ウェストミンスター大教理問答38      主の2015年6月17日

 聖書箇所:使徒言行録第2章29-36節(新約P216)

問54 キリストは、神の右に座していることにおいて、どのようにして高くされているか。
答 キリストは、神の右に座していることにおいて、次のように高くされている。すなわち、彼は神・人として、満ちあふれる喜び、栄光、また天地のすべてのものを治める権威をもって、父なる神の最高の愛顧に入れられ、彼の教会を集め、守り、彼らの敵を征服し、その役員と民に賜物と恵みを与え、また彼らのために執り成される。

 今夜は、恵みの契約の仲保者主イエス・キリストが神の右に座されることにおいて、どのように高くされているかを学びましょう。ウ大教理は使徒信条にしたがって、「全能の父なる神の右に座したまえり」を解説しています。

  (3)キリストの神の右に座されること
 キリストの高い状態(高挙)は、復活と昇天に続いて「神の右に座されること」である。「神の右に座される」とは、「位につかれる」という意味である。その位を、聖書では「神の右」と呼ぶ(使徒言行録2:34,詩編110:1)。「神に最も近い高位であり、神の権威そのものを授けられている位のことである」(『岡田稔著作集2 教理学教本』P241)。

  復活主イエス御自身が、11使徒たちに「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と宣言されています(マタイ28:18)。使徒ペトロは、次のように証言しています。「キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです」(Ⅰペトロ3:22)。また、「イエス・キリストは主である」という信仰告白は、父なる神に天地の一切の権威を授けられ、父なる神の右に座された者の尊称である(フィリピ2:9-11)。

 さらに使徒パウロは、「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」と証言しています(ローマ8:34)。「神の右に座せり」という告白の中に大祭司キリストのとりなしが含まれています。

 ウ大教理は、「全能の神の右に座される」キリストは、「神・人として」座されていると告白します。二性一人格のキリストが父なる神に天と地の一切の権威を授かり、天地の一切を支配し、わたしたち(神の選びの民・教会)のために執り成しをされている。宮崎訳は、それを次のように表現します。「すなわち、神人としてキリストは、喜び,栄光,天地万物を統べ治める権威に満ち満ちて,父なる神の無上の愛顧へと高められ,御自身の教会を集め,守り,そのもろもろの敵を征服し,御自身の教役者と民にさまざまな賜物と恵みを与え,彼らのために執り成してくださることにおいて高くされています」。

 神・人としてキリストは、父なる神がキリストを御自身と同等の権威にまで上げられましたので、その権威によって今天地を支配し、万物を御自身の足下に従わせられている。

 復活の主イエス・キリストは、11弟子たちに宣教命令を下され、御自身の御支配の下で「彼の教会を集め、守り、教会の敵を征服」されている。すなわち、わたしたちの教会が目指します御国建設は、神の右に座されたキリストの御支配の中でなされているのです。教会の伝道と教会形成は、天地の一切の権威を授かったキリストが御自身の権威を行使されている。

 そして、教会の伝道と教会形成は、キリストの執り成しによってなされている。キリストは、「役員」、すなわち、教役者と「民」、すなわち、教会員に聖霊を通して賜物と恵みを与えて、奉仕の業に仕えさせ、御自身の教会を建て上げさせておられる。

 

 

 

 ウェストミンスター大教理問答39      主の2015年6月24日

 聖書箇所:使徒言行録第2章29-36節(新約P216)

問55 キリストは、どのようにして執り成されるか。
答 キリストは、次のようにして執り成される。すなわち、地上での彼の従順と犠牲のいさおしによって、わたしたちの性質において絶えず天にいますみ父の前に出ること、そのいさおしをすべての信者に適用するという彼のみ心を宣言すること・彼らに対するすべての訴えに答えること・彼らのために、日ごとの失敗にもかかわらず平和な良心と、はばかることなく恵みのみ座に近づくことと、彼ら自身とその奉仕が受け入れられることを獲得して下さることによってである。

 今夜は、恵みの契約の仲保者主イエス・キリストの執り成しについて学びましょう。ウ大教理は、問54と答において恵みの契約の仲保者主イエス・キリストが「全能の父なる神の右に座し」神の民たちのために執り成されていることを信仰告白しました。そのキリストの執り成しを、さらに詳細に述べている。

  キリストの執り成し
 「執り成し」は、「聖書では罪を犯した人間のために神に取り持つという意味で用いられる」(『エッセンシヤル聖書辞典』P427,いのちのことば社)。たとえば、預言者イザヤは、「多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった」(イザヤ書53:12)と十字架のキリストを預言している。キリストは罪を宣告されて罰せられるべきわたしたちの罪を代って負い、その贖罪のわざを根拠として、わたしたち罪人のための執り成しのわざをされる。だから、使徒パウロは、「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」(ローマ8:31)と証言している。

  ウ大教理は、次のようにキリストの執り成しを教えている。神の右に座すキリストが執り 成しをする根拠は、「地上での彼の従順と犠牲のいっさいのいさおしによって」である。ヘブライ人への手紙の記者は、「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右にお着きになりました」(ヘブライ1:3)と証言している。
 
