ヨハネによる福音書説教80       主の201878

 

イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロバの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」その時からこの弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

 

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

 

      ヨハネによる福音書第192530

 

 

 

説教題:「すべてが終わった」

 

 

 

先週に引き続き、主イエスの十字架上での死について学びましょう。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、第1916節後半から30節まで、十字架に付けられた主イエスを物語ります。

 

 

 

 そこで記されたエピソードは、次の4つでした。十字架の上に「ユダヤ人、ナザレのイエス」という札が掲げられたこと、そして、ローマの兵士たちが主イエスの下着をくじで分け合ったこと、そして、婦人たちが主イエスの十字架のそばに立っていたこと、十字架の主イエスが母マリアを配慮され、愛する弟子に委ねられたことです。

 

 

 

 ゴルゴタの丘の上で、主エスが十字架のつけられた後、ヨハネによる福音書は、同時に二つの光景を目にしたのです。

 

 

 

 第一に死刑執行人であるローマの兵士たちは自分たちの報酬として、主イエスの上着と下着を分け合いました。そして、下着をくじで分け合うことで、旧約聖書の詩編2219節の御言葉が実現したことを、ヨハネによる福音書は見たのです。

 

 

 

 第二にヨハネによる福音書は、2527節で独自の記事を記しているのです。すなわち、主イエスの母マリア、彼女の姉妹、そして、クロパの妻マリアとマグダラのマリア、そして、主イエスの愛する弟子が主イエスの十字架のそばに立っていたことを記しています。

 

 

 

 そして、ヨハネによる福音書は、他の福音書に記されていないことを記しています。主イエスは、母マリアと愛する弟子に「見よ、これがあなたの子です。」「見よ、これがあなたの母です」と告げられました。それゆえ主イエスの愛する弟子は、主イエスの母マリアを自分の家に引き取り、自分の家族として世話をしました。

 

 

 

 先週榊原康夫牧師の説教を紹介しましたが、榊原先生は十字架の主イエスが母マリアを愛する弟子に託されたことから、次のように教会員の方々にお勧めをされています。

 

 

 

 「残念なことに、今日、東京のような都会に出てきております人々は、多くの場合に、スープのさめない距離の中に親をもっておりません。遥か彼方の田舎に親をもっていて、親孝行はしたいけれど、親がちっとも東京に出てくれないとか、いろんな事を考えさせられるのであります。が、自分が肉体をもって親孝行をするわけには行かないとしても、しかし母を最もよい魂の交わりの中に置く、母の周りに最も神とキリストの愛を受けている祝福された人を置くという配慮を、私たちもしなければならないのではないか、と思います。その土地の教会を紹介し、信頼できる教会の交わりを提供し、いろいろな形でキリストの愛を送り届けるという愛を、私たちは今もしなければならない、と思うのであります。」(『ヨハネ福音書講解下』)

 

 

 

 母親だけでありません。父親も子供も、孫も、遠くに離れている家族に、何とかしてキリストの愛を伝えたい、キリストの救いを伝えたいと思うのは、榊原先生だけでありません。切なるわたしたちキリスト者の思いでもあります。

 

 

 

 わたしは、東日本大震災の後、母を引き取り、この教会に住まわせていただき、本当に感謝しています。母は、教会に住むので、愛する家族の位牌を、寺に預け、諏訪に来てくれました。そして、礼拝に出てくれ、教会の交わりを通して、信仰を持ってくれました。

 

 

 

 わたしは、今朝のこの御言葉を読むごとに、十字架の主イエスが御自分の母親を優しく配慮され、愛する弟子に委ねられたことを感謝します。主イエスの母マリアへの配慮は、わたしの母への配慮でもあったと思うからです。

 

 

 

 さて、2830節は、十字架の主イエスの最後であります。

 

 

 

 28節で主イエスは、「すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われ」ました。ヨハネによる福音書は、続けて、「こうして、聖書の言葉が実現した」と記しています。

 

 

 

 新改訳聖書2017は、「それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた。」と訳しています。

 

 

 

 新共同訳聖書、岩波書店の聖書翻訳、フランシスコ会訳聖書も、「成し遂げられた」と「テテレスタイ」というギリシャ語を訳しています。

 

 

 

 昔の文語訳聖書は、「すべて終われり」と訳し、口語訳聖書は「すべてが終わった」と訳していました。

 

 

 

 どうして訳に違いが生じたのでしょう。ただ想像するに、ギリシャ語の「テテレスタイ」に元々二つの意味があるからです。「終わる」と「成し遂げる」という意味です。

 

 

 

 どうしてヨハネによる福音書は、二つの意味を持つこのギリシャ語を用いているのでしょうか。

 

 

 

 一つのヒントは、ヨハネによる福音書が18章より記している主イエスの受難物語にあります。受難物語はこの十字架の主イエスの死、主イエスが十字架上で「成し遂げた」と言われ、息を引き取られるこの終わりに向けて物語られています。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、1章で父なる神の独り子なる言が肉体を取り、この世に宿られたことを記しました。そして、人となられた主イエスは父なる神を世の人々に知らせられ、そして十字架の上で御自分が父なる神から遣わされた使命を完成されたのです。

 

 

 

 だから、主イエスの生涯の終わりには二つの意味がありました。

 

 

 

 第一の意味は、人となられた主イエスの生涯が終わったという意味です。わたしたち人間が死をもって生涯を終えるように、主イエスの生涯も十字架の上での死でもって終わりました。

 

 

 

 第二にギリシャ語の「テロス」は終わったという意味ですが、同時に「成し遂げた、完成した、目的を達した」という意味があるのです。

 

 

 

 わたしたちは、日常で「仕事を終える」と言いますね。「勉強を終える」、「一学期を終える」とも言いますね。その時、実際に仕事も勉強も学校の授業も終わります。しかし、同時にそれは仕事が成し遂げられ、勉強がその目的に達したということです。学校のカリキュラムの目的が成し遂げられたということです。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に第一に主イエスは十字架の上でその生涯をすべて終えられたと伝えているのです。

