ヨハネによる福音書説教42      主の201749

 

 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。―狼は羊を奪い、また追い散らす。―彼は雇い人で、羊のことを心にかけないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは一つのために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

 

この話を巡って、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。多くのユダヤ人たちが言った。「彼は悪霊にとりつかれ、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」

 

             ヨハネによる福音書第第10721

 

 

 

 説教題:「良い羊飼い主イエス」

 

 本日より受難週に入ります。ルカによる福音書を用いて、この一週間主イエスの御受難を瞑想しましょう。

 

 

 

さて、主イエスはヨハネによる福音書の101節に続いて、7節でも「はっきり言っておく」と、ユダヤ人たちに告げられています。

 

 

 

「アーメン、アーメン、汝らに告ぐ」。これは、主イエスが重要なことを告げられる場合に、口になさる定型句です。

 

 

 

その定型句で、主イエスは御自分を羊飼いであると言われ、わたしたちはその羊飼いの声を聞いて、彼について行くと言われました。

 

 

 

 さて、7節でも、主イエスはわたしたちに重要なことを告げられました。そして、「わたしは羊の門である」と、主イエスはわたしたちに御自身を明らかにされています。

 

 

 

 「門」は出入りするところです。わたしたちは、門である主イエスを出入りし、この世の囲いの中から、永遠の命の世界へと導かれるのです。

 

 

 

主イエスは、8節で、御自分よりも前に来た者は皆、盗人であり、強盗であり、羊たちは彼らに従わなかったと言われています。主イエスは、誰か特定の人々を念頭に置いておられるのではないと思います。常に罪の世界の中に、「自分はメシアである」と自称し、羊である神の民を惑わそうとする者たちが出現します。彼らは神の羊たちを盗もうとする盗人であり、強盗です。しかし、神の民は彼らについて行かなかったと、主イエスは言われるのです。

 

 

 

そして、主イエスは、10節で門である御自分とそのような「盗人と強盗」とを比較し、この世に来た目的が違うと教えておられるのです。門である主イエスは、羊たちを救うためにこの世に来られました。「盗人や強盗」と主イエスが言われる人々は、羊を惑わし、騙し、滅ぼすために来たのです。

 

 

 

実際にパレスチナで、羊たちが羊飼いから迷子になれば、獣の餌食にされてしまいます。同様にわたしたちも「わたしは羊飼いであえい、門である」と言われる主イエスを見失えば。容易に罪のこの世にあって悪魔の餌食にされ、偽キリストに誘い出され、迷わされて、滅ぼされるのです。

 

 

 

だから、9節で、主イエスはわたしたちに「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」と宣言されているのです。

 

 

 

面白いのは、9節の後半の主イエスのお言葉です。「その人は、門を出入りして牧草を見つける」と、主イエスは言われていることです。

 

 

 

主イエスの御言葉は、一見禅問答のように思えます。門である主イエスを出入りするとは、どういうことだろうか。人が牧草を見つけるとは、何のことだろうか、とそうお思いになりませんか。

 

 

 

わたしも、そう思いました。でも気になる主イエスの御言葉です。繰り返しこの主イエスの御言葉を口に出して読みました。そして、「なんだ、わたしも門である主イエスを出入りしているではないか」と思い当たりました。

 

 

 

わたしにとって主イエスを出入りするとは、キリストの体なる教会を出入りするということです。わたしたちは、上諏訪湖畔教会の日曜日の礼拝に出入りしています。そこに目には見えませんが、復活の主イエスがわたしたちと共に臨在されています。

 

 

 

主イエスは、わたしたちを御自身が臨在される教会へと招き、そして、わたしたちを祝福して、教会からこの世へと遣わしてくださっています。

 

 

 

わたしが大学生の時に、初めて宝塚教会の礼拝に出席し、この夏で43年間、わたしは教会の礼拝に出入りしてきたことになります。その出入りによって、わたしは教会の兄弟姉妹たちと共に永遠の命の御言葉である主イエスとつながることができました。

 

 

 

わたしは、それを、主イエスがここで「その人は、門を出入りして牧草を見つける」と言われていることだと、理解しています。

 

 

 

そのようにわたしたちは、主イエスを出入りすることで、この世界で豊かな人生を与えられ、さらにわたしたちは豊かな永遠の命にあずかることができるのです。

 

 

 

それゆえ、10節後半で、主イエスはわたしたちに言われています。「わたしが来たのは、羊が命を得るためであり、しかも豊かに受けるためである」と。

 

 

 

主イエスのこの御言葉は、深い意味ある御言葉と、わたしは思うのです。わたしは、10節で主イエスがこの世に来られた目的を告げられたのを、聞いていまして、この福音書の114節の御言葉を心に留めました。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」

 

 

 

わたしは、父なる神の独り子なる神が、マリアの胎を通して、肉体を取り、この世に来られたという主イエスの受肉の出来事と1011節で主イエスがわたしたちに、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と宣言されることとは密接につながっていると思うのです。

 

 

 

主イエスは、御自分の命を捨て、わたしたち羊に命を与え、しかも豊かに与えるために、父なる神の独り子であられるのに、わたしたちと同じ人間となられたのです。

 

 

 

主イエスは、わたしたちに「わたしは良い羊飼いである」と御自身を明らかにされました。しかも主イエスは、御自分と雇われた羊飼いを比較して、御自分が良い羊飼いであると言われました。

 

 

 

「良い」という言葉に倫理や道徳の意味合いはないと思います。素晴らしい羊飼いであるという意味でしょう。

 

 

 

主イエスと雇われた羊飼いを比較すると、主イエスが良い羊飼いであることがはっきりとしています。

 

 

 

