イースター礼拝説教(2024)        2024331

 

 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活されたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体となってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリスト共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このようにあなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

        ローマの信徒への手紙第6111

 

 説教題:「神に対して生きましょう

 イースター、おめでとうございます。

 

 ローマの信徒への手紙6111節の御言葉から主イエス・キリストの復活について御一緒に学びましょう。

 

 わたしはイースター礼拝の説教を準備していまして、10節と11節の御言葉に心を動かされました。特に使徒パウロが復活の主イエス・キリストが「生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。」と述べていること、さらにわたしたちに「あなたがたもキリストに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」と述べていることです。

 

 わたしは、使徒パウロの「神に対して生きている」という御言葉に深い感銘を覚えたのです。

 

 使徒パウロは、信仰に生きるキリスト者の生き方を語ろうとしています。それは、洗礼を受けたキリスト者の生き方です。洗礼はキリストと一つに結ばれることです。キリストと共に神に対して生きることです。

 

 使徒パウロは、キリスト者の生活の原理を述べているのです。

 

 使徒パウロは、キリスト者は罪の中に生きることができませんと述べています。キリストの十字架によって罪から贖われ、キリストに結び合わされたキリスト者は、キリストと共に生きるのです。そしてキリストが十字架で死なれたように、キリスト者は罪に死ぬのです。

 

 そこで使徒パウロは、洗礼をたとえにして、34節で次のように述べています。「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活されたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです

 

 この御言葉は、使徒パウロの時代の洗礼についての理解です。洗礼は、キリストと一つに結ばれるものでした。十字架のキリストと共に洗礼者は罪に死にました。復活のキリストと共に洗礼者は新しい命に生きました。

 

 洗礼は、洗礼者の体を水に沈めるものでした。水に沈められた洗礼者は、キリストと共に死にました。そして水から引き揚げられた洗礼者は、復活の主イエスと共に永遠の命に生きる新しい人として生きる者とされました。

 

 続いて使徒パウロは、56節でキリストとキリスト者を接ぎ木にたとえて、次のように述べています。「もし、わたしたちがキリストと一体となってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリスト共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。

 

 わたしたちキリスト者は、キリストに接ぎ木されています。わたしたちは、信仰によって洗礼を通してキリストと一つにされました。だから、キリストが十字架で死なれたとき、わたしたちも死にました。洗礼はそのしるしです。そして、キリストが復活したとき、その復活のキリストとわたしたちは一つにされました。

 

 使徒パウロは、キリストに接ぎ木されたわたしたちを述べて、わたしたちの古い人はキリストと共に死に、わたしたちの罪の体は廃棄されました。復活のキリストと共に新しい命に生きるキリスト者は、罪の奴隷になることはあり得ないと、使徒パウロは説得しています。

 

 キリストと共に罪に死に、キリストと共に新しい命に生きることは、キリスト者にとっては客観的事実です。その事実の一つがキリスト者の神礼拝です。この事実に基づいてわたしたちは、次のことを理解します。すなわち、使徒パウロの「知っています」は、わたしたちが自覚しているという意味であることを。キリスト者としての私たちに、新しい自覚が生まれるのです。それが神に対して生きるということです。

 

 使徒パウロは、7節で「死んだ者は、罪から解放されています。」と述べています。これは、刑事訴訟のたとえです。この世の裁判では、被告が死にますと、彼の罪状は裁かれることはありません。同じようにキリスト者は十字架のキリストと共に死にました。それによって彼は、罪から解放されました。

 

 さらに使徒パウロは、わたしたちに福音を伝えています。89節です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。

 

 キリストとわたしたちは一つです。だから、使徒パウロは、十字架のキリストを信じ、復活のキリストを信じます。キリストが罪に死なれたように、パウロも罪に死に、キリストが父なる神に復活させられたように、キリスト者も復活させられ、復活のキリストと共に生きることを、使徒パウロは信じているのです。

 

 そして、復活のキリストは二度と死に支配されることはないのです。復活のキリストが死に支配されないことは、永遠に生きておられるということです。キリストと共にわたしたちも永遠に生きるのです。これが、わたしたちキリスト者の新しい命であり、祝福なのです。

