ヨハネによる福音書説教70 主の2018年3月18日
「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」
そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」
イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。
はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。
女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子どもが生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。
ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。
今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。
ヨハネによる福音書第16章16―24節
説教題:「聖霊の働き」
いよいよ次週より受難週が始まります。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に12章よりキリストの御受難を物語っています。
主イエスは過越祭の六日前にベタニアの村でマリアからナルドの香油を注がれ(12章3節)、その翌日にユダヤ人の王としてろばの子に乗り、エルサレムの都に入城されました(12章12-15節)。エルサレム神殿で主イエスはユダヤ人たちに教えられました。そこに過越祭に神殿に礼拝に来たギリシア人たちが主イエスにお会いしたいと訪ねて来ました(12章20節)。それから、13章より主イエスが12弟子たちの足を洗われ、過越祭の食事をされました。
その最後の晩餐において主イエスは12弟子たちにユダの裏切りを予告されました。そして裏切り者のユダは、そこから闇の中へと去りました。
その後主イエスは、残された11弟子たちに第一と第二のお別れ説教(13章31節―14章31節、15章1節―16章33節)をされました。
わたしたちは、第一と第二のお別れ説教で主イエスが11弟子たちにいろんなことを語られたそのお話を、これまで一つ一つ追いかけているように学んできました。そして、今朝の御言葉にたどり着きました。
さて、16節で主イエスは、11弟子たちにこう言われています。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」
今日、初めて教会に来られて、そして、今礼拝で主イエスのお言葉を聞かれた方は、まるで禅問答を聞いているという思いになられるのではないでしょうか。
実際に主イエスが語られる御言葉を聞いた11弟子たちは、そういう思いになりました。
17節と18節を御覧ください。
「そこで、弟子たちのある者は互いに言った。『「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」とか、「父のもとに行く」とか言っておられるのは、何のことだろう。』」「また、言った。『「しばらくすると」』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」
11弟子たちは主イエスのお言葉を反復しながら、互いに言いました。彼らの理性だけでは、主イエスが何を言われているのかが分からないと。
19節で主イエスは、11弟子たちの思いを汲み取られて、次のように言われています。
「イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。」
11弟子たちが主イエスのお言葉に戸惑ったことはあきらかです。だから、彼らは主に質問したかったのです。ところが、誰もその勇気はありません。だから、彼らは主が言われた言葉を反復しながら、互いに「先生はわたしたちに何を言われているのだろう」と話し合っていたのです。
ここで一つの事実が明らかになります。11弟子たちは、主イエスが彼らの目の前から居なくなられることなど想像もできなかったということです。
ところが主イエスは、数日後に十字架で死なれ、そして、復活し、父なる神のみもとに帰られることを知っておられるのです。
すでに主イエスは、不信仰なユダヤ人たちにこう予告されていました。
「そこで、イエスは言われた。『今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることができない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。』」(ヨハネ7:33-34)。
不信仰なユダヤ人たちは、主イエスのお言葉を聞いて、彼は外国にいる離散のユダヤ人たちのところでも行くのだろうと思いました。
ヨハネによる福音書にとって受難のキリストは父なる神のところに帰られる栄光のキリストです。そして、このお方だけが永遠の命をお持ちです。
だが、11弟子たちには、十字架のキリストは悲しみ以外のなにものでもありません。
なぜなら、主イエスが死んでしまえば、11弟子たちの人生は無となるからです。
わたしたちは想像する以外にありません。17-18節で11弟子たちは何を互いに言い合っていたのだろうか。彼らは主イエスのお言葉を反復しながら、こう話し合ったでしょう。もし先生が我々から居なくなられたら、自分たちが先生を信じて、今日まで弟子として従って来たことはどうなるのだろう。
そこで主イエスは、19節で彼らが互いに話し合っていたことを、「わたしが言ったことについて、論じ合っているのか」と理解してくださいました。
ここで主イエスが「論じ合っているのか」と言われたギリシア語は、「ゼーテオー」です。「求める」「探求する」という意味の言葉です。
主イエスは、11弟子たちが無理解であることを責めておられません。むしろ、彼らが言い合っていることを好意的に受け留めて、御自分の言葉を彼らが求めている、探求していると言ってくださいました。
だから、主イエスは、彼らが質問したがっていることに、20節で真実に答えられました。
「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」
ギリシア語の語順でそのまま訳すと、こうなります。「アーメン(まことに)、アーメン(まことに)、わたしはあなたがたに言う。泣き嘆くだろう、あなたがたは。しかし、世は喜ぶだろう。あなたがたは苦しむだろうが、あなたがたの苦しみは喜びになるだろう。」
主イエスは、11弟子たちにこれから起こることを真実なこと、確かなことして告げられました。
