ヨハネによる福音書説教51   主の2017730

 

 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。

 

 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレトフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

 

            ヨハネによる福音書第第122026

 

 

 

 説教題:「一粒の麦、地に落ちて死ぬ」

 

 今朝は、ヨハネによる福音書の122026節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

 ヨハネによる福音書の12章以下は、過越祭の前後に起こった出来事を記しております。

 

 

 

 過越祭に主イエスは、イスラエルの王としてエルサレムの都に入城されました。そして、ヨハネによる福音書の13章より主イエスと12弟子たちの最後の晩餐が始まります。

 

 

 

 その間の出来事を、ヨハネによる福音書は記しています。その内容は、主イエスが「この世」に対して決別の言葉を語られたことです。

 

 

 

 すなわち、主イエスが2036節と4450節で語られた「この世に対する決別の言葉」です。主イエスがこの世に向けて語られた最後言葉です。

 

 

 

 今朝の御言葉を読んでいまして、特に次のことが印象に残りました。この福音書に初めて「ギリシア人」が登場します。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、ユダヤ人とユダヤ人キリスト者たちに向けて書かれました。

 

 

 

 しかし、ヨハネによる福音書が、ギリシア人、すなわち、異邦人たちへの伝道を意識していたことを、今朝の御言葉でわたしは知ることができて、うれしく思いました。

 

 

 

 わたしが興味深く思ったのは、過越祭でエルサレムの都に上って来て、エルサレム神殿で礼拝する巡礼者たちの中にギリシア人たちが数人混じっていたことです。

 

 

 

彼らは何者だったのでしょう。ユダヤ教に回心した者たちでしょうか。それともユダヤ人たちが「異邦人」と軽蔑しているギリシア人たちでしょうか。

 

 

 

ここでわたしが重要と思うことは、この数人のギリシア人たちが過越祭にエルサレムの都に上り、主イエスにお会いしたいと思って、主イエスを尋ねて来たことです。

 

 

 

彼らは主イエスの弟子たちに仲介を願いました。フィリポがアンデレに知らせ、二人は共に主イエスに話しました。

 

 

 

すると、主イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」と宣言なさったのです。

 

 

 

ギリシア人たちが主イエスを訪れたことで、主イエスははっきりと十字架の死と復活を見据えられました。そして、それを通して天の父のところに御自分が上げられ、再び神の独り子としての栄光に戻る時が来たと悟られたのです。

 

 

 

その後ギリシア人たちが主イエスにお目にかかったかどうか、ヨハネによる福音書は記していません。

 

 

 

では、何を、ヨハネによる福音書は意図しているのでしょう。

 

 

 

わたしたちは、いつヨハネによる福音書が書かれたか知る必要があります。それは紀元90年代です。主イエスがこの世を去られて、70年を経ていました。

 

 

 

キリスト教会は2世代、3世代になっていたでしょう。この福音書の著者である主イエスの弟子、ヨハネのように、主イエスが直接召されて弟子となった者たちはほとんどいなくなり、間接的に召されたキリスト者たちが教会の主流のメンバーになっていました。

 

 

 

だから、ヨハネによる福音書は、135節から51節で主イエスの最初の弟子たちの召しについて記し、今朝のギリシア人の召しについて記す必要がありました。

 

 

 

主イエスに直接召されて弟子となった者と彼らから説教を聞き、福音宣教を通して間接的に主イエスに召されてキリスト者となった者とに変わりはないことを教えるためでした。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に次のことを伝えようとしました。直接であろうと間接であろうと、キリスト者とは人の子主イエスの召しに従う者であると。

 

 

 

今朝の御言葉でも主イエスは直接であろうと間接であろうと、「わたしに従え」とお命じになります。

 

 

 

おそらく使徒ヨハネが伝道牧会していた教会は、使徒ヨハネや他の伝道者たちの説教や福音宣教を介して主イエスの召しに答えてキリスト者たちになった者たちでした。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者たちに次のように伝えたいのです。「あなたがたはわたしやわたしと同じように説教し、福音宣教する者を通して、人の子主イエス・キリストに出会い、召され、信従したのであり、しているのである」と。

 

 

 

わたしは、今朝の御言葉で次のことに注目しました。ギリシア人たちが主イエスにお会いしたいと願ったことに対して、主イエスがなさった回答です。

 

 

 

23節から26節の主イエスのお言葉です。

 

 

 

まず主イエスは、「人の子が栄光を受ける時が来た」と答えられました。

 

 

 

この23節の御言葉からこの福音書の終わりまでがまさに「イエスの時」であります。主イエスが栄光を受けられる時、主イエスの十字架の死と復活の時であります。

 

 

 

主イエスは、次のことを自覚されました。これから御自分が十字架の死と復活によって地上から引き上げられ、栄光を受けて、父なる神のところに戻られると。

 

 

 

それを、主イエスはユダヤ人たちが理解できるたとえで話されました。「アーメン、アーメン、わたしは言う」とおしゃって。

 

 

 

それは、主イエスが言われることは真実であり、そのお言葉どおりに確実に実現されます。

 

 

 

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

 

 

 

言われていることは、お分かりでしょう。

 

 

 

一粒の小麦がそのままであれば、一つ粒のままです。しかし、地に蒔かれ、死ねば芽を出して、小麦に成長し、たくさんの実を結ぶようになります。

 

 

 

それと同じように主イエスが死ななければ、主イエスと弟子たちは小さな群れのままです。しかし、主イエスが十字架に死ねば、多くの者たちがキリストに結び付けられ、キリストと共に永遠の命を与えられるのです。

 

 

 

主イエスは一粒の麦が死ぬように、御自分の命をお捨てになりました。だから、そのことによって父なる神は、主イエスに復活の命、永遠の命を与えられたのです。

 

 

 

永遠の命は主と共に生きる命です。

 

 

 

この世の命は、自然の命、生物的生命です。この世に生きるわたしたちには大切な命です。しかし、この世のすべての命は死にます。聖書は、人が死ぬことと神の裁きを受けることを宣告しています。

 

 

 

だから、主イエスは、この世で自分の命を愛する者は失うと言われました。

 

 

 

しかし、永遠の命は、主イエスとの関係です。だから、ヨハネによる福音書では「永遠の命」とは、信仰を持つということなのです。それを主イエスは、今朝の御言葉では、「わたしに仕える者」と表現されています。

 

 

 

主イエスをわたしの主と信じて、どこまでも主イエスに従い、主イエスに仕えて行く者は、常に主イエスと共に生き、その関係を保って永遠の命に至るのです。

 

 

 

だから、主イエスが「わたしに従え」とお命じになりますとき、「わたしと常に関係していなさい」と言われているのです。

 

 

 

その関係は礼拝であります。それを保つことで、わたしたちは永遠の命に至るのです。

 

 

 

わたしの好きな創立20周年宣言に「教会の生命は礼拝にある」という素晴らしい一文があります。

 

 

 

教会の生命とは、わたしはとこしえの命だと思います。主イエスを、わたしの主と信じて、毎週礼拝で聖書の御言葉と説教を聞き、洗礼と聖餐の礼典にあずかり、キリストに仕えているわたしたちに、「わたしのいるところに、わたしの仕える者のいることになる」と祝福し、約束してくださいます。それが、私たちキリスト者が永遠の命に至ることです。

 

 

 

最後にヨハネによる福音書は、わたしたち読者にこの世における教会とキリスト者の存在を、次のように述べていると、わたしは思います。

 

 

 

どうしてこの世にキリストの教会とキリスト者たちは存在するのか。

 

 

 

それは、主イエスが十字架の死と復活によってユダヤ人たちだけでなく、ギリシア人を代表するすべての異邦人たちを御自分のもとに引き上げられた結果であると。

 

 

 

その結果、この世の教会は、羊飼いである主イエスによって、集められた羊の群れであり、主イエスが一つ粒の麦として死なれて結ばれた多くの実なのです。

 