 

 キリスト者の新しい命には、一つの方向性があります。それが1011節です。「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このようにあなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

 

キリストが十字架で死なれたのは、わたしたちの罪のために死なれたのです。罪に対して死なれたのです。そのことを信じますキリスト者は、キリストと一つに結び合わされたのですから、キリストが十字架で死なれたと共に、わたしたちも死んだのです。キリスト共に罪に死んだわたしたちは、もはや罪に対して、罪に向けて生きてはいないのです。

 

むしろ、復活のキリストが彼を復活させられた神に対して生きておられるように、わたしたちは神に対して、神に向けて生きているのです。わたしたちキリスト者の新しい命、生き方は、神に対して、復活のキリストに向けて生きることです。

 

わたしたちは、古き自己のとき、神に背を向けて、キリストに背を向けて、この世に対して生きていたのです。わたしたちの関心は、この世のものでした。スマートフォンで検索できるものでした。ファッション、ブランドもの、名誉や地位、学歴、お金でした。

 

これらは、今わたしたちが生きているので、わたしたちにとって価値があるのです。明日わたしたちのこの世の命が終わると、宣告を受ければ、何の価値があるのでしょうか。

 

断捨離という言葉がありますが、わたしたち持っているものを皆捨てると、最後に何が残るでしょか。わたしは、命だと思うのです。そして、この命も終わりが来るのです。すべての人に、一度は死が訪れるのです。この死に勝利できる人は、この世には誰もいません。 

 

ところが、聖書は、わたしたちに復活のキリストがおられると告げてくれるのです。キリストは、わたしたちのように人として、一度死なれました。ご自身罪なき神の御子でしたが、わたしたちの罪のために、ただ一度死なれました。そして、キリストは、神によって死から復活させられました。だから、復活のキリストは今も生きておられます。永遠の父なる神に対して生きておられるのです。

 

それゆえに使徒パウロは、わたしたちによく考えなさいと勧めています。わたしたちは、復活のキリストと一つに結び合わされています。だから、わたしたちは罪に対して死にました。同時に復活の主キリストが神に対して生きておられるように、わたしたちも神に対して生きているのです。

 

古い自己は、罪に対して、罪に向けて生きていました。その終わりは死でした。今わたしたちは、神を毎週礼拝し、神に祈り、生きています。その終わりは永遠の命です。

 

わたしは、18年間、この教会の牧師として働けたことを感謝しています。しかし、この世の人々の目から見れば、教会の牧師は何もしていません。誰も何をしているのか知りません。何か社会のために役立つことをしているなら、人々は評価するでしょう。しかし、牧師としてわたしがしていることは、毎週の礼拝で説教し、祈り、教会や中会、大会の仕事をしていることです。

 

しかし、70数年間、上諏訪湖畔教会でわたしたちが神礼拝をし、祈祷会をし、伝道をし、教会活動をしてきた、神に、復活の主キリストに対して生きてきたのです。この神礼拝のキリスト者の人生の終わりは、永遠の御国です。そこでわたしたちは、心から喜び、復活の主イエスと共に父なる神をほめたたえるのです。

 

お祈りします。

 

復活であり、命である主イエス・キリストの父なる神よ、イースターの朝、わたしたちは、この教会に集められ、ローマの信徒への手紙6111節の御言葉を学ぶことができて、心より感謝します。

 

今年は、わたしが813日で定年を迎え、7月末でこの教会の牧師を辞職します。これから困難な状況を迎えることになりますこの教会が、明日に向けて希望をもって歩めるようにしてください。

 

どうか、復活の主イエスよ、常にわたしたちと共にいてください。これまで通り、日曜日の礼拝、祈祷会、聖書の学び、婦人会と男子会の活動を続けさせてください。

 

どうか罪と死が支配するこの世から永遠の命へと、御国へと生きる希望をお与えください。

 

今朝のイースターのこの喜びを、わたしたちの家族、この町の人々に伝えることができるようにしてください。

 

 

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

甲信地区講壇交換                                              2024616

「命あるうちに」

山梨栄光教会 村手 淳

 

「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」ルカ1215抜粋

 「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」1221

 

