2025年3月30日
フィリピの信徒への手紙3:17-4:1
「天に市民権がある幸い」
山下正雄牧師
序
世の中にはいろいろなランキングがあります。その中のひとつにパスポートランキングというのがあります。パスポートにもランキングがあるというのはちょっと不思議な感じがするかもしれません。どこの国の人でも自分の国のパスポートしか持つことはないでしょうから、ランキングといわれてもあまり実感がないかもしれません。
ところが、実際、パスポートにもランキングがあるようです。2025年1月現在のパスポートランキングの1位は、シンガポール。その次が日本です。いったい何が基準かというと、ビザなしで渡航できる国がいくつあるかの数でランキングを決めているそうです。シンガポールは195、日本は193の国々や地域にビザなしで行くことができます。ビザなしでいける国が多いということは、その国が国際的に信頼され、安定しているからです。ちなみにアメリカは10位で186ヶ国です。大国である反面、敵対国も多いということでしょうか。
今日取り上げる個所には、「本国」という言葉が出てきます。口語訳聖書では「国籍」と翻訳されていましたが、「国籍」という概念が生まれたのは近代国家が誕生するようになってからのことですから、パウロの時代には現代のような「国籍」という考えはなかったでしょう。そこで使われている「ポリテウマ」という言葉は、ローマ市民がもつ権利や義務、市民としての所属を意味する言葉でした。もし私たちがキリストにある者として「その所属を天に持つ者」だとすれば、その特権はどれほど大きなものかと思います。
1. フィリピの教会の生い立ちとこの手紙が書かれた時の状況
さて、本題に入る前に、今日取り上げるこの手紙の宛先であるフィリピの教会について少しだけお話しておきたいと思います。
フィリピは、古代マケドニア王国のピリッポス2世によって建設されたことからその名前がフィリピと呼ばれるようになりました。現在のギリシャ共和国北東部、東マケドニア地方に位置しています。このフィリピの信徒への手紙が書かれたローマ帝国時代には重要な植民都市として栄えました。使徒言行録16章12節には「マケドニア州第一区の都市」と紹介されています。
パウロがこの地を訪れたのは第2回の伝道旅行の時でした。この2度目の伝道旅行は、スタートの時点から波乱でした。最初の伝道旅行を共にしたバルナバとは喧嘩別れになって、パウロは別の道を進むことになります。ところが、予定していたアジア州では、み言葉を語ることが聖霊によって禁じられ、場所を移動してもなお、思うように伝道が進みませんでした(使徒16:6-7)。人間的な目から見れば、失敗続きの伝道旅行です。
しかし、その背後には、深淵な神の御計画がありました。小アジアを抜け出してヨーロッパへの伝道の道が備えられていたからです。パウロは自分を招くマケドニア人の幻を見て、ヨーロッパへと足を踏み入れます。最初に訪れたのがフィリピでした。川岸の祈り場で福音を語るパウロの話を聴いて、早速紫布を扱う女性リディアとその家族が洗礼を受けます。けれども、長くはこの町にとどまることはできませんでした。
パウロのせいで占いで金儲けができなくなったと憤る男の訴えによって、パウロは投獄されてしまいます。翌日には釈放されたものの、パウロたちはフィリピの町から追放されてしまいます。
フィリピの教会はこのような始まりでしたから、パウロから時間をかけて十分な教えを受ける機会もなかったことでしょう。しかし、この手紙には、フィリピの教会の人たちがパウロの働きのためにどれほど献身的に尽くしたかが記されています。
「マケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした」(フィリピ4:15)。
今、パウロはこの手紙を獄中から書いていますが、その獄中にいるパウロを物と人のやり取りで支えたのもフィリピの教会の人たちでした。
「喜びの手紙」と呼ばれるこの手紙ですが、今日取り上げる3章に限って言えば「喜び」の文字はほとんど出てきません。「あの犬どもに気をつけよ」と語気を荒げるパウロです。前後の文脈からは異質な印象さえ受ける3章です。それもそのはずです、パウロが宣べ伝える福音から外れた教えを吹き込む者たちが忍び寄って来ていたからです。たとえその教えがもっともらしく見えたとしても、それはパウロが伝える福音の本質をゆがめてしまうものでした。その問題を扱っているのが今日取り上げる個所の文脈です。