  ウ大教理は「わたしたちの性質において」キリストが執り成しをされている、すなわち、人としてのキリストの執り成しであることを教える。そして、キリストの執り成しは次の3つの行動で遂行されている。第1に「絶えず天にいますみ父の前に出ること」によって。第2に「そのいさおしをすべての信者に適用するという彼のみ心を宣言すること」によって。宮崎彌男訳では「その功績をすべての信徒に適用してくださるようにと父に求める御自分の意志を明らかにされること」によってと訳され、キリストが「彼らのためにお願いします」と執り成しの祈りをされた御言葉(ヨハネ17:9,20、24)にマッチしている。第3に「彼らに対するすべての訴えに答えること」によって。天にいます人としてのキリストは、今この地で苦難の中にあるわたしたち信者の声を聞き、その訴えと弱さに同情し、答えてくださる。地上の艱難・迫害がキリストの愛からわたしたちを引き離すことはない(ローマ8:35)。
 
  ウ大教理は、天上の人としてのキリストの執り成しで、わたしたち信者が次の3つの恵みを獲得することを教えている。第1の獲得は、良心の平和である。キリスト者の生活の日々は、なお罪と弱さのゆえに毎日失敗の連続である。ルターの言葉を借りれば、「罪を赦された罪人」である。しかし、キリストの従順と十字架のゆえに、すでに罪を赦され、義とされているという心の平安を与えられている。第2の獲得は、「はばかることなく恵みの座に近づけること」である。信者にとって礼拝にあずかることのできる喜びとは、キリストの「あわれみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただく」(ヘブライ4:16)ことである。主の日の礼拝は天国の型であり、天国でキリストは、父なる神の右に座して礼拝する者の救いを執り成されている。第3の獲得は、わたしたちとわたしたちの奉仕が神に受け入れられていることである。わたしたちが主の日に上諏訪湖畔教会に集まり、共に礼拝するのは、キリストにおいて神の御前で聖なる者にしようと救われた恵み(エフェソ1:6)を心から感謝し、救われたわが身をもって主なる神に奉仕するためである。救われたわが身を、キリストの体なる教会の聖なる祭司として神に喜ばれる霊的ないけにえを、キリストを通して献げる、これが教会の奉仕の精神である(Ⅰペトロ2:5)。キリスト者は万人祭司である。キリスト者は、教会という共同体を造り上げることが使命であり、献身である。そのためには、キリストの執り成しでわたしとわたしの奉仕を神が受け入れてくださるという保証が必要である。それが「キリストを通して」である。洗礼によってわたしたちは、キリストとひとつにされ、聖なる者とされました。

 

 ウェストミンスター大教理問答40      主の2015年7月1日

 聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙一第4章13-18節(新約P377-378)

問56 キリストは、世をさばくための再臨において、どのようにして高くされるか。
答 キリストは、世をさばくための再臨において、次のように高くされる。すなわち、よこしまな人々によって不正をさばかれ、罪に定められた彼が、終わりの日に、大いなる力をもち、ご自身とみ父との栄光の全き現われをもって、聖なるすべてのみ使いたちと共に、叫びと天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、義をもってこの世界をさばくために、再臨される。

 今夜は、恵みの契約の仲保者主イエス・キリストの再臨について学びましょう。ウ大教理は、使徒信条の「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」を、聖書の御言葉によって解説しています。

  (4)キリストの再臨
 「再臨」とは、「パルーシア」(ギリシア語)である。主イエス・キリストが再び来られることである。「キリストが来られるときに」(Ⅰコリント15:23)。本来「パルーシア」は「到着」、「到来」、「出現」という意味だけで、「再び来る」という意味は含まれていない。旧約聖書は「主の日」にメシアの到来を預言している(イザヤ4:2,ヨエル2:1)。メシアはすべての人を裁くために到来する。新約聖書では終末に人の子(キリスト)が再び来ることを伝えている。「主の日」は、「人の子(キリスト)の日」である。

 「さばき」、神の正しいさばきがあることは、聖書が提示する根本的な信仰である。アブラハムは、契約の神、主に「全世界を裁くお方は、正義を行なわれるべきではありませんか」(創世記18:25)と語っている。ダビデは、迫害するサウルに「主が裁き手となって、わたしとあなたの間を裁き、わたしの訴えを弁護し、あなたの手からわたしを救ってくださるように」と、神の裁きを待望する(サムエル記上24:16)。神の裁きは、正義が勝利を得、神の御意志が完全になされ、この世の戦いの中にある神の民に平安を与える。

 ウ大教理は、使徒信条に従いキリストの再臨を「世をさばくための再臨」と教える。そこでどのようにキリストが高くされたかを信仰告白する。

 再臨のキリストは、よこしまな人々の手で、不正な裁判で死刑判決を受けられ、ゴルゴタの丘で十字架刑に処せられた人の子である。使徒ペトロたちは、エルサレム神殿でユダヤの民衆たちに次のように説教した。「あなたがたはローマ総督ピラトが赦そうとした聖なる正し方を拒み、人殺しを赦すように要求し、命の導き手であるイエスを殺した。神はイエスを死人の中から復活させ、わたしたちはその証人である。」人の子キリストが終わりの日にこの世の終わりを告げて、すべての人を、その時生きている者、すでに死んだ者を、神の義に従い裁かれます。低い状態で裁かれた人の子が、高い状態で全人類を裁かれます。

