ウェストミンスター大教理問答109      主の2016127

 

 

 

聖書箇所:使徒言行録第171012(新約聖書P247)

 

 

 

問160 み言葉の説教を聞く者に、何が求められているか。

 

答 み御言葉の説教を聞く者に、次のことが求められている。すなわち、勤勉・準備・祈りをもってそれに聞くこと、聞いた説教を聖書によって調べること、信仰・愛・柔和・心の備えをもって真理を神のみ言葉として受け入れること、それについてめい想し、語り合うこと、心にたくわえて、生活の中でその実を結ぶことである。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問160と答を学びましょう。前回は、説教者(牧師)に召された者によって、どのように説教されなければならないかを学んだのである。ウ大教理は、次のことを命じている。第1に健全な教理の説教をする。第2に平明で聖書に忠実に語る。第3に聞く者の立場に立つ賢明さが必要である。第4に説教は愛の言葉である。第5に説教は霊的糧である。

 

 

 

 ウ大教理は、今度は説教を聞く者の心得を教える。宗教改革者カルヴァンは、真の教会のしるしを、次のように教える。説教が語られ、聞かれ、礼典が正しく執行され、正しく戒規(教会訓練)がなされるところと。

 

 

 

 改革派教会は、「日本基督改革派教会創立二十周年宣言」で、「神は、礼拝におけるみ言葉の朗読と説教およびそれへの聴従において、霊的にその民のうちに臨在したもう」と宣言しています。この宣言は、ウ大教理が信仰のベースになっている。

 

 

 

 牧師が聖書を朗読し、御言葉を説教するだけでは教会および礼拝は成り立たない。御言葉を聴従する会衆が必要である。御言葉が正しく語られ、聞かれるところにキリスト()が霊的に臨在され、教会と礼拝が成立するのである。

 

 

 

 だから、ウ大教理は、御言葉の説教と同様に御言葉を聞くことが重要であると認識している。

 

 

 

 ウ大教理は、御言葉を聞く者に次の4つを求める。第1に説教聞くために良き準備をすること、第2に聞いた説教を聖書に基づいてよく調べること、第3に説教を神の御言葉として受け入れること、第4に聞いた御言葉をよく瞑想し、生活に適用すること。

 

 

 

 宮崎訳は「勤勉・準備・祈り」を「注意力・準備・祈り」と訳す。「勤勉」を、「注意力」と訳したところに、よく説教を聞く本質をとらえている。説教は、礼拝でただ一度語られる神の御言葉である。わたしたちは全身全霊を注いで傾聴しなければならない。それが説教を聞くということである。そのために週報に予告された御言葉を一週間、何度も読み、説教者と聞く者のために祈り、よく準備して礼拝にあずかるべきである。

 

 

 

 ベレアのキリスト者たちは、パウロの説教を聞くだけでなく、「そのとおりかどうか、毎日聖書(旧約聖書)を調べ」た。キリスト教は理性的信仰(リーズナブルフェイス)である。聞く者は語る者の言葉を鵜呑みにすることを強制されない。むしろ、キリスト者はベレアの信者たちのように、説教の内容を信仰と生活の唯一の規準である聖書によって調べ、自分で判断することをすべきである。

 

 

 

 宮崎訳は、「信仰・愛・柔和・心の備え」を、「信仰・愛・素直・気構え」と訳す。これも説教を聞くという本質をよくとらえている。わたしたちに「信仰・愛・素直・気構え」なしに、説教を聞いても益はない。信仰とは「説教は神の御言葉である」という信仰、愛は説教を通して語られる神の真理を愛すること、素直は、イエスさまが「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」と言われる「素直」、すなわち、従順である。説教が聖書の真理と一致するなら、素直に受け入れるという気構えである。ベレアの信者たちはこの模範である。

 

 

 

 最後はウ大教理の真骨頂である。御言葉の生活化である。主の日の礼拝の聖書朗読と説教を、聴く者たちがもう一度自分たちで調べ、瞑想し、あるいは兄弟姉妹たちと説教の恵みを分かち合うために話し合いの場を持ち、各々が御言葉を心に蓄え、自分たちの生活の中で実践する。この説教の生活化こそウ大教理が目指すものであると、わたしは思う。 

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答110      主の20161214

 

 

 

聖書箇所:マタイによる福音書第281620(新約聖書P60)

 

 

 

問161 礼典は、どのようにして救いの有効な手段となるか。

 

