ウェストミンスター大教理問答60      主の2015年11月25日

 聖書箇所:ルカによる福音書第23章39-43節(新約聖書P158-159)

問82 見えない教会の会員がキリストと共にもつ、栄光における交わりとは、何であるか。
答 見えない教会の会員がキリストと共にもつ、栄光における交わりとは、この世にあり、死の直後からあり、そしてついに、復活と審判の日に完成されるものである。
問83 見えない教会の会員がこの世で享受する、キリスト共にもつ栄光における交わりとは、何であるか。
答 見えない教会の会員は、首なるキリストの肢体であり、それゆえ彼にあって、彼が完全に所有しておられる栄光に関与しているので、この世で、キリストと共なる栄光の初穂を分有している。またその保証として、神の愛の自覚、良心の平和・聖霊による喜び・栄光の望みを享受する。反対に、神の報復的み怒りの自覚・良心の恐れ・審判の恐るべき予想が、悪人たちにとって、死後受ける苦痛の始まりであるのと同様である。

  今夜は、ウ大教理の問82と83と答を学びましょう。「見えない教会の会員」とは「目に見えない教会の会員」である。目に見える教会とは地上教会であり、目に見えない教会とは天上(栄光)の教会である。
 
  ウ大教理は、問82で目に見えない教会の会員が「キリストと共にもつ、栄光における交わりとは何か」と質問している。これは、聖化の完成である。キリストが再臨し、聖化が完成する。今わたしたちの目に見えない天上(栄光)教会が現れ、御国が完成する。天上(栄光)の教会の会員は、その時キリストと共に御国を相続し、統治する。これが目に見えない教会の会員の「栄光における交わり」である。
 
  使徒パウロは、「キリストと持つ、栄光における交わり」(宮崎彌男訳)を、「神の国を受け継ぐ」(Ⅰコリント15:50)、「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました」(ローマ8:29)、「キリストと共同の相続人です」(ローマ8:17)、「主と同じ姿に造りかえられていきます」(Ⅱコリント3:18)等と証ししている。主イエスは、共に十字架の刑を受けた一人の罪人に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束された(ルカ23:43)。
 
  「キリストと共にもつ、栄光における交わり」とは、一言で「わたしたちはいつまでも主と共にいる」(Ⅰテサロニケ4:17)ということである。目に見ない教会の会員は、この世にあっては洗礼においてキリストと一つにされ、死後彼の魂は清められてキリストと結び合わされ、彼の体は墓に休む。そして、キリストが再臨し、「復活と審判の日に」彼のからだが栄光のからだに甦らされ、清められた魂がそのからだに入り、身も魂もキリスト共に生きることが完成し、彼はキリストと共に御国を相続し、キリストと共に統治する。
 
  ウ大教理は、問83で目に見えない教会の会員が「この世で享受する、キリスト共にもつ栄光における交わりとは何か」と質問している。
 
  答は、宮崎訳の方が理解しやすい。「見えない教会の会員は、この世にあって、キリストと共に栄光の初穂を授けられています。彼らは頭であるキリストの部分であり、それゆえこの方に結ばれているので、この方があふれるばかりに所有しておられる栄光にあずかる者とされているのです。」見えない教会の会員は、この世にあって洗礼によりキリストと一つにされ、キリストが完全に所有される栄光にあずかる者とされているのである。
 
  「そのことの保証として、神の愛の自覚、良心の平和、聖霊による喜び、栄光の望みを享受しています。」洗礼にあずかる真の信者が常にキリストと共にあることの証しである。
 
  反対に「悪人たち」、すなわち、目に見えない教会の会員ではない者である。この「悪人」は人間の善悪の判断によらない。人の目には善人に見えても神の目には悪人である者である。その者は、常に「神の報復の怒りの自覚、良心の戦慄、やがて裁かれることへの恐怖」があり、それは「死後に耐え忍ばなければならない苦痛の始まりとなる」のである。
 
  使徒ペトロは、「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか」(Ⅰペトロ4:17)と証ししている。キリスト者の聖化は、神が教会において真のキリスト者とそうでない者との裁きを通して完成へと導かれるのである。

 

 

 ウェストミンスター大教理問答61      主の2015年12月2日

 聖書箇所:ローマの信徒への手紙第5章12-14節(新約聖書P280)

問84 すべての人が死ぬのか。
答 死は、罪が支払う報酬として威嚇されるので、一度だけ死ぬことがすべての人に
定まっている。それは、すべての人が罪を犯したからである。
問85 死が罪の支払う報酬であるなら、なぜ義人は、そのすべての罪がキリストにおいて許されているのに、死から解放されていないのか。
答 義人は、終りの日に死そのものから解放されるし、死にあっても、死のとげとのろいから解放されている。それゆえ、彼らは死にはするが、それは神に愛から出るのであって罪と悲惨さから彼らを全く自由にするため、また栄光におけるさらに深いキリストとの交わりを可能にするためであり、彼らは死に際して、それにはいるのである。
問86 見えない教会の会員が死の直後に享受する、栄光におけるキリストとの交わりとは何であるか。
答 見えない教会の会員が死の直後に享受する、キリストと共にもつ栄光における交わりとは、次のことである。すなわち、彼らの魂は、その時全く聖くされて、最高の天に受け入れられ、そこで光と栄光のうちにいます神のみ顔を仰ぎ、彼らの体の完全なあがないを待っている。その体は、死にあってもなお続いてキリストに結合され、終りの日に彼らの魂に再び結合されるまで、床にあるようにその墓に休息する。これと反対に、悪人の魂は、その死の時に地獄に投げ入れられ、そこで激しい苦痛と全くの暗黒の中にとどまり、また彼らの体は、大いなる日の復活と審判まで、獄屋にあるように閉じ込められる。

