箴言22:1~16 「金持ちと貧乏人」 26年3月8日(上諏訪湖畔)
岩崎 謙 引退教師
前回は11月の奉仕で、11章からお話しました。あれからだいぶ進んで、今日は22章からです。22章16節で、10章1節から始まった大きな段落が終わり、22章17節からは、新しいセクションとなります。その大事な締め括りの部分で扱われています事柄は、富に関すること、偽りの言葉、若者への教育の必要です。箴言は、実践的な生き方を語っています。お金とどのように向き合うかは、日常生活においていつも悩むことです。
上諏訪湖畔教会で前回11章から何を語っていたかを、説教原稿を書く直前に確認しました。すると、富について語っていました。「富に依存する者は倒れる。神に従う人は木の葉のように茂る」(11:28)とありました。今日の説教題は「金持ちと貧乏人」です。前回のメッセージと本日のメッセージとはダブっている点があります。富の問題は箴言が繰り返し語っている大事な事柄として、ご了承ください。
1節 「名誉は多くの富よりも望ましく、品位は金銀にまさる。」
箴言は富が良いものであることを認めていますが、富の価値を相対化します。富より良いものがあります。多くの富を持つよりも、金銀に囲まれているよりも、名誉が与えられている方が良い、と箴言は語ります。後半の「品位」は直訳すると「恵み」です。人望、愛されること、愛顧を受けること、とも訳されます。人に軽んじられることなく、愛される健全な人間関係を築ける祝福は、物質的な祝福よりも、まさっています。人望とか名誉とか言うと大袈裟に聞こえるかもしれませんが、ですが、神からの恵みを受け、神と人から愛される祝福は、お金で計ることができない大きな祝福です。また、1節を金持ちへのメッセージとして読むと、納得できます。金持ちは、金銀に囲まれ、金があることにおいて祝福されています。しかし、人望のない、人から愛されることがない金持ちは幸せでしょうか。金持ちは、富があるから自分は祝福されているという時点で留まってはなりません。人望がなければ、愛されることがなれば、富だけあっても虚しいことに気付かねばなりません。そして、お金では、本来、人望も愛されることも買うことはできません。
2節 「金持ちと貧乏な人が出会う。主はそのどちらも造られた。」
金持ちと貧乏な人との対比は1~16節の中で度々取り上げられます。7,9,16節朗読。
金持ちと貧乏人は、社会においては全く違います。着ている物も食べている物も住んでいる家も違うでしょう。しかし、箴言は「主がどちらも造られた」と告げます。創世記の創造物語で理解するなら、どちらも被造物であり、どちらも神の形を宿しています。どちらも人間です。社会的に表れている程、両者の違いは大きくないことに、読者の目を向けさせます。金持ちであるか、貧乏人であるかは、主の前ではおそらく些細なことでしょう。このことを理解しますと、金持ちが貧乏人の上に立ち威張っている姿は滑稽に映ります。
4節 「主を畏れて身を低くすれば、富も名誉も命も従って来る。」
ここには原文では、「報い」という言葉と、「謙遜」という言葉と、「主を畏れること」という言葉とが並んでいます。謙遜と主を畏れることとは、別の二つの事柄というより、主を畏れるということが人を謙遜にさせる、と理解できるでしょう。高慢な者は主を畏れることを知らず、謙遜な者は主を畏れる生活をしています。そして、謙遜で主を畏れる者に与えられる報いが、富と名誉と命です。ですから、富と名誉と命を与えらた者は、自らを誇ることはあり得ません。謙遜な者への報いですから、誇り出すなら、謙遜な者ではなくなり、富も名誉も命も即、奪われるでしょう。富と名誉と命が許されたなら、私たちにできることは、主なる神を畏れ、主なる神に感謝することだけです。
7節 「金持ちが貧乏な者を支配する。借りる者は貸す者の奴隷となる。」
