ウェストミンスター大教理問答08       主の2014年11月12日

 聖書箇所:ヘブライ1:5(新約P401)、ヨハネ福音書1:14,18(新約163)、同15:26(新約P199)、Ⅱコリント13:13(新約P341)

問10 神の三人格の人格的固有性は何であるか。
答 子を生むことは、父に固有であり、父から生まれることは、子に固有であり、永遠から父と子から出ることは、聖霊に固有である。
問11 子と聖霊が、父と等しい神であることは、どのようにしてわかるか。
答 聖書が、神にのみ固有であるみ名、属性、みわざ、礼拝を、子と聖霊に帰して、彼らが父と等しい神であることを表している。

 今夜は、ウ大教理問答問10-11と答を学びましょう。問10と答は、父と子と聖霊の三人格の「人格的固有性」とは何かを問答し、問11と答は、「子」なる神と「聖霊」なる神が「父」なる神と同等の神であることを、何で理解しているかを問うています。

 ウ大教理は、ヘブライ人への手紙1章5節、6節、8節から「父は子を生む」という父なる神の固有性を導き出し、ヨハネによる福音書の1章14節と18節から「子は父から生まれたもう」という子なる神の固有性を導き出し、ヨハネによる福音書15章26節とガラテヤの信徒への手紙4章6節から「聖霊は父と子より出たもう」という聖霊なる神の固有性を導き出しています。

 「子を生む」という表現は、子なる神キリストが父なる神の被造物であるという意味ではありません。父と子との関係で子なる神キリストは、父なる神に「生み出された者」という意味です。ですから、父から生みだされた子は、父と同じ本質を持ち、父と同じく永遠の存在であるという意味です。父は「生む者」であり、子は「生まれ出た者」であり、そして聖霊は「永遠から父と子から出る(発出)する者」であり、それゆえ父と子と聖霊は同等の神であり、本質と栄光において同等であります。

 聖書は三位一体の神について語ります時、父、子、聖霊の順序で語ります。「父が子と聖霊を発出し、子と聖霊を通して働かれる」と語り、「御子は聖霊を遣わし、聖霊を通して働かれる」と語り、「御子が父を通して働かれる」とか、「聖霊が御子を派遣し、御子を通して働かれる」とは決して語りません。

 子なる神キリストと聖霊なる神が父なる神と等しい神であることを証言しているのは、聖書です。

 ウ大教理は、「神にのみ固有である」ものとして、「み名」属性」「みわざ」「礼拝」を挙げています。「み名」とは神の名です。「神の名」は神御自身です。預言者イザヤは、神の名を「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」(イザヤ6:3)と呼び、ウ大教理は、それを三位一体の思想と受け取り、父と子と聖霊は、み名において同等であると理解しています。神の「属性」とは、神が「無限、不変、真実、聖、義、愛」ですが、ウ大教理は「属性」を「神性」という意味で理解し、聖書が「創造以前、永遠から神と言(キリスト)は存在し」(ヨハネ1:1)、みどり子(キリスト)は神であり(イザヤ9:5)、「神の霊(聖霊)は、神のことを究め、神の霊以外、神のことを知る者はない」(Ⅰコリント2:11-12)と証言し、神性においては子も聖霊も父なる神と同等の神であることを証ししていることを論証しています。「みわざ」とは、神の創造と摂理、そして救済のことです。ウ大教理は、神の創造の御業を取り上げて、「父なる神」が天地を創造された時、「万物は御子において造られたからです。万物は御子によって、御子のために造られました」(コロサイ1:16)。その神の天地創造の時に「神の霊(聖霊)が水の面を動いていた」(創世記1:2)と聖霊も、天地創造の御業をなされていました。ウ大教理は、天地創造の神の御業は、父、子、聖霊の三位一体の神の働きであり、子と聖霊と、父とは、創造の働きで共に同じ神の働きをされていたことを、聖書の御言葉によって論証しています。「礼拝」とは、わたしたちの主の日の礼拝です。その礼拝で父子聖霊のみ名によって洗礼が行われ(マタイ28:19)、父と子と聖霊の名によって祝福の宣言がなされています(Ⅱコリント13:13)。礼拝においてわたしたちは、父なる神のみを神として礼拝してはいません。子も聖霊も、わたしたちは礼拝し、父同様に子と聖霊も同じように賛美しています。