 ウ大教理問答の問84から90と答は、死と終末について、すなわち、「終わりの事どもの教理」(岡田稔『教理学教本』)を教えている。問84と答は、すべての人の死についてである。キリスト者もキリスト者でない人も、人は皆死ぬことについて教えている。聖書は、すべての人の死を、「罪の罰の一結果である」(創世記2:17,ローマ6:23)と教えている。人類の始祖であり、代表者であるアダムにおいてすべての人は罪を犯し、死は、その罪の支払う当然の報酬である(創世記3章,ローマ5:12)。だから、人は皆、一度死ぬことと罪の裁きを受けることが定まっている(ヘブライ9:27)。

 問85と答は、義人(キリスト者)の死について教えている。「死が罪の支払う報酬である」なら、義人(キリスト者)はなぜ死ぬのかという問いに答える。十字架のキリストがわたしたちの罪の身代わりに死に、義人(キリスト者)はキリストを信じる信仰によって、神に罪を赦され、神に義と認められたのである。どうして義人(キリスト者)は死から解放されないのか。ウ大教理は、義人(キリスト者)の死は、「神の愛から出て」いると教える。預言者イザヤは、「まことに、正しい人が取り去られるのは悪から守られるため。まっすぐ歩む者は平和に入り、彼らは寝床で休む」(フランシスコ会訳聖書)と預言している。義人(キリスト者)は十字架のキリストのゆえに永遠の死から解放され、「死においてさえ、死のとげと呪いから解放されている」(宮崎訳)。義人(キリスト者)の死は、この世の罪と悲惨から全く解放され、キリストとの栄光の交わりを得させられるためである。だから、使徒パウロは、「わたしにとって、生きることはキリストであり、死ぬことは利益なのです」と、義人(キリスト者)が死においてキリストとの永遠の交わりに生きる喜びを述べている。

  問86と答は、「見えない教会の会員が死の直後に享受する、栄光におけるキリストとの交わり」を教えている。「見えない教会の会員たち」とは、「聖徒たち」のことである。使徒信条に「聖徒の交わりを信ず」とある。「聖徒たち」は神の選びの民でもある。彼らの栄光におけるキリストとの交わりとは、第1に彼らの魂が死において完全聖化され、「最高の天」すなわち、楽園に入れられることである(ルカ23:43)。そこで彼らは「光と栄光のうちにいます神の御顔を仰ぎ」、体の完全な復活を待つのである。第2に彼らの体もまた死においてキリストと結合され、終りの日に彼らの魂に再び結び合わされるまで、床に横たわるように墓の中に休むのである。
 
  ウ大教理は、悪人(聖徒でない者)の死についても次のように教える。聖書は、神を信じない者を「悪人」と教える。この世で聖人君子でも、知識人であり、金持ちでも、神を信じない者は神の目には悪人である。悪人(神を信じない者)たちの魂は、死後聖徒たちの魂とは反対になる。彼らの魂は、死後直ちに地獄に入れられる。主イエスは、神を信じない金持ちが「陰府でさいなまれている」のを譬えで話された(ルカ16:23)。彼は激しい苦痛と暗闇の中に置かれている。使徒ユダは、信じなかった者たちが滅ぼされ、終りの日まで堕落した天使たちが永遠の鎖で縛られ、暗闇に閉じ込められたことを述べている(ユダ5.6.7)。
 
  死んだキリスト者はその時から楽園にあり、悲しみの涙は感謝に変えられている。

 

 

 ウェストミンスター大教理問答62      主の2015年12月9日

 聖書箇所:コリントの信徒への手紙一第15章12-19節(新約聖書P320‐321)

問87 復活について、わたしたちは何を信じなければならないか。
答 わたしたちは、次の点を信じなければならない。すなわち、終りの日には、正し
い者も正しくない者も同様に、一般的な死人の復活がある。その時生きながらえてい
る人々は、一瞬にして変えられる。また死人については、墓に置かれた同じ体が、そ
の時再び永遠にその魂に結合されて、キリストのみ力によって、よみがえらせられる。
正しい者の体は、キリストのみたまにより、また彼らの首であるキリストの復活の力
によって、強いもの、霊のもの、朽ちないものによみがえらせられ、キリストの栄光
の体に似たものとされる。また悪人の体は、彼らにそむかれた審判者キリストによっ
て恥辱によみがえらせられる。

 ウ大教理問答の問87と答は、復活について教えている。すでに問52と答で、キリストの復活については学んでいる。ここでは人間の復活について学ぶ。ウ大教理は、この人間の復活について「わたしたちが信じなければならない」重要なこととして教えている。

  ウ大教理は、わたしたちが復活について何を信じなければならないか、幾つかの重要な点を列挙している。その列挙は、問84から問86と答で学んだ人間の死についての教えと対になっている。すなわち、人間の死が「一般的な死」があるように、復活も「一般的な死人の復活」がある。ウ大教理は、ヘブライ人への手紙の9章27節を根拠に「人は一度だけ死ぬことがすべての人間に定まっている」(問84の答)と教えている。同じように使徒言行録の24章15節で使徒パウロが人間の復活の希望を神に対して抱いていることを根拠に、「終りの日には、正しい者(キリスト者)も正しくない者(非キリスト者)も、同様に一般的な死人の復活がある」(問87の答)と教えている。

 次にウ大教理は、聖書が聖徒(キリスト者)の死と悪人(非キリスト者)の死には違いがあり、同様に正しい者(キリスト者)の復活と悪人(非キリスト者)の復活にも違いがあると教えることを肯定している。

 ウ大教理は、このように死と復活の「一般的な」面と義人(キリスト者)と悪人(非キリスト者)の死と復活との相違を明確に教えている。

 「終りの日」とは、審判者であるキリストが再臨される時である。この世の終わりである。ウ大教理は、キリストが再臨された時、「一般的な死人の復活」がどのように生じるかを教える。キリストの再臨時に生きながらえている人々は、「一瞬にして変えられる」。既に死んでいる者は、墓に葬られた体が、その時再び永遠に魂に結合され、キリストの復活の御力により復活させられる。使徒パウロが証言するように(Ⅰコリント15:51-54)、「一般的な死人の復活」は「朽ちない者」、「死なない者」に変えられる。岡田稔は、「再臨と死人の復活並びに生ける者の変化とはおそらく同時であり、同一の事件の表裏と見るべきであろう」(『岡田稔著作集2 教理学教本』P493)と記している。終りの日にキリストは再臨し、御自身の復活の力により、すべての死者の体が起き上がり、魂ともう一度結合し、永遠に生きた人間の体となる。