雇われた羊飼いとは、主イエスを裏切った弟子たちのように迫害の中で責任を放棄した教会の指導者たちのことだと思います。

 

 

 

わたしも雇われた羊飼いであり、迫害が起これば怖くなり、ペトロのように主イエスを拒み、他の弟子たちのように逃げてしまうと思います。

 

 

 

だが、主イエスは、わたしたちの素晴らしい羊飼いです。主イエスは逃げられませんでした。むしろ、進んで御自身の命を、わたしたち羊のために捨ててくださいました。

 

 

 

主イエスは、常に父なる神と一つであり、また、御自身と彼の羊たちとも一つでした。すなわち、主イエスは、父なる神を愛し、御自分の羊たちを愛さていました。その愛が主イエスの十字架の死です。

 

 

 

こうして、一人の良い羊飼い主イエスに導かれて、この罪の世に一つの群れが形成されます。それが、わたしたちの教会です。

 

 

 

また、今この礼拝にいるわたしたちが主イエスのすべての羊ではありません。16節で、主イエスは言われています。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊も導かなければならない」。

 

 

 

本当にうれしい主イエスの御言葉です。今日の礼拝にいる者が主イエスのすべての羊であれば、わたしたちが416日にイースター伝道集会をすることは無意味です。しかし、わたしたちの教会の外に主イエスの他の羊たちがいます。主イエスは、その羊たちを招かれています。

 

 

 

それは、不思議なことに、わたしたちの伝道を通してです。

 

 

 

フィリポはナタナエルに伝道し、主イエスを紹介しました。わたしたちの伝道は、主イエスの所に、この教会にわたしたちの家族を、知人を誘うことです。誘われた家族と知人が主イエスの羊であれば、必ず主イエスの御声を聞いて従うはずです。そして、この教会の群れに加わるはずです。

 

 

 

最後に主イエスは、18節で御自分が十字架で命を捨て、再び復活し、その命を得ることは、父なる神の掟であると言われています。

 

 

 

「掟」は父なる神の御意志であるという意味です。主イエスのご受難と復活は父なる神の御意志であり、永遠の御計画でした。主イエスは、父なる神の御意志と御計画を実行するために受肉し、神であられたのに人となられました。

 

 

 

どうか、受難週の一週間、わたしたち羊のために命を捨てられた主イエスを瞑想して過ごそうではありませんか。そして、主イエスとわたしたちが一つであることは、主イエスがわたしたちのために死なれた、主イエスはわたしたちの罪の身代わりに死なれて、わたしたちの命を贖われたことを、共に心から感謝し、416日のイースターに喜びをもって集おうではありませんか。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、ヨハネによる福音書10718節の御言葉から「良い羊飼い主イエス」について学ぶ機会が与えられ感謝します。

 

 

 

どうか、御霊よ、わたしたちの心を開き、受難週の主イエスのご受難と今朝の主イエスの御言葉とを、わたしたちが関わらせて、主イエスの御言葉を理解できるようにお導きください。

 

 

 

今朝の主イエスの御言葉そのものに、わたしたちが希望を与えられて、416日のイースター伝道集会に備えさせてください。

 

 

 

悪魔が支配するこの世で、わたしたちが常に大切な命を奪われ、主イエスから散らされる危機の中にいることを覚えさせてください。

 

 

 

自らの弱さを、主イエスは御存じです。どうかわたしたちの信仰がなくなりませんように、わたしたちが家族や知人に、この町の人々に、キリストを伝えることを諦めることがありませんように、今朝の御言葉でわたしたちを慰め、励ましてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

 

 

 ヨハネによる福音書説教44    主の201757

 

 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニア出身デ、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死んで終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度ユダヤに行こう。」弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう。」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

 

             ヨハネによる福音書第第11116

 

 

 

 説教題:「ラザロの死」

 

 先週でヨハネによる福音書の第10章が終わりました。

 

 

 

主イエスはエルサレム神殿の境内で「良き羊飼い」のたとえを話されました。そして、その話を巡って主イエスとユダヤ人たちの間で論争が起こりました。その論争の中で主イエスは、ユダヤ人たちに御自分と父なる神は一つであると主張されました。ユダヤ人たちは主イエスが神を冒涜したと怒り、主イエスを捕らえて石で打ちころそうとしました。

 

 

 

主イエスは、彼らの手を逃れて、ユダヤの地を去られました。そして、ヨルダン川の向こう側のサレムに近いアイノンという所まで退かれました。その地は、洗礼者ヨハネが群衆に悔い改めの洗礼を施していたところでした。そして、そこに大勢の群衆たちが集まり、主イエスの奇跡を見て、主イエスをメシアであると信じました。

 

 

 

さて、本日よりヨハネによる福音書の第11章に入ります。ラザロの復活の記事であります。

 

 

 

どれほど主イエスがユダヤを去り、ヨルダン川の向こう側のサレムに近いアイノンに滞在されていたか、ヨハネによる福音書に記録が残されていませんので、わたしたちには分かりません。ただ1040節に「そこに滞在された」と記してありますので、比較的長い間、主イエスと弟子たちはサレムに近いアイノンにいたのではないかと、わたしは推測しています。

 

 

 

そして、その長い滞在に終止符が打たれた事件が、主イエスがエルサレムの町の郊外にありますベタニアの村に住むラザロを死者の中から甦らせるという奇跡を行われたことでした。

 

 

 

この事件が一つの頂点となり、主イエスはゴルゴタの丘の十字架に向けて、まっしぐらに下って行かれるのです。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、ラザロの復活の記事を、111節で「ある病人がいた」という文章で始めています。

 

 

 