2. パウロに倣う者となるとは
パウロが戦っている敵対者が具体的にどんな主張を持っていたのかは、この短い手紙から明確に描き出すことはできません。しかし、この手紙の書き手であるパウロにも、受け取り手であるフィリピの教会の人たちにも敵対者の姿は明らかであったはずです。少なくとも、一方ではユダヤ教の影響から抜けきれない人々がおり、他方ではヘレニズム社会に蔓延していた放縦な生活に影響を受ける人たちがいたことは、この手紙に描かれている敵対者の姿から明らかです。
それに対して、パウロは一方ではキリストとの出会いを通して与えられた救いの確信が、どれほど素晴らしいものであるかを語っています。それはパウロ自身がユダヤ教の信徒として生きて来た時には味わうことのできなかったものでした。パウロがユダヤ教徒として持っていた過去の経歴は、自慢しようと思えば、他者にいくらでも自慢することができるものでした。しかし、キリストとの出会いに比べれば、それらはちり芥のように色あせてしまします(3:7-8)。
同時に他方では、パウロは自分自身を完成への途上にある者として描いています。ちょうどゴールを目指して走るマラソンランナーのように自分姿をイメージしています(3:14)。しかし、その完成へと向かう道は、パウロにとっては決して不確かな道ではありません。なぜなら、キリストが自分を捉えてくださっているからです(3:12)。
パウロはキリストにある救いの確信を語っていますが、完成のゴールに自分がすでに立っているとは考えていません。ただキリストにしっかりと掴んでいただきながら、完成へと向かうレースを走り続けているのです。
こうしたパウロの福音理解に対して、パウロに敵対する人々はゴールへの近道を考えていたのかもしれません。あるいはバイパスを通ってすでにゴールにたどり着いたと不遜にも唱えていたのかもしれません。
わたしが子供の頃、「即席」という言葉がありました。今はあまり使われなくなりましたが、その代表は「即席ラーメン」でした。「即席」に変わって、今では「インスタント」という言葉の方がよく使われるようになりました。日本語が英語になっただけで、本質は変わっていません。何でも簡単にすぐできるものがもてはやされる時代は、今も昔も同じです。忙しい時代になればなるほど、時間が節約できるものは重宝がられます。確かに、事と次第によっては、インスタントなものの方が優れていることは否定できません。
では、即席クリスチャンとかインスタント・クリスチャンなどがもてはやされるかと言えば、ちょっと考えただけでもぞっとしてしまいます。しかし、言葉にしてみるとおかしいとすぐ気がつくことでも、案外、インスタントな信仰の成長を求めてしまいがちなのがわたしたちの弱さです。
フィリピの信徒への手紙が問題にしている福音の敵対者たちは、ある意味で言えば、インスタントに手に入れた救いの完全さを主張する者たちだったのかもしれません。それは明らかに聖書が説く福音ではありません。
パウロは、パウロはフィリピの信徒たちに「私に倣う者になりなさい」と勧めています(3:17)。これは、パウロ自身の生き方を模範として示すものですが、肝心なことは、パウロのどういう点に倣うことをパウロはフィリピの人たちに期待しているかということです。
パウロは色々な機会に自分に倣うようにと教会員たちに勧めていますが、けっして完成された見本としてパウロを模範に歩むようにと言っているわけではありません。むしろ、この勧めの言葉は、直前のところでパウロがクリスチャンとしての自分の歩みについて触れていることと深く関係しています。
パウロは「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」クリスチャンでした(3:13-14)。既に完全な者となっているわけではなく、何とかして捕らえようと努めている、そういう姿のクリスチャンです。
パウロが「自分に倣いなさい」といっているのは、正にパウロのそういう姿のことです。敵対者たちとは違って、パウロは決して自分を完全なものだとは思っていません。むしろ、ゴールを得ようと懸命に走るマラソン選手のようです。