箴言には、かくあるべしという勧告だけでなく、現実を観察する社会描写が多々記されています。ここもそうです。当時、利息は高いと50%、低くても20%で、支払うのが大変な額でした。すると、返済できない者が当然でます。聖書では、貧しい者から利息を取ることを禁じていますが、箴言の時代になると守られていなかったようです。貧乏には、金持ちに支配され、金を借りようものなら、奴隷に身を落とします。ここでの奴隷とは、売り飛ばされるというより、こき使われる、ということです。多くの場合、貧乏人は、金持ちより苦労の多い人生を歩むことになるでしょう。
9節 「寛大な人は祝福を受ける。自分のパンをさいて弱い人に与えるから。」
7節の後に9節が続きます。7節が社会描写であったとしても、神の祝福は「貧乏な者を支配する」金持ちには向かわないことを、9節は指し示しています。寛大な者、気前のいい者、弱い人に無慈悲な対応を取らない者をのみ、神は祝福されます。「自分のパンをさいて弱い人に与える」人は、金持ちとは限りません。限られたパンの中からでも、それをさいて貧しい人に与える人がいます。そのような人こそが、祝福されます。だとすれば、有り余るパンを持つ金持ちが貧しい人を助けなれば、それは、神の怒りの対象となることでしょう。そして14節を見るならば、神の憤りに触れた者は、性的な誘惑に捕らえられ、身を滅ぼすことになります。
8節 「悪を蒔く者は災いを刈り入れる。鞭は傲慢を断つ。」
悪を蒔く者が神の祝福を刈り取ることはあり得ません。悪を蒔いたなら、刈り取りは災いしかあり得ません。悪とは人に害を及ぼすことです。8節は、7節と9節の間にあるから、明確な意味を持ちます。主なる神は、寛大な人を用いて弱い人を守ってくださるだけでなく、貧しい者を虐げる金持ちに災いを送り、守ってくださいます。8bの鞭の解釈は困難ですが、ここでの意味は、金持ちの傲慢さが断たれることです。貧乏人に無慈悲に接する者は、必ず、神によって無慈悲に取り扱われる結末を刈り取ることになります。
16節 「弱者を搾取して自分を富ませたり、金持ちに贈り物をしたりすれば、欠乏に陥る。
お金がない弱者からさらにお金を搾り取って自分を富ませようとする者は、神の裁きに遭い、欠乏に陥ります。同様に、お金を一杯持っている金持ちにさらにプレゼントをして、金持ちの好意を買い取り、やはり自分を富ませようとする者は、神の裁きに遭い、欠乏に陥ります。7節だけを取り出しますと、冷徹な経済論理だけが日常生活を支配しているように思われますが、箴言22章1~16節をまとまりとして読むと、金持ちに対する厳しい警告と貧しい人への主の憐れみが、ここに豊かに示されています。
この締め括りの段落で、是非、触れておかねばならないメッセージがもう一つあります。若者の教育です。若者に知恵を学べと語りかけるよりもむしろ、両親に子供をしっかり教育するようにと促しています。我が家には子供はおらず、実際にわが子の教育に携わったことはありません。ですが、教会においては、契約の子の教育は必須事項です。また、受洗教育も必要です。何よりも、自分自身が生涯、教育を受ける必要があります。箴言を通して、これまで以上に教育の大切さに気付かされました。
6節 「若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれることがないであろう。」
1節~16節において、若者は6節と15節に登場します。親が若い時代にしっかり教育をほどこせば、子供は年老いてもそこからそれずに、知恵の道を歩む、とあります。若者を教育するのは、年老いても、そこに立ち帰ってくる基礎を若い時代に築くためです。ところで、親が同じように教育しても、兄弟がいれば、兄と弟では、教育への反応は違います。子供教育がしっかりできていないときに、この聖句を思い出して、若い時にちゃんと教育しなかったからだと、親が悩むことがあるかもしれません。しかし、この聖句は、親を責めるものではありません。箴言全体のメッセージにおいては、教育を受けた子供の責任が厳しく神の御前では問われています。
若者への教育が必要な理由が、15節に記されています。
15節 「若者の心には無知がつきもの。これを遠ざけるのは諭しの鞭。」
