ウェストミンスター大教理問答92      主の2016727

 

 

 

聖書箇所:マタイによる福音書第253540(新約P51)

 

 

 

問135 第六戒で求められている義務は、何であるか。

 

答 第六戒で求められている義務は、次の通りである。すなわち、自分と他人の命を保持するため、できる限り注意深く研究し、合法的に努力することであって、それは、だれのであれ不正に命を奪うようになるすべての思いと企てを制御し、すべての感情を押え、すべての機会・誘惑・習慣を避けることにより、暴力に対する正当防衛・神のみ手を忍耐して辛抱すること・精神の平静・心の喜びにより、食物・飲物・医薬・睡眠・労働・娯楽を適度に用いることにより、慈悲深い思い・愛・同情・柔和・温順・親切により、穏和な礼節ある言葉づかいや行為・忍耐・進んで人と和らぐこと・傷害を忍んで耐えまた許すこと・悪に報いるのに善をもってすることにより、また悩む者を慰め助け・罪のない者を保護し防御することによるのである。

 

                      

 

 今夜は、ウ大教理問答の問135と答を学びましょう。ウ大教理は第六-十戒で、求められている義務と禁じられている罪が何であるかを問答している。

 

 

 

わたしは、ウ大教理が第六戒を、わたしたちキリスト者に隣人愛の実践として、「命の尊厳」を教えていると思う。

 

 

 

 当然、自分と他人との命の尊厳を重んじることが、この戒めでわたしたちキリスト者が求められている義務である。

 

 

 

 「隣人愛」には、いろんな面がある。第六戒では「自分自身および他の人たちの生命を守る」ことである。ウ大教理は第六戒を「命を守る」ことから隣人愛を考察する。命を守ることは夫婦の愛に似ている(エフェソ5:2829)。夫婦が互いを自分の体として愛する。この戒めは、その愛に基づいて命の尊厳を義務として求めている。

 

 

 

 ウ大教理は、わたしたちにこの義務を遂行するために「あらゆる角度から周到な検討を重ね、合法的な努力を惜しみなく傾ける」ことを勧めている。この戒めだけでなく、隣人愛を求める第七戒以下も同じである。それは次のことで達成できる。

 

 

 

 北イスラエル王国の王アハブの宮廷長オバドヤは神を畏れる者であり、妃イゼベルが主の預言者を迫害した時、百人の預言者を救い出し、五十名ずつ洞穴にかくまい、彼らの命を守りました(列王記上18:4)。彼は、王と妃が不正に主の預言者の命を奪おうとする企てに、王に従いつつ、抵抗しました。

 

 

 

 殺人の動機は怒り・憤りである(創世記4:5)。「すべての感情を押え」とは「腹を立てる」ことを抑制することである。人殺しは悪魔に機会を与えることである(エフェソ4:2627)

 

 

 

 ウ大教理は自分と他人の命を奪う機会・誘惑・習慣(行動)を避けるように勧める。アブネル将軍はアサヘルに彼の命を奪う機会を与えないでくれと懇願した(サムエル記下2:22)。主イエスはサタンに神殿の屋根の上から飛び降りろと誘惑されたが、神の御言葉で退けられた(マタイ4:67)。サウルはダビデの命を日々奪おうと追い回した(サムエル記上24:14)。ダビデは王の行動を戒めた。

 

 

 

 ウ大教理は、①「暴力から命を守る正当防衛」を認めている。すなわち、「弱い人、貧しい人を救い 神に逆らう者の手から救い」出すことである(詩編82:4)神の御手の中で「たえず耐え忍ぶ」ことを勧める。ヨブの忍耐をモデルとして教えている(ヤコブ5:11)。③怒りを鎮めるために落ち着いた生活をする(Ⅰテサロニケ4:11)。心を平静にし、喜びで満たすこと、そのために食事を楽しむ、精神的クリニックと睡眠で心の疲れを癒す。労働と娯楽を適度に用いて健康な生活をする。

 

 

 

 そこからウ大教理はわたしたちの内面を配慮している。「思いやりの心・愛・同情心・柔和・優しさ・親切・穏やかで温かく」。

 

 

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答93      主の201683

 

 

 

聖書箇所:民数記第353032(旧約P277)

 

 

 

問136 第六戒で禁じられている罪は、何であるか。

 

答 第六戒で禁じられている罪は、次の通りである。すなわち、社会的正義・合法的戦争・止むをえない防衛の場合以外に、すべて自分または他人の命を奪うこと。生命保持の合法的な、また止むをえない手段を無視したり撤回したりすること。罪深い怒り・憎しみ・うらやみ・復しゅう心、すべての過度の情欲、取り乱した思いわずらい、食物・飲物・労働・娯楽に度を過ごすこと。人を怒らせる言葉・虐待・公論・殴打・傷害・またその他、だれのであれ命を滅ぼすようになるすべてのことである。

