ウェストミンスター大教理問答142 主の2017年8月9日
聖書箇所:マタイによる福音書第6章9-13節(新約聖書P9)
問195 第六の祈願において、わたしたちは何を祈るのであるか。
答 「我らを試みに会わせず、悪より救いだしたまえ」という第六の祈願においては、最も賢く正しく恵み深い神が、さまざまなきよく正しい目的のために、わたしたちが試みによって攻め立てられ、惑わされ、一時は囚われの身に引き行かれるよう、物事を指図されるかもしれないこと、サタンと世と肉とが、わたしたちを強引に引き寄せ、わなに陥れようと身構えていること、またわたしたちが罪の許しの後でさえも、自分の腐敗と弱さと警戒不足のために試みられがちであり、進んでわが身を試みにさらそうとするだけでなく、自分自身ではそれらに対抗し、そこから立ち直り、それを利用することができもせず、欲しもしないで、むしろその力のもとに放置されるにふさわしいことを認めつつ、次のことを祈るのである。すなわち、神が世界とその中にある一切のものを支配し、肉を従わせ、サタンを抑圧し、万物を指図し、すべての恵みの手段を与えて祝福し、わたしたちを促してその使用に注意深くならせて下さり、その結果、わたしたちととが神のすべての民が、神の摂理によって、罪に誘われることから守られるようになること、あるいはたとえ誘われても、みたまによって、試みの時に強く支えられて立つことができるようにされ、あるいは倒された時には、再び起こされてそこから立ち直り、それをきよく用い利用することができるようになること、わたしたちのきよめと救いが完成され、サタンがわたしたちの足の下に踏みにじられ、わたしたちが罪と試みとすべての悪から、永遠に全く解放されるようになることである。
今夜は、ウ大教理問答の問195と答、すなわち、第6の祈願の「我らを試みに会わせず、悪より救い出したまえ」を学びましょう。
ウ大教理は、主の祈りの第6の祈願でも、まずわたしたちの罪と弱さの現状認識から始めています。現状認識は、3つある。
第1は、「最も賢く正しく恵み深い神が、さまざまなきよく正しい目的のために、わたしたちが試みによって攻め立てられ、惑わされ、一時は囚われの身に引き行かれるよう、物事を指図されるかもしれないこと」である。摂理の神は試みられます。有名なのはヨブである。神はご自身の清い目的でヨブを試みられた(ヨブ記1-2章)。ヒゼキヤを試みられた(歴代誌下32:33)。バビロンの諸侯がアッシリアに勝利した奇跡を調べるために使節を遣わした時、主はヒゼキヤを試み、彼の心の中を知り尽すために、彼を放置された。
第2は「サタンと世と肉とが、わたしたちを強引に引き寄せ、わなに陥れようと身構えていること」である。サタンがダビデにイスラエルの人口を数えるように誘惑した(歴代誌上21:1)。また、主イエスは、わたしたち人間の肉の弱さを指摘し、次のように警告された。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる」(ルカ21:34)。「この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉をふさいで実らない」(マルコ4:19)。
第3は、「わたしたちが罪の許しの後でさえも、自分の腐敗と弱さと警戒不足のために試みられがちであり、進んでわが身を試みにさらそうとするだけでなく、自分自身ではそれらに対抗し、そこから立ち直り、それを利用することができもせず、欲しもしないで、むしろその力のもとに放置されるにふさわしいこと」である。キリスト者はキリストの十字架の贖いにより罪を赦された後も、この世ではなおも罪人であり、罪の残滓(腐敗)があるゆえに罪の誘惑に対して積極的に罪に陥り、それに抵抗できず、その状態に放置された自分の悲惨な現実を、ウ大教理は認めているのである。たとえば使徒パウロは、その現状の苦しみを次のように告白している。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」(ローマ7:18)。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしをすくってくれるでしょうか。」(同7:24)。