「ある病人がいた」。わたしたちの世界では、過去において反復され、そして今も継続している出来事です。「病人」は意訳で、直訳すれば、「弱っている人」です。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、12節で、病人と彼の家族を紹介しています。エルサレムの町から3キロほど離れたベタニアの村の住人です。名はラザロです。マルタとマリア姉妹の兄弟です。

 

 

 

 マルタとマリアは、ルカによる福音書で紹介されています。その記事を読みますと、主イエスは、彼らの家に滞在され、その家に多くの人々が訪れて、主イエスの教えを聞きました。マルタはその接待に忙しくし、マリアは主イエスの教えに耳を傾けました。

 

 

 

 2節でヨハネによる福音書は、マリアが12章でなした主イエスの葬りの用意を簡潔に先取りして記しています。

 

 

 

 マルタとマリアの兄弟ラザロが、病名は分かりませんが、弱っていたのです。体が衰弱し、危篤状態だったのです。

 

 

 

 当然、マルタとマリアは、人を遣って、主イエスに次のような伝言をしました。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」(3)

 

 

 

彼女たちの伝言は、「主よ、すぐに来て、あなたの愛する者を癒してください」というものでした。

 

 

 

ところが、彼女たちから伝言を頼まれた者がそれを主イエスの伝えると、聞いていた主イエスは、次のように言われました。「その病気は死で終わるものではない。そうではなく、神の栄光のためである。それによって神の子が神の栄光を受けるためである」(4)と。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、9章で生まれながら目が見えない人を癒されたとき、彼が生まれながら目が見えないのは、「神の業がこの人に現れるためである」と言われました。そして、主イエスは地面の土をこねて、彼の目に塗り、シロアムの池で顔を洗うように命じられました。生まれながら目の見えない人は主イエスのお言葉どおりにしました。すると、彼の目が見えるようになりました。

 

 

 

主イエスは、ここでも同じことをされました。使いの者に主イエスは、「ラザロの病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われました。

 

 

 

「ラザロの病気は死で終わるものではない」は意訳です。主イエスは、「ラザロの病気は死に至らない」と言われたのです。なぜなら、「神の栄光のためである」からです。主イエスは死んだラザロを甦らせることで、神の子としての栄光をお受けになるためでした。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に5節で「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」と伝えています。主イエスがラザロを復活させられたのは、主イエスの3人の兄弟たちに対する愛の行為であったと、伝えているのです。

 

 

 

主イエスは、マルタとマリアからラザロが病気であると聞いてから二日間、サレムの近くのアイノンに滞在されました。

 

 

 

そして、三日目に主イエスは、弟子たちに「ユダヤに行こう」と言われました。弟子たちは、主イエスの行動に不安を覚えました。なぜなら、ユダヤ人たちが主イエスを石打ちで殺そうとしていることを知っているからです。弟子たちは、心の中で思ったでしょう。どうして先生は自分を窮地に追い込むことをなさるのだろうかと。

 

 

 

主イエスは、弟子たちの不安に910節で次のように答えられました。

 

「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」

 

 

 

マタイによる福音書の山上の説教で、主イエスは次のようなことを言われています。「体のともし火は目である。目が澄んでいればあなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」(マタイ6:2223)

 

 

 

主イエスの時代のユダヤ人たちは、人の目の中に入った光はその人の内に留まり、その人の理性を照らすと考えていました。主イエスは、彼らの考えを御自分に当てはめて、御自分は光であるので、自分が光として、弟子たちの心の中に留まり、弟子たちの理性はそれによって照らされ、つまずくことはないと教えられました。

 

 

 

ここでは、主イエスは、弟子たちを励まして、勇気を持ってエルサレムに行こうと言われているのです。

 

 

 

「昼間12時間がある」とは、主イエスがユダヤ人たちに捕らえられて、十字架刑になるまで、しばらくの時があるという意味でしょう。

 

 

 

光である主イエスと共に歩めば、弟子たちがつまずくことはありません。しかし、夜が来るのです。光である主イエスが去られる時が来ます。その時弟子たちはつまずくことになります。なぜなら、光である主イエスが弟子たちの中に留まっておられないからです。

 

 

 

とにかく、主イエスは、今弟子たちと共にいてくださいます。だから、弟子たちはユダヤに行き、そこがどんなに危険な所でも、主イエスと共にいる限り、弟子たちはつまずくことはないのです。その時を利用して、ラザロを死者の中から甦らせようと、主イエスは弟子たちを励まされました。

 

 

 

主イエスは、弟子たちを励まして、その後で次のように11節で言われました。「わたしの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と。

 

 

 

「眠っている」は、「眠ってしまった」と訳す方がよいと、わたしは思います。なぜなら、ヨハネによる福音書は13節で、主イエスが「ラザロの死について話された」と記しているからです。

 

 

 

主イエスは、弟子たちにラザロの死を宣言し、続いて死んだラザロを復活させに行くと言われました。

 

 

 

ところが、弟子たちは主イエスの御言葉を理解していませんでした。弟子たちは、主イエスが病気のラザロがよく眠っていると言われたのだと誤解したのです。

 

 

 

13節で「弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである」と記されていますね。ギリシア語の原文は面白い表現です。「しかし、彼らは思った。眠りの眠りについて、彼が言っている」と。眠りというギリシア語の同義語を重ねているのです。口語訳聖書では「眠って休んでいる」と訳していました。新共同訳聖書とフランシスコ会訳聖書は「よく眠っている」と意訳しています。ニューイングリシュバイブルは、「ナチュラルスリープ」と英訳しています。「自然の眠り」という意訳です。

 

 

 

言葉遊びをしているような感じですが、弟子たちは主イエスの言葉を聞いても、ラザロが死んだとは思っていなかったのです。

 

 

 

