ウェストミンスター大教理問答130  主の2017510

 

 

 

聖書箇所:マタイによる福音書第6913(新約聖書P9)

 

 

 

問187 「主の祈り」は、どのように用いられなければならないか。

 

答 「主の祈り」は、わたしたちがそれに従って他の祈りをなす型として指針であるだけでなく、一つの祈りとしても用いられる。それゆえ、これは、理解、信仰、敬けんな心、また祈りの義務を正しく果たすために必要な他の美徳をもって、祈らなければならない。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問187と答を学びましょう。ウ大教理は、わたしたちにどのように「主の祈り」を用いるべきかを教えている。

 

 

 

前回(186と答)は、「祈りの義務の指針」として、わたしたちにどのような規準が与えられたかについて学んだのである。それは、主イエスが弟子たちに教えられた「主の祈り」である。

 

 

 

ウ大教理は、わたしたちに「主の祈り」の用い方について教えるのであるが、「主の祈り」を、単なる教科書とは思っていないのである。

 

 

 

186と答で、ウ大教理は「主の祈り」を、「私たちの救い主がその弟子たちに教えられた、一般に『主の祈り』と呼ばれている祈りの型です」(宮崎訳)と述べているが、それは「主の祈り」がわたしたちの祈りの手本として益があるという意味である。

 

 

 

だが、ウ大教理はわたしたちに「主の祈り」が祈りの教科書以上に、わたしたちにとって一つの祈りとして益があることを教えようとしているのである。

 

 

 

「主の祈り」は「一つの祈り」として用いられるべきものである。なぜなら、主イエスが12弟子たちに「主の祈り」を、「だから、こう祈りなさい」(マタイ6:9)と命じられたからである。

 

 

 

ウ大教理は、「主の祈り」を一つの祈りとして祈りためには、注意が必要であると教えている。

 

 

 

すなわち、ウ大教理は、次のように教えている。「これは、理解、信仰、敬けんな心、また祈りの義務を果たすために必要な美徳をもって、祈らなければならない」と。

 

 

 

宮崎訳は、「理解力、信仰、うやうやしさ、その他祈りの義務をよく果たすのに必要な態度をもってなされるのであれば、一つの祈りとして用いることができます」と訳している。

 

 

 

松谷訳は、「理解・信仰・敬虔・その他祈りの義務を正しく果たすために必要なさまざまな恵みの賜物、をもってなされるのであれば、一つの祈りとして用いることができます」と訳しています。

 

 

 

ヨハネス・ヴォスは、わたしたちに「主の祈り」の次の3つの点に注目するように促している。第1に「尊厳さ」、すなわち、神の偉大さと尊厳に。第2に「簡潔さ」、その平易さと率直さに。第3に「神中心の性格さ」、神第一の上に祈りが組み立てられている(『ウェストミンスター大教理問答講解』)

 

 

 

以上の点に留意して、「主の祈り」を一つの祈りとして祈るとき、それをよく理解し、祈りの実現を心から信じ、恭しい態度で祈るべきである。

 

 

 

祈りの義務をよく果たすのに必要なものは、美徳か、態度か、さまざまな恵みの賜物か、議論の余地があるが、今は「主の祈り」と他の祈りに区別がないことを教えられるのである。

 

 

 

要するに、「主の祈り」も「他の祈り」も、回数の問題ではない。ただ唱えるという問題ではないのである。「天にいます聖なる神、わたしたちの父」に向かって祈るのである。子が親を信じるように、わたしたちは父なる神を信頼して祈るのである。従順な子が父に従うように、わたしたちも父なる神に祈り従うのである。そして、祈りに希望を抱き、神の子として日々生きるのである。

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答131  主の2017517

 

 

 

聖書箇所:マタイによる福音書第6913(新約聖書P9)

 

 

 

問188 「主の祈り」は、いくつの部分から成っているか。

 

答 「主の祈り」は、三つの部分、すなわち序言、祈願、結びの言葉から成っている。

 