 

                      

 

 今夜は、ウ大教理問答の問136と答を学びましょう。ウ大教理は第六戒で禁じられている罪が何であるかを問答している。

 

 

 

聖書は、殺人を厳しく罰する。その根拠は、次の御言葉である。「人の血を流す者は人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。」(創世記9:6)。だから、旧約聖書で神は、殺人を犯した者に対して、複数の証人があれば、殺害者を死刑にするように命じられる(民数記35:30)

 

 

 

 上記の御言葉の真意は、自分と他人との命の尊厳を重んじることにある。

 

 

 

 ウ大教理は、わたしたちに最初に3つの例外を挙げる。「社会的正義(公共の正義)」「合理的な戦争」「止むをえない防衛(正当防衛)」である。「社会的正義(公共の正義)」とは「死刑制度」(民数記35:3133)である。「合理的な戦争」とは、神が命じられた聖絶である(申命記20)。「止むをえない防衛」とは、今日の正当防衛である(出エジプト記221)

 

 

 

 上記の3つ以外は、(1)自分と他人の命を奪うこと、(2)命を守るための合法的で不可欠の手段を無視し、放棄することは罪である。(1)の罪とは殺人、自殺、安楽死等である。(2)の罪とは、法律に定められた基本的人権等を無視し、放棄することである。ルール(交通規則等)を無視し、放棄することである。

 

 

 

 (1)(2)は、法律と規則であり、(3)は心の問題である。「罪をはらんだ怒り」(マタイ5:22)は、兄弟を馬鹿と言うことである。「憎しみ」は人殺しである。兄カインは弟のアベルを憎み殺した(創世記4:5)、「妬み(激情)」は「人を腐らせる」(箴言14:30)、「復讐心」は、神に許されていない。復讐するのは神であるから(ローマ12:19)。「一切の度を越した情念」とは「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしり」などである(エフェソ4:31)。「心を取り乱しての思いわずらい」は生活の中での思いわずらいである(マタイ6:3132)

 

 

 

 (4)は体の問題である。「食べ物・飲み物・労働・娯楽に度を過ごすこと」は、体を壊し、健康を損ね、命の危険にいたる。暴飲・暴食、過労死、賭け事で人生を破滅させる者がいる。これらは、第六戒に違反する罪である。

 

 

 

 (5)は言葉の問題である。「人の怒りをあおる言葉」は、「人を傷つける言葉」である(箴言15:1)。「抑圧」とは、言葉で相手を脅し、相手のものを力ずくで奪うことである(エゼキエル18:18)。「口論」とは、「互いにかみ合い、共食いしている」ことである(ガラテヤ5:15)。パウロは、口論する者に「互いに滅ぼされないように」と警告する。「殴打・傷害」は、暴力で相手を殺すこと、傷を負わすことである。

 

 

 

 今日、死刑の廃止、「合法的な戦争(正義の戦争)」が否定されている。人権愛護団体は死刑の廃止を訴えている。ヨハネス・ボスは、「殺人に対する死刑が、神の命令であり、正義とは神の律法に立脚しているものであるなら、人間社会はそれを変更する権利はないのである」と述べている(『ウェストミンスター大教理問答書講解()240)

 

 

 

 ウ大教理は、「合法的な戦争が存在する」という原則を採っていると、ボスは述べている。それは、すべての戦争が合法的であるという意味ではないと言う。また戦争中のすべての行動が許容されているという意味でもないと言う。キリスト者がある状況下で戦争に加わることが、キリスト者としての義務と衝突するものではないということを主張しているだけであると言う。

 

 

 

 

そして、そこから次のような行動が生まれる。すなわち、「礼儀正しい言葉づかいや振る舞い・心の広さ、進んで人と和らぐこと、不当な仕打ちを忍んで耐え、赦すこと、悪に報いるに善をもってすること、悩んでいる者を慰め、助け、罪のない者の身を守り、弁護すること」である。

 

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答94      主の2016810

 

 

 

聖書箇所:出エジプト記第2014(旧約P126)

 

 

 

問137 第七戒は何であるか。

 

答 第七戒は「あなたは姦淫してはならない」である。

 

問138 第七戒で求められている義務は、何であるか。

 