若者の心に、愚かさ、無知が棲みついています。若者に、悪いことをしなさいと教える必要はありません。教育されずにほうっておかれるなら、必ず、悪いことを始めるでしょう。他方もし、若者が謙遜で神を畏れる者として育つとしたら、それは神を畏れることを教育されたからです。人間は生まれつき、神を畏れる訳ではありません。御言葉の教育を受けて、箴言の知恵を学んで、神を畏れ、謙遜な者へと変えられます。6節を逆から言い換えると事柄が明らかになります。若者に神を畏れることを教育しないと、神を畏れない者として大きくなり、自分の目に良いと映ることだけを行う者となります。そして、神の道を逸れ、神の裁きを受けます。これは、大人になっても同じです。御言葉から神を畏れることを学び続けないと、自分勝手に生きる者になってしまいます。
若い人への教育の必要性を語る文脈の中に、富の問題が丁寧に扱われていることには大きな意味があります。良く勉強しても、良い学校を出たとしても、ともすると、それらの目的は多くのお金を稼ぐことになります。しかし、お金を稼ぐことを目標とするとき、そこには幸せはありません。医者であっても、会社の社長であっても、同じです。お金がなく、金持ちに支配される貧乏人の悲哀は辛いです。ですが、その中で、人の優しさや神の愛顧に触れる可能性に開かれています。他方、金持ちになったことで、一時的に楽しい時を過ごしたとしても、本来の人生の目的から逸れ、傲慢になり、神の裁きへと落ちて行く人生は貧乏な人生よりももっと惨めです。若い人には、特に若い時から、お金以上に価値あるものが人生をあることを、しっかり教えなればなりません。謙遜で神を畏れることを学ぶことがなによりも必要です。
自らを振り返るとき、謙遜さにおいて、神を畏れることにおいて、貧しい者への憐れみの業において、不十分な者であることを認めざるを得ません。親の教育が悪かったからでしょうか。親が幼い頃にもっとちゃんと教育していてくれたならば、このような大人にはならなかった、と恨み言を言うのでしょうか。自分が今の自分であることの責任は、親ではなく、自分にあります。日々悔い改め、生きていくしかありません。また、自らの欠けを知るからこそ、主イエスの十字架にすがるしかありません。弱い者に憐れみ深い者になれという箴言の教えを神ご自身が実践してくださり、神は主イエス・キリストにあって、弱い者、罪深い者に憐れみ深く接してくださいます。感謝しかありません。
箴言31:10~31 「有能な妻」 岩崎 謙 引退教師
26年5月10日(上諏訪湖畔)
前回、3月に22章から「金持ちと貧乏人」という題で説教しました。次回は9月です。その時には箴言の連続講解説教は終わっています。本日が、上諏訪湖畔教会で箴言を語る最後となりました。細田長老が、以前、箴言なら31章が聞きたいと語っておられた言葉を思い出し、連続講解説教の順序とは違いますが、本日は箴言最後の31章を取り上げます。
箴言の最後に有能な妻が取り上げられていますのは、意味があってのことでしょう。箴言において、父は子に、知恵の教師は生徒に、遊女に心惹かれることなく、知恵ある妻をめとるように勧めていました。そして、最後の章で、知恵ある妻をめとった夫の幸せが描かれています。箴言を読む若者は、このような妻をめとりたいと願ったことでしょう。
しかし、31章に描かれています妻の姿は、素晴らしすぎます。現実離れしていると言えるかもしれません。ここまでの理想を妻に求めていたら、誰も結婚できないのでは、とも思いました。或いは、御婦人の方から、自分はこのような女性になれない、と落ち込むのでは、とも思いました。説教準備中に、或る小話と出会いました。31章を学んだ夫が妻に、「あなたはこのような知恵ある妻ではない」と非難しました。すると妻は、「そんなことを言うあなたは知恵ある夫ではない」とすぐ反論しました。31章を学んでも、こんなことを言い合っていては夫婦仲が悪くなるばかりです。私たちは知恵深く31章から学ばねばなりません。どのような姿が知恵ある女性であるかを学ぶことは、知恵ある女性に近づく第一歩です。イスラエルにおいて確かに、31章の妻はすべての者が目指すべき模範として機能していました。すべてにおいて優れている妻ですが、その中でも一体何が一番良かったのかを探りつつ、読んで参りましょう。