答 礼典が救いの有効な手段となるのは、礼典自身の中にあるどのような力、または礼典を執行する人の敬けんや意図からでるどのような効力によるのでもなく、ただ聖霊の働きと、礼典を制定されたキリストの祝福によるのである。

 

問162 礼典とは何であるか。

 

答 礼典とは、キリストによってその教会において制定されたきよい規定であって、恵みの契約の中にある者に、キリストの仲保の祝福を意味し・保証し・表わし、彼らの信仰とその他すべての恵みを強化し・増進し、服従に義務づけ、相互の愛と交わりを証しし・育て、彼らを教会外の者と区別するものである。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問161162と答を学びましょう。前回は、説教を聞く者の義務について学んだのである。ウ大教理は、わたしたちにわたしたちが礼拝で聞く説教が、わたしたちの生活の中で実を結ぶようにすべきであると勧めている。

 

 

 

 長老の任務の一つに「説教の結び実を、注意深く見守ること」とある。

 

 

 

 御言葉と礼典は、信仰というコインの表裏である。信仰は御言葉を聞くことで生まれ、礼典によって守り支えられる。

 

 

 

 長老は礼拝説教が聞く者に罪の悔い改めを迫り、キリストへの信仰を促し、求道者を洗礼へと、信者を聖餐へと導いているか、キリスト者の聖化の道を歩ませているのか、この教会で見守ることが任務の一つである。

 

 

 

 ウ大教理は、カトリック教会の礼典理解に反対しつつ、礼典がわたしたち信者に有効な手段であることを教えた後に、礼典の定義をしている。

 

 

 

 実にウ大教理は実践的な教理である。人間は益がなければ、身を入れて学ばないし、学んだことを生活に実践することはない。生活に実を結ばない知識と教えは、無に等しい。そして、間違った教理は信仰者の生活を破壊する。

 

 

 

 カトリック教会は礼典を秘跡と呼び、礼典は洗礼と聖餐以外にもある。ウ大教理は、問163と答で、洗礼と聖餐の二つと教えている。

 

 

 

 カトリック教会は、礼典を物質的実体的に考える。たとえばパンとぶどう酒はキリストの体と血に変わり、礼典執行者の意図と行為と礼典で使う水とパンとぶどう酒が必ず礼典の効力に有効となると教える。

 

 

 

 問161と答は、ウ大教理がカトリック教会の教えに反対しつつ、礼典が聖霊のお働きであり、キリストが命じられた祝福であることを教えている。

 

 

 

 「キリストの祝福である」とは、礼典は「福音の内容、神の恩恵そのものである」「礼典の受領者の信仰に対して聖霊によって福音の恵みを有効に伝えるものである」(岡田稔『教理学教本』P452453)という意味である。

 

 

 

 問162と答は、礼典の定義である。礼典は、第1にキリストが教会に制定されたきよい規定。第2に礼典にあすかれるのは恵みの契約の中にある者、すなわち、父なる神がキリストを通して選ばれた神の民である。第3に礼典はキリストの仲保の祝福である。すなわち、キリストの贖いを意味し、保証し、表している。第4に、受領者の信仰を強め、励ますものである。第5に受領者に服従を義務付ける。第6に相互の愛の交わり、教会訓練を通して、教会外の者と区別する。

 

 

 

 ウ大教理がわたしたちに伝えることは、礼典は聖霊のお働きであり、人間の行いではないということである。礼典は、執行者の意図にも、用いられる品にも何ら効力はない。聖霊のお働きと礼典受領者の信仰がこの礼典を有効なものとしている。

 

 

 

 礼典は、教会内で恵みの契約にあずかる者に有効に働くのである。このことは、神の選びに関わるので、その意味で神の秘儀である。ただ自らの心を低め「主よ、わが罪を赦し、憐れみ給え」と徴税人のように祈る者に祝福あれ。

 

 

ウェストミンスター大教理問答111      主の20161221

 

 

 

聖書箇所:マタイによる福音書第3712(新約聖書P4)

 

 

 

問163 礼典の要素は、何であるか。

 

答 礼典の要素は二つである。一つは、キリストご自身の指定に従って用いられる外的な感覚的印である。今一つは、それによって表わされる内的な霊的恵みである。

 

問164 新約のもとにおいて、キリストはいくつの礼典を制定されたか。

 

答 新約のもとにおいて、キリストはその教会に、ただ二つの礼典だけを制定された。すなわち、洗礼と主の晩餐である。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問163164と答を学びましょう。前回は、礼典がどのように救いに有効であるかを学び、その後礼典の定義を学んだのである。

 

 

 