 ウ大教理は、以上のように聖書自身が神に固有である「み名」「属性」「みわざ」「礼拝」において、父なる神と同じように子と聖霊に帰して、子と聖霊が父と等しい神であることを証言していると告白しています。

 ウ大教理は、問7-11と答を通して、わたしたちが「神はどのようなお方であるか」(問7)を知り、聖書が証しする三位一体の神を信頼するように導いています。ダビデが「主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む」(詩編9:11)と賛美するとおりです。

 

 

 ウェストミンスター大教理問答09       主の2014年11月19日

 聖書箇所:

問12 神の聖定とは、何であるか。
答 神の聖定とは、神のみ旨の計画の、賢く、自由な、きよい決定であり、それによって神は、永遠から、ご自身の栄光のために、なにごとよらず時間の中に起こってくるすべてのこと、特に、み使いと人間に関することを、不変に予定された。

 今夜はウ大教理問答問12と答を学びましょう。三位一体の神の御業を、問12-20と答で学びましょう。問7-11と答で、「神は、どのようなお方であるか」を学びました。三位一体の神の唯一性と父と子と聖霊の三人格とその人格的固有性を学びました。父と子と聖霊は、同等の神であり、力と栄光においても同等であることを学びました。

 ウ大教理は、神の御業を、「聖定(予定)」(問12-14)と「創造」(問15-17)と「摂理」(問18-20)に分けています。普通神の御業は2つに分けます。神の内の御業と外の御業です。神の内の御業とは、三位一体の神、父子聖霊の本質の御業と人格の御業のことです。本質の御業とは、唯一の神主としてのお働きです。人格の御業とは、父子聖霊の人格の固有のお働きです。また神の内の御業は、神の永遠の御業であり、神の聖定はその御業です。神の外の御業とは、時間の中における神のお働きです。それは創造と摂理です。

  ウ大教理は、神の聖定を、「神の永遠からの不変の神のみ旨の計画の決定」と定義しています。聖定は、三位一体の神、父子聖霊がご自身の外のことを永遠から計画し、決定されたことです。それを、神は「創造」と「摂理」の御業によって実行し、実現されます。

 「神のみ旨」とは、神の御意志ことです。三位一体の神、父子聖霊が互いに交わり相談し、御自身の外のことを御意志によって永遠から計画し、決定されました。

 当然神の聖定は、三位一体の神、父子聖霊の御性質によって計画し、決定されますから、既に学びましたように神は「不変」で、「聖」で、「知恵」あるお方ですから、御自身の意志による計画を、永遠から変わることのなく、賢く、自由な、そしてきよい決定をされます。

 使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙1章11節で「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました」と述べています。これが神の聖定です。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙11章33節で神の聖定を人間には究め難い「神の定め」「神の道」と述べています。

 続いてウ大教理は、神の聖定の目的を、「永遠から、ご自身の栄光のために、なにごとによらず時間内に起こるすべてのことを、特に人間と天使に関して不変に予定された」と記しています。

 神の聖定の目的は、三位一体の神の栄光のためです。神が人間をはじめすべての被造物に誉め称えられるためです。聖定の範囲は、「なにごとによらず時間の中に起こってくるすべてのこと」です。ヨハネス・ヴォスはこの問12の真理を、「神は創造された宇宙に対する全包括的な正確な計画をもっておられるという真理である」と述べています(『ウェストミンスター大教理問答書講解(上)』P56)。

 ウ大教理は、神の聖定を「賢く、自由な、きよい決定」と述べています。その意味は、神の聖定は、神の完全な知恵と全く調和しており、神は御自身以外のものに一切拘束されず、限定もされず、一点の罪の汚れもなく、神の完全な清さと全く調和して、御自身の計画を決定されたということです。ですから、神の聖定に偶然と神のきまぐれはありません。この世に起こるすべてのことに、神の愛が届かないことはありません。聖定は、運命でも宿命でもありません。そして神の聖定は変わることがありません。神の計画の決定は不変です、ですから、神が約束されたことは、必ず実現するのです。

 ウ大教理は、神の聖定の中で、特に「み使と人間に関することを、不変に予定された」と記しています。「不変に予定された」とは、「天使と人間に関することを、変わることのないものとして定めておられる」という意味です。詳しいことは、次回問13と答で学びましょう。