 

 

そして、主イエスは、この世の教会とキリスト者たちを、26節で「父なる神はその人を大切になさる」と言われています。

 

 

 

「大切にしてくださる」と、新共同訳聖書は訳していますが、この言葉はギリシア語の「ティメーセイ」で、「尊ぶ」という動詞です。「価値」「名誉」「栄誉」という語を動詞にしたものです。

 

 

 

わたしは、イザヤ書の43章4節の御言葉を思い起こしました。主なる神が預言者イザヤを通して神の民イスラエルに宣言されました。「わたしの目にあなたは価高く、貴くわたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。」(イザヤ43:4)

 

 

 

一粒の麦として、これからゴルゴタの丘の十字架に向かわれ、御血潮を流してわたしたちを罪から救ってくださる主イエスの御目には、父なる神が神を礼拝し、仕えるわたしたちを御目に徒と尊ばれる姿を見ておられました。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に十字架の主イエスを人の子キリストと信じて、常に神を礼拝しているキリスト者が、キリストと共に永遠の命に生き、その者を父なる神はつねに御目に尊いものとしてくださるのだと伝えようとしているのです。

 

 

 

今日永遠の命に、わたしたちは実感を持っていません。その言葉だけでは、意味をなさないからだと、わたしは思います。

 

 

 

しかし、今朝の御言葉を、主イエスのお言葉を心に留めることで、光がわたしたちの生きるということに射すのでないでしょうか。

 

 

 

その光はここで礼拝するわたしたちが神に愛された存在であることに気づかせてくれます。ただキリストとの関係で、礼拝だけでとこしえの命に生きていると感じさせるだけではなく、そのわたしたちを父なる神がとこしえに御目に尊いものとして愛してくださっているということに気づかせてくれるのです。

 

 

 

このように無条件で、自分の存在が神に愛されていると信じることができる者は、本当に幸いでないでしょうか。

 

 

 

わたしたちは主イエスが一粒の麦としてわたしたちのために死なれたという、その神の愛の中にとこしえに生きることを許されているのです。このことを、わたしは心から喜び、神に感謝し、神を賛美したいと思います。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、ヨハネによる福音書から、主イエスがこの世に対する決別の言葉を語られたことを学びました。

 

 

 

主イエスが一粒の麦として、ゴルゴタの十字架に死なれることで、今ここでわたしたちは主を礼拝し、賛美できることを神に感謝します。

 

 

 

今、わたしたちは毎週主の日の礼拝で、み言葉と礼典と賛美と献金を通して、主に仕えております。目には見えませんが、主イエスはわたしたちと共にいて下さり、父なる神はわたしたちを御目に尊いものとしてくださっていることを感謝します。

 

 

 

今朝の御言葉を聞き、わたしたちがキリストの十字架と復活を通して、父なる神に罪を赦されただけでなく、本当に無条件に神に愛された存在であることを本当にうれしく思っています。

 

 

 

どうか、この世の人々、わたしたちの家族や友人たちに、主イエスの十字架と復活を通して、どんなにわたしたちが神の愛の中に生きることを許されているか、その喜びを伝えさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

    

 

ヨハネによる福音書説教53     主の2017813

 

 イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。

 

 「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」

 

 彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。

 

 「神は彼らの目を見えなくし、

 

  その心をかたくなにされた。

 

  こうして、彼らは目で見ることなく、

 

  心で悟らず、立ち帰らない。

 

  わたしは彼らをいやさない。」

 

 イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れを好んだのである。

 

 

 

 イエスは叫んでこう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることがないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。

 

 なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

 

            ヨハネによる福音書第第1236b-50

 

 

 

 説教題:「主の御腕はだれに示されましたか」

 

 今朝は、ヨハネによる福音書の1236節b-50節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

 前回は、主イエスがゲツセマネの園の時のように、御自身の十字架を苦しまれ、それが父なる神のみ心と知り、自発的に受け入れ、十字架の死を歩む決意をされたことを学びました。

 

 

 

 その時に天から父なる神の声がしました。ユダヤ群衆の耳には、雷の音、天使たちの御声と聞こえました。主イエスは、「その声はわたしのためではなく、あなたがたのためである」と言われて、ユダヤ群衆に御自身がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われました。

 

 

 

 主イエスが彼らに言われたのは、彼らの主イエスを信じない頑なな心が裁かれるということでした。天からの声の裏付けがある主イエスの御言葉を信じないで、依然として主イエスを殺そうとしている「この世」は、裁かれなければなりません。しかし、主イエスの御言葉を信じるならば、主イエスは彼らを自らの十字架によって天に引き上げると言われました。

 

 

 

 主イエスが一粒の麦として死ぬことで、全世界の人々が主イエス・キリストのもとに来る。しかし、主イエスを信じない者は暗闇の中に陥る時が来る。だから、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に主イエスを信じて光の子となり、永遠の命であるキリストの中に生きるようにと勧めていることを学びました。

 

 

 

 主イエスは、この世と決別し、「立ち去って身を隠された」と、ヨハネによる福音書は126節bに記しています。

 

 

 

 その理由は、続く37節でヨハネによる福音書は、次のように記しています。「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった」と。

 

 

 

主イエスが1章から12章まで7つのしるしをなさり、さらに多くの奇跡をユダヤ人たちの目の前で行われてきたのに、「この世」であるユダヤ人たちは主イエスを真のメシアとして信じませんでした。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、主イエスがこの世であるユダヤ人たちの目の前でなさったしるし、すなわち、主イエスが父なる神から遣わされた神の独り子であるという啓示の業全体が、主イエスの弟子である光の子を、闇であるこの世から分ける裁きとなっていることを、わたしたち読者に教えています。

 

 

 

さて、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に「この世とは主イエスを信じない者たちである」と定義しています。この世を不信仰であると総括しています。

 

 

 

そして、この世が不信仰であるのは、イザヤ書の預言が実現したからであると、3840節に記しています。38節と40節で、イザヤ書から二つの引用文を続けて記しています。38節はイザヤ書531節の御言葉であり。40節はイザヤ書610節の御言葉です。

 

 

 

イザヤ書531節は、この世が苦難の僕を認めることができなかったことの証拠を示す御言葉です。十字架のキリストを目の前で見ても、耳で聞いてもこの世のユダヤ人たちは、メシアと信じられませんでした。

 

 

 

また、ヨハネによる福音書は、初代教会のキリスト者たちが主イエスに遣わされてこの世のユダヤ人たちに十字架のキリストを宣教したのに、この世のユダヤ人たちは信じなかったことを踏まえて、ユダヤ人たちのキリストに対する不信仰を記しているのです。

 

 

 

預言者イザヤが主に遣わされて、人々に預言しても最初から拒絶されるように、主イエスは父なる神から遣わされて、ユダヤ人たちに語られましたが拒絶されました。そして、初代教会がキリストに遣わされて、十字架のキリストの福音を宣教しますが、1世紀末のユダヤ人たちに拒絶されました。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、預言者イザヤが預言した苦難の僕を主イエス・キリストと理解していましたので、41節で「イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである」と記しています。イザヤは苦難の僕を通して、十字架の主イエスの栄光を見ました。なぜなら、イザヤにとって、苦難の僕は神に等しい者であり、その意味で神に等しい主イエスの栄光を見ていたのです。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、42節と43節で、神の誉れより人の誉れを好んだ者たちの存在を記しています。この世には、主イエスを心では信じていても、口でもって公にしない者たちがいます。隠れ信者、隠れキリシタンです。

 

 

 

会堂を追放されると、ユダヤ人社会で生きることができません。だから、ユダヤの官憲の迫害を恐れて、主イエスを信じていることを公にしないサンヘドリンの議員たちが多くいました。その代表者がニコデモとアリマタヤ出身のヨセフです。

 

 

 