ヨハネス・ヴォスは、神と悪の関係が聖書に明白に解明されていなくて、善なる神が創造された世界の中にどうして悪が存在するのか、有限な人間には理解できないが、幼児のような信仰と謙虚さをもって、神の試みを受け入れるようにと、記しているのである。キリスト者と言えども惨めで弱い自分なのである。この現実を認識しないで、第6の祈願を学ぶ意味はないのである。
ウェストミンスター大教理問答143 主の2017年8月16日
聖書箇所:マタイによる福音書第6章9-13節(新約聖書P9)
問195 第六の祈願において、わたしたちは何を祈るのであるか。
答 「我らを試みに会わせず、悪より救いだしたまえ」という第六の祈願においては、最も賢く正しく恵み深い神が、さまざまなきよく正しい目的のために、わたしたちが試みによって攻め立てられ、惑わされ、一時は囚われの身に引き行かれるよう、物事を指図されるかもしれないこと、サタンと世と肉とが、わたしたちを強引に引き寄せ、わなに陥れようと身構えていること、またわたしたちが罪の許しの後でさえも、自分の腐敗と弱さと警戒不足のために試みられがちであり、進んでわが身を試みにさらそうとするだけでなく、自分自身ではそれらに対抗し、そこから立ち直り、それを利用することができもせず、欲しもしないで、むしろその力のもとに放置されるにふさわしいことを認めつつ、次のことを祈るのである。すなわち、神が世界とその中にある一切のものを支配し、肉を従わせ、サタンを抑圧し、万物を指図し、すべての恵みの手段を与えて祝福し、わたしたちを促してその使用に注意深くならせて下さり、その結果、わたしたちととが神のすべての民が、神の摂理によって、罪に誘われることから守られるようになること、あるいはたとえ誘われても、みたまによって、試みの時に強く支えられて立つことができるようにされ、あるいは倒された時には、再び起こされてそこから立ち直り、それをきよく用い利用することができるようになること、わたしたちのきよめと救いが完成され、サタンがわたしたちの足の下に踏みにじられ、わたしたちが罪と試みとすべての悪から、永遠に全く解放されるようになることである。
今夜は、ウ大教理問答の問195と答の続きである。
前回は、主の祈りの第6の祈願を学ぶに当たって、まずわたしたちの罪と弱さの現状認識を、3つ学んだのである。
第1は、聖なる神の聖なる目的である試みに遭うことである。第2はサタン、この世、肉の誘惑に遭う時である。第3は、罪の残滓(腐敗)による試みである。
そこでウ大教理は、現状認識に基づき、次の二つの祈りを勧めている。
第1の祈りは、次の通りである。「神が世界とその中にある一切のものを支配し、肉を従わせ、サタンを抑圧し、万物を指図し、すべての恵みの手段を与えて祝福し、わたしたちを促してその使用に注意深くならせて下さり、その結果、わたしたちととが神のすべての民が、神の摂理によって、罪に誘われることから守られるようになること、あるいはたとえ誘われても、みたまによって、試みの時に強く支えられて立つことができるようにされ、あるいは倒された時には、再び起こされてそこから立ち直り、それをきよく用い利用することができるようになること」。
ウ大教理は摂理の神を信頼するように勧める。その例として主イエスが父なる神に信頼し、彼の弟子たちがこの世から取り去られるのではなく、悪い者から守られるようにと祈られたことを指摘する(ヨハネ17:15)。この世界は全能の神が創造し、摂理されている。その神の摂理に身を委ねることこそ一番の安全である。主イエスは聖霊を通して、キリスト者の内に住まわれ、彼を御自身に服従させ、罪から連れ戻し、サタンを抑制し、この世に起こるすべてのことを支配されている。また主はキリスト者に恵みの手段である御言葉と礼典と祈りを与えて、彼がそのすべてを用いてキリストの祝福を得るように奮い立たせてくださる。
その結果、次のような祝福をキリスト者は得るのである。すなわち、神の摂理により罪の誘惑から守られている。主イエスはペトロの弱さを知り、誘惑から立ち直れるようにと彼のために祈られた(ルカ22:32)。聖霊によってキリスト者は守られている。力強く聖霊は苦難にあるキリスト者を支えて下さる。誘惑からペトロのように立ち直らせてくださる。キリスト者の試みと誘惑を信仰の益に変えてくださる(Ⅰペトロ5:8-11)。
ウェストミンスター大教理問答144 主の2017年8月23日
聖書箇所:マタイによる福音書第6章9-13節(新約聖書P9)