 ウェストミンスター大教理問答10       主の2014年11月26日

 聖書箇所:エフェソの信徒への手紙第1章4-12節

問13 神は、み使と人間について、特に何を聖定されたか。
答 神は、永遠不変の聖定によって、彼の全くの愛から、その栄光ある恵みがたたえられるため、定められた時に現わされるように、あるみ使を栄光に選び、またキリストにあって、ある人間を永遠の生命と、それへの手段に選ばれた。また、彼の主権的み力と、(それによってみ心のままに愛顧を施したり、差控えたりなさる)ご自身のみ旨の測り知れない計画に従って、その正義の栄光がたたえられるように、残りの者を見捨て、彼らの罪に対して加えられる恥と怒りにあらかじめ定められた。

問14 神は、どのようにその聖定を実行されるか。
答 神は、その誤ることのない予知と、ご自身のみ旨の自由で不変な計画に従い、創造と摂理のわざにおいて、その聖定を実行される。

 今夜はウ大教理問答問13と14と答を学びましょう。聖定は、特に「み使と人間については」、「予定」と呼ばれています。予定とは、「み使と人間」に関する神の聖定のことです。神は「あるみ使を栄光に選び」、「残りの者を見捨て」、「またキリストにあって、ある人間を永遠の生命と、それへの手段に選ばれ」、「残りの者を見捨て、彼らの罪に対して加えられる恥と怒りにあらかじめ定められた」のです。これが予定です。

 使徒パウロがテモテの手紙一5章21節で「選ばれた天使たち」と証言し、エフェソの信徒への手紙1章4節で「天地創造の前に、わたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」と証言し、神の「み使と人間に関する聖定」を証言しています。

 ウ大教理は、神の聖定(予定)の動機を、パウロの「わたしたちを愛して」という証言から「彼(神)の全くの愛」と教えています。また、目的を「その栄光ある恵みがたたえられるため」「神の正義の栄光がたたえられるように」と教えて、問12の答で「ご自身の栄光のために」と教えたことと重なります。パウロも、「キリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです」(エフェソ1:12)と証言しています。

 「み使と人間について」の聖定(予定)には、二つの大きな区別があります。キリストにあって永遠の生命に選ばれた者に関する予定が「選び」と呼ばれ、永遠の刑罰と恥に見捨てられた者に関する予定が「遺棄」と呼ばれます。予定とは、選びと遺棄の2重の予定です。

 問12の答でウ大教理は、「なにごとによらず時間の中に起こってくるすべてのこと、特に、み使と人間に関することを、不変に予定された」と教えているように、神の予定は、神が「あらかじめ定められた」神の主権的な自由で、永遠の意志決定です。

 ウ大教理が「キリストにあって、ある人間を永遠の生命と、それへの手段に選ばれた」と教えていますように、神は「永遠の命」と「永遠の滅び」という結論だけを定めたのではなく、「それへの手段」も定められたと教えています。

 使徒パウロは、ローマの信徒への手紙9章でヤコブの選びとエサウの遺棄を証言し、「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(マラキ1:2―3)という神の御言葉を引用し、神には不正はなく、「人の意志や努力ではなく、神の憐れみによる」(ローマ9:16)と証言しています。ヤコブは神を信じたから、神に選ばれたのではなく、神が選ばれたから、彼は神を信じました。エサウは不信仰であったので、神に見捨てられたのではなく、神に見捨てられたので、彼は不信仰者でした。

 ウ大教理は、問14と答で、神がどのように聖定を実行されるかを教えています。詳しくは、問15-20と答で学びます。「神は、その誤ることのない予知と、ご自身のみ旨の自由で不変な計画に従い、創造と摂理のわざにおいて、その聖定を実行される。」

 神の聖定は、永遠の神の意志決定であり、神ご自身の外の業でありますが、永遠の業であります。創造と摂理は、時間の中の神のみ業です。神の聖定は、全被造物と「み使と人間」についての神の永遠のご計画でありますので、創造と摂理のみ業との関係で言えば、必然の関係にあります。神は、「なにごとによらず時間の中に起こってくるすべてのことを不変に予定された」ので、神の誤ることのない予知とご自身の永遠のみ旨の自由で不変の計画に従い、時間の中でなされる神の創造と摂理のみ業において必然的に実行されるのです。

 

 ウェストミンスター大教理問答11       主の2014年12月3日

 聖書箇所:創世記第1章

問15 創造のわざとは何であるか。
答 創造のわざとは、神がはじめに、その力あるみ言葉によって、無から世界とその中にあるすべてのものを、ご自身のために、六日間に、すべてはなはだ良く造られたことである。