 ウ大教理は、「正しい者」、すなわち、義人(キリスト者)と悪人(非キリスト者)の復活の体の相違を、次のように教える。正しい者、すなわち、義人の復活の体は、聖霊により清められ、「彼らの頭であるキリストの復活のゆえに、力強いもの、霊のもの、朽ちないものによみがえらせられ、栄光に輝くキリストの体に似たものとされます」(宮崎訳)。義人の死が「キリストと共にもつ、栄光の交わり」を得るように、義人の復活はキリストの復活の栄光の体に似た体を与えられるのである。

 ヨハネによる福音書5章27-28節で主イエスは、御自身に父なる神が裁きの権能を与えられたことを宣言し、再臨の時に死者は皆、人の子主イエスの御声を聞き、善を行った者は復活して永遠の命、すなわち、主との永遠の交わりを得るために、悪を行った者は復活して永遠に裁かれるために、主の御前に出てくると言われている。このように義人は、主に似た栄光の体に復活させられ、悪人は主に永遠に裁かれる恥辱の体に復活させられるのである。

 アドベントにわたしたちは主の再臨を待望している。岡田先生は、次のように述べる。「再臨待望とは、生きて主を迎える光栄という意味もあることを失念してはならない。怠ることとあきらめることとはこの再臨信仰と両立しない。しかし、主にあって死ぬ時、われわれはがっかりしてはいけない。『今から後、主にあって死ぬ死人は幸いである』(黙示録14:13)、『わたしの願いを言えばこの世を去ってキリストと共にいることである』(フィリピ1:23)、生きるも良し、死もまた良しである。」(同上書P496)。

 

 

 ウェストミンスター大教理問答63      主の2015年12月16日

 聖書箇所:マタイによる福音書第25章31-46節(新約聖書P50‐51)

問88 復活後直ちに何が続くか。
答 復活後直ちに、み使と人間への一般的な、また最後の審判が続く。その日その時
を、だれも知らない。それは、すべての人が目をさまして祈り、主の来臨のために常
に備えをするためである。
問89 審判の日に、悪人には何がなされるか。
答 審判の日に悪人は、キリストの左側に置かれ、明白な証拠と彼ら自身の良心の十
分な納得に基づいて、彼らに対して判決された恐ろしいが正当な定罪の宣告を受け、
そこで神の好意あるみ前と、キリスト・聖徒・全天使の栄光に輝く交わりとから捨て
られ、地獄に投げ入れられて、永遠に、悪魔とその使たちと共に、体と魂との両方の
言い尽しえない苦痛をもって罰せられる。
問90 審判の日に、義人には何がなされるか。
答 審判の日に義人は、雲に包まれてキリストのもとに引き上げられて、キリストの
右側に置かれ、そこで公に受け入れられ無罪を宣言されて、捨てられたみ使や人間を
キリストと共にさばき、また天に受け入れられる。そこで彼らは完全・永遠にすべて
の罪と悲惨から解放され、考えも及ばぬ喜びに満たされ、体と魂の両方において・無
数の聖徒やみ使と共になることにおいて、特に父なる神と主イエス・キリストと聖霊
を永遠に直接見て喜ぶことにおいて、完全に聖く幸いにされる。これこそ、見えない
教会の会員が、復活と審判の日に、栄光のうちにキリストと共に享受する十全で十分
な交わりである。

 ウ大教理問答の問88-90と答は、復活に続く最後の審判ついて教えている。ウ大教理は、ここでも人間の死と復活と同様に「一般的な神の審判」と「悪人の審判」と「義人の審判」の違いを教えている。

  ヘブライ人への手紙9章27節に「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」とあるように、ウ大教理は、復活後直ちに神の「最後の審判が続く」ことを教えている。また、神の最後の審判においてすべての人間とみ使を裁かれる(Ⅱペトロ2:4,ユダ6-7,14,マタイ25:41)。これが「一般的な神の審判」である。いつこの神の審判の日が来るのか、だれも知らない。父なる神のみがご存知である(使徒言行録1:7)。大教理は、一般的神の審判の日がだれにも知らされていない理由を次のように教えている。「それは、すべての人が目をさまして祈り、主の来臨のために常に備えをするためである」と。宮崎訳は、「主の来臨に絶えず備えているためです」と訳している。ウ大教理は、キリストの再臨、死者の復活、最後の審判が今生きるわたしたちキリスト者の生涯に起きてもよいように常に備えているように勧めているのである。

 次にウ大教理は、問89-90と答で神が悪人と義人を審判されることに相違のあることを教えている。問89と答は、神が悪人を審判されることを教える。問90と答は、神が義人を裁かれることを教える。

  この世では悪人(不信仰者)と義人(信仰者)は混在している。しかし、死と復活、そして神の審判によって双方はキリストの「左」と「右」に置かれる。キリストによって分離(審判)される。この分離(審判)は、「明らかな証拠および自分自身の心の内奥における完全な自覚に基づいて」正確で永遠的である。だから、悪人はキリストに「恐ろしいが正当な定罪の宣告を受け」るのである(ローマ2:15-16,マタイ25:41-46)。その結果、悪人(不信仰者)は神の好意を断たれ、キリスト・聖徒・天使たちの栄光の交わりから除外され、地獄へと投げ入れられる。そして悪魔とその使たちと共に体と魂の両面で言い尽し得ない永遠の苦痛へと罰せられる。
 
  義人(信仰者)は、キリストの再臨時にそのままで空中に上げられる(Ⅰテサロニケ4:17)。そしてキリストの右側に置かれる(マタイ25:33)。公に神の子として受け入れられ、無罪を宣告される(マタイ10:32)。そして、キリストと共に神に遺棄された悪魔と使たちと悪人たちを裁き(Ⅰコリント6:2)、御国へと受け入れられる。その結果、義人たちは完全・永遠に聖化され(エフェソ5:27)、この世の罪と悲惨さから解放される(黙示録14:13)。この地上では想像できない喜びである。
 