 

 

 

 だから、主イエスは、十字架の上ですべてが終わったと言われて、息を引き取られたのです。

 

 

 

 しかし、ヨハネによる福音書は、十字架の上でその生涯を終えられた主イエスが神の御旨を成し遂げられたことを見たのです。

 

 

 

 すなわち、ヨハネによる福音書は十字架の上の主イエスの死による終わりによって、聖書の御言葉が成し遂げられ、実現したことを見出したのです。

 

 

 

 だから、ヨハネによる福音書は、主イエスが十字架の上で「渇く」と言われた姿に、旧約聖書の詩編2216節の「口は渇いて素焼きのかけらとなり 舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死に中に打ち捨てられる。」という御言葉が実現したのを見たのです。

 

 

 

 また、ヨハネによる福音書は、ある人が十字架の上の主イエスにヒソプに酸いぶどう酒を含ませた海綿を付けて、主イエスの口に運んだのを見て、詩編6922節の「人はわたしに苦いものを食べさせようとし 渇くわたしに酢を飲ませようとします。」という御言葉が成し遂げられたのを見たのです。

 

 

 

 十字架の上で主イエスは、すべてを終えられました。父なる神が独り子を人としてこの世に遣わされ、神に敵対するこの世を御子の十字架の死を通して救うという神の御心は成し遂げられたのです。

 

 

 

 十字架の上で主イエスは、すべてを終えられました。その主イエスの終わりで、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という父なる神の御心が成し遂げられたのです。

 

 

 

 だから、ヨハネによる福音書は、「テテレスタイ」というギリシャ語を非常に強調して、主イエスの十字架の死によって永遠の父なる神の御旨は成し遂げられたのだと宣言しているのです。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、先週から2度にわたって主イエスの十字架の死を学びました。

 

 

 

ヨハネによる福音書がわたしたちに伝える主イエス・キリストの十字架の死に、わたしたちの目と心を注がせてください。

 

 

 

わたしたちも4人の婦人と主イエスの愛する弟子のように、十字架の主イエスのそばに立たせてください。

 

 

 

主イエスが御自分の母マリアを配慮されたように、わたしたちの家族を配慮し、教会の交わりへと導かせてください。

 

 

 

神の独り子がわたしたちと同じ肉体を取り、この世に来られ、十字架の上で生涯を終えられて、父なる神の御旨を成し遂げて下さり、わたしたちに罪の赦しと永遠の命の喜びをお与えくださり、感謝します。

 

 

 

どうか、十字架の主イエスを、わたしたちの救い主と信じ、この世にあって主に服従し、御国を目ざして歩ませてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

 

 ヨハネによる福音書説教81       主の2018715

 

その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足はおらなかった。しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐに血と水とが流れ出た。それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。

 

      ヨハネによる福音書第193137

 

 

 

説教題:「真実の証言―キリストの血と水」

 

 

 

二週続けて、ヨハネによる福音書1916節後半から30節で、主イエスの十字架上での死について学びました。

 

 

 

さて、ヨハネによる福音書は、紀元100年頃生まれました。

 

 

 

その頃地中海世界はギリシア思想が支配的でした。その思想によれば、霊は善であり、身体を含む物質は悪であると考えられていました。だから、人間の霊は、人間の肉体という牢獄に閉じ込められていると考えられていました。

 

 

 

こうした思想が紀元100年頃の初代教会の中に入り込み、主イエスは現実に身体は持たれなかったというグノーシス主義という異端を産み出しました。

 

 

 

グノーシス主義の異端者たちは、主イエスが真の人であることを否定しました。

 

 

 

旧約聖書の創世記をお読みになりますと、神の御使いたちがアブラハムの天幕を訪れた記事がありますね。グノーシス主義の異端者たちにとって主イエスは神の御使いたちのように神の霊が人間の形に具現した幻影でありました。

 

 

 

だから、彼らは、こう主張しました。主イエスが地上を歩まれたとき、主は地面に足跡を残されなかった。なぜなら、主イエスは幻影の体をまとわれた純粋の霊であられるからと。

 

 

 

また、彼らは主張しました。神は肉体を取られないから、神が実際に苦しまれることはないと。だから、主イエスは、十字架の上で死なれたが、実際には何も苦しみを味わわれなかったと。

 

 

 

こうして彼らは、キリストの十字架の贖いを否定したのです。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にグノーシス主義者たちの誤りを正そうとしています。

 

 

 

だから、ヨハネによる福音書は彼らに反論したのです。

 

 

 

すなわち、主イエスはわたしたち罪人を贖われるために、神の独り子であられたが肉体と取り、この世に来られ、わたしたちと同じ人間として、十字架の上で渇きを、すなわち、人として痛みと苦しみを経験され、死なれたと。

 

 

 

そして、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に証ししました。十字架上の主イエスは御自身の死を知られ、「すべてが終わった」と宣言されたと。

 

 

 

これは勝利の宣言です。主イエスは、十字架上の死を通して、父なる神の愛を成し遂げられました。

 

 

 

父なる神は独り子の主イエスを十字架に引き渡すほどに、この世を愛されたのです。そして、十字架の上で死なれた主イエスを、わが救い主と信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るように御計画されました。

 

 

 

だから、十字架上で死なれた主イエスは敗北者でありません。勝利者です。父なる神から委ねられた贖いの御業を、十字架上の死で完成されたからです。

 

 

 

ヨハネによる福音書第193137節は、主イエスの死を確認する記事であります。

 

 

 

ヨハネによる福音書は二つの記事を記しています。3133節で過越祭と安息日が重なるので、ユダヤ人たちはピラトに死刑囚の引き取りを願い出たという記事と、3437節である兵士が十字架上で死んだ主イエスのわき腹を槍で刺すと、主イエスのわき腹から血と水が出たという記事です。

