ペンテコステ礼拝説教       2020531

 

その後

 

わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。

 

あなたたちの息子や娘は預言し

 

老人は夢を見、若者は幻を見る。

 

その日、わたしは

 

奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。

 

天と地に、しるしを示す。

 

それは、血と火と煙の柱である。

 

主の日、大いなる恐るべき日が来る前に」

 

太陽は闇に、月は血に変わる。

 

しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。

 

主が言われたように

 

シオンの山、エルサレムには逃れ場があり

 

主が呼ばれる残りの者はそこにいる。

 

             ヨエル書第3章1-5

 

 

 

 説教題:「聖霊降臨」

 

 今朝、わたしたちはコロナウイルスの災禍の中にあって、ペンテコステを祝うために、ここに集まりました。

 

 

 

 ペンテコステは、新約聖書の使徒言行録第2章に記録されています聖霊降臨の出来事を記念し、祝うキリスト教会のお祭りです。

 

 

 

 主イエス・キリストは、十字架で死なれて、三日目に復活されました。そして、四十日間にわたって主イエスは、弟子たちに現れ、彼らに神の国について話され、彼らに「聖霊による洗礼」を約束されました。そして、天にお帰りになられました(使徒言行録1:34)

 

 

 

その主イエスの約束は、十日後のペンテコステ(50をさす数詞)に実現しました。それが使徒言行録の第2章の聖霊降臨の出来事です。

 

 

 

大音響と突風のうちに約束された聖霊が舌のような形で集まっていた120名の者たち一同の上に降ると、聖霊の洗礼を浴びました主イエスの120名の弟子たちは、一斉にペンテコステの祭にエルサレムに巡礼していた諸外国の言葉で神の偉大な救いの働きを語り始めました(使徒言行録2:113)

 

 

 

聖霊が120名の者たちの上に注がれ、彼らはエルサレムに巡礼に来ていた人々の言葉で神の偉大な救いの働きを、すなわち、キリストの十字架と復活の福音を語り始めました。キリストの福音をエルサレムからこの世界の果てまで宣教するキリスト教会が誕生したのです。

 

 

 

 聖霊が下られ、生きて働かれると、この世の闇の世界に光であるキリストの教会が生まれ、120名の主イエスの弟子たちに聖霊が注がれますと、彼らはエルサレム、それからパレスチナ、小アジア、ヨーロッパへとキリストの福音を人々に伝え始めました。

 

 

 

 使徒ペトロは、ペンテコステの出来事に驚いていた大勢の人々に、「今預言者ヨエルの預言を通して言われていたことが成就した」と説教し、ヨエルの預言を引用して次のように語りました。

 

 

 

 「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。(使徒言行録2:1721)

 

 

 

 使徒ペトロは、説教し、ペンテコステの出来事を弁明しました。これは酒に酔ってなされた愚かな出来事ではないと。聴衆たちの中には、酒に酔っているのだと言う者たちがいたのです。

 

 

 

 使徒ペトロは、彼らに今朝の9時であると述べて、まだ食事の時ではなく、酒を飲み酔っぱらうときではないと弁明しているのです。

 

 

 

 そして使徒ペトロは、弁明するだけではありません。さらに彼はこう説教しているのです。この出来事は、主なる神が預言者ヨエルによって語られたとおりに聖霊が注がれた出来事なのだと。

 

 

 

 預言者ヨエルは、「ベトエルの子ヨエル(ヨエル書1:1)ということ以外何も分かりません。

 

 

 

 ヨエル書には、彼が預言者活動をしていた頃に、北イスラエル王国と南ユダ王国を統治していた王の名は記されていません。ヨエル書の背景には、シオン、エルサレムという地名がしばしば出てきます。

 

 

 

 民の指導者は、王ではなく、祭司と長老です。

 

 

 

ヨエル書は、紀元前4世紀のペルシャ帝国時代の末期に書かれたと推測されています。

 

 

 

ヨエル書は、ヘブライ語聖書では新共同訳聖書のように4章あります。新改訳聖書は3章です。22832節に今朝の御言葉があります。

 

 

 

ヨエル書のテーマは、神の審判の到来と神の民イスラエルに罪の悔い改めを勧告することです。預言者ヨエルの時代にいなごの襲来という自然災害があり、預言者ヨエルは、それを神の審判の到来の徴と見たのです。彼は、神の民に神の契約に違反した罪を認めて、神との契約に立ち帰るようにと、罪の悔い改めを迫りました。

 

 

 

そして、彼は、3章で神が終末論的な希望の預言を語られたのを、記しています。

 

 

 

2章で預言者ヨエルは、主なる神が神の民イスラエルが神に立ち帰り、再び神との契約関係に入るならば、この世での豊かな祝福に彼らが与ると語ります。

 