 主イエスは、サンヘドリンの裁判で「人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲の乗って来るのを見る」と預言されました(マタイ24:30)。人の子と父なる神は同等の力と栄光を現され、世の終わりの日にすべての人を裁かれます。この裁きは、裁かれるすべての人の永遠の状態を決定する。

 ウ大教理は、世の終わりの神の審判のとき、堕落しなかったすべての聖なる天使たちがキリストの審判に立ち会うことを証言している。主イエスは、弟子たちにご自身の十字架の死と復活を予告されたとき、次のように宣言された。「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる」(ルカ9:26)。キリストの再臨と審判に天使たちは立ち会うのである。キリストの再臨は、キリストが栄光の座に着かれる時である(マタイ25:31)。使徒パウロも主の言葉に基づいてキリストの再臨を詳しく伝えている。「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます」(Ⅰテサロニケ4:16)。

 キリストが再臨において高くされることの目的は、「義をもってこの世をさばくため」である。神の正義の勝利の時であり、天における神の御意志が地において完全に実行される時である。アブラハムが主に「全世界を裁くお方は、正義を行なわれるべきではありませんか」という問いかけは、再臨のキリストの最後の審判において神が完全にお答になられるのである。

 キリストの義の裁きは、悪人を裁かれる義であると同時に、神の民をこの世から分かち、永遠の御国へと回復される救いでもある。

 

 ウェストミンスター大教理問答41      主の2015年7月8日

 聖書箇所:ヨハネによる福音書第1章6-13節(新約P163)

問57 キリストは、彼の仲保によって、どのような利益を獲得されたか。
答 キリストは、彼の仲保によって、あがないと恵みの契約の他のすべての利益とを獲得された。
問58 わたしたちは、どのようにして、キリストが獲得された利益にあずかる者とされるようになるか。
答 わたしたちは、キリストが獲得された利益を、わたしたちに適用されることによって、それにあずかる者とされる。それは特に聖霊なる神のみわざである。

 今夜からキリストのお働きから聖霊のお働きへと移行します。問36から問57と答は、恵みの契約の仲保者主イエス・キリストと彼の働きについて学びました。問58から問83と答は、恵みの契約の仲保者主イエス・キリストの獲得された利益をわたしたちに適応してくださる聖霊のお働きについて学びます。

 宮崎訳は正確で、丁寧に問57と答を次のように訳しています。「キリストは、その仲保のわざによって、どのような利益を獲得しておられますか。」「キリストは、その仲保のわざによって、贖いを初めとして、恵みの契約の利益をすべて獲得しておられます。」

 仲保者キリストが十字架の死によって、わたしたち罪人の罪を贖われました。ヘブライ人への手紙9章12節にキリストが十字架の死によって、わたしたちのために永遠の贖いを成し遂げられたと証言しています。「贖い」とは、身代金を支払って、所有を回復することです。キリストは御自身の御血潮を身代金として流され、罪人であるわたしたちを罪と死から取り戻して、救いと永遠の命を獲得してくださいました。

 使徒パウロは、コリントの信徒への手紙二1章20節で次のように述べています。「神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して『アーメン』と唱えます」。恵みの契約のあらゆる利益はキリストを通してわたしたち信仰者に与えられます。それは、礼拝のすべての恵みです。御言葉と礼典と祈りを通して、わたしたちはキリストの利益にあずかります。キリストを通して神の子としてのこの世と御国のすべての恵みにあずかります。キリストを通して義とされ、子とされ、聖とされます。神の愛の確信、良心の平和、聖霊における喜びを与えられます。聖徒の堅忍、死と復活の祝福にあずかります。

 キリストが神への従順(律法を完全に守り、義を得られた)と十字架の贖いによって獲得された利益は、どのようにしてわたしたちのものとされ、わたしたちはキリストの恵みにあずかるのでしょうか。

 ウ大教理は、「キリストが獲得された利益を、わたしたちに適用されることによって、それにあずかる者とされる」と答えています。そして、それが聖霊のお働きであると信仰告白しているのです。ヨハネによる福音書は、世は言(キリスト)を拒み、言(キリスト)は自分を受け入れ、その名を信じる者に神の子となる資格を与えたと証言しています(ヨハネ1:11、12)。わたしたち罪人は、自らの力でキリストが獲得された利益を自分のものにできません。生まれながらの人は、キリストを拒むからです。

 だから、使徒パウロが証言しますように、「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、聖霊を豊かに注いでくださいました。」(テトス3:5、6)。聖霊なる神の全能の御力により、わたしたちの心が変えられ、再生されて、罪を自覚し、悔い改めと信仰に導かれ、洗礼を通してキリストと結ばれ、キリストが獲得されたすべての利益を与えられました。