 

 

 

ユダヤ人たちは、ニサンの10日から過越祭の準備を始め、ニサンの14日の夕暮れに、家族の人数に合わせて、傷のない1歳の雄の小羊を屠りました。そして、翌朝まで家族で残さずに食べました。

 

 

 

小羊の骨は折らず、イースト菌を入れないパンと苦菜と共に食べました。

 

 

 

ヨハネによる福音書が31節で「その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので」と記しますように、主イエスがゴルゴタで十字架刑に処せられたのは、小羊が屠られる過越祭の準備の日であるニサンの14日でした。そして、翌日が安息日の土曜日でした。

 

 

 

過越祭と安息日が重なるので、「大いなる安息日」と呼ばれました。

 

 

 

だから、ユダヤ人たちは、ピラトに死刑囚たちを日没になる前に引き下ろしてほしいと願いました。

 

 

 

大いなる安息日が始まるからです。そうなると、死刑囚たちはゴルゴタの十字架に付けたままにしておかなければなりません。

 

 

 

神の律法は、死刑囚の遺体を夜通し、十字架に付けたまましておくことを禁じていました(申命記21:2223)。木に掛けられた者は、夜を過ごすことなく、その日のうちに埋葬しなければなりませんでした。

 

 

 

そこで、刑を早めるために、死刑囚の両足の骨を木槌でおり、死刑囚たちが体を支えられなくなり、呼吸困難で窒息死し、刑がはやまるようにしてほしいと願いました。

 

 

 

ピラトはユダヤ人たちの願いを聞き入れました。ローマの兵士たちは、主イエスの左右の死刑囚たちの両足を木槌でおりました。

 

 

 

ところが、ローマの兵士たちは主イエスが既に死んでおられたので、主イエスの両足は折りませんでした。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、36節で「これらのことが起こったのは、『その骨は一つも砕かれない』という聖書の言葉が実現するためであった。」と証ししています。

 

 

 

主イエスは、洗礼者ヨハネが証言したように、「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)でした。そして、主イエスは父なる神の御計画どおりにニサンの14日、1歳の雄の小羊が過越祭で屠られる同じ時刻に、十字架上で死なれました。

 

 

 

旧約聖書の出エジプト記1246節は、過越祭で屠られた小羊の「その骨を折ってはならない」と、神がイスラエルの民に命じられたことを記しています。

 

 

 

ヨハネによる福音書はわたしたち読者に主イエスは、過越の小羊が屠られた同じ時刻に、主イエスは十字架の上で死なれ、小羊がイスラエルの民の罪の贖いの犠牲であったように、主イエスはわたしたちの罪の贖いの犠牲となってくださったと証しするのです。

 

 

 

また、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に次のように証しします。ローマの兵士の一人が十字架上の主イエスの死を確かめるために、主イエスのわき腹を槍で刺すと、そこからすぐに血と水が出たと。

 

 

 

新約聖書の注解者バークレーは、主イエスの心臓が破裂しており、ローマの兵士が主イエスのわき腹を刺した瞬間に、血と分泌液との混合物が出て来たのだろうと説明しています。

 

 

 

わたしは医者でありませんので、彼の説明が正しいかどうか、判断できません。

 

 

 

しかし、ヨハネによる福音書は、主イエスが愛された者の証言として、彼が4人の女性たちと共に主イエスの十字架のそばで目撃したこととして、主イエスのわき腹から血と水が出て来たことは真実でしょう。

 

 

 

グノーシス主義の異端者たちが主張することとは異なり、主イエスは真の人間として十字架の上で死なれたことを、ヨハネによる福音書は確認するのです。

 

 

 

キリストの十字架の死は幻影でありません。想像上の人間でもありません。主イエスはわたしたちと同じ肉体を持ち、骨を持たれ、十字架の上で人間として苦しみを経験し、死なれたのです。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、主イエスのわき腹から血と水が出たという事実を伝えることで、主イエスの信実を伝え、福音書の読者たちが主イエスを救い主として信じさせようとしたのです。

 

 

 

ヨハネによる福音書はわたしたち読者に主イエスは真の人間性を取られたということだけを伝えようとしたのではありません。

 

 

 

主イエスから流れ出た血と水こそが、主イエスを信じるわたしたちにとって永遠の命の保証であることを、その喜びを、福音を伝えようとしているのです。

 

 

 

バークレーは、主イエスのわき腹から出た血と水を、教会の二大礼典に喩えています。すなわち、血は聖餐式のぶどう酒であり、水は洗礼式の水であります。

 

 

 

これらは、主イエスを信じる者があずかることのできる神の恵みであります。

 

 

 

洗礼の水によって、わたしたち罪人の罪が洗い流され、わたしたちは十字架のキリストに結び合わされるのです。

 

 

 

また、聖餐式のぶどう酒はキリストの血のしるしであり、わたしたちは、聖餐式でぶどう酒にあずかり、その度にキリストの十字架で血を流され、わたしたちを罪から救われたことを思い起こすのです。

 

 

 

こうしてヨハネによる福音書は、わたしたち読者に一つの喜びを伝えてくれます。

 

 

 

彼らは、自分たちの突き刺した者を見る

 

 

 

新改訳聖書2017は、「彼らは自分たちが突き刺した方を仰ぎ見る」と訳されています。

 

 

 

これは旧約聖書のゼカリヤ書1210節の御言葉です。預言者ゼカリヤが神の民の嘆きを預言したものです。

 

 

 

良き牧者である主なる神を、神の民イスラエルは拒み、バビロンに捕囚されました。それにも関わらず主なる神は、神の民イスラエルを捨てることなく、再びエルサレムの地に帰らせてくださり、神殿を再建し、礼拝で主との交わりを回復してくださったのです。

 

 

 

