ウェストミンスター大教理問答86      主の201668

 

 

 

聖書箇所:出エジプト記第2012(旧約P126),マタイによる福音書第1549(新約P29)

 

 

 

問128 上の人に対する下の人の罪とは、何であるか。

 

答 上の人に対する下の人の罪は、次の通りである。すなわち、求められている上の人への義務をすべて無視すること、正当な忠告や命令やきょう正を受けた場合に、彼らの人物と地位を羨み、軽んじ、反抗すること、のろい、あざけり、また彼らとその支配にとって恥や不名誉になるような、すべてわがままでつまずきとなる態度である。

 

                                                   

 

 今夜は、ウ大教理問答の問128と答を学びましょう。ウ大教理は、問126と答で第5戒の一般的適用範囲を人間関係の全般に広げ、問127128と答では、下(目下)の人が上(目上)の人に払うべき尊敬と上の人に対する下の人の罪を教え、問129130と答で上の人が下の人に求められる義務と上の人の罪を教え、問131132と答で対等の人同士の義務と罪を教えている。すなわち、年齢、地位、社会のすべての人間関係において、義務と罪を教え、すべての者がキリストの支配領域で、第5の戒めに従い、キリストへの服従を示すことを教えるのである。

 

 

 

 第5戒は、神が「父」に代表されるように、権威を委ねられており、上(目上)の人に対して下(目下)の人が、子が父を敬い、従うように求めている。この神の命令に違反することが人の罪である。ウ大教理が「罪とは何か」と問う「罪」は、根本的に神との関係における罪である。

 

 

 

 罪の本質は、神から離れ、神に反逆することである。神を無視し、自己中心に生きることである(『エッセンシアル聖書辞典』いのちのことば社、P397)

 

 

 

 それゆえ、ウ大教理は上(目上)の人に対する下(目下)の人の罪を、次のように指摘します。第1に第5戒で神が下(目下)の人に命じられたことを、無視することです。主イエスは、父母を敬わなくてよいと教え、神の命令を無視した律法学者たちの罪を指摘し、非難されました(マタイ15:49)

 

 

 

 第2に罪は、神への反逆(反抗)です。神が権威を委ねられた上の人に対して、下の人が反抗すること、あるいは「あざけり」「のろい」、あるいは上の人が恥や不名誉となる下の人の「わがまま」「つまずき」等の態度である。

 

 

 

 「目上の人に求められている義務を全く無視する」ことは、その人を創造の秩序に従い、上に立てられた神を全く無視することです。家庭においては父と母を、学校では教師を、会社では上司を、教会では牧師や長老を、国家では首長を無視することです。

 

 

 

 神は、両親に、教師に、上司に、牧師と長老に、国の首長にそれぞれ権威を委ねられました。だから、彼らは、子に、生徒(学生)に、部下に、信徒に、国民、市民に「正当な忠告(勧告)」「命令」「譴責」をする。それは、権威を委ねられた神(キリスト)の勧告・命令・譴責である。

 

 

 

 大祭司エリの息子たちは、父であり大祭司であるエリに不道徳を戒められたが無視した(サムエル記上2:25)。息子たちは父であり、大祭司を無視し、主なる神を無視したので、ペリシテとの戦いで、神に裁かれ、死んだ(4:17)

 

 

 

 申命記211821節には、両親の命令を無視し、矯正にも従わない反抗的でわがままな息子を石で処刑にし、町から悪を除くように、主が命じている。

 

 

 

 更に主は以下の者たちを裁かれる。すなわち、子が両親を打つことに(出エジプト21:15)、ならず者がサウルの王位を嘲ることに(サムエル記上10:27)、モーセ以外の者が神の言葉を預言することを妬むことに(民数記11:2829)、預言者サムエルの言葉を軽んじた民に(サムエル記上8:7)、親に反逆した子に(サムエル記下15:112)、父を呪い、母を祝福しない世代、高慢な世代に(箴言30:1112)、両親に暴力を振るい、辱めと嘲りをもたらす子に(箴言19:26)に。

 

 

 

 主が与えられた地、神(キリスト)が支配されている領域で、神に祝福され、命を長らえるには、神に関係する罪を除かなければなりません。アダムの原罪ゆえに、この世におけるすべての人間関係には罪の性質と死の原理が支配しています(パウロ)。だからこそこの世に十字架のキリストの福音が必要なのである。

 

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答87      主の2016622

 

 

 

聖書箇所:ヨブ記第291217(旧約P812)

 

 

 

問129 上の人が下の人にするように求められているのは、何であるか。

 

答 上の人に求められていることは、次の通りである。すなわち、彼らが神から授かった権力と置かれている関係に応じて、下の人を愛し、祈り、祝福すること、彼らに教え、すすめ、戒めること。良いことをした人には奨励と推賞とほう賞を与え、悪いことをした人には恥と叱責と懲戒を加えること。彼らを保護し、その心と体に必要なすべてのものを支給すること。威厳のある賢明なきよい模範的態度で、神の栄光を輝かし、自身の名誉を高め、神から授かった権威を保つことである。

 

                                                   

 