主イエスの時代だけでなく、1世紀末のユダヤ人社会でも主イエスを信じる者は会堂から追放される危険がありました。そこで心では主イエスを信じても、公にして迫害されることを恐れる者がおり、ヨハネによる福音書は、どっちつかずのキリスト者たちを、「神から誉れよりも人からの誉れを好む者」と言い、それをただ非難するのではなく、むしろ、弱い彼らをキリストへの信仰に導こうとしています。

 

 

 

それが44節から50節の主イエスの御言葉であります。闇の中に留まろうとする弱い弟子たちに、主イエスは叫ばれました。「わたしはあなたがたを裁くために来たのではない。むしろ、救うために来たのだ。父なる神に遣わされ、父なる神の御言葉を語る光であり、永遠の命であるわたしの所に来なさい」と。

 

 

 

このようにして、主イエスと弟子たちの最後の晩餐の場面へと移行する前に、ヨハネによる福音書は主イエスの「この世」に対する決別の御言葉を記して、この世のユダヤ人たちの不信仰を総括したのです。

 

 

 

そして、その総括は、ヨハネによる福音書の時代のこの世における宣教の総括でもありました。なぜなら、使徒言行録に記されていますように、初代教会の伝道は、伝道する町のユダヤ人たちに十字架のキリストを伝えたのです。しかし、ユダヤ会堂に集まるユダヤ人たちは十字架のキリストを主と信じることを拒みましたので、パウロたちのように異邦人に十字架のキリストの福音を伝えたのです。

 

 

 

ヨハネによる福音書13章以下は、キリストはこの世から身を隠されて、弟子たちと共に最後の晩餐をされます。

 

 

 

本当にこの世は、キリストを失って闇の世界になり、最後の晩餐がなされているキリストと弟子たちの所にだけ光が輝くのです。

 

 

 

さて、今朝、わたしたちは、この世が不信仰であることを学びました。この世の人々は、十字架のキリストを自分の救い主だとは信じないのです。

 

 

 

だけれども、預言者イザヤ以来、主なる神はこの世に預言者を遣わされ、十字架のキリストの栄光を語らせられました。そして、ついに父なる神は御自身の御子キリストを遣わして、十字架のキリストの栄光を語らせられました。

 

 

 

ですから、キリストは、「御自分は父なる神に遣わされた」と言われ、「御自分語ることは父なる神が語られることであり、御自分を見た者は父なる神を見た」と宣言されました。そして、「御自身がこの世に来たのは、この世の人々の不信仰を裁くためではなく、救うためである」と言われました。

 

 

 

だが、主イエスはこうも言われました。「結果として、今わたしの言葉を信じない者は、闇に分られて、終わりの日にこのわたしの言葉で裁かれる」と。

 

 

 

今朝の御言葉を読まれ、13章以下の御言葉を読まれるキリスト者は、この福音書を追体験することになります。

 

 

 

なぜなら、わたしたちは、毎週日曜日に礼拝に主イエス・キリストに召されて集まり、そして、一週間この世に遣わされるからです。不信仰な人々の中に遣わされます。

 

 

 

この世のわたしたちの宣教の場は、この世の不信仰な世界です。キリストが身を隠された闇の世界です。

 

 

 

日曜日、その現場を離れて、わたしたちは教会に来ます。キリストが聖霊と御言葉を通して、わたしたちと共に臨在されています。教会は、この世の闇の世界の中でキリストの光で輝いているのです。この世で教会の中だけにキリストの光、永遠の命の光を、わたしたちキリスト者は見ることを許されているのです。

 

 

 

教会でわたしたちが十字架のキリストを見上げますとき、それをキリストにお命じになったのは父なる神であると気づくことが重要なのです。なぜなら、父なる神の御命令が永遠の命だからです。だから、十字架のキリストを救い主と信じなさい」と命じられるキリストの御言葉には永遠の命があるのです。

 

 

 

この永遠の命は、この世の世界では神秘です。隠されています。主の御腕が示された者だけが、キリストを通して聞くことができ、見ることができるのです。それは、人の誉れよりも神の誉れを愛する者でなければなりません。

 

 

 

自分はイエス・キリストの弟子である、キリスト者であるということを、この世で、不信仰なこの世ではっきり告白する者です。

 

 

 

つまり、「神の国は多くの苦難を経なければならない」と、使徒パウロが言っています。キリストが十字架の死というみ苦しみを通して、神の栄光に入られたように、わたしたちもこの世での苦難を通して、神の国への栄光の道を歩もうではありませんか。

 

 

 

預言者イザヤが主イエスを苦難の僕として、神の栄光を見ましたように、受難の主イエスの中に、わたしたちは父なる神が愛する者にお与えくださる永遠の命を見ようではありませんか。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、ヨハネによる福音書から、十字架の主イエスのみ苦しみの中に、わたしたちの永遠の命の恵みがあることを見させていただき、感謝します。

 

 

 

これから、主イエスは、わたしたちを一週間この世に派遣されます。不信仰なこの世です。職場でも、学校でも、社会の中でも自分がキリスト者であることを隠すことなく、はっきりさせて、歩ませてください。

 

 

 

その結果、不利益を被ることがあるかもしれません。受難のキリストを心に留めさせてください。すべての苦しみに耐えさせてください。

 

 

 

同時に復活と今父なる神に右に座されるキリストの栄光を信仰によって見させてください。そして、キリストと共にある永遠の命の喜びを受け入れることができるようにしてください。

 

 

 

こうして日曜日に教会の礼拝に集い、ここにキリストの救いがあり、永遠の命の喜びがあることを、わたしたちの全身で感じさせてください。

 

 

 

どうか、礼拝の喜びの中にわたしたちの家族や友人たちを導いてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

 

 

ヨハネによる福音書説教54     主の201793

 

 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたことを、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を汲んで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロ、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、葦だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

 

 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではないか。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 

            ヨハネによる福音書第第13120

 

 

 

 説教題:「主イエス、弟子の足を洗う」

 

 今朝は、ヨハネによる福音書の13120節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

13章からこの福音書の後半です。

 

 

 

後半で主イエスが地から天に帰られます。そこで光と闇、命と死が鮮やかにこの福音書で描かれています。

 

 

 

1317章はこの世から身を隠された主イエスが12弟子たちと最後の晩餐をされ、告別説教をなさったことを記しています。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスが十字架で死なれる前の出来事であることを示して、131節に「過越祭の前のことである」と記しています。

 

 

 

そして、ヨハネによる福音書は、主イエスが12弟子たちと最後の晩餐をされた動機を次のように記します。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」

 

 

 

ヨハネによる福音書は、主イエスがこの世に来られたことから父なる神の御下に帰られる転換を記しています。それが主イエスの12弟子たちとの最後の晩餐です。

 

 

 

主イエスは、この世から父なる神のところへと移る時が来たことを知って、この世にある御自分の者たちを愛して、終わりまで愛されました。

 

 

 

「この上なく」という言葉は、ギリシア語では「最後まで」、「終わりまで」という言葉です。

 

 

 

ヨハネによる福音書の最後の晩餐は、主イエスが12弟子たちの足を洗われたことが中心です。

 

 

 

主イエスは、この世を去る、すなわち、御自分が十字架で死ぬことを悟られました。そこで主イエスは12弟子たちと最後の晩餐をされ、そこで弟子たちの足を洗われました。それが、今朝、ヨハネによる福音書がわたしたち読者に伝えたいことなのです。

 

 

 

そこで主イエスが「世にいる弟子たちを愛して、この上もなく愛し抜かれた」という表現は、主イエスが弟子たちの足を洗われたことと結びついています。

 

 

 

主イエスは、十字架で死ぬ直前まで弟子たちを愛し抜かれました。それを彼の弟子たちの足を洗うことで証しされました。

 

 

 

それは、主イエスが弟子たちに、キリストにあって愛することが何かを教えるためでした。愛は、自らをへりくだり、相手に仕える行為なしに成り立たないことを、主エスは12弟子たちに自らを模範にして教えられました。