だから、主イエスは弟子たちに14節ではっきりと「ラザロは死んだのだ」と宣言されました。

 

 

 

そして、主イエスは、弟子たちに15節で次のように言われました。「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところに行こう」。

 

 

 

主イエスが死んだラザロを復活させるという奇跡を行われ、それによって神の栄光を現し、御自身が神の子としての栄誉をお受けになるのは、御自身のためではありませんでした。弟子たちが主イエスを神の子と信じるためでした。

 

 

 

ヨハネによる福音書のギリシア語をそのまま、日本語にすると、15節はこうなります。「そして、わたしは喜ぶ、そこにわたしがいなかったことを、あなたがたのために。それはあなたがたが信じるようになるためである。」

 

 

 

弟子たちが主イエスを、神の子、わが神と信じるために、死んで三日過ぎたラザロを、主イエスが復活させられることは必要であったと、主イエスは言われているのです。

 

 

 

今月の第一と第三の木曜日に聖書を学ぶ集いをし、イザヤ書を学んでいます。先月イザヤ書25章を学びました時に、イザヤが2589節で主なる神の御言葉を次のように記しているのです。「死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい 御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び踊ろう。」

 

 

 

主イエスは、主なる神が預言者イザヤに告げられたことを、ラザロの復活と御自身の復活によって成就されました。神の民が待ち望んだ救いが、今主イエスによって、そして、主イエスがラザロを復活させることで、主の弟子たちは主イエスを自分たちが待ち望んでいた「わたしたちの神」と信じることができる幸いを得たのです。

 

 

 

だが、主イエスの思いに、弟子たちの心はほど遠く離れていました。なぜなら、彼らの心のうちに主イエスの光である聖霊が宿られていなかったからです。

 

 

 

だから、彼らの理性は曇らされ、彼らは主の思いとは全く違う方向に向いてしまいました。

 

 

 

それが、12弟子の一人トマスが16節で言った言葉です。主イエスが弟子たちにラザロの所に行こうと呼びかけられると、トマスが答えて言いました。彼は双子と呼ばれていました。彼が双子の一人であったかどうか、分かりません。トマスという名が双子という言葉に似ていたので、彼は双子という字で呼ばれたかもしれません。彼は疑い深い弟子として有名で、他の弟子たちが復活の主を見たと証言しても、十字架の主エスの手の釘跡、槍でつかれたわき腹の傷跡に自分の指を入れるまでは主イエスの復活を信じないと言いました。

 

 

 

彼は、仲間の弟子たちに、わたしたちも主と共に死ぬために、ユダヤの地に行こうと呼びかけました。

 

 

 

弟子たちの愚かさを、そして、その後の裏切りを、主イエスは、彼らが御自身を神の子、わが神と信じるようになるために、十字架の死に至るまで忍ばれるのです。

 

 

 

今朝は、この後聖餐式を行います。わたしは、ぜひともヨハネによる福音書は1115節の御言葉に心を留めて、この聖餐式にあずかっていただきたいと思います。「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。」

 

 

 

実は復活の主イエスは、この教会に毎週の日曜日に臨在され、わたしたちを聖餐の恵みに招かれています。

 

 

 

復活の主イエスは、神の性質としては、今ここにいてくださいます。しかし、受肉し、人間性を取られた、その人間の性質としてはこの場に居合わせておられません。

 

 

 

しかし、復活の主イエスは、今朝の御言葉によって、それがわたしたちのためによかったと言われています。わたしたちが復活の主イエスを信じるようになるためにです。

 

 

 

復活の主イエスは、昇天され、今天におられますが、聖霊を通して、わたしたちが御言葉の光をわたしたちの内に照らすとき、わたしたちの理性を通して、主イエスを信じることができるようにされているのです。

 

 

 

確かに、今ここに臨在される主イエスを、わたしたちは見ることができません。しかし、聖霊と聖書の御言葉の光にわたしたちの心は照らされて、使徒ペトロが次のように言うように、主イエスが今ここにわたしたちの神として、わたしたちと共におられると信じています。

 

 

 

「あなたがたは、キリストを見たことはないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(Ⅰペトロ1:89)

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、ヨハネによる福音書11116節の御言葉から「ラザロの復活」のことについて学ぶ機会が与えられ感謝します。

 

 

 

主イエスは復活し、今も生きておられます。しかし、わたしたちは、その姿を見ることはできません。

 

 

 

それでも、主イエスは、御自身が見える形で、この場にいないことを、わたしは喜ぶと言われました。わたしたちが聖霊と御言葉の光を通して、主イエスを信じて、わが神と崇めることができるためです。

 

 

 

どうか、今、わたしたちがこの教会の礼拝で、御言葉の光に照らされて、「キリストを見たことはないのに愛し、今見ていなくても信じており、言葉では言い表せない素晴らしい喜びで満たしてください」。

 

 

 

そして、主イエスが復活により、わたしたち一人一人のために得られた永遠の命を、心から感謝します。

 

 

 

だからこそ、わたしたちの教会はこの世に対して、ここに永遠の命があることを伝えることができるようにしてください。主イエスこそがこの世の死の支配からわたしたちを解放してくださる、わたしたちの神であるとこの世の人々に伝えさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 ヨハネによる福音書説教45    主の2017514

 

 さて、イエスが行ってご覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしたちの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いなることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 

             ヨハネによる福音書第第111727

 

 

 

 説教題:「復活であり、生命である主イエス」

 

 先週よりヨハネによる福音書の第11章を学び始めました。ヨハネによる福音書は、主イエスが死んだラザロを甦らされた出来事を記しています。

 

 

 

さて、演劇が好きなお方であれば、今朝のヨハネによる福音書の111727節を第2幕として御覧になれると思います。

 