「泣き嘆く」は新共同訳聖書のように「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れる」ことです。葬儀で人が泣き哀悼していることを、主イエスは言われているのです。ユダヤ人たちは、葬儀のときに大声で泣き、大きな声で哀歌を歌いました。
十字架のキリストの死に11弟子たちは大声で泣き、哀歌を歌うだろう。反対に神に敵対するこの世、すなわち、不信仰なユダヤ人たちは、十字架のキリストの死を見て喜ぶだろう。
「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」
今朝の礼拝説教の題にしました。「苦しみが喜びになる」という題の方がより主イエスの思いに近いと思っています。
ギリシア語の「ルペーオー」「ルペー」を、口語訳聖書は「憂える」「憂い」と、新共同訳聖書と新改訳聖書は「悲しむ」「悲しみ」と訳しました。
だが、主イエスの21節のたとえとの整合性を考えると、「苦しむ」「苦しみ」が良いと、わたしは思います。
だから、新共同訳聖書は21節では「ルペー」を「苦しむものだ」と訳しています。
21節で主イエスは次のように11弟子たちの苦しみをたとえられました。
「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子どもが生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。」
この後に起こるであろうキリストの十字架の死は、11弟子たちに大きな苦しみを与えるでしょう。
主イエスは、その苦しみを女性が出産する時の陣痛の苦しみにたとえられました。
女性が出産することは陣痛を伴います。本当に大変なことであると思います。しかし、出産した子を抱く母親は愛する子がこの世に生まれてくれたことを感謝し、心からの喜びに満たされています。その喜びがあの激しい陣痛の苦しみを忘れさせるのです。
説教を準備します時に、いくつかの説教集を参考にします。
その中である牧師が次のように説教しています。「『あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。』これは大変有名な聖句です。ところが、この箇所は日本語に問題があるのではないかと思えます。というのは、ここで『変わる』という言葉が使われていますが、これはうっかりすると、信仰によるならばどんな悲しみも主によって喜びに変えられると読んでしまうかもしれません。でも、そうでしょうか。そんなに単純に信仰において、悲しみが喜びに変わってしまうのでしょうか」。
実は新共同訳聖書も新改訳聖書も「変わる」と訳しています。本田哲郎氏も「変わる」と訳しています。フランシス会訳聖書も同じです。だから、日本語に問題があると、その牧師は指摘するのです。
「変わる」のギリシア語は「ギノマイ」で、「なる」という意味です。主イエスは「苦しみが喜びになる」と言われました。
ヨハネによる福音書は、受難のキリスト、すなわち、十字架のキリストの死を、そしてそれに続くキリストの復活を、栄光と見ているのです。キリストが神の栄光を現わされたと見ているのです。
真の意味で11弟子たちの信仰は、主イエスが十字架の死によってその生涯を終えられたところから始まっているのです。
十字架のキリストの死という苦しみは、女性の陣痛の苦しみと同じです。女性は陣痛の苦しみの後にこの世に愛する一人の人間が生まれて、その喜びでそれまでの苦痛を覚えていないのです。すなわち、女性にとって出産の陣痛が愛する子が生まれることで喜びになっているのです。
同様に11弟子たちもキリストの十字架の死という苦しみが復活主イエスとの出会いで喜びになるのです。
だから、主イエスは11弟子たちに22節でこう言われました。
「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」
ギリシア語の語順通りに訳せば、こうなります。
「そして、あなたがたも、そのように今、だが、苦しみを持っている。しかし、再びわたしはあなたがたと会うであろう。そしてあなたがたの心は喜び、そしてあなたがたの喜びをだれもあなたがたから引き離すことはない。」
十字架のキリストの御前で11弟子たちは、今主を裏切った、見捨てたという苦しみを持っているのです。しかし、主イエスは復活によって再び11弟子たちと会うと約束されるのです。
そして、復活の主イエスは11弟子たちに永遠の命を与えられ、主イエスによって彼らの苦しみが喜びに創造されるのです。
この世における11弟子たちは自分たちの罪の苦しみを持つままで、復活の主が彼らに罪の赦しと永遠の命を与えられることで、彼らの心が喜びで満たされるのです。
信仰を与えられるという祝福された人生を、11弟子たちはこれから生きるのです。
それが、23-24節の主イエスが11弟子たちになさったお約束です。
「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。
今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
本当にうれしいことです。「その日」には、主イエスの復活の時には、もう11弟子たちは主イエスに質問することはありません。彼らには主の祝福があるのみです。
それは、主イエスの御名によって祈り願うことを、父なる神はすべて聞き届けてくださるのです。
復活の主イエスが11弟子たちの持つ苦しみの中に喜びを創造してくださり、それを聖霊が継続してくださるので、この世のキリスト者は苦しみを持ちつつ、罪の赦しと信仰を与えられ、心に喜びを産み出していただけるのです。
そしてその喜びを、11弟子たちから、そして、わたしたちキリスト者から引き離せるものはこの世には誰もいません。
この教会で復活の主イエスに出会った喜び、聖霊と御言葉を通して復活の主イエスに今、わたしたちは罪を赦され、神の子としていただいているという喜びを、わたしたちの心に生み出していただいています。
わたしたちのこの世の現実は、罪の苦しみ、この世での失敗の苦しみを持つものでしょう。しかし、復活の主イエスは、日曜日ごとに礼拝でわたしたちと会ってくださり、わたしたちの心に罪赦され、神に愛されて子とされた喜びで、わたしたちの心を満たしてくださいます。
そして、わたしたちキリスト者の人生は、この世にあって途上の人生、未完成の人生です。だからこそわたしたちは、主イエスの御名によって祈るのです。
「み名をあがめさせたまえ、み国を来たらせたまえ、天に成るごとく地にも成させたまえ」と。
主の祈りを祈るのです。その時に神に敵するこの世でわたしたちは、苦しみを持ち生きるのですが、その中にあってもわたしたちの心に復活の主が聖霊と御言葉を通して喜びを創造してくださるのです。