 

 

 

そうする必要がありました。12弟子の一人イスカリオテのユダが主イエスを裏切ろうとしていたからです。悪魔がユダの心を捕らえ、主イエスをユダヤの官憲に引き渡させようとしていました(2)

 

 

 

主イエスは、ユダの裏切りから御自分の死と父なる神のところに帰ることを理解されました。

 

 

 

そこで主イエスは、食事の席から立ち上がられ、上着を脱がれて、手ぬぐいを腰にまとわれ、そして、たらいに水を汲まれて、弟子たちの足を洗われ、腰にまとった手ぬぐいで弟子の足をふき始められました(45)

 

 

 

要するに、主イエスは僕となり、弟子たちの足を洗い、そして、洗った足を布で拭かれ、仕えられたのです。

 

 

 

そこで主イエスが教えられていることは、教会の中で上に立つ者は仕える者となり、信者同士が相互に奉仕することです。

 

 

 

教会は支配し合うところではありません。この世の王や主人のように、他人を己に奉仕させるところでも、自分の有能さを自己アピールする場でもありません。

 

 

 

互いに愛し合うところです。自分を相手よりも低くし、相手に仕えることで、その愛が現れるところが教会です。

 

 

 

この世の対極にあるのがキリストであり、キリストの教会なのです。

 

 

 

ところが、弟子のペトロは、キリストが弟子の足を洗われることを理解できませんでした。師が弟子の足を洗うなど、ペトロには理解不能でした。

 

 

 

主イエスは、ペトロが今理解できなくても、後で理解できるだろうと言われて、彼の足を洗おうとされると、ペトロは「わたしの足を洗わないでください」と拒みました。

 

 

 

すると、主イエスはペトロに、「わたしがあなたの足を洗わないなら、わたしとあなたとは何のかかわりもない」と言われました。

 

 

 

ペトロは、主イエスに今度は「わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください」と言いました。

 

 

 

主イエスはペトロに「体全体を洗った者は清い、だから、足を洗うだけでよい。あなたがたは清い」と言われました。

 

 

 

主イエスとペトロの対話は、わたしたち読者に何を伝えているのでしょうか。

 

 

 

主イエスがペトロの足を洗われないと、ペトロは主イエスの弟子になれないということでしょうか。そうであれば、どうして教会は洗礼式の時に志願者の足を洗わないのでしょうか。

 

 

 

主イエスが弟子の足を洗われたのは、御自身が十字架で死ぬことを理解されたからです。主イエスがペトロの足を洗われ、十字架の死まで彼を愛し抜かれないと、本当の意味でペトロは罪から救われ、永遠の命を得て、キリストの所有となり得ないのです。

 

 

 

主イエスが当時のユダヤ社会の中で最も低い僕の仕事を引き受けられた行為の中に、十字架の道を歩まれる主イエスの姿を、ヨハネによる福音書は読み取り、わたしたち読者に伝えているのです。

 

 

 

キリストが十字架の死まで御自身の弟子を愛し抜かれて死なれなければ、主イエスと弟子たちの間に、そしてわたしたちの間に何の関係もないということになるのです。

 

 

 

その危機の中に一人の弟子がいました。主イエスを裏切るユダであります。主イエスは彼を知り、彼に悔い改めを迫られ、12弟子たち皆が清いわけではないと言われました。

 

 

 

12節以下は、主イエスが弟子たちの足を洗い終えられ、12弟子たちに主がなさったことが理解できるかと問われています。

 

 

 

1220節は、主イエスと12弟子たちとの信仰問答であります。主イエスは、弟子たちに御自分が彼らの足を洗われたことに対する理解を問われました。

 

 

 

「先生」「師」と呼ばれた主イエスが12弟子たちの足を洗われました。だから、主イエスは12弟子たちに「わたしはあなたがたが互いの足を洗い合うために模範を示した」と言われました。

 

 

 

カトリック教会、あるいはプロテスタント教会でも、受難週の聖木曜日に主イエスが模範に示された足を洗うという行事がなされます。ところが、わたしたち改革派教会はしません。どうしてですか。

 

 

 

文字通りに受け取っていないからです。主イエスが弟子たちに、そして、ヨハネによる福音書の読者であるわたしたちに模範を示されたのは、足を洗う行為ではありません。

 

 

 

神の独り子である主イエスが、人の上に立つお方が弟子たちの足を洗うことで、奴隷や召し使いの仕事をなさいました。

 

 

 

その行為で、主イエスは、弟子たちに、そしてわたしたち読者に言われたのです。自分が上に立つ者であると思って威張ったりしないで、互いに助け合う関係を作り上げるのが教会なのだよと。

 

 

 

次に主イエスが教えられる鉄則があります。それは、僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさることはないということです。

 

 

 

教会の中に主イエスにまさる者はいません。主イエスこそ教会の頭です。主イエスは次のように言われました。「このことを知り、主イエスに仕えるように主イエスに遣わされた弟子たちに仕え、そして互いに兄弟姉妹に仕える者は幸いである」と。

 

 

 

また、主イエスは御自分がよく理解した上で12弟子たちを選ばれたことを語られています。ところが、今最後の晩餐にあずかる12弟子の一人は裏切り者です。

 

 

 

主イエスは、詩編4110節の御言葉が実現したと言われています。「わたしが頼みとした親しい友、ともにパンを食べた彼さえも、わたしに対してかかとを上げました。」

 

 

 

ヨハネによる福音書がわたしたち読者に伝えようとしているのは、次のことです。主イエスは、詩編4110節の御言葉の実現者であり、「わたしはある」と言われた主なる神なのだと(出エジプト3:14)

 

 

 

そして、このことは、主イエスが復活なさったとき、聖霊を通して弟子たちは確信させられるのです。だから、ユダの裏切りが起こる前に、主イエスはユダの裏切りを語られたのです。

 

 

 

今朝の御言葉を要約すると、次の通りです。

 

 

 

弟子の足を洗う主イエスを通して、主イエスは自らを模範として、わたしたちにへりくだって、兄弟姉妹に仕え、わたしの命が光り輝く教会の愛を示しなさいと勧められました。それは十字架に基づく愛であります。

 

 

 

次に主イエスの教えの二つの鉄則です。

 

 

 

1に遣わされた者は遣わした者にまさらないし、選ばれた者は選んだ者にまさらないことです。

 

 

 

教会にはキリストにまさる者はいないということです。

 

 

 

2に、主イエスが遣わされる者を受け入れる者は、主イエスを受け入れ、主イエスを受け入れる者は主イエスを遣わされた者を受け入れるということです。

 

 

 

主イエスの第2の鉄則で、ヨハネによる福音書がわたしたち読者に次のことを伝えようとしています。すなわち、主イエス・キリストと12弟子(12使徒)、キリストと父なる神は一つであるということです。「遣わす」ということで一つなのです。父なる神は子なるキリストを遣わすことで一つです。主イエスと弟子たちは、主イエスが弟子たちを遣わすことで一つです。

 

 

 

12弟子たちは、使徒と呼ばれ、新約聖書を代表します。ヨハネによる福音書はその考えの萌芽があります。ですから、20節の御言葉は、次のように敷衍して理解できると思います。新約聖書を受け入れる人は主イエスをキリストとして受け入れ、そして、新約聖書が証しするキリストを受け入れる人は、キリストを遣わされた父なる神を受け入れると。

 

 

 

今朝はここまでにしておきたいと思います。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝から、ヨハネによる福音書の後半を学びます。今朝は主イエスが弟子たちの足を洗われたことを学ぶことができて、感謝します。

 

 

 

キリストが示されたへりくだり教会の兄弟姉妹に仕え、この世の人々に仕える者とならせてください。

 

 

 

今朝は、聖餐の恵みにあずかることができて感謝します。どうか、主イエスが十字架の死に至るまでわたしたちを愛し抜かれたから、こうして日曜日に教会の礼拝に集い、ここで、聖餐の恵みにあずかれることを、わたしたちの全身で感じさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