 

 

新約聖書のヘブライ人への手紙111節に有名な信仰の定義があります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」

 

 

 

わたしたちの教会は、第1主の日と第5主の日に「使徒信条」を、この礼拝で信仰告白します。そこでわたしたちは教会が望んでいる事柄を3つ告白しています。「罪の赦しと身体の甦りと永遠の生命」です。

 

 

 

聖書が証言しているように、十字架と復活のキリストを、「わが主、わが神」と信じる者には、罪の赦しと身体の甦りと永遠の命があります。しかし、これはわたしたちの人生経験では未来に属する事柄です。

 

 

 

なぜなら、「罪の赦し、身体の甦り、永遠の命」は、今のわたしたちにとっては約束であって、現実ではありません。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、それを、信仰によってリアルなものとするために、未来の恵みを今の恵みとするために、ここで主イエスがラザロを甦らされた奇跡の出来事を記し、わたしたち読者に伝えようとしているのです。

 

 

 

見えないものを、信仰の心の目で見て、復活のキリストの臨在と今の救いを確信しするのです。そして、今朝、御言葉を聞くわたしたちも、このラザロのようにキリストに罪を赦され、体を甦らせていただき、永遠の命を賜ることができることを確認するのです。

 

 

 

この「復活」という事柄自体は、今存在していません。しかし、今朝の御言葉を聞いて、主イエスがラザロを死者の中から甦らされたように、必ず死んだわたしの体を復活させてくださると信じます。

 

 

 

その時にその信仰の働きによって、今朝のラザロの甦りの出来事は、わたしが主イエスによって死者の中から甦らされる保証の出来事となるのです。

 

 

 

今わたしが述べたことは、キリスト者ならだれもが知っています。だから、御自身の信仰の目で、17節から27節の御言葉で御自分の体の復活を確信し、見ていない神の恩寵の事実を確認してみてください。

 

 

 

さて、主イエスは、エルサレムの都から3キロ離れたベタニアの村に行かれました。そこで主イエスは、ラザロが既に死んで、墓に葬られ、4日過ぎていることを知られました。

 

 

 

「既に四日もたっていた」とは、ラザロは完全に死んでいたという意味です。主イエスは仮死状態のラザロを蘇生されたのではありません。そのことを、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に強調するのです。

 

 

 

主イエスがベタニアの村に着かれると、マルタとマリア姉妹の家はベタニアの村の弔問客たちで溢れていました。多くのユダヤ人たちがマルタとマリア姉妹を訪れて、兄弟ラザロのことで慰めを言っていたからです。

 

 

 

姉妹たちに、主イエスと弟子たちが村に着かれたとの知らせが届きました。マルタは、すぐに主イエスと弟子たち一行を出迎えました。ところが、マリアは家で座ったままでいました。

 

 

 

ルカによる福音書は、マルタを積極的、行動的な女性と描き、マリアを主の足もとで静かに御言葉を聞いている女性として描いています。ヨハネによる福音書もマルタは積極的、行動的に描かれ、マリアは家で静かに主イエスを待つ姿で描かれています。

 

 

 

しかし、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にこの二人の女性の性格を伝えることに関心はありません。

 

 

 

むしろ、次のことに注目させています。主イエスとマルタ、主イエスとマリアとの対話に。そして、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者を、今朝の御言葉でマルタの信仰告白に注目させているのです。

 

 

 

主イエスを出迎えましたマルタは、主イエスに言いました。「主よ、あなたがいてくださったら、わたしの兄弟ラザロは死にませんでしたのに」と。

 

 

 

そして、彼女は自分の信仰告白を付け加えました。「しかし、あなたの願うことは何でも、神はかなえてくださると、わたしは今も信じています。」

 

 

 

前半は、彼女の恨み言です。遣いを出したのに、主イエスはすぐに来てくださらなかった。来てくださっていれば、わたしの兄弟ラザロは死ななかったと。

 

 

 

後半は、彼女は今も主イエスを、神が遣わされた者として信頼していると言っています。彼女は神と主イエスが一体であり、神は主イエスが願われることをかなえてくださると信じていました。

 

 

 

これは、わたしたちキリスト者の信仰と変わりがありません。わたしたちも父なる神と御子なる主イエスは一体であり、父は御子の願いを何でも聞かれると信じています。

 

 

 

しかし、彼女の信仰告白は、正しくても、今彼女の救いとはなりませんでした。わたしたちキリスト者も、特にわたしたち改革派教会のキリスト者たちはウェストミンスター信条という素晴らしい信仰告白を持っています。そして、マルタと同じようにそれでもって今も主イエスを信じています。

 

 

 

主イエスは、マルタに宣言されました。「あなたの兄弟は復活する」と。

 

 

 

すると、彼女は、終末の日の復活のときに、兄弟ラザロが復活することは知っておりますと答えました。

 

 

 

彼女と同じように、わたしたちもこの世の終わりが来て、キリストが再臨されると、既に死んだ者が復活させられることを知っております。ウェストミンスター信条に、改革派教会の創立50周年宣言にも、創立60周年宣言にも、そのことは宣言されており、わたしたちも確実であると信じております。

 

 

 

だが、愛する兄弟ラザロの死という悲しみの中で、マルタの信仰告白は必ずしも救いとなりませんでした。どんなに信じていても、また知っていても、それが今自分の現実の喜びとして受け取れなければ、その信仰は無力です。

 

 

 

そこで主イエスは、彼女の信仰を現在化されました。そして、これこそがヨハネによる福音書がわたしたち読者に伝えようとしていることです。

 

 

 

ある注解書にこう記されていました。「未来に起こる復活を現在化するような形で、イエスは自分自身の姿を顕現されるのである」と。

 