 遺産相続についての裁定を願う叫びから「どんな貪欲にも注意せよ/用心せよ」と教える話です。しかし、イエス様は「だれがわたしをあなたがたの裁判官や調停人にしたのか」と言って要請を拒み、むしろその要請の根底にある「貪欲」への警告と戒めを教える契機とされました。欲を戒めるというよりは自分の命について「愚かな者」とならないようにというがこのお話の狙いです。最後の言葉「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」とまとめまして、”神の前に富む”という生き方を考えさせたい話でもなっています。

 

 この「金持ち」が「愚かな者」と言われるのは欲深いからではなくて「何年も生きていくだけの蓄えができた」という人生観、「命」を遺産と同様に自分が”「持っている」”と考える誤った理解が愚かだと言いたいのです。イエスによれば「人の命は財産によってどうすることもできない」。ここで「財産」と訳している言葉は、ただ「持っているもの」という漠然とした言葉です。金銭の他にも才能や賜物、能力や学力、社会でいえば身分や名誉・地位、生まれた境遇や育った環境など、その全部含めて「持っている」ものです。ですからまさにそれを持って人は自分を認識し、同時にそういったものに自分の命があるように思うわけです。しかし「有り余るほど」のものを「持ってはいても」「命」だけはその一部ではないし、わたしたちの持ちものでもないのです。イエスが伝えたいメッセージは二つ。一つは自分の命が自分の持ち物であると考えるところからくる貪欲に注意すること、もう一つはたとえその人生において手にする持ち物に恵まれなくとも、命においては「神の前に豊かにな」る生き方を神は願っておられることです。これは表裏一体をなしていて実は一つの教えです。貪欲なだけに自分のものにしようと懸命になって「用意して物」が「だれ」かの手にわたる!(この言い方の真意は神のものとなるという意味ですが)、その徒労感、絶望感は「豊にならない」ということでは済まない悲惨さを指しているのです。命もとりあげられ、その命のために人生をかけてきたすべてが神に取り上げられるのです。だから「どんな貪欲にも用心せよ」と言っておられるのです。「命」というものは確かにそれによって自分を生きるのですが自分の持ち物ではないし、生きるのも死ぬのも自分の思い通りにならないまことに不思議なものなのです。しかし私たちの思い通りにならないその命において神様は「(御自身の前に)神の前に豊かに」なる生き方をしてほしいと願っておられるです。持ち物に恵まれなくても、たとえそれが短いものであっても豊かに歩めるようにと与えてくださるのです。

 

 実はこのお話、22節以降に弟子向けで語られる教えとセットになっています。教える対象は一般向けと弟子向けに区別し一般には「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と教え、弟子向けには「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」と教えます。この弟子向けの教えのほうでは神の養いと装い、寿命を延ばせない無力を説いて神の国をまず求めることを勧めます。二つのお話の最後は富と心のことを扱っています。弟子向けでは一般よりも神様の養いを信じて積極的に踏み込んで「富を天に」そして「富のあるところにあなたがたの心もある」と教えます。命は自分の持ちものではなくて神様のもの、神の養いと装いを受けて寿命でさえ神様が握っておられます。養いと装いも神様が与えてくださるなら実のところ自分が手にした「持っている」すべても本当は神様から与えられたものなのです。それらを感謝して受け取り神の国を求めることに使う時、人は豊かに歩めるのです。皮肉なことですが人は自分のものをそれこそ「有り余るほど」持つことで豊かになると考えて貪欲になり、時に信仰をもっていても世俗の心配と神の国を求める狭間(はざま)で思い悩(心が「分裂する」の意味)でしまいます。こうして貪欲になれば「ひと休み」することもできず、「食べたり飲んだりして楽しめ」と言ってみたところで本当の楽しみも味わえず「今夜、お前の命は取り上げられます」。悲惨なことに人生を通して「お前が用意した物」は「だれのものになるのか」?つまりそれらもまた神に取り上げられるのです。イエス様は「遺産」相続の話題からこの教えを語りましたが、私たちは自分の家族などの遺産すなわち人生での相続などを契機にして自分が何を賜ってきたのか、命というものがどのように与えられ、営まれてきたかのかを見つめ直さなければいけないのです。それこそ弟子向けの教えのほうでは「烏のことを考えてみなさい」「野原の花がどのように育つか考えてみなさい」と諭されているようにです。