では、パウロが「あの犬ども」(3:2)と呼んで、警戒するようにと勧めた「福音の敵対者たち」はどうなのでしょうか。パウロによれば、彼らは「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」(3:18)と呼ばれます。彼らの主張は耳に心地よく、魅力的な教えだったのかもしれません。しかし、どんなに素晴らしく見えたとしても、それは結局のところ滅びに行きつく間違った教えなのです。その彼らの生き方に倣えば、自分もキリストの十字架に敵対して歩む者となってしまいます。せっかくキリストが十字架の上で貴い血潮を流され、贖って下さった罪の問題を、なかったことのようにしてしまうからです。
パウロは涙ながらに「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い」と語っています。この間違った教えの影響をフィリピの教会員たちがどれほど受けてしまったのか、はっきりはわかりません。しかし、決して侮れないくらいの敵対者たちがフィリピの教会の回りを囲んでいることに気が付くことが大切です。
パウロは彼らの本質を、結局のところ「この世のことしか考えていない」…そういうこの世の者たちだと評します。「自分たちはすでに完全にされている」、「自分たちは天に属する者だ」…そう思い込んでいる彼らが、実は地上にしか思いのない人たちだと言うのです。彼らは壮大な天の救いの計画を少しも知ってはいないのです。
3. 自分が所属する天に心を向けて生きる
このような地上のことにしか思いがない敵対者と対比して、パウロは「わたしたちの本国は天にある」と宣言します(3:20)。この「本国(ポリテウマ)」という言葉は、単に「国籍」を指すものではありません。今日の初めにも述べた通り「市民権」の概念を含んでいます。フィリピの町はローマの植民都市でした。住民の多くはローマ市民権を持っていました。ローマ市民権は特権的な地位を意味し、法的な保護や社会的な利益をもたらしました。実際、パウロはフィリピの町で投獄されたときに、自分がローマの市民権を持つことをたてに、裁判にもかけずに投獄した不当性を主張しました。その事実を知った高官たちはパウロを尋ねて謝罪したほどでした(使徒16:37-39)。パウロは、この背景を踏まえて、私たちクリスチャンが天の市民であることをと語っているのです。
福音音の敵対者から見れば、パウロを初めとするクリスチャンこそまだこの地上のことから抜け出せない者たちなのかもしれません。しかし、クリスチャンはこの世でどんなに小さな者であったとしても、与えられた天の国籍によって身分が保証されています。
パウロが賞を目指して走っているそのレースは、実は挫折し、脱落するかもしれないレースなのではありません。天に所属する者が自分のふるさとに帰るレースであり、旅なのです。天に属する者にふさわしく、キリストの栄光の姿と同じ姿に変えられる保証と希望がクリスチャンには与えられています。
このレースの道のりは長く、また、辛く感じられるかもしれません。もっと手早い方法で栄冠を手に入れたいとそう思うかもしれません。しかし、救いの完成のための抜け道を探すよりも確実なのは、キリストを信じる者には既に天の市民権が与えられているという事実なのです。
国籍があるということは、ただの概念なのではありません。この身分にはあらゆる特権が付随しています。今は外国に寄留している状態なのかもしれません。しかし、やがては本国に戻ることができます。パスポートを例に挙げると、パスポートが役に立つのは海外にいるときだけではありません。帰国したときにこそ、自分の国の国籍を証明するパスポートは役に立ちます。国籍のある者が自分の国に入れるのは当然のことです。自分の国に戻るときには、長い入国審査の列に並ぶ必要はありません。しかし、国籍を持っていない人は、入国審査の時にいくら自分が完全なものであるかを言い立てたとしても、それは何の訳にも立ちません。
それと同じように、イエス・キリストの救いの御業を通して天に本国を持つ者にとって、この特権こそがゴールを保証しているのです。この希望をしっかりと持って生きること、そのことが地上に生きるクリスチャンには求められているのです。