 

ヨハネによる福音書説教55       主の2017910

 

イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受けると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。ユダはパン切れを受け取ると、すぐに出て行った。夜であった。

 

            ヨハネによる福音書第第132130

 

 

 

 説教題:「裏切りの予告」

 

 今朝は、ヨハネによる福音書の132130節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

 前回は、この世から身を隠された主イエスが、12弟子たちとの最後の晩餐で彼らの足を洗われたことを学びました。

 

 

 

 夜で、世界は暗闇に覆われていました。主イエスと12弟子たちの最後の晩餐の場だけが、主イエス・キリストの光で輝き、キリストの失ったこの世は、夜で暗闇が覆い、そこでは闇を支配する悪魔が人々の心を支配していました。

 

 

 

既に悪魔は、主イエスの12弟子の一人イスカリオテのユダに主イエスを裏切る思いを与えて、彼にその機会を与えようとしていました。

 

 

 

主イエスは、彼の裏切りを知り、御自身の栄光の時が来たことを悟られました。十字架こそ主イエスにとって神の栄光を、御自身を通して現わす時でありました。

 

 

 

主イエスは、御自身が父なる神の御下に帰ろうとしていることを知られ、最後の晩餐の席で12弟子たちの足を洗われました。

 

 

 

人の足を洗うのは、奴隷の仕事でした。主イエスは、「先生」であり、「師」である御自身が奴隷となり、へりくだって、弟子たちの足を洗われました。

 

 

 

それは、弟子たちに模範を示すためでした。闇のこの世では上に立つ者は、人を支配し、自分に仕えさせようとしています。しかし、光であるキリストの臨在される所では、上に立つ者がキリストのようにへりくだり奴隷として人に仕え、兄弟姉妹が互いに愛し合うのです。

 

 

 

主イエスは、12弟子たちに「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」と約束してくださいました。

 

 

 

主イエスがへりくだり、奴隷となり、12弟子たちの足を洗い、仕えてくださいました。その意味は、主イエスは弟子たちの必要のためであれば、どこまでも御自分を低くし、彼らに仕えてくださるので、ペトロのような無理解な者でも主イエスに「遣わされた者」となることができるのです。

 

 

 

主イエスがへりくだり、弟子たちに仕えて下さったことで、弟子たちは主イエスに遣わされた者となる幸いを得たのです。

 

 

 

同時にわたしたちも、主イエス・キリストがへりくだり、わたしたちの必要のために十字架に付かれましたので、わたしたちもまた12弟子たちのように主イエスから「遣わされた者」となる幸いを得たのです。

 

 

 

だから、主イエスは御自分がどのような者を選び出されて、この世に遣わされているかをよく知られています。その一人は、主を裏切るものであることを知っておられます。

 

 

 

そして、主イエスは、旧約聖書の詩編4110節の「わたしの信頼していた仲間 わたしのパンを食べる者が 威張ってわたしを足げにします」という御言葉が今実現しなければならないと言われました。

 

 

 

そして、主イエスが弟子たちに今預言されたのは、後にこの御言葉が実現した時に、弟子たちが主イエスを「わたしはある」というものであることを信じるためでした。すなわち、主イエスこそモーセをイスラエルの民に遣わされた主なる神であることを信じるためでした。

 

 

 

こうして父なる神が独り子の主イエス・キリストをこの世に遣わされ、キリストが12弟子たちやわたしたちキリスト者をこの世に遣わされます。

 

 

 

そして、主イエスは、12弟子たちに「わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」とお約束してくださいました。

 

 

 

キリスト者としての自分は、キリストがへりくだり十字架に死なれ、自分の罪を贖われたから今ここにあるのです。この世に主イエスに遣わされた者としているのです。だから、この恵みを知る者は、キリストが弟子たちの足を洗い示された愛を、いと小さな者に、弱い兄弟姉妹に示すべきなのです。

 

 

 

なぜなら、主イエスは最後の晩餐で、12弟子たちの足を洗うことで、わたしたちに互いに愛し、仕え合うように勧めておられるからです。

 

 

 

さて、以上のことを話し終えられると、主イエスは心を騒がせられたと、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に伝えています。

 

 

 

原文には、ギリシャ語で「イエスは騒いだ、霊において」となっています。既にヨハネによる福音書の1133節に主イエスが墓に埋葬されたラザロを訪れ、そこで泣いている女性やユダヤ人たちを御覧になり、「心に憤りを覚え、興奮して」とあります。

 

 

 

ギリシャ語では「霊にて激しく息をし、みずから混乱した」という表現です。それをヨハネによる福音書は、さらに縮めて「イエスは騒いだ、霊において」と表現しました。

 

 

 

主イエスは、御自分の愛する12弟子たちの一人が御自分を裏切ることを知られて、気持ちが乱れ、混乱し、おそらく激しい息遣いで次のように断言されました。

 

 

 

「断言した」は、「おごそかに語る」という言葉が使われています。証言することです。

 

 

 

「はっきり言っておく。」は、「アーメン、アーメン、わたしは言う、あなたがたに」というギリシャ語を日本語に意訳しています。

 

 

 

「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」

 

 

 

裏切ると訳された言葉は、ギリシャ語では「引き渡す」という言葉です。本田哲郎神父は「小さくされた人々のための福音」という題名で4福音書と使徒言行録を翻訳されており、「裏切ろうとしている」を、「わたしを売り渡す」と訳されています。

 

 

 

主イエスは、12弟子の足を洗われ、そして一人の弟子の裏切りを予告されました。おそらく主イエスは断腸の思いだったでしょう。主イエスは、ユダを切り捨てるより、なお彼に悔い改めを願われて、証言されました。

 

 

 

「真実をわたしはあなたがたに言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを引き渡そうとしている。」

 

 

 

1310節と11節よりさらに主イエスは、踏み込んで12弟子の中の一人の裏切りを証言されました。

 

 

 

主イエスの衝撃的な証言を聞いても、弟子たちの反応は鈍かったのです。主イエスが誰のことを言われているのか、察することができなかったからです。互いに見つめ合い、だれだろうと、疑問に思ったことでしょう。

 

 

 

最後の晩餐は、エルサレムの都にあるある家の部屋でなされました。弟子たちが食事の用意をしました。どのような配置で最後の晩餐がなされたか、はっきりと分かりません。

 

 

 

ただ23節に「食事の席に着いていた」と記していますが、ギリシャ語は「横たわっていた」です。最後の晩餐は、身を横たえながら左ひじをついて食事をするのがユダヤの習慣でした。

 

 

 

だから、主イエスが愛された弟子の一人は、主イエスの右側に横になり、頭をイエスの胸に近づけていたのです。彼は、この福音書の著者である使徒ヨハネです。

 

 

 

だから、シモン・ペトロは、彼にだれが裏切ろうとしているか、主イエスに尋ねるように合図しました。

 

 

 

ヨハネは、主イエスの胸元に寄りかかり、「主よ、それはだれのことですか。」と尋ねました。

 

 

 

主イエスは、弟子のヨハネの質問を直球で返されました。

 

 

 

「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ。」

 

 

 

ヨハネによる福音書は、それに続いてこう記します。「それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった」と。

 

 

 

主イエスは、わたしたちの感覚で言いますと、パンを一切れ取られ、それにソースに浸して、すなわち、パンに味を付けて、ユダにお与えになりました。

 

 

 

食物を浸して与えるという行為は、ユダヤ社会では友情のしるしでありました。

 

 

 

本当に主イエスは、ユダを自分の弟子であり仲間であると信頼されていました。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、言っていることに矛盾しても、気にしません。132節ですでにユダの中に悪魔は入り、彼が主イエスをユダヤの官憲に売り渡すという考えを抱かせたと記しています。

 

 

 