 今夜は、ウ大教理問答の問129と答を学びましょう。ウ大教理は、問129と答で上の人が下の人にするように求められている義務について教えている。

 

 

 

 ウ大教理は、答で「彼ら(上の人)が神から授かった権力」「神から授かった権威を保つ」と繰り返し、上の人の権力と権威が神から授かったものであることを強調している。

 

 

 

 上の人に神が権力と権威を授けられた神の目的を、使徒パウロは次のように述べている。「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです」(テトス2:14)

 

 

 

 ですから、上(目上)の人が下(目下)の人に求められている義務は、神から授かった権力と権威を用いて下の人を、神に服従させ、神の御心を熱心に求め、行うようにさせることである。上の人は、神の代理人として、神が権力と権威を授けられた。だから、その関係において上の人は、次のような義務を、下の人にするように、神に求められている。

 

 

 

 ウ大教理は、その義務を5つ羅列している。(1)下の人を愛し、祈り、祝福すること。(2)下の人を教え、すすめ、戒めること。(3)報いと刑罰を与えること、すなわち、良い行いをする下の人には褒賞を与えて誉め、悪い行いをする下の人には恥と懲らしめをあたえること。(4)下の人たちの生活を保護すること。心と体に必要なものを支給すること。日本国憲法の保障する「国民が最低限度の文化的生活をする」権利を、上の人が守ること。(5)賢明で模範的な態度で自身の名誉を守り、神から授かった権威を保つこと。

 

 

 

 (1)大教理が上の人が下の人を愛する義務を果たすことで、コロサイ書319節を引照するが、夫婦は上の人と下の人という関係ではない。対等のパートナーである。サムエルは、祭司・預言者・士師、すなわち、神の代理人として、民のために祈り、祝福し続けた(サムエル記上12:23)

 

 

 

(2)モーセは、民の指導者であり、神の代理人として民に、神の律法を教え、主の祝福と呪の道を教え、民に主への不忠実を警告した(申命記6)

 

 

 

(3)ウ大教理が目の人が良いことをした下の人を誉めることを、夫が妻を尊敬するように勧める使徒ペトロの御言葉(Ⅰペトロ3:7)を引照しているのはふさわしくない。(1)と同じ理由で。ペトロは、上の人が神の代理人として、善を行う下の人を表彰し、悪を行う下の人を罰するので、下の人は上の人に従えと命じている(Ⅰペトロ2:14)。クセルクセス王は、モルデガイの善行に栄誉と称賛を与えた(エステル記6)。上の人は、悪を行う下の人には恐ろしい存在である(ローマ13:34)。神の代理人として、悪を行う者に怒りをもって報いる。

 

 

 

(4)上の人は、孤児を助け、貧しい者を保護し、寡婦を守る義務がある(イザヤ1:17)。ウ大教理は、使徒パウロが自分の親族、特に家族を、世話をするように命じている(Ⅰテモテ5:8)箇所を引照する。日本国憲法は、基本的人権の一つである「国民が最低限度の文化的生活」を保障し、貧しい人の生活保護を実施している。ウ大教理は、第5戒が上の人にこの保護の実施を命じていると教える。ウ大教理を、熱心に、注意して学ばないので、わたしたちは生活保護者を怠け者という色眼鏡で見るのである。

 

 

 

(5)罪の世であるので、法の悪用は避けられない。しかし、上の人は法を守り、模範的な態度で、下の人に軽んじられないように、名誉を守るべきである。

 

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答90      主の2016713

 

 

 

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙第623(新約P539)

 

 

 

問133 第五戒を一層強く主張するために付加されている理由は、何であるか。

 

答 「あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである」という言葉で、第五戒に付加されている理由は、この戒めを守るすべての人に対する、神の栄光と自身の福祉に役立つ限りでの、長寿と繁栄の明白な約束である。

 

                                                   

 

 今夜は、ウ大教理問答の問133と答を学びましょう。ウ大教理は第五戒に付加された理由が何であるかを説明し、第五戒の解説を終えています。ウ大教理の第五戒の解説は、問123133と答までであり、第五戒を詳しく丁寧に解説しています。

 

 

 

 これまでウ大教理による第五戒の解説を学び、第五戒こそ隣人愛の土台であり、総論であることを実感させられる。隣人愛は、キリストのご支配の下でなされる。キリストのご支配の下でこの世は、家庭・学校・職場・教会・国家という領域があり、それぞれ上下と対等の人間関係で成り立っている。

 

 

 

神は、家庭においては両親に、学校においては先生に、職場においては上司に、教会においては役員に、国家においては首長に、それぞれ御自身の権威を委ねられている。だから、子は両親に服し、生徒は先生に服し、部下は上司に服し、信徒は役員に服し、市民は首長に服することが、神に服することである。

 

 

 

下の人は上の人を敬う義務が求められ、上の人は下の人を愛し、守る義務を求められる。それゆえ、現在、家庭における罪は育児放棄、家庭内暴力等である。学校における罪は学級崩壊、教師の体罰等である。職場における罪は、部下の上司への不服従と上司のパワハラ等である。教会にも職場と同じ罪がある。国家における罪は、国民と首長や議員が憲法を守り、それぞれの義務を果たし、基本的人権を守らないことである。