答 第七戒で求められている義務は、次の通りである。すなわち、体・精神・感情・言葉・行動の純愛、それを自分自身と他人の間で保持しること、目やすべての感覚に注意深くあること、節制・きよい交際を守ること・服装の質素さ・禁欲の賜物がない人々の結婚・夫婦愛・夫婦生活、自分の職分に忠実に働くこと、不潔へのすべての機会を避け、それへの誘惑に抵抗することである。

 

                      

 

 今夜は、ウ大教理問答の問137138と答を学びましょう。ウ大教理は問137と答で第七戒の本文を、問138と答で、第七戒で求められている義務を、そして問139と答で、第七戒で禁じられている罪を教えている。

 

 

 

第六戒は生命の尊厳を命じているのに対して第七戒は、婚姻関係の尊厳を命じている。人間の生は夫婦生活から始まる。男と女が結婚し、夫婦の正しい性の関係を尊重することで、命の尊厳が守られる。だから、第六戒と第七戒は密接に関係し合うのである。

 

 

 

 「姦淫」とは男が他人の妻と肉体的交渉を持つことである。既婚の男女が配偶者以外の異性と交わる行為である。

 

 

 

 主イエスは、姦淫を夫婦間のことに限定しないで、人の心の中における隣人間の姦淫にまで広げられた(マタイ5:28)

 

 

 

 ウ大教理も、その教えに従い、第七戒を夫婦間に限定しないで、隣人関係における霊的な潔さを保持するところまで高めている。

 

 

 

 それゆえ、ウ大教理は第七戒で求められる義務は、わたしたちの「体・精神()・感情・言葉・行動の純潔」を、自分自身と他人との間で保持することであると、定義している。ウ小教理は、さらに簡潔に「第七戒は、心と発言と行為において、わたしたち自身と隣人の純潔を守ることを求めています」と教えている。

 

 

 

 人間関係の純潔を、第七戒はわたしたちの義務として求めているのである。具体的には隣人との関係において、「身体・心・感情・言葉(会話)・行動の純潔」を保持することである。互いに体と心できよい関係を保ち、言葉(会話)と行動で隣人を傷つけないことである。

 

 

 

 隣人関係は、相手を見、その声を聞き、相手を感じることから始まる。ウ大教理は、わたしたちに目やすべての感覚に用心深くあるように求める。

 

 

 

 次の「節制」を求める。人間関係における浪費は、家庭生活・社会生活を崩壊させる罪であり、ウ大教理は節制を求める。「きよい交際を守ること」は、節制と関係する。人間関係において「浅はかな者は浅はかなことに愛着をもち、不遜な者は不遜であることを好み、愚かな者は知ることをいとう」と箴言は教える(箴言2:22)。そしてウ大教理は「きよい交際を守ること」と「服装の質素さ」が関係すると見ている。人生で浪費を好む者は、服装も流行を好み、派手になる。服装を派手にするのではなく、どこでも祈ることが人間関係をきよくすると、パウロは述べている(Ⅰテモテ2:89)

 

 

 

ウ大教理は、わたしたちに「禁欲の賜物のない人々の結婚」を求めている。使徒パウロは、禁欲の賜物のないキリスト者たちに淫らな行いを避けるために、妻と夫を持つように勧めている(Ⅰコリント7:2)。「夫婦愛」と「夫婦生活」も同じである。健全な家庭から、健全な社会が生まれる。命の恵みを共に受け継ぐ者として夫婦が尊敬し合い、共に祈ることで、神がその祈りを聞かれ、その家庭から社会が清められる(Ⅰペトロ3:7)

 

 

 

「自分の職分に忠実に働くこと」とは、神の召しを忠実に果たすことである。労働は、神の召しである。人が自分の職業を忠実になすならば、社会は健全になる。また、この世は罪の世である。いたるところに誘惑があり、不義の機会がある。ウ大教理はこの第七戒でそれを避けることが義務であると教える。

 

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答95      主の2016817

 

 

 

聖書箇所:出エジプト記第2014(旧約P126)

 

 

 

問139 第七戒で禁じられている罪は、何であるか。

 

答 第七戒で禁じられている罪は、求められている義務を無視することの外には、次の通りである。すなわち、姦淫・不品行・強姦・血族相姦・男色およびすべての不自然な欲情、すべての不潔な想像・思想・企て・感情、すべて汚れた卑わいな会話・またはそれに耳を傾けること・不合法な結婚を許可すること、娼婦を許可し黙認し蓄えること・また売娼すること、独身生活へのとらわれた誓願・不当な結婚延期、同時に多妻または多夫をもつこと、不正な離婚や配偶者遺棄、逸楽・暴食・泥酔・不貞な交際、みだらな歌・本・絵・踊り・演劇・その他自分自身や他人に汚れを挑発したり行なったりするすべてのことである。

