ウェストミンスター大教理問答124  主の2017329

 

 

 

聖書箇所:ヨハネによる福音書第14114(新約聖書P196197)

 

 

 

問181 なぜ、わたしたちはキリストのみ名において祈らなければならないのか。

 

答 人間の有罪性、またそれゆえに人間の神との距離は、わたしたちが仲保者なしに神のみ前に近づくことができないほど大きく、またその光栄あるわざに任命され、あるいは適当な者は、キリストひとりの外、天にも地に澪だれもないから、わたしたちは、ただキリストのみ名以外のどのような名においても祈ってはならない。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問181と答を学びましょう。ウ大教理の「祈り」は、改革派教会の祈りの訓練の成熟さの成果である。すなわち宗教改革以後聖書に基づいた祈りの学びと訓練に道が開かれ、ウ大教理はその成熟さの実りである。

 

 

 

宗教改革者たちは、「現実の弱さの中で神を求めた。」「ピューリタンたちは、キリスト者を祈りの実践に導く豊かな文学を開花させた。」「17世紀のカルヴァン主義者たちが祈りにおいて特に意を用いたのは、神ご自身の御手から自分たちに定められた道を探り出すことであった。」(『リフォームド神学事典』P14)

 

 

 

上記を理解し、この問答の「人間の有罪性」、宮崎訳の「人間の罪性」に目を留めよう。宗教改革者が「現実の弱さの中で神を求めた」のは、「人間の罪性」のゆえである。鈴木英昭引退教師は「人間の罪の性質」と訳されている。

 

 

 

ウ大教理がわたしたちに教えるのは、人間は「有罪性」、「罪性」「罪の性質」によって神との間に大きな隔たりがあり、聖なる神に近づけないのである。それゆえに仲保者である主イエス・キリストが祈りに必要なのである。

 

 

 

なぜなら、主イエスは道であり、真理であり、命であり、主を通さなければ、だれも父なる神に近づくことはできないからである(ヨハネ16:4)

 

 

 

 アダムの不従順によって、生まれながらに罪人である人間と聖なる神との間は無限の隔たりがある。

 

 

 

 だからこそ父なる神は、御自身の御子主イエス・キリストを人間としてこの世に遣わされ、仲保者の任務を授けられたのである。人間は仲保者キリストを通して、父なる神に近づくことが許されたのである。

 

 

 

 だから、ウ大教理はわたしたちに「仲保者としての栄光に満ちた業に任命され、かつ適格である方は、天にも地にも、キリスト以外にだれも存在しません」と教えているのである。

 

 

 

なぜなら、父なる神が人の子である主イエス・キリストだけが父なる神の持つ永遠の命を与えることができることを証明されているからである。そして、主イエスは、神の業とは御自身を信じることだと、弟子に教えられている(ヨハネ6:2729)

 

 

 

天にも地にもキリスト以外、わたしたちに永遠の命を与え、父なる神にわたしたちを近づけてくれ、わたしたちを神にとりなしてくださるお方はないのである。

 

 

 

だから、ウ大教理は、わたしたちに「私たちは他のどのような名にもよるのでもなく、ただキリストの御名によって祈らなければならない」(宮崎訳)と教えるのである。

 

 

 

この問答は三段論法になっている。わたしたちは罪ある人間で父なる神に近づけない。仲保者キリストは父なる神が遣わされたお方である。唯一の父なる神に至る道である。だから、キリストの御名によって祈り、神に使づくべきであると。

 

 

 

17世紀のカルヴィにストたちは、神の摂理を深く心に留める。ゆえに聖書に基づいて神御自身の御手により、自分たちの定められた祈りの道を見出そうとしている。そこから、キリストの御名による執り成しの祈りが生まれたのである。公的礼拝のかなりの部分を執り成しの祈りが占めていたのである。

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答125  主の201745

 

 

 

聖書箇所:ローマの信徒への手紙第82630(新約聖書P285)

 

 

 

問182 どのようにしてみたまは、わたしたちが祈るのを助けられるのか。

 