問189 「主の祈り」の序言は、わたしたちに何を教えているか。

 

答 「天にましますわれらの父よ」という言葉に含まれている「主の祈り」の序言は、わたしたちに次のことを教えている。すなわち、祈るとき、神の父らしいいつくしみへの確信と関心とを持ち、尊敬や、その他すべての子供らしい気持、天的愛情、神の主権的み力と尊厳と恵み深いへりくだりとの正当な理解をもって、神に近づくこと、また他人と共に、他人のために祈ることである。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問188189と答を学びましょう。ウ大教理の問188と答は、「主の祈り」の構成を教えている。すなわち、「主の祈り」は三つの部分から構成されており、それは「序言」と「祈願」と「結び」である。そして、ウ大教理は、「序言」より解説しているのである。

 

 

 

 「主の祈り」の序言は、「天にましますわれらの父よ」(口語訳)である。

 

 

 

主イエスは12弟子たちに「だから、(あなたがたは)こう祈りなさい」と言って、「主の祈り」を教えられた(マタイ6:9)。だから、「主の祈りは、「祈りの原則を教える見本であるとともに、実際にこう祈らなくてはならない本物の祈りである」(榊原康夫『マタイによる福音書Ⅱ』KGK新書P22)

 

 

 

序言である「天におられるわたしたちの父よ」(新共同訳)は、「神のご性質を表わす神の御名」である。主イエスは神に向かって「アバ、すなわち、父よ」と呼びかけ、祈られた。この序言の呼びかけは、主イエスが神を「全く完全なわたしたちの父親である」と言われているのである。また、「わたしたちの父親」で、兄弟姉妹みんなの幸福を願って祈るべき父でもある。

 

 

 

「天」とは、「聖書では超自然的な世界、見えない神的世界の総体とじて考えられる。」「神の絶対的、主権的な超越性、偏在性、尊厳性を表わすための象徴として用いられる。」(『エッセンシャル聖書辞典』いのちのことば社P414)

 

 

 

ウ大教理は。わたしたちがこの序言を祈るときに、次のことに心を留めるように促している。

 

 

 

(1)「神の父としての慈しみへの信頼」と「私たちがその慈しみを受けていることへの確信」、(2)「崇敬の念」や「(父なる神の)こどもにふさわしい態度」、(3)「天を仰ぎ見る思い」、(4)「主権に満ちた神の力、神の尊厳、恵みに基づく神のへりくだりへの的確な認識をもって神に近づくこと」、(5)「他の人々と共に、他の人々のために祈ること」(以上宮崎訳に従って記した)

 

 

 

序言は、「主の祈り」が神と和解した者の祈りであることを教える。キリストの十字架の贖いにより神を父として持つ者の祈りである。だから、ウ大教理は、わたしたちに、この序言を祈る者が父なる神の慈しみを信頼し、その神の慈しみに生きていることを確信していることに心を留めさせるのである。

 

 

 

次にウ大教理は、父なる神は天におられるのだから、序言を祈る者は、「天を仰ぎ見る思い」で祈るべきであると教える。なぜなら、「天におられるわたしたちの父なる神」は聖なるお方であり、わたしたちは罪人で、聖なる者ではあり得なかったが、父なる神の愛により、キリストの十字架によって救われ、聖霊の働きで聖なる神の子として受け入れられたのであるから。

 

 

 

だから、ウ大教理はわたしたちにこの序言で、「主権に満ちた神の力、神の尊厳、恵みに基づく神のへりくだりへの認識をもって神に近づく」ことを教える。神は神である。人は人である。神は天に、人は地に。神と人の間には天地の差があり、神が絶対的主権によって人間性を取り、この世に来られ、へりくだられたから、わしたちは神に近づくことができるのである。

 

 

 

最後に「主の祈り」は主の共同体の祈りであり、人類の祈りである。なぜなら、父なる神はわたしたちキリスト者の父であり、人類の父である。だから、神の共同体(教会)と共に、社会共同体(人類)のために祈りのである。

 

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答132   主の2017524

 

 