 礼拝において福音を聞いても、聖霊の全能なる御力によってわたしたちの心が変えられなければ、わたしたちはキリストの十字架がわたしたちの罪のためであり、キリストの復活がわたしたちの永遠の命の保証であることを受け入れません。生まれながらのわたしたちは、罪に死んだ者です。自由意志はありますが、キリストを拒みます。だから、神が主権的にキリストにあってわたしたちを選び、選んだわたしたちがキリストを救い主として受け入れるように、聖霊を注いでくださったのです。

 

 

 ウェストミンスター大教理問答42      主の2015年7月15日

 聖書箇所:使徒言行録第16章11-15節(新約P245)

問59 だれが、キリストのあがないにあずかる者とされるか。
答 あがないは、キリストがそれを買いとられたすべての人々に、確実に適用され、有効に伝達される。彼らは、時が来て、聖霊により、福音に従って、キリストを信じることができるようにされる。

 問58から問83と答の表題は、「9.贖罪の適用」である。恵みの契約の仲保者主イエス・キリストが獲得された利益(贖罪)をどのようにわたしたちに適用してくださるかということを、聖霊のお働きを通して学びます。

 わたしは、大学生の時にキリスト教を求道し、改革派宝塚教会に導かれ、1年5カ月で信仰告白し、洗礼を受けて、キリスト者(宝塚教会の教会員)になった。紆余曲折はあったが、聖書に、礼拝説教に、教理の学びに、人間関係につまずくことはなかった。ただ二つのことが洗礼を志願した時に疑問であり、心配であった。一つは、2000年昔のキリストの十字架が2000年後のわたしにどのようにかかわるのかという疑問である。もう一つは、洗礼を受けても一生涯キリスト者でいられるのかという不安である。

 最初の疑問は、聖霊のお働きを学び、キリスト者の「共時性」を理解した。聖霊のお働きにより、「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです」(ガラテヤ5:24)。「わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(同2:19,20)。洗礼を受けたとき、わたしはキリストと一つにされ、キリストと共に生きる者とされた(キリスト者の共時性)。

 ウ大教理の問59は、キリストの限定的贖罪を前提にして問われている。キリストの十字架のあがないにあずかる者はだれか。キリストの教会のメンバーである。別称「神の選民」である。ウ小教理の問21と答で「神の選民のあがない主とは、どなたですか」と問い、「神の選民の唯一のあがない主は主イエス・キリストです」と答えている。キリストの民、キリストの羊たち、キリストの教会、キリストの体、神の選びの民が「キリストのあがないにあずかる者」である。

 次にウ大教理は、その有効性を、外的召命という教理でわたしたちに納得のいく説明をする。外的召命とは福音宣教のことである。聖霊は、キリストのあがないにあずかる者を、福音宣教という外的召命によってキリストの体なる教会に招かれる。

 キリストが復活し、11使徒たちに大宣教命令をされて後、聖霊がエルサレム教会に降られ、キリスト教会はこの世に福音宣教を通して神の民を集めて来た。いつの時代も神の選民は教会の福音宣教を通してキリストの教会に集められた。そして、聖霊に導かれ、聖書を学び、礼拝説教を通してキリストの福音を聞いて、キリストを自分の救い主と信じて、洗礼を受け、キリストに結ばれて、キリスト教会のメンバーになった。

 使徒パウロは、キリスト者として教会の礼拝において説教を聞く恵みを次のように語る。「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」(エフェソ1:13)。「『わたしは信じた。それで、わたしは語った』と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語っています。」(Ⅱコリント4:13)。このようにキリストのあがないは、聖霊が福音宣教を通してわたしたちに適用してくださる。キリスト御自身が父なる神に祈られている。「彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたの者だからです」「また彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」(ヨハネ17:9,20)。キリストの贖いは、神の民という限定的なものであり、使徒たちが語る福音を聞いて、キリストを信じる人々に限られている。そして、あらかじめ永遠の命に選ばれた人々は、福音宣教を通して聖霊によって心を開かれ、主イエスを救い主と信じる(使徒言行録13:48,16:14 紫布の商人リディア)。



 ウェストミンスター大教理問答43      主の2015年7月22日

 聖書箇所:使徒言行録第13章44-52節(新約P240)

問60 福音を聞いたことがなく、従ってイエス・キリストを知らず、彼を信じない人々は、本性の光による彼らの生活によって、救われることができるか。
答 福音を聞いたことがなく、イエス・キリストを知らず、彼を信じない人々は、本性の光や自分の告白する宗教のおきてに従って生活を形成するのに、どれほど熱心であっても、救われることはできない。また、キリストおひとりのほか、他の何物にも彼らの救いはない。キリストはその体なる教会のみの救い主であられる。

 さて、今夜のウ大教理は、一言で「キリスト以外に救いがあるのか」を問うています。答は「ない」であります。

  どうしてでしょうか。キリストと彼の救いの御業は、福音宣教を通してすべての人々に知らされます。だから、「福音を聞く」ことなしに、わたしたちが「キリストを知ること」は不可能です。「キリストを知る」という言葉の中に、当然わたしたちがキリストを信じることが含まれています。
 