 

 「親ガチャ」という言葉をご存じですか?何が当たるか何がでてくるかわからないガチャという機械にたとえ、「生まれてきた家庭環境によって人生が変わってしまうことを「親ガチャ」と表現」するそうです。『親ガチャの哲学』(新潮新書)を刊行した哲学研究者・戸谷洋志さんのインタビュー記事が新聞に掲載されていました。すこしご紹介します。「親ガチャは2010年代からインターネット上で使われてきた言葉でした。人々の生きづらさを反映し、広く浸透する一方、テレビなどではこの言葉に著名人が強く反発を示していました。」そしてインタビューアーが戸谷さんに「人々が感じる生きづらさを「親ガチャ的厭世観」と表現していますね」と投げかけると戸谷さんがこれに答えて「生まれてきた環境によって、人生の選択肢が大きく制約されてしまう。だから自分の人生を変えることはできないと最初から諦めてしまっている人生観のことです。/親ガチャ的厭世観というのは、意思と選択の能力を否定する人間観です」と答えています。そしてその戸谷さんがこう御自分の意見を述べておられます。「しかし、たとえ生まれてきた環境によって制約があるのだとしても、自分の人生として生きることはできるはずです。いわゆる自己責任論とは違う形で、自分の人生に責任を引き受けられないといけない。その可能性を、ドイツの哲学者ハイデガーを手がかりに考えました」と。

 著名人が反発を示したように私も最初はひどい言葉だと思いました。しかし今の生きづらい世の中のことを想像しますとそう言いたくなるのも、時に親だとか社会だとか、ついには自分の生まれを呪いたくなる気持ちにもなるのだろうなあと想えるようになりました。なるほど諦めたくもなる、無責任にもなる、なげやりにもなる。これもまた現代に溢れた人生観の一つです。今朝の言葉のように警戒すべき貪欲なんてないかもしれない、むしろもう生まれたときから制約されているからそこですべてが決まっていて、どう抗ってもどう頑張ってもどうにもならない、そう人生を決めつけていないでしょうか?確かに生まれた時から地上を発つ時まで人の命というものについては思い通りにはなりません。しかし命を授けたもう方はその命で営むところの人生がご自身の前で豊かになることを願っておられ、そうなるようにと命を授けたのです。何年生きるのか、何を持つのか持たないのか、そうしていずれは御自身の前にその命が喜びに満ち溢れるようにとご自身の御手のうちにおいて導いておられるのです。これがそうではなくて”命をさずけます。あとは与えられた能力や運をもって自己責任で生きていきなさい”と言っておられるのなら、なるほどこれはもう生まれた時にすべて決定しますし、すべては自己責任です。でもそうではない!のです。努力とか運、能力や与えられた環境で命の豊かさが決まるのではない!あなたに命を与え、それを握っておられる方がご自身の前で豊かになるようにと与えられるところの様々な機会や出会い、時には試練や困難も含めてあなたがそれらをどのように受け取り、どのように生きようとするのか、これによって決まってくるのです。手にしたもの、持っているものではない。最初からガチャのような運で決まるのでもない。命を授けた方とそれを持って生きようとする貴方の生き方が決めるのです。とかく私たちは人間の地上世界の中にあって周りを見比べてしまうのですが、あなたの命の豊かさは授けたもう神の前であなたがどう生きるかによって形づくられものなのです。どうか諦めないで、与えられた出会いを大切にしていただきたいし、たとえ試練や困難がありましてもイエス様は「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と励ましてくださいます。私たちの地上の命がどれほどのものかはわかりませんが、父が喜んで与えてくださるという神の国の富を求めて、神の前を歩む者でありたいと思うのです。

 

 

 

 父なる神様、生きづらい社会と時代の中にあって、諦めたり無責任になったりする私たちですが、あなたは御自身の前で豊かになるように、喜べるようにと命を授け、その生きる道を備えてくださいます。どうかあなたの約束を信じ、神の国に心をおいて歩くことができますように助けてください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

 