預言者ゼカリヤの時代の神の民が、自分たちの罪の深さを自覚しながら、主なる神に罪の赦しを求めたのでしょう。その姿を見た預言者ゼカリヤは、主なる神の啓示によって来るべきメシアを、十字架の主イエスの死を見たのではないでしょうか。

 

 

 

神の民が主なる神を捨てたように、ユダヤ人たちは主イエスを捨て、ゴルゴタの十字架に引き渡しました。

 

 

 

その十字架上のキリストを、ローマの兵士たちが槍で刺すように、わたしたちは自らの罪によって、十字架上のキリストを刺したのです。

 

 

 

わたしたちは、礼拝ごとに神に恵みを求めます。同時にキリストの十字架の前に立たされて、自分たちの罪を認識し、神に赦しを乞います。

 

 

 

誰がキリストを十字架に付けたのか、ユダヤ人か、ローマの兵士か、違う。今この礼拝で十字架のキリストを仰ぎ見る、このわたしだ。

 

 

 

その時にヨハネによる福音書は、わたしたち読者に喜びを語りかけてくれるのです。

 

 

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16 新改訳聖書2017)

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、主イエスが十字架で死なれたことを、ヨハネによる福音書は確かめたことを学びました。

 

 

 

ヨハネによる福音書が生まれたころ、主イエスの人間性を否定する者たちがおり、主イエス・キリストの十字架の死を人間の幻影にすぎないと言う者たちがおりました。

 

 

 

しかし、ヨハネによる福音書は、わたしたちに主イエスは真の人として十字架に死なれたことを真実であると証ししました。

 

 

 

どうか、ヨハネによる福音書がわたしたちに証しする十字架のキリストの御前に、わたしたちを立たせてください。

 

この礼拝で、主イエスを信じてあずかった洗礼と聖餐式の恵みに感謝します。

 

 

 

どうか、わたしたちが主に恵みを求める時、同時に十字架のキリストを思い起こさせてください。

 

 

 

わたしたちが罪によって十字架に付けたキリストを、父なる神はわたしたちとの和解の恵みとされ、この世を愛する根拠としてくださいました。

 

 

 

どうか、毎週の礼拝で十字架の主イエスを仰ぎ見て、わたしたちの罪の赦しを確信させてください。

 

 

 

どうか、罪を赦された恵みの喜びに生かされ、一人でも多くの方々に十字架のキリストの愛を伝えさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

 

 

ヨハネによる福音書説教82       主の201885

 

その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。

 

      ヨハネによる福音書第193842

 

 

 

説教題:「主イエスの埋葬」

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスの葬りを伝えております。

 

 

 

キリストの十字架の出来事は、過越祭の準備の日でありました。そして、過越祭は安息日と重なりました。

 

 

 

だから、ユダヤ人たちはローマ総督ピラトにヨハネによる福音書1931節で次のようにお願いをしました。十字架刑の囚人たちの遺体を、そのまま安息日に十字架に付けたままにしておかないために、彼らの足を折って、彼らの死を早め、取り降ろすようにしてくださいと。

 

 

 

主なる神は、ユダヤ人たちに旧約聖書の申命記2123節でこう命じられました。「死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めなければならない」。

 

 

 

だから、ユダヤ人たちは、主なる神の御命令に従い、十字架刑の囚人たちの3つの遺体を、その日のうちに埋葬しようと、遺体の引き取りを、ピラトに願ったのです。

 

 

 

またヨハネによる福音書は、わたしたち読者にユダヤ人たちのひとり、アリマタヤ出身のヨセフが主イエスの遺体の引き取りを、ピラトに願い出たことを伝えています。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にヨセフという人物について、次のことを伝えています。彼は主イエスの弟子であったが、彼はユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたと。

 

 

 

ヨセフは、マタイ、マルコ、ルカによる福音書にも紹介されています。彼は金持ちで、サンヘドリンの議員の一人であり、善良で、神の御国の到来を待ち望んでいたと。

 

 

 

ところが、ヨセフはユダヤ人たちから非難されることを覚悟で、ローマ総督ピラトに主イエスの遺体の引き取りを願い出ました。

 

 

 

そして、彼は処刑場の近くの園にある誰も葬ったことのない墓に、主イエスを葬りました。実はその墓は彼が所有する墓でした。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にもう一人、主イエスの埋葬を手伝った人物を伝えています。

 

 

 

ファリサイ派で、サンヘドリンの議員の一人であるニコデモです。彼は、昔ある夜に主イエスを訪問したことがありました。この福音書の3章にその記事があります。彼もヨセフ同様に、隠れた主イエスの弟子でした。

 

 

 

彼は、ヨセフが主イエスの遺体を自分の墓に葬ることを手伝うために大量で、高価な没薬と沈香を用意しました。

 

 

 

没薬は、アラビア原産の木ないし樹脂です。死者を埋葬する時に香料として用いられました。沈香は、インド原産の高価な香木です。39節の「沈香」のギリシャ語は「アロエ」です。

 

 

 

ニコデモは、十字架のユダヤ人の王を葬るために、没薬とアロエを混ぜた香料を、百リトラ、すなわち、33キロから35キロ携えて来ました。

 

 

 

バウワー辞書は、偽カリステネスという紀元200年ごろの文献からアレクサンドロス大王の埋葬の時に没薬とアロエが用いられたという記述を紹介しています。

 

 

 

ヨセフとニコデモは、主イエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料と主イエスの遺体を一緒にして亜麻布で包帯巻きのように包みました。

 

 

 

アレクサンドロス大王の埋葬のように、主イエスもユダヤ人の王として、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って葬られたのです。

 

 

 

さらにヨハネによる福音書は、わたしたち読者に41節で次のように伝えています。「イエスが十字架につけられた場所には園があり、そこには、だれも葬られたことのない新しい墓があった。」

 

 

 