答 わたしたちは、何を祈るべきか知らないから、みたまは、だれのために、何を、どのように祈らなければならないかを、わたしたちに悟らせることにより、また祈りの義務を正しく果たすのに必要な理解・愛情・美徳を、(すべての人にではなく、いつでも同じ度合いにでもないが)わたしたちの心のうちに起こし、活気づけることによって、わたしたちの弱さを助けられる。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問182と答を学びましょう。ウ大教理は、わたしたちの「祈り」は、聖霊なる神の助けが必要であると教えている。

 

 

 

前回、宗教改革者たちは、「人間の現実の弱さの中で神を求めた。」と記した。それが、聖書に基づいた祈りの訓練と学びに道を開くことになったのである。

 

 

 

その成果の実がウ大教理の「祈り」である。祈りは、聖霊の助けが必要である。なぜなら、「わたしたちは、何を祈るべきか知らない」からである。宮崎訳は次のように丁寧に訳している。「私たちは、ふさわしい仕方で何を祈り求めるべきか知りません」。

 

 

 

だから、使徒パウロは、次のように言うのである。「同じように、霊もわたしたちの弱さを助けてくださいます。わたしたちはどのように祈るべきか知りませんが、霊ご自身が、言葉に表せない呻きを通して、わたしたちのために取り成してくださるのです。」

 

 

 

ウ大教理は、わたしたちに祈りに聖霊の助けが必要である理由を、「人間の現実の弱さ」である「霊的無知」を挙げている。その弱さのゆえに「ふさわしい仕方で何を祈るべきか知りません」。

 

 

 

 ヨハネス・ヴォスは、それを次のように指摘している。「この霊的弱さと怠慢のために、わたしたちは祈る気がしなくなったり、真剣に霊的な仕方ではなく、形式的に機械的に祈るようになるのである」。

 

 

 

 そうならないために、ウ大教理は、わたしたちに次のように聖霊が助けてくださると言う。「御霊は、誰のために、何を、どのように祈るべきかを理解できるようにしてくださる」(宮崎訳)のである。それによってわたしたちは祈ることができるのである。

 

 

 

 聖霊は、わたしたちの霊的目をお開き下さり、聖書が啓示する神の真理をわたしたちが理解し、神の御意志を知って、神に何を祈ればよいかをお示しくださるのである。

 

 

 

わたしたちは怠惰な者である。だから、聖霊が「祈りの義務を的確に果たすにあたって求められる知性・感情・徳性」を「わたしたちの心に起こしてくださり」、祈りを「活き活きとしたものにしてくださる」ことが必要である。

 

 

 

「活き活きとする」とは、わたしたちが適切な祈りをするために、わたしたちの内にある「知性・感情・徳性」に命を与え、刺激してくださることである。

 

 

 

聖霊の助けにあずかるのは、再生されたキリスト者のみであり、聖霊の働きはキリスト者個々に違いがある。聖霊の働きは画一的ではない。あるキリスト者には強く、あるキリスト者には弱く働くのである。

 

 

 

祈りは、聖霊の働きと助けが必要であるが、「キリスト者の自発的な礼拝行為の一つ」として、礼拝の要素を構成している。具体的には「執り成しの祈り」である。また、祈祷会、家庭礼拝、個人の祈りでも執り成しの祈りをする。

 

 

 

「日本キリスト改革派教会創立二十周年宣言」の「祈祷」の項に次のように記している。「わが教会は、神学と伝道を祈祷の生活において統一することによってのみ、聖霊の力あふれる教会として立ちうる。」

 

 

 

この教会の宣言は、ウェストミンスター信条の信仰と祈祷論の上に立つ。すなわち、理性的信仰であるが、自らの弱さを知り、聖霊により頼み、聖書と教理を理解し、執り成しの祈りをしつつ、伝道に励むのである。

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答126  主の2017412

 

 

 

聖書箇所:テモテへの手紙一第217(新約聖書P385)

 

 

 