 

 

そして「その後」主なる神は、彼らすべてに聖霊を注ぎ、彼らの息子と娘は預言し、老人と若者は夢と幻を見ると告げられています。

 

 

 

4章で主の日、すなわち、神の審判の日に、諸国の民は主なる神に裁かれますが、主なる神はシオンの山に、すなわち、エルサレムに残りの者を残され、彼らすべてが主なる神の御名を呼び、主なる神を礼拝する者たちを終わりの日に救われると言われています。

 

 

 

旧約聖書を読みますと、聖霊が注がれるのは、特別な人だけです。油注がれたのは、預言者と王と祭司です。神の民イスラエルを指導した士師たちも聖霊を注がれました。

 

 

 

しかし、預言者ヨエルを通して主なる神は、「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ(3:1)と宣言されています。聖霊を注がれた者たちは、息子、娘は預言者たちのように神の言葉を語ることができます。老人や若者たちは夢と幻を見ることができます。

 

 

 

主なる神が彼らに聖霊を注がれた結果、彼らは皆、神の啓示を与えられ、神の御言葉を語る働きをするのです。

 

 

 

それから主なる神は、ヨエルを通して自然界に不思議な御業を表すと言われています(34)

 

 

 

主なる神は、奴隷の地エジプトから神の民イスラエルを救い出すために、十の自然災害をエジプトに下されました。同様に主の日に、主が来られて、諸国民を裁かれる前に、天と地に不思議な徴が現され、天体に何か異変が現されると言われています。

 

 

 

これは、キリストの再臨ときに起こるものと考えられています。キリストが再臨される時に、大地震、飢餓、戦争、そして天体が崩れるという、天と地に不思議な徴が現れるでしょう。

 

 

 

今朝、ペンテコステのこの礼拝で、わたしたちが心を留めたいのは、二つのことです。第一に聖霊が注がれる祝福です。第二に主の御名を呼ぶ者はすべて救われるという喜びです。

 

 

 

ペンテコステの聖霊降臨の出来事によって、キリスト教会とキリスト者たちは神の御言葉が語られ、聞かれることを通して、常に主イエス・キリストの臨在の中に置かれる恵みに与りました。

 

 

 

今朝のこの礼拝で神の御言葉が語られ、聞かれることを通して、今ここに主イエス・キリストはわたしたちと共に居てくださいます。

 

 

 

さらに教会は、聖霊に導かれて主イエス・キリストを礼拝し、その御名を常に呼び求めています。それは、主イエス・キリストがこの礼拝へとわたしたちを招かれるからです。

 

 

 

預言者ヨエルは、神の民イスラエルに主なる神との契約関係に戻るように呼びかけました。シオンの山、エルサレム神殿で神の民イスラエルと共にいます主なる神は、彼らを御自身の救いと祝福へと導き入れられ、御自身を礼拝する者たちを「主が呼ばれる残りの者」として、すなわち、神の選びの民として永遠に御自身のところに置かれるのです。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、ペンテコステの朝、御言葉と礼典の恵みにあずかり、心より感謝します。

 

 

 

 聖霊がわたしたち一人一人に注がれ、上諏訪湖畔教会がキリストの福音を宣教する教会として歩むことを確認することができて感謝します。

 

 

 

 ここに今もキリストが生きて、救いの御業をされていることを、わたしたちの家族に、この世に人々に証しさせてください。

 

 

 

 この祈りと願を、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

  2021年度教会聖句による説教01       主の2021131

主は、決して

   あなたをいつまでも捨て置かれはしない。

主の慈しみは深く

懲らしめても、また憐れんでくださる。

人の子らを苦しめ悩ますことがあっても

それが御心なのではない。

                  哀歌第33133

 

 説教題:「主の慈しみを信じ、希望をもって歩む」

 小会は、この後の会員総会で今年の聖句に、旧約聖書の哀歌第33133節の御言葉を、教会目標に「主の慈しみを信じ、希望を持って歩む教会」を、提案します。

 

 一昨年よりコロナウイルスの災禍が続いています。今年に入り、大都市圏だけではなく、地方においても感染が拡大し、まるでわたしたちはコロナウイルスの捕囚の中にあります。

 

 こうした教会の困難さの中で今年も主なる神の御心を求めて、主なる神の慈しみを信じて、希望をもって歩みたいと思います。

 

 今年の聖句と教会目標がわたしたち一人一人の教会生活の励みになることを願っています。

 

 初代教会が礼拝用の聖書に用いていましたギリシャ語の70人訳聖書の序文に、次のような哀歌についての説明文が付されていますので、哀歌は預言者エレミヤの作であると考えられてきました。