  義人たちは無数の聖徒やみ使たちの集まり(交わり)で(ヘブライ12:22,23)、父・子・御霊なる神を永遠に直接に見て喜ぶことができる(Ⅰコリント13:12)。また義人たちは体と魂の両面で完全に聖化され、幸いな者とされる(同上)。これが目に見えない教会の会員、すなわち、神に選ばれた民が復活と審判の日に、栄光のうちにキリストと共に享受する完全で、満ち足りた交わりである。

 

 

 ウェストミンスター大教理問答64      主の2015年12月23日
聖書箇所:創世記創世記第2章15-17節(旧約聖書P3)
問91 神が人間に求められる義務は、何であるか。
答 神が人間に求められる義務は、啓示されたみ心に服従することである。
問92 神は人間に、服従の規準として、最初に、何を啓示されたか。
答 無罪の状態のアダムに、またアダムにおいて全人類に啓示された服従の規準は、
善悪を知る木の実食べてはならないという特別な命令の外には、道徳律法であった。

 本日よりウ大教理問答の後半を学びましょう。「信仰篇」に続き、「生活篇」である。問91-196と答である。聖書は、信仰と生活について教える。すなわち、神について何を信じるか、これがウ大教理の前半の信仰篇である。次に聖書が示す神、わたしたちが信じる神がわたしたち人間に求められる義務について、ウ大教理は後篇で教える。

 ウ大教理は、問91で神が人間に求められる義務とは、何かと問うている。どうして神は人間に義務を要求できるのか。これについては、前半の信仰篇で学んでいる。神がわたしたち人間の創造者であり、わたしたち人間は神の被造物であるからである。神はわたしたち人間を、神を愛し神に仕えるように創造された。また、わたしたちキリスト者は、罪より救われ、キリストに結び合わされ、神の子とされ、神を愛し神に仕えるようにされた。だから、神はわたしたち人間に神の御心に服従するように、そしてわたしたちキリスト者にも服従を要求されるのである。

  神が人間に義務を要求される方法は、神の啓示によってである。神の啓示は、二つある。自然啓示(一般啓示)と特別啓示である聖書である。神はその二つの啓示によって示されたご自身の御心にわたしたち人間が服従することを要求されている。
 
  ウ大教理は、聖書の御言葉から次の3つを挙げている。(1)使徒パウロは、ローマの信徒への手紙12章1-2節でわたしたちに神への献身の生活を勧め、「何が神の御心であるか」を知り、服従するように教えている。(2)預言者ミカは、ミカ書6章8節で主なる神が神の御心に服従することを要求されていることを教える。「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」を。(3)サムエル記上15章22節で預言者サムエルは、サウルに主なる神は動物犠牲よりご自身に聞き従うことを喜ばれると告げている。

 ウ大教理は、問92で神が人間に要求された義務について、その服従の規準として、最初に何を啓示されたかを問うている。ウ大教理は、答で二つ挙げています。アダムが無罪の状態であったエデンの園で与えられた最初の服従の義務とその例外を除いて、アダムとすべての人類に与えられた道徳律法である。

 アダムが無罪の状態とは、創世記第3章の人間の堕落以前の状態である。創世記第2章でアダムがエデンの園で生活していた頃である。神はアダムに一つの服従を要求された。「ただし、善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:17)。この神の要求を、ウ大教理は「アダムにおいて全人類に啓示された服従の規準」と教える。だがウ大教理は、この要求は「特別な命令」であったと教えている。これは、神とアダムとの行いの契約であったからである。神は、御言葉によってアダムと行いの契約を結ばれたのである。神はアダムが服従することで、永遠の命を、不服従によって死の刑罰を約束されたのである。

 それとは別に、神は、御自身に似せて人間を創造し、男と女に創造された(創世記1:26-27)時に、神は彼らの心に道徳律法を記され、神の像に従って道徳性を持った者として創造されたのである。主なる神は、神の民イスラエルには民の指導者モーセを通して道徳律法である十戒を与えられたのであるが、その律法を持たない異邦人たちには、彼らの心に神が道徳律法を記されていると、使徒パウロが証言している(ローマ2:14)。

 今では、聖書を通して、全人類が神が人間に義務として要求されている道徳律法を知ることができるのである。

 

 

 ウェストミンスター大教理問答65      主の2015年12月30日
聖書箇所:申命記第5章1-3節、32-33節(旧約聖書P289-290)
問93 道徳律法とは何であるか。
答 道徳律法とは、身も魂も人間全体の状態と性向において、また神と人とに負うて
いる聖と義のすべての義務の遂行において、それに対する人格的な完全な不断の一致
服従を各人に命じ拘束し、またそれを守れば命を与えることを約束し、破れば死を報
いると威嚇している、人類に対する神のみ心の宣言である。

 ウ大教理問答は、「生活篇」の中心の一つ、すなわち、神がすべての人間に要求する義務の中心、道徳律法について教える。問91-152と答である。先週は、神が人間に要求する義務とは、神の御心に服従することであり(問91と答)、その服従の規準が道徳律法であること(問92と答)を学んだのである。

  そこでウ大教理は、問93と答では、その道徳律法とは何であるかを教えている。宮崎訳は次のように冒頭を訳している。「道徳律法とは、人類に対する神の御心の宣言であって」。それによってウ大教理が主張する「道徳律法は人類に対する神の御心の宣言」であることを明確にしている。
 
  神は、モーセを通して神の民イスラエルに道徳律法(十戒)を授けられた。その時、神は彼らに「イスラエルよ、聞け、わたしは掟と法を語り聞かせる」(申命記5;1)と宣言されたのである。このように道徳律法とは「神のみこころの宣言」なのである。
 