 

                      

 

 今夜は、ウ大教理問答の問139と答を学びましょう。ウ大教理は問139と答で、第七戒で禁じられている罪とは何かを教えている。

 

 

 

この第七戒が求める義務は、隣人関係における霊的な潔さを保持することである。問139と答は、その義務を無視する以外の罪を列挙している。

 

 

 

 第1に心身における姦淫の罪である。「姦淫・不品行・強姦・近親相姦・同性愛、すべて自然にもとる欲情、すべてふしだらな想像・思い・企て・親密の情」である。神は、姦淫する者、不品行な者を裁かれる(ヘブライ13:4)。姦淫と不品行は、「肉の業」、すなわち、罪である(ガラテヤ5:19)。ダビデの長男アムノンは、妹のタマルを強姦し、近親相姦した(サムエル記下13:14)。その罪により彼は王位継承から外され、弟アブサロムに殺された。「同性愛とすべて自然にもとる欲情」は、神の創造の秩序を破壊する罪である(創世記1:272:24,ローマ1:242627,レビ20:1415)。「すべてのふしだらな想像・思い・企て・親密の情」は心の中で犯す姦淫である。主イエスは、情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫の罪を犯したと言われた(マタイ5:28)

 

 

 

 第2に言葉や振舞における姦淫の罪である。「すべて汚れた卑わいな会話、または、それに耳を傾けること、物欲しそうな目つき、たしなみを欠く軽薄な振る舞い、慎みにない服装」。卑わいな話、愚かなおしゃべり、下品な冗談、それに耳を傾けることは貪欲同様に罪である(エフェソ5:34)。「物欲しそうな目つき」とは「色目」であり、その目は邪淫に満ち、強欲に慣れ親しみ、神の呪の子となっている(イザヤ3:16,Ⅱペトロ2:14)。「たしなみを欠く軽薄な振る舞い、慎みのない服装」を、箴言は女が娼婦の身なりをし、男を街で待ち伏せしていると記している(箴言7:1013)

 

 

 

 第3に不法な姦淫の罪である。「合法的な結婚を禁じたり、合法的でない結婚を許したりすること、売春宿を許可したり、黙認したり、経営したりすること、またそこに通うこと」。宗教的異端が結婚を禁じる(Ⅰテモテ4:3)。「合法的でない結婚」で、ウ大教理が想定しているのは、異教徒とカトリック教徒との結婚と近親相姦(レビ記18)である。後者は今日でも「御法的でない」が、前者は「合法的」である。ウ大教理も時代の制約がある。「売春行為」は不法である。特に現代ではいろんな形態で売春行為がなされ、店が経営され、人々が利用している。戦後71年経ても、従軍慰安婦の問題は解決していない。旧日本陸軍と海軍は、兵士のために従軍慰安婦を徴用し、公の売春を経営していた。ウ大教理は、はっきりと従軍慰安婦が「合法的」でない罪と指摘する。

 

 

 

 第4に誓約による姦淫の罪である。「独身生活への抜き差しならない誓願、必要以上に結婚を延ばすこと」。ウ大教理が前提にしているのは、カトリックの司祭の独身の誓約である。結婚を不必要に延期することも罪である。

 

 

 

 第5に多妻、多夫は罪である(創世記2:24の一夫一婦制への違反)

 

 

 

 第6に不当な離婚は罪である。「不当な離婚や配偶者遺棄」。誓約違反以外の離婚、または配偶者を遺棄することは罪である。主イエスは非合法な結婚以外で、離婚する者は姦淫したと言われた(マタイ5:31)

 

 

 

 第7に隣人関係における汚れた不品行全般の罪である。「怠惰・暴食・酩酊・不貞な交際、扇情な歌・本・絵・踊り・舞台、その他、自分自身であれ、他の人々の場合であれ、みだらなことをそそのかしたり、そのようなことをさせたりするすべてのこと」。説明の必要はない。今のわたしたちの身近な問題である。

ただし芸術・文学の表現の自由と卑わいな表現・行為とに微妙な区別がある。

 

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答96      主の2016824

 

 

 

聖書箇所:出エジプト記第2015(旧約P126)

 

 

 

問140 第八戒は何であるか。

 

答 第八戒は「あなたは盗んではならない」である。

 

問141 第八戒で求められている義務は、何であるか。

 