 ウ大教理にとって礼拝は神の栄光に仕えることである(1と答)。仕えることは、礼拝においてキリストの御名の下、御言葉(福音の説教)と祈りと礼典の執行によってなされる。

 

 

 

 ウ大教理は、礼典について告白する時、「礼典を制定されたキリスト」(161の答)、「礼典とは、キリストによってその教会において制定されたきよい規定」(162の答)、そして、今夜の礼典の要素を教える時も「キリストご自身の指定に従って」(163の答)、「新約のもとにおいて、・・・・二つの礼典だけを制定された」(164の答)と記して、礼典がキリストの御命令により、指示され、規定され、制定されたことを強調している。

 

 

 

 問163と答で、ウ大教理はわたしたちに礼典の要素について教えている。ウ大教理は「礼典の要素は二つである」と断言する。礼典を家に喩えると、2階建てである。1階はキリストが指定された「感覚的印」であり、2階は、「感覚的印」によって「表わされる内的な霊的恵みである」。

 

 

 

 ヨハネス・ヴォスは、「表わす」という言葉は、ラテン語では「施す」「適用する」という意味であると解説している。

 

 

 

 ウ大教理が礼典の二つの要素を語るとき、わたしたちが真の信仰によって、「感覚的印」を適用しないと、あるいはそれを施さないと、教会の礼拝において礼典が執行され、わたしたちがそれにあずかっても、祝福(霊的恵み)とはならないことを伝えようとしている。

 

 

 

 洗礼者ヨハネが水で洗礼を授けていたとき、彼はファリサイ派とサドカイ派の人々に悔い改めを迫った(マタイ3:712)。使徒パウロも、ローマ教会のキリスト者たちに割礼のあるユダヤ人が真のユダヤ人ではなく、真の信仰があるユダヤ人が真のユダヤ人だと主張した(ローマ2:2829)

 

 

 

 信仰告白した者に、水で洗礼を施し、聖餐式にパンとぶどう酒を施すが、それらは信仰告白した者の信仰の恵みをあらわし、保証すると、ウ大教理は教えている。

 

 

 

 「感覚的印」とは、わたしたちの目、耳、鼻、口で見て、聴いて、嗅いで、味わうものである。礼典の外的要素と呼ばれ、水とパンとぶどう酒である。

 

 

 

 「内的な」とは、「感覚的印」に対して恵みの実体である。神の救いの働きを意味している。「霊的」とは、人間の霊魂にのみ知られるからである。別の言葉では「信仰によって知る」こと。

 

 

 

 キリストが指定された通りに、わたしたちが真の信仰をもって、洗礼と聖餐にあずかるとき、水とパンとぶどう酒によってあらわされた霊的恵みが実際にわたしたちに与えられると、ウ大教理は教えているのである。

 

 

 

 新約のもとにおいて、キリストは、二つの礼典を制定された、ウ大教理はカトリック教会の礼典理解(カトリック教会は礼典は7つであると教える)に反対し、聖書は洗礼と主の晩餐の二つと証言すると、教えている。

 

 

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答112      主の20161228

 

 

 

聖書箇所:マタイによる福音書第281620(新約聖書P60)

 

 

 

問165 洗礼とは何であるか。

 

答 洗礼とは、新約の一つの礼典であって、そこにおいてキリストは、父と子と聖霊によって水で洗うことを、ご自身へのつぎ木・その血による許し・みたまによる再生・子とすること・および永遠の命への復活の印と保証にすることを定められた。またこれによって洗礼を施された者は、おごそかに、見える教会への入会を許され、全面的に主だけのものとなる公の公然たる契約関係に入る。

 

問166 洗礼は、だれに執行されなければならないか。

 

答 洗礼は、見える教会の外におり、従って約束の契約の局外者である者には、キリストへの信仰と服従を言い表わすまでは、だれにも執行されてはならない。しかし両親であれ、片親であれ、キリストへの信仰と服従を言い表わしている親から出た幼児は、その点で契約の中にあり、洗礼を施されなければならない。

 

 

 

 今夜は、今年最後の祈祷会です。ウ大教理問答の問165166と答を学びましょう。前回は、礼典の要素と新約のもとにおいてキリストが洗礼と主の晩餐を制定されたことを学んだのである。

 

 

 

 ウ大教理は、問165167と答で洗礼について、次のことを教えている。洗礼の定義、誰に洗礼を執行するかということ、そして、洗礼を良く用いることである。

 

 

 

 今夜は洗礼の定義(165と答)とだれに洗礼を執行するか(166と答)を学ぼう。ウ大教理は、「洗礼とは、新約の礼典である」と定義する。

 