 

 

 

ウ大教理が人間の関係を上下関係だけでなく、対等の関係をも言及しているところに、近代社会への展望を読み取ることができると思う。それは、基本的人権の確立である。人は、誰もが神の像を持ち、互いに敬い合う、平等の存在である。人生を幸福に、平和に生きる権利を、誰もが神より与えられている。喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむことこそ、神が人となられた主イエス・キリストがわたしたちに示された模範である。

 

 

 

第五戒は、人が神からいただいた命を、現在の言葉で言えば、「基本的人権」という法律用語であるが、守る土台である。

 

 

 

キリスト者の本国は御国である。この世は、御国への途上である。しかし、この世もキリストの支配下であり、キリストはこの世において家庭・学校・職場・教会・国家という領域を支配されている。

 

 

 

だから、第五戒に付加されている理由は、一層すべての人がこの戒めを守り、神が人を神の像に創造し、今日の「基本的人権」を与えられた、それを守る限り、この地上でわたしたちは長寿と繁栄を約束されているということである。

 

 

 

今回、ウ大教理の「第五戒」の解説を学びながら、日本国憲法の「基本的人権」と「平和主義」との共通項を見出す喜びを与えられた。

 

 

 

戦後の日本は、日本国憲法を得て、ある意味で第五戒に生きることが許されたのではないだろうか。だから、「あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」という神の祝福を、戦後70年間過ごし得たのである。戦後の経済成長も、他国と戦争をしないで平和に過ごせたことも、何よりも日本国民が世界で一番の長寿国になったことは、第五戒で、神が約束された祝福である。

 

 

 

坂口安吾は『堕落論』で人間の「堕落は制度の母胎である」と論じた。それゆえに日本国憲法は、戦後の日本人には必要なカラクリであったが、将来の日本人はこのカラクリを捨て、新しいカラクリを作るだろう。しかし、そこに第五戒が抜けてしまえば、長寿と繁栄の祝福は消え去るだろうと思う。

 

 

 

今の安部政権の傲慢の後からは、戦争という悲惨が訪れ、キリストのへりくだりという後からは、罪からの救いと永遠の命の祝福が訪れたのである。

 

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答91      主の2016720

 

 

 

聖書箇所:出エジプト記第2013(旧約P126),創世記第96(旧約P11)

 

 

 

問134 第六戒は何であるか。

 

答 第六戒は「あなたは殺してはならない」である。

 

                                        

 

 今夜は、ウ大教理問答の問134135と答を学びましょう。ウ大教理は第六戒とは何であり、第六戒でわたしたちが求められている義務が何であるかを、解説しています。

 

 

 

第六戒は、「あなたは殺してはならない」である。聖書は出エジプト記第2013(旧約P126)と申命記第517(旧約P289)である。

 

 

 

第六戒から第十戒は、他者との共生おいて、共同体の生活において最も重要な戒め(禁令)である。

 

 

 

第六戒は、一言で表現すれば、「命の尊厳」である。

 

 

 

「殺してはならない」。第六戒が用いている言葉は、ヘブライ語の「ラーツァハ」で、旧約聖書の中でこの言葉は、個人的な仇敵の殺害、故殺(いわゆる殺人)、過失による殺人に限定されている(民数記35:161835:,1112,25)

 

 

 

 問135と答の第六戒が求めている義務との関連で、「ラーツァハ」とは反共同体的な不法の殺害である。第六戒は、神の民イスラエルを、共同体の中で不法な許すべからざる暴力から守る戒めである。神の民イスラエルの生活を考察すると、共同体の中で死刑は認められ、戦争は許容され、時には主が命じられている。

 

 

 

 第六戒が命の尊厳を守ることである理由は、創世記第96節の御言葉にある。ノアの洪水の後、主なる神はノアと彼の息子たちを祝福し、言われた。「人の血を流す者は 人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」。

 

 

 

 すべての人間は、神のかたちに似せて造られた。それゆえに人はだれでも、人の命の尊厳を傷つけることは許されないのである。

 

 

 

 ウ大教理は、この原則に従って、第六戒を解釈し、わたしたちに解説している。

 

 

 

 禁止は、命の尊厳を守るための積極的な勧めである。第六戒は、禁令であると共に、神から与えられた命の尊さを教える戒めでもある。

 

 

 

 旧約聖書の中に頻繁に神の律法を守らない者、または神に不従順な者が命を絶たれたことが記されている。例:ノアの洪水、ソドムの滅亡、荒野の不従順な神の民等。

 

 

 

 申命記第83節に「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためである。」とある。

 

 

 

 わたしたちは、神の御言葉によって永遠の命に生かされているのである。神の御言葉は、旧約聖書の時代は、律法書として神の民に与えられ、新約の教会には書かれた聖書として与えられている。そして、聖書は、毎日曜日の礼拝で、語られる神の御言葉、すなわち、牧師が聖書を解き明かす説教として、わたしたちを永遠の命へと生かしているのである。