問16 神は、どのようにみ使いを創造されたのか。
答 神は、すべてのみ使いを、死ぬことなく、きよく、知識においてすぐれ、力において強い、霊として、神の命令を実行し、み名を賛美し、しかも変化しうるように、造られた。

 今夜はウ大教理問答問15-16と答を、神の創造の御業を学びましょう。

  ウ大教理は、問15と答で、聖書の御言葉から神の創造の御業とは何かを教えています。創世記第1章全体に神の創造の御業の叙述があります。「初めに、神は天地を創造された」(創世記1:1)。「神が仰せられる」と、世界は造られました。6日間で神の創造はなされました。創世記第1章は、神は創造されたすべてのものを見て「善しとされた」(創世記1:10、13、18、21、25、31)と証言し、神は万物を極めて善く創造されました(創世記1:31)。ですから、ヘブライ人への手紙11章3節は、「世界(万物)が神の言葉によって形づくられた」こと、「見えるものは、目に見えないものから出てきた」ことを証言しています。それゆえ、ウ大教理は、神が「その力あるみ言葉によって、無から世界とその中にあるすべてのものを」創造されたと告白しています。すなわち、全宇宙は、神の御言葉により無から創造されました。箴言16章4節は、「主はすべてのものを目的をもって造られた。悪者でさえ、災いの日のために造られた」と記しています。だからウ大教理は「ご自身のために」と告白します。神は目的をもって全宇宙を創造し、神の創造は極めて善いもので、悪は存在しませんでした。従って、ウ大教理は「すべてははなはだ良く造られたことである」と告白します。
 
  ウ大教理問答は問16と答で、神が天使を創造されたことを、聖書から証言します。神はすべてのみ使いを創造されました。コロサイの信徒への手紙の1章16節は、「王座の霊も主権の霊も、支配の霊も権威の霊も、すべてのものは御子のうちに造られた」と証言しています。主イエスは,復活した人が天使と同じであると証言し(マタイ22:30)、天使は死ぬことのないことを証言されています。「きよく」は「聖く」で、主イエスは「神の栄光に包まれた」と証言されています(マタイ25:31)。「知識においてすぐれ」とは、「み使いは善悪を見分けられ」(サムエル記下14:17)、御子の知られていることを知っています(マタイ24:36)。使徒パウロは、主イエスが力強い天使たちを従えて、再臨し、苦難の中にある彼とキリスト者たちを慰められると証言しています(Ⅱテサロニケ1:7)。天使は「力において強い霊」です。詩編104編4節に「風をご自分の使いとし」と記され、「風」は「霊」のたとえですから、神は天使を霊的存在として創造されました。天使を創造された目的を、ウ大教理は「神の命令を実行し、み名を賛美し」と告白しています。詩編103編20-21節で「主をたたえよ、み使いたちよ。その言葉を聞き、これを行う勇士らよ。主をたたえよ、すべての天軍よ、み旨を行う僕らよ。」と、天使たちを賛美しています。天使は主なる神を賛美し、主なる神のみ旨とみ言葉を実行するために造られました。天使も人間同様に「変化しうるように」造られました。ペトロの第二の手紙2章4節で「神は、罪を犯したみ使いたちを容赦なさらず闇の綱で縛って、地獄に引き渡し、裁きのために閉じ込められました。」と堕落した天使について、使徒ペトロが証言しています。

 ウ大教理が神の創造を何かと、定義します時、「神が永遠の聖定に従って、神を除いて世界(宇宙)とその中にある一切のものを、神の豊かなご栄光をあらわすために、ただ神のみ言葉のみ力によって無より六日間で造られたみ業です」と告白しているのです。

 神の永遠の聖定から神の創造のみ業へと告白するウ大教理は、神の創造のみ業を信仰によって、聖書のみ言葉に従って理解しています。

 「初めに」と「六日間で」、ウ大教理はこの神の二つの創造については沈黙しています。「神は、初めに天地を創造された」という、天地を無から存在せしめた神の創造のみ業(絶対創造)と「形がなかった地(被造物)」(創世記1:2)を、神が六日間の間でコスモスとして形を整え秩序づけるみ業(形成創造)とに分けることができます。創世記第1章全体は、そのように叙述しています。

 神の創造の教理で重要なことは、創造のみ業は神の独占的行為であったし、すべてのものは神から出たものであるということです(ローマ11:36)。