10節 修辞疑問文です。通常は、誰も見いだせない、となります。彼女は、探すのが困難な真珠よりもはるかに価値ある女性です。ですがこの後、この妻を見いだした夫が登場します。箴言は、彼女のことを空想上の人物として描いているのではありません。
11節 夫は、心から彼女を信頼しています。聖書では、神以外のものを信頼するな、と教えています。夫が妻を信頼することと、夫が神を信頼することは、信仰者の夫にとって矛盾しなかったのでしょう。このように妻を信頼できることこそが、夫にとって大いなる幸いでした。
夫と妻との関係は、31章の中心テーマです。12節 彼女は、生涯、夫のために良かれと思うことを行います。夫の悪口を言ったり、夫に不利益をもたらすことはしません。23節に夫が紹介されています。城門で座に着く、とあります。門は、裁判の場であり、公的な交流の場です。門で座に着くとは、人々に認められている証拠です。長老とは、町の重鎮です。彼は重鎮の一人で、名が知られており、尊敬されています。この夫の姿を31章の文脈の中で理解しますと、彼女が夫を支えていたので、夫は社会的な活躍の場を広げることができた、となります。28節と29節は、家族からの彼女への賞賛です。29節は夫の言葉です。有能な女は他にもいたのでしょうが、夫からすれば、そのような女とは比べることできないほど、彼女は優れています。これは、妻への最高の褒め言葉です。夫がこのように妻を尊ぶこともあり、子ども達も母を褒め、尊びます。子ども達の心にも育ててもらった母の愛がしっかり宿っていたのでしょう。箴言は、子どもからも夫からかくも尊ばれる女性の姿で締め括られています。知恵ある女性を尊ぶ文化において、男尊女卑という概念はありません。
11節b には、「儲けに不足することはない」とあります。儲けは稼ぎと訳されることもあります。有能な妻は、夫に尽くす心持ちが素晴らしいだけでなく、家計を支えることにおいて卓越した才能をもっています。自ら積極的に働いて、家計を襲うであろう経済的危機から家族を守ります。13節 手先が器用です。素材から思いのままに必要な製品を作り出すことができます。24節 作った商品を商人に売り、家計を助けます。18節 商売が好調かどうかを気にしています。そして、商売が上手くいく喜びを味わっています。灯は夜も消えないとは、夜通し働くということではありません。灯が消えるとは、没落する、という意味です。彼女の家は、彼女の働きによって、豊かさを保ち続けることができます。
また彼女は事業拡大を考える人です。16節 今日風に言い換えれば、凄腕のビジネスウーマンです。ブドウ畑を買うべきか、どこの畑を買うのか、練りにねった計画を立てます。自分の稼ぎによって、ブドウ畑を購入し、プランを実行します。そして、開墾して立派な畑にします。17節 実際に力強かったというより、働くことにおいて、彼女は強靱でした。奴隷や使用人がいましたが、彼女自身が帯をして率先して働きました。
そして、彼女の働きの中心にはご飯作りがありました。14節15節 朝早く起き、家族のためにパンを焼きます。召し使いもいる大家族です。召し使いに的確な指示を出します。14節では、パンを遠くから運んできます。ここでのパンとは、食料調達のことです。今日風に言えば、スーパーで買い物をする、でしょうか。普通は近場で済まします。彼女は、食料調達を商人のように遠いところかも行っています。近場に飢饉があったとしても、彼女の特別な伝手により、家族は飢えることがなかったことでしょう。彼女の危機管理能力の素晴らしさが、強調されています。21節 雪が降り、寒くなっても、家族の衣服に配慮します。70人訳ギリシア語訳聖書は、二重の着物として暖かさを表しています。共同訳は70人訳を参照しています。原文は紫の衣で、高価な衣装です。