問183 だれのために、わたしたちは祈らなければならないか。

 

答 地上にあるキリストの全教会のために、為政者と教役者とのために、自分自身、兄弟、それだけでなく敵のためにも、また今生きている、または今後生まれてくるすべての種類の人々のために、わたしたちは祈らなければならない。しかし、死者のためや、死に至る罪を犯したことが分かっている人々のためには、祈ってはならない。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問183と答を学びましょう。ウ大教理は、わたしたちに「祈り」の対象について教えている。

 

 

 

前回(182と答)は、わたしたちは、何を祈ることが主の御心に適うのか、全く無知であるので、祈りに聖霊の助けが必要であることを学んだのである。

 

 

 

聖霊は、わたしたちに「だれのために、何を、どのように祈らなければならないか」を理解させ、わたしたちが祈りの義務を適切に果たすにあたって、「知性・感性・徳性」をわたしたちの心に起こさせて、わたしたちの祈りを活力あるものとし、助けてくださると教えている。

 

 

 

17世紀のカルヴァン主義者たちが祈りにおいて特に意を用いたのは、神ご自身の御手から自分たちに定められた道を探り出すことであった」(『リフォームド神学事典』P14)。ウ大教理の祈りは、彼らの成果の実りであり、聖書から導き出された祈りの体系である。すなわち、その祈りは「執り成しの祈り」である。

 

 

 

183と答は、ウ大教理がわたしたちに「執り成しの祈り」を教えているのである。公的礼拝において、家庭礼拝や個人礼拝において、キリスト者が聖書に導かれて祈るのは、執り成しの祈りである。

 

 

 

だから、ウ大教理はわたしたちに「だれのために、わたしたちは祈らなければならないのか」と問うのである。すなわち、執り成しの祈りの対象は誰であるかということである。

 

 

 

ウ大教理は、聖書からキリスト者が執り成しの祈りをする相手は、次の通りである。地上にあるキリストの教会全体(エフェソ6:18)、為政者(Ⅰテモテ2:1-2)、牧師たち(コロサイ4:3)、自身(創世記32:11)、兄弟、すなわち、キリスト者たち(ヤコブ5:16)、敵(マタイ5:44)、今生きている、そして今後生まれてくるすべての人々(Ⅰテモテ2:1-2、ヨハネ17:20、サムエル記下7:29)

 

 

 

「兄弟」は肉親のことではなく、キリスト者のことである。「今生きていて、今後生まれるおおよそすべての人々」とは、人類一般のことではなく、今キリストを信じるすべての者とこれからキリストを信じるすべての者、今神の民である者と今後神の民となるすべての者である。

 

 

 

執り成しの祈りができないのは、死者と死に至る罪を犯している者である。死者は完全に主の御手の中にある(サムエル記下12:21-23)。ダビデは、生きている間、わが子のために主の執り成しの祈りをした。しかし、子が死ぬと、彼は死んだ子を主に委ねたのである。その時、ダビデは死んだ者のために執り成しの祈りをすることは無意味であると言っている。死者のために執り成しの祈りをすることは、何の意味もないのである。

 

 

 

ウ大教理は、わたしたちに「死に至る罪を犯したことが分かっている人々」(Ⅰヨハネ5:16)も執り成しの祈りができないと教えている。信仰を捨てた背教者である。主イエスは、「聖霊に対する冒涜は赦されない」(マタイ12:31)と言われたのである。聖霊がわたしたちに証ししてくださる主イエスを通した神の救済を否定する者は罪を赦されないし、その者を執り成し祈ることは主の御心に適わないのである。

 

 

 

わたしは、契約思想から執り成しの祈りの対象を書いたが、ヨハネ・ヴォス先生は、神の創造の観点から人類一般のために執り成しの祈りをすべきであると勧められている。全人類が神の像に創造されたということを執り成しの祈りの根拠とされている。そして、神に選ばれたすべての選民のために、キリストにあって一つとなれるように、執り成しの祈りをすべきであると勧めている。

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答127  主の2017419

 