ところが、27節で主イエスがユダにパン切れを与えられると、サタンが彼の中に入ったと記しています。

 

 

 

主イエスは、パン切れを受け取ったユダに「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と命じられました。

 

 

 

主イエスのユダへの最後の悔い改めを迫る言葉であると思います。そして、主イエスはユダを神の御手に委ね、御自分を父なる神に委ねられたのです。

 

 

 

しかし、主イエスとユダの会話を理解できる弟子たちはいませんでした。ヨハネによる福音書は、わたしたち読者になぜ主イエスがユダにこう言われたのか分からなかった」と伝えています。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、29節に11弟子たちの間違った推測を二つ紹介しています。

 

 

 

それは、彼らの思い込みから生まれました。ユダが会計を預かっていたという思い込みです。

 

 

 

1の推測は、主イエスが会計係のユダに「過越の祭に必要な物を買いに行きなさい」と言われた。

 

 

 

2の推測は、貧しい人々に施しをしなさいと言われた。

 

 

 

弟子たちの間違った推測は、主イエスが裏切り者ユダに配慮されたからです。それは、131節で「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と記されていることを、主イエスはユダに実行されたからです。

 

 

 

主イエスがユダに渡されたパン切れは、主イエスの友情のしるしでした。

 

 

 

しかし、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に次のように伝えているのです。「ユダはパン切れを受け取ると、すぐに出て行った。夜であった。」

 

 

 

ああ、ユダは、主イエスから友情のしるしであるパン切れをいただき、主イエスと11弟子たちの所に留まらず、夜、光の射さない闇の中に出て行ってしまいました。

 

 

 

裏切り者のユダが夜の中に消えてしまうと、主イエスと11弟子たちだけが最後の晩餐に残されました。

 

 

 

それによって、光である主イエスと光の子である11弟子たちが外の夜に、闇の世界に出て行ったユダから分かたれました。

 

 

 

そして1331節から17章まで主イエスは11弟子たちに御自分がこの世を去ることを予告され、弟子たちに互いに愛し合うようにとお別れ説教をなさいます。

 

 

 

本日はここまでであります。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は主イエスを裏切りましたユダを愛された主イエスについて学びました。

 

 

 

主イエスは、ユダにパン切れを浸して与えられ、御自身の友情を示して、彼に悔い改めを迫られました。

 

 

 

しかし、ユダは主イエスからパン切れを受け取り、夜の闇の世界に出て行きました。

 

 

 

主イエスにとって、深い悲しみの出来事だったでしょう。この闇の世界の中でキリスト教会は光であるキリストを、十字架の愛を伝えています。

 

 

 

その教会の中で救われた者が教会を去り、再びこの世界の闇に行ってしまう者がいます。主イエスは、今もその者に愛を示され、立ち帰るように呼びかけてくださっています。

 

 

 

教会の悲しみは、この世界の闇の中で光輝いています。だから、教会は裏切りという悲しい出来事があるたびに、主イエスは残された11弟子たちと共にいて下さったように、わたしたちと共にいてくださることを、今朝の御言葉から信じさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

 

 

 ヨハネによる福音書説教56       主の2017917

 

さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。

 

子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。

 

            ヨハネによる福音書第第133135

 

 

 

 説教題:「新しい掟」

 

 今朝は、ヨハネによる福音書の133135節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

 前回は、最後の晩餐において主イエスが12弟子たちの一人が裏切り者となると予告されたことを学びました。

 

 

 

 主イエスは、心を高ぶらせて、12弟子たちに「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と予告されました。

 

 

 

 弟子たちは動揺しました。同時に裏切り者はだれかを、詮索し始めました。ペトロは主イエスの隣りにいた「イエスの愛しておられた者」(この福音書の著者ヨハネ)に合図を送り、裏切り者がだれであるかを尋ねさせました。

 

 

 

 「イエスに愛された者」は、主イエスに裏切り者がだれかを尋ねました。主イエスは、彼に「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられ、イスカリオテのユダにお与えになりました。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、「その一切れのパンと共にサタンが彼の中に入った」と記しています。そこで主イエスはユダに裏切りの実行を促されました。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスが主権的にサタンを用いて、ユダが主イエスの裏切りを実行に移すようにされたのだと伝えているのです。

 

 

 

 こうしてユダは、晩餐の席から夜の闇の中へとすぐに出て行ったのです。

 

 

 

 しかし、主イエスは、ユダに最後まで親しい友として接せられ、悔い改めの機会を与えられていたので、他の弟子たちはだれも、ユダが裏切りを実行するために出て行ったことに気づきませんでした。

 

 

 

 過越の祭に必要な物を買いに行ったのだろう。あるいは、主イエスは彼に貧しい者に施しを命じられ、出て行ったのだろうと、勘違いしました。

 

 

 

 さて、今朝は、ヨハネによる福音書がわたしたち読者に主イエスが11弟子たちにお別れの説教をなさることを伝えようとしています。

 

 

 

 この後、主イエスはがペトロの裏切りを予告されたというエピソードを挟んで、14章よりお別れの説教をなさいます。

 

 

 

 主イエスのお別れの説教は、二つの主題から成っています。それは、父なる神と子なる神である主イエスの栄光と弟子たちが互いに愛し合う「愛の共同体」の形成であります。

 

 

 

 ユダが夜の世界に出て行き、サタンに支配されて、主イエスを裏切ることを実行に移すと、主イエスは残された11弟子たちに言われました。

 

 

 

 「今栄光を受けた、人の子は。神も彼において栄光を受けた」(31)と。

 

 

 

 「栄光を受けた」。ユダが主イエスを裏切ることで、主イエスと父なる神に栄光の時が来たのです。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスのお言葉を伝えることで、二つの真実を伝えているのです。

 

 

 

 第1は、ユダの裏切りで、主イエスは十字架の死と復活を遂げられます。それをヨハネによる福音書は、主イエスの栄光の時の到来であると伝えているのです。

 

 

 

 第2は、主イエスが栄光の時であれば、父なる神もまた栄光の時であります。ヨハネによる福音書は、2度繰り返して「神が彼において栄光を受けた」と記しています(31節と32)

 

 

 

 人の子である主イエスと共に、神である父が栄光を受けることを、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に伝えています。

 

 

 

 それは、栄光において父なる神と子なる神である主イエスは一体なのだという真実を告げているのです。

 

 

 

 ヨハネによる福音書にとって、主イエスの十字架と復活の出来事は、主イエスと父なる神が共に栄光を受けられた時でありました。

 

 

 

 「栄光を受けた」とは、「栄光化した」ということであり、十字架と復活は真実神が神であることを明らかに知らされた出来事でありました。

 

 

 

 「しかも、すぐにお与えになる」(32)という主イエスのお言葉は、十字架と復活の栄光の時が間近に迫っているということです。

 

 

 

 それは、主イエスと弟子たちのお別れが迫っているということでもありました。

 

 

 

 だから、主イエスは11弟子たちにお別れを告げられたのです(33)

 

 

 

 主イエスは、11弟子たちを「子たちよ」と呼びかけられ、次のようにお別れの言葉を告げられました。

 

 

 

 「いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく」

 

 

 

 ユダの裏切りで、主イエスがユダヤの官憲に逮捕されるまで、主イエスは11弟子たちと共におられます。

 

 

 

 しかし、主イエスは十字架に死に、3日目に復活され、天に帰られます。だから、主イエスは11弟子たちに言われました。「栄光化されたわたしを、あなたがたがユダヤ人と同じようにこの地上で捜そうとしても見つけることはできない」と。

 

 

 

 既にこの福音書の733節と34節、821節で主イエスは、同じことをユダヤ人たちに言われていました。

 

 

 

 主イエスがユダヤ人に言われたのは、裁きの言葉でした。彼らが主イエスを見つけられないのは、真理であり命である主イエスを得られないという意味でした。だから、彼らは主と共に生きる命を得られず、罪の中に死ぬことになると、裁きを宣告されたのです。