神が祝福された人生を創造し、そして永遠の御国へとわたしたちを引き上げてくださるのです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今わたしたちはレントの季節を過ごしています。日々受難のキリストを瞑想しています。
今朝も受難のキリストが最後の晩餐において11弟子たちに第二お別れ説教をなさったことを学ぶことができて感謝します。
受難のキリストが十字架に死に、この世を去られることこそ、キリストの栄光の始まりであり、わたしたちの信仰の始まりであることを学ぶことができて感謝します。
また復活の主が11弟子たちに再び会い、そして彼らに聖霊を遣わされて、ご自身のこの世における救いの働きを継続してくださっていることを感謝します。
わたしたちも11弟子たちと同じように、この世において罪という苦しみを持つ者であります。しかし、それを持ち、この礼拝に来て、今朝も聖霊と御言葉を通して復活の主イエスに出会い、主の御言葉をお聞きし、主イエスが今も11弟子たちと同様にわたしたちに語られ、わたしたちの罪を赦してくださり、神の子としてくださり、永遠の命の喜びを、わたしたちの心に満ちあふれさせてくださることを感謝します。
どうか、主イエスよ、11弟子たちと同様にわたしたちにも真実を言ってくださり、わたしたちが父なる神の祝福を歩めるようにしてください。
今朝の主イエスの御言葉に励まされ、この一週間を過ごさせてください。どうか苦しみを持つゆえに信仰につまずくことなく、むしろ、その苦しみを主がわたしたちの心の中で喜びとしてくださると信じて歩ませてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨハネによる福音書説教71 主の2018年4月8日
「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日にはあなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」
弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話になり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。
主イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。
これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
ヨハネによる福音書第16章25―33節
説教題:「しかし、勇気を出しなさい」
今朝の御言葉で、主イエスのお別れの説教は終わります。
主イエスは、11弟子たちと最後の晩餐の食事をされ、そこで彼らにお別れの説教(第1と第2)をなさいました。
16章25節で、主イエスが11弟子たちに「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。」と言われていますね。主イエスは、11弟子たちに語られたお別れ説教を一つの「比喩」として総括されているのです。
「話してきた」は、「わたしは語って来た」という現在完了です。主イエスは、11弟子たちにお別れ説教をこれまで継続して語って来られました。
既に主イエスは、ファリサイ派の人々にこの福音書の10章で比喩を用いて御自身が何ものであるかをお話しになっています。
そしてヨハネによる福音書は、10章6節で、それに対するファリサイ派の人々の反応を次のように記しています。
「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった」。
ファリサイ派の人々は旧約聖書の専門家です。しかし、彼らは主イエスが比喩で話されたので、主イエスが何ものかを理解できませんでした。
主イエスは彼らに言われました。「わたしは羊の門である」「わたしは良き羊飼いである」と。
ここでも主イエスは11弟子たちに比喩で語られたので、彼らは理解できないと思われたのでしょう。
だから、主イエスは彼らに25節後半で、こう言われています。「もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」と。
その時は、ペンテコステの日に実現しました。26節の「その日」は、ペンテコステの日です。
聖霊降臨の日に、父なる神と主イエスが聖霊をこの世に遣わされた日に、主イエスが彼らに約束された「もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来」ました。
だから、その聖霊に導かれてヨハネによる福音書は、主イエスが比喩を用いずに語られた神について証言しています。
この福音書を通してわたしたち読者は、はっきりと神は主イエスの父であり、主イエスは父なる神の独り子であることを知らされています。そして、父なる神が御子主イエスをこの世に遣わされ、主イエスが聖霊をこの世に遣わされたことを知らされています。
ペンテコステの日以後、教会とキリスト者たちは主イエスが26-28節で言われていることを、そのまま聖書を通して、ヨハネによる福音書を通して実体験しているのです。
わたしたちの祈りはどうですか。実際に主の御名によって父なる神に祈願していませんか。
その祈りの時に、主イエスは、わたしたちに「わたしがあなたがたのために父に願ってあげる」と言われるでしょうか。
その必要はありません。なぜなら、聖霊がわたし心にキリストの執り成しを確信させてくださっているからです。
また、神の愛はどうですか。これも、ペンテコステの日以来聖霊が教会とキリスト者たちに、父なる神の愛を、御子キリストの十字架を通して知らせてくださっていますね。
聖霊がわたしたちに信仰をお与えくださり、主イエスが父なる神から出て、この世に遣わされ、わたしたち罪人のために十字架の道を歩まれたことを信じさせてくださっています。だから、わたしたちは、ヨハネによる福音書がわたしたちに証言する「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(3章16節)という福音を信じているのです。
だから、ヨハネによる福音書が29-30節で、主イエスの御言葉に対して11弟子たちの信仰を応答させていますが、この11弟子たちの応答は初代教会のキリスト者たちの信仰が反映していると思います。
「弟子たちは言った。『今は、はっきりとお話になり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。』」
主イエスと11弟子たちの会話は、まるで信仰問答ですよね。
11弟子たちは信仰によって、主イエスに答えるのです。「あなたは少しも比喩を用いないで、はっきりと言ってくださった。だから、わたしたちはあなたがすべてをご存じで、もうあなたに尋ねる必要がないことが分かりました。これによって、あなたが父なる神のもとから来られたことを、わたしたちは信じております」と。