これらのことを理解した上で、現代に生きる私たちの信仰生活にパウロの言葉はどのように適用できるでしょうか。
第1に地上のものに心を奪われない生き方です。現代社会では、富や地位における成功や刹那的な生き方を是とする価値観が強く求められます。しかし、私たちの本国は天にあり、私たちの価値基準はこの世のものとは異なります。パウロは別の手紙の中でこう語っています。
「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:2)
第2にキリストの再臨を待ち望む生活を送ることです。目に見える現実だけでなく、天の希望を見つめることで、どんな試練の中にあっても忍耐し、喜びを持つことができます。視野を天に広げることができるのはクリスチャンの特権です。この地上での暮らしは一時にすぎません。天での永遠に比べれば、瞬く間のことでしかありません。もちろん、地上で生かされる時間には意味がありますが、天に軸足を置くときに地上での生き方の意味が変わります。
第3に霊的な成長を求めるということです。パウロが「私に倣いなさい」と言ったように、私たちも信仰の先輩たちから学び、共に成長する歩みを重んじることが大切です。先を走るランナーから学ぶことは、自分の後を走るランナーにも受け継がれていきます。決して前人未到の道を孤独に走り続けているのではありません。何よりも走る私をキリストが捉えてくださり、同じようにキリストによって捉えられた信仰者たちとともに完成へと向かうレースなのです。
最後に、パウロは「こういうわけですから、私の愛する兄弟たち、しっかりと主にあって立ちなさい」(4:1)と勧めています。これは、私たちが信仰の確信を持ち、動じることなく歩むようにという励ましです。
私たちの本国は天にあります。この地上での歩みは旅路にすぎません。しかし、私たちは確かな希望を持っています。この希望を胸に、主にあって堅く立ち続けてまいりましょう。
2025年4月20日、上諏訪湖畔教会・説教語りだし
イースター、おめでとうございます。懐かしい上諏訪湖畔教会の皆さまとご一緒にイースターの礼拝を捧げられることを、心から感謝申し上げます。今日は、お読みいただきましたヨハネ福音書20章19-23節から、ご一緒にイースターの恵みをいただきたいと願っています。
最初にお話ししたいことは、イースター・復活節の大切さであります。日本ではキリスト教の祝祭日と言うと真っ先にクリスマスを挙げますが、キリスト教信仰にとって最も大切な祝祭はイースターです。クリスマスは紀元4世紀頃にローマの教会から始まりますが、イースターはキリスト教の起源そのものなのです。
「主はよみがえられた」、ここからすべてが始まります。主イエスの十字架の贖いがキリスト教救済の中心的な事柄ですが、実は主イエスの復活があってのことです。イエス様が十字架で死んで、死んだままであったら、十字架の贖いも何もありません。使徒パウロがローマ書の冒頭で「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」(1:3,4)と記すとおり、主イエスの復活にキリスト教信仰の生命と成立とがかかっているのです。
そのため、4つの福音書はいずれも、イエス復活の事実をしっかり受け入れてほしい、しっかり信じてほしい、と丁寧に記しております。福音書の構成は、イエスの十字架と復活のメッセージを中核とし、土台として、その上にイエスのご生涯が物語られ編集されているのです。では、ヨハネ福音書の記述に従って、主イエスの復活の出来事とその意味を学んで参りましょう。
上諏訪湖畔教会イースター記念礼拝 望月 明 引退教師
箴言二章 「知恵を授ける主」 岩崎 謙 引退教師
25年5月18日(上諏訪湖畔)
この度は、説教奉仕のお招きにあずかり、皆様と一緒に礼拝を守ることができますことを、主に感謝しています。22年9月末をもって、病気療養のため、教師を引退しました。ですが、20年承認の新薬が効き、現在はこのようにほぼ毎主日、奉仕を許されています。それも、宇都宮、佐久といった遠方での奉仕を定期的に行っています。車での移動が中心で、毎主日、夫婦で小旅行している感じです。今年は、上諏訪湖畔で4回の奉仕予定があり、楽しみに参りました。