主イエスの墓は園の中に設けられました。旧約聖書の列王記下21章南ユダ王国のマナセ王、子のアモン王がウザの庭園にある彼らの墓に葬られたと記されています。ネヘミヤ記315節に「王の庭園」という記述があります。そこに王の墓が設けられていたのでしょう。

 

 

 

だから、主イエスが園の墓に夥しい香料をもって葬られたのは、まさに主イエスがユダヤ人の王であったからであると、ヨハネによる福音書は私たち読者に伝えているのです。

 

 

 

ヨハネによる福音書にとって、主イエスはユダヤ人の王として栄光のうちに死に、墓に葬られました。

 

 

 

その墓は、誰も葬られたことのない新しい墓でした。榊原康夫牧師が、この御言葉に注目され、こう説教されています。

 

 

 

「旧新約聖書を通して、〝人がまだ誰も使っていない物〟というのは、いつも、神様の御用ために聖別された物を表します。新約聖書の例で申しますと、有名な最初の例がイエスの処女降誕でありました、マリヤは〝あなたのお腹から神の子が出る〟と言われました時に、『わたしにはまだ夫がありませんのに』と言っております(ルカ一34)。まだ誰も使っていない彼女のお腹を使って、神は神の業をなさるのです。」(『ヨハネ福音書講解』下 小峰書店 P283284)

 

 

 

だから、榊原牧師は、主イエスの葬りを、こう結論されているのです。「イエス様が葬られましたのが、まだ誰も葬られていない園の墓であるということは、イエス様がただ単なる地上的な王ではなくて、神様の御用を果たすところの聖なる王としてもてなされ葬られた、という意味であります。」(同P284)

 

 

 

このようにキリストの十字架と葬りは、ヨハネによる福音書にとっては、主イエスが地上から引き上げられる栄光の時でありました。

 

 

 

その時にユダヤ人たちの中に隠れていた主イエスの二人の弟子たちが、公に現れて栄光の王主イエスを葬りました。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者がこの福音書の12章に注目するように暗に促すのです。

 

 

 

主イエスが日曜日にエルサレムに入られ、受難の一週間が始まりました。過越祭にエルサレムに巡礼に来ていたギリシャ人たちが主イエスにお目にかかりたいと願い出ました。

 

 

 

主イエスは、御自分が地上から上げられる栄光の時が来たことを悟られました。その時主イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとされ、次のように言われました。

 

 

 

「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハネ12:32)

 

 

 

主イエスは、ユダヤ人の王として十字架上で死なれました。そして、この地上から天上へと引き上げられました。主イエスは彼の民をすべ、御自分のところに引き寄せられました。

 

 

 

だから、ユダヤ人たちから身を隠していたヨセフとニコデモが主イエスのところに引き寄せられて、彼らはユダヤ人の王キリストの葬りを手伝わされました。

 

 

 

ヨハネによる福音書が主イエスの葬りという出来事で、わたしたちに証言しているのは、主イエスの御言葉は必ず実現するということです。

 

 

 

21世紀に入り、18年が半ばを過ぎました。戦後70年を過ぎました。日本国憲法の下、わたしたちは信教の自由が与えられ、一人一人の国民が文化的な最低限度の生活を保障されています。

 

 

 

本来であれば、今のこの日本の国でキリスト教会は大胆に伝道に励んでいるはずです。しかし、現実は、逆です。わたしたちは、教会もわたしたち個人も、非常に伝道が困難になっていると実感しています。

 

 

 

昔でしたら、宣教師が、牧師が自由に病院を訪問し、福音を語ることができました。そして、多くの患者たちが聖書を読む機会がありました。

 

 

 

今病院で伝道できる機会はありません。仕事場でも、学校でも、地域の集まりでも、隣人に信仰の話をすることすらできません。そして、実は、クリスチャンの家庭の中でも聖書の話をし、信仰を語ることは難しくなっているのではないでしょうか。

 

 

 

気づけば、現代のわたしたちもヨセフやニコデモと変わらないのではないでしょうか。

 

 

 

実は、主イエスの弟子、キリスト者と言っても、実体は人をはばかって生きている、本当に弱い者ではありませんか。

 

 

 

そんな弱い者を、主イエスの御言葉が動かしてくださるのです。11弟子たちは、誰も、この福音書の著者ヨハネすら、主イエスの葬りを手伝いませんでした。

 

 

 

しかし、主イエスは、ユダヤ人たちを恐れ、主イエスの弟子であることを隠していたヨセフとニコデモを、御自身のところに呼び寄せて、主イエスの葬りを手伝させられました。

 

 

 

彼らは、自分たちがユダヤ人から非難され、社会的地位も失うことを覚悟して、主イエスの葬りに協力しました。

 

 

 

今年も上半期が終わり、下半期に入り、1か月が過ぎました。わたしたちの教会の目標は、教会の持続であります。

 

 

 

この後小会があります。一生懸命、教会目標の達成について、今年度の実施項目の達成について協議しています。どれもこれも考えれば考えるほど、わたしは難しいと思います。

 

 

 

自分を反省しても、困難だと思う状況は変えられません。

 

 

 

ではわたしたちに希望はないのか。ヨハネによる福音書は、その問いかけに、一言あると答えてくれます。

 

 

 

主イエスのお言葉は必ず実現すると。

 

 

 

ヨセフとニコデモがその証人たちだと。

 

 

 

困難だと思っても、主イエスはわたしたちのために死なれ、わたしたちの罪を贖われ、そして、わたしたちを父なる神と和解させてくださり、神の子としてわたしたちをこの教会へと招いてくださいます。

 

 

 

わたしたちにできることは、主を崇め、主を賛美することだけです。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、主イエスの葬りを学びました。

 

 

 

主イエスがユダヤ人の王、わたしたちの救い主として、墓に葬られることで、わたしたちは罪を赦されただけではなく、死から永遠の命の喜びに生かされる者とされたことを感謝します。