11弟子たちの信仰は初代教会のキリスト者たちの信仰です。そして、わたしたちの信仰でもあります。
ところが、主イエスは11弟子たちの信仰告白に対して31節で次のように答えられます。「主イエスはお答えになった。『今ようやく、信じるようになったのか。』」
ギリシア語新約聖書はネストレ版を底本としています。31節は、ネストレ版では疑問符を補っているのです。だから、わたしたちの日本語の聖書も、31節の主イエスのお言葉を疑問文で翻訳しているのです。
しかし、宗教改革者ルターは31節を平叙文で訳しています。彼はこう訳しています。「イエスは彼らに答えた。『今、あなたがたは信じている。』」
疑問文で訳すか、平叙文で訳すか。?(はてな)一つの問題ですが、読者であるわたしたちが受ける印象は随分と異なるのではないでしょうか。
わたしは、31節の主イエスの御言葉を聞いて、11弟子たちが主に叱責されているように聞こえます。
だが、ルターのように平叙文で、主イエスの御言葉を読みますと、むしろ、主イエスは彼らを誉めて、「今あなたがたはわたしを正しく信じているのです」と言われているように聞こえてきます。
この31節の御言葉を読まれて、あなたがたはどちらが良いと思われますか。
わたしは、主イエスは11弟子たちの信仰を、そして、復活の主イエスは初代教会のキリスト者の信仰を誉められたと思います。また、わたしたちの信仰を誉めて下さっていると思います。
だからこそ、主イエスは、11弟子たちの信仰がなくならないように、32節以下で御自身の御受難を予告され、彼らに迫る苦難を思われて、彼らを励まされたのです。
「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。」
主イエスが予告される日が来れば、11弟子たちはそれぞれバラバラに自分たちの家、故郷に帰って行きます。
彼らは主イエスを見捨てるのです。
だから、彼らは主イエスをひとりきりするのです。
しかし、主イエスは、御自分はひとりではないと言われます。これから主イエスは十字架の道を、御受難の道を歩まれます。だが、その道は孤独な道ではありません。なぜなら、主イエスと共に父なる神がいてくださるからです。
主イエスは、ゴルゴタへと十字架の道を歩まれます。ユダの裏切りで、ユダヤの指導者たちに捕らえられ、裁判にかけられ、そしてピラトの裁判で死刑の判決を受けて、ゴルゴタの処刑場へと歩まれます。それは孤独な道ではありません。受難の主イエスと共に父なる神がいてくださるからです。
どうして主イエスは11弟子たちにこんな予告をするのか、主イエスは33節で次のように言われています。
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
受難の主イエス御自身が11弟子たちに平和を得させることになると約束されています。
受難の主イエスの十字架によって11弟子たちは、彼らの罪を赦され、父なる神と平和を得ることになります。
それだけでありません。主イエスは、御自身と同じように11弟子たちもこの世で苦難に遭うと予告されています。
使徒パウロは言っています。「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」(使徒言行録14:22)。
主イエスは11弟子たちに「あなたがたには世で苦難がある」と予告されるだけでなく、逃れの道を用意されました。
神の御国に入るまで、この世で11弟子たち、初代教会のキリスト者たちはこの世で苦しみの連続であるわけです。そして、彼らの肉体は弱いのです。
だから、彼らは、受難の主イエスを捨てて、逃げました。
しかし、主イエスは彼らに約束されました。苦難の中にある彼らと共にいると。
だから、主イエスは11弟子たちを次のように励まされました。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
主イエスはこの世に勝利されているのです。受難の主イエス、十字架の主イエスは、ヨハネによる福音書にとっては栄光の主です。
世の勝利者、栄光の主イエス・キリストが御受難の時に、父なる神が共にいてくださったように、苦難の中にある11弟子たちと共にいてくださるのです。そして彼らの信仰がなくならないようにお守りくださいます。
だから、主イエスは、彼らに勇気を出しなさいと励まされたのです。
今、世に勝利された主イエスは、わたしたちと共にいてくださいます。初代教会のキリスト者たちがローマ皇帝の迫害の中で苦しんだ時、彼らが地下の墓地で礼拝する中に復活の主イエスは共にいて下さり、初代教会のキリスト者の信仰がなくならないように守ってくださいました。
そして、復活の主イエスは11弟子たちと同じように、「彼らに勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と励ましてくださいました。
今も一緒です。復活の主イエスはわたしたちを70年間守ってくださいました。教会の信仰がなくならないように、そして、わたしたちの信仰がなくならないように、毎週欠かすことなく主の日の礼拝を行い、聖霊を通してわたしたちに主イエスは語り続けてくださいました。そして、わたしたちが聖餐の恵みに欠かさずにあずかることができるようにしてくださったのです。
だから、わたしたちも常に聞いているのです。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と。
この世で生きるキリスト者は11弟子たちのように、この世の苦難を避けることはできません。しかし、受難の主イエスが孤独でなかったように、わたしたちも孤独でありません。「しかし、勇気を出しなさい」と励してくださる復活の主イエスが共にいてくださるからです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今わたしたちは復活の主イエス・キリストの臨在の下、御言葉と聖餐の恵みにあずかることができて感謝します。
今朝も受難のキリストが最後の晩餐において11弟子たちに第二お別れ説教をなさったことを学ぶことができて感謝します。
受難のキリストは孤独に十字架の道を歩まれたのではなく、父なる神と共に歩まれたことを学びました。そして、死に打ち勝ち、復活された主イエス・キリストはこの世の苦難の中にいるわたしたちと共に歩んでくださっていることを学びました。
どうか復活の主イエス・キリストの励ましにより、勇気を出して、キリストと共にこの世の苦難を歩ませてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨハネによる福音書説教72 主の2018年4月15日
イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。わたしは、行なうようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。」
ヨハネによる福音書第17章1-8節
説教題:「キリストの栄光の時」
本日よりヨハネによる福音書17章の主イエスの最後の祈りを数回に分けて、説教します。
ヨハネによる福音書は、この世を去り行く主イエスが、父なる神に最後の祈りをされたことを記しています。
十字架の主イエスを、栄光の主として描くために、主イエスが父なる神に御自身がお持ちになっていた栄光を請い求められたことを記しています。
1節で主イエスは「父よ、時が来ました。」と祈り始められました。今、主イエスは、父なる神が定められた時、すなわち、御自身が十字架で死に、復活をし、父なる神のみもとに帰られる時が来たことを悟られました。
だから、主イエスは、父なる神に「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」と祈られました。
「栄光」という言葉は、聖書の中では次のように用いられています。旧約聖書においてはほとんど神について用いられています。神の栄光は、神の御業と顕現、臨在を通して現わされています。たとえば、出エジプトの事件です。神の民は出エジプトの事件を通して神の栄光を見ました。そして、シナイ山で主なる神が顕現された時にも神の栄光を見ました。
新約聖書においては、神の栄光は主イエス・キリストと結びついて現わされています。たとえば、ヨハネによる福音書は1章14節で、「わたしたちはその栄光を見た」と証言し、「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた」と証言しています。
特に主イエスの十字架と復活を通して神の栄光が現わされたことを、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に証ししています。それを、一言で表現すれば、救いであり、永遠の命です。
だから、主イエスは、2節で次のように祈られています。
「あなたはすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。」
主イエスが父なる神から与えられた「すべての人を支配する権能」は、政治的な権威ではありません。むしろ、人を救う御力です。父なる神がこの世から選び出して、御自身のものとされた者たちすべてに、主イエスは永遠の命を与えることがおできになります。
ヨハネによる福音書が記します「、永遠の命」は、主イエスの救いのことです。
ヨハネによる福音書は、次のように3節で永遠の命を定義しています。
「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」
主イエスの祈りの御言葉は、ヨハネによる福音書の時代が反映しています。
異邦人伝道が前提にあるのです。
11弟子たちよりも異邦人たちであるわたしたち読者に、ヨハネによる福音書は永遠の命、すなわち、救いを、神と主イエス・キリストを知ることと定義しているのです。
ヨハネによる福音書は異邦人たちに、主イエスの祈りを通して、聖書の神は唯一のまことの神であり、主イエス・キリストは神から遣わされた父なる神の子なる神であることを教えているのです。
そして、子なる神主イエスは、ヨハネによる福音書を通して、わたしたちに語り掛けて来られます。
あなたたちは、父なる神によってこの世から選び出されて、この教会に召し集められたのです。そして、毎週の主の日の礼拝説教を通して聖書の神が唯一の生ける真の神であり、その神から主イエス・キリストはこの世に遣わされた子なる神であることを知らされたのです。
そして、あなたたちは十字架の主イエス・キリストを神の子と信じることで、救われて、永遠の命を得、神の子とされるのです。
これがヨハネによる福音書を通して、主イエスがわたしたちに提供されている福音であり、救いです。
だから、主イエスは、17章4節で次のように祈られたのです。
「わたしは、行なうようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」
これは、19章30節の御言葉を先取りしています。十字架の主イエスが「『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」のです。
ヨハネによる福音書は、それを振り返りつつ主イエスの最後の祈りを記しているのです。
ヨハネによる福音書で父なる神に最後の祈りをされている主イエスは、初代教会の礼拝に臨在される主イエスです。
わたしたちの目には見えませんが、今、ここに、この礼拝に聖霊と御言葉を通して、信仰によって臨在される主イエスです。
主イエスは、5節で次のように言われています。
「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」
わたしたちの礼拝に臨在される主イエスは、天地創造の前に御自身が永遠の栄光をお持ちになっていた神であられます。
だから、主イエスは、今わたしたちに永遠の命をお与えくださるお方なのです。
そして、今ここで礼拝しているわたしたちを、ヨハネによる福音書は主イエスの祈りの口を通して、6-8節でこう言うのです。
「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。」
今、この礼拝に現臨される主イエス・キリストにとって、わたしたちは父なる神がこの世から選んで御子主イエス・キリストの賜わった人々なのです。
今主イエスがわたしたちに言っていくださっていることは、こうです。わたしたちが今あずかっている礼拝は父なる神と子なる主イエス・キリストとの永遠の命の交わりにあずかることであると。
そして、主イエスは、わたしたちに礼拝ごとに御自身の御名を現わされるのです。すなわち、わたしたちは、主イエスの御救いにあずかっているのです。
救いとは、わたしたちが神の所有となることです。神はキリストの十字架によりわたしたちを贖ってくださいました。神御自身のものとしてくださいました。そして、今神はわたしたちをキリストの所有としてくださったのです。
この喜びを、礼拝の説教を通して現臨の主イエス・キリストが毎週わたしたちに告げられているのです。その御言葉を、わたしたちは聴いて、この一週間の生活の中で守って生きていくのです。
こうして、この世でどんな苦難があろうとも、悲しみに心が押しつぶされようとも、わたしたちは神のものであり、キリストのものであるのです。