  使徒パウロは、この福音を「キリストの言葉を聞く」と定義し、次のように信仰と福音宣教の関係を述べています。「信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)。だから、パウロは、次のようにわたしたちがキリストを信じるために、宣教者(説教者)が必要であると述べています。「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう、聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」(同10:14)。聖霊は、宣教者を召して、彼らの福音宣教を通して、福音を聞く者がキリストを知り、信じて救われるように働かれます。キリストの御名を信じる者だけが、神の子となる資格が与えられます(ヨハネ1:12)。
 
  「本性の光」とは、「この世の知恵」(Ⅰコリント1:20)であり、人間理性です。それは、アダムの原罪により腐敗しました。だから、人間は生まれながらに罪に汚れ、神の御前に善をなすことができません。だから、パウロが言うように「宣教という愚かな手段よって神が救おうとされた」者以外にキリストの救いはありません(Ⅰコリント1:21)。
 
  聖霊が福音宣教を通して、わたしたちにキリストを知らしめ、この世の偶像から真の神へと立ち帰らせることなくして、キリストを信じて救われる道はないのです(Ⅰテサロニケ1:9)。
 
  だから、ウ大教理は、「福音を聞いたことがなく、イエス・キリストを知らず、彼を信じない人々は、本性の光、自分の告白するその宗教のおきてに従って生活形成するのに、どれほど熱心であっても、救われることはできない」と断定しています。キリスト教の救いは、熱心な人の行いではなく、神の恵みであります。神が無条件で、無償でキリストの贖いを聖霊によって福音宣教を通してわたしたちに適用してくださいます。「キリストを信じる信仰によって救われる」と言いますが、その「信仰」も人の行いによって得るのではなく、聖霊の賜物であります。宗教の掟を守って救われることは、不可能です。なぜなら、律法の一点一画も欠くことは許されません。「殺すな」という命令を守っても、人の物を盗めば、律法違反者です。熱心に宗教活動し、奉仕をしても、隣人を心で憎み、嫉妬するなら、律法違反者です。神の御前に罪ある者として裁かれる以外にありません。
 
  ですから、「言が肉となって、わたしたちの間に宿られ」(ヨハネ1:14)、「十字架の死に至るまで(父なる神に)従順であられた」(フィリピ2:8)キリスト以外に、わたしたちの救いはありません。ウ大教理も「キリストおひとりのほか、他の何物にも彼らの救いはない」(使徒言行録4:12)と告白しています。
 
  わたしたちは、聖霊に導かれて、福音宣教を通してキリストを信じて洗礼を受け、キリストが十字架でわたしたちの罪のために死なれ、わたしたちの永遠の命の保証として甦られたように、罪に死に、永遠の命に新しく再創造されて救われるのです。
 
  ウ大教理はウ小教理と同様に、キリストの限定的贖罪を信じています。「キリストはその体なる教会のみの救い主であられる」と告白しています。ウ小教理は「キリストは神の選民の救い主と告白し、ウ大教理はキリストの体なる教会の救い主と告白します。キリストの御名を信じる者のみが神の子の資格が与えられ、キリストはその神の子の救い主であられます。キリストを信じないものに、キリストの贖いは適用されません。

 

 

 ウェストミンスター大教理問答44      主の2015年7月29日

 聖書箇所:ヨハネによる福音書第12章36b-43節(新約P193)

問61 福音を聞き、教会生活をする者は、みな救われるか。
答 福音を聞き、見える教会の生活をする者が、みな救われるのではない。ただ、見えない教会の真の会員である者のみが救われる。

 ウ大教理は、外的召命である福音宣教と「見える教会」と「見えない教会」との関係について信仰告白しています。問60と答で、「キリストはその体なる教会のみの救い主であられる」と信仰告白しました。ある意味で福音を聞いたことのない教会の外に救いはないと宣言しています。

 そこで問61と答は、「見える教会」の教会員は皆、救われるのかと問うています。目に見える教会とは、地上の教会です。わたしたちが教会員として属している教会です。この上諏訪湖畔教会です。

 上諏訪湖畔教会でわたしたちは教会生活をし、毎週日曜日の礼拝で福音(礼拝説教)を聞いています。ウ大教理は、「福音を聞き、見える教会の生活をする者が、みな救われるのではない」と告白しています。外的召命がわたしたちの救いの根拠ではありません。主イエスは、彼の福音宣教を聞いても、信じないユダヤ人たちについて、預言者イザヤの預言が成就したと次のように述べておられます。「『主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。』彼らが信じることのできなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。『神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らの目で見ることなく、心を悟らず、立ち帰られない。わたしは彼らをいやさない。』」(ヨハネ12:38-40)。

 福音を聞くことは、救いの根拠とはなりません。まず神の選びがあり、外的召命である福音宣教を通してわたしたちはキリストの体なる教会へ導かれます。主イエスは、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)と言われています。救いは、わたしたちが福音を聞いてキリストを選ぶことではありません。キリストがわたしたちを選ばれているので、わたしたちは教会で礼拝説教を聞き、キリストはわたしたちの救い主と信じて救われるのです。