 

 

聖書箇所:マタイによる福音書第6913(新約聖書P9)

 

 

 

問184 どのような事柄を、わたしたちは祈らなければならないか。

 

答 わたしたちは、神の栄光、教会の福祉、自分自身と他人との幸福に役立つすべての事柄を祈らなければならない。しかし非合法なことは何も祈ってはならない。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問184と答を学びましょう。ウ大教理は、わたしたちに「祈る事柄」について教えている。

 

 

 

前回(183と答)は、祈る対象について、「だれのために」祈るのかということを学んだのである。

 

 

 

ウ大教理は、問182と答で聖霊がわたしたちに「だれのために、何を、どのように祈らなければならないか」を理解させてくださると教えている。

 

 

 

ウ大教理は、祈る事柄を、3つ取り上げている。(1)神の栄光、(2)教会の福祉、(3)わたし自身と他人との幸福に役立つこと、このすべての事柄のために、わたしたちは祈らなければならないのである。

 

 

 

「神の栄光」のために祈るとは、何であろうか。ヨハネス・ヴォス先生は、「どのような事柄を祈るか決定するときに、一番重要な配慮は何であるか」と問われ、「最も大切な配慮は、神の栄光ということでなければならない」と答えられている(『ウ大教理問答書講解()』P176)

 

 

 

聖書の教える祈りは、何よりもまず神を讃えることである。主イエスは、弟子たちに主の祈りを教えられた時、その最初に「御名が崇められますように」と祈るように教えられた。

 

 

 

祈りは執り成しの祈りである。そしてその祈りは神を讃えることから始まるのである。ヴォス先生は、神を讃えて正しく祈るためには、聖書の学びが重要であると指摘されている。聖書を学び、神とその御業を正しく理解するとき、わたしたちは神を讃えて祈り始める。「神の栄光をあらわす」とはわたしたちが神を讃えることである。

 

 

 

次に「教会の福祉」とは何であろうか。宮崎訳では「教会の健全な発展」と訳されている。松谷好明訳は「教会の繁栄」と訳されている。

 

 

 

詩編5120(口語訳聖書は詩編51:18)は、エルサレムの城壁の再建を賛美している。バビロンによってエルサレムの都と神殿は破壊され、ネヘミヤの時代に再建されたのである。そして、詩編1226節で、巡礼者が神殿に入るときに「エルサレムの平和を祈り」ました。神の民の平和である。

 

 

 

以上を考慮すれば、ウ大教理の主旨は、「神の民の繁栄」「教会の繫栄」である。神の契約に基づく「教会の健全な発展」を祈ることである。

 

 

 

ヴォス先生は、「教会の真の福祉と繁栄は、世界の諸国民の平和と繁栄に密接に関係をもっている」と指摘されている。教会の使命は全世界の諸国民に伝道することである。だから、「教会が健全に発展」し、主イエス・キリストの大宣教命令を果たせることを、わたしたちは心から願い、祈るべきである。

 

 

 

「自分自身と他の人との幸福に役立つすべての事柄」を祈るとは何であろうか。主イエスは、弟子たちに「求めよ、そうすれば与えられる」と言われ、「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるに違いない」と言われた(マタイ7:11)

 

 

 

この世に生きる上で、自分自身と他の人との幸福に役立つすべての事柄について、祈り求めることは天の父なる神の御心なのである。だから、主イエスは、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と命じられたのである(マタイ7:12)。祈りも同じである。

 

 

 

「非合法な祈り」とは何であろうか。宮崎訳は「何ごとであれ、神の律法に反することのために祈ってはなりません」と訳している。不法なことである。

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答128  主の2017426

 

 

 

聖書箇所:マタイによる福音書第263644(新約聖書P5354)

 

 

 

問185 どのようにして、わたしたちは祈らなければならないか。

 