問196 「主の祈り」の結びの言葉は、わたしたちに何を教えているか。
答 「国と力と栄とは、限りなく、なんじのものなればなり、アーメン」という「主の祈り」の結びの言葉は、わたしたちに次のことを教えている。すなわち、自分自身または他のどのような被造物のうちにあるどんな値打からでもなく、神からとられた論証をもって、わたしたちの祈願を強く主張すること、わたしたちの祈りに賛美を加えて神にのみ永遠の主権と全能と栄光ある卓越性とを帰することである。神はこれについて、わたしたちを助けることができるし、欲しておられるのであるから、わたしたちも信仰によって、神がわたしたちの要求をかなえて下さるようにと彼に願い、力づけられる。またかなえて下さるだろうと静かに彼により頼むのである。またわたしたちは、自分の願いと確信を証明するために「アーメン」と言う。
今夜で、ウ大教理問答の学びは終わる、問196と答を学んで。
問186より「主の祈り」を学んで来た。「主の祈り」は、わたしたちの祈りの義務の指針、模範である。ウ大教理は、わたしたちが祈りの義務を正しく果たすために、問189-196まで「主の祈り」を講解した。わたしたちが「主の祈り」を正しく理解し、信仰を深め、それによって敬虔な心を養い、そして、他の美徳を持って「主の祈り」を祈るようにと配慮している。「他の美徳」とは「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5:22)で、洗礼を受けたキリスト者に聖霊が結ばれる実である。それらに加えて「正義と勇気」という美徳を、ウ大教理は加えている。わたしたちの祈りの成長は、祈る者の信仰と品性の成長が伴わなければならないのである。
さて、「主の祈り」の結びの言葉は、主イエスが弟子たちに教えられた「主の祈り」にはない。初代教会で「主の祈り」が祈られる時に加えて祈られたのである。カトリック教会はその伝承を継承しないで、宗教改革者たちとプロテスタント教会が継承したのである。それは、主イエスの教え、すなわち、聖書の真理と一致しているからである。
さて、ウ大教理は、結びの言葉で次の2つのことを教えている。第1は、「自分自身または他のどのような被造物にあるどんな値打からでもなく、神からとられた論証をもって、わたしたちの祈願を強く主張すること」である。
聖書中のモーセ、ダビデ、ダニエル、主イエス・キリスト、パウロ、彼らは神に対して祈った、神の御言葉を根拠にして。ウ大教理は、祈りがわたしたちの思いでも、この世の価値からでもなく、神にのみ根拠を置き、神の御言葉である聖書に基づいて祈るべきであると教える。すなわち、わたしたちは神の愛と慈しみ、神の契約と約束、神の御業と尊厳に基づいて祈るのである。
第2は、「わたしたちの祈りに賛美を加えて神にのみ永遠の主権と全能と栄光ある卓越性とを帰すること」である。
祈りと神賛美はコインの裏表の関係である。切り離すと意味と価値が無くなる。たとえば旧約聖書の詩編は、まさに祈りと神賛美が一体となっている。そして、詩人たちは祈りと神賛美で神に栄光を帰しているのである。
ウ大教理の人間観は礼拝人間である。礼拝人間は神に創られ、神に贖われ、神の所有となった者である。だから神を祈り求め、同時に神賛美をする。
アウグスティヌスは、『告白』の中で「あなたがかりたてます。あなたを讃えることが 喜びであるように、それは、あなたがわたしたちを あなたに向けて創られたからです、そのためわたしたちの心は、あなたのうちに憩うまでは 安らぎをえません」(宮谷宣史訳)と告白している。
礼拝人間は、神に祈ることと神賛美とを切り離すことはないのである。
だから、ウ大教理は礼拝人間が「神にのみ永遠の主権と全能と栄光に輝く卓越性とを帰する賛美をわたしたちの祈りに加える」のであると教える。礼拝人間は、信仰によって全能の神の救いの確信を持ち、それゆえに静かに神に信頼し、自分の確信と信頼を「アーメン」という言葉によって証ししているのである。神への信頼のみが礼拝人間を信仰から信仰へと成長させるのである。
第2の祈りは、完全聖化と信仰の勝利、栄光化を祈ることである。キリスト者は、主イエス・キリストにあって信仰の勝利を信じるべきである。十字架と復活によってサタンと罪と死に勝利されたキリストは、キリスト者を完全にサタンと罪と死から解放される。すべての涙と労苦を解かれるのである。