 だから、ウ大教理は、「ただ、見えない教会の真の会員である者のみが救われる」と告白します。「見えない教会」とは、目には見えない天上の教会のことです。御国です。上諏訪湖畔教会の教会員名簿に名がある者が救われた者ではなく、天国の会員名簿に名がある者が真のキリスト教会の教会員です。この者のみが父なる神が御子キリストにおいて選ばれた神の子たちです(エフェソ1:4-5)。

 ただ上諏訪湖畔教会の教会員名簿に自分の名があるだけでは、わたしたちの救いを保証するに不十分です。教会の礼拝に参加し、礼拝説教を聞き、交わりと奉仕にあずかる教会生活がわたしたちの救いを保証するには不十分です。

 しかし、ウ大教理は、確かに上諏訪湖畔教会の教会員たちの中に「見えない教会」の真の教会員がいることを告白しています。救いは、キリスト(神)の選びですから、皆が救われるわけではありません。外的召命によって、福音宣教を通して、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(マタイ22:14)のです。

 ウ大教理は、教会の中に2000年間はびこってきた「世俗的三段論法」を排除しています。すなわち、(1)大前提:「洗礼を受け、死ぬまで教会を離れず、良い行いをした者は救われる。」(2)小前提:「わたしは現に洗礼を受けており、きっと最後まで教会生活を忠実に守り、良い行いをするだろう。」(3)結論:「故に、たぶんわたしは救われるだろう。」

 使徒パウロは、わたしたちが神に義とされ、救われるのは、わたしたちの行いではなく、信仰によると述べています(ローマ5:1他)。そして、その信仰は「キリストの言葉(福音)」を聞くことによって生まれます。しかし、皆が聞き、キリストを救い主として受け入れるわけではありません。なぜなら、神がキリストにおいて選ばれた者だけが、キリストの言葉を聞いてキリストを救い主と信じ、従うのです。

 ウ大教理は、「キリストを信じて救われる」という宗教改革者たちが発見した真理に堅く留まるのです。信仰のみによる義認、この真実にわたしたちを立たしめるのは、神の選びによる福音以外にありません。

 

 

 ウェストミンスター大教理問答45      主の2015年8月5日

 聖書箇所:使徒言行録第2章43-47節(新約P217)

問62 見える教会とは、何であるか。
答 見える教会とは、世のすべての時代・すべての場所にあって、真の宗教を告白するすべての者と、彼らの子供たちとから成る一つの社会である。
問63 見える教会の特別な特権とは、何であるか。
答 見える教会は、神の特別な配慮と統治の下にあること、すべての敵の反抗にもかかわらず、すべての時代に保護され保存されること、聖徒の交わりと、救いの普通の手段と、だれでもキリストを信じる者は救われ、彼にくる者は一人も除外されないということを証しする福音の奉仕における全会員へのキリストによる恵みの提供とを受けることの特権をもっている。

 ウ大教理は、問62と63と答で「見える教会」の定義とその特権を信仰告白している。

 ウ大教理の教会理解(改革派教会の教会理解)は、教会から始まるのではない。教会が教会であるように神は、ご自身の民を選び、この世にあってその民をご自身の働きに召すために外的召命(福音宣教)を通して集められる。それが「見える教会」と「見えない教会」である(問59-61)。

 宗教改革者カルヴァンは、「われわれが神の秘められた選びに基づく教会を知るのは、ただ神による」と記した(『キリスト教綱要』)。カルヴァンは、教会を神の行為に基礎づけ、「見える教会」と「見えない教会」を区別し、前者を「われわれの母」と呼ぶ。なぜなら、「母(教会)の胎内でわれわれをみごもり、生まれさせ、養育するのでなければ、死ぬべき肉を脱ぎ捨て、われわれが御使いたちのようになるまで、教会が母のようにわれわれを配慮し、指導し、見守るのでなければ、命(永遠の)に入れないからである。」「われわれは、弱さのゆえに母なる学校(見える教会)から離れることを許されない。生涯を通して母なる学校の生徒である」(『キリスト教綱要』)。

 ウ大教理も「見える教会」と「見えない教会」の区別という改革派の遺産を受け継いでいる。ウ大教理は、「見える教会」を定義するとき、改革派の遺産である区別と共に「一つなる教会」という改革派の伝統的な教会理解を堅持する。それが問62と答の「見える教会」の定義である。すなわち、「一つなる教会」とは、地上の見える教会が時空を越えてすべての教会が共通のことを行なう点で一致しているということである。
それがウ大教理の答であり、信仰告白である。

 「見える教会」は「一つなる教会」であるので、「世のすべての時代・すべての場所にあって、真の宗教を告白するすべての者」からなる一つの神の共同体である(1コリント1:2,12:13,ローマ15:9-12,黙示7:9,詩編2:8,22:28-32,45:18,マタイ20:19-20,イザヤ59:21)。

 ウ大教理は、改革派の契約の神学を堅持し、「彼らの子供たち」も「見える教会」の
教会員であると信仰告白する(Ⅰコリント7:14,使徒2:39,ローマ11:16,創世17:7)。契約の子たちは、信者の親と共に神の契約の約束に含まれているからである。