上諏訪湖畔教会クリスマス礼拝説教     主の20241222

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこで生まれることになっているのかと問いただした。

彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

『ユダの地、ベツレヘムよ、

お前はユダの指導者たちの中で 

決していちばん小さいものではない。

お前から指導者が現れ、

わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』

そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、『行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう』と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが「ヘロデのところに帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。   

                     マタイによる福音書第2112

 説教題:「メシアを求めて旅をする」

 

クリスマスおめでとうございます。主イエス・キリストの御降誕を覚えつつ、本日はマタイによる福音書第2112節の御言葉を学びましましょう。

 

東方の占星術の学者たちが生まれられた幼子主イエスを求めて旅をし、星に導かれてユダヤのベツレヘムの町を尋ね、幼子主イエスを見いだし、大いに喜びに満たされて幼子主イエスを礼拝したというクリスマス物語をご一緒に聖書から聴こうではありませんか。

   

1節で「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。」と記していますね。これは、マタイによる福音書の2章全体の見出しです。

 

この見出しで、マタイによる福音書はわたしたちにユダヤの国のヘロデ大王の時代に生まれられた幼子主イエス・キリストの三つの物語を物語ろうとしています。

 

第一の物語が本日の御言葉です。ベツレヘムにお生まれになられた幼子主イエスを、東方の占星術の学者たちが拝みに来たことです。

  

第二の物語は1318節の御言葉です。ヘロデ大王が幼子主イエスを迫害した物語です。幼子主イエスと両親はエジプトに逃れ、ベツレヘムの幼子たちが虐殺されたという悲劇の物語です。

 

第三の物語が1923節の御言葉です。ヘロデ大王の死後、幼子主イエスと両親がエジプトから帰国し、ガリラヤのナザレの村に住まわれたという物語です。

 

マタイによる福音書はわたしたちにこれらの歴史的事実を、物語の文学的形式で伝えようとしています。マタイによる福音書がわたしたちに特に知らせたいことは、2章のこの三つの物語が旧約聖書で主なる神が預言者たちの口を通して預言されていたことをこの世界で実現されたということです。

 

 さて、ヘロデ大王がユダヤの国を支配していた晩年に、ユダヤの国エルサレムの都で、一つの事件が起こりました。

 

 マタイによる福音書は二章1節後半から2節で、こう記します。「そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

  

そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て」とは、ペルシアの国から祭司階級の人たち、すなわち、占星術の学者たちが西方に輝く星を観測し、ユダヤの国に新しい王がお生まれになったと知り、ユダヤの都エルサレムを訪れて来たということです。

 

そのとき」は「見よ」という言葉です。これは驚きを表す言葉で、マタイによる福音書はわたしたちにペルシアの国からメシアを尋ねて異邦人の占星術師たちが来たということは、驚くべき出来事だと、証言しているのです。

 

この占星術の学者たちは異邦人である以上に、主なる神が忌み嫌われた魔術師たちでした。旧約聖書に申命記という書物があり、神の人モーセが神の民に神の御心を伝え、神に呪われた者であると告げている者たちのリストに、この占星術の学者たちも含まれていました(申命記18:1112)

  

マタイによる福音書はわたしたちに占星術の学者たちが主イエスの誕生、救い主の誕生という神の喜びの出来事に招かれたこの物語を、「見よ」と驚きをもって伝えているのです。

 

東方の占星術の学者たちはギリシア語で「マゴス」と呼ばれる星を占う魔術師です。彼らは夜空の星を観測し、その年が豊作か、不作かを占い、あるいは、国や人の運命を占いました。

 

彼らが夜空の星を観測していると、西のユダヤの国の方角に希望の星が輝いているのを見つけました。そこで彼らは、その星を道しるべとして、新しく生まれた王に会おうと、ユダヤの国エルサレムまで旅をして来ました。

 

彼らはヘロデ大王に謁見し、尋ねたのです。「言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(2節)と。

 

ところが、彼らの言葉を聞いた王とエルサレムの人々の反応は、喜びではなく、戸惑いと恐怖でした。マタイによる福音書は3節で「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」と記しています。占星術の学者たちの質問にヘロデ大王は自分の地位が危うくなると不安を覚えました。エルサレムの人々はヘロデ大王が疑心暗鬼になり、人々を殺すのではないかと恐怖を抱きました。