 

「イスラエルが捕囚となり、エルサレムが荒廃させられた後、エレミヤは座して泣き、エレミヤはエルサレムのために哀歌を作って言った」と。

 

だから、哀歌は「エレミヤの哀歌」とか、「預言者エレミヤの哀歌」と呼ばれてきました。

 

哀歌は全部で5章から成る小さな書物です。哀歌の作者は複数と考えられています。直接にその場で目撃した者と後に回想する者がいます。

 

2章の作者は、まさにエルサレムの都が包囲され、住民は飢えに苦しみ、母が我が子を食べるという悲惨な光景を目の前で見ているのです。そして、バビロニア帝国の軍隊がエルサレムの城壁を打ち破り、都に乱入し、虐殺と略奪を繰り返している姿を見ているのです。神殿と王宮、住民たちの家屋が炎上するのを見ているのです。エルサレムの都が完全に破壊されるのを見ているのです。

 

主なる神が御怒りによって、ネブカドネツアル王を用いて神の民の罪を裁かれたのです。彼らが偶像礼拝の罪によって、主なる神を捨て、エルサレムの都で流血の罪を犯したからです。

 

4章も第2章と同じように、直接の目撃者によってエルサレムの都の王、祭司、預言者、長老たち、ナジル人たちが主なる神に見捨てられた悲惨さを歌っています。ゼデキヤ王はエルサレムの都を出て、荒野に逃げますが、すぐにネブカドネツアル王の軍隊に追跡され、捕らわれてしまいます。

 

このように第2章と第4章は、エルサレムの都の滅亡の直後に歌われました。だから、エルサレムの都の滅亡と住民の悲惨さと苦痛が、目撃者の肉体的苦痛となっているのです。

 

1章と第5章は、作者が回想して歌っているのです。それほど時が経ているとは考えられませんが、第1章と第5章の作者は、彼の苦痛を内面的なものとして歌っています。

 

3章は、成立年代が分かりません。一番後に書かれました。そして、哀歌の中心に据えられました。だから、希望がテーマになっているのです。

 

哀歌は、一言で言えば、主なる神が御怒りによってエルサレムの都と神の民たちをお見捨てになり、彼らの罪を徹底的に裁かれたその悲惨さを、嘆き歌っているのです。

 

それは、ネブカドネツアル王が紀元前587年にエルサレムの都を包囲して始まりました。都の神の民に飢饉と病気が蔓延しました。彼らは、わが子を食べるという極度の悲惨さに陥りました。

 

更にネブカドネツアル王の軍隊がエルサレムの城壁を打ち破り、城内に乱入しました。彼らは神殿と王宮を破壊し、住民を虐殺し、略奪しました。王は捕らえられ、祭司も預言者も長老も殺されました。激しい主なる神の怒りによって神の民たちは身体的、精神的に苦痛と絶望に陥りました。

 

まさにこの神の民が受けた身体的、精神的苦痛と絶望こそ、哀歌の作者たちが共通に主なる神に問うテーマなのです。彼らは、エルサレムの都の滅亡、神殿の破壊、そして神の民たちの悲惨と苦痛を目撃したのです。彼らの心の奥で、これは何を意味するのですか、どうしてあなたの神の民をお見捨てになったのですかと、彼らは嘆きの問いを歌っているのです。

 

主なる神はモーセを通して神の民イスラエルと契約を結ばれました。主なる神は彼らの神、父となられました。彼らは神の民となりました。主なる神はモーセを通して彼らに十戒を授けられ、主なる神以外に神がいないことを示して、偶像礼拝を禁じられました。彼らが主なる神の命令を破るならば、主なる神は彼らを裁き、見捨てると宣言されました。

 

哀歌の作者たちは、主なる神の審判を受け入れ、エルサレムの都と南ユダ王国の滅亡を、主なる神の摂理として受け入れました。

 

その上で彼らは、主なる神の慈しみと憐れみを信じました。主なる神が残りの民をバビロニア帝国へと捕囚されたからです。

 

3章は、哀歌の中で希望をテーマとします。主なる神は確かにこの歴史においてネブカドネツアル王を用いてエルサレムの都と神の民たちに審判を、彼らの罪に対する怒りの刑罰を下されました。

 

それはまさに哀歌の作者たちにとって彼らの心の奥に、主なる神よ、これは何を意味するのですかと問いかけるものでした。だが、彼らは、その答えを得てはいませんし、主なる神が彼らに答えられないことを不満に思ってもいません。

 

むしろ、彼らは、主なる神の慈しみと憐れみに彼らの心を向けているのです。主なる神が神の民が滅ぼし尽くされず、残りの民を生かして、バビロニア帝国に捕囚の民として送られたからです。