 ウ大教理の問63と答は、「見える教会」の特権である。特権は3つある。第1に神の特別な配慮と統治下にあること(イザヤ4:5-6,Ⅰテモテ4:10)。神は摂理と万事が見える教会の益となるように特別な配慮と統治をなさる。第2にすべての敵の反抗にもかかわらす、あらゆる時代で神は見える教会を保護し保持される(詩編115編,イザヤ31:4-5,ゼカリヤ12:2-4,8-9)。主イエスは、12弟子が信仰告白した時、敵からの教会の保護と安全を約束された(マタイ16:18)。第3に「聖徒の交わり」、「救いの普通の手段」「福音宣教」における全教会員へのキリストの恵みの提供を享受していること(使徒2:39,43)。見える教会は、聖徒の交わり、説教と礼典(洗礼と聖餐)と教会訓練を通して全教会員(信者と契約の子たち)にキリストの恵みを提供している。

 宮崎彌男訳は、答の後半をうまく翻訳している。「聖徒の交わり、救いの通常の手段、福音の宣教における全教会員へのキリストの恵みの提供を享受していることです。この福音宣教は、キリストを信じる者は誰でも救われると証言するものであって(詩編147:19-20,ローマ9:4,エフェソ4:11-12,マルコ16:15-16)、御自身のもとに来る者を誰一人として排除することがありません(ヨハネ6:37)。」

 福音宣教(伝道)は、見える教会がキリストに委ねられた重要な働きである(マタイ28:19-20)。見える教会は、福音宣教を通して「キリストを信じる者は誰でも救われると証し」し、外的召命(福音宣教)を通して教会に来る者を拒まない。

 

 

 ウェストミンスター大教理問答46      主の2015年8月12日

 聖書箇所:エフェソの信徒への手紙第1章17-23節(新約P353)

問64 見えない教会とは、何であるか。
答 見えない教会とは、首なるキリストの下に、過去・現在・未来を通して、一つに集められる選民の全員である。
問65 見えない教会の会員は、キリストによって、どんな特別な利益を受けるか。
答 見えない教会の会員は、キリストによって、恵みと栄光とにおいて彼との結合と交わりを受ける。
問66 選民がえるキリストとの結合とは、何であるか。
答 選民がえるキリストとの結合とは、神の恵みのみわざであって、それによって彼らは、首であり夫であるキリストに、霊的に・神秘的に・しかも現実的に・分離できないように結合されるのである。それは、彼らの有効召命においてなされる。

 ウ大教理は、問64と答で「見えない教会」を定義し、問65と答で「見えない教会」の会員がキリストとの結合でどんな特別な利益を得るのかを告白し、問66と答で選民が持つキリストとの結合とは何であり、その結合へと選民は有効召命を通して導かれることを告白している。

 「見える教会」と「見えない教会」の区別は、宗教改革者カルヴァン以来の改革派教会の教会観である。後者は、「真実で完全な教会であり、神のみが御存知の教会」である。「見えない教会」とは、神がキリストにあって選んだすべての者、すなわち、生者と死者を含む「聖徒の交わり」である。

 使徒信条で「聖徒の交わり」を信ずることを告白しているが、ウ大教理は「聖徒の交わり」を「見えない教会」と理解し、「見えない教会」を、使徒パウロが述べている「頭であるキリストのもとに一つにまとめられる」(エフェソ1:10、22-23)「キリストにあって選び、神の子にしょうとされたすべての者である」(エフェソ1:4-6)と定義している。キリストが御自身の選びの民をお集めになるのは、「過去・現在・未来」であり、キリストの下に集められた神の選びの民の総員が「聖徒の交わり」であり、「見えない教会」である。

 「見える教会」と「見えない教会」の区別を知ることは、己を誇る事ではなく、己を召されたキリストの教会に仕えるためである。わたしたちは、キリストにあって選ばれていることを聖霊によって知らされ、感謝に満ちた神賛美と礼拝を神にささげる。これが、キリストに恵みによって選ばれ、有効召命(福音宣教)を通してこの教会へと招かれた者の特別な利益である。

 見える教会の教会員になる事は、キリストの祈りである(ヨハネ17:21)。わたしたちが福音宣教を通してこの教会に招かれ、主イエスを信じて、洗礼を授けられて、キリストと一つに結ばれて、永遠に聖徒の交わりの中に入れられることである。見えない教会の選ばれた民のすべては、目に見える教会の会員としてこの世にあっては恵みと栄光の生活をし、あの世にあっては永遠に神の交わりの中に生きる。

 この地上における選びの民の「恵みと栄光の生活」とは、貧しさの中でも、苦難の中でも、キリストと共に生きることである。キリストは「わたしはいつもあなたがたと共にいる」と約束された(マタイ28:20)。その御言葉を信じて、わたしたちは礼拝を中心にした教会生活をし、常にキリストと一つに結ばれて生きているのである。