 

 

だから、主イエスは彼女に宣言された。「わたしは、甦りであり、命である」と。目には見えませんが、今この教会に顕現される主イエスは、「わたしは、甦りであり、命である」お方です。

 

 

 

その方が、今マルタの目の前におられる。そして、今この教会におられます。だから、復活という未来の出来事が今ここでという形で、起こると、主イエスはマルタに、そしてわたしたちに約束されるのです。

 

 

 

「わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない。」と。

 

 

 

復活であり、命である主イエスは、永遠の命をお持ちです。その命を、今主は信じるわたしたちに与えると言われています。

 

 

 

その約束の保証が、御自身の復活です。キリストは、死人の復活の初穂であり、復活により得られた永遠の命を、御自身を信じる者に与えることができるお方です。だから、主イエスを信じる者、十字架の贖罪と死んだ主イエスを死人の中から復活させることができた神の力を信じる者は、自分が死を経験しても、その死から新しい命に復活させられることを、今信じることができるようにされるのです。

 

 

 

主イエスは、マルタに「このことを信じるか」と問いかけられました。この問いかけは、キリスト者の生活の原点となる大切なものです。

 

 

 

カトリックの神父本田哲郎神父は、『小さくされた人々の福音』の中で、その主イエスの問いかけを、次のように意訳されています。「おまえはこのことに信頼してあゆみを起こすか」と。

 

 

 

マルタは、主イエスの問いを真正面から受け止めて、答えています。彼女の信仰告白は、殉教を覚悟するものです。

 

 

 

「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 

 

 

主イエスは、ユダヤ人たちに「わたしと父なる神は一つである」と宣言し、御自分を神の子と言われたので、ユダヤ人たちは主イエスが神を冒涜する者であると、石で打ち殺そうとしました。

 

 

 

そして、マルタは、主イエスを、この世の終わりの審判者なる神が主イエスにおいてこの世に来られた神の子キリストと信じて、信仰生活をしてきましたと告白したのです。

 

 

 

バークレーのヨハネによる福音書の注解書は、有益な例話があり、その一つを紹介します。

 

 

 

ブラウンというアメリカの従軍牧師がアメリカに帰る船の中で、1500名の海兵隊員と聖書研究し、彼らにヨハネによる福音書11章を教えました。聖書研究が終わりますと、一人の海兵隊員が彼のところに来て、言いました。「あの章にあったことはみんな、まるで僕のことを言っているみたいです。」と。この海兵隊員は大学を出て、海兵隊に入りました。彼は人生にうんだりして、悪質なことをしました。それは神だけが知っておられ、彼は自分の人生の破たんを自覚しました。そして、彼は自分で自分を殺した、自分は死んでしまったと思いました。ところが、彼は、ヨハネによる福音書の11章を読んで、もう一度生きるようになったと、ブラウン従軍牧師に証ししました。なぜなら、イエスが話しているこの復活は今ここで起こっているのです。イエスはこのわたしを死から命によみがえらせてくれたからですと。

 

 

 

この海兵隊員は、キリストの十字架によって自分の罪が神に赦され、そして、神に背を向けた生活からキリストと共に生きる新しい命を知ったのです。体の甦りは、彼にとっては自己中心に生きる生活からキリストと共に生きる生活に変えられたことでした。主イエスが「わたしは復活であり、命である」と言われる、キリストと共に生きる命に、今彼は生きているという喜びを与えられたのです。

 

 

 

わたしは、この海兵隊員の証しがよくわかります。わたしも、教会の礼拝で、「わたしは復活であり、命である」と言われる主イエスに出会わなければ、おそらく自分で、自分の命を殺し、本当に空しい人生を生きたと思います。

 

 

 

わたしは、常に思っています。人はだれでも、神のみが知っておられる暗い過去を背負っていると。小さい頃は、よく村の古老に天道様が見ておられると言われました。悪いことはすぐにばれるぞと。

 

 

 

それは償わなければなりませんが、償う前に、次の悪いことをするので、わたしには償う力はありませんでした。

 

 

 

だから、わたしは、自分の死がとても怖くて、よく死んだら自分はどうなるのだろうと思ったものです。地獄、極楽があるなら、自分は地獄だと思ったものです。

 

 

 

だから、わたしは教会に行き、そこで初めてキリストの十字架があなたの罪の身代わりですと教えられた時、本当にうれしく思いました。

 

 

 

すべてのわたしの罪を、キリストの十字架によって、神は赦してくださるのです。神に罪を赦されて生きる人生を、わたしは考えたこともありませんでした。

 

 

 

主イエスが「わたしを信じる者は死んでも生きる」と言われるとき、わたしは「わたしは復活であり、命である」と言われる主イエスに見捨てられることはないと思いました。

 

 

 

その通り、わたしは42年間の信仰生活を過ごしてきましたが、その中で何度も人生の危機があり、途方に暮れることもありました。しかし、主は一度としてわたしを見捨てられたことはありません。

 

 

 

主イエスが復活であり、命である。主イエスを信じる者は死んでも生きる。生きていて信じる者は死なない。

 

 

 

わたしは、残された人生を、マルタのようにこれを信じて、キリスト者として今後も歩みたいと願っています。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、ヨハネによる福音書111727節の御言葉から「わたしは復活であり、命である」主イエスについて学ぶ機会が与えられ感謝します。

 

 

 

主イエスは、今「わたしは復活であり、命である」と言われて、この礼拝に臨在されています。わたしたちは、その姿を見ることはできませんが、どうかわたしたちの信仰によって、主の臨在をリアルなもの、豊かなものとさせてください。

 

 

 