  その意味するところは、次の事である。第一に道徳律法は神の啓示である。第二に神の意志である。
 
  次にウ大教理は、神が道徳律法を通して人間全体にわたって義務の遂行を要求していることを教えているのである。この点を宮崎訳は良く表現している。「人間全体、すなわち、魂も体も、その外面ならびに内面において、さらには、神と人に対して負っているきよさと正しさに関わるすべての義務の遂行において」。
 
  ウ大教理は、神が道徳律法を通して人間に義務の遂行を要求されているのは、人間の一部分ではないと教えているのである。すなわち、人間は魂と体から成る。だから、神は道徳律法を通して、魂と体から成る人間に服従の義務を要求されるのである。また、魂と体から成る人間全体の内面と外面とにおいても要求されているのである。主イエスは、律法学者に「律法には何と書いてあるか」と質問されたのである。律法学者は、「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えたのである。主イエスは、彼に「正しい答えだ。それを実行しなさい」と命じられたのである(ルカ10:27-28)。主イエスは律法学者との問答で、彼に神と人に対して負っているすべての聖と義に関する遂行(礼拝行為と道徳律法の遂行)を、神が命じる通りに実行せよと命じられたのである。
 
  「聖の義務」とは、宗教的義務である。ウ大教理は、人が「神の栄光をあらし、永遠に神を喜び」、神を礼拝することを聖なる義務としているのである。「義の義務」とは、道徳律法である。隣人愛である。
 
  ですから、ウ大教理は、道徳律法は「人格的で、完全かつ不断の一致と服従とをすべての人に命じ、義務づけるものです」(宮崎訳)と教えているのである。「人格的」とは、道徳律法は「神と隣人に対して負っている」義務であるからである。そして「完全かつ不断の一致と服従」とは、神の御心に完全に一致し、常に神の御心通りに実行することである。このように道徳律法は、すべての人間に義務として負わされているのである。

 ウ大教理は、この道徳律法には神の祝福と呪いが伴うことを教えているのである。「この道徳律法は、これを守れば命を与えると約束すると同時に、これを破れば死をもって報いると威嚇してもいます。」(宮崎訳)。神は、モーセを通して神の民イスラエルに十戒(道徳律法)を授けられた後に、次のように警告されたのである。「あなたたちは、あなたたちの神、主が命じられたことを忠実に行い、右にも左にもそれてはならない。あなたたちの神、主が命じられた道をひたすら歩みなさい。そうすれば、あなたたちは命と幸いを得、あなたたちが得る土地に長く生きることができる」(申命記5:32-33)。使徒パウロは、申命記27章26節の御言葉を引用して、ガラテヤの諸教会のキリスト者たちに次のように警告しているのである。「律法(道徳律法)の実行に頼る者はだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:10-11)。

 

 

 ウェストミンスター大教理問答66      主の2016年1月6日
聖書箇所:テモテへの手紙一第1章8-10節(新約聖書P384)
問94 道徳律法は、堕落以後の人間にとっても、何かの効用があるか。
答 堕落以後だれも、道徳律法によって義と命に至ることはできないとはいえ、それ
には、すべての人間に共通な大きな効用があると同様に、再生しない者または再生し
た者に、それぞれ特有の大きな効用がある。
問95 道徳律法は、すべての人間に、次のような効用がある。すなわち、彼らに神
のきよい性質とみ心と、それらに従って歩むよう彼らを拘束する義務とを教え、おそ
れを守れない彼らの無能力と、性質・心情・生活の罪深い汚れとを悟らせ、彼らを罪
と悲惨の自覚においてへりくだらせ、またそれによって彼らに、キリストを必要とし
ていることと、その服従の完全性を一層明らかに認めさせるのである。

 ウ大教理問答は、問94-97と答で道徳律法の「効用」について教える。ウ大教理は、道徳律法がすべての人間に共通の効用のあることを教え(問95と答)、特に再生していない人間と再生している人間には、それぞれ特有の効用があることを教えている(問96-97と答)。

  ウ大教理は、問94と答で、「堕落以後の人間にとっても道徳律法が何かの効用があるか」と問うている。この問いは、当然の問いである。道徳律法は、人間にとって守れば、益がある。すなわち、律法を行う者は律法によって生きることができるからである(ガラテヤ3:12)。ところが、アダムの原罪のゆえにすべての人類は堕落し、今では誰も律法を守り行うことができないのである。ウ大教理が教えるように、「堕落以後だれも、道徳律法によって義と命に至ることができない」のである。当然、人間の守れない道徳律法に意味があるのかという疑問が生ずる。だから、ウ大教理は堕落以後のすべての人間に道徳律法がどんな効用があるのかと問うのである。
 
  そこで大教理は、ここでは二つのことを答えている。第1に道徳律法がすべての人間に共通の効用があると答えている。第2に道徳律法は、非再生者と再生者とではそれぞれ異なる大きな効用があると答えている。
 
  問95と答は、第1の答を、具体例を挙げて教えている。すなわち、道徳律法はすべての人間に共通の効用があることを教えているのである。第1にすべての人間には、その心に神により「聖なる者となれ」という道徳律法を刻まれているのである。神は聖であるから、すべての人も聖となるべきである(レビ記11:44,45)。ウ大教理が教えるように、すべての人間にはその心と道徳律法を通して創造主の聖なる性質と御心に服従し、「聖なる者となれ」と拘束する義務を教えられているのである。
 
  第2に、道徳律法は養育係である。養育係としての道徳律法には、二つの働きがある。第1の働きは、すべての人間に罪の自覚を生じさせて、へりくだらせる働きである。道徳律法は、すべての人間に「無能力であること」「人間性と心と生活が罪に汚れて」いることを悟らせるのである。それゆえすべての人間は道徳律法によって自らの罪を知り、自覚させられるのである(ローマ3:20,7:7)。
 
  第2の働きは、罪と悲惨さを自覚させ、へりくだり、キリストとキリストの完全な服従の必要性を認めさせることである(ミカ8:6,詩編19:12,13,ガラテヤ3:22)。
 