 選びの民がキリストと一つに結合するとは、人の業ではなく、神の御業、聖霊のお働きである。聖霊が福音宣教(有効召命)を通してわたしたちをキリストの教会へと招かれなければ、選民が見える教会に集められることはない。キリストは教会の頭であり、また、花嫁である教会の夫である。

  このキリストとの結合を可能にするのは、聖霊である。だから、ウ大教理は「霊的・神秘的に」と告白する。すなわち、洗礼は聖霊によるキリストとの結合のしるしであり、証印である。そしてウ大教理が「現実的に・分離されないように」と告白するのは、主の晩餐がこの結合を養い育て、結合を持続させているからである。
 
  宗教改革者カルヴァン以来、主の晩餐の執行において聖霊が福音宣教を通してお働きになるので、わたしたちは信仰によって主イエス・キリストとの結合を認識する。聖霊は、わたしたちがパンとぶどう酒にあずかる時、キリストの死と復活においてわたしたちをキリストに結びつける。キリストは、わたしたちに告げられる。「わたしの死はあなたがたの罪のため。わたしの甦りは、あなたがたの永遠の命を保証するため。」
と。「見えない教会」は、信仰によってしか認識できないのである。

 

 

 ウェストミンスター大教理問答47      主の2015年8月19日

 聖書箇所:ローマの信徒への手紙第8章28-30節(新約P285)

問67 有効召命とは、何であるか。
答 有効召命とは、神の全能の力と恵みのわざであって、それによって神は(選民に対する自由な特別な愛からであって、神をその方へ動かす彼らのうちにある何ものからでもない)、よしとせられる時に、み言葉とみたまによって、イエス・キリストへ彼らを招き寄せ、彼らの心を救うように啓蒙し、彼らの意志を新たにして力強く決定し、このようにして彼らが(自らの罪によって死んだ者だけれど)彼の召命に自由に答え、そこに提供され伝達される恵みを受け奉じることを欲し、またできるようにされるのである。

 ウ大教理は、問67と答で「有効召命」を定義し、問68と答で「有効召命」の対象を選民に限定し、有効召命にあずかる選民、すなわち、見えない教会の会員がキリストと共に持つ恵みの交わりがどのようなものであるかを告白している。

 今夜は、問67と答の「有効召命」の定義について学びましょう。

 ウ大教理は、「有効召命とは、神の全能の力と恵みのわざである」と言う。主イエスは、「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」(ヨハネ5:25)と言われた。神は、「死んだ者」(罪人)をキリストのところに召される。その召しは、2種類である。「外的召命」と「内的召命」である。「外的召命」は福音宣教を通して、「内的召命」は聖霊のお働きを通してなされる。「外的召命」は、救いに不十分である。なぜなら、人は福音のメッセージを拒むからである。聖霊は、全能の神の御力と恵みにより、福音のメッセージを聞く者の心に働きかけて、その人をキリストに至らせるという目的を達成されるので、この聖霊の働きを「有効召命」という。聖霊の「有効召命」が福音宣教という「外的召命」に加えられるときに、福音のメッセージを聞く者はキリストを自分の救い主と信じて、救われ、洗礼を授けられて、キリストと結合し、キリスト信者となる。使徒パウロは、次のように「有効召命」を祈っている。「心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」(エフェソ1:18-19)。パウロは、次のように「有効召命」が神の恵みであると教えている。「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。」(Ⅱテモテ1:9)。

 次にこの「有効召命」の根拠を、ウ大教理は次のように告白する。「選民に対する自由な特別な愛から」と。宮崎訳は「御自身の選びの民に対する無償の特別な愛のゆえに」と、丁寧に訳している。だから、使徒パウロは、次のように告白している。「わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです」(テトス3:4-5)。

 そして「有効召命」は次の順序で行われる。(1)「よしとせられる時に」(2)「福音宣教と聖霊を通して」(3)イエス・キリストへと招く(4)「彼らの心を救うように啓蒙し」(5)彼らの意志を新たにして力強く決定し(6)有効召命に答えて、救いにあずかる。

 「有効召命」は、父なる神の御意志による。父なる神は、自由にキリストにあって神の民を選び、聖霊と福音宣教を通して、キリストのところに神の民を招かれる。聖霊は、招かれた神の選びの民の心に働きかけ、彼らが救われるように知性の光に照らして、彼らの心を再生し、彼らが自分たちの意志でしっかりとキリストを信じるように導き、そして神の有効召命に彼らが答えて、福音宣教を通して、すなわち、説教と聖礼典を通して施される恵みを心から喜んで受け取るようにしてくださる。

 ウ大教理は、罪に死んだわたしたちが「有効召命」を通して、聖霊によって心を再生され、福音宣教を通して提示された神の恵みを喜んで受け取り、キリストをわたしたちの救い主と信じて、洗礼にあずかり、キリストと一つに結ばれ、永遠の神との交わりに入れられるのである。

 このように「有効召命」とは、「神を離れ罪と咎の内に死んでいた者が、キリストと共に生かされ、キリストにあって共によみがえらせたもうわざである」(エフェソ2:4-5)。だから、人間はこの召しに初めから終わりまで受け身である。