 

22節で、哀歌は次のように主の慈しみと憐れみを賛美しています。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。」と。

 

新改訳聖書は、マソラ本文に従って「実に私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。」と翻訳しています。

 

わたしは、新改訳聖書2017の翻訳を採用して、哀歌の作者の気持ちを理解するのが良いと思います。

 

彼は、エルサレムの都が滅びたのに、神の民たちは滅ぼし尽くされなかったという現実を、神の恵み、憐れみと理解するのです。

 

だから、哀歌は、2324節で次のように希望を、主なる神を待ち望むと賛美しています。「それは朝ごとに新たになる。『あなたの真実はそれほど深い。主こそわたしの受ける分』とわたしの魂は言い わたしは主を待ち望む。

 

主なる神は、捕囚の神の民たちと恵みの契約を新たに更新してくださるのです。神の民は恵みの契約を捨てて、偶像礼拝の罪を犯し、エルサレムの都の滅亡を招きました。

 

しかし、主なる神は恵みの契約をお守りになり、バビロニア帝国に捕囚される神の民をお見捨てになりません。

 

主なる神の真実、すなわち、主なる神が慈しみと憐れみの神であり、変わることなく神の民との恵みの契約を更新してくださる事と、「主こそわたしの受ける分」、すなわち、彼にとって主が彼の嗣業であること、この二つが、彼が主なる神に期待する根拠なのです。

 

この根拠に立ち、哀歌は、3133節で次のように主なる神を賛美しています。「主は、決して   あなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く 懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても それが御心なのではない。」と。

 

わたしたちの聖書の神は、恵みの契約の神です。仲保者主イエス・キリストの十字架の贖いによってわたしたちも洗礼を通してこの恵みの契約に入れられているのです。

 

「主の慈しみ」を、イングリッシュバイブルは、「主の真の愛」と英訳しています。主なる神の変わらない愛です。人の愛は変わりますが、神の真の愛は変わりません。

 

だから、哀歌の作者たちは、エルサレムの都が神の御怒りによって滅ぼうとも、主なる神の慈しみと憐れみに信頼を寄せたのです。

 

主なる神は、神の民たちの神として、常に彼らと共に居てくださり、彼らの罪を裁かれても、彼らをお見捨てになりません。そして、神の民が試練の中で苦難に遭うことは神の御心ではありませんので、必ず主なる神は彼らに逃れの道を備えてくださるのです。

 

同様に主イエス・キリストも、変わることのない十字架の愛によって、常にわたしたちと共に居てくださいます。

 

今わたしたちはコロナウイルスの捕囚の中で厳しい状況に置かれています。しかし、上諏訪湖畔教会の70数年の歴史を振り返って見てください。この教会が、わたしたちの群れがこの地上から消し去られなかったのは、主イエスの慈しみと憐れみが尽きなかったからです。

 

主イエスは、わたしたちを見捨てられることはありません。主イエスは、わたしたちの罪のゆえにわたしたちの教会に、わたしたちに悲しみを与えられるかもしれません。

 

しかし、わたしたちの教会での伝道所設立式や教会設立式において、宣教教師と牧師、長老の就職式において、そして教会員の洗礼式と信仰告白式において、主がわたしたちに約束された恵みの契約をお忘れになることはありません。

 

むしろ、わたしたちが誓約を忘れても、主イエスは覚えていてくださいます。そして恵みの契約の祝福を、豊かにこの教会とわたしたちを恵んでくださいます。それが上諏訪湖畔教会の70数年の教会の歩みなのです。

 

主イエスが何の意味もなく、今わたしたちをコロナウイルスの災禍に置かれ、わたしたちを悩まされることはありません。その意味を今わたしたちが理解できなくても、この哀歌のように主イエスの慈しみと憐れみを信じて、主イエスに希望をもって共に信仰に歩もうではありませんか。

 

主イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わられることはないからです(ヘブライ13:8)

 

お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、2021年となり、一か月が過ぎました。新しい年もコロナウイルスの災禍は終息せず、むしろ、感染がわたしたちの地方にまで広がっています。

 

しかし、主イエスの恵みと憐れみによりわたしたちの教会は礼拝を守り、この後会員総会を開催できることを感謝します。

 

哀歌第33133節の御言葉を、今年の聖句に選び、今年一年を、「今の苦難の中で神の慈しみを信じ、希望を持って歩む教会」という教会目標の下に共に歩みたいと思います。

 

どうか、わたしたちの教会を憐れみ、わたしたちを神の恵みの契約の中に生かしてください。

 

主の恵みと憐れみによってわたしたちをお守りくださり、この教会の礼拝と福音宣教をお守りください。

 

この後開催される会員総会を祝福してください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。