父なる神が御子主イエス・キリストに伝えられた御言葉を、現臨の主イエス・キリストが礼拝の説教を通してわたしたちに伝えられ、説教を聴きますわたしたちがその言葉を受け入れて、本当に神の子とされたわたしたちは主イエス・キリストが父なる神に遣わされた御子なる神であると信じるのです。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に臨在の主イエスがお告げになるこの信仰にこそわたしたちの確かな救いがあるのだと証ししているのです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今朝よりわたしたちは主イエス・キリストの最後の祈りを学びます。
キリストの最後の祈りを通して、父なる神が一方的な恵みによってわたしたちをこの世から選び、この礼拝にあずからせてくださったこと知りました。心より感謝します。
目には見えませんが、臨在の主イエスは、聖霊と御言葉を通して、今ここにいてくださることを感謝します。
わたしたちは、礼拝で説教を聴き続けることを通して、唯一のまことの神と神が遣わされる主イエス・キリストを知り、永遠の命の恵みにあずかっていることを本当に感謝します。
また、わたしたちは肉なる者に過ぎません。罪を犯し、失敗をし、日常生活において数々の試練があります。
しかし、主イエスはわたしたちの弱さを受け入れてくださり、わたしたちが主と共に生きることをお守りくださると約束してくださいました。
どうか、主の日の礼拝ごとにわたしたちが主イエスとの永遠の命の交わりに生きる喜びを見させてください。
主イエスの祈りに支えられて、この世の艱難に耐え、御国へと歩ませてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨハネによる福音書説教73 主の2018年4月29日
彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。
ヨハネによる福音書第17章9-19節
説教題:「使命への聖別」
主イエスは11弟子たちとの最後の晩餐の終わりに、父なる神に最後の祈りをされました。
「大祭司の祈り」と呼ばれている執り成しの祈りです。
主イエスは十字架を目前にして、この世を去る時が来たことをお悟りになり、父なる神にキリストの教会のために執り成しの祈りをされました。
だから、9-11節で主イエスは、次のように父なる神に執り成しの祈りをされています。
「彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」
主イエスは父なる神にこの世のためではなく、父なる神が主イエス・キリストにあってお選びになった人々、すなわち、キリストの教会のために執り成しの祈りをされています。
主イエスのこの執り成しの祈りの根拠は、次の主イエスのお言葉です。「わたしに与えてくださった人々」、「彼らはあなたのものだからです。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです」(9-10節)。
父なる神と子なる神である主イエスの思いは一つです。この世で父なる神と御自身が所有する者たちを守ることです。
ヨハネによる福音書は、主イエスの祈りのお言葉を初代教会の小さな群れに、家の教会と呼ばれるような数名のキリスト者たちの集まりに伝えたかったのです。「あなたがたは、父なる神が主イエスによって選び出された一人一人なのです」と。
教会にはいろんな方々が集められます。千差万別という言葉がありますね。この世で一人一人は、千差万別、それぞれ生き方が違い、環境も社会的地位も違います。しかし、ヨハネによる福音書は、主イエスのお言葉を通して、教会に集まる者たちは「世から選び出してわたしに与えてくださった人々」であると証言しています。
主イエスは、この世から今も一人一人を選び出されて、今わたしたちが礼拝している教会へと招いてくださっています。
教会の玄関先まで来た者であっても、主イエスはその者を今日、礼拝へとお招きくださったのです。この世で父なる神が主イエスにおいてお選びにならない限り、だれ一人、教会に来る者はいませんし、教会と関わる者はいないのです。
だから、ヨハネによる福音書は、今朝の主イエスの御言葉を通して、わたしたちに次のことを証言しています。この世でわたしたち一人一人は、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)と言われる主イエスによって、この世から選ばれ、そして、今永遠の命に関わる者とされていると。
だから、この世における教会は、その大小に関わらず集められる者たちに永遠の命の希望が与えられているのです。
この喜びを、この世の人々に伝えることが教会のこの世における使命でしょう。
主イエスは、今この世を去られます。「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。」(11節)。
だから、主イエスは、この世に残される弟子たち、すなわち、教会のために祈られます。残された弟子たちと教会をお守りくださいと。
11節と12節に「わたしに与えてくださった御名」と、主イエスは言われています。神の御名のことです。それは、神御自身のことです。だから、主イエスは、御自身を主と礼拝する教会を神御自身が守ってくださいと執り成しの祈りをされています。
12節で主御自身が11弟子たちと一緒におられた時、主イエスは父なる神がお与えくださった御力で彼らを守り、保護したと言われています。
だから、裏切り者のユダ以外、他に失われる者はいませんでした。旧約聖書の預言が実現したのです。詩編41編10節です。「わたしの信頼していた仲間 わたしのパンを食べる者が 威張ってわたしを足げにします」。
この詩編は、ダビデが親友で、彼の顧問官であったアヒトペルに裏切られたことを歌っています。そして、主イエスは、最後の晩餐の席でこの詩編の御言葉をユダに当てはめられました。
それから、主イエスは、この世に残される11弟子たち、そして後の初代教会や今のわたしたちの教会に次のように約束してくださいました。13節です。「世にいる間、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」
主イエスがこの地上で語られたことは、主イエスの喜びが11弟子たち、それから初代教会のキリスト者たちや今のわたしたちの心に満ちあふれて、この世に福音を伝えることになるのです。
主イエスは、父なる神のみもとに帰られましたが、今もこの世にいる間、聖霊を通して主エスは、わたしたちに語られています。それが礼拝説教です。それを通して主イエスの喜びが聞くわたしたちの心に満ちあふれるのです。
しかし、主イエスは、この世に残される弟子たちや教会の苦難も告げられています。その原因は、主イエスと同様に、教会とキリスト者たちはこの世に属していないからです。