箴言2章という朝拝説教箇所として珍しい箇所から解き明かします。この点についても説明します。信徒向けの『新実用聖書注解』(いのちのことば社、既刊)の箴言の項を2017年度版の新改訳聖書をもとに書き換える仕事を引き受けました。他教会で1章から説教し、順番で今日は2章を扱いました。これからのことですが、箴言がフィットする教会もあれば、別の聖書箇所が相応しい教会もあります。これからの交わりの中で検討させていただきます。箴言の序論的なことは、2章の解き明かしの中でも触れることとし、早速2章を読んで参りましょう。今日は、1節から8節を主に扱います。
1~4節 「わが子よ」 親が子どもに語りかけています。2,3,4節に、「なら」とあります。「もし」という言葉は訳出されていませんが、1節~4節は、「もし」で始まる条件文です。「わが子よ、もし、あなたが〇〇すれば」が、1~4節まで続きます。条件文には、「すると、〇〇であろう」という帰結文が伴います。帰結文は、5節と9節です。
1節 「わたしの言葉、戒め」とあります。父の言葉です。
父の言葉を「受け入れ」ることから、すべてが始まります。そして、「受け入れ」るとは、一体どういうことなのかが、展開されていきます。「大切にして」を直訳すると、「蓄える」です。それも訳出されていませんが、「あなたと共に」という言葉があります。「あなたと共に蓄える」とは、肌身離さず持ち歩けるように、そして、いつでも取り出せるように心に蓄える、ということです。「キリストの言葉があなたの内に豊かに宿るようにしなさい」(コロ3:16)という御言葉を思い起こしてもいいでしょう。
2節a 父の言葉と戒めが、「知恵・英知」と言い換えられる。表現は違いますが、2節の「知恵」・「英知」と3節の「分別」の内実は、同じです。これらの言葉は、箴言のキーワードです。父の「わたしの言葉」(1節)が、箴言が与える知恵・英知・分別です。6節を見ますと、「知恵を授けるのは主」とあります。主なる神は、御自分の知恵を、父の教えを介して、子どもに伝えておられます。子どもが、父の言葉を受け入れなければならないのは、父の言葉が神の知恵を語っているからです。私は、牧師の子どもです。小さい時から、父の説教を聞いていました。思春期になると、それなりの反抗期もありました。父の言葉は聞きたくないと思いました。しかし、父の説教の言葉は、神の言葉なので聞かねばならない、とも思いました。箴言において、このような葛藤が子どもにあったかどうか分かりませんが、神の知恵を伝える父が身近にいるとは、幸いなことです。皆様にとられましては、父の言葉は、毎週の説教者の言葉となります。多くが集う礼拝か、小さな群れの礼拝か、で礼拝の雰囲気は若干異なります。しかし、変わらないのは、神の知恵を伝えてくれる教師が身近に与えられているという喜びです。感謝です。
2節b~4節 父の言葉は、神の知恵を伝えていますので、受け入れ、心に蓄える価値があります。その蓄え方が、段階を追って記述されています。
2節:耳を傾け、心を向けるなら、とあります。自転車に乗ることを覚えるには、本で学ぶだけでなく、実際に乗ってみることが必要です。「耳を傾ける」という言葉は、言葉としては誰でも理解できます。では、どのようにすることが「耳を傾ける」でしょうか。自分で実践するしかありません。また、それと並んで、「心を向ける」とあります。パラレルで同じことが語られているのでしょう。ですが、「心」は聖書において、箴言において、重要な言葉です。意図的に「耳を傾け続ける」ことと、知恵と向かい合う心が形成されることの密接な結びつきを、ここから読み取ることができます。私たちの心は、いつも何と向かい合っているでしょうか。生きていく上で、日々多くの心配事があります。仕事をする上で、納期があれば、それに間に合わすので必死になります。そのような生活においても、知恵に耳を傾ける習慣をもつことによって、知恵に心を向ける自分を形作っていることになります。
3節:「呼びかけ」「声を上げる」と続きます。耳を傾け、内側に知恵に心を向ける自分を形成するだけでなく、もっと積極的に、知恵に向かって声を上げます。知恵に向かって呼ばわり、声を上げるとは、祈りと賛美を伴いながら知恵を求める姿です。