  すべての人にとって道徳律法は、罪を自覚させ、キリストへの信仰へと導く養育係である。
 
  神の御子、キリストは、律法の下に完全な人として生まれ、道徳律法を完全に服従し、神の御心に従順に従われたのである。それによってキリストは義と命を得られたのである。そして、わたしたちはキリストを信じる信仰によって、キリストの得られた義と命をいただき、キリストはわたしたちの罪の身代わりに十字架の神の呪いを引き受けられたのである。

 

 

 ウェストミンスター大教理問答67      主の2016年1月13日
聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙第3章15-28節(新約聖書P346-347)
問96 道徳律法は、再生しない者にとって、どのような特有の効用があるか。
答 道徳律法は、再生しない者にとって、次のような効用がある。すなわち、来るべ
き神のみ怒りからのがれるように彼らの良心を呼びさまし、彼らをキリストに追いや
る。あるいは、彼らが罪の状態と習慣を続けるならば、彼らを弁解の余地なき者とし、
罪ののろいにまかせる
問97 道徳律法は、再生した者にとって、どのような特有の効用があるか。
答 再生してキリストを信ずる者たちは、わざの契約としての道徳律法から解放され
ており、従って、それによって義とされもせず、罪に定められもしないとはいえ、す
べての人間と彼らとに共通な道徳律法の一般的効用の外に、次のような特有の効用が
ある。すなわち、彼らの代りに、また彼らの益のために、キリストが律法を成就し、
律法の呪いを受けられたことのゆえに、彼らがどれほど多くキリストに負うているか
を示し、またそれによって、彼らを一層の感謝にかり立て、彼らの服従の規準として
の道徳律法に自分をかなわせるよう一層意を用いることにおいて、その感謝を表わさ
せる。

 ウ大教理問答は、問96-97と答で再生していない人間と再生している人間には、それぞれ特有の効用があることを教えている。

 「再生しない者」とは非キリスト者であり、「再生した者」とはキリスト者である。先週道徳律法は、すべての人に効用のあることを学んだのである。「効用」とは「益」のことである。道徳律法はすべての人に益となり、非キリスト者とキリスト者にとってもそれぞれ特有の益があるのである。

 再生しない者、すなわち、非キリスト者にとって、道徳的律法は「養育掛かり」としての益がある。すなわち、非キリスト者は、道徳律法によって罪の自覚を生じさせられるのである。それを、ウ大教理は問96の答で「来るべき神のみいかりからのがれるように彼らの良心を呼びさまし」と教えている。

 「再生しない者」とは、神の御前における自己の罪に無自覚な者である。道徳律法には、その者に罪に自覚を生じさせるという益がある。道徳律法は、罪人に罪を自覚させ、神の御怒りを恐れさせるために用いられることに益がある(Ⅰテモテ1:9-10)。

 次にウ大教理は、道徳律法が非キリスト者をキリストに導く、あるいは、罪に留まる者を神の呪いに任せるという効用のあることを教えるのである。道徳律法は、再生しない者にとって中立的なものではないのである。必ずキリストに導くか(ガラテヤ3:24)、あるいは、非キリスト者を弁解の余地がないほどに、神の呪いの下に置くのである(同3:10)。

 再生した者、すなわち、キリスト者にとって幸いなことを、ウ大教理は次のように宣言している。「わざの契約としての道徳律法から解放されており」(問97の答)と。「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。」(ガラテヤ3:10)。しかし、「キリストが律法を成就し、律法ののろいを受けられたことのゆえに」キリスト者は、すでに道徳律法から解放されているのである。キリスト者は自らの救いのために道徳律法を実行する必要はないのである。キリストが代わって為されたから。それでも、道徳的律法は、キリスト者にも罪の自覚を生じさせ、キリストに頼るように導くのである。

 しかし、再生した者、すなわち、キリスト者にとっての道徳律法の固有の益は、神への感謝の応答としての規準である。キリストに自分を服従させるために、この「道徳的律法」を用いるのである。罪ゆえに永遠に滅ぶべき者である者を、神はキリストの十字架により罪を赦し、キリストが代わって律法を守り、義を得られたその義を、信じるわたしたちにお与えくださったのである。そして、キリストは死人の中から復活し、わたしたちに永遠の命を保証されたのである。

 道徳的律法は、このキリストの恵みにわたしたちが感謝し、キリストに服従するために用いることに、キリスト者にとって最高の価値があるのである。

 ウ大教理は、キリスト者の生きる目的を、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことであるとしている。そのためにキリスト者は、この道徳的律法を用いてキリストに服従し、神に救われたことを感謝し、神を喜ぶのである。

 

 

 ウェストミンスター大教理問答68      主の2016年1月20日
聖書箇所:マタイによる福音書第22章34-40節(新約聖書P44)
問98 道徳律法は、どこに要約的に包含されているか。
答 道徳律法は、十誡のうちに要約的に包含されている。これは、シナイ山で神のみ
声によって申し渡され、神によって二枚の石の板に書きつけられ、出エジプト記に二
〇章に記録されている。その初めの四つの戒めは神に対するわたしたちの義務を、ほ
かの六つの戒めは、人に対するわたしたちの義務を含んでいる。
問99 十誡の正しい理解のために、どのような規則が守られなければならないか。
答 十誡の正しい理解のためには、次の規則が守られなければならない。すなわち、
一 律法は完全であり、全人においてその義に全く一致し、またいつまでも完全な服従を要求するように、すべての人間を拘束する。従って、すべての義務に対する最高度の完全さを要求し、またすべての罪の最少度をも禁ずる。
二 律法は霊的であり、従って言葉・わざ・挙動と同様に、理性・意志・感情・霊魂の他のあらゆる働きにも及ぶ。
三 同一のことが、さまざまの関係で、いくつかの戒めの中に命じられ、あるいは禁じられている。
四 義務が命じられている場合には、反対の罪が禁じられており、また罪が禁じられている場合には、反対の義務が命じられている。そのように、約束が付加されている場合には、反対の威嚇が含まれており、また威嚇が付加されている場合には、反対の約束が含まれている。
五 神が禁じられることは、してよい時はない。神が命じられていることは、いつでもわたしたちの義務である。しかし、すべての特殊な義務は、いつでもしなければならないのではない。
六 一つの罪あるいは義務のもとに、同じ種類のすべての罪あるいは義務が、そのすべての原因・手段・機会・その情況・それへの挑発と共に、禁じられ、あるいは命じられている。
七 わたしたち自身に対して禁じられ、あるいは命じられていることは、他の人々が、彼らの立場の義務に従ってそれを避け、あるいは実行することができるように、わたしたちの立場から努力しなければならない。
八 他の人々に命じられることにおいては、わたしたちは自分の立場と職分に従って、彼らの助けとならなければならない。また他の人々に禁じられていることにおいては、わたしたちは、彼らに加わらないように用心しなければならない。