 

 

 「礼典」は神(キリスト)によって制定された、目に見える印、または証印である。神は神の民に恵みの契約の神の約束を理解させるために、旧約においては割礼を、新約においては洗礼を施された。神の約束とは十字架の上でのキリストの唯一の犠牲である。それによって神の民は罪の赦しと永遠の命を授けられる。

 

 

 

 洗礼は、キリストが定められたもので、第1に「父と子と聖霊の名によって水で洗うこと」である。それによって洗礼者を御自身へと接ぎ木し、ご自身の十字架の犠牲によって罪を赦し、御自身の御霊によって再生し、神の子とし、永遠の命の復活を、しるしとし、保証とされる。

 

 

 

 第2にそれによって、洗礼者は見える教会へと正式に受け入れられ、全く主のものとなるという、誓約の伴う契約関係に入れられる。

 

 

 

 洗礼は、罪を認めること、罪のきよめを認めること、キリストとの結合、聖霊の賜物、契約当事者の身分の印としての洗礼である。恵みの契約のしるしとして、旧約の割礼に取って代わるものである。

 

 

 

 ウ大教理は問166と答で、だれに洗礼を施すかを論じている。成人洗礼と幼児洗礼は、共に恵みの契約が洗礼を施すことの根拠であるが、洗礼を施す判定の根拠が違うことを明らかにしている。

 

 

 

 成人の場合、教会の部外者が本人の信仰告白によって、小会はその者が恵みの契約の当事者であることを認めて、彼に洗礼を施すことを認めるのである。

 

 

 

 小会は洗礼志願者がキリストへ信仰と服従を確認し、洗礼を執行するのである。

 

 

 

 洗礼の根拠は、恵みの契約である。教会が洗礼を施したから本人は恵みの契約に入れられたのではない。本人が信仰と誓約によって恵みの契約に入れられていることを確認したので洗礼を施したのである。

 

 

 

 契約の子の洗礼もまた、恵みの契約が根拠である。契約の子たちは、親の信仰によって、恵みの契約に属するものであることを確認するゆえに、彼らに洗礼を施すのである。それゆえウ大教理は、キリストへの信仰と服従を公に言い表わした者とその子らに洗礼を施すことを述べているのである。

 

 

ウェストミンスター大教理問答113  主の2017年111

 

 

 

 

 

聖書箇所:コロサイの信徒への手紙第2615(新約聖書P370)

 

 

 

問167 わたしたちの洗礼は、わたしたちの手で、どのように良く用いられなければならないか。

 

答 わたしたちの洗礼を良く用いるという、必要でありながら大いに無視されている義務は、わたしたちの手で、全生涯にわたり、特に試みの時と、他人に洗礼が執行される場に臨席する時に、行なわれなければならない。それは、洗礼の性質・キリストがこれを制定された目的・洗礼によってもたらされ保証される特権と利益・その時にしたわたしたちのおごそかな誓いを、真面目に感謝に満ちて思い巡らすことにより、また洗礼の恵みとわたしたちの約束とを罪深く汚していること・それに敵対して歩んでいることのために、へりくだらされることにより、またこの礼典でわたしたちに保証された罪の許しと他のすべての祝福との確信に成長することにより、またわたしたちが洗礼によって入れられているキリストの死と復活から、罪に死に恵みに生きるための力を引き出すことにより、また洗礼に際して自分の名をキリストに捧げ切った者らしく、信仰によって生き、聖と義によって振舞うように努力し、一つの体となるように同じみたまによって洗礼を施された者らしく、兄弟愛のうちに歩むよう努力することによってである。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問167と答を学びましょう。前回は、洗礼の定義と洗礼は誰に執行するかについて学んだのである。

 

 

 

 ウ大教理は、問165167と答で洗礼について、次のことを教えている。洗礼の定義、誰に洗礼を執行するかということ、そして、洗礼を良く用いることである。

 

 

 

 今夜は洗礼を良く用いるわたしたちの義務を学ぼう。ウ大教理は、わたしたちがわたしたちの手で、洗礼を良く用いることが、わたしたち教会員の義務であると教えている。そして、ウ大教理は、この義務を、わたしたちが必要であるのに、大いに無視していると警告している。

 

 

 

 「わたしたちの洗礼を良く用いる」とは何か。わたしたちの日常生活の中で、洗礼を良い意味で用いることである。成人洗礼と幼児洗礼を、日常生活の中に生かすことである。さらに言えば、洗礼を日常生活のわたしたちの信仰に生かすことである。