4節:そしてその求め方が、比喩で説明されています。「銀を求める」とあります。当時は、銀は金よりも貴重だったのでしょう。宝物と言葉が重ねられます。鉱物としての銀ではなく、加工された美しさをまとっているのでしょう。宝物のように探すとは、知恵を宝物のように価値あるものと見なす、というのが大前提です。知恵の本当の価値を知る者のみが、知恵を宝物のように必死で探します。新約を思い起こすと、マタイ13:45-46と7:7-8「求めなさい、そうすれば、与えられる」が浮かびます。
5節 「もし、そのように求めるとすれば」の帰結文です。
「神を知ることに到達します」は意訳で、直訳すると「神を見出します」です。見出す時の喜びを想起してもよいでしょう。神を知るとは、神についての神学的な知識を獲得することではありません。神との人格的な深い交わりの中で、神がどのような方を知っていきます。これこそ、箴言の中心メッセージです。知恵を求めることは、神を見出すことに至ります。また、1節~4節において、求め方が非常に丁寧に語られていました。それは、父の言葉に心で受けとめ、従うことでもありました。神は目に見えませんが、神が遣わしてくださる方の言葉に聴従する中で、神との出会いが与えられることが、ここに記されています。
ここで、1章7節をお開きください。「主を畏れることは知恵の初め」とあります。ここでの「初め」とは、出発点という意味です。或いは、植物に喩えるなら、主を畏れることが根です。地下に根をしっかり張ることによって、知恵の木はしっかり育ちます。主を畏れることが、知恵が与えれることに先行して、語られていました。他方、2章では、その順序が逆になっています。1章と2章を合わせて理解するなら、知恵を得ることと主を畏れることは密接不離な関係にある、ということでしょう。また、2章は、知恵の言葉との真摯な向き合いなしに、主を畏れることはあり得ないという意味で、1章を補足説明しているのでしょう。
6節 帰結文において、6節は非常な重要な視点を提供しています。知恵を求める者が、神を畏れ、神を知る知恵に到達できる、ということがこれまでに語れてきました。6節は訳出されていませんが、「なぜならば」という接続詞で始まっています。神を畏れることに至るのは、なぜならば、主が「知恵を授け」でくださったからです。主は、口を開いてお語りくださったことによって、知恵と英知を与えてくださいました。私たちは、知恵を求める努力を重ねることによって、自分の努力の成果として、知恵を手に入れ、神を畏れるのではありません。幾ら努力しても、神が与えてくださらなければ、私たちは何も手にすることはできません。
また、ここで、「主の口」という表現によって、「父の口」が「主の口」として用いられていたことにも気付かされます。父の口が開き、主の口が開き、聞く者に神の知恵が与えられました。説教をするとは、「主の口」となることでもあります。神は説教者を通して、知恵の言葉を授けてくださいます。「主の口」として用いられることに慄きを覚えます。
7節 「力」は意訳です。2018共同訳では「良い考え」、「2017新改訳では「すぐれた知性」と訳されています。知恵に類するものです。「盾」は比喩です。主は、知恵を盾のように用いて、神に従う人を守ってくださいます。
8節 「道」と「守る」が繰り返し用いられ、強調されています。裁きの道とは、公平な裁きが行われる道です。に裁いてくださる、ということです。神が進まれる道です。「主の慈しみに生きる人」とは、「神の契約において示されている愛に生きる人」のとです。その人の「道」とは、習慣によって踏み固められる人生のことです。神が、これらの道をしっかりと守ってくださいます。
9節 「また」とあります。5節が、1から4節の条件文の帰結文でした。それに続く「また」です。ここに、「正義と裁きと公平」とあります。1章3節を御覧下さい。ここにも同じ言葉があります。知恵と神を畏れることは、個人的な事柄ではありません。人が、神を畏れ、知恵を得る時、社会は「正義と裁きと公平」を尊ぶ社会に変わります。正義と裁きは、ほぼ同じ意味です。そこに公平が加わります。社会的身分、男女差、年齢差関係なしに、正義と裁きが行われます。「すべて幸いに導く」は意訳です。直訳に近いのは、「踏みなさらされた良き道を弁え」る(新改訳)です。正義と裁きと公平は、個人的な資質ではなく、社会が共有するべき特質です。