 

聖書箇所:マタイによる福音書第6913(新約聖書P9)

 

 

 

問190 第一の祈願において、わたしたちは何を祈るのであるか。

 

答 「み名をあがめさせたまえ」という第一の祈願においては、自分自身とすべての人々の中にある、正しく神を崇められない無能力と無気力とを認めつつ、次のことを祈るのである。すなわち、神がその恵みによって自分と他人に、神とその称号、属性、規定、み言葉、みわざ、および何事であれ、それによって神がご自身を知らせることを良しとされる事柄を、知り、認め、高く評価し、また思いと言葉と行為において神を崇めることができ、また崇めたくなるようにして下さること、神が無神論、無知、偶像礼拝、冒とく、および何事であれ神に不名誉な事柄をはばみ、取り除いて下さり、またその支配的摂理によって、万事を神ご自身の栄光へと導き、処理して下さることである。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問190と答を学びましょう。前回は、「主の祈り」が序言、祈願、結びという3つの構成から成ることを学び、構成の一つ、序言について学んだのである。

 

 

 

今夜からは、「主の祈り」の構成の一つ、6つの祈願について、一つずつ学びたいと思う。

 

 

 

ウ大教理の問190と答は、「主の祈り」の第一の祈願、「み名をあがめさせたまえ」である。

 

 

 

ウ大教理は、第一の祈願を祈る時、わたしたちが次のことを常に認識すべきであると指摘している。すなわち「自分自身とすべての人」の中にある無能力と無気力のゆえに、御霊の執り成しと導きなしに「正しく神を崇める(敬う)」ことはできないのである(ローマ8:2627,Ⅱコリント3:4,詩編51:17)

 

 

 

次に第一の祈願、「み名をあがめさせたまえ」では、次の二つの事柄を祈る。第一の事柄は、「神がその恵みによって自分と他人に、神と、その称号、属性、規定、み言葉、みわざ、および何事であれ、それによって神がご自身を知らせることを良しとされる事柄を、知り、認め、高く評価し、また思いと言葉と行為において神を崇めることができ、また崇めたくなるようにして下さること」である。

 

 

 

神は、「自分と他人」、すなわち、すべてのキリスト者に恵みによって御自身を啓示されている。それが、特別啓示としての聖書である。聖書によって、人は「神の道」を知り、神の御救いをすべての民が知り、すべての民が神を崇めることができる(詩編67:34)。聖書に「神、神の称号、属性、規定、御言葉、御業、その他何ごとであれ」(宮崎訳)、「神が御自身を知らせるのに用いるのを良しとされるすべてのものを」(松谷好明訳)、わたしたちが聖書から知り、認め、高く評価し、わたしたちの思いと言葉と行為で神を崇めることができ、崇めたくなるようにして下さっているのである。

 

 

 

第二の事柄は、「神が無神論、無知、偶像礼拝、冒とく、および何事であれ神に不名誉な事柄をはばみ、取り除いて下さり、またその支配的摂理によって、万事を神ご自身の栄光へと導き、処理して下さること」である。

 

 

 

神は、「自分と他人」から神を崇めることを阻む、「無神論、無知、偶像礼拝、冒とく、および何事であれ、神に不名誉な事柄を」を取り除けて下さり、支配的摂理によって万事を御自身の栄光へと導き、処理して下さるのである。

 

 

 

「み名をあがめさせたまえ」とは、神の御名を「聖なるものとみなし、そのように取り扱う」ことである(ヨハネス・ヴォス)。「み名」とは「神、神の称号、属性、規定、御言葉、御業、その他何であれ、すべて」である。

 

 

 

ウ大教理は、キリストの十字架で贖われた者はすべて、「み名をあがめる」ことが義務であると教える。その義務を果たせるように、聖霊は再生によりわたしたちに聖化の道を歩ませ、聖書に従って神を正しく知り、礼拝できるようにしてくださるのである。

 

 

 