 

 

 

 ウ大教理は、「洗礼を、(1)礼典であり、(2)教理であり、(3)キリスト者の経験と奉仕を増大させる義務である」と考えている(ヨハネス・ヴォス)

 

 

 

 ウ大教理は、わたしたちに全生涯にわたり、礼典である洗礼の場に臨在することが、「わたしたちの手で礼典を良く用いる」ことの一つであると教えている。なぜなら、わたしたちは、礼拝で洗礼の場に臨在するごとに、「洗礼の性質・キリストが洗礼を制定された目的・洗礼によってわたしたちに保証された特権と利益」を思い起こし、同時にその時にわたしたちが誓約したことを思い起こすのである。そして、キリストに救われたことを真面目に感謝する。

 

 

 

 次に洗礼は教理である。確かに洗礼は一度だけ施される。しかし、その効力は、わたしたちが完全に聖化されるまで続く。一生涯、わたしたちは、「洗礼の恵みとわたしたちの約束(洗礼時の誓約)」を忘れてはならない。それを思い起こすたびに、わたしたちは罪深い今の生活を、神の御心に適わないことを知り、へりくだらされるのである。

 

 

 

 それと同時に、洗礼でわたしたちが保証された罪の赦しと神の子とされたすべての祝福を確信する信仰へと成長させられるのである。なぜなら、洗礼は、わたしたちをキリストと結びつけ、キリストが死に復活されたように、わたしたちも「罪に死に恵みに生きるための力を引き出す」からである。

 

 

 

 洗礼を施された者は、「罪赦された罪人」として、この地上の生涯を生きる。同時に、洗礼によって、キリストと一つとされ、キリストの所有となり、全生涯をキリストに捧げた者である。だから、その者らしく生きるように、ウ大教理は勧める。(1)信仰によって生きる。(2)聖と義によって振舞う。(3)兄弟愛のうちに歩むように努力する。見える教会の中で兄弟愛を持って生きるように、ウ大教理はわたしたちに勧めている。

 

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答114   主の2017年118

 

 

 

聖書箇所:マタイによる福音書第262629(新約聖書P53)

 

 

 

問168 主の晩餐とは、何であるか。

 

答 主の晩餐とは、新約の一つの礼典であって、そこにおいてイエス・キリストの指定に従い、パンとぶどう酒を与えまた受けることにより、彼の死が示される。またふさわしい陪餐者が、霊的栄養と恵みにおける成長となるように、キリストの体と血によって養われ、彼との結合交わりを固め、神への感謝と約束、同じ神秘的体の肢体としての相互の愛と互いの交わりを証しし、更新するのである。

 

問169 キリストは、その晩餐の礼典において、どのようにして、パンとぶどう酒を与えまた受けるように定められたか。

 

答 キリストはみ言葉の教役者たちに、主の晩餐の礼典執行に際し、そのパンとぶどう酒とを制定のみ言葉と感謝と祈りによって普通の用途から聖別すること、パンを取って裂くこと、パンとぶどう酒の両方を陪餐者に与えること、を定められた。陪餐者は、同じ命令により、自分のためにキリストの体が裂かれ与えられ、その血がながされたことを、感謝に満ちて覚えつつ、パンを取って食べ、ぶどう酒を飲まなければならない。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問168169と答を学びましょう。前回は、洗礼をわたしたちの手でどのように良く用いるべきかについて学んだのである。その目的はキリストの体なる教会を建て上げるためである。「兄弟愛のうちに歩むように努力することによって」。

 

 

 

 ウ大教理は、問168169と答で、次のことを教えている。主の晩餐の定義と、主の晩餐がキリストの指示通りに正確に執行されることについて、ウ大教理は教えている。

 

 

 

 ウ大教理は、主の晩餐が「新約の一つの礼典である」と教える。主イエスは、12弟子たちとの最後の食事で、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」と言われた(ルカ22:20)

 

 

 

「新約」は新約聖書ではなく、「新しい契約」、すなわち、「恵みの契約」の「新約期」のこと。「新約期」はキリストの十字架から世の終わりまで。「旧約期」はモーセからキリストまでで、割礼と過越祭が旧約の礼典であり、新約は洗礼と主の晩餐の二つが礼典。

 

 

 

ウ大教理は、次に主の晩餐を構成しているものについて教えている。「イエス・キリストの指示に従って、パンとぶどう酒を与え、また受けることにより」、主の晩餐は成り立っていると。

 

 

 