主イエスは、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていて信じる者は死なない」と言われ、「あなたはこれを信じるか」と今朝の礼拝でわたしたちに問われています。

 

 

 

どうか、この主イエスの御言葉が、わたしたちの信仰生活の原点としてください。この主イエスの御言葉に信頼して、日々の信仰生活を歩ませてください。

 

 

 

わたしは、主イエスのお言葉に、「わたしはあなたを永遠に見捨てない」という喜びを聞かせていただきました。

 

 

 

他の方々は、また別の慰めと励ましを聞かれたかもしれません。どうか、わたしたちが御言葉の分かち合いをし、それぞれが礼拝で聞いた御言葉の恵みを分かち合い、まさしくここに主イエスはいてくださっていることを証しさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

 

 ヨハネによる福音書説教46   主の2017521

 

 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

 

             ヨハネによる福音書第第112837

 

 

 

 説教題:「主イエスは涙を流された」

 

 今朝は、ヨハネによる福音書の112837節の御言葉を学びましょう。主イエスがラザロを甦らされた出来事を記す第3幕です。

 

 

 

 先週は、主イエスとマルタの対話とマルタの信仰告白に注目しました。ベタニアの村に着かれた主イエスを出迎えたマルタは、主イエスに不満を言いました。遣いをやって兄弟ラザロの病気を伝えていたのに、主イエスはすぐに来られなかったからです。主イエスが来られていたら、マルタは愛する者の死を悲しむことはありませんでした。

 

 

 

 マルタは、信じていました。主イエスが神の子であり、神は主イエスの願いを聞いてくださることを。しかし、愛する者が死んだという現実の前には無力でありました。

 

 

 

 主イエスは、マルタに言われました。「あなたの兄弟は復活する」と。

 

 

 

 主イエスの御言葉は、マルタには喜びとなりませんでした。彼女は知っていたのです。「復活の時に、愛するラザロも復活する」ことを。しかし、愛する者の死という圧倒的な悲しみの前には、それは慰めになりませんでした。

 

 

 

 そこで主イエスは彼女に、次のように言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」

 

 

 

主イエスは、マルタに、わたしたちのこの世の命が、この地上の命が永遠に続くなどと言われているのではありません。この身体が死んだとしても、永遠の神の御子を信じる者は、共に永遠に生きると言われたのです。わたしたちに永遠の命があるのではなく、永遠の命を持ち、存在されている主イエスと共に、わたしたちは生きるのです。

 

 

 

主イエスは、マルタに「このことを信じるか」と問いかけられました。だが、彼女は、どうも主イエスが言われたことを理解しなかったようです。

 

 

 

彼女は、立派な信仰告白します。「はい、主よ、あなたがキリスト、世に来るべき神の子である」と。

 

 

 

主イエスの「これを信じるか」という問いに、彼女は「信じております」と答えています。

 

 

 

この問答は、実は大変興味深いものです。主イエスは、「これを信じるか」と現在進行形で問われたのです。「今信じていますか」と。ところがマルタは、「信じております」と答えました。もう少し丁寧に日本語にすると、「信じてきましたけれども」と答えました。彼女は現在完了形で答えました。彼女は、今まで一人のクリスチャンとして、主イエスをメシア、神の子と信じて来たのです。

 

 

 

この主イエスの問いと彼女の答とのちぐはぐさに、わたしたちの信仰がわたしたちの愛する者の死に、どんなに心を揺さぶられるものかを思わされます。

 

 

 

マルタは、主イエスにこう言ってから、家に帰りました。そして、彼女はマリアを呼び寄せました。マルタは、マリアだけに聞こえるように、「先生がおいでになって、あなたを呼んでいますよ」と耳打ちしました。

 

 

 

このマルタの一連の動作は、彼女が主イエスを理解できないという思いを伝えています。だから、彼女は姉妹のマリアに主イエスが来られ、マリアを呼ばれていると密かに伝え、マリアに主イエスが言われたことを、マルタが分かるように伝えてほしいと思ったのでしょう。なぜなら、マリアはいつも主イエスの足もとで熱心に主イエスの御言葉を聞いていたからです。

 

 

 

主イエスは、出迎えたマルタに放って置かれた者のように、ベタニアの村の入口に立ち続けておられました。

 

 

 

マルタとマリア姉妹の家には多くのユダヤ人たちが弔問に来て、お悔やみを言っていました。慰めていたユダヤ人たちとは泣き男、泣き女たちでしょう。彼らの泣き声が家中に聞こえていました。

 

 

 

ところが、マリアが急に立ち上がり、家を出て行きました。弔問客たちは、マリアがラザロを葬った墓に行き、泣くのだろうと思いました。だから、泣き男も泣き女も彼女の後を追いかけました。

 

 

 

主イエスは、マルタが出迎えた所におられました。マリアはその所に来て、主イエスを見つけ、主イエスの足もとに伏しました。

 

 

 

そして、マリアも姉妹のマルタと同じことを言いました。姉妹の思いは一つだったということです。主イエスさえ、早く来てくださっていれば、愛する兄弟ラザロは死ななかったのに。

 

 

 

ところが、主イエスの足もとで、マリアは泣きだしてしまいました。その涙に誘われるように、彼女の後を追って来たユダヤ人たち、すなわち、泣き男と泣き女も泣きだしてしまいました。

 

 

 

それを、主イエスが御覧になって、33節で「心に憤りを覚え、興奮して」と記されていますね。

 

 

 

珍しい表現です。直訳すれば、「霊で怒り、自ら興奮した」です。

 

 

 

「憤り」「怒り」と訳されているギリシャ語は「エンブリマオマイ」というギリシャ語で、「怒りや感動」を表わす言葉と理解されてきました。だから、新共同訳聖書は「心に憤りを覚え」と意訳しました。本田哲郎神父は「心の底から感動を覚え」と意訳されています。