 ウ大教理問答は、問98-99と答で道徳律法の要約が聖書のどこに記述され、また道徳律法を理解するために、どのような規則を守る必要があるかを教えている。

 ウ大教理は、出エジプト記34章1-4節と申命記10章4節に神がシナイ山でモーセに十誡の石の板を2枚授けられたという記述から、道徳律法が2枚の石の板に要約されたことに言及するのである。その全文は出エジプト記20章と申命記5章にある。1枚目の石の板には、第1戒から第4戒、すなわち、最初の4つの戒めが記され、神に対するわたしたちの義務が命じられている。2枚目の石の板には第5戒めから第10戒、すなわち、6つの戒めが記され、人に対するわたしたちの義務が含まれている。

  主イエスは、律法の専門家の一人から「道徳律法の中でどの戒めが最も重要であるか」と質問されたとき、主は道徳律法を申命記の6章5節とレビ記19章18節の御言葉から「神を愛することと隣人を愛することである」と要約されて答えられたのである。道徳律法の要約とは、道徳律法の全体のまとめである。
 
  問99と答は、不思議な問答である。というのは、十戒を理解するために、なぜ規則を守らなければならないのかと、思うからである。それは、修練と関係する。十戒はキリスト者が身につけるものである。ウ大教理は、8つの規則を守ることで、キリスト者が生活の中で十戒を繰り返し実践し、身につけるようにしようとしているである。十戒を理解するとは、キリスト者が十戒を生活化することであり、そのためにわたしたちがこの8つの規則を守り、十戒に従って日々歩む訓練を続けることを、そして十戒をわたしたちが身につけることをウ大教理は目指しているのである。
 
  一の規則は、道徳律法は完全であるから、人は完全に道徳律法を守る義務があるということである。二の規則は、道徳律法は霊的であるから、人間の全体に及び、永遠に拘束するということである。三の規則は、全く同一のことが、異なった関連で、命じられ、禁じられている。たとえば、主を礼拝することは命じられているが、偶像を礼拝することは禁じられている。四の規則は、義務と禁止は相反し、約束と威嚇も相反するものである。五の規則は、神が命じたことは義務であり、神が禁じたことは絶対に行えない。特定の義務、すなわち、神殿礼拝等は時代によって義務ではなくなる。六の規則は、いろんな状況で誘発する同種の義務と罪に対してである。七の規則は、キリスト者は隣人が神に服従できるように努力しなければならないということである。八の規則は、隣人を助ける義務と隣人の悪に加わらないということである。

 

 

 ウェストミンスター大教理問答69      主の2016年1月27日
聖書箇所:出エジプト記第20章1-19節(旧約聖書P126-127)
問100 十誡においてわたしたちは、どのような特別な事柄を考えなければならな
いか。
答 わたしたちは、十誡において、序言・戒めそのものの内容・それを一層強く出張す
るために、そのあるものに付加されているいくつかの理由を考えなければならない。
問101 十誡の助言は何であるか。
答 十誡の助言は、「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、
奴隷の家から導き出した者である」というみ言葉に含まれている。ここで神は次のよう
にその主権をお示しになる。すなわち、神はエホバ、永遠・不変・全能の神、自律自存
し、すべてのみ言葉とみわざに存在を与える者、また昔イスラエルにとってのように、
すべての神の民にとっての契約の神、彼らをエジプトの導き出されたように、霊的隷属
から救い出される神であり、従ってわたしたちは、彼をわたしたちのただひとりの神と
して、そのすべての戒めを守らなければならないのである。

 ウ大教理問答は、問100-101と答で十誡についての特別な事柄とその序言について教えている。

 宮崎彌男先生は、ウ大教理問100を「十戒に関して、わたしたちが考えなければならない大切なことは、何ですか」と訳し、「わたしたちは、十戒に関して、序言、戒めそのものの内容、戒めを一層強める目的で戒めのあるものに付加されているいくつかの理由を考えなければなりません」と訳されています。簡潔で明瞭な訳です。

 十戒は、序言と十の戒めから成り立っているのである。その内容をよく理解すると共に、十の戒めの中にはその戒めを一層強める目的で、いくつかの理由を付加しているものがある(第二戒、第三戒、第四戒、第五戒)。どうしてこの4つの戒めにはその理由が付加されているのかをよく考えてみる必要がある。

  問101と答は、十戒の序言とは何かを教えている。
 
  十戒は、出エジプト記20章2-17節と申命記5章6-21節に、その全文がある。「十誡の序言は何であるか」というこの問いは、その全文の中で「十誡の序言」がどこまでであるかを問い、次のように答えている。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト20:2)というみ言葉であると。「というみ言葉に含まれている」は、「という御言葉にあります」(宮崎訳)が良いと思う。
  次にウ大教理は、「十誡の序言」でみ言葉を通して自己啓示されている神の主権を明らかにしている。「ここで神は次のようにその主権をお示しになる」と。
 
  ヨハネス・ヴォスは、序言の重要性について次のように述べる。「十戒の序言が重要であるのは、それが十戒の不可欠な部分であり、あとの一つ一つの戒めの土台を構成しているからである」(『ウェストミンスター大教理問答書講解(中)』ℙ66)と。
 