また、22節によれば、自分も立派な服を着ています。自分のことは顧みず、家族に尽くすというより、自分のことでもオシャレを楽しみ、家族をもセンス良く装います。25節 比喩的な意味で、彼女は力と気品を身にまとっています。力は若者の特質で、気品は箴言では年老いて輝きでるものです。彼女はその両者を持っています。そして、未来に微笑みかけます。直訳は未来を笑う、です。将来に対して、憂いや心配事を抱いていません。家族にとっては、オシャレな肝っ玉母さんです。家族に安心感を与えます。27節 家族のことをいつも気にかけ、怠惰になることはありませんでした。箴言は、度々怠け者を取り上げてきました。箴言の締め括りで、怠け者の対極にいる良く働く妻を取り上げます。
また、有能な妻は、優しい知恵ある女性です。20節 彼女の手は、いつも貧しい人、乏しい者に対して開かれています。19節と20節を合わせて読むと、彼女の手作りの品は、チャリティーにおいて用いられていたのでは、となります。イスラエルにおける理想の婦人像は、このような優しさを体現している人です。さらに彼女には、知恵の言葉があります。26節 相手に応じて必要な言葉を、語ります。行いと言葉が一致しています。子ども達に背中で示すだけでなく、言葉をもって教えます。その際の教えには、慈しみが宿っています。変わらない愛をもって教えます。
28-31節が結論です。このような妻、母を、夫と子どもがたたえるのは、当然とも言えます。31節を見ますと、町の城門でたたえよ、とあります。家族内で賞賛を受けるだけでなく、町の中心で人々から賞賛されるべきだ、と箴言は語ります。29節で賞賛しているのは、夫です。では、30-31節は誰が語っているのでしょうか。文脈で考えると、31章1節のマサの王レムエルとなります。或る注解書は、神からの語りかけとして読もうとしていました。神に褒められることが最高の栄誉です。ここで強調されているのは主を畏れることです。外面的な艶やかさ、美しさは、永遠の価値をもちません。また、経済的な稼ぎの多さは、地上の歩みにおいては意味を持ちますが、永遠の価値をもちません。神を畏れることこそが、たたえられるべき点です。31章30節は1章7節と呼応しています。
神を畏れる重要さを踏まえた上で、改めて31章を振り返ります。良く働くこと、家族を支えること、夫に仕えること、経済的にも家計を守ること、貧しい人を助けること、これらすべては、神を畏れる者の姿です。神を畏れることを心の領域だけに押し込めてはなりません。神を畏れることの裾野広がりが、31章で展開されています。神を畏れるとは、当たり前の日常生活を丁寧に過ごすことです。31章の女性のように完璧に行うことはできなくても、誠実に家族と向き合い、且つ、貧しい人と苦しむ人に手を差し伸べる。この方向性こそが、イスラエルの民が知恵ある生活として追い求めてきたことです。
ここで、10節の前の小見出しをご覧下さい。(アルファベットによる詩)とあります。31節まで、各節の冒頭の言葉がヘブル語のアルファベット順になっています。詩編119編もこのような作りです。英語なら、Aから始まり、最後はZで終わります。記憶し易い配慮と思われます。イロハ歌のように、民衆の詩として定着していたことでしょう。
若い男性に語りかけていますので、最後の章が「有能な妻」となりました。今日なら、「有能な夫」で終わってもいいかもしれません。そして大事なことは、妻か夫かということでなく、神の知恵を体現した者として歩むことです。家族や信仰共同体や様々な人との関わりの中で、人々の必要に応えて歩むことです。31章には、神を畏れ、人に仕える人生の素晴らしさが、凝縮されています。
使徒言行録には、善い行いや施しをし、数々の下着や上着を作っていたドルカスが紹介されています(9:36-43)。また、今日は母の日です。母がしてくれたことをも思い出します。31章の有能な女性の香りを放つ方々との出会いが、得がたい体験ですが、人生には用意されています。私たちは、31章を学び、ここに描かれている女性のようにはなれないと嘆くのでは思われます。しかし私たちは大胆にも、神の知恵が受肉したイエス・キリストの香りを放つ者として用いられますことを祈り求めています。聖霊の助けを祈ります。