ウ大教理は、次に主の晩餐の意味について教えている。「主の死が告げ知らされます」(マタイ26:2628,Ⅰコリント11:2326)と。「多くの人のために流されるわたしの血」、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」とあるように、キリストの彼の民のための代替的贖罪を教えている。主の晩餐は、キリストの贖罪が劇のように演じられている(ヨハネス・ヴォス)

 

 

 

ウ大教理は、主の晩餐の目的について次のように教える。(1)陪餐者に霊的栄養を与える。恵みに成長に役立たせる。(2)キリストとの結合を確かなものとする。パンとぶどう酒を食することで。(3)キリストへの献身の志を高める。神への感謝と誓約、兄弟姉妹の相互の交わりを表明し、キリストの体なる教会の構成者であることを自覚する。

 

 

 

ウ大教理は、問169と答で主の晩餐が主イエス・キリストが指示された通りに正確に執行されえるようにと、教えている。この教えの根拠は、教会の頭がキリストであるからである。キリスト者は、キリストの体の一肢体として、頭であるキリストの指示を忠実に執行すべきである。

 

 

 

キリストは、御言葉に仕える者(教役者,宣教長老等)に主の晩餐の執行を指定された(最後の晩餐,マタイ28:20)。次にキリストの制定の御言葉と感謝と祈りによって、パンとぶどう酒を聖別すること、次にパンを裂くこと、パンとぶどう酒を陪餐者に与えること。キリストが定められたとおりに行なうように、ウ大教理は教えている。

 

 

 

陪餐者は、贖いのキリストに感謝を覚えて、パンとぶどう酒を受けること。

 

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答115   主の2017年125

 

 

 

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一第101422(新約聖書P312)

 

 

 

問170 主の晩餐のふさわしい陪餐者は、そこで、どのようにしてキリストの体と血によって養われるか。

 

答 キリストの体と血は、主の晩餐におけるパンとぶどう酒の中に、それらと共に、あるいはそれらのもとに、身体的または肉的には存在しないが、しかし、それらの品物自体が陪餐者の外的感覚に対するのに劣らず真実かつ現実に、彼の信仰に対して霊的に存在する。従って、主の晩餐におけるふさわしい陪餐者は、そこで、身体的または肉的でなく霊的な仕方で、しかも真実かつ現実に、キリストの体と血によって養われる。他方、信仰によって彼らは、十字架につけられたキリストとその死のすべての利益を受け、自分自身に適用するのである。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問170と答を学びましょう。前回は、問168169と答で、主の晩餐の定義と主の晩餐がキリストの指示通りに正確に執行されることについて学んだのである。

 

 

 

 今回は、主の晩餐におけるキリストの体と血の存在が焦点になっているのである。その点で、大会の委員会訳は不適切であると思う。

 

 

 

 宮崎訳は、次のように訳している。「主の晩餐にふさわしくあずかる者は、そこにおいて、どのようにキリストの体と血を食するのですか。」「キリストの体と血が、主の晩餐でのパンとぶどう酒の中に、それらと共に、あるいは、それらの下に、身体的、肉的に存在するわけではありませんが、それでも、品自体がそれを受け取る人の外的感覚に対して存在しているのと同様に真実かつ現実に、受け取る人の信仰に対して、霊的に存在するのです。それと同じように、主の晩餐にふさわしくあずかる者は、十字架につけられたキリストとその死のあらゆる益を、信仰によって受け取って、自分自身のものとするとき、そこにおいて、身体的、肉的な仕方ではなく、霊的な仕方で、しかも真実かつ現実に、まさにキリストの体を食べ、キリストの血を飲むのです。」

 

 

 

 宮崎訳で明らかなように、ウ大教理は第一に主の晩餐におけるキリストの体と血の存在について教えている。

 

 

 

 カトリックとルター派と改革派は、この点で異なる見解である。カトリックは化体説を唱える。すなわち、パンとぶどう酒がキリストの体と血に変化すると。ルター派は化体説を否定するが、栄光のキリストの偏在のゆえに主の晩餐におけるキリストの身体的、現実的存在を主張する。

 

 

 

 改革派は、カトリックの化体説もルター派の身体的・現実的存在も否定する。だから、ウ大教理は「主の晩餐におけるパンとぶどう酒の中に、それらと共に、あるいはそれらの下に、身体的、肉的に存在するのではない」と答えている。

 

 

 

 ウ大教理は、主の晩餐において身体的、肉的な仕方ではなく、霊的な仕方で、真実かつ現実にキリストの体を食べ、キリストの血を飲むと教えている。

 