ニューイングルシュバイブルが14節を、次のように英語で訳しています。日本語に訳すと、次のようになります。「わたしはあなたの言葉を伝えて来た。そして世は彼らを憎んだ。なぜなら、彼らは私のようにこの世におけるストレンジャーたちであるから。」
ストレンジャーは悪い意味では得体の知れない人と訳せるでしょうか。
世にとっては、主イエスもキリスト者たちも世の知らない人であり、恐怖を抱き、迫害するのでしょう。
そこで主イエスは父なる神にこの世にある教会とキリスト者たちのために執り成しの祈りをしてくださいました。
その執り成しとは、15節で主イエスが言われていますように、御自身と共に教会とキリスト者たちをこの世から取り去ることではありません。むしろ、主イエスがこの世に残す弟子たち、教会を、悪い者から守ることです。
ヨハネによる福音書の「悪い者」は悪魔の別名ですから、主イエスは父なる神にこの世にある教会とキリスト者たちを悪魔からお守りくださいと執り成してくださいました。
そして、主イエスは、19節で父なる神に御自身をこの世にある教会のために十字架に犠牲として献げると祈られました。だから、主イエスは、17節で父なる神にこの世における教会を聖としてくださいと祈られました。
父なる神は、この主イエスの執り成しの祈りを聞き届けてくださいました。
この世の教会とわたしたちは、キリストの十字架によって神に贖われ、この世のものではなく、神のものとされました。神のものはすべて聖なるものです。それは、永遠の命に属しているということです。
そして、教会は、今朝も霊と真理で主イエスを礼拝し、主イエスが十字架の死に至るまでこの世に遣わされた父なる神の御言葉に従われたように、教会とわたしたちもこの世に遣わされる主イエスの御言葉に従うのです。それが、十字架によって贖われたわたしたちのこの世に生きる道なのです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今朝もわたしたちは主イエス・キリストの最後の祈りを学びました。
キリストの最後の執り成しの祈りを通して、わたしたちがここに集まることが父なる神が主イエスによってこの世から一人一人を選び出してくださったということを知りました。
また、臨在の主イエスは、聖霊と御言葉を通して、今ここにいるわたしたちを守るために、父なる神に執り成してくださることを感謝します。
わたしたちは、キリストの十字架の贖いで、この世のものではなく、神のものとされ、キリストの執り成しにより悪魔とこの世の迫害から守られていることを本当に感謝します。
また、わたしたちの教会は小さな群れです。教会の持続を願っています。そのわたしたちに主イエスは、今朝も御言葉をくださいました。どうか聖霊によってわたしたちの心の主イエスの喜びで満たしてくださり、わたしたちの家族に、この世の人々に主イエスにある永遠の命の喜びを伝えさせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨハネによる福音書説教74 主の2018年5月6日
また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内いるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つとなるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしのうちにおられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。父よ、私に与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。私に対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」
ヨハネによる福音書第17章20-26節
説教題:「一つとなる」
本日で主イエスが最後に父なる神に祈られた「大祭司の祈り」を学び終えます。次週より18章と19章で主イエスの受難と死を学ぶことになります。
主イエスは、この祈りで第一に世界が創造される前に持たれていた御自身の栄光を請い求めておられます(5節)。
第二に主イエスは、教会とキリスト者たちのために執り成しの祈りをされています(6-19節)。
教会とキリスト者たちは、父なる神に主イエス・キリストにあって選ばれた人々であり、主イエスが父なる神から遣わされた者であることを信じている者たちです。
主イエスは、今十字架の死を通して神のみもとに去ろうとされています。だから、主イエスは父なる神にこの世に残される11弟子たち、そしてこの世にある教会とキリスト者を保護してくださいと執り成しの祈りをされました。
主イエス御自身が父なる神と共におられるように、この世にある教会とキリスト者たちが主イエスと共にあるようにしてくださいと祈られました。
それから主イエスは父なる神にこの世にある教会とキリスト者の宣教の使命のために祈られました。主イエスが父から遣わされて、この世の教会に伝えた宣教の言葉を、この世の教会とキリスト者たちがこの世に迫害されながら、宣教できるように祈られました。
主イエスのこの「大祭司の祈り」は、次のことを前提に執り成しの祈りをしています。主イエスが父なる神によってこの世に遣わされて、この世に憎まれ、迫害の中で神の御国の福音を宣教されたように、主イエスによって遣わされた教会とキリスト者も、同様にこの世に憎しみと迫害の中で福音宣教をするのです。
さて、今朝の御言葉が、主イエスの祈りの第三のものです。主イエスは、ヨハネによる福音書10章で、御自身を良い羊飼いにたとえて、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と御自身が教会の主として、頭として、教会とキリスト者たちのために十字架に死ぬことを、死んでわたしたちの命を贖うことを宣言されました。
同時に主イエスは、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊を導かなければならない。」(ヨハネ10:16)と言われました。
主イエスは、父なる神に教会とキリスト者たちのためだけでなく、教会の囲いの外にいる羊たちのためにも執り成しの祈りをされました。
教会の囲いの外にいる人々に、この世にある教会とキリスト者たちはキリストの言葉を伝えます。福音宣教をします。それを聞いて父なる神が主イエスにあって選ばれた人々が主イエスをキリストと信じるようになります。その人々のためにも、主イエスは父なる神に執り成しの祈りをされました。
主イエスが父なる神に教会の囲いの外にいる者のために、彼らを教会と一つとなるようにしてくださいと執り成しの祈りをして下さったので、その祈りの実として、今ここに上諏訪湖畔教会があり、わたしたちが今ここで主を礼拝する恵みにあずかっているのです。