 

 

 

だが、主イエスは誰に怒りを覚え、憤りを覚え、感動を覚えられたのでしょうかで。マリアですか。泣き男たち、泣き女たち、ユダヤ人に対してですか。

 

 

 

榊原康夫牧師は、この箇所を説教されて、カルヴァンやアメリカの改革派の神学者ウォーフィールドの見解を紹介されています。

 

 

 

カルヴァンは主イエスが「全人類の共通した悲惨と苦難」に怒りを覚えられたと解釈し、ウォーフィールドは「怒りの対象は、死と死の背後にあって死の力を持つ者であって、これを、イエスは滅ぼすために世に来られたのである」と解釈していると。

 

 

 

榊原先生は、ヘブライ人への手紙21415節の御言葉をその根拠として提示されています。「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」

 

 

 

とても深い有益な解き明かしであると思います。

 

 

 

最近ある新約学者が新約聖書を翻訳し、註解をしている本が出版されました。その方の説明を紹介しますと、こうです。ここの直訳は「イエスは霊にて激しい息をする」とすべきであると述べ、「霊」は空気の動き、息の動きを指すと言葉だと指摘しています。「怒り」「憤り」のギリシャ語は元来「馬がいななく」という意味でした。相手に対して激しく憤る、叱り飛ばすという意味もあると指摘しています。

 

 

 

そして、彼は次のように言います。この表現は他とは関係のないイエス自身の心の動きであると。文脈の前後から見ても、主イエスが誰かに憤る理由は見いだせないと。だから、ここを、「イエスは霊にて激しく息をし、みずから混乱して」と訳されています。「興奮する」というギリシャ語の言葉は「混乱する」という意味もあります。

 

 

 

このように訳して、彼が意図するのは、これから主イエスは死人のラザロを復活させるという最大の奇跡を実行されようとしているのだから、御自分でも非常に緊張されたということだろうと解釈しています。

 

 

 

わたしは、この新約学者の解釈の捨てがたいと思います。誰でもキリストは神の子であり、父なる神と一つになり、父なる神の御計画を最初から実行するのであるから、緊張するわけがないと考えるでしょう。ラザロを復活させて当たり前と思うでしょう。

 

 

 

だが、ヘブライ人への手紙は、次のようにキリストがわたしたち人間の弱さを担われたと証言しています。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4:15)

 

 

 

ですから、わたしたちのようにキリストは、ラザロを復活させるという奇跡をしようとして緊張されました。人間としての弱さをお持ちでした。

 

 

 

そして、主イエスは、ラザロを死人の中から復活させるために、彼がどこに葬られたのかとお聞きになりました。

 

 

 

すると、マリアではなく、後からマリアを追って来たユダヤ人たちが、主イエスに「主よ、来て、そして見よ」と言いました。

 

 

 

愛する者が死に、墓に葬られたという現実、人間がこの世で経験する最も深い悲しみを、主イエスは同情し、涙を流したのです。

 

 

 

バックストン宣教師は、主イエスの涙を、マリアやユダヤ人たちの不信仰に対するものであると説教されています。その証拠として、受難の道を歩まれた主イエスが不信仰なエルサレムの都を見て、涙されたことを指摘されています。

 

 

 

わたしは、主イエスの涙は、弱い人間が持つ自然の情であると思うのです。本当に愛する者を亡くして、悲しみを堪えることをすれば、弱い人間の心は壊れてしまうと思います。

 

 

 

わたしたちは、ウ小教理で、死んだキリスト者の魂は直ぐに主イエスのところで憩い、体は復活の時まで墓に休むことを信じています。だから、葬儀で泣くのは不信仰であると言うのは、人間の弱い心を理解しない非寛容であると、わたしは思うのです。むしろ、主イエスが弱いわたしたちを同情して、1回限り泣いてくださいました。

 

 

 

だから、今朝の御言葉からわたしたちがこの世のどんな深い悲しみの中でも、わたしのことを同情して泣いてくださる主イエスがいつも共にいてくださると信じることは、大きな慰めでないでしょうか。

 

 

 

主イエスの涙を見て、ユダヤ人たちの心が動かされました。彼らは、主イエスがどんなに深くラザロを愛されているかを知りました。だからこそ、多くの奇跡をなさり、生まれつき見えない盲人の目を癒された主イエスがラザロを死なないようにできなかったことに失望しました。

 

 

 

新共同訳聖書は「死なないようにできなかったのか」という疑問形で訳していますが、平叙文で「盲人の目を開けたこの者も、ラザロが死なないようにできなかった」と訳した方がユダヤ人たちの失望した気持ちをよく表わすと思います。

 

 

 

誰もが期待してない中で、主イエスは驚くべき奇跡を行われます。「ラザロよ、墓から出てきなさい」と言われて。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、ヨハネによる福音書112837節の御言葉から「主イエスが涙した」ことを学ぶ機会が与えられ感謝します。

 

 

 

ヨハネによる福音書を説教するごとに、先輩たちに助けられ、先人たちから学び、主イエスに近づくことができることを感謝しています。

 

 

 

同時に聖書学の進歩により、新しい言葉と表現で、神の御言葉を学べることを感謝します。

 

 

 

今朝の御言葉で、主イエスがわたしたちと同じ弱さを持たれ、わたしたちの弱さや悲しみを同情してくださる方であることを教えられ、心より感謝します。

 

 

 

まことに弱さのゆえに、この礼拝に集えない者がおります。愛する者を亡くして、日々の生活で立ち上がれない者もおります。主がただ一度涙してくださったことが、その者たちに慰めを与え、立ち上がる機会としてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。