答 第八戒で求められている義務は、次の通りである。すなわち、人と人との間の契約や取引きにおいての真実・忠実・正義、各人にその義務を果たすこと、正当な所有者から不法に手に入れた財産を賠償すること、自分の能力と他人の必要に応じて無償で与えまた貸すこと、この世の所有についての自己の判断・意志・感情に節度のあること、自分たちの性質の維持に必要かつ便利であり、またその状態に適切である事物を、獲得・保持・使用・処理するための慎重な注意と研究、合法的な職業とその勤勉さ、倹約、不要な訴訟や保証やその他同様の債務を避けること、自分同様他人の富と生活状態を獲得・保存・助長するために正しい合法的手段をつくして励むことである。

 

                      

 

 今夜は、ウ大教理問答の問140141と答を学びましょう。ウ大教理は問140と答は、第八戒の本文である。そして、問141142と答で、第八戒で求められている義務と禁じられている罪とを教えている。

 

 

 

第八戒は、所有権の尊厳である。神は人を創造された時、男と女に創造し、エデンの園に住まわせ、地を耕し、園を守るようにされた(創世記2:15)。生存権、所有権という基本的人権は、ここに起源があり、第八戒は「われわれは取る権利のないものを取ってはならない」(バークレー)という戒めである。

 

 

 

隣人関係において神が隣人に与えられた権利を守ることは重要である。神は、人に命を与えて生存権を保障し、人が命を守るために所有権を与えられた。

 

 

 

ウ大教理は、第八戒で求められている義務を次のように記している。(1)商取引と契約における真実・信義・公正が誰に対してもなされること。ダビデは「正しいことを行う人」「心には真実の言葉があり」(詩編15:2)、「悪事をしないという誓いを守る人」(詩編15:4)と述べている。

 

(2)隣人の正当な所有権を守ること。レビ記に隣人の所有物を横領・着服した場合、隣人に返して、償いをするように命じている(レビ記5:2124)。ザアカイは主イエスに隣人を欺いて得た物があれば、4倍にして償うと言いました(ルカ19:8)

 

 

 

(3)自分の能力と他の人たちの必要に応じて、惜しみなく援助し、施すこと。隣人に自分の能力に応じて施すこと。自分たちの所有は神が与えられたもので、神はわたしたちの所有で隣人の命を支えることを喜ばれる(ルカ6:3038)

 

 

 

(4)自分の財産を良く管理すること。わたしたちがこの世で得た財産を、自分の判断と意志と感情で節制し、よく管理すること。人は裸で生まれ、何も持たないで世を去る。この世の所有はすべて神の恵みである。神のものは神に、皇帝のものは皇帝に、である(ルカ20:25)

 

 

 

(5)生活を良く管理する。自分の健康を管理し、家族や親族をよく世話をし、活きている時も死ぬ時も、死んだ後も、自分の財産を良く管理する。遺言で神にお返しするもの、家族で分けるもの、公共のために寄付する物等を配慮しておく。

 

 

 

(6)合法的な職業に従事し、勤勉に働くこと。パウロは、合法的な職業を、「おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい」と言っている(Ⅰコリント7:20)。神が召された職業に従事し、勤勉に働くことである。

 

 

 

(7)倹約を勧める。無用な訴訟をしないこと。保証やそのたぐいの約束事を避けること。神から預かった所有物は浪費すべきものではなく、神の御前で清算すべきものである(マタイ25:1430)。所有物・財産は、神の預かりものであるから、それを保証の担保にして、失うことがないようにする。

 

 

 

(8)公共の福祉のために、自分の所有と隣人の所有を合法的な手段で増やす努力をすること。ウ大教理は、公共の福祉のために自分のものと隣人のものを公的手段で増やし維持していくことを、愛の行為と考えている(マタイ22:39)。ウ大教理は、第八戒を盗みという行為だけでなく、所有物の管理、公共の福祉まで視野を広げて、守るように勧めているのである。

 

 

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答97      主の2016831

 

 

 

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一第6111(新約P305306)

 

問142 第八戒で禁じられている罪は、何であるか。

 

答 第八戒で禁じられている罪は、求められている義務を無視することの外には、次の通りである。すなわち、窃盗・強奪・誘かい・盗品を受けること、詐欺行為・不正な度量衡・地境の移動・人と人との間の契約や信用問題上の不正や不忠実、しえたげ・ゆすり・高利・まいない・人いじめな訴訟・不正な土地取得とそのための住民追放、価格引上げのための必需品の買占め・不合法な職業・その他、隣人からその所有をとったり、与えなかったり、あるいは自分を富ませるためのすべての不正な罪深い方法、貪欲・この世の財産を過度に尊び愛すること、それを獲得・保持・使用する場合の不信仰な取り乱した思いわずらいや研究、他人の繁栄をねたむこと、怠慢・放とう・浪費的なとばく・わたしたちが自分自身の生活状態を不当にそこなうその他すべての方法、神がわたしたちに与えられた状態を正当に使用し慰めをえることについて自分を欺くことである。