 

 

 主の晩餐でキリストは、霊的に、すなわち、聖霊と御言葉を通して臨在される。わたしたちは、そのキリストを目に見ることはできないのである。だから、ウ大教理は、主の晩餐にあずかる者の信仰に対して霊的に存在されると教えているのである。そして、その信仰だけが、主の晩餐にあずかる者に、「十字架のキリストとその死のあらゆる益を自分のものとする」ことができるようにするのである。

 

 

 

 「ふさわしく」という言葉が、主の晩餐にあずかる者には重要である。これは、主の晩餐にあずかる仕方を述べている(ヨハネス・ヴォス)。キリストに対する真の信仰を持ってあずかるということである。使徒パウロがふさわしくないままであずかる者は罪を犯すことになるとは、不信仰のままでという意味である。主の晩餐は、霊的、すなわち、目に見えなくても、キリストに対する真の信仰がなければ無意味である。

 

 

 

 だから、主の晩餐で、牧師はできる限り、今主の晩餐にあずかることの意味を説明するのである。主の晩餐を理解しないままであずかることは、不信仰と悔い改めのないままにあずかることになり、あずかる者に災いとなるからである。

 

 

 

 反対に真の信仰を持ってあずかる者は、キリストの体と血を食し、十字架のつけられたキリストとその死のあらゆる益を自分のもとするのである。それが信仰の養いとなる。

 

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答116  主の2017年21

 

 

 

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一第112734(新約聖書P315)

 

 

 

問171 主の晩餐の礼典を受ける者は、それに臨む前に、どのようにして自ら備えなければならないか。

 

答 主の晩餐の礼典を受ける者は、それに臨む前に、次のようにして自らそれに備えなければならない。すなわち、自分がキリストにあることについて、自分の罪と欠陥について、自分の知識・信仰・神と兄弟に対する愛・すべての人への思いやり・自分に悪を犯した者たちを許すことの真実さとその程度について、キリストにならおうとする自分の願いについて、また自分の新しい服従について、自ら吟味することにより、またこれらの美点の実践を更新することにより、真面目なめい想と熱心な祈りによってである。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問171と答を学びましょう。前回は、問170と答で、キリストの体と血の存在について学んだのである。すなわち、主の晩餐におけるキリストの臨在は、ローマ・カトリック教会の化体説、ルター派教会の共存説、そして、改革派教会の霊的臨在に分かれている。

 

 

 

 今回は、主の晩餐の礼典を受ける者がどのような準備を自らすべきであるかを学ぶのである。

 

 

 

 ウ大教理は、パウロの勧めに従い、主の晩餐の礼典を受ける者に、「自分を確かめる」ように次の5つのことを勧めている。

 

 

 

 (1)「自分がキリストにある」ことを吟味する。使徒パウロは、「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい」(Ⅱコリント13:5)と述べている。自分の信仰を吟味すること。

 

 

 

 (2)「自分の罪と欠陥について」吟味する。使徒パウロは、出エジプトの時の過越の小羊を例に挙げて、旧約のイスラエルがエジプトの奴隷状態から解放されたように、キリスト者も十字架のキリストの贖いよって罪の奴隷状態から解放されたことを思い起こすように勧めている(Ⅰコリント5:7,出エジプト12:15)。自分の罪と過ちを吟味する。

 

 

 

 (3)「自分の知識・信仰・悔い改め・神と兄弟に対する愛・すべての人への思いやり・自分に悪を行った者への赦しの真実さとその度合いについて」。「自分の知識」とは、「主の体を弁えて飲み食いする」(Ⅰコリント11:29)こと、「信仰」(Ⅱコリント13:5)は、信仰に生きていること。「悔い改め」は、「自分がふさわしいか調べる」(Ⅰコリンント11:31)。「神と兄弟に対する愛」(マタイ22:34-40)は、十戒の要約。「すべての人への思いやり」は、主の晩餐を受けるわたしたちの霊的状態を吟味する。「自分に悪を行った者への赦しの真実さとその度合い」とは、キリスト者はキリストの十字架によって神と和解させられたゆえに、隣人と和解することを求められる。主イエスは、ペトロに「七の七十倍赦しなさい」と命じられた(マタイ18:22)

 

 

 

 (4)「キリストを慕い求める願望と新しい服従について」。仮庵の祭のとき、主イエスは、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て、飲みなさい」と言われた(ヨハネ7:37)。真摯にキリストを救い主と慕い求め、服従すること。

 

 

 