この世は、神に敵対する世界であり、御名をあがめることを阻むものに満ちている。無神論、無知、偶像礼拝、冒涜、その他の神に不名誉な事柄。神は支配的摂理でキリスト者を神御自身の栄光へと導き、処理される。

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答133   主の2017531

 

 

 

聖書箇所:マタイによる福音書第6913(新約聖書P9)

 

 

 

問191 第二の祈願において、わたしたちは何を祈るのであるか。

 

答 「み国を来たらせたまえ」という第二の祈願においては、わたしたち自身と全人類とが、生まれながら罪とサタンの支配下にあることを認めつつ、次のことを祈るのである。すなわち、罪とサタンの王国が滅ぼされ、福音が全世界に広められ、ユダヤ人が召され、異邦人の満数が召し入れられること、教会がすべての福音の奉仕者と規定とを備えられ、腐敗から清められ、国家為政者から支持され維持されること、キリストの規定が純正に執行され、いまだに自分の罪の中にいる者たちの回心と、既に回心している者たちの確立、慰め、建設とに、有効なものとされること、キリストがこの場でわたしたちの心を支配し、彼の再臨と、彼と共なるわたしたちの永遠統治との時を早めて下さること、またその力の支配を、これらの目的に最も貢献するよう全世界に及ぼすことを良しとして下さることである。。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問191と答を学びましょう。前回は、「主の祈り」の第1の祈願「み名をあがめさせたまえ」について学んだのである。

 

 

 

ウ大教理は、第二の祈願を祈る時、わたしたちが次のことを常に認識すべきであると指摘している。すなわち「わたしたち自身と全人類」が「生まれながら罪とサタンの支配下にある」ことである(エフェソ2:23)

 

 

 

全人類の代表者アダムが罪を犯し(原罪)、全人類は堕落したのである。ゆえに人は生まれながら罪の性質を持ち、サタンの支配下にあるのである。わたしたちは、キリストがわたしたちを解放してくださるまで、罪の奴隷であり、サタンの支配下にある。

 

 

 

だから、第二の祈願、「み国をきたらせたまえ」では、以下の5つのことを祈るのである。

 

 

 

第一の祈りは、「罪とサタンの王国が滅ぼされ、福音が全世界に広められ、ユダヤ人が召され、異邦人の満数が召し入れられること、教会がすべての福音の奉仕者と規定とを備えられ、腐敗から清められ、国家為政者から支持され維持されること」である。

 

 

 

第二の祈りは、「キリストの規定が純正に執行され、いまだに自分の罪の中にいる者たちの回心と、既に回心している者たちの確立、慰め、建設とに、有効なものとされること」である。

 

 

 

第三の祈りは、「キリストがこの場でわたしたちの心を支配する」ことである。

 

 

 

第四の祈りは、「彼の再臨と、彼と共なるわたしたちの永遠統治との時を早めて下さること」である。

 

 

 

第五の祈りは、「またその力の支配を、これらの目的に最も貢献するよう全世界に及ぼすことを良しとして下さること」である。

 

 

 

第一の祈りから学ぼう。わたしたちがこの世で、「み国を来たらせたまえ」と祈るとき、ダビデ同様に、神が敵である「罪とサタンの王国」を滅ぼされるように祈るのである(詩編68:2,19)

 

 

 

ヨハネス・ヴォスは「サタンの王国」を「宇宙の中にある、神の御意志にそむくあらゆることの総計である」と解する。サタンは堕落した天使たちの首である。悪の王国の王である。ヴォスは言う。「罪は人格によって犯されるものであり、罪の王国は罪ある人格、すなわち、邪悪な霊と人類の王国であり、サタンと呼ばれる至高の邪悪な人格の支配下にあるのである」(『ウ大教理問答書講解』P212)

 

 

 

だから、ウ大教理は、罪とサタンの支配からわたしたちが解放されるために、「み国を来たらせたまえ」と、神が罪とサタンの王国(支配)を滅ぼされることを祈るのだと教えているのである。

 

 

 

 

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答134   主の201767

 

 

 

聖書箇所:マタイによる福音書第6913(新約聖書P9)