主の日の朝にわたしたちが喜びをもって礼拝できるのは、わたしたちが熱心な信者であり、真面目な信仰者であるからでありません。今こうして日曜日の朝に上諏訪湖畔教会で礼拝を共にし、共に主イエスの御言葉である聖書と説教を聴き、共に聖餐の恵みにあずかり、主に在ってわたしたちが一つとなることを、今朝の御言葉で主イエスが父なる神に願われたからです。
主イエスは、父なる神に「お願いします」と祈られました。この日本の国で教会の福音宣教を通して、「わたしを」、すなわち、主エスを信じる人々が起こされて、主イエスが父なる神の内におり、父なる神も主イエスの内にいて、一つとなっているように、彼らも主イエスがいます教会に共にいて、主イエスと一つとなるようにと祈られました。
主イエスが父なる神に執り成しの祈りをされた実が、今ここで主イエスを信じて、共に礼拝をしているわたしたちなのです。
喜びのあまりに、飛躍し過ぎたかもしれません。
ヨハネによる福音書は、主イエスの執り成しの祈りを描くことで、わたしのように主イエスがヨハネによる福音書の時代の教会のために祈ってくださった祈りだと伝えているのです。
ヨハネによる福音書にとって、教会で復活の主イエスと共に居ると言うことが、初代教会のキリスト者たちのこの地上における信仰生活の究極の目標であったのです。
ヨハネによる福音書は、すでに12章で過越の祭にギリシア人たちがエルサレムに巡礼に来て、主イエスにお目にかかるという出来事を記しています。彼らは、教会の囲い外にいた者たちです。
主イエスは、彼らとお会いになり、「人が栄光を受ける時が来た」と宣言されました。十字架の死の時が来ました。主イエスは、一粒の麦が死に、多くの実を結ぶというたとえを話されました。そして、弟子たちに次のように約束されました。「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:26)。
天地が創造される前から神の独り子であられた主イエスが受肉され、人間となられたことで、主イエスを信じる者は父なる神と御子イエスとの一致にあずかり、神の子となるのです。それが、わたしたちが主の日に上諏訪湖畔教会で礼拝を共にすると言うことの意味です。
だから、ヨハネによる福音書の1章12節で「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」と証言しているのです。
主イエスは、父なる神に「すべての人を一つにしてください」と祈られました。
その目的は、教会の囲いの外にいる者たちが教会に招かれて、共に主イエスを信じて礼拝することで、この世の人々が父なる神が主イエスをこの世に救い主として遣わされたことを信じるようになるためです。
主の日の礼拝に意味があるのです。ヨハネによる福音書にとって、今は、復活の主イエス・キリストを霊と真理をもって礼拝している今です。教会の外にいる者たちに、すなわち、異邦人たちに福音宣教している今です。そしてユダヤ人たちやローマ帝国の官憲に迫害を受けている今です。
この初代教会の今のために大祭司キリストは父なる神に執り成しの祈りをして下さったのです。そして、その祈りに支えられて、初代教会は主の日の礼拝を継続し、福音宣教を継続し、この世の迫害に耐え続けているのです。
教会がこの世で持続し福音宣教でき、キリスト者がこの世の試練や迫害の中で自らの信仰を堅忍し、伝道できるのは、この大祭司キリストの執り成しの祈りがあるからです。
最後にこのキリストの大祭司の祈りの主題は、この世に神の愛を伝えることです。
父なる神が御子キリストをこの世に遣わされたのは、神の愛を伝えるためでした。ヨハネによる福音書が「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)と伝えている通りです。これがこの福音書の主題であり、この祈りの主題です。
福音宣教によって教会の外にいる者たちが教会に招かれて、父なる神と御子キリストと、教会のすべての者たちが一つに向かって完成されて行くのです。
そのことによって神に敵対していたこの世は、神の愛を知らされるのです。すなわち、父なる神が御子を愛され、御子を通して教会のすべての者たちを愛されていることを、この世は知るのです。
この世は、父なる神が御子主イエスをこの世に遣わされ、父なる神は独り子である主イエスを大切にするように、教会のすべての者たちを大切にされることを、身に染みて知るようになるのです。
だから、主イエスは、父が御自身によって選ばれた者たちを、この教会に共におらせてくださいと執り成しの祈りをなさいました。
その祈りの目的は、この教会の礼拝を通してここに集まる者たちに御自身が天地創造の前からお持ちであった父なる神の愛と父なる神が独り子なる神にお与えになった栄光を見せるためです。
いつの時代もこの世は、父なる神を知りません。唯一御子イエス・キリストだけが御存じです。父と御子は一つだからです。そして、教会とキリスト者たちは御子主イエスが父なる神から遣わされたことを知っています。
「わたしは御名を彼らに知らせました。」とは、キリストの十字架の贖いの事です。御名は神の救いです。教会は主の日ごとに礼拝で主イエスの救いが知らされます。
キリストの十字架の救いが教会で語られるごとに、父なる神が御子を愛された、すなわち、父は御子を大切に思われたその心が、教会の中に伝わり、その思いの中に復活の主イエスが教会に臨在してくださいます。
御子の十字架によって、わたしたちは父なる神の思いを知らされます。父はどんなに大切な御子を、わたしたちのために犠牲としてくださったかと。
だから、教会は父なる神が御子を通して見せてくださった愛に応えてこの世を歩むようになったのです。
福音宣教だけでなく、愛の業に、すなわち、執事活動に教会は仕えています。何よりも教会の中には、父が御子に向けられた大切に思う心が、教会員の相互の牧会に生かされ、交わりに生かされています。なぜなら、教会の中に復活の主イエスが居てくださるのであれば、ここに集められる者の中に価値のない者は一人もいないからです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今朝でわたしたちは主イエス・キリストの最後の祈りを学び終えました。
キリストの最後の執り成しの祈りを通して、わたしたちがここに集まり、主を礼拝し、共に御言葉を聞き、共に聖餐の恵みにあずかれることを感謝します。
どうかわたしたちが主イエスと一つに結ばれ、この教会で福音宣教に携わる中で、世の人々にキリストの十字架の贖いを通して示された神の愛を伝えることができるようにお導きください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。