 

さらにマタイによる福音書はわたしたちに驚くべきことを証言します。4-6節の御言葉です。

 

王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこで生まれることになっているのかと問いただした。

彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

『ユダの地、ベツレヘムよ、

お前はユダの指導者たちの中で 

決していちばん小さいものではない。

お前から指導者が現れ、

わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』

 

 マタイによる福音書はわたしたちにこう伝えてようとしているのです。占星術の学者たちは彼らの星の観測によってではなく、聖書の御言葉によって救い主イエス・キリストへと導かれたのだと。

 

ヘロデ大王は聖書の専門家を皆集めました。民の祭司長たちや律法学者たちです。彼らは旧約聖書から救い主がどこに生まれると預言されているかをよく知っていたのです。だから、民の祭司長たちと律法学者たちはヘロデ大王に「ユダヤのベツレヘムです」と答えました。

 

そして、彼らはヘロデ大王に続けて「預言者によってこう書かれています」と言って、旧約聖書のミカ書五章1節で、預言者ミカがこう預言している御言葉を引用したのです。「『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』

 

マタイによる福音書はミカの預言を少し変えています。預言者ミカは「エフラタのベツレヘムよ」と言っていますが、「ユダの地、ベツレヘムよ」と変えています。また、ミカは「お前はユダの氏族の中でいと小さき者」と預言していますが、「お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない」と変えています。「お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである」は、正確にはミカの預言の言葉でありません。これは旧約聖書のサムエル記下の五章2節の御言葉の引用です。主なる神がダビデに言われた御言葉です。「わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる」という御言葉です。

 

マタイによる福音書はわたしたちにダビデ王が生まれたベツレヘムの町を強調し、幼子主イエスが旧約聖書の預言者ミカの預言通り、ダビデ王の子孫として、ダビデ王の生まれたベツレヘムで生まれられたことを伝えようとしているのです。メシアはベツレヘムの町から出ると、ユダヤには古くからの言い伝えがあり、マタイによる福音書はわたしたちに幼子主イエスがそのお方だと言っているのです。

 

ところでマタイによる福音書はわたしたちにただ聖書の御言葉を知るだけでは、幼子主イエスに導かれないことを伝えています。聖書の専門家であっても、主なる神が招かれなければ、幼子主イエスのところに行こうという思いは与えられません。これが祭司長たちと律法学者たちの知識の限界です。聖霊によって心が動かされないと、人は行動しません。

 

ヘロデ大王も同じです。彼も聖書からメシアの誕生と場所を知りましたが、聖霊によって心を動かされることはありませんでした。

 

だから、マタイによる福音書は、わたしたちに7節と8節でこう伝えています。「そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、『行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう』と言ってベツレヘムへ送り出した。

 

 ヘロデ大王は東方の占星術の学者たちをひそかに呼び寄せました。そして、ヘロデ大王は彼らからその星が現れた時期について詳しく確かめました。しかし、王の心は聖霊に動かされませんでした。だから王は彼らに「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言って、占星術の学者たちを送り出したのです。王は行動を起こしませんでした。主なる神が彼を招かれていなかったからです。

 

マタイによる福音書はわたしたちに東方の占星術の学者たちが聖書の御言葉と奇跡によってベツレヘムの町へと導かれ、幼子主イエスが母と共にいます家に入り、幼子主イエスを礼拝したと、次の9節から11節でこのように物語っています。

 

彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

 

占星術の学者たちは聖書の御言葉が示すベツレヘムの町に向けて出発しました。すると、見よ、主なる神の奇跡によって彼らが東方で見た星が現れ、星が彼らをベツレヘムの幼子主イエスのおられる場所へと先導しました。

 

実は9節にも「すると見よ」という驚きを示す言葉があります。わたしたちの聖書には訳されていません。マタイによる福音書はわたしたちに東方の占星術の学者たちが聖書の御言葉と東方で見た星が現れるという奇跡によって幼子がいる所に導かれたという神の奇跡を物語っているのです。