 

 

 

問191 第二の祈願において、わたしたちは何を祈るのであるか。

 

答 「み国を来たらせたまえ」という第二の祈願においては、わたしたち自身と全人類とが、生まれながら罪とサタンの支配下にあることを認めつつ、次のことを祈るのである。すなわち、罪とサタンの王国が滅ぼされ、福音が全世界に広められ、ユダヤ人が召され、異邦人の満数が召し入れられること、教会がすべての福音の奉仕者と規定とを備えられ、腐敗から清められ、国家為政者から支持され維持されること、キリストの規定が純正に執行され、いまだに自分の罪の中にいる者たちの回心と、既に回心している者たちの確立、慰め、建設とに、有効なものとされること、キリストがこの場でわたしたちの心を支配し、彼の再臨と、彼と共なるわたしたちの永遠統治との時を早めて下さること、またその力の支配を、これらの目的に最も貢献するよう全世界に及ぼすことを良しとして下さることである。

 

 

 

 今夜も、ウ大教理問答の問191と答を学びましょう。前回は第2の祈願「み国をきたらせたまえ」では、5つのことを祈ることを学び、その第1の祈りから学び始めたのである。

 

 

 

今夜は、第1の祈りの続きである。すなわち、「福音が全世界に広められ、ユダヤ人が召され、異邦人の満数が召し入れられること、教会がすべての福音の奉仕者と規定とを備えられ、腐敗から清められ、国家為政者から支持され維持されること」についてである。

 

 

 

「み国」は神(キリスト)の支配のことである。ウ大教理は、神(キリスト)の支配がキリストがこの世に来られ始まり、十字架と復活でキリストが罪とサタンを滅ぼし、確立し、今や福音宣教によって進展し、キリストの再臨によって完成すると理解しています。

 

 

 

だから、復活の主イエスは11使徒たちに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられました(マタイ29:19)。教会とキリスト者は福音(主の言葉)が全世界に速やかに宣べ伝えられ、救いが諸国民に開かれるように祈るべきです。福音を聞くことで、永遠の命に定められている者は皆信仰に入るからである(使徒言行録13:48)。そして、み国は進展する。

 

 

 

そして、「ユダヤ人が召され、異邦人の満数が召し入れられる」と、み国が完成するのである。使徒パウロはローマの信徒への手紙11章で「イスラエルの残りの者」の救いについて述べる。ウ大教理が「ユダヤ人が召され」という時、将来のある時にユダヤ人たちが有効に召され、回心しキリストを信じることを述べている。すべてのユダヤ人の回心ではない。ユダヤ人の回心が増すことである。パウロにとってユダヤ人の不信仰は一時的である。有効に召された異邦人たちが全部救われるまでである。その時ユダヤ人たちの霊的無分別は取り去られ、多くの数のユダヤ人たちが回心し、キリストを信じるのである。

 

 

 

だから、ヨハネス・ヴォスは、「異邦人の満数が召し入れられる」ように祈る3つの理由を述べている。(1)神はあらゆる民族や国家の人々を救うことにおいて栄光をあらわされる。(2)異邦人が全部救われるのが早ければ早いほど、ユダヤ人たちがその無分別を取り去られて、キリストに来ることが早くなる。(3)ユダヤ人と異邦人の選びの民たちが早く救われれば救われるほど、キリストが再臨されて、その民たちをすべての罪と苦しみより救い、永遠の光栄を与えられるのが早くなる。

 

 

 

福音宣教を早めるには、教会とキリスト者は、常に献身者が与えられるように祈るべきである。主は常に福音の宣教者をお求めである(マタイ9:38)

 

 

 

祈りと共に献金によって、福音宣教の奉仕者を支え、信徒を教育訓練する教会を支えるべきである。何よりも信仰も賜物も、聖霊の恵みであるのだから、聖霊に必要なものを祈り求め、また聖霊の助けを求めて、教会とキリスト者が罪の腐敗から守られるようにすべきである。

 

 

 