 

 

 

また、今朝はヨハネによる福音書よりわたしたちキリスト者の弱さを教えられました。だからこそわたしたちが主イエスの御言葉に、聖書の御言葉に信頼することの大切さを教えられました。

 

 

 

どうか、自分の弱さを知り、罪を知り、わたしたちを十字架のキリストの御前に立たせてください。

 

 

 

わたしたちが主イエスを信じてあずかった洗礼と毎月の聖餐式の恵みに感謝します。

 

 

 

どうか、毎週の礼拝で十字架の主イエスを仰ぎ見て、天にわたしたちを引き上げられるキリストの恵みを確信させてください。

 

 

 

どうか、伝道の困難な中に置かれても、主は御自身の民を招いてくださることを確信させてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

 

 

 ヨハネによる福音書説教82       主の2018812

 

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグラダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」。

 

 

 

そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。

 

 

 

続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟打20章にとになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰ったのである。」

 

      ヨハネによる福音書第20110

 

 

 

説教題:「復活する」

 

本日よりヨハネによる福音書第20章に入ります。主イエスの埋葬に続いて、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスの復活を伝えております。

 

 

 

冒頭の「週の初めの日」は、「安息日」明けの第一日のことです。土曜日がユダヤ教の安息日ですので、翌日の日曜日が「週の初めの日」です。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に金曜日に主イエスが埋葬された墓が空であった事実から始めて、復活の主イエス・キリストがマグダラのマリアに現れ、そして11弟子たちに現れたことを伝えております。

 

 

 

この二つの事実、すなわち、主イエスが葬られた墓が空であったことと復活の主イエスが11弟子たちに現れたことは、新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書に共通しています。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、紀元90年代後半に作られました。当然それ以前に作られたマルコによる福音書を知っていたでしょう。

 

 

 

マルコによる福音書第16章の18節の主イエスの墓が空であったという記事は、読む者の心に深く刻まれます。

 

 

 

ユダヤ教の安息日が終わると、週の初めの日の夜明けごろに、マグダラのマリアと他に二人の婦人が主イエスを埋葬した墓に行きます。墓に葬られた主イエスに香料を塗るためです。

 

 

 

彼女たちが墓に着くと、心配していた墓の入口の大きな岩戸は取り除けられていました。彼女たちが中に入ると、若者の姿をした神の御使いがいました。彼は、彼女たちに主イエスが葬られた墓が空であることを示しました。そして、彼は彼女たちに、主イエスが生前に言われていた通り、主イエスはガリラヤで弟子たちと会われることを伝えるようにと告げ知らせました。しかし、彼女たちは恐怖のために、誰にも告げることができなかったのです。

 

 

 

ヨハネによる福音書はマルコによる福音書に倣って主イエスの墓が空であったことを伝えています。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に復活の主イエスが最初に現れたのはマグダラのマリアであったことを伝えるために、まるでマグダラのマリアが一人で主イエスの墓に行ったように書いています。

 

 

 

彼女は、墓に着くと、すぐに主イエスを葬った墓の入口の岩戸が取り除けてあるのを見ました。

 

 

 

彼女は、ペトロと主イエスが愛されていた弟子、すなわち、このヨハネによる福音書の作者に知らせるために、主イエスの墓からエルサレムまで走りました。

 

 

 

そして、2節後半で彼女は、二人の弟子たちにこう伝えました。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」。

 

 

 

わたしたちは、戸惑います。マグダラのマリアは一人で主イエスの墓に行ったのではないか。どうして彼女は、「わたしたちには分かりません」と言っているのでしょう。

 

 

 

マルコによる福音書の16章を読みますと、彼女一人ではなく、他にヤコブの母マリアとサロメも一緒だったことが分かります。

 

 

 

だから、ここでマグダラのマリアが言うことは、彼女は他に二人の女性たちと主イエスが葬られた墓に行ったが、墓の中は空で、誰が主イエスの遺体を移したのか、彼女たちには分からなかったということです。

 

 

 

マグダラのマリアの報告を聞いたペトロと主イエスが愛された弟子は、家の中に隠れていたのでしょうか。家の外に出て、一緒に主イエスが葬られた墓に走って行きました。

 

 

 

主イエスに愛された弟子の方が、足が速かったので、先に主イエスが葬られた墓に着きました。彼は、身を屈めて墓の中を覗きました。主イエスの遺体を包みました亜麻布が置かれていました。しかし、彼は墓の中に入りませんでした。

 

 

 

後からペトロが墓に着きました。彼は墓の中に入りました。彼は、主イエスの遺体を包んでいた亜麻布が置かれているのを見つけただけでなく、主イエスの頭を包んでいた覆いが別の所に丸めて置かれているのを見つけました。

 

 

 

続いて主イエスが愛された弟子も墓の中に入りました。そして、彼は、「見て、信じた」のです。

 

 

 

彼は、何を見て信じたのでしょう。

 

 

 

彼は、墓に中に亜麻布が置かれ、離れた場所に主イエスの頭を包んでいた覆いを見て、主イエスが復活したと信じたのです。すなわち、主イエスの復活は肉体の復活である事実を信じたのです。

 

 

 

彼は直接主イエスが復活するのを見たのではありません。しかし、彼は見ないで、主イエスが復活したことを、空の墓を見て信じたのです。

 

 

 

この後に疑い深いトマスに復活の主イエスは現れて、手に十字架の釘跡があり、わき腹に槍で刺された跡があるのを見せられます。それを見て、トマスは復活の主を信じると告白しました。その時に復活の主イエスは、トマスに言われます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。

 

 

 

8節の御言葉は、そこに至る伏線になっております。

 

 

 

ところで、9節の御言葉は、主イエスを愛された弟子が主イエスの空の墓を見て、主イエスの復活を信じたことと合わないのではありませんか。

 

 

 