 

 

 

 しかし、今朝の主イエスが11弟子たちに告げられた言葉は、裁きの言葉ではなく、お別れの言葉でした。14章以下を読んでいただくと、このお別れは一時的です。主イエスは、天に彼らの住まいを用意出来たら、迎えに来ると約束されています。

 

 

 

 だから、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に主イエスは11弟子たちにお別れを告げられ、主イエスは十字架の死の後、復活し、昇天されますが、弟子たちは一緒についていくことはできないと、言われたのだと伝えているのです。

 

 

 

 そして、主イエスは、この世に残ります11弟子たちに34節と35節で新しい掟を授けて、愛の共同体を形成するようにお命じになりました。

 

 

 

 その愛の共同体は、主イエスが弟子たちを愛された愛が模範にされます。

 

 

 

 「新しい戒めを、わたしはあなたがたに今与える。あなたがたが互いに今愛するために、わたしがあなたがたを愛したように、そしてあなたがたが互いに今愛するために。」

 

 

 

 聖書の教える「愛」は、神を愛する愛、隣人を愛する愛です。それを、主イエスは弟子たちに模範として示されました。何よりも主イエスの十字架こそが愛そのものでした。

 

 

 

 新しい戒めとしての「愛」は、主イエスの十字架の愛に基づくものです。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスの新しい戒めを、教会形成の中心にすることを願っているのです。それが主イエスの願いでもあるからです。

 

 

 

 だから、主イエスは、35節で次のように言われました。

 

 

 

 教会で弟子たちが互いに愛し合うことによって、すなわち、教会が主イエスの愛を持つならば、この世のすべての者たちに、教会は主イエスの弟子たちであると広く知れ渡るようになると。

 

 

 

 教会は主イエスの弟子たちの相互の愛から形成されるものです。

 

 

 

 実際に初代教会では愛の口づけという習慣がありました。ペトロの手紙一の514節で、使徒ペトロは手紙の終わりのあいさつで、「愛の口づけによって互いに挨拶を交わしなさい」とキリスト者たちに命じています。使徒パウロもテサロニケの信徒への手紙一526節で、「すべての兄弟たちに、聖なる口づけによって挨拶しなさい」と命じています。

 

 

 

 教会の中でキリスト者たち、信徒たち、兄弟姉妹たちが互いに愛し合うことが、主イエスが命じられた新しい戒めであったので、初代教会では互いの愛を口づけの挨拶という形でしました。

 

 

 

 これは日本の教会に定着しませんでしたし、わたしたちの教会でも定着していません。

 

 

 

 あるいは、教会の中で互いにハグをするという行為も中々できないでしょう。

 

 

 

 では、わたしたちの教会では、また、日本の教会ではキリスト者たちは互いに愛することを、どのように行動で表して、教会を形成することができるのでしょうか。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に次のようにヒントを与えてくれています。

 

 

 

この福音書の20章で復活の主イエスが弟子たちをこの世に遣わし、彼らがキリストの教会を形成するために、次のようにお約束くださいました。「だれの罪でもあなたがたが許せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが許さなければ、赦されないまま残る」と。

 

 

 

ヨハネによる福音書では、キリストの十字架を通して啓示された父なる神の愛のゆえに、愛することと罪を赦すことは同じ意味であり、互換が可能な行為ではないでしょうか。

 

 

 

そうであれば、キリストの新しい戒めは、「互いに愛し合う」だけでなく、「互いに赦し合う」ことでもあるでしょう。

 

 

 

わたしたちが互いに赦し赦されることで、この上諏訪湖畔教会を形づくろうとすれば、この世のすべての者たちに、ここにキリストの教会があることを知らしめることになるのではないでしょうか。

 

 

 

わたしは、わたしたちが本当に隣人の、兄弟姉妹の罪を赦すことができるならば、ここはキリストの教会であることを、今の世に告げ知らせられると思います。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は主イエスが11弟子たちにお別れの挨拶をされ、御自身と父なる神の栄光の時が到来したことを告げられ、御自身と父なる神が栄光において一体であることを告げられたことを学びました。

 

 

 

また、主イエスは11弟子たちにしばらくの間の別れを告げられ、この世に残される弟子たちにキリストの教会を形成するために、新しい戒めを与えて、「互いに愛する」ように命じられたことを学びました。

 

 

 

主イエスが命じられた愛は、御自身が示された十字架を通して示された父なる神の愛でした。

 

 

 

主イエスは、その愛に基づき、この世に遣わした弟子たちがだれの罪でも赦すなら、その罪を赦し、だれの罪でも赦さないなら、罪はそのまま残ると、弟子たちに約束してくださいました。

 

 

 

どうか、主イエスにより頼み、聖霊に導かれて、わたしたちが隣人の罪を赦し、兄弟姉妹の罪を互いに赦し合うことで、上諏訪湖畔教会を形成することができ、この世のすべての者たちに、ここにキリストの教会があることを告げ知らせることができるようにしてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

 

ヨハネによる福音書説教57       主の2017101

 

シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

 

            ヨハネによる福音書第第133638

 

 

 

 説教題:「主イエス、ペトロの離反を予告する」

 

 今朝は、ヨハネによる福音書の133638節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

 前回は、主イエスが12弟子たちに「新しい掟」を与えられたことを学びました。

 

 

 

 ユダは主イエスを離れ、夜の暗闇の中に出て行きました。彼は主イエスを裏切ることを実行に移したのです。

 

 

 

その時に主イエスは残された11弟子たちに言われました。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」(31)と。

 

 

 

 ユダの裏切りで、主イエスは十字架の道を歩まれます。それを、主イエスは11弟子たちに御自身と父なる神に栄光の時が来たと言われました。

 

 

 

 それによって、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に次の真実を伝えようとしているのです。栄光において父なる神と子なる神である主イエスとは一体であると。

 

 

 

 そして、主イエスは、11人の弟子たちとのお別れが迫っていることを悟られて、彼らに「子たちよ」と呼びかけられ、次のようにお別れの言葉を告げられました。

 

 

 

 「いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく」(33)

 

 

 

 主イエスは十字架に死に、3日目に復活し、天に帰られます。だから、主イエスは11弟子たちに言われました。「栄光化されたわたしを、あなたがたはユダヤ人たちと同じようにこの地上で捜そうとしても見つけることはできない」と。

 

 

 

主イエスは11弟子たちに、昇天する御自身に彼らが一緒についていくことはできないと告げられました。

 

 

 

 そして、主イエスは、この世に残す11弟子たちに34節と35節で「新しい掟」を授けて、愛の共同体を形成するようにお命じになりました。

 

 

 

 「新しい戒めを、わたしはあなたがたに今与える。あなたがたが互いに今愛するために、わたしがあなたがたを愛したように、そしてあなたがたが互いに今愛するために。」(34)

 

 

 

 主イエスは、35節で次のように言われました。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。

 

 

 

 わたしたちは、主イエスと11弟子たちの対話から、教会は主イエスの弟子たちが互いに愛し合うことから成り立つ愛の共同体であることを学びました。

 

 

 

 ヨハネによる福音書はわたしたち読者に、主イエスと11弟子たちとの対話から、この世の教会がキリストのお与えくださった「新しい掟」で、キリスト者同士が「互いに愛し合う」だけでなく、「互いに赦し合う」ことで、自分たちが主イエスの弟子あることを、この世の人々に証しする共同体を作るように、主イエスに命じられていることを学びました。

 

 

 

 学ぶことは必要であり、大切だと思います。それ以上に大切なことは、学んだことを自分は実行できるのかと、自己吟味することです。

 

 

 

 今朝はヨハネによる福音書の主イエスがペトロの離反を予告されたという御言葉から、そのことを自己吟味しましょう。

 

 

 

 今朝は、第一主の日です。御言葉と共に聖餐の恵みにあずかります。昔から教会は聖餐式にあずかる者に、自分たちの信仰を吟味するように勧告してきました。

 