み国の完成まで地上の教会を持続すべきである。それゆえに、ウ大教理は国家為政者から支持され、維持されるように祈るように勧めている。戦後、日本国憲法により信教の自由が保障されると共に、国家が宗教法人化によって教会の財産を守り、地上の教会が持続できるようにしてくれているのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

神は、キリストのお働きで、サタンの王国を滅ぼされる。十字架と復活で。

 

 

ウェストミンスター大教理問答135   主の2017621

 

 

 

聖書箇所:マタイによる福音書第6913(新約聖書P9)

 

 

 

問191 第二の祈願において、わたしたちは何を祈るのであるか。

 

答 「み国を来たらせたまえ」という第二の祈願においては、わたしたち自身と全人類とが、生まれながら罪とサタンの支配下にあることを認めつつ、次のことを祈るのである。すなわち、罪とサタンの王国が滅ぼされ、福音が全世界に広められ、ユダヤ人が召され、異邦人の満数が召し入れられること、教会がすべての福音の奉仕者と規定とを備えられ、腐敗から清められ、国家為政者から支持され維持されること、キリストの規定が純正に執行され、いまだに自分の罪の中にいる者たちの回心と、既に回心している者たちの確立、慰め、建設とに、有効なものとされること、キリストがこの場でわたしたちの心を支配し、彼の再臨と、彼と共なるわたしたちの永遠統治との時を早めて下さること、またその力の支配を、これらの目的に最も貢献するよう全世界に及ぼすことを良しとして下さることである。。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問191と答の続きを学びましょう。第2の祈願「み名をあがめさせたまえ」で、わたしたちは5つの祈りを学び始めたのである。

 

 

 

前回で第1の祈りである「罪とサタンの王国が滅ぼされ、福音が全世界に広められ、ユダヤ人が召され、異邦人の満数が召し入れられること、教会がすべての福音の奉仕者と規定とを備えられ、腐敗から清められ、国家為政者から支持され維持されること」を学び終えた。

 

 

 

今夜は、第2の祈りの以下を学ぼう。第2の祈りは、「キリストの規定が純正に執行され、いまだに自分の罪の中にいる者たちの回心と、既に回心している者たちの確立、慰め、建設とに、有効なものとされること」である。

 

 

 

「キリストの規定」とは、礼拝と深く結びつくものである。特に礼拝における福音の説教、聖礼典の執行、そして教会政治と教会戒規の執行である。要するに、ウ大教理は、それらが純粋に実施され、未だに罪の中にいる者が回心させられ、回心した者の信仰が強められ、慰められるのに有効であると信じているのである。そして、それによって神の国が進展するのである。神の国は現在であり、未来である。今あり、将来到来するのである。

 

 

 

 第3の祈りは、「キリストがこの場でわたしたちの心を支配する」ことである。

 

 

 

 第3から第5までの祈りは、キリストの御国の3つの形態と段階を示しているのである。

 

 

 

 第1はウ小教理にある「恵みの王国」である。問102の答に「恵みの王国を進展させ」とある。キリストの王国は、今キリスト者(神の民)の心の中にある。

 

 

 

 信仰によってキリストは、キリスト者(神の民)の内に住まわれている(エフェソ4:17)。そして、わたしたちの心を支配されている。

 

 

 

第四の祈りは、「彼の再臨と、彼と共なるわたしたちの永遠統治との時を早めて下さること」である。

 

 

 

キリストの再臨と共に始まる栄光に満ちたキリストの永遠の支配である。ヨハネの黙示録2220節に、キリストが速やかな再臨を約束し、神の民はキリストの速やかな到来を祈っている。

 

 

 

第五の祈りは、「またその力の支配を、これらの目的に最も貢献するよう全世界に及ぼすことを良しとして下さること」である。

 

 

 

世界におけるキリストの力の支配である。キリストは天においても地においてもすべての力を持たれて、敵を滅ぼされます。そして、御国が完成するのである。

 

 

 