本当に難しい所です。主イエスが愛された弟子は、主イエスの空の墓を見て、主イエスの復活を信じました。しかし、聖霊が降られて、二人の弟子たちに聖書の御言葉による確信を与えられておらなかったのです。だから、旧約聖書が主イエス・キリストの復活を証言しているところを知りませんでした。

 

 

 

だから、「それから、この弟子たちは家に帰ったのである。」と、ヨハネによる福音書は記しています。

 

 

 

空の墓は、二人の弟子たちに喜びを与える信仰を得させませんでした。

 

 

 

しかし、一人の弟子の心に主イエスの復活の奇跡を信じさせました。聖書の御言葉を知らないのに、彼は主イエスの復活を信じたのです。

 

 

 

ヨハネによる福音書が主イエスが愛された弟子の信仰を証しします時に、わたしも同じであったと思いました。

 

 

 

聖書をすべて知っていたわけではありません。旧約聖書はほとんど読んだことがありませんでした。しかし、毎日曜日に礼拝に出席し、よく居眠りもしていましたが、主イエスがわたしのために十字架で死なれたことを信じました。わたしの永遠の命の保証として復活されたことを信じました。

 

 

 

わたしは、死を恐れておりました。葬式が嫌いで、そこで出される物を食べると、自分も死ぬと恐れていました。

 

 

 

でも、主イエスの墓が空になり、主イエスは復活し、主イエスにつながる者は墓から解放されるのです。

 

 

 

まだ死んで葬られた者の墓が空になるのを、わたしたちは見ていませんが、主イエスを信じる者は主イエスと同じように死んでも生きると信じることができることを、わたしは幸いであると思うのです。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、今朝は主イエスが葬られた墓が空であることを学びました。

 

 

 

わたしたちは主が愛された弟子のように、主イエスが十字架で死なれたのがわたしの罪のためであり、復活されたのがわたしの永遠の命の保証であると聞いて、主イエスを救い主と信じて、主イエスを愛しました。

 

 

 

その時聖書も知りませんでした。でも、教会の礼拝で同じように信仰する者たちがいることを見て、この信仰は本物であると思いました。

 

 

 

それから42年が過ぎました。聖書を読み、学び、聖霊に導かれて、ますます主イエスの救いを確信し、主イエスを愛せることを感謝します。

 

 

 

どうか、主が愛された弟子のように、聖書を十分に理解できなくても、自分の弱さを知り、罪を知り、わたしたちを十字架のキリストの御前に立たせてください。

 

 

 

そして、主イエスを愛する心をお与えください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

  

 

 

ヨハネによる福音書説教84      主の2018819

 

マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあったところに、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」

 

 こう言いながら、後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところに行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

 

      ヨハネによる福音書第201118

 

 

 

説教題:「だれを捜しているのか」

 

初代教会のキリスト者たちが主イエス・キリストの復活を証しできた根拠は二つです。主イエス・キリストを葬った墓が空であったことと復活の主イエス・キリストが11弟子たちや他の弟子たちに顕現されたことです。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に第20章でその二つの事実を伝えております。

 

 

 

前回は、主イエスが葬られた墓が空であったことを学びました。

 

 

 

ヨハネによる福音書はマルコによる福音書1618節の御言葉を踏まえて、マグダラのマリアが日曜日の夜明け、朝早く、主イエスが葬られた墓に行くと、墓の入口の岩戸が取りのけられ、墓の中が空であるのを見ました。

 

 

 

彼女は、誰かが主イエスの遺体を他の場所に移したと思いました。そこで彼女はエルサレムの都に戻り、主イエスの11弟子たちに知らせました。

 

 

 

弟子のペトロともう一人の弟子、すなわち、主イエスに愛されていた弟子が彼女の報告を確かめるために、主イエスが葬られた墓に行きました。

 

 

 

主イエスの愛された弟子は、ペトロより早く墓に着き、墓が空であることを確かめましたが、墓の中に入りませんでした。後からペトロが墓に来て、中に入りました。

 

 

 

墓の中に主イエスの遺体はなく、墓の中に主イエスの遺体を巻いていた亜麻布があるのを、ペトロは見ました。そして、そこから離れたところに主イエスの頭を覆っていた覆いが丸めておかれているのを、ペトロは見つけました。

 

 

 

ペトロの後から墓の中に入った主イエスの愛された弟子は、それを見て、主イエスの復活を信じました。

 

 

 

しかし、旧約聖書が、主イエスが必ず死者の中から復活されると預言した御言葉を、彼らはまだ知りませんでした。

 

 

 

それから、二人の弟子たちはエルサレムの都にある彼らの隠れ家に帰って行きました。

 

 

 

さて、今朝は、ヨハネによる福音書がわたしたち読者に二人の主イエスの弟子たちが帰った後も、主イエスの葬られた墓の外に立って泣いていたマグダラのマリアに復活の主イエス御自身が現れたことを伝えております。

 

 

 

 さて、マグダラのマリアは、二人の弟子たちの後を追いかけたのでしょうか。二人の弟子たちが帰って行ったのに、彼女は墓のところから離れられず、外で立って泣き続けました。

 

 

 

 

 

 そして、彼女は泣き続けながら、身を屈めて墓の中を見ました。すると、主イエスの遺体が安置されていたところに二人の天使が座っているではありませんか。一人は主イエスの遺体があった頭の方に、もう一人は足の方に。

 

 

 

 すると、天使たちが墓の中から彼女に話しかけました。「婦人よ、なぜ泣いているのですか。」と。

 

 

 

 彼女は二人の天使たちに答えました。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているか、わたしには分かりません。」

 

 

 

 すると、彼女の後ろに人の気配がしました。だから、彼女は振り返りました。彼女は復活の主イエスが立っておられるのを見ました。しかし、彼女は、主イエスだと気づきませんでした。

 

 

 