 

                         

 

 今夜は、ウ大教理問答の問142と答を学びましょう。ウ大教理は問142と答は、第八戒で禁じられている罪について列挙し教えている。

 

 

 

 ウ大教理は、問141と答で学びました第八戒で求められている義務を行わないことは当然罪であると確信している。

 

 

 

 ウ大教理は、その他に次のような罪があると指摘する。すなわち、(1)「窃盗、強奪、誘拐、盗品収受」。(2)「詐欺行為、不正な度量衡、地境の移動、人と人との間の契約や信用問題において公正さを欠いたり、信義に背いたりすること」。(3)「抑圧、ゆすり、高利、賄賂、訴訟濫用、不法な土地の囲い込みと住民追放。(4)「価格釣り上げを狙った商品の買占め、非合法な職業、その他、すべて不正で罪にまみれたやり方で隣人からその所有物を取り上げたり、手元に留め置いたりすること、また同じやり方で自分自身を富ませること」。(5)「貪欲、この世のものを度を過ごして尊び、愛すること」。(6)「それを入手し、保有し、活用するにあたって、疑念に駆られ、気も狂わんばかりに思いわずらい、考えを巡らすこと」。(7)「他人の繁栄を妬むこと」。(8)「怠惰、浪費、身を持ち崩すに至る勝負事、自分自身の財産を不当に損なうに至るあらゆるやり方」。(9)「神が私たちに与えてくださるその財産を正しく用いて、これを享受することに本心を偽って背を向けること」(以上宮崎彌男訳)

 

 

 

(1)  は、「盗みを働くこと」(エフェソ:28)である。誘拐、盗品の売り買い、収集も罪である。(2)は詐欺行為である。「兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけない」(Ⅰテサロニケ4:6)。霊感商法、オレオレ詐欺等は罪である。(3)「抑圧」とは貧しい者、弱い者を苦しめることである(エゼキエル22:29)。「土地を囲い込み、住民を追放する」とは「地上げ」のことである。地上げ、ゆすり、サラ金、まいない、嫌がらせの訴訟で、弱い立場にある者を抑圧することは罪である。(4)商品の買占め、非合法な職業(売春、麻薬売買等)、不正に貧しい者や弱い者たちの所有を奪うこと、また、彼らに施しをしないこと。インサイダー取引等によって富を得ることは罪である。(5)貪欲は罪である。この世のものを過度に尊び、愛することは罪である。「金銭の欲は、すべての悪の根です」(Ⅰテモテ6:10)(6)日々の生活で思いわずらうことは罪である(マタイ6:25)(7)隣人の繁栄を妬むことは罪である。カインは弟アベルを神が祝されたので、妬んで殺した(創世記4)(8)怠惰な生活、浪費は罪である。神は人に労働を命じられた。そして、神は人に賜物と財産を委ねられた。勤勉に働かず、神から委ねられた賜物と財産を浪費することは罪である。(9)神に感謝し、神の栄光を現さないことは罪である。神は、わたしたちに良きものを与えてくださっている。だから、常に神からの賜物と財産に感謝し、貧しい者に施し、神からの慰めに満たされた生活をしなければ、罪である。

 

 

 

 NHKの朝の連続ドラマ「とと姉ちゃん」で、主人公が雑誌「あなたの暮らし」に家電の製品を自社で実験してその良し悪しを記事にしようと企画したが、ある家電会社の社長がその記事を出させないように妨害し、主人公たちを脅すという場面がありました。商品の品質や価値についての真実を消費者に伝えよとすることを妨害することも、ウ大教理は第八戒で禁じられている罪であると指摘している。

 

 

 

 ウ大教理の十戒を学ぶことで、わたしたちの現代社会がいかに罪という深い闇に覆われているかを知らされる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答98      主の201697

 

 

 

聖書箇所:出エジプト記第2016(旧約P126)

 

問143 第九戒は何であるか。

 

答 第九戒は「あなたの隣人について、偽証してはならない」である。

 

第144 第九戒で求められている義務は、何であるか。

 