  

だから、マタイによる福音書は、10節で「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」と記しているのです。直訳するとこうです。「それでその星を見て、彼らは非常に大喜びで喜んだ」

 

イングリシュバイブルは、学者たちの喜びを「オーバージョイ」と英語で表現しています。

 

マタイによる福音書はわたしたちに占星術の学者たちの喜びの姿を、次のように証言します。彼らは神の奇跡によって観測した星を再び見出した。その星は彼らを豊年か凶作かを占うことに、あるいは、どこかの国に新しい王が生まれたというお祝いに導くのではなく、彼らの救い主、彼らが真に礼拝すべきお方へと導いてくれた。主なる神に忌み嫌われる魔術師たちが、神の民に先立って幼子キリストへと招かれたと。だから、彼らはまるで聖霊に満たされたように大いに喜んだのだと。

 

 東方の占星術の学者たちは星に導かれた家に入り、母マリアと共におられる幼子主イエスを礼拝し、黄金、乳香、没薬を献げました。博士たちの献げものは、彼らの幼子主イエスへの献身のしるしでした。

 

マタイによる福音書はわたしたちにこのクリスマス物語で何を伝えようとしているのでしょうか。わたしは、メシアを求めて旅をすることだと思うのです。人生は旅だと言われます。

 

東方の占星術の学者たちはユダヤに輝く星を見て、彼らの人生をある意味で星に委ねて旅をしました。その旅で彼らは聖書に出会いました。そして彼らの希望がベツレヘムに生まれられた幼子主イエスであると知り、幼子主イエスを礼拝するその喜びを味わいました。

 

わたしも東方の占星術の学者たちと同じだと思うのです。

 

わたしはノンクリスチャンの家庭に生まれ、19歳の時にキリスト教の大学で聖書とキリスト者の教師に出会い、教会に導かれました。

 

教会では毎週日曜日の主日礼拝で聖書が読まれ、説教がされていました。わたしは聖書と説教を聞き続けました。熱心な求道者ではありませんでした。礼拝中によく眠っていたからです。しかし、礼拝で説教を聞き続けて1年と3か月で本当に奇跡が起こりました。わたしが説教で聞き続ける十字架のキリストを、聖霊がわたしにわたしの罪のために死なれたと信じさせてくださったのです。聖霊が与えてくださった信仰によってわたしは主イエスを信じて洗礼を受け、キリスト者となりました。大学を卒業し、神学校に入り、卒業して伝道者になりました。43年間教会の牧師として働くことが許され、今年八月で牧師の定年となりました。今は毎週主の日の礼拝で説教奉仕をし、教会に仕える恵みを感謝しています。

 

マタイによる福音書を読んでいまして、クリスマス物語は主イエスとわたしたちの物語であると、わたしは思うのです。博士たちのようにわたしたちも人生に希望を求めて旅をしているのです。そしてわたしたちも聖書に出会い、教会に導かれました。そこで礼拝の聖書とその説き証しである説教を通して主イエスにお会いしたのです。その主イエスはわたしの罪のために十字架に死なれ、わたしの永遠の命の保証として復活されたお方です。そしてわたしたちは聖霊によって信仰という奇跡の賜物を与えられたのです。その信仰によって主イエスをわたしの神と信じる喜びが生まれ、賛美が生まれました。

 

本日のクリスマス物語はメシアを求めて旅するこの教会の、わたしたちの物語でもあります。だから、わたしはお勧めします。どうかここにお集まりの皆さま、これからもこの教会の礼拝を通して主イエスを求めて旅をしてほしと思います。聖書の御言葉と聖霊が皆さまを主イエスとの出会いの喜びへとお招きくださるように、お祈りしたいと思います。

 

お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、クリスマス礼拝にわたしたちをお招きくださり感謝します。

 

東方の占星術の学者たちのように、今朝わたしたちは幼子主イエスが生まれられたことを祝うためにここに招かれました。

 

どうか、聖霊よ、本日の聖書と説教を通してわたしたちをキリストに出会わせてください。この後の聖餐式とクリスマス茶話会を通して、わたしたちがキリストと共にある喜びを味わわせてください。

 

 

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。