恵みの王国の拡大と継続、そしてキリストの再臨、さらにキリストの力の支配がその目的を果たして、御国が完成するように祈ることを、ウ大教理はわたしたちに教えようとしているのである。

 

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答136   主の2017628

 

 

 

聖書箇所:マタイによる福音書第6913(新約聖書P9)

 

 

 

問192 第三の祈願において、わたしたちは何を祈るのであるか。

 

答 「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という第三の祈願においては、生まれながら自分もすべての人々も、神のみ心を知ることも行なうことも全くできず、欲しもしないだけでなく、み言葉に逆らい、摂理に反して嘆き、つぶやきがちであり、肉と悪魔の心を行なうことに全面的に傾倒していることを認めつつ、次のことを祈るのである。すなわち、神がみ霊によって、自分自身と他人から、心のすべての盲目、弱さ、無気力、強情を取り除いて下さり、またその恵みによって、天においてみ使いたちがしているように、わたしたちにも万事に同じへりくだり、喜び、忠実、勤勉、熱心、誠実、および堅忍持久をもって、神のみ心を知り、行ない、従うことができ、また欲するようにして下さることである。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問192と答を学びましょう。第3の祈願「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」を、学びましょう。

 

 

 

まず第3の祈願において、ウ大教理は、次のごとくわたしたち人間の罪と弱さを認めているのである。

 

 

 

生まれながらの人は、自分も他人も罪によって腐敗しており、神のみ心を知ることも行なうこともできないのである。だから、使徒パウロは、「わたしの内には義が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」(ローマ7:18)と言う。義人ヨブも、生まれながらの人は「神に従う道を知ろうとしない」(ヨブ記21:14)と言う。自然人、すなわち、生まれながらの人は、神について無知であり、神に属することを受け入れることはできないのである(Ⅰコリント2:14)

 

 

 

生まれながらの人は、「肉の思いに従う者」であり、神に敵対して生きている。だから、彼は神の律法に従わないのである(ローマ8:7)。「肉」とは、「罪深い人間性」である。それに支配されて生活する者は、利己的で、この世の欲望に心を向けて生きている。肉欲に支配され、神に敵対し、神の御言葉である律法に逆らって生きようとするのである。

 

 

 

出エジプトした神の民たちが、荒れ野で主なる神とモーセに不平を言ったように、生まれながらの人は不信仰であり、主なる神が彼らと共に生き、彼らの生活を導いてくださっていることを信じていないのである。だから、不平を言うのである。決して善なる神の摂理に感謝することはないのである(出エジプト17:7)

 

 

 

「肉と悪魔の心を行なうことに全面的に傾倒している」とは、「肉の欲すること、悪魔の意図することを行う傾向性に完全に染まっている者である」(宮崎訳)ということである。

 

 

 

わたしたち罪人の生活は、肉欲がわたしたちを支配し、わたしたちの生活の全面で悪魔の意図が支配しているのである。使徒ペトロは、それを「先祖伝来のむなしい生活」と言う(Ⅰペトロ1:18)。生まれながらの人は先祖伝来の慣習を守り、偶像と迷信に囲まれて生きている。その背後にサタンの支配があるのである。

 

 

 

しかし、キリスト者は、そのむなしい生活から、金や銀ではなく、キリストの尊い血によって贖われたのである(Ⅰペトロ1:1819)。罪とサタンの奴隷からキリストの所有とされたのである。

 

 

 

わたしたちは、「キリスト・イエスの僕(奴隷)である(ローマ1:1)。それは、「神の霊によって支配される生活」である。わたしたちは、洗礼によって御霊をいただいた。わたしたちの心は、肉に支配されていない。聖霊に満たされた生活である。キリストの内に生き、キリストの思いをわたしたちの思いとして生きるように、聖霊に導かれた生活である。自分中心ではなく、キリスト中心の生活である。

 

 

 

それゆえに、この第3の祈りを祈ることが許されているのである。「天になるごとく、地にもなさせたまえ」と。

 

 

ウェストミンスター大教理問答137   主の201775

 

 

 