答 第九戒で求められている義務は、次の通りである。すなわち、人と人との間の真実を、またわたしたち自身の名声と同様に隣人の名声を保持増進すること、真理のために立ち味方すること、裁判・正義・その他すべての事柄に関して、心から・誠実に・自由に・明白に・十分に真実を、そして真実のみを語ること、隣人を心広く尊敬すること、彼らの名声を愛し願い尊ぶこと、彼らの欠点を悲しみ包むこと、彼らの才能や長所を心から認めること、彼らの潔白を擁護すること、彼らに関する好評を受け入れるに早く、悪評を容認するのに遅いこと、陰口を言う者・へつらう者・中傷する者に水をさすこと、自分自身の名声を愛し大切にし、必要の場合にはそれを擁護すること、合法的な約束を守ること、すべて真実なこと・尊ぶべきこと・愛すべきこと・誉れあることを学び、実行することである。

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問143と問144と答を学びましょう。ウ大教理は問143と答で第九戒とは何かを問い、問144と答で、第九戒で求められている義務とは何かを教えている。

 

 

 

 第九戒は、ウ大教理が「人と人との間の真実」(144の答)と述べているように「共同体における真実と公正の尊重を保持する」戒めである。偽りの証言で、隣人に不利な証言をしてはならないと命令である。「偽証」の「偽り」とは「だまし取る」「頼みにならない」という意味である。「偽証」とあるように、「言葉」で偽ることに強調がある。「隣人」は仲間、友、同僚を意味する。自分に関係するすべての人である。法廷のみでなく、共同体の中で真実と正義を確立することを、この戒めは命じている。

 

 

 

 ウ大教理は、問144と答で、ウ大教理は第九戒で求められている義務を列挙する。「人と人との間の真実」とは、共同体における真実と正義を確立することである。預言者ゼカリヤは、共同体の中で真実を語り、平和をもたらす裁きをせよ」と主の御言葉を語っている。そこで義務として以下のことを挙げる。(1)わたしと隣人の名声を維持し、増進すること、(2)「裁判や司法に関すること」、すなわち、法廷と司法で真実と正義が守られること、(3)共同体の中で常に真実に立ち、真実の味方すること、すなわち、不正に虐げられた者を弁護すること、(4)天地神明に真実を、真実のみを語ること、(5)隣人に対して寛大な評価を下すこと、(6)隣人の名声を愛し、願い、喜ぶこと、また、隣人の欠点を悲しみ、包こと、(7)隣人の賜物や長所を率直に認め、彼らの潔白を擁護すること、(8)隣人に関する良い評判を受け入れるに早く、悪い評判を認めるに遅いこと、(9)人のうわさ話を振りまく者、へつらう者、中傷する者に水をさすこと、(10)自分自身の名声を重んじて、これを大切にし、必要とあれば、これを擁護すること、(11)合法的な約束を守ること、すなわち、「悪事をしないとの誓いを守る」こと(詩編15:4)(12)すべて真実なこと、気高いこと、愛すべきこと、評判の良いことに心を留め、実行すること。すなわち、共同体と教会の良き伝統を受け入れ、受け取り、それを生活の中で身に着けると共に、次の世代に伝えていかなければならない。具体的には美しい言葉、良いマナー、国民の良き気質等を受け入れ受け取り、そして自分の生活の中で実行し、次の世代へと伝えていくこと。

 

 

 

 ウ大教理は、第九戒を、法廷における真実と正義の確立に限定しないで、共同体全体に適用しているのである。

 

 

 

 箴言の1434節に「慈善は国を高め、罪は民の恥となる」とある。新改訳聖書とフランシスコ会訳聖書は、「慈善」を「正義」と訳して、「正義は国を高めるが、罪は民を貧しくする」(フランシスコ会訳聖書)と翻訳している。

 

 

 

 NHKのニュースで勇気を持って発言した女子高生を、彼女は貧しくはないとネットで匿名性の攻撃を受けた。その攻撃に国会議員も加わった。この国では絶対的貧しさと相対的貧しさの認識に欠けがあり、ネットで批判した匿名の者たちは彼女が絶対的な貧しさでないから、節約すれば好きなものを買えるのだから、貧しくはないと非難した。大学に行きたくてもいけないという相対的に貧しい立場の者がおり、実際にその女子高生は真実苦しんでいることを訴えたが、ネットの匿名者たちはその女子高生の声を受け入れ、速やかに彼女の苦しみに寄り添うことができなかった。教会はこの女子高生の良き隣人となれるのか。女子高生の真実の声を聞かないで、この国に正義があるのか。

 

 

 

 

ウェストミンスター大教理問答99      主の2016914

 

 

 

聖書箇所:出エジプト記第2016(旧約P126)

 

 

 

第145 第九戒で禁じられている罪は、何であるか。

 