 

 

 使徒パウロがコリント教会のキリスト者たちに聖餐式で制定の御言葉を語った後に、次のように勧告した御言葉は有名です。

 

 

 

「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」(Ⅰコリント11:2729)

 

 

 

パウロはコリント教会のキリスト者たちに聖餐式の守り方を教えているのです。

 

 

 

「ふさわしくない」とは、コリント教会のキリスト者たちの分派争いです。教会の中でそのような争いがあるだけではなく、自分の晩餐を我先に食べていました。聖餐式が混乱し、教会の一致が乱されていたのです。

 

 

 

パウロが「主の体」と言っていますのは、十字架につけられた主イエスの体です。主イエスは、前回学びましたように、御自身の十字架によって新しい掟の模範を示されました。「互いに愛し合いなさい」という戒めの模範を。

 

 

 

だから、パウロが「主の体をわきまえない」と言っていますのは、聖餐式にあずかる者が主イエスの与えられた「新しい掟」、すなわち、「互いに愛し合いなさい」という主イエスのご命令に生きていないのです。コリント教会のキリスト者たちが主の目にふさわしい愛の交わりをしていないのです。

 

 

 

それは、主イエスが十字架を通してお示しになった新しい掟に反する罪でありました。

 

 

 

コリント教会のキリスト者たちの罪は、わたしたちの罪でもあり、また、今朝の御言葉のペトロの罪でもあると、わたしは思うのです。

 

 

 

残された11弟子たちの間に、主イエスが王になられた時、誰が左大臣となり右大臣となるのかという争いがありました。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に11弟子たちの出世争いを露骨に伝えていません。しかし、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に次のことを伝えていると思います。主イエスがペトロに彼の離反の予告をされたのは、この世に残された弟子たちの弱さを指摘するためであり、愛の共同体である教会もこの世にあっては弱さを持った共同体であることを指摘するためであったと。

 

 

 

シモン・ペトロは、33節の主イエスのお言葉に答えるように、主イエスに尋ねます。「主よ、どこに行かれるのですか」(36)と。

 

 

 

主イエスは、ペトロに答えて、次のように言われます。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」(36)

 

 

 

すると、ペトロは主イエスに勇ましいことを言うのです。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」(37)と。

 

 

 

主イエスは、ペトロが「どこに行かれるのですか」と尋ねたことに、「十字架の道を歩み、死んで後、復活し、天に帰るのだ」と答えられません。あいまいに答えられました。「今はついて来ることはできないが、後でついて来る」と。

 

 

 

だから、ペトロは主イエスに「どうしてわたしは、今あなたについて行けないのですか」と尋ねます。そして、「あなたのためなら、この命を捨てます」と、ペトロは大胆に言うのです。そのペトロの言葉は、主イエスが11弟子たちに与えられた「新しい掟」への彼の応答であったのではないでしょうか。

 

 

 

主イエスは、ペトロの思いを十分に知っておられます。ペトロは、残された11弟子たちの中で自分が一番主イエスを愛していると言おうとしていることを。

 

 

 

だが、人はとても弱いのです。ペトロは、あまりにも自分が弱い者であることを知りません。

 

 

 

主イエスは、知っておられるのです。御自身の御前にいるペトロの弱さを。彼の罪を。

 

 

 

今、彼は「主のためなら、命を捨てる」と言っています。ところが、この男は数日すれば、夜明けに鶏が時を知らせる鳴き声を上げる前に、3度自分を知らないと言うことを。

 

 

 

榊原康夫牧師が、今朝の御言葉を説教され、その中でペトロが「命を捨てる」と言った、その「捨てる」という言葉が「上着を脱ぐ」という言葉であることを指摘され、次のように話されています。

 

 

 

「イエスが、晩餐のとき上着を脱ぎ捨て、身を低くして、ペトロの足を洗い、『私のしていることがわからないのか。私がこのようにしてあなたの足をあらわなければ、あなたは私と何の分を持つこともない』とおしゃいましたように、まずイエス御自身がペトロのために贖いの死をとげられなければ、ペトロは何もできない人間なのであります」。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、主イエスとペトロの対話を、実に現在形の動詞を使って、わたしたち読者に伝えています。だから、今朝の御言葉の出来事を、わたしたちは、目の目で見ているように、わたしたちの耳にしているのです。

 

 

 

まるで、ペトロはわたしであると、わたしたちは錯覚しそうです。

 

 

 

主イエスは、自分の上着を脱ぎ捨て、ペトロの足を洗い、御自分とペトロの関係を切ることなく、十字架の道を歩まれました。

 

 

 

だから、ペトロは三度主イエスを否定しましても、その罪を主は十字架に担われ、そして、聖霊をお与えくださり、ペテロを生まれ変わらせてくださいました。彼は、主イエスが言われたように、主イエスの復活後、もう一度復活の主イエスに召されて、主イエスの羊たちを飼う者とされました。

 

 

 

わたしたちも同じです。主が命じられる「互いに愛しなさい」というこの新しい掟を、自らの力で行うには、本当に弱い者であります。

 

 

 

だが、復活の主イエスは天に帰られ、父と共に聖霊をお与えくださいました。聖霊が聖書の御言葉と共にお働きくださり、わたしたち心を変えてくださいます。そして、聖霊は、礼拝を通して、わたしたちを主イエスに結びつけてくださり、互いに愛することができる者に変えてくださいます。

 

 

 

ペトロが変えられたのです。教会に伝えられた伝承によれば、後にペトロはローマ帝国の首都ローマでキリストを伝えておりました。迫害があり、ローマの教会のキリスト者たちは、ペトロにローマ市を離れるように助言しました。ペトロがその助言に従って、ローマ市を離れようとしました。すると、キリストが幻に現れ、ローマ市に向かわれているのを、ペトロは目撃しました。そして、彼は主に言いました。「主よ、どこに行かれるのですか」と。主はペトロに答えられました。「わたしは、ローマに、十字架にかかりに行く」と。ペトロは主に「再び十字架にかかれるのですか」と尋ねました。主は答えられました。「しかり、ペトロよ、わたしは再び十字架にかかるのだ」と。

 

 

 

その会話の後にキリストの幻は天に昇り、ペトロはローマ市に引き返して、逆さ十字架刑で殉教したと伝えられています。

 

 

 

伝説ですから、事実はどうであったか分かりません。しかし、この伝説に一つの真実があります。彼は、主イエスが言われた通り、後で主イエスが行かれる所に一緒に行くことができたといいことです。

 

 

 

ペトロに語られた主の御言葉がペトロに実現したように、今朝わたしたちに語られたこの御言葉が、わたしたちに実現するのではありませんか。

 

 

 

今、わたしたちはペトロのように弱い者でも、主イエスは御自身の十字架の贖いによって、わたしたちを罪から救われるだけでなく、聖霊を通して、この礼拝でわたしたちを「互いに愛せる」者に変えてくださるでしょう。互いに赦し合えるものとしてくださるでしょう。

 

 

 

このことを信じて、共に今朝の御言葉を聞き、聖餐の恵みにあずかろうではありませんか。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は主イエスがペトロの離反を予告されたことを学ぶことができて感謝します。

 

 

 

主イエスは、ペトロの足を洗われ、ペトロのために十字架に死なれました。彼の裏切りを知り、それでも御自身に従う者に変えられ、彼を主の羊たちを飼う者とし、「互いに愛し合いなさい」という主の新しい掟を守ることのできる者としてくださいました。

 

 

 

わたしたちは、今朝の御言葉を信じます。どうかペトロ同様に、今朝の御言

 

葉がわたしたちの身に実現するように、聖霊のお助けをお願いします。

 

 

 

どうかわたしたちが主イエスの十字架を世の人々に伝えると共に、わたしたちが互いに愛し合うことで、世の人々に、ここにキリストの教会があり、キリストを信じている者たちがいることを証しさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。