちに父なる神と子なる主エスがわたしたちを愛されていることを体験させてくださっているのです。

 

父なる神と子なる主イエスに愛されないこの世は、父なる神と子なる主イエスに無関心です。教会の礼拝に無関心で、主イエスを信じることにも、互いに愛し合う事にも無関心です。

 

だからこそ教会は常にこの世に対して福音宣教する必要があるのです。家族や知人にキリストを伝えるのです。しかし、この世の無関心という壁を破ることは大変です。それゆえに真理の霊である聖霊のお助けが必要です。

 

聖霊は、わたしたちの弁護者としてわたしたちを守り、助けてくださいます。そして聖霊は、この世が教会とキリスト者に対して敵対しても、彼らにキリストの十字架を語れるようにしてくださり、この世にない永遠の平和を与えてくださるのです。

 

主イエスがこの世の支配者を恐れなかったように、聖霊はわたしたちの心に主イエスの十字架の死と復活の御業を常に思い起こさせて、主イエスは生きておられるので、わたしたちも死んでも生きるのだという永遠の命の喜びに生かしてくださるのです。

 

 お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、ペンテコステの朝、御言葉と礼典の恵みにあずかり、心より感謝します。

 

 聖霊がわたしたち一人一人にも注がれ、上諏訪湖畔教会をお助けくださり、わたしたちをお助けくださり、コロナウイルスの災禍が続く中で礼拝が守られ、ネットで配信できることを感謝します。

 

 どうか、今朝の御言葉を通して、聖霊が今もキリストが生きて、救いの御業をされていることを、わたしたちだけでなく、わたしたちの家族に、この世に人々の救いにお働きくださっていることを、福音宣教を通して証しさせてください。

 

 

 

 この祈りと願を、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。