 (5)「自ら吟味することにより」「真剣な瞑想と熱心な祈りをもってこれらの実践へと思いを新たにすること」。聖霊によって再生された自分を吟味することである。キリスト者は、聖霊によって生まれ変わらされた。そして、聖霊に導かれた聖なる生活をする。真剣な瞑想と熱心な祈りをもって、生活を新たにすることである。

 

 

 

 ヨハネス・ヴォスは、主の晩餐のための準備における最も重要な要素は何か」と問い、「真摯な罪の悔い改めを伴った、わたしたち一人一人のキリストへの信仰、十字架にかかって下さった唯一の救い主としてのキリストを信じることである」と答えている。

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答117  主の2017年28

 

 

 

聖書箇所:詩編661320(旧約聖書P898)

 

 

 

問172 自分がキリストにあること、あるいは自分のなすべき準備について疑っている者が、主の晩餐に臨んでもよいか。

 

答 自分がキリストにあることや、あるいは自分のなすべき準備について疑っている者は、自分ではまだその確信を与えられていなくても、キリストへの真の関心を持っているかもしれないし、またもし関心の不足を悟って正しく悩み、キリストにあるのを認められて不義を離れたい、と偽りなく望んでいるなら、神のみ前にはそれを持っているのである。その場合(弱く疑い深いキリスト者たちの救いのためにも、約束がなされ、この礼典が命じられているのであるから)、彼は自分の不信仰を嘆いて、疑いを解くよう努力すべきであって、そうするなら、彼はさらに力づけられるために主の晩餐に臨んでもよいし、臨まねばならない。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問172と答を学びましょう。前回は、問171と答で、主の晩餐を受ける者が臨む前に自分がなすべき準備について学んだのである。その準備の中で「自分がキリストにある」ことを吟味することがある。

 

また、信仰の弱さのゆえに、主の晩餐を受けることに不安を覚える者もいるだろう。

 

 

 

 ウ大教理は、わたしたちに常に聖書の御言葉に依拠し、真実を語り、正しさを求めている。だが、その真実と正しさが、信仰の弱い兄弟姉妹への断罪となるのではなく、主イエス同様に優しさがある。その優しさは、教会の中に争いではなく、兄弟愛を育むのである。

 

 

 

 教会の中には、強いキリスト者と弱いキリスト者がいる。共に主イエスは、主の晩餐に招かれる。

 

 

 

強いキリスト者は「自分とキリストのうちにいる」という確信がある。祈りと共に十分準備し、主の晩餐を受ける。

 

 

 

弱いキリスト者は、「自分がキリストのうちにいる」という確信がない。祈りのうちに準備しようとするが、ことごとく不安で、自身がない。だから、主の晩餐を受けると、主の裁きに遭うのではと心配になるのである。

 

 

 

 弱いキリスト者は、自分の霊的状態に不安のある者である。「信仰の確信」は、わたしたちが主イエスとの関係を、自分の心で確かであると思っていることである。だから、強い者と弱い者という個人差が生まれる。

 

 

 

 キリスト者は再生者である。しかし、弱いキリスト者は、聖霊による再生を確信していないかもしれない。しかし、弱いキリスト者は再生者であり、彼は自分の信仰に自信がなくても、キリストに真の関心を持ち、あるいは、主イエスを知ることに不足している自分に悩み、キリストと共に生きたくて、自分の弱さや不義から離れたいと思っているかもしれないのである。

 

 

 

 弱いキリスト者ではあるが、彼は主イエスを信じたいと思い、従いたいと思い、信仰の戦いをしているのである。預言者イザヤは、「お前たちのうちにいるであろうか。主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも、主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。」(50:10)と言う。信仰の確信がなくても、キリストに心を向け、自分の不義から離れたいと思う者は、神の恵みの状態にあるので、主の晩餐を受けることができるのである。

 

 

 

 むしろ、信仰の弱いキリスト者は、自分の不信仰を嘆き、自分よりも主イエスの憐みに心を向けて、疑いを解く努力をすべきであると、ウ大教理は勧めている。

 

 

 

 信仰義認の教理に堅く立つべきである。キリストを信じる信仰によってわたしたちは救われるのである。自分がその信仰にどれだけ確信を持っているかによって救われるのではない。キリストを救い主と信じているなら、そのお方が招かれる主の晩餐を喜んで受けるべきであるし、受けなければならない。

 

 

 

 なぜなら、主の晩餐は、信仰を強めるためのものであり、弱く疑いを抱き、霊的戦いにある者の霊性を助けるためにあるからである。