聖書箇所:マタイによる福音書第6913(新約聖書P9)

 

 

 

問192 第三の祈願において、わたしたちは何を祈るのであるか。

 

答 「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という第三の祈願においては、生まれながら自分もすべての人々も、神のみ心を知ることも行なうことも全くできず、欲しもしないだけでなく、み言葉に逆らい、摂理に反して嘆き、つぶやきがちであり、肉と悪魔の心を行なうことに全面的に傾倒していることを認めつつ、次のことを祈るのである。すなわち、神がみ霊によって、自分自身と他人から、心のすべての盲目、弱さ、無気力、強情を取り除いて下さり、またその恵みによって、天においてみ使いたちがしているように、わたしたちにも万事に同じへりくだり、喜び、忠実、勤勉、熱心、誠実、および堅忍持久をもって、神のみ心を知り、行ない、従うことができ、また欲するようにして下さることである。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問192と答、すなわち、第3の祈願の「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」の学びの続きである。

 

 

 

3の祈願において、ウ大教理は、次のごとく二つの祈りを祈るのである。

 

 

 

その祈りの第一は、次のごとくである。「神が御霊によって、私たち自身や他の人々から心の暗さ、弱さ、無気力、ねじれをすべて取り除いてくださり」(宮崎訳)

 

 

 

生まれながらに罪あるわたしたちは、神のみ心を知り、行なうことを欲することをしません。だから、この第3の祈願において、わたしたちは、「神が、御霊によって、私たち自身や他の人々から心の暗さ、弱さ、無気力、ねじれをすべて取り除いてください」と祈るのである。

 

 

 

聖霊によって、わたしたちの心が新たにされ、聖霊によって(1)心の目が開かれ、神を知れるように(エフェソ1:1718)(2)「内なる人を強めて」(エフェソ3:16)くださるように、(3)誘惑に陥らないように、目を覚まし、無気力にならないように(マタイ26:4041)(4)「ねじれ(強情)」、すなわち、「主に背く時」、「若い時のそしり」を、聖霊によって懲らしめを受け、悔い改めさせてくださるように(エレミヤ31:1819)、祈るのである。

 

 

 

以上は、聖霊によって新しく生まれ変わること、聖霊による新生を祈ることである。聖霊によって、わたしたちは心を新たにされない限り、神を知り、神のみ心に従うことはできないのである。

 

 

 

その祈りの第二は、神の恵みによって、この世を喜び生きることである。神の摂理の中を生きるとは、神の恵みの中を生きることである。

 

 

 

天使たちは、天において喜び神に仕えている。天使は、天と地をつなぐ存在でもある。だから、大教理は天使を模範にして、(1)へりくだり、(2)歓喜、(3)忠実、(4)勤勉、(5)熱心、(6)誠実、(7)持続性をもって、天使のように神のみ心を知り、行ない、それに従い、喜んで従うことができるようにと祈るのである。

 

 

 

「へりくだり」とは「へりくだって神と共に歩むこと」(ミカ6:8)である。「歓喜」とは天使のように「喜び祝い、主に仕え」(詩編100:2)ることである。「忠実」とは「まことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行う」(イザヤ38:3)ことである。「勤勉」とは「あなた()の命令を固く守ること」「わたしの道が確かになること」(詩編119:45)。「熱心」とは「怠らず励み、霊に燃えて主に仕える」(ローマ12:11)ことである。「誠実」とは「わたしの心があなたの掟に照らして無垢である」(詩編119:80)ことである。「持続性」とは「あなたの掟を行うことに心を傾け わたしはとこしえに従って行く」(詩編119:112)ことである。

 

 

 

以上が意味するところは、「み心をなさしめたまえ」という祈りは、キリスト者の心の中における聖霊の特別な働きを祈り求める祈りだということである。聖霊に助けられ、キリスト者は心の目を新たにされ、神を知り、意志を清められ、神のみ心に従って歩めるようにされ、神が完全であるように、自分たちも完全となれるようにと祈るのである(マタイ5:48)