  ウ大教理は、この序言で、わたしたちがこの十戒に従う義務を負っている理由を、二つ述べているのである。第1に神の主権性である。第2に契約の神、その神の贖いの御業である。ヴォスは、ウ大教理がわたしたちの道徳的責任の根拠を、神の主権性と贖いの御業の事実に置いていると解説している。
 
  神の主権とは、「神はエホバ、永遠・不変・全能の神、自律自存し、すべてのみ言葉とみわざに存在を与える者」ということである。宮崎訳は、こう訳する。「神は永遠・不変・全能の神、ヤハウェであり、自律自存であって、御自身の御言葉と御業すべての源である方として御
  自身の主権を明らかにしておられます」。神の主権とは、神が万物の上に持たれる絶対的、至高の、不変的権威と支配である。「エホバ」「主」とは、神は自律自存者、主権者という意味である。だから、神が主であるとは、人間に救いを与える神の主権性を意味している。
 
  また、神は、イスラエルをはじめ、すべての神の民にとって契約の神である。神は、アブラハムとの契約を通して神の民イスラエルの神となり、彼らを奴隷の地エジプトから救われ、この十戒を授けられた。新約の神の民は、父なる神とキリストとの贖いの契約を通して、罪の霊的な奴隷状態から救い出されて、この十戒の前に立たされている。
 
  神に主権的に救われた神の民にとって、旧約聖書の神、「主」と父・子・御霊なる三位一体の神は、「わたしたちのただ一人の神」である。だから、ウ大教理は、次のように宣言する。神の民は、神に絶対的に服従し、忠誠を示すために十戒のすべての戒めを守らなければならないと(Ⅰペトロ1:15-18)。

 

 

 ウェストミンスター大教理問答70      主の2016年2月3日
聖書箇所:申命記第6章1-15節(旧約聖書P291)
問101 第一戒は、何であるか。
答 第一戒は、「あなたは、わたしのほかに(または、わたしの前に)、なにものをも神としてはならない」である。
問102 第一戒で求められている義務は、何であるか。
答 第一戒で求められている義務は、次の通りである。すなわち、神が唯一のまこと
の神・わたしたちの神であることを知り・認めること、それにふさわしく神を礼拝し
栄光を帰することであって、それは、神を心に留め、深く思い・覚え・大いに尊び・
敬い・たたえ・選び・愛し・慕い・恐れること、神を信じること、神に信頼し・望み・
喜び・楽しむこと、神のために熱心になること、神を呼んですべての賛美と感謝をさ
さげ・全人において全き服従をささげること、神に喜ばれるよう、すべてのことに注
意し、何事によらず、神にそむくことのある時は心を痛めること、また神と共にへり
くだって歩むことによる。

 ウ大教理問答は、問103-106と答で第一戒について解説をしている。解説は、定まったスタイルでなされる。すなわち、(1)十の戒めの本文を問う。(2)その戒めが求めている義務を問う。(3)戒めが禁じている罪を問う。(4)第一から第五の戒めでは、付加された理由を教えている。

 第一戒の本文は、出エジプト記20章3節と申命記5章7節にある。それは、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」である(新共同訳)。宮崎彌男先生は、問106と答との関連で、「わたしの前に」という言葉を補って訳されている。「あなたには、わたしをおいてほかに(わたしの前に)神があってはならない。」

 第一戒の本文は、神の民イスラエルを解放された主なる神のほかに別の神を持つようなことがあってはならないという、主の御命令である。

 ウ大教理は、問104と答でこの第一戒がわたしたちに求めている義務について解説する。第一戒がわたしたちに求める義務とは、主なる神のみをわたしたちの神とし、主のみを愛するということである。神は、モーセを通して神の民イスラエルに命じられた。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4-5)。

 ウ大教理は、第一戒の義務を、聖書の御言葉に従って遂行する。まずこの義務を果たすためには、「我らの神、主は唯一の主である」、すなあち、「神が唯一のまことの神」であり、「わたしたちの神である」ことを知り、認める必要がある。ダビデはわが子ソロモンに遺言し、「わが子ソロモンよ、この父の神を認め、全き心と喜びの魂をもってその神に仕えよ」(歴代誌上28:9)と命じたのである。神の民は、約束の地に入る前、モアブの地でモーセに「主を自分の神とし」、主の道に従い、主の掟を守ると誓ったのである(申命記26:17)。預言者イザヤは、神に選ばれた僕は自分の神を知り、信じ、理解すると述べている(イザヤ書43:10)。

 次に神を正しく知り、認める者は、それにふさわしく神を礼拝し、神に栄光を帰さなければならないと、ウ大教理は教える。詩篇95編の詩人は、主を創造主なる神と知り、主がわたしたち神と認め、それにふさわしく主を礼拝し、主に服従し、主をほめたたえた(詩篇95:6-7)。主イエスは、父なる神の独り子として神を知り、認められていたので、荒れ野でサタンに誘惑された時、それにふさわしくサタンの誘惑を退けて、「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』」とある」(申命記6:13)と告げられたのである(マタイ4:10)。

 ウ大教理は、神礼拝、神に栄光を帰することを、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と理解している。

  だから、それを次のように言い表すのである。「それは、神を心に留め・深く思い・覚え・大いに尊び・敬い・たたえ・選び・愛し・慕い・恐れること、神を信ずること、神に信頼し、・望み・喜び・楽しむこと、神のために熱心になること、神を呼んですべての賛美と感謝をささげ・全人において全き服従をささげること、神に喜ばれるよう、すべてのことに注意し・何事によらず、神にそむくことのある時は心を痛めること、また神と共にへりくだって歩むことによる。
 
  以上のことは、族長アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ダビデ、預言者エリヤ、エリシャ、ヨブ、何よりも主イエス・キリストご自身を知り、学ぶならば、わたしたちが実践的に理解できるだろう。義務とは、わたしたちがわたしたちの一切を持って、わたしたちの神に献身することである。わたしたちは、この世ですべてのことを、神を崇め、神を愛し、神の栄光のためにするのである。