が変わります。は、5節と同じパターンです。そのようにすれば、悟るであろう。
神を畏れ、神を知る知恵が、社会生活と密接に結び付く。
きがなされる。
10節 なぜならば、 5節:そうすれば、 6節:なぜならば と同じパターン
知恵が来るあなたの心に、神を知る知識があなたの魂にとって喜びとなる。
神が知恵によって守ってくださる。それは、知恵が心に来て、魂に来て、内在化されているから
神が外から奇跡的に一方的に守ってくださるだけではない。
心に宿っている知恵、自分の喜びとなっている知恵が、危機を察知し、守ってくれる。
義務的に、道徳的に、「ねばならない」こととして学ぶ知恵ではなく、心の喜びとなっている知恵
11節 8節と同じ 守る、見守るが繰り返される。
慎重さ 若者に最も必要なもの(1:4)
大胆であってもいい、しかし、誘惑に対しては慎重でなければならない。
何から守られるのか。
イ)12~15節 曲がったことを語る男から
12節 暴言を吐く者 別訳:偽りを語る者 倒錯したことを語る、ねじ曲がったことを語る ⇒ 真っ直ぐにことを捉えず、かつ、ねじ曲がったことを語り、人を惑わし、そのことを喜ぶ
悪を働くことを喜びとするVS主を知ることを喜びとする
彼らの生き方(道)が曲がりくねっており、語ることもねじれている。
現代社会におけるねじ曲がったこと AIの偽情報
昨年公表された事実 或る特定な質問に対して、AIが32%間違った回答をした。
理由 ネット上に間違った情報が溢れ、AIもまたその偽情報を学び、それを真実と誤解した。ロシアが廃刊になった米国の地方紙を用いて偽ニュースを作成し、AIが過去の情報を調べるときに触れるように仕向け、誤った結論へと誘導した。
ねじ曲がったことと真っ直ぐなこととの区別が付きにくい社会
喜んで、ねじ曲がったことを言う人がいる。
父親 このような悪しき者が、「わが子」の周りをうろついていることを知っている。
だから、わが子に、彼らの正体を見抜いて、彼らから離れ、知恵によって自らを守れ
ロ)16~19節 悪しき女
16節 「異邦の女」の場合は、イスラエル人以外 それよりはむしろ よその女、見知らぬ女 若い日の伴侶を捨て、夫婦の契約関係を捨て、家庭を捨て、共同体から離れ、自分の欲望のためだけに生きる。更に、神との契約関係を忘れ、神への畏れを捨てている。自分の欲望のために他者を利用する人。それなのに、「滑らかに話す」人。自分をほめてくれ、言葉から彼女の正体を見抜くことは難しい。
でも、彼女に着いて彼女の家に行くと、死の世界に引きずり込まれる。
「だれも」:例外無しに そこから引き返すことはできない。
悪しき女への道 死に至る 命の道に帰ることはない。
父の息子への教え。娘への教えなら、悪しき男が登場して当然。
20~22節 結論
20節 「こうして」 ねじれた事を言う男から離れ、なめらかなことを語る女から離れ、
彼らから守られることによって、「神に従う人の道」(生き方)を守る。
神に守られている者(8節)が、神に従う人の道を守ることができる。
21節22節 繰り返し出てくる 「地」
地に残される、地から断たれる 受身 行うのは主
悪しき者は神の地を汚す 神が、地から彼らを排除する。
神を知り、畏れることが、知識・知恵の初め。
22節 神によって、断たれ、引き抜かれる。
神は、神の知恵を教える者を立て、子よ、と呼びかけ、教える。彼らが自分から知恵を求める熱意を抱くように、導く。耳で聞くだけでなく、口を開いて呼びかけ、心を傾ける。
神は、その者に神への畏れと神を知ることを与え、かつ、知恵を彼らの中に住まわせ、その知恵によって彼らを守る。
命の道か、死の道か、人生は危険に満ちている。その中で自分を守るのは、神から与えられた知恵。知恵を与えてくださる神への畏れ。神との交わり。神の民は、このような教えを聞き続けて歩んで来た。自分もこの神の民が踏み固めた道を歩む。その道から離れ、捻れた男や単独者としてさ迷う女がいるが、惑わされるな。
神は、私たちが命の道を進むように、キリストを与えて、教会の一員としてキリストの道を歩めと呼びかけておられる。