答 第九戒で禁じられている罪は、次の通りである。すなわち、すべて、真理とわたしたち自身や隣人の名声を、特に公のさばきにおいて傷つけること、偽りの証拠を与えること、偽証させること、意識して悪い申し立てのために立ちまた弁じること、真理にいどみかかり抑圧すること、不正な宣告をくだすこと、悪を善・善を悪と呼ぶこと、悪人に義人のわざに対するのと同じように報いること、がん造、真理の隠蔽、正しい申し立てにおける不当な沈黙、不正行為がわたしたち自身からのけん責、または他の者への苦情、要求しているのに沈黙を守ること、場所柄をわきまえないでまたは悪い目的のために悪意からまたは悪い意味に曲げて、または真理や正義を害するために疑わしいあいまいな表現で、真理を語ること、偽り、中傷、陰口、名誉き損、告げ口、ひそひそ話、嘲笑、悪口、無分別で荒々しい偏頗な批評、意図・言葉・行動の誤解、へつらい、むなしい誇り、自分自身や他人について過大または過小に考えたり語ること、神の賜物や恵みを否定すること、比較的ささいな過誤を重くすること、率直な告白の求められている場合に罪を隠し・言訳し、軽くすること、弱点を不必要にあばくこと、偽りのうわさを立てること、悪い報道を受け入れて肩をもつこと、正しい弁護に耳をかさないこと、邸推、ひとの正当な信用をうらやんだり残念がること、それを傷つけようと努めたり願うこと、ひとの不名誉や弱みを喜ぶこと、冷笑的な軽蔑、他愛もない賞賛、合法的約束の破棄、ほまれあることを無視すること、悪名を招来するような事柄を実行すること、またはそれから身を避けないことまたはできるだけ他人をそれから防がないことである。

 

 

 

 

 

 今夜は、ウ大教理問答の問145と答を学びましょう。ウ大教理は問145と答において第九戒で禁じられている罪が何であるかを教えている。

 

 

 

 ウ大教理は、第九戒で禁じられている罪に関して、「真理(真実)ならびに自分自身と隣人の名声」を傷つけることを罪として取り上げています。

 

 

 

 特に(1)「公のさばき(裁判)の場合、(2)真理(真実)を語る場合,(3)教会裁判における場合に関して、第九戒で禁じられている罪を列挙している。

 

 

 

 (1)公の裁判で真理(真実)と自分自身と隣人の名声を傷つけることが、第九戒で罪として禁じられている。ウ大教理は不正な裁判を罪と断じている(レビ19:15)。裁判で偽りの証拠を挙げ、証人に偽証をさせ、故意に正義に反する申し立てのために出廷し、弁護し、真実を傷つけることは罪である。不当な判決、すなわち、善を悪とし、悪を善とすること、悪人を無罪にし、善人に悪人の罪をかぶせること、贋造、真実を隠ぺいすること、正当な訴えを無視すること、不法行為を公にすべきなのに、沈黙すること(知る権利を無視すること)

 

 

 

 (2)真理(真実)を語る場合。どんな場合、どんな時でも真理(真実)を語らないことは、第九戒で禁じられている罪である。ウ大教理は、その時、その場で間違った目的と悪意で、違った意味に捻じ曲げ、真理(真実)と正義を損なうことは罪であると告白する。国会で、首相が不明確に、聞く者に幾通りでも解釈できる答弁をすることは罪である。真理(真実)に反する答弁、偽証すること、中傷すること、陰口をささやき、人の名誉を汚すこと、噂話を拡散すること、内密の話をすること、隣人を嘲り、ののしること、性急で、厳しく、偏った非難をすること、意図・言葉・行動を曲解すること、へつらうこと、虚栄心をもって雄弁に語ること、自分自身と他人を過大視し、過小評価すること。隣人に与えられた神の賜物と恵みを否定すること。国会だけでなく、会社や教会の会議での罪。

 

 

 

 (3)教会裁判で自発的な告白が求められる場合。小会、中会で教会裁判がなされて、被告となった者が自発的告白を求められる場合に、第九戒で禁じられている罪を、ウ大教理は列挙する。自分の罪を隠し、弁明し、自分の罪を軽くすること。裁き手が被告の必要のない弱点を暴くこと、被告に対して偽りの噂を立てること、悪い評判を受け入れ、検証しないで支持すること、正当な弁明に耳を貸さないこと、邪推すること、隣人の信用を妬み、心憎く思うこと、隣人を失墜させようとすること、被告が受けた恥や不名誉を喜ぶこと、または、被告を冷笑し、軽蔑すること、偽りの賞賛をすること、合法的な約束の破棄とは、受洗、信仰告白、転入、加入式で誓約したことを破ることである。誉れあることを求めず、悪をなすこと、不品行を避けないこと、兄弟の罪を諌めないこと。