 ルカによる福音書24章で二人の主イエスの弟子たちが主イエスが復活された日曜日の午後にエルサレムの都からエマオの村に行く途上で復活の主イエスに出会った時と同じです。復活の主は見知らぬ旅人として、彼らと同行され、対話されました。その間二人の弟子たちは主イエスだと気づきませんでした。

 

 

 

 復活の主イエスは、マリアに現れ、泣いている彼女に話しかけられました。天使たちのように、主イエスは彼女に「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」と。

 

 

 

 彼女は、復活の主イエスを、墓がある園の番人だと勘違いしました。園丁は、園の管理者のことです。

 

 

 

 マリアは復活の主イエスに答えました。「あなたがあの方を運び出したのであれば、どこに置いたのか教えてください。わたしがあの方を引き取ります。」と。

 

 

 

 その時彼女を復活の主イエスに背を向けていました。泣きながら、空の墓を見つめていたのです。彼女は、主イエスの遺体を捜していました。

 

 

 

 しかし、主イエスは生きておられます。彼女の目の前におられます。そして、復活の主イエスは、彼女ウに向かって「マリア」と呼びかけられました。

 

 

 

 その復活の主イエスの彼女の名を呼びかける声を聞いた瞬間に、彼女は園丁と思った人物こそ、彼女の先生であることに気づきました。

 

 

 

 こうして墓の外で泣き続けていたマグダラのマリアが最初に復活の主イエスに出会いました。

 

 

 

 彼女は、振り向いて、復活の主イエスを「先生」と呼びかけるや否や、走って行き、復活の主イエスに抱き着こうとしたのでしょう。

 

 

 

復活の主イエスは、彼女に言われました。「わたしにすがりつくのはよしなさい」と。

 

 

 

主イエスが彼女に禁じられた理由は、「まだ父のもとへ上っていないのだから」ということです。

 

 

 

マタイによる福音書28章では、復活の主イエスは、墓を訪れた婦人たちに現れて、「おはよう」と挨拶され、婦人たちは復活の主イエスに近づき、その足を抱き、主イエスの前にひれ伏したことを記しています。

 

 

 

ヨハネによる福音書はそのことを知っていたでしょう。ではなぜヨハネによる福音書は、わたしたち読者にこの記事を書いているのでしょうか。

 

 

 

彼女は、主イエスの遺体を追い求めました。それは、愛する主イエスをいつまでも自分の手元に置きたかったのでしょう。

 

 

 

そして、主イエスは復活し、彼女の目の前に現れられたのです。彼女は復活の主イエスの足に抱き着き、放さなかったでしょう。彼女は愛する主イエスに再会し、いつまでも共に居たいと願ったでしょう。

 

 

 

しかし、復活の主イエスにとって、復活はまだ救いの完成ではありません。これから復活の主イエスは、昇天し、父なる神の右に座され、そして、地上の教会に聖霊を遣わされなければなりません。

 

 

 

だから、主イエスは彼女に続けて言われました。「あなたは11弟子たちにこう伝えなさい」と。すなわち、「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」と。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に復活の主イエスは、父なる神の御許に昇天されると伝えているのです。

 

 

 

それによって復活の主イエスは父なる神と等しいお方として栄光をお受けになるだけではありません。復活の主は父なる神と共に聖霊を、この地上の教会に遣わされるのです。

 

 

 

復活の主イエスは、その聖霊として11弟子たちやマグダラのマリアと再会されるのです。

 

 

 

実際にペンテコステの日にエルサレム教会に聖霊は降られました。そして、教会は聖霊と御言葉を通して復活の主イエスが今ここに臨在されていることを信じているのです。

 

 

 

そして、聖霊が地上の教会に降られたからこそ、異邦人のわたしたちは。マグダラのマリアのように、復活の主イエスの現われを見なくても、主イエスを救い主と信じて、キリストの十字架がわたしたちを罪と死からの救いであると信じることができるのです。

 

 

 

だれを捜しているのか。復活の主イエスはマグダラのマリアに尋ねられました。今、復活の主イエスは、聖霊と御言葉を通して、マリア同様にわたしたち一人一人の名を呼びかけられて、「今あなたはこの教会でだれを捜しているのか」と問いかけられるのです。

 

 

 

実は、この教会も空の墓と同じです。今朝の御言葉に耳を傾け、そこからわたしたちへと呼びかけられる聖霊、主イエスの御声に耳を傾けない限り、この教会の礼拝という出来事は、何もありません。

 

 

 

しかし、マリアのようにあなたがたの名を呼ばれる主イエスの声を聞くことが許された者は、「わたしはあなたの罪を赦す。あなたを、父なる神はわたしの十字架をとおして愛されている」と語られる主イエスの御声を聞くことができるのです。

 

 

 

これが復活の主イエスとわたしたちの祝されたこの教会の礼拝を通しての出会いなのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、今朝は復活の主イエスがマグダラのマリアに現れた出来事を学びました。

 

 

 

マグダラのマリアは、愛する主イエスを、墓の中に、自分の身の回りに捜そうとしました。

 

 

 

空の墓の中に主イエスは見つからず、彼女は泣き続けました。しかし、復活の主イエスは彼女に現れ、わたしたちに更なる喜びを知らせてくださいました。

 

 

 

それは、復活の主イエスを見ないで信じる信仰です。

 

 

 

わたしたちは、マグダラのマリアのように、復活の主イエスの現われを、この目で見てはいません。

 

 

 

しかし、聖霊と御言葉を通して、この礼拝で目に見えない主イエスの臨在を信じ、主イエスの御声を聞き、主イエスの十字架がわたしたちの罪の赦しであり、主イエスの復活がわたしたちの永遠の命の保証であると信じています。

 

 

 

どうか、教会の礼拝を通して、一人でも多くの方々が復活の主イエスと聖霊と御言葉を通して、豊かな出会いと交わりができるように導いてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。