答 わたしたちは、神の尊厳の畏敬に満ちた理解、自分自身の無価値と窮乏と罪との深い意識をもって、罪を悔いる、感謝に満ちた、広い心をもって、知性、信仰、誠実、熱心、愛、忍耐、神への待望をもって、祈らなければならない。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問185と答を学びましょう。ウ大教理は、わたしたちに祈る姿勢について教えている。

 

 

 

前回(184と答)は、祈る事柄について、「何を」祈るのかということを学んだのである。

 

 

 

ウ大教理は、問182と答で聖霊がわたしたちに「だれのために、何を、どのように祈らなければならないか」を理解させてくださると教え、聖霊が聖書の御言葉に従って教えられる祈りを、具体的に教示している。

 

 

 

ウ大教理は、わたしたちに祈るとき、第1に祈る神についての理解が必要であると教える。「神の尊厳の畏敬に満ちた理解」を、宮崎訳は「神の尊厳への畏敬の念に満ちた認識」としている。祈りにおいて、わたしたちは、第1に神と自己についての正しい認識を持つべきである。

 

 

 

神については、「神の尊厳に対する畏敬に満ちた認識」(松谷訳)を持たねばならない(コヘレト4:17)のである。イザヤは、主なる万軍の神を見たとき、「災いだ。わたしは滅ぼされる」(イザヤ7:5)という畏れを体験し、神の尊厳を認識した。その認識とは神を畏れかしこむことであり、「神の尊厳」とは被造物を越えた神の絶対的で、無限の偉大さである(ヨハネス・ヴォス)。神がへりくだり、恵みの契約によってわたしたちの神となり、わたしたちは神の民となり、祈りの道が開かれたのである。

 

 

 

自己認識とは、「自分自身の無価値と窮乏と罪への鋭い自覚」である。アブラハムは、主なる神に「自分自身の無価値」を「塵あくたに過ぎないわたしです」と告白し、執り成しの祈りをした(創世記18:27)。彼は、何一つ神に要求することはできない存在であることを自覚していたのである。また、放蕩息子は、全財産を浪費し、飢饉の中で豚の餌を食わねばならないほど窮乏し、その罪の原因が父から離れたことであると強く自覚したのである。この自覚が真摯に神に祈り求める姿勢を生むのである。

 

 

 

2に「罪を悔いる、感謝に満ちた、広い心をもって」祈ることである。「広い心ももって」を、宮崎訳と松谷訳は「開かれた心をもって」と訳している。ダビデは、主なる神は「打ち砕かれ、悔いた心」(51:17)を受け入れると教え、使徒パウロは「感謝を込めて祈りと願い」(フィリピ4:6)を主にささげるように教えている。主の御心に適う祈りは、罪を悔いた心で祈り、その祈りはすでにかなえられているので、感謝をもって祈るのである(Ⅰヨ5:15)

 

 

 

ウ大教理は、「広い心(開かれた心)で」祈る例として、ハンナの祈りを挙げている(サム上1:15,2:1)。彼女は主の御前に心からの願いを注ぎだしていた。使徒パウロは、フィリピ教会のキリスト者たちの「広い心」が世界の教会に知らされていると述べ、主が近いからであると記している(フィリピ4:5)。主が近いことを知り、寛容な開かれた心で祈ることを、ウ大教理は教えている。

 

 

 

3に「知性、信仰、誠実、熱心、愛、忍耐、神への待望、神の御心への謙虚な服従をもって」祈ることである。宮崎訳は「理解力、信仰、まごころ、熱誠、愛、堅忍をもって、神の御心に謙虚に服従しつつ、神を待ち望んで」とある。

 

 

 

知性によって聖書の御言葉を理解し、祈る必要がある。主の御心に適う祈りは聞かれるとの信仰なしに祈ることはできない。盲人バルティマイのように真摯に、真心で祈るべきであり、熱心に祈り求めるべきである(マルコ10:4652)。神と隣人への愛をもって、祈りが聞かれるまで忍耐し、祈り続けるべきである。祈りは、主に委ねることであるので、ゲツセマネの主イエスのように神の御心に謙虚に服従しつつ、そして、神